はてなキーワード: 雑談とは
283プロの3人組アイドルユニット「アルストロメリア」の桑山千雪は、同じユニットのメンバーである大崎甘奈の練習を、大崎甜花(同じくユニットメンバー)と一緒に見守っていた。
甘奈は、新しいファッション雑誌の”顔”となるカバーガールのオーディションへの挑戦を控え、面接での自己PRの練習をしていた。
甘奈は雑誌側からも注目されており、一般応募より有利なシード枠としてのオファーを受けていた。
甘奈から本面接を想定した厳しい意見を言って欲しいと頼まれ、千雪と甜花は、一定時間本心と反対の事を言う「反対ごっこ」を始める。本心と逆のことを言う形であれば厳しいことも言えるだろうという作戦だったが、結局ほめてしまう。
練習後の雑談で、その雑誌がかつて愛読していた雑誌「アプリコット」の復刊であると知り驚く。
事務所にいた283プロダクションのプロデューサーは、「アプリコット」のオーディション事務局から掛かってきた電話を受ける。
プロデューサーは、甘奈がシード枠としてオーディションを受けられることへのお礼と、オーディションへの意気込みを伝えるが、先方から甘奈は既にグランプリに内定していると聞かされ驚く。
甘奈と甜花はかつて刊行されていた雑誌「アプリコット」のことを調べていた。おしゃれで可愛らしい雑誌の雰囲気をみて、2人とも「まるで千雪のようだ」という感想を抱いた。
千雪は所有している「アプリコット」のバックナンバーを読み返していた。甘奈が「アプリコット」の”顔”となったら素敵だろうと思うものの、やはり甘奈のことが羨ましかった。
プロデューサーは、甘奈の参考になればと自宅から「アプリコット」のバックナンバーは運んできた千雪に、メンバーのことを考えるのも大事だが、千雪自信のことも大事に考えてほしいと伝えた。
甘奈と甜花はレッスン室でオーディションの審査項目の1つであるウォーキングの練習をしていた。
レッスン室に立ち寄った千雪は、「たまたま古本屋で見つけたので」と甘奈に「アプリコット」のバックナンバーを渡した。
オーディションまでにできるだけレッスンを入れる必要があるが、先生の予約の空きとレッスン室の予約の空きが合わなくて困っているという甘奈に、千雪は自分が予約しているレッスン室を譲ろうとするが、千雪自身が使うべきだと遠慮される。
レッスン室からの帰路、甘奈は甜花に、千雪は「アプリコット」を読んでいたのではないかという推測を伝える。甜花も、千雪はかなり「アプリコット」に思い入れがあるように感じると同意した。
事務所に来た甜花は、プロデューサーが電話をしている声を聞く。
プロデューサーは、「アプリコット」のオーディション事務局に、打ち合わせの約束を取り付けようとしていた。
「グランプリが甘奈に内定しているという事は光栄なことだが…」というプロデューサーの言葉を耳にし甜花は驚く。
レッスン室に揃った千雪と甘奈と甜花の3人、最初こそ「反対ごっこ」で互いを褒め合って楽しくレッスンしていたが、甘奈のオーディションの話題になると、それぞれ意識してしまい、ぎくしゃくした会話になってしまう。
レッスン後、1人河原で発声練習を行っていた千雪は、意を決して甘奈と甜花の自宅を訪問する。千雪は出迎えた2人に、自分も「アプリコット」のオーディションを受けたいと告げる。
千雪は居酒屋で、事務所の事務員であり友人の七草はづきに話を聞いてもらっていた。
「アプリコット」とは中学の頃に図書館で出会い、大きな影響を受けていること。
復刊すると聞いて、昔しまい込んだ大事な宝物がもう一回見つかったような気持ちになったこと。
でも、見つかったとたんに自分のものじゃなくなったような気持ちになったこと。
甘奈に嫉妬しているものの、甘奈が「アプリコット」のカバーガールとなったら素敵だと思うのも本心であること。
事務所で甜花は、プロデューサーに以前立ち聞きしてしまった電話の内容について質問していた。
プロデューサーは、今回のオーディションの実態は雑誌の宣伝のためのお祭りのようなものでグランプリは既に甘奈に内定しているのだと答えた。
これまでのオーディションに向けた甘奈の努力が無意味だったと知ってショックを受ける甜花に、プロデューサーは、公正な審査をしてもらえるよう、もう一度先方と話し合ってみると伝えた。
プロデューサーは出版社で「アプリコット」編集長と面会をしていた。
甘奈も他の候補者と同じ立場で受けさせてもらいたいと言うプロデューサーに、編集長はそれはグランプリを辞退するという意味かと返した。
返答に窮するプロデューサーに対し、編集長は今回の復刊は自分たちの悲願であり、甘奈のグランプリは多くの関係者の総意として”公正に”選んだものだと伝えた。
プロデューサーが、最初から負けが決まっている候補者の気持ちはどうなるのか聞くと、編集長は、今回のオーディションはスポーツのような単純な勝ち負けではなく、開催そのものが若い才能へのチャンスと学びの提供になるよう審査員として様々な分野の第一人者を迎えていると答えた。
出版社からの帰路、プロデューサーはアルストロメリアの3人に明日ミーティングをしたいという連絡を送った。
事務所でのミーティングの場、話始めるプロデューサーを遮るように、甘奈はアプリコットのオーディションを辞退すると告げた。
プロデューサーはまず自分の話を聞いて欲しいと頼んだが、甘奈は事務所に迷惑をかけてしまうのは理解しているが、千雪こそが「アプリコット」にふさわしく、それが分かっていながらどうオーディションに向き合えばいいのか分からないと語った。
