はてなキーワード: 貧血とは
休みの日、遊んでたり家にいたりしたらそんなことないのですが、仕事中によく寝てしまいます。
ハタチ超えた頃の、大人になってから、「お喋り」ではない業務的な会話をしたり受けたりすると寝てしまうようになりました。つまり興味のない・つまらない話を聞くと寝てしまいます。
本当に恥ずかしいですがどんなにあらがっても寝てしまいます。「うとうと…」という段階も意識できず、急にコトッと暗転してる感じです。
仕事中はいつも必死で飴を食べ続けたり水を飲み続けたりしています。
それでもいつの間にか意識が途切れており、当然ですが怒られたりします…
前の職場でもよく怒られました。。
今の職場ではよく揶揄われるというか、寝落ちて、ハッと目を覚ますとクスクス笑われたりしていてとても恥ずかしいし辛いです。
タイトル通り、昨日ライブを見に行ってる最中に立ったまま気絶した。生まれて初めての経験だったのと、どこに書く宛もないので、増田に何があったのかを書きたい。
具体的に言うと、昨日(8/1)に恵比寿ガーデンホールでライブを見ている最中に視界が狭まり、音が遠くなり、最終的には立ってはいたもののおそらくは10-20分間ほど気絶した。素人判断だが、脳貧血ではないかと思う。
なぜこうなったのかと言うと、塩分・水分不足と心拍数の急な増加が原因だと思う。
まず塩分・水分に関しては、当日は甘い菓子パンみたいなものしか食べていなかった。水分は摂っていたつもりだったが、この暑さだったので不足していたのだろう。
心拍数の問題は、ライブ中でちょっとしたいざこざがあったことに起因する。当日自分は普通の範囲内で体を揺らしていたつもりだったが、後ろの人に何回も背中を押され、声をかけられて体を後ろに倒すなと注意された。その時は単にいちゃもんをつけられたように感じて、怒りで心拍数が上がった。その後、自分の視界が狭まっていき気絶するにい至った。改めて考えると、声をかけられる時点でも脳貧血一歩手前の状態だったわけで、自分が意識してある以上に体が前後に動いていたのかもしれない。これを読んでいるわけはないと思うが、後ろの人には謝りたい。
結局は気絶したといえど、倒れることはなく、アンコール終了寸前くらいに意識がハッキリしてきて無事に帰宅することができた。
同じような経験を避けるためにも塩分・水分をよく摂ってたからライブに行くこと、トラブルがあっても穏やかな心を保つことを心がけたい。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB098BF0Z01C22A2000000/
君の人生を困難にしているのは、
学習障害があって文章の意図が読みにくいか、言語化能力が弱すぎるから調べ物が出来ないこと
知的な困難があるならゆっくりペースで成長してるんだな、自分の独自の世界の話をしているんだなって思うけど、どうなん?
戦時中において、一部の個人が特殊な手段を使って兵役を回避しようとしたという報道や記録が存在します。その中には醤油を飲んで「貧血状態」を装い、兵役を回避しようとしたという報告もあるようです。
当時の日本では、戦争による兵力不足から徴兵が厳しく実施されていました。兵役を回避するためには、健康上の問題を装ったり、裕福な家庭であればお金を使って兵役を免除されることもあったとされています。これらの行為は違法であり、社会的にも非難される行為であることは言及しておきます。
戦時中の日本において、一部の支配階級や裕福な人々が軽井沢などのリゾート地でパーティーをしていたという記録や報道があります。当時、日本は太平洋戦争を戦っており、国内は厳しい経済状況や食料不足、空襲などの戦争の影響を受けていましたが、一部の富裕層はそれらの影響を比較的受けにくい状況にあったため、リゾート地での贅沢な生活を楽しむことがあったとされています。
軽井沢は、夏涼しく過ごしやすい気候と美しい自然があり、戦前から日本の上流階級や外交官、外国人などが避暑地や保養地として訪れることが多かった場所です。戦争が進行していた時期でも、一部の特権階級の人々は軽井沢での生活を続けていたという記録があります。
これらの情報は歴史的な資料や回想録、報道などによって裏付けられていますが、一部の特権階級の行動が全体の状況を反映しているわけではありません。当時の社会は戦争の厳しい状況により多くの人々が苦しんでいたため、特権階級がリゾート地での贅沢な生活を楽しんでいたことは一般の市民にとっては不平等や不公平な状況として捉えられることもあるでしょう。
白洲次郎(しらす じろう)は、日本の外交官であり、戦後には評論家としても知られる人物です。彼は戦時中、外務省の要職にあったが、病気を装って徴兵逃れをしたとされる代表的な例の一つです。
