はてなキーワード: タカラジェンヌとは
各記事のリンク張りたかったけど増田仕様?9個までしか張れない模様
祝 書籍化
※2020年上半期、cakesでもっとも読まれた記事 15位
いや、どうすればいい?
いや、もう、ほんと、どうすればいい?
花男は10年くらい前に読んだ。面白かったけど内容は忘れ気味。登場人物はわかる。
6/29(土)、ライブビューイングにて宝塚歌劇団花組「花より男子」を観覧した。
そもそもの発端は6/26(水)、友人の誘いで同じく宝塚歌劇団花組「恋するARENA」をこれもライビュで見たことに始まる。
横浜の名曲にノリ、パロディに笑い、楽しくライブを見ていた私は、中盤に差し掛かった頃登場したある人物を見て衝撃を受けた。
え、このイケメン、誰?
そう。その人物こそが、現在「花より男子」で主演を務める柚香光さんだった。
「花より男子」の休演日に特別出演しにきたという彼(彼女か……)は、トップスターの明日海りおさんと軽妙なトークを繰り広げ、チームを引き連れ躍動する。
黒髪の映える華やかな顔立ち、様になって響く気障な台詞、キレッキレのダンス、キラキラの笑顔、跳ね回るような軽快な動き。
なんだ、この人は、と思った。
ぶっちゃけると、黒髪の柚香光さんのルックスがツボすぎた。この魅力的な人をもっと見てみたいと思った。できれば黒髪のうちに。
何と言っても彼女はタカラジェンヌ。多分この機を逃したら、また役に合わせて金髪に染めたり茶髪に染めたりするだろう。勿論彼女はどんな髪の色でも素敵だろうが、でも黒髪の彼女がめちゃくちゃかっこいいと思った、それも事実。
だったらどうする。
今見に行くしかない!
当日券に並ぼうにもトライできるのは土日のみ、そもそも観劇初心者にいきなり当券並びは厳しい。
諦めかけていたところ、6/29(土)にライブビューイングが行われるという情報が入ってきた。
そ れ だ!!!!!
即座にライビュのチケットを購入。ぼっちが三度の飯より得意なので一人で映画館へGo。上映が始まると、
いや、あのね、
すごいイケメンがいた。(語彙)
幕が開くと、イケメンだった。
学園ハンサムにしかねえと思っていた事態が現実に起きている。脳が混乱する。というより今でも混乱している。なんなの、あれ?
柚香光さん演じる道明寺司、のっけからパンピが着たら服に着られすぎて溶けそうなバチ強い服(語彙)を着こなして現れる。
強力な服が似合いすぎる。やっぱり思った通り黒髪が映えすぎる。顔がよすぎる。顔が小さすぎる。背が高くて足が長すぎる。手が大きくて綺麗。何?
もう、一目見た時点で大混乱である。
だが勿論、この混乱は序章にすぎない。
F4のリーダー。超大金持ち、超イケメン。気に入らない生徒をいじめては学校から追い出して遊んでいる。改めて書き出してみると酷いな。
この設定の通り道明寺くん、最初はやることなすこと酷い。しかし爆発的にいいルックスと、気障な悪役じみた演技のかっこよさで受け入れられてしまう。見かけと演技の案配の勝利だと思う。
そして彼は徐々に自分の思うようにならないつくしちゃんに心惹かれていき、一幕のかなり早い段階で、恋に不器用な青年が現れる。
このさ!!!!!!!つくしちゃんに恋をしてからの道明寺司がさ!!!!!!!!!!!死ぬほどいいんだなあ~~~~~~!!!!!!!!!