それを聞いた千雪は、自分がエントリーを取りやめると言った。オーディション挑戦は決めたものの、どこかで甘奈がグランプリをとると信じ込んでおり、甘奈にこのような影響を与えることまでは理解しきれていなかったと伝えた。
プロデューサーは、甘奈がグランプリに内定したこと。編集部がはっきりとしたビジョンを持って、甘奈を起用したいと考えていること。
自分も混乱しているが、これまでの甘奈の活動が、たくさんの候補の中からこの結論を勝ち獲ったとも言えること。
オーディションへの参加については、甘奈と千雪それぞれの決定を尊重するので、もういちど考えてみてほしいということを伝え、そして2人がどんな結論を出したとしても、それを全力でサポートすることを約束した。
ミーティング解散後、千雪は1人河原で発声練習をしていたが、気持ちがまとまらず、うまく声を出せずにいた。
同じく気持ちがまとまらず事務所周辺を歩いていた甘奈と甜花は、千雪を見つけて合流した。
甘奈も声を出してみるが、うまく出すことができなかった。
その様子を見て千雪は「反対ごっこ」を提案し、甘奈がオーディションに落ちたらいいのにと叫び、次は甘奈の番だと促した。
甘奈が戸惑って声を出せずにいると、甜花は自分が先に言うと宣言し、2人ともオーディションに落ちたらいいのにと叫んだ。
千雪は負けたいと叫び、甘奈も負けたいと叫んだ。甜花は2人とも負けてと叫んだ。
千雪はアルストロメリアなんて大嫌いと叫び、甜花はアルストロメリアなんて一番大事じゃないと叫んだ。
反対ごっこ」の終了を宣言した千雪は、改めて甘奈に一緒に戦わせて欲しいと頼んだ。
最初は拒否しようとした甘奈だったが、叫んだことでそれまであった恐怖心が無くなっていることに気づき、自分と戦って欲しいと千雪に伝えた。
甘奈はオーディションの控室で、千雪から受けたアドバイスを思い返しながら、1人自己PRの準備をした。
千雪は最終選考に進み、甘奈の言葉を思い出しながら、面接で「アプリコット」に対する自分の思いを伝えた。
甜花は、オーディションのレッスンの先生をプロデューサーの車まで案内した。
甘奈の努力が無駄にならないよう、先生に自分の観覧席のチケットを譲り、本当に合格に値するか審査してもらうと思ったのだ。
甜花は会場へ向かう車を見送り、甘奈と千雪の健闘を祈った。
オーディション終了後、グランプリは獲れなかったと告げるプロデューサーに、千雪はそれは分かっていたことだが参加できてよかったと言った。
プロデューサーと2人で移動中、甘奈は、今回のグランプリはひとりで獲得したものではないと感じており、頑張らないといけないと語った。
甘奈のグランプリを記念する、ランウェイショーが開催されることが決まり、千雪と甜花は部屋で甘奈を応援するための練習をしていた。
甜花は千雪に感謝を伝えた。
千雪が戸惑っていると、甜花は千雪が大事なものを諦めなかったので、自分も何が大事なのか理解することができたと語った。
悔しいよね?と甜花は千雪に聞いた。甜花は、甘奈がグランプリで嬉しいが千雪がグランプリじゃなくて悔しいと言った。
千雪は少しだけ肩を貸して欲しいと、隣に座る甜花に頭をあずけた。
千雪は声にしないといけないことで、まだしていないことがあったと言い「負けたのが悔しいよ」と大きな声で言った。
その直後リハーサル中の甘奈からグループメッセージが届き、千雪は応援の言葉を返した。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
優しい笑顔が印象的な、事務所のお姉さん的存在。母性溢れる落ち着いた佇まいが特徴。手先が器用で、かわいい小物を作るのが趣味。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の妹。誰とでも分け隔てなく接する天真爛漫なギャル。今しかできないことを全力で楽しみたい今ドキの女の子。高校2年生。
姉の甜花からは「なーちゃん」ファンからは「まな」という愛称で呼ばれている。
姉の甜花を溺愛している。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の姉。幼い頃から妹の甘奈に面倒を見てもらっている。人と話すのが苦手で、アニメやゲームなど、インドアな趣味が多い。高校2年生。
細やかな気配りでアイドルたちの輝く日々を支える、陰の立役者。
・お花のように可愛らしいポップでハッピーなユニット「アルストロメリア」に突如ぶっこまれたシリアスなストーリーで、油断しきっていたユーザーの度肝を抜いた
・シリアスなドラマが中心だが、クスっと笑ってしまうようなシーンや、アイドルの可愛らしさも描けており隙がない
話数 | サブタイトル |
---|---|
オープニング | 予感 |
第1話 | アプリコット |
第2話 | 反対ごっこ |
第3話 | そして彼女はインターホンを鳴らす |
第4話 | ふたつの夜 |
第5話 | こわい |
第6話 | 薄桃色にこんがらがって |
エンディング | エンドロールは流れない |
特に初対面における素人の雑談で、会話が盛り上がるかどうかは「自己開示」がキモなんだけどそれをわかってない奴が意外と多い。
もうちょい分かり易く言うと「投げ返し」な。会話は「言葉のキャッチボール」と昔はよく例えられていたが(と書いて気付いたが、ひょっとしてこの野球に例える感じってもう死語なのか?)、こちらが言葉を投げる→相手はキャッチしている(=こちらの言葉の意味を理解している)→相手が投げ返す→以下ループ、となる。
