2013-12-08

http://anond.hatelabo.jp/20131207204930

何であれ、拡散したものを元に戻すことはできない、特に文化世界では。「覆水盆に返らず」だ。

乱暴な(ただのレスリングしかない)「柔道」をやる外国人選手を見ると、多くの日本マスコミ・識者・日本人たちは「こんなの柔道じゃない!柔道をやるなら、(もちろん日本人になる必要はないが)ちゃんと柔道精神を理解・尊重したうえでやれ!」と不快に思いますね。しかし、だからといって「柔道やるなら日本人になれ!」と言っていることにはならない。

これと同じことです。

申し訳ないが、私は彼らが柔道をやることを特に不快には感じない。柔道を一旦外に持ち出したからには、彼らがそれをどのように解釈しようが自由だ。文化とはそういうものなのだから

ゴータマ・シッダールタが、もし今の「仏教」や「寺」を見たら卒倒するかもしれないし、イエス・キリストバチカン司教たちを見たら「神の庭を汚す者どもが!」と怒り狂うかもしれない。そもそも「クリスマス」が始まったのは、イエスが死んで何百年も経ってからの話である。…だが、それは、それらがことごとく「偽物」でありそこに捧げられた全ての人の思いは全て「偽り」であるということを意味するのだろうか? そう考えるのが妥当であろうか? 私はそうは思わない。それは余りに狭量なものの考え方だと思う。

正当、正統にこだわる、いわば原理主義的なものの考え方は、物事が混乱する時期により確からしい指針を求める意味から人々にもてはやされるものではあるが、ある物事の出発点に「より純粋原理確立する」という発想が強く強くあったというのでない限り、結局のところ出発点の思いとはずれたものとならざるを得ない。原理主義は、しばしばその意に反して、「原理」とは異なるものに変質する。

たとえ石景山遊園地がどれほど見苦しく見えようが、親に連れられてそこで遊んで楽しかった子どもの思い出を否定する権利が誰にあるのだろう?

 「あなた遊んだ遊園地は偽物なのですよ!だってそれはディズニー版権があるのですからね!!なんて見苦しい思い出なのかしら?1」

…いやはや。それこそ、なんという資本主義商業主義なのか。

文化とは、今生きているもので、今を生きている人間のものである。生きている人間に本物も偽物もありはしない。まあ、この島国の人間が、自分たちのもたない、世界のどこかにある「ホンモノ」幻想を追い求めることで、千数百年間自国文化発展のモチベーションとしてきたことも事実であるし、その歴史を否定するつもりもないのではあるが。

  • コメントありがとう、こういう真に建設的で知的なコメント・異論・批判はうれしいよ。大歓迎。  たしかに、「学ぶ」の語源は「まねる」だとも言うように、文化とはオリジナルをま...

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