恋した道明寺司は、等身大の男の子だ。バカで、不器用で、意地っ張りで素直じゃなくて、俺様でわがままで、でも一途に深くつくしちゃんを愛している。
その全ての感情が、柚香光のひとつひとつの立ち振舞いからガンッガンに伝わってきた。
つくしちゃんの一挙動一倒足に一喜一憂してみせる、表情の移り変わり、小さな挙動、台詞。的外れなことではしゃいだり強がったりして、F4のみんなに宥められる絡み。要所でマシンガンのように放たれる女心殺しのキラーワード。なにより、つくしちゃんを「こんなに愛しい女がいるものか」とでも語りたげな眼で見つめる、その視線と、蕩けそうな笑顔。
恋を知った男の人の、カッコ悪さやダサさも含めた魅力、全部載せ。私は柚香光の作った道明寺司を、そういう風に受け取った。
あんなに、あんなに、ルックスがかっこいい人が。その演技・歌・ダンススキルを存分に用いて、男の人の魅力全部載せを全力で見せてくれる。こんな凄まじい興業がこの世に存在するのか? 私はこれを見ていいのか? マジで? 見せられているものの余りの素敵さに、私は本気でパニック寸前になった。
途中で道明寺の余りの魅力的さに、涙が出てきた。更に途中からは萌えがオーバーヒートし、最早訳がわからなくなった。
もう一幕前半時点くらいで、前菜とスープが美味しすぎて既に満足してしまったフルコースのような感じだった。まだ!!! まだメインもデザートもある!!! 美味しい!!! 美味しい!!!(混乱)
一幕ラストのキラーワードの連続(それまでの演技の積み重ねがあるから、殺し文句の破壊力がヤバイ)、二幕のこっちまで胸が痛くなるシリアスな演技、それが解決してからはまたフル回転で恋するソワソワ男子、……
万華鏡のような柚香光=道明寺司の魅力を堪能し、フィナーレの頃には「もう助けて!!! これ以上ときめかせないで!!! 死んじゃう!!!」状態になり。
フィナーレの柚香光さんのキレッキレのダンスと、デュエダンでの愛おしいものを見る蕩けそうな笑みに止めを刺され。
上映が終了した頃には、無事アラサーオタクの抜け殻が完成していた次第である。
あらゆるオタ友に「死んだ」「助けてくれ」「息してない」とLINEを送りまくり、語りまくり、それでも整理がつかずにこの記事を書いている。
花より男子の原作は面白く読んでいたが、あまり魅力的だとは感じなかった(私は西門さん派)道明寺に、見事に恋をさせられてしまった。
同じ作品を目撃しているはずなのに、原作を読んでいたときと、全く違う世界が見えた。舞台演劇って、宝塚って、すごい。
そして、「チケット一枚じゃ足りない」ってこういうことか! と実感している。足りるか!!!!!!!!!!! あんなすごいものを見せられて一度で理解できるか!!!!!!!!!!!
既にもう一回見たい。だがもう無理だし、おとなしく円盤発売を待つことにする。次からは、もっと真面目にチケット戦争に参戦するんだ……
まとめる。
柚香光の作り上げた道明寺司という、あんまりにも凄まじいものを見せられてしまった。
早くもう一度見返したい。また死ぬことになるとしても。
そして、柚香光さんご自身についても、これから演じられる役を注目して見ていきたい。あれだけのものを作られる役者さんだ。また素敵なものを見せてくださるに違いない。あとお顔がとても素敵です。
他の演者の皆様も本当に素敵だったけど、如何せん道明寺に殺されすぎてライフがゼロなのでちょっとまだ言語化ができない。許して。いつかどこかでやる。まだ人の形っぽいゾンビくらいまでしか回復できてないんや……
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
大好きだったタカラジェンヌさんが退団されて、そのファンクラブの解散式に行ってきた。
芸能事務所にも所属が決まって、恐らく東京メインで今後は活動されていくのだろう。
遠征は出来ない身の上なので、彼女の活躍を間近で見ることが出来ないことは残念ではあるが、覚悟していたことなのでそれほどダメージはない。
退団してから久しぶりに会う元贔屓の姿に、私は一体何を想うのだろうと戦々恐々としていたのだけれど、案外あっさりとしていて、ただ楽しかったという想いしかなかったのが意外ではあった。
もっと、会えたことに感極まるとか、タカラジェンヌでなくなってしまった彼女に対して絶望するとか、変化に戸惑ってロスに苦しむとか、そういうことを想像していた。
でも違った。
久しぶりに会った彼女は在団中とあまり変わっていなくて、そうそう数カ月で激変するわけもないなと冷静に思った。
着る物が女性らしくなっても、中身は同じだし、髪もそんなに伸びてない。
ただ綺麗に彩られた爪が、一際存在感を放っていて、なるほど元男役が退団後にすることと言えばまずはネイルというのは都市伝説じゃないなってことを確認した。
在団中の思い出を語るというよりも、これからの展望を語るという面が大きくて、未来が楽しみになった。
そして久しぶりに会ったファンの仲間たち。
奇譚のない意見を交換し、いろんな屈託をぶちまけ合えたことが、一番楽しかった。
同じ人を好きだったはずなのに、見える景色はこんなにも違うんだなぁって発見もあった。
私の好きだったタカラジェンヌの、卒業後の仕事がまた一つ発表された。
在団中に彼女が行ったディナーショーでは、彼女以外にも下級生が何人か出演していて、公演時間も一時間ほどだった。
それが今回は彼女一人で一時間半。お値段も在団中のものの約半額。
非常にコスパがいい。
キャパは小さいけど、恐らくちゃんと埋まるんだろう。埋まって欲しい。