ここで、最初はなるべくベーシックな、危険が少ない、ストライクゾーンど真ん中に向かって言葉を投げていき、そしてお互いのストライクゾーンの広さを探りつつ、だんだんギリギリを攻めていくのが雑談の妙。
雑談が楽しくなるかってか最低限盛り上がるかどうかは、「相手が投げて欲しいところに言葉のボールを投げ返せるかどうか」だということを、それなりに他人と話したことのある奴はわかっているが、特に女でわかっていない(もしくはやる気がない)奴がいるんだよ。
勘違いしてるパパ活女子(風俗・水商売女子でも結局同じだが)は、「自分という存在がオッサンと同じ場所・時間を共有していることそのものに価値がある」「故にそれ以上の『おもてなし』はする必要が無い」と思っているアホな奴らだ。オッサン側は基本的に女とのコミュニケーションを求めて金を払っている(セックスもコミュニケーションの一つの形だ)ので、最低限の「おもてなし」をできない奴はリピートされないんで定期客作れずに苦労する。固定客作って安定して小遣い稼ぎしてるパパ活女子は、やっぱ会ってる時間においては基本的に愛想良いんだよ(その一つの究極形があの「いただき女子」だったんだろうけど)。
これはマッチングアプリで勘違いしてる女も実は同じで、「相手を見定める」気が強い結果、「最低限、自分と過ごす時間を楽しんでもらえるように振舞おう」という意識が全く無いんだよな。故に愛想が悪いし言葉のボールを投げ返すこともしない。
お砂糖は「友達」としての親密さなのか「恋人」としての特別な位置なのか議論されることがあります。しかし、「友達」の間の距離感は、特に曖昧で広範囲に渡ります。それでは、この微妙な関係性について、もう少し詳しく探ってみましょう。
『とも‐だち【友達】の解説互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。友人。朋友 (ほうゆう) 。友。「—になる」「遊び—」「飲み—」
[補説] 2013年10月に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。」キャンペーンでの「友だち」への投稿から選ばれた優秀作品。』
goo辞書より引用https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%8F%8B%E9%81%94_%28%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A0%E3%81%A1%29/
"互いに心を許し合って、対等に交わっている人"と"一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人"という表現は、確かに"友達"という言葉で表現されますが、その深さや距離感に違いがあります。
互いに心を許し合って、対等に交わっている人: この表現は、相手との関係が深く、信頼関係が築かれていることを示しています。このような友人は、自分の内面を理解し、支えてくれる存在であり、困難な状況でも一緒に乗り越えてくれるでしょう。また、対等な関係というのは、互いに尊重し合い、意見を自由に交換できる関係を指します。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人: この表現は、一緒に楽しい時間を過ごすことができる友人を指しています。このような友人とは、共通の趣味や興味を共有し、一緒に活動することが多いでしょう。しかし、それは必ずしも深い信頼関係があるとは限らず、個人的な問題を共有することは少ないかもしれません。
一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人について話していきます。
「遊び友達」、「喋り友達」、「ゲーム友達」、「ソシャゲ友達」など、これらは特定のコンテンツやゲームで楽しむためにつながっている友達を指します。彼らとは同じコミュニティに所属し、雑談したり遊んだりすることがありますが、それ以上の深い関係はありません。
私生活に入り込むことはなく、お互いの個人的なことには触れず、純粋に趣味を楽しむ相手としての友達です。
これが悪いというわけではありません。むしろ、インターネット上の友達との距離感としてはこれが普通で、健全な付き合いだと思います。それぞれの友達との関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大切です。
ですが、インターネット上の友達という距離感を保ったままお砂糖になるケースが見受けられます。リアルな友人とネット上の友人との間に存在する距離感の壁を超えられていない場合、それは誠意があるとは言えません。お砂糖が友人であるか恋人であるかを問う前に、互いに心を許し合うという基盤がないまま、不確かな関係性を築いてしまうことは良くありません。
それでも、それはまだマシな方かもしれません。なぜなら、"フレンドを切ってしまえばただの赤の他人でしかない自分にとって都合のいい遊び相手"という浅い考えで人を見下して、都合の良い相手として付き合っている人々が存在するからです。これは、人間関係を軽視し、他人を尊重しない態度を示しています。このような考え方は、健全な人間関係を築く上で全く適切ではありません。
