2014-03-17

君、科学思想化するなかれ

科学は「あるべき」論を欲しない。それが求めるのはただ「である」の集大成であって、科学科学者に「あるべき」姿を望んだことなぞ金輪際ない。「あるべき」姿を求める行為は常に人と社会の関わりの間でのみ起こりうる現象であり、すなわちそれを求めるのは科学でなくて社会なのであるからして、まるで科学のもの原理として、「あるべき」姿のごとき、ともすれば宗教タブー律法のようなもの存在するかのような議論は、極めて非科学的と断ずる他ない。

ノバルティス社の臨床試験データ偽装は何が問題だったのか。言うまでもなく、効果の不確かな薬品をそうでないと偽って売り出そうとした商業的な詐欺片棒をかついだことであり、すなわち社会的行為としての罪であって、決して科学として「あるべき」姿を犯したからでも、タブーを破って神の怒りを買ったからでもない。科学はいついかなるときもその「あるべき」姿を自ら求めることはなく、従って「あるべき」ように見える科学のあり方に反したことそのものが罪になることなどあり得ない。

論文剽窃もまた、何故か当たり前の様に科学のものルールに反した行為のように語られているが、実際のところそれの何が問題であるのかと言うと、単に労働市場競争原理にもとる行為であるからに他ならない。誰が誰を剽窃し功績を偽ろうと、それは科学の「である」ことの積み重ねそのものには何の直接的な影響もないし、それを利用するものにとって、正しい知識が誰から得られたものであるのかを気にする意味はない。ただ、金銭や名誉という社会的インセンティブ人間としての科学者に間接的な影響をもたらすのみである

不思議な現象は、科学哲学立場からこれらの「あるべき」論を押しつける風潮のあることであるしかし、科学哲学科学がどう「である」かを論じるものであって、科学がどうで「あるべき」かを論じるものではない。哲学に出来るのは、それが「科学と呼べるのかどうか」を「哲学の外」(主に科学現場から持って来た観察を元にすりあわせることだけであって、「哲学の中」で決まった「あるべき」論を元に「これは科学」「これは科学でない」と勝手現場事象を振り分ける様になってしまっては、宗教原理をもとにありとあらゆる森羅万象解釈する妄信と何ら変わらなくなってしまう。

科学論文の不正捏造が批判されるべきでないなどとは言わない。言うはずがない。しかし、このように本当のところ何が問題であるのかは社会的行為として誰が誰に罪を負うのかを個別の事例として見なければはっきりとは言いがたいものであって、それが「科学であるが故に「いかなる瑕疵も許されない」、「たった一つの不正が信頼を揺るがす」などとヒステリックに騒ぐのは、ナイーブと言うか原理主義的と言うか、非常に危うい日本人知的状況を浮き彫りにするだけのものに見える。科学をもって「信頼を損ねる」などと、信じるか信じないかの問題にしようとしてしまう勢力を前にして、「科学所詮現代宗教」とシニカルに眺めていれば良い状況とは、自分にはとても思えない。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん