はてなキーワード: 貧血とは
時折、ふと思い立ってPCの画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作のアナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。
私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像をソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。
もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。
そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春の記憶を今、絶妙に嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。
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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校の休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。
そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…。
5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。
さすがに身長の高さゆえか男子女子問わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日に大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから。別に親は悪くないんですけど。
そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリに日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。
当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトのリンクやランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品に一目惚れし、その方のサイトの掲示板に初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。
コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼けと少女、油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女、鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。
もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からドキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。
しばらく固まった。どう返信していいかわからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルにジャンプしてガッツーズしましたよ。
そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。
春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生の世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術の世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京の美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに、費用がね…。
そして中学最初の夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。
隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作の現場だった。部屋中に飾られた素描や水彩画、見たこともない大きなカルトン、イーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD。
やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。
ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。
うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときにちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメの漫画とかミギーのイラストとか、他にもボナールとかセザンヌとかいろんな画家の画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。
ただね、この人近いんすよ、距離が…。
ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体を押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。
で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。
そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!!
その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルにチェックインしました。
そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの神絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居、紅葉、月夜と和服の女性をモチーフに厚塗りリアルタッチの作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症でゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellのCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。
結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルでシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂に突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗に愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。
そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的な対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首にタッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。
帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズだからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察に通報すればいいとか言い出しやがって。
で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。
その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトにアクセスし私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。
そしてサイトの掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。
大阪のカラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。
そして図々しくも来年の夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。
でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中はセクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人の玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業と就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。
SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくその理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのときの快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいつものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私は来年東京に就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたかい感触でギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。
でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッと彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。
その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。
その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京で結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterやpixivに活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死に延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。
3ヶ月前のある日、職場のエレベーターに乗っている最中ひどい貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われた。昼休みだったためしばらくオフィスの椅子で休んでいると20分ほどして回復した。
その日の帰りに、2ヶ月前にも一度仕事帰りに貧血と立ちくらみ、吐き気に襲われたことに気がついた。
色々ネットで調べていたところ、大腸がんの症状が自分に当てはまった。
自分の症状
・二週間に一度のペースで下痢気味になることがある。特に週末。
・体重減少。社会人になって、一人暮らしを始めて食事がお粗末になったことがきっかけだと勝手に思い込んでいた。
・お腹のはり。
・頻繁なゲップや屁。
そして先述の貧血と立ちくらみである。血便はないが全ての患者に現れるわけではないそうだ。
年齢、血の繋がった家族や親戚にガン罹患者がいないことなどから最初は信じられなかったが、大腸ガンについて色々調べていると日本を含む世界中で二十代や三十代の大腸ガンが脅威的なほど急増していることを知った。
しかし、もし進行していたらと考えたらいけなくなってしまった。病院のベッドに縛り付けられ、腹を切り開かれ、その後効くのかどうかもわからない抗がん剤(抗がん剤を毒物と呼んで使用禁止を呼びかける医師がいることも知った)を投与されボロボロになって死ぬ。担当医は高級キャバクラで俺が死んだことを電話で聞かされ「あーそう。死んだか。はいはい。忙しいから後でね」と電話を切って再び女の子を口説き始めるんだろう。
仮に進行していなかったとしても、退院後一生再発の恐怖に怯えながら生きることになる。
また病院のベッドで弱っている俺を女手一つで育ててくれた母に見せたくない。
そう考えた結果、「もうあと一瞬で死ぬ」という所まで放置することに決めた。これから段々症状の悪化や痛みに苦しむのかもしれないが、俺が耐えれば良いだけだ。
「倒れたと思ったら、すぐに死んだ」
その方が母の心の傷も悲しみも少ないかもしれない。
大腸ガンが発覚するまでは「これから先も毎日仕事して、彼女ができて、結婚して、子供が産まれて、あっという間に年取るんだろうなあ」なんて考えていた。しかし現実は違った。俺は年を取る間もなく死ぬ。
私は旅帰り疲労しこどもを連れていた。
日中は日頃から下のこども抱っこして歩き回り膝はガクガクしている。そして生理二日目で貧血ぎみでもある。
ようやく座り隣に低学年のこどもも座れた。
ふと目の前を見るとヨボヨボの老人がたっている。変わるべきか?逡巡する。
目の前の老人はスーツケースをもっている。旅帰りだろう。旅行に出かけることが出きるなら見た目よりは元気であろう。向こうに奥さんらしい人がいる。こちらをチラチラみている。替われという圧だろうか。しかし何より座らなければいけないのであれば電車をおくらせるだろう。
優先席ではここはない。ただ隅のコーナーでふだん優先席がある区画でもある。見込みが外れたのだろうか。
この老人がすぐ降りるのであれば替わってもいいが私が降りる40分ほど最後までいられるのなら体力的に厳しい。
私はふだんから席を必ず替わるようにしていた。しかし今日座れないと安全に帰れないような気もする。
強い意思で老人の細い足を見つめていた。
そのつぎの駅で向かいの奥さんの前の席のアフリカ系の男性が奥さんに席を替わるように申し出たのだろう。
「おとうさんかわってくれるって」
老人は席に座れた。私は安心した。
そしてそれから二つ目の駅で老人は降りしきりと老人は礼をいい和やかに男性と別れた。
私は旅帰り疲労しこどもを連れていた。
日中は日頃から下のこども抱っこして歩き回り膝はガクガクしている。そして生理二日目で貧血ぎみでもある。
ようやく座り隣に低学年のこどもも座れた。
ふと目の前を見るとヨボヨボの老人がたっている。変わるべきか?逡巡する。
目の前の老人はスーツケースをもっている。旅帰りだろう。旅行に出かけることが出きるなら見た目よりは元気であろう。向こうに奥さんらしい人がいる。こちらをチラチラみている。替われという圧だろうか。しかし何より座らなければいけないのであれば電車をおくらせるだろう。
優先席ではここはない。ただ隅のコーナーでふだん優先席がある区画でもある。見込みが外れたのだろうか。
この老人がすぐ降りるのであれば替わってもいいが私が降りる40分ほど最後までいられるのなら体力的に厳しい。
私はふだんから席を必ず替わるようにしていた。しかし今日座れないと安全に帰れないような気もする。
強い意思で老人の細い足を見つめていた。
そのつぎの駅で向かいの奥さんの前の席のアフリカ系の男性が奥さんに席を替わるように申し出たのだろう。
「おとうさんかわってくれるって」
老人は席に座れた。私は安心した。
そしてそれから二つ目の駅で老人は降りしきりと老人は礼をいい和やかに男性と別れた。
平日は何とかパートに行ってたが休日は動けなくて寝込むようになり、婦人科数カ所、漢方内科、貧血外来、耳鼻科(Bスポット)へ行ってもよくならず、心療内科へ。
薬を飲み始めたが、眠くてダルくて平日まで動けなくなり、薬を変えてもらっても変わらないのでもう自力で何とかするしかないとネットで見つけたのが、こてつブログ。
最初はプロテインと鉄サプリ(藤川先生推奨の量)でいいと思う。私は1ヶ月もしない間に効果テキメンだった。
そう言えば昔筋トレしてた時に元気だったのは運動のおかげでなくプロテイン飲んでたからかと思った。
その後停滞することはあるが、寝込むことはなくなった。
突然気持ちが落ちて感情が上がらない、さめざめと泣いてしまう、という時期が少し前にあった
本当に気持ちが上がらない、物理的に上がらないという感覚 重くて持ち上がらない
PMSとか更年期のホルモンバランス的なものだったのかなと今は推測
最近はそこまで落ちることはない
婦人科で薬もらって飲んでる
貧血は30年くらいずっとヘモグロビン値10いかないかなりの低値だった、健診ではかならずひっかかる
疲れやすく怠惰なのはもはや自分の性格と体質だと思っていたので、貧血であることに不都合を感じていなかった
市販の貧血薬をずっと飲んでいたのだが改善せず、だからこそ体質だと思ってたが、タンパク質と海外の鉄分サプリをとるようになったら半年で普通の値になった
貧血じゃなくなってようやく、ずっと怠い感覚が貧血由来だったと自覚した
その後、栄養関連のものを読み漁り、いろんな栄養素サプリを単品でとったりしていた
健診での血液検査、婦人科での血液検査をやって、鉄不足貧血とビタミンD不足は診断出てたから、日光浴なんかもするようにした
結局、自分じゃ何が不足してるのかなんて気づけないもんだなと振り返って思う
なので不定愁訴的な症状で困ったら
日光浴
がいいんじゃないかなと
みんなの知見めちゃくちゃ参考になる。
増田さんありがとう。原因不明の体調不良つらいよね。私も一時期、具合悪いのに働く辛さで毎日泣いていた。
便乗になってしまうが、鉄はどうやってとればいいんだろう。
私は30代になった頃から増田さんに似た絶不調で、甲状腺、腎臓、心臓など調べたけどよくわからず、フェリチンは低い。鉄剤は2種類くらい胃が荒れて飲めなかった。注射とシロップは使ってない。レバーはビタミンAが多すぎるし、小松菜には鉄が多いけどそんなに大量にはとれない。鉄瓶も買った。
高いヘム鉄サプリはそれほど胃が荒れず、フェリチンは少し上がった。漢方薬局で出してもらった漢方(イスクラの顆粒)も体調良くなった。どちらも応急にはいいけど、高すぎて恒常的に続けるのは厳しい。
今のところ、胚芽米とかでミネラルをとるのがいいのかな…と思ってる(玄米は胃が荒れる)。
鉄+ビタミン剤を1週間ほど飲んでみる。ディアナチュラの「鉄+マルチビタミン」がお薦め。成分が多い。
ブコメにも書いたけど文字数制限あるのでこっちで詳しく書く。時間ないから適当だし読みにくくてごめんね。
私も倦怠感と気分の落ち込みで長年悩んでいたんだけど、婦人科の先生がめちゃくちゃ話を聞いてくれる先生で、先生と話しているうちに「コイツ、ミネラル足りてないんじゃね?」って先生が思ったらしく、血液検査にフェリチン精密と亜鉛の項目を足して検査してもらった。
(普通の日本での貧血の検査はヘモグロビンとかの値で調べるんだけど、それだけじゃ実は不十分らしい)
そしたらとにかく亜鉛の値がめちゃくちゃ低い。亜鉛って魚介類とレバーに多く含まれるんだけど、私の場合どちらも苦手なので多分摂取量が足りてなかったんだと思う。
それと、フェリチン精密は女性は10以上あれば良くて、私は13だったからまあギリギリ。でも、アメリカではこのフェリチンは50はないと駄目で、妊娠を望むのであれば100はないと医療指導されるらしい。日本での基準値が低いのは、日本ではフェリチンを調べたことのある人が少ないので、日本人はどのくらいフェリチンの値があればOKなのかよくわからなくてとりあえず10にしてあるという結構雑な基準値なんだそうだ。
ちなみに、鉄分とか亜鉛とかミネラルが足りてないと、精神面にも多大なる影響が出る。落ち込むとかはミネラル不足が原因の場合もある。上記の婦人科の先生によると、若い女性は生理があるから慢性的な貧血に陥っており、尚且つ炭水化物ばっかり食べていてミネラル不足になっている人が実はものすごく多いらしい。そしてタンパク質不足も精神の落ち込みの原因になるそうで、とにかくミネラルとタンパク質をとるよう指導された。
ついでに、フェリチン精密と亜鉛は日本の病院では滅多に調べないし、血液検査も事前に相談しないとほぼ調べてもらえないと思う。私は他の病院の先生に「フェリチンと亜鉛調べたら全然足りてなくてー」って話をしたら、全員「そんなの調べたの?珍しいね」っていう反応だったから本当に珍しいことなんだと思う。(血液検査って調べる項目数増えるとお金かかるから、何もかも調べようとすると軽く万札が飛ぶんだよね…)
そういうわけで、私は今鉄分と亜鉛のサプリ、加えてプロテインを飲むようにしている。それがまあ、びっくりするくらい効果あった。特に亜鉛。倦怠感はかなり楽になったし、風邪もよくひいていたんだけど全然ひかなくなった。しょっちゅうできていた口内炎もまったくできなくなっていいことづくめ!
精神面は比較が難しいのでなんとも言いがたいけど、上記のミネラルに加えて、冬季うつがあるので、その対策に秋冬はトリプトファンのサプリ飲んでるんだけどこれがまためちゃくちゃ効く!全然落ち込まないし眠くない!お腹空かない!今までバナナたくさん食べてたんだけど、それとは比較にならないくらいトリプトファンめっちゃ効く!!
(冬季うつ以外の鬱もトリプトファン不足が原因の場合も多いらしいので詳しくは病院で訊くなり調べるなりしてね)
というわけで、これ以上書くとサプリ業者の宣伝ぽくなるのでこれくらいに。私も試行錯誤を経てたどり着いた結果なので、人それぞれ効果は違うと思うけど参考になったら嬉しいな。
早く良くなるといいね。がんばってね。
マルチビタミン・マルチミネラルのサプリを1か月程度飲み続ける。
毎日500gのヨーグルトを食べる。各メーカー毎に順に変えて。
■貧血・酸欠系
■カフェイン不足
カフェイン不足で動けないときは、錠剤のエスタロンモカ錠がお勧め。
閉経気味なら、命の母Aを飲む。
■脳脊髄液漏出症
うーん、一つには好きというより補給の手っ取り早さはあるかな。
自分は生理が重くて病気が発見されて手術したくらいなんだけど、手術後も生理が始まると貧血かつ胃腸がストライキおこしてしまうので塩ようかん75gくらいのをその場で1かたまり全部食べたりする。※鉄剤はほぼ毎日のんでるしタンパク質も取れるだけ取ろうとはしている
自転車やマラソンの男性選手が補給所でバナナ数本とかスポドリ(意外と砂糖が濃い)をのんだりたべたりするのも「甘いものが好き」なのではないと思う。
あとおしゃれなフレンチって消化に悪い野菜やシコシコすぎるパスタが多いのでおばちゃんは食べてて疲れるんよ。最後にまだまだ血糖値あがらんので手っ取り早くカロリーくれと体がいってる気がする。
なので、甘いのが好きでないという人はたぶん胃腸が丈夫で吸収力がつよくむしろ血糖値ハンマーのほうに耐えられないという長生き体質でよかったね、でも年取ったら無理というか酷使はしないでねとしか。