それぞれの関係性を理解し、適切な距離感を保つことが大人の人間関係です。ですが、人間関係を深め、信頼関係を築くために近づこうとしないまま形だけの関係になっていませませんか?お砂糖という言葉で誤魔化さずはっきりと、どういう距離感で居たいのかを伝えることが大切だと思います。
奇跡的に距離感の擦り合わせに成功したとしても、価値観の擦り合わせという工程がまっています。もはやvrchatの領分ではありませんが、自分の思う価値観の擦り合わせについて書いていきます。
人々が他人の欠点を見つけて大騒ぎし、マスコミがそれを叩き、インターネット上で集団で非難することは、不寛容な社会を反映しています。完璧を求める就職活動や、欠点を許容しない傾向は、生きづらい世の中を作り出しています。
「カエル化現象」という言葉が、近年よく使われています。これは、愛する人の些細な欠点を見つけた瞬間、その魅力が色褪せ、感情が冷めてしまうという現象を指します。しかし、この現象は、私たちが他人に対して持つ過度な潔癖性の表れではないでしょうか。例えば「樽一杯のワインにスプーン一杯の泥水を入れると、全てが泥水になる」という言葉がありますが、人間関係においても同じように厳しい基準を適用してしまっているのです。
しかし、人間は完璧ではなく、欠点を持つことは自然なことです。お互いの欠点を認め、許容することで、より健全な社会を築くことができるでしょう。完璧を求めるのではなく、人間らしさを受け入れることが大切です。それによって、より寛容で、生きやすい世の中になるはずです。
自分は距離が近い人と上手くやっていくコツは「嫌いを許容する」事にあると思います。
人間関係において、「嫌いを許容する」というのは、相手の欠点を受け入れ、それを乗り越えることで、より深い信頼関係を築くことができるという意味です。私たちは完璧ではなく、誰もが何らかの欠点を持っています。しかし、それらを認め合い、サポートし合うことで、互いの絆は強まります。
嫌いな部分を見つけたとしても、それを単に指摘するのではなく、どうすればその部分を改善できるか、またはその部分を受け入れて支え合うかを考え話し合うことが大切です。お互いの長所を認め合い、短所を補い合うことで、関係はより豊かなものになると信じています。
まあ、vrchat民の殆どは指摘すらしない事なかれ主義者ですが。
人との距離が近くなるほどに、相手の嫌な部分が見えてくるかもしれませんが、それを乗り越えることで、より強固な関係を築くことができるのです。そして、それは人生において非常に価値のあることだと思います。
ですが、現実はそう甘くはありません。
SNSの普及により、私たちはいつでもどこでも人と繋がることができるようになりました。しかし、その結果として、人と深く関わり合うという行為が希薄になってしまったのではないでしょうか。かつては、人間関係を築くことは時間と労力を要するものでした。しかし今、私たちは「人間関係に対して代わりがきく」という新たな現実に直面しています。嫌いな部分を持つ人間関係を見つけたら、簡単に切り替えて新しい関係を探すことができるのです。
このような状況は、人間関係の価値を軽視する傾向につながりかねません。一つの関係に問題が生じたとき、解決する努力をする代わりに、新しい関係を求める方が容易になってしまったのです。しかし、これは本当に良いことなのでしょうか。人間関係においては、困難を乗り越えることが成長につながる重要な過程です。簡単に関係を切り替えることは、その過程を省略することに他なりません。
私たちは、SNSがもたらす便利さと、人間関係の深さを保つことのバランスを見つける必要があります。人との繋がりを大切にし、一時的な不快感や問題を乗り越えることで、より強固で意味のある関係を築くことができるのです。それは、メタバースの時代においても変わらない人間関係の本質であると言えるでしょう。
雑談のエピソードトークとかコラボのときの言動とか見てると大抵がADHDかASD
コラボが極端に多いやつはADHD、コラボが極端に少ないやつはASDって感じ
本人は気付けないから診断も受けてないし福祉の支援も受けてない
いい歳してまともに働いてない、まともに働けない知的障害者が企業勢VTuberのごっこ遊びのおままごとやってるんだと思うと悲惨すぎてキツい
俺自身は反出生主義がそこまでヤバい思想だと思ってない。苦しみを絶対悪としてそれを避けようとするなら、最初っから生まれなきゃいいじゃんって理屈になるのは筋が通ってる。俺自身も、最大の苦痛である死がいずれ必ず訪れると知った七歳のときの絶望感を覚えている。あの時はどうして俺は生まれてしまったんだと叫びたかった。
なぜ生きている/生きてしまっている/生かされてるのかって驚きこそが、哲学の始まりだ。
それに野良犬なんかの管理で「不幸な犬を増やさないために」って去勢するのと理屈とどう違う? あるい出生前診断や重い障害を持つ人々を重荷とみなす世間のまなざしなど、生命が完全に平等で尊いという考えに疑いをさしはさむ発想は結構身近だ。実は言語化されてないだけで、今まで多かれ少なかれ反出生主義的な発想はあったはずだし、自分は出生主義者だと思ってても、反出生主義的な考えをまったくしたことがないってことはないだろう。ちょっとくらい「なんで生まれたんだろ」「生まれさえしなければ」と考えたことくらいあるんじゃない?
ときどき反出生主義主義者がやべーやつ扱いされるのは、興味ない人を無理やり説得しようとするやつがいるからなんじゃないかって推測してる。
で、当の俺自身は生まれる事の善悪を判断する能力を、そもそも人間は持っていないと思っているんだけど、反出生主義者に聞いてみたいことは結構ある。だからまとめてみた。
よくある自己紹介的なやりとりがされていたんだけど
男「趣味とかある?」
女「うーん、特に、ないです」
男「そうなんだ、一緒に探していけるといいね」
男「休みの日とかは何してるの?」
女「うーん……なにも」
〜男側の休みの日の話〜
男「YouTubeとか見る?」
ざっくりこんな感じ
引越しの話とか男側の話では盛り上がってたが
男側が女側の理解を深めようと話を展開させるための振りをしても何も出てこない
こういう人、いるんだよなあ
マグロだよね
俺はパパ活おぢだけど
たまに趣味なし、休みの日不明、好きなこと不明、やりたいこと不明、友達少なめ、リアクション薄め、アプリもゲームも漫画もアニメも映画も音楽もアイドルも服もコスメも勉強も反応なし
みたいな人が居る
話のフックがないからどうしようもなくて詰む
自分の話を適当に矢継ぎ早にしても、面白いんだか面白くないんだかよく分からん反応(というか話を理解せずに、驚くべきところで驚いてる風のリアクションをしたりする)
みたいなケースがある
これ、この人と話盛り上がれる初対面男性いるのか?っていつも疑問になる
1人で漫談するか、一般論の話するか、ゲームやアクティビティや占いに誘うか、くらい?初めましてでは厳しい
その点、隣の男性は非常に好感できた
自分のことだけ話さないし自慢もしないしダメ出しもしないし、否定せず相手を気遣ったり未来志向の話ができてた
たぶん、こういうの今回が初じゃないんだろう
去る以外に選択肢ある?
初めましてでマグロなのは誰も得しないからどうにかして欲しい、こっちがおもんない下手くそみたいになるの嫌だ
いや、ていうか会話でマグロなやつはベッドでもマグロだよねたぶん、やっぱり去るしかない
______
個人情報云々と言ってるやつ、それは違う
個人情報を出さなくても雑談はできるだろう、すきなアーティストとか、普段何してるとか、好きなことは何で何をしていきたいとか、どういう関係を築きたいとか
あと俺も自分自身の問題かと少しは思ってたけど、隣で似たようなやり取りが展開されていて「ああこれ誰でもあるんだな」と思ったという話が今回の趣旨
マチアプだろうなって人、よくカフェで隣になるけど、あんまり雑談が盛り上がってないよね
上手い人はもっと盛り上げられるのかな?ホストとかどうしてんだろ
俺は好きなこと、はまってること、得意なこと、何界隈か、悩んでること(お金の使い道)、すきなキャラクター、TikTok/Youtube、時事ネタ、下ネタ、パパ活ネタ、でデッキ組んでる
どうでもいいけど会話とセックスと社交ダンスって共同作業という点で似てるよね
片方が頑張ってもどうにもならないのと、上手くはまった時に楽しい感じ
____
>嫌いなことのほうが解像度高い説
これ薄々思ってたけど
そこを深掘っていくのって怖いんだよね
ちなみに「苦手な食べ物」あたりは話題にすることあるけど「特に・・・」と返ってくる
「スポーツとかやってた?」に対して「やってない、運動苦手」となって、「運動苦手」で展開しようとするけど2手くらいで詰むみたいなのもある
助けてさんまさん
_____
一応言うと男女逆でもあると思う、そういう増田を読んだことがある
○ご飯
朝:なし。昼:サイゼリヤでワインと色々。夜:キャベツ、にんじん、きのこ、ベーコンのスープ。冷奴。納豆。味噌。目玉焼き。リンゴ。ヨーグルト。間食:柿の種。チョコ。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすみー。
出勤するパワーがわかなかったのでお休みにした。
何をするでもなく酒飲んで寝てインターネット見てた。
いいね。
好きなキャラが強いと楽しくなる。
バトルスタジアムがなんかさも「今週のコンテンツです」顔して提供されるの、さすがになんだかなあ感がしてる。
遊びがなさすぎるというかなんというか、もうちょっとこう、なんかキャラの雑談タイムだけでも良いから味が欲しいな。
○ウマ娘
マスターズチャレンジ、有馬のレベル2を攻略して金剛カケラをもらった。
金剛カケラ回収はそれなりにモチベになってるものの、このコンテンツ難しい。
あとなんかマンスリーマッチってのも始まってるけど、こっちは対人だから全然勝てない。
書いていて思ったが「◯◯君って、これ好きだよね」とか「これ色々持ってるから」って言われて貰うことが多いが基本ハズレが多い。(ネクタイ除く)
無難系・王道系、かつ、そこまでコダワリとか好きなものじゃないほうが嬉しい。
インテリアになるものもインテリアのバランスを崩すことになるのでやめてほしい。
帰り道、乗り換えのために電車を降りたら、おじいさんがなにか助けを求める感じでなにかしゃべっているようだった。
自分はノイズキャンセリングイヤホンをしているので何を言っているかはわからなかったが、一応イヤホンを外した。
どうやらA駅まで行きたいらしい。そのためには、15分ほど乗り換えのために歩く必要がある。
夜だったし、相手は高齢だったため、道順を話しても行けないだろうと考え、乗り換え先まで送っていくことにした。
自分の向かう先もA駅だったが、駅まで送り届けたら別の車両に乗りたいと思ったのでそのことは黙っていた。
乗り換え前の駅を降りるところで、切符が見つからないようだった。
駅員さんがどこの駅から乗ってきたか聞いても、行き先のA駅と答え、怒っている。