白洲次郎は、日本が太平洋戦争に突入した時点で、外務省の官僚として国内の情勢や国際的な状況をよく理解していました。しかし、自らが体験した第一次世界大戦の戦場での経験や戦争の悲惨さを胸に抱え、戦争への反対や人道的な理由から徴兵逃れを試みたとされています。
白洲次郎は、病気を装って入院したり、療養の名目で兵役を免除されるように働きかけたりしたと言われています。彼はその後、戦後の日本の外交政策に大きな影響を与える存在となりました。
徴兵制について。昭和2年(1927)までは、お金を払って兵役期間を短縮できる制度がありました。もっと前は兵役免除となる時期もありました。こちらは入営中の経費を負担することで2年の兵役を1年にする一年志願兵への申請書類と選考結果。現在の長野県塩尻市の方です。
信州戦争資料センター
太平洋戦争ですが、私の知ってる金持ちは、誰も戦争に行ってませんが、何か方法があったのですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10158993500
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うちの父も、自らの口で語ってますが「軍部にお金を積んだ」そうです。
最初は、暗号解読とか、通訳の口を狙っていましたが、御殿場の練兵場で終戦です。
食べ物も、ウラから手に入れ、飢えた思いをしたことはないそうです。
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それだけで本が書けるほど。
結果として単純に徴兵に応じたのは
①何も知らない人
②親にカネがなかった
④みんな仲間だからと、抜け駆けはできない人
など。
詳細は省きますが、ウチの親の場合、満洲の炭鉱の課長なので「徴用」扱いで最後まで赤紙は来ませんでした。
叔父は馬の専門家で「軍医」として戦地には赴きましたが、ずっと後方です。
親戚には陸大を卒業し、陸軍中枢の参謀本部勤務のまま終戦を迎えた人もいます。
知人は臨床検査技師で、衛生兵を希望し、最後はシベリア経由で帰ってきました。
著名な作家の多くは、結核の既往歴で徴兵免除になったか、さもなければ報道班の「徴用」で南方に行っただけ。
勉強し過ぎの学徒上がりは、視力不足では鉄砲が打てないと大幅に順位を下げられ、
診断書に手心を加えてもらった金持ちの子弟、自傷して障碍者になった者、わざわざ犯罪を犯して自首したもの(懲役以上の受刑者は徴兵の対象外)、良心的兵役拒否で最後まで出頭に応じなかった、等やり方は無数にあります。
私は高校生の時から、今徴兵が来たらどうするか、そればかり考えて行動していたのでやたら詳しくなりましたが、今後のお勧めは、コンピューターの腕を磨いて、資格をとって、徴兵されても後方勤務になるよう工作するのが一番簡単でしょうね。
iHerbであれこれ買ってた
部屋の中に小さな箱が積み上がって、欲しいものがどこにあるかわからない
たくさんの買いすぎたサプリを眺めて思うところ多々
そこからPQQだったり、メラトニンだったり、カルニチンだったり、アルギニンだったりと
クリニックで推奨されてたものをあれこれと買ってた
そこからあれこれ検索しては、鉄が足りないと妊娠しづらいらしいと読めば鉄分を(これは実際に長らく貧血だったのもあり)
ビタミンDは市販のサプリで数値を満たしていたけど高容量だからと買い、DにはKが必要だと買い
面倒になってマルチビタミンミネラルを買って飲み始めたら消費のタイミングが無くなった
ある時にメンタル系…トリプトファンだったかテアニンだったか5-HTPだったか、いやまずはGABAだったか、その辺のサプリを知りあれやこれやと買い始めた
ストレス緩和目的で割と常用するようになって、そこからセールの度にストック買いするようになった
毎週のようにiHerbで買ってた
そして今、積み上がった箱を開けると消費しきれないサプリが山とある
どーすんだこれ、と思い書き記す
iHerb今20パーオフやってるけど買ってはいけないと固く誓いたい
https://dailyportalz.jp/kiji/my-hospitality-tour-narita
面白かった。
・自分はそんなに地元を紹介できるほどの思い出があるかな。小学校にいたK市ならちょっとあるけどもう店はないなぁ。小学校中学校と通学路があるくらいか。
中学校くらいから思い出のあるU市はどいなかで、高校で駅舎が木造でなくなったし入鋏もしなくなったけど今めちゃくちゃきれいだし。デパートも建ったし潰れたな。同級生なんていないだろうな。
高校は送迎の自動車か自転車移動だったからAの駅とかかな。Aの駅に駅そばがあったと思うのは記憶の間違いだろうか。
T駅のほうが栄えててこういう思い出ができそうなものだけど。アニメグッズはそこにしかなかったけど定期の外でいけなかった。
駅のない大学から自分でなんでも選べて楽しかったけど、サークルの試合の都合で全国旅行してたなあ。
地元愛とか育てる環境になかったな。今は地元愛を育てられるんだけどネットでとりよせちゃうもんな。昼飯のために外にいったら焦げちゃう。
・というか当時は親が支配的すぎた。金もなかったし友達とふらふら遊び回りたかったけど塾とかいかされてた。
塾にはたぶん行きたくなかったけど母親の支配がないだけでなんか幸せな気がして通ったし、なんなら家より寝てた。貧血だったなあ。
・母親は何十年生きても今も支配的で、帰省すると昼食はぜひこの店をと(その食材はアレルギーがあって食べられないっていってても)押しつけてくる。
口を開けば聞きたくない話を延々としているしこちらの話を聞かないので本題が全くすすまない。
耳が遠いのか、聞く耳持たないのか。学びも当然ないので正直いってたいしたことなくてつまらないけど、田舎町ではそれでもしっかりしてるほう(のつもり)だろうな。
昭和生まれの父親にとっての社会アダプターだったんだろうけど、おかげで子供達には父親の社会人としての顔がほとんど一切知れないまま逝去した。
母は一般的にいう社会と一切相性が会わない、よくしゃべるタイプの野生児だなぁ。
・結論、母親は支配の悪魔(チェンソーマン)よりよほど支配的である。
・高校の同級生もゆびとまだのfbでみるかぎり全国に散らばってるけど、同窓会とかやってんの?行かないけどさ。趣味あわなそう
スマホとの付き合い方に問題がある、と考える気持ちはわかるけど
「スマホを自分の生活から切り離すこと」が上手にできなくなってしまう器質的な原因があなたの身体にあるのではないかと思う。
こう、食生活が乱れて貧血だとか、ビタミン不足で神経がボロボロだとか、部屋が明るくて寝不足だとか、知らないうちに感染してたコロナの後遺症だとか。
総合病院か大学の健康センター的なところに行って、どこか身体に悪いところがないか相談してみたら?
鬱とかを疑って一発目でメンタルクリニックを受診してもいいけど、
1日目:気持ち悪い、下腹部がモゾモゾして落ち着かない 頻尿 過度の眠気
2日目:むくみがマックスになる 貧血で死を感じる 集中力低下 下腹部が痛い 眠いのに眠れない 電車座れないと泣きそうになる(情緒不安定)
3日目:むくみを形成していた水分が徐々に体の外に出ていくため更なる頻尿に 下腹部が痛い 在宅勤務に切り替え
4日目:軽くなってきたのに謎の吐き気
5日目:ようやく終わりが見えてくる。なんかしようかなという気になる
普通に一ヶ月の半分を軽い体調引きずるってなんなのよ。これでも私は動けるから全然軽い方なんですよね。こんなんが50代くらいまで続くと思うと最悪な気持ちになる!婦人科行こうかな
小さい頃、もう何歳かも覚えてないたぶん小学生くらいのころに夕飯時にやってたテレビで「DV夫が嫁にヘッドホンガムテープか何かで固定してつけさせて拘束して、大音量でクラシックを聴かせる、結果嫁は失聴までは行かずに済んだが聴力が衰えることに…」みたいな描写があり
(たぶんドラマのワンシーンか実録法廷!みたいなバラエティ?嫁が弁護士に相談するかたちでイメージ映像ととともに描写されていたような気がする)
自分でもよくわからないが、それを見て以降ヘッドホンが異様に怖くなってしまいとっくに成人した今でも付けられない 正直に言ってクラシックも苦手だ イヤホンは付けられるが、苦手ではあるので可能なら付けたくない
理性的には普通に使ってたらそんなことにはならないし、こんな映像ひとつで馬鹿じゃねえのと思うんだが確かに体にはトラウマが刻み込まれているようで、前にオンライン会議のために会社の備品のヘッドホンをもう大丈夫だろと思って借りた数分後には大の大人の男が貧血を起こして動けなくなる羽目になった
ドラマ教場で蟻を入れたヘッドホンをガムテープで固定されるシーンが流れたときも血の気が引いて似たような状況になり見てすぐの頃は相当夢に出たし
情けない話なのだが、意外とみんなよくわからない原因のトラウマを持っていたりするものなのだろうか 精神科とかに行ったら治るものなら改善していきたいような気もする 日常で不便を感じることもあるので…
メンタルって不思議なもので心がしんどい時ってほんとに食べられなくなる。
時代によって選ぶものは変わっていくんだけど、固形がだるくなっていってゼリー状のものとかをなんとか飲んで、みたいな感じが多い。
他にはうどんはけっこう入りやすいけど少し食べただけでああもういいやってなってしまう。
しかし当然体はエネルギーを必要としているのでちゃんと食べないと心もよりしんどくなるのだ。そもそも正常な思考ができなくなっていく。
自分は幸いなことにというか、生死に関わるような悩みを抱えたことはない。
借金が何百万もあるとか、仕事が見つからなくてやばいとか、大変な事件に巻き込まれるとか、そこまでのは経験がない。
ほんとによくある感じの、仕事のことか恋愛のこと、主にこのふたつがせいぜいなのでかわいいものなんだけど、それでもいわゆる「食事も喉を通らない」という時期を過ごしたことが何度かある。
仕事については過去に、数ヶ月ほぼ軟禁状態で会社に寝泊まりして、地獄かよみたいな状況に追い込まれたことがあり、
その時は生きてる意味を見失ってるという感覚が強く、自然と食べる行為にも消極的になっていた。
ただこの時は食べようと思えば食べられる、というくらいでなんやかんや少しずつ食事は取れていたと思う。
なんとなく食べてはいるけどなんの味もしないなって感じ。あとこんな自分が飯を食って申し訳ありませんという感じの自虐も強かった。
さっさとその状況から抜け出すべきだったけど、ほとんど思考停止になっていたので能動的に動くというのが難しかった。
しかし仕事は仕事でしかない。その職場にそこまでしてこだわる理由などないわけで、
プロジェクトそのものが終わりを迎えた時、よし辞めるぞと心に決めて「家に帰ります」と宣言した時は開放感がすごかった。
久しぶりに家に帰り、ベッドに倒れ込んでこれも久しぶりの爆睡をして、起きた時に「腹減ってるわ」と気づいた時は「これで助かった」と思った。
そしてスーパーで卵や塩辛を買ってきてご飯を炊き、お味噌汁と一緒に食べた時千と千尋のおにぎりほどではないが、涙がじわっと溢れた。
一番キツかったのは30代を目前にしたころの片想いの時だった。
元々友達関係にあった女性をふとしたきっかけで好きなのかもと思い始め、そこから一気に爆発的に好きになってしまった。
寝ても覚めてもその人のことを考えてしまい、なにか食べようとしてもまったく喉を通らない。
その代わりコーヒーを飲む量が異常に増えていく。
ウィダーインゼリーとかでなんとか誤魔化しつつ、会社で同僚達と飯を食う時は残しまくり、1~2ヶ月で10kg以上体重が落ちたと思う。
まあその頃は少し肉がつきはじめてたので、10kg落ちても50kg台だったので病的なほど痩せたわけではないけど。
けっこう怖いのが自分では痩せていってることに気づかず、スーツがなんかぶかぶかしてきたとぼんやり思ってた程度だった。
ある時上司に「なんかめちゃくちゃ痩せたな」と言われてああそうなのかと思った。
とにかくずっと相手の女性の事ばかり考えて心ここにあらずだったので、どうやって過ごしてたのかほとんど覚えてない。
ただ2回くらい貧血を起こしてしまい、ああこれは食べてないからかと思ったことは覚えてる。
休みの日はずっとその人に宛てた手紙を書いたりしてた。何度も何度も書き直して結局一度も渡さない手紙。
ほとんど徹夜で書いてその間はずっとコーヒーだけ飲んでる。睡眠も取りにくくなっていた。
翌日読み返すと短編小説かくらいの長さで、こんなの渡されたら重みで両手もげるわみたいなクソ重な内容だった。
このままでは死ぬと思ったので告白した。告白した時も思い出したくもないくらいかっこ悪くて恥ずかしいみっともない告白をしてしまったんだけど、
そこは元々友達だったというのもあり、相手も大人だったのでうまく対応してもらえた。
相手は俺のことは完全に恋愛対象としては見てなかったけど、年齢的なことや周りの意見などを取り入れ、付き合ってみてもいいという話になった。
ただ結果的にはよくある展開ではあるけど、やはり自分を男として見るのが難しかったんだと思う。こちらはこちらで勝手に想いが強すぎてギクシャクしてしまいうまくいかなかった。
やっぱうちら無理だねとちゃんと話し合って、円満にお別れすることになる。
そうすると不思議なもので互いに張り詰めていた緊張が一気にほぐれた空気が生まれた。
最後に二人きりで食べた焼肉屋では、どちらもたくさん食べた。この空気が最初から作れていたらと思わずにはいられなかったけど、久しぶりに自然に笑う彼女を見た気がして嬉しかった。
彼女は彼女で、こちらの想いに応えようとしてくれて無理をしてくれていたのだ。「君があまり食べないから実は私も抑えてたw」といった時の彼女は本当にかわいかった。
それから俺はどんどん体重を戻し、ちょっと戻しすぎて小太りになった。久しぶりに会った時に彼女からは「今のほうが私好きよ」とからかわれたりした。
大変だったなあとは思い出すし、仕事で大変な思いをするのは二度とごめんだなと思う。
でも恋愛に関しては、というか恋愛に限らず人に対してそこまで思ったりするというのはそうそうあることではない、良い経験だったなと思う。
すぐそういう極論が出てくるのモラハラやり慣れてるのか?
内臓から組織を剥がしてボロボロ、引きちぎれたりろくな麻酔無しに切って縫って局部は痛み、出産で減ったHPをしっかり回復することも出来ずにそのまま毎日一時間二時間ずつ睡眠下手したら一時間ずつも寝られずにトイレも不自由、体を回復しないといけないのに食事もしっかり食べられる状態を得られないまま血液を変換した母乳を日に何度も与えるため貧血状態。言っておくが母乳出てるなら余程の決意や信条や医者の介入等がないと断乳するにも母子の心身に負担をかけるぞ。
そのような状態で一月二月毎日の育児と家事をしているのをパートナーのはずの夫が毎日側にいながら労りもせずに生活は変わらずに世話されているのはどうなんだ?夫はサイコパスかよ?って話なんだが。
夫が激務でも気にかけてることを伝えたり、休みの日なら17時間位寝たら、家のなかで数時間子供をみて妻を少し休ませるくらいはできないかね?毎日とかの話じゃないんだが。
妻が働けば良い、共働きにすれば良い勢諸兄は、身体の肉が切れたりちぎれたりの物理的ダメージありなのに基本的に医者にもかかれない、ホルモンバランス激変で脳にも負荷の高い状態で少しも休みなくデスマーチに突入し一日たりとも休みはなく睡眠時にまで電話がかかってくる数ヶ月を過ごすなか、家族は自分の状態を何も(身体の治りは、具合、何か日常のことなど助けられないかすら)気にもかけないで自分の方が辛いとばかりに真横で無視を決め込まれたら辛くないのか?役割だから当然でひどいと思うことすら非難する資格がないのが当然?
声すらかけないで放置が酷くはないと?
時折、ふと思い立ってPCの画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作のアナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。
私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像をソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。
もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。
そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春の記憶を今、絶妙に嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。
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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校の休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。
そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…。
5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。
さすがに身長の高さゆえか男子女子問わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日に大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから。別に親は悪くないんですけど。
そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリに日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。
当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトのリンクやランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品に一目惚れし、その方のサイトの掲示板に初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。
コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼けと少女、油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女、鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。
もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からドキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。
しばらく固まった。どう返信していいかわからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルにジャンプしてガッツーズしましたよ。
そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。
春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生の世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術の世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京の美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに、費用がね…。
そして中学最初の夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。
隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作の現場だった。部屋中に飾られた素描や水彩画、見たこともない大きなカルトン、イーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD。
やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。
ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。
うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときにちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメの漫画とかミギーのイラストとか、他にもボナールとかセザンヌとかいろんな画家の画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。
ただね、この人近いんすよ、距離が…。
ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体を押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。
で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。
そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!!
その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルにチェックインしました。
そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの神絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居、紅葉、月夜と和服の女性をモチーフに厚塗りリアルタッチの作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症でゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellのCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。
結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルでシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂に突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗に愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。
そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的な対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首にタッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。
帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズだからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察に通報すればいいとか言い出しやがって。
で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。
その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトにアクセスし私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。
そしてサイトの掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。
大阪のカラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。
そして図々しくも来年の夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。
でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中はセクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人の玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業と就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。
SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくその理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのときの快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいつものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私は来年東京に就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたかい感触でギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。
でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッと彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。
その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。
その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京で結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterやpixivに活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死に延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。