自分もA駅が行き先であることを伝えたりと少しだけフォローをするも、ついさっきそこで会った人なのでほぼ何もわからない。
自分がそこであって道案内するつもりであることを伝えたので、駅員さんは配慮してくれたようで、改札は出られた。
駅員さんとまともなやり取りを構築できていなかったのをみて、危ない人かもとすこし警戒することにした。
それでも弱ったおじいさんだ。荷物を持ち、傘をおじいさんにさし、腕に捕まらせながら、駅まで歩いた。
なんとなく雑談みたいなことをしながら、特に問題も起きなかった。
ここで自分は帰るつもりだったが、先程の駅員さんとのやり取りを見ていたので、一人で乗せると切符を無くすだろうと予想した。
案の定、切符を買うことも時間がかかりそうだったので、切符代はこちらが持ち、切符を渡す。
改札を入ったあとに、切符を預かった。しかし、同じ駅まで付き合うのだから、自分の行き先が同じ駅であることを伝える。
すると気分が悪いと怒られた。わざわざ遠回りして手助けしてくれる人と思っていたら、帰り道のついでに手助けしている人だったのだから、まぁそうだろう。
謝罪をしつつ、自分は性格も悪いし性根も腐っているから、隠してたと話した。自分の行き先を伝えないことで途中で離脱しようと思っていたのだから、自分の都合で相手とって都合の悪いことをしたし、それをやりきれなかったのだから仕方がない。
おじいさんが不快感を伝えたあと、自分は不快なら去ると伝えるが、カッとなっただけでもう怒りは収まったようだった。
そのあとは無事最寄り駅まで送り届けた。
途中、おじいさんの家で飲もうと何度も誘われたが、断った。
それでも別れ際は何度もお礼を言ってくれた。おじいさんにとって、そこまで悪いことではなかったようだ。
自分はなぜ、こんなことをしたのだろうかと考えた。
人助けのいいところは、人助けをしなかった罪悪感を持たずにすむことかもなぁと思った。
人助けしたからってあまり気分になるわけでもないし、より面倒なことに巻き込まれていってもおかしくない。
見ず知らずの人を助けるのが倫理的に正しいのだとしたら、倫理は都合のいい人を作りたいだけの倫理的ではないものに思えてくる。
年配の方を助けることはあまりないので、案内する側は事前に道順を想定していないと安全な道を通れないとか、つかまりやすいように腕を出してあげることが大切だとか、意外と捕まる力は強かったなとか、日常ではできない経験だった。
自分にとってプラスのことかどうかで考えたらスルーしたほうがいいようなことだったが、繰り返しの日常の中に非日常のフラグが立ったことが一番大きな価値かもしれない。そしてそれは、なくても構わないものだった。あったらあったで面白がれればいい。
私が子どもの時分から抱いている概念・感覚のようなものなのですが、名前があれば知りたいです。
申告な悩みではなくただの雑談の主旨で、こういう感覚ある人いるかな?みたいな感じです。
日常生活を送っている中で以下のイメージを抱くことがあります。
・視界にHPバーや文字、数値などのHUDのような表示が浮かぶことがあります。
常に出るものではなく、変動があったときや思い起こしたときにふいに現れます。
・痛い思いをするとHPゲージが減る、長時間仕事するとMPゲージが減る、
飛んだり走ったりするとスタミナゲージが一時的に減る。睡眠や風呂や、食事や排泄などで回復する
・電車の時間を調べて駅に向かうときなどに視界の上のほうにカウントダウンタイマーが現れる
・対話者が回答を考えているとき、「思考中」「入力中」のような表示が現れる
・外出中にカバンに入っているものなどの持っているものがリスト化される
・自宅の家具の間や街路樹の隙間など、狭いところに挟まるとスタックして動けなくなるかもしれないと考える
いつも必ず明確に現れるわけではなく、ぼんやりとゲームだったらそうなるよなーと考えた結果でイメージが固まる場合もあります。
なんの根拠もなく、誰しも少なからず持っている感覚なんだろうな、と長く思っておりましたが、
ゲームやアニメは人並みに好きだと思いますが、何時間も夢中になるほどハマった経験はありません。
「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」の元ネタ探求をしましょうね
いくつかバリエーションがある
「無人島に[本]をn個だけ持っていくなら?」
……のような
[本]の場合に「聖書」という回答が西洋でメジャーなことから、元ネタは日本以外なのだろうとあたりをつける
調査の初手はとりあえずこれ
Desert Island Discs - Wikipedia
Desert Island Discs is a radio programme broadcast on BBC Radio 4. It was first broadcast on the BBC Forces Programme on 29 January 1942.[1]
Each week a guest, called a "castaway" during the programme, is asked to choose eight audio recordings (usually, but not always, music), a book and a luxury item that they would take if they were to be cast away on a desert island, whilst discussing their life and the reasons for their choices.
Desert Island Discs は、BBC Radio 4 で放送されているラジオ番組です。1942 年 1 月 29 日に BBC Force Program で初めて放送されました。
番組中「漂流者」と呼ばれるゲストは毎週、8 つの音声録音 (通常は音楽ですが、常にそうとは限りません)、本、そして船で漂流された場合に持っていく贅沢品を 1 つ選ぶよう求められます。 無人島での生活とその選択の理由について話し合います。
このラジオ番組の存在から1942年時点で「あるあるネタ」であることは確認できる
アメリカの一コマ漫画で「無人島もの」というジャンルが存在する……が、それが特に流行ったのはだいたい19世紀初頭頃の出来事なので"Desert Island Discs"とそう時代は変わらない
普通に考えれば『ロビンソン・クルーソー』以降なのよ
『ロビンソン・クルーソー』は1719年4月25日に出版された
これが売れて多くの人に読まれたからこそ"Robinsonade"というジャンルまで生まれた
Robinsonade (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) is a literary genre of fiction wherein the protagonist is suddenly separated from civilization, usually by being shipwrecked or marooned on a secluded and uninhabited island, and must improvise the means of their survival from the limited resources at hand. The genre takes its name from the 1719 novel Robinson Crusoe by Daniel Defoe. The success of this novel spawned so many imitations that its name was used to define a genre, which is sometimes described simply as a "desert island story"[1] or a "castaway narrative".[2]
ロビンソナード (/ˌrɒbɪnsəˈneɪd/) は、主人公が突然文明から切り離され、通常は難破するか人里離れた無人島に置き去りにされ、手元にある限られた資源から生き残るための手段を即興で考えなければならないフィクションの文学ジャンルです。 このジャンルの名前は、ダニエル・デフォーによる 1719 年の小説『ロビンソン クルーソー』に由来しています。 この小説の成功により、非常に多くの模倣作品が生み出されたため、その名前はジャンルを定義するために使用され、単に「無人島の物語」[1] または「漂流者の物語」[2] と表現されることもあります。
ということは、探すなら18世紀か……
一応シェイクスピアの『テンペスト』も孤島が舞台になる物語だけど……
1611年頃
一応英wikipediaの"Uninhabited island"の"In literature and popular culture"の項にはもっと古い作品について言及がある
Uninhabited island - Wikipedia
The first known novels to be set on a desert island were Hayy ibn Yaqdhan written by Ibn Tufail (1105–1185), followed by Theologus Autodidactus written by Ibn al-Nafis (1213–1288). The protagonists in both (Hayy in Hayy ibn Yaqdhan and Kamil in Theologus Autodidactus) are feral children living in seclusion on a deserted island, until they eventually come in contact with castaways from the outside world who are stranded on the island. The story of Theologus Autodidactus, however, extends beyond the deserted island setting when the castaways take Kamil back to civilization with them.[8]
無人島を舞台にした最初の小説は、イブン・トゥファイル (1105-1185) が書いた『ハイイ・ブン・ヤクダン』で、次にイブン・アル・ナフィス (1213-1288) が書いた『テオログス・アウトディダクトゥス』が続いた。 両方の主人公(『ハイイ・ブン・ヤクダン』のヘイイと『テオログス・アウトディダクトゥス』のカミル)は、無人島で人里離れて暮らす野生の子供たちだが、最終的には島に取り残された外の世界からの漂流者たちと接触することになる。 しかし、テオログス・アウトディダクトゥスの物語は、漂流者たちがカミルを文明に連れ戻す無人島の設定を超えて広がります。 [8]
こういうmeme的というか、とりとめのない雑談のあるあるネタがいつから存在するかって探すの超大変だ
残念ながら"Desert Island Discs"の1942年以前ではっきりと「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見できなかった
https://x.com/Circle_Halberd/status/1762628685679464845?s=20
……という嘘豆知識
正直フフッと笑ったが、それはそれとして本当の元ネタが気になるのじゃわしは
英wikipediaの"Uninhabited island"の以下の記述
The term "desert island" is also commonly used figuratively to refer to objects or behavior in conditions of social isolation and limited material means. Behavior on a desert island is a common thought experiment, for example, "desert island morality".[3]
「無人島」という用語は、社会的に孤立し、物質的手段が限られている状況での物体や行動を比喩的に指すのにもよく使われます。 無人島での行動は、たとえば「無人島の道徳」などの一般的な思考実験です。
これの出典がOEDになっている
ひょっとしたらOEDに私の欲しい情報があるかもしれないが、OEDをすぐさま読める環境にないな……
人々が「無人島にもし漂着したなら?」というIFを雑談ネタとして共有できるということは大航海時代以降……"Robinsonade"というジャンルが一般に認知されている環境……であるはず
へたすりゃギリシャ神話の時代までさかのぼることが出来るネタかもしれん
『オデュッセイア』とか……アルゴー船の冒険の話とか……船旅のエピソードがあるので、無人島に関するなんらかのミームの源流がそこにあっても驚かない
そうなったら手に負えん
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改めてこれを参考に探し直すか……元気な時に
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
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19世紀後半〜20世紀前半ごろがこの問答が定番になった時期である、という可能性を探りましょうね
近代的なレジャーとしてのキャンプとか、ボーイスカウトとか……サバイバルスキルの知識が一般に広まったのがおそらくこの時期
その知識がないと無人島何持ってく問答は発展定着しにくいかもしれない
いやーでも聖書って回答が多いって話があるならサバイバルスキルの知識関係なさそうに見える……
→初期の定番問答は本を問う形式だった可能性もある、なんともいえん
サバイバルガイド的な本が19世紀に刊行されてないかを調べてみるか
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"Desert Island Discs"の1942年以前で「もし無人島にひとつだけ持ってくなら」のようなmemeの記述を発見
無人島に本を一冊だけ持ってゆくとすれば: ケペル先生のブログ
このことを最初に明言した人はだれだろう。明治期にドイツ系ロシア人の哲学者で東大で教鞭をとり、学生の人気を集めたラファエル・フォン・ケーベル(画像1848-1923)らしい。彼は「ケーベル博士随筆集」のなかで「無人島に1年間流されるとしたら、自分が選んでもってゆく一冊は、まず聖書である」と述べている。かれは次に、「ファウスト」「ホメロス」「ドン・キホーテ」、ニーチェのもの、ベートーベンの楽譜などをもって行きたいと書いている。しかし有名なデフォーの「ロビンソン・クルーソー」(1719)のなかで絶海の孤島に流れついた主人公が「聖書」を読んで信仰の支えにしたことを書いている。
発言時期が不明だが、この方は1923没なので"Desert Island Discs"よりおそらく古い
『ケーベル博士随筆集』という本に記載があるらしいが……図書館に行かないと読めない類の本だな
しかしやはり『ロビンソン・クルーソー』が念頭にある発言か……
さて、さらにこれ以前に遡れるだろうか?
ケーベル博士がロシア出身で日本にやってきた人で、"Desert Island Discs"はイギリスのラジオ番組
20世紀初頭には世界中で認知されている定番ネタということじゃないか
本があるならいくらでも読むが、どの本を読めばいいかのあたりをつけるのが難しい
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ゲーテが『私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。』という言葉を残しているらしい
この発言の出典元文書がちょっとすぐには見つけられていないのだが
偉人の名言は「実は言っていない」ってことが往々にしてあるから疑ってかかるスタイル
ゲーテの生没年は1749~1832
無人島に持ち込むものは何問答と直接の関係はないかもしれないが、一種のクローズド環境に何を持ち込む?という発想はこの時代からあったということ
Robinsonadeの流行で便利なクローズド環境として無人島が一般に認知された?
元々「閉鎖環境に一冊本を持ち込むなら」という発想が存在した(その一冊とはたいてい聖書、なんというか最初から聖書という答えありきの仮定に見える気がする) ↓ Robinsonadeの流行で閉鎖環境として無人島が定着した ↓ メディアの発展で本以外(レコードなど)も問われるようになった ↓ さらに時代が下り、持ち込めるものはジャンル無制限になった
みたいな流れという仮説を立てれそうだが……
まあまあ、結論を急ぐことはない
教養がどうの、古典がどうのと話題になっているけど、正直教養を身に着けて役立つかどうかなんてなんの役にも立たない。それが勘違いの原因。
教養の本質は「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」ってことだぞ。
つまり前提となる知識をどれぐらい共有してるかを判定する装置だ。
例えば雑談の中で「お前それwwwこち亀の『どれもおなじじゃないですか』みたいなヤツだよwww」っていって相手に伝われば「あぁ、コイツはこち亀かネットミームに最低限は強いんだな」って判定できるからそっち方向の語彙をつかったりネタを振ったりできる。
分からなければそういう話は使えないなってなる。
そういうものの判定装置なわけ。だから漫画でも古典でもアニメでも教養があると言っていい。
ただし、いわゆる『教養』ってのは戦前の高等学校由来の「教養主義」に基づくものだから話がややこしいわけ。
こいつらはエリートだったからやたらと古典や外国文学に詳しかった。だからそういうのに精通しているのが「教養」だと誤認された。
でも本質はさっき言った通り「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」だから、高等学校のエリートガキの間限定の教養が古典や外国文学だったわけ。
一方でいろんな人とコミュニケーションをとってみたかったら広く文化や学問を齧っておいた方がいい。それが結局「教養」になるだろう。
期間工はゴールだからな、その前に派遣で工場を1~2カ所経験しときたいねんな
ちなWワーク4カ月(定刻に起きてどっかに通い続けることに慣れる)→派遣工6ヶ月~1年(交代制と工場勤務に慣れる、交代制が厳しいようなら考え直す)→期間工を50歳ぐらいまで→施設警備員みたいな感じで考えてるやで、免許は有るけど運転できないんで正規雇用の可能性は一切考えてない、それに
・挨拶等はできるが雑談ができず人間関係を構築および維持できない
・超内向的
・相談できる人の確保
このへん解決できないと正規雇用も糞もないし期間工に行ってもたぶんメンタル的に潰れる