私は行かない。行けない。
関東出身の彼女の退団後の活動拠点が、東京がメインになることは退団前から想像に難くなく、それは寂しい事だけどしょうがないことだなあと覚悟はしていた。
それよりも、タカラジェンヌである彼女を見続けることがしんどくなっていたから、そういう事実も甘んじて受け止めようと思っていた。
望むところだ。
ところが、実際そう発表されると、途端に心が冷えたのだった。
あんなに望んだ彼女の退団なのに、退団後の活躍が楽しみだって嘯いていたのに、それなのにこのザマだ。
情けない。
どうしようか。
懐かしい仲間達と会って、ちゃんと笑えるだろうか。
ご贔屓(他ジャンルで言うところの推し)の私設ファンクラブに入り、入り待ちに行き、公演を観て、出待ちに行く。
でも、特定の贔屓を持つヅカオタは、だいたい同じくらい観ていると思う。
夢だ。煌びやかなイルミネーションや、ディズニーのパレードを見ている時と同じ気持ちだと思ってほしい。現実を忘れて、ただうっとりする時間。
なのに終演後、幸せな気持ちで1人帰路につくとき、無性に虚しくなる瞬間がある。
彼女たちは美しい。
美しいだけでめちゃめちゃ偉いのに、加えて努力している。
これは応援する側のスタンスの話でもあるが、宝塚というのはアイドル的要素もあって、舞台自体は完璧じゃないことも多い。
入団1、2年目のド新人が抜擢されて、大きな役を演じることも多々ある。なんだこいつは!?とズッコケることもある。
それも含めて宝塚。我々は完璧な舞台を求めているわけではなく、成長していく彼女たちを観に行っている。私たちが応援して支えるんだ!というファン心理を上手くついたビジネスである。実際、入り出待ちに数人しかいないような日は、私が支えているんだという気持ちになってくる。
夢を追って、もしくは夢を叶えてキラキラしている。常に上を目指して努力している。大勢のお客に作り上げたものを披露し、大きな拍手を貰っている。
勿論、表に見せない様々な悩みや困難はあるだろう。でもその困難に向かって頑張っていること自体が、私にはひどく眩しい。彼女達はいろんな経験をして、ひとつひとつ積み上げて、成長していく。
私には何もない。
私のような虫けらがフェアリーと肩を並べようなどと考えたことはないが、ときどき無性にそう思う。
宝塚が私にくれるのはひとときの夢であって、私の人生ではない。
でもそこまでの情熱が、どうしても持てない。なぜか。1番やりたいことではないからだ。
私にもかつて夢があったが、20歳そこそこで無理だと気がついた。このまま続けても、恐らくバイト暮らしの夢追い人になる。夢を叶えるには才能が必要で、どう足掻こうと無いものは無い。それを得るだけの果てしない努力も、人生を投げ打ってまでやり切れる自信がなかった。
私は全てを諦めた。
そして就職した。
ここで宝塚とは縁もゆかりもない、むしろ一番かけ離れた漫画の話をぶっ込みたい。
「最強伝説黒沢」という漫画をご存知だろうか。かの有名なギャンブル漫画「カイジ」の作者、福本先生の漫画である。
中年の冴えない土木作業員の日常を、独特の台詞回しで哀愁たっぷりに描いた名作だ。
だいぶ前に読んだきりだったが、第1話の冒頭に忘れられない台詞があったので、調べ直した。
主人公・黒沢が、仲間たちとテレビでサッカーW杯の中継を見ている場面。黒沢は日本の勝利に歓喜し涙するが、一方で彼のモノローグは以下である。
「感動などないっ…!
オレが求めているのは……
オレの鼓動… オレの歓喜 オレの咆哮
オレのオレによるオレだけの……感動だったはずだ…!
どんなに大がかりでも、あれは他人事だ…!
いつまで続けるつもりなんだ…?こんな事を…!」
今になって、あぁこれだなぁ、と思った。
私の感動ではない。
証拠に、近い将来贔屓が退団した時に、私の手元には何が残るだろうか。
ところで、宝塚歌劇団に入るには、宝塚音楽学校を卒業しなければならない。
そこで振るい落とされた女の子は、今何をしているんだろう?
新しい夢を見つけられただろうか。
黒沢はどうしたんだったっけ?
みんなのお弁当にアジフライを詰めて、モコッとさせていたことは覚えている。
私も、私だけの感動があればいいのに。
ドチクショウ。
浜田の黒塗りの件で、もしかして私は差別容認派なのだろうかと自分を信じられなくなっている。
番組自体は見てなくてニュースサイトで今回の騒動を知った。「一個人に扮した仮装でしょ?別にいいやん」が最初に思ったことだった。ミラクルひかるが宇多田ヒカルに、前田健が松浦亜弥に、コロッケが美川憲一に扮するのと同じように「浜田雅和のエディ・マーフィーのものまね」としてそれを受け入れた。
なんで叩かれてるの?と思ったらどうやら世間は「浜田雅功の黒人のモノマネ」としてあの姿を受け入れたらしかった。
今回の騒動に関連した宝塚についてのエントリが上がっててそれを読んだときも思ったけど、タカラジェンヌの人たちは舞台の上で顔を白く塗っている。もともと舞台化粧は派手にしてなんぼなところがあるんだろうけど、「演じる役柄が白人だから」というのも白塗りの理由の一つだと思う。でもそれが叩かれてるのは見たことがない。なぜならタカラジェンヌの人たちはその劇の中で演じる一個人・一役柄として観客に受け入れられているからだ。「日本人が白人の真似をして白塗りしている」とは捉えられない。
ドナルドトランプでもマリリンマンソンでもウディアレンでも誰でもいいけど、もしあのとき浜田が白人有名人の仮装をして白塗りしていたとしたら、ここまで叩かれていたのかな。もしもの話だから実際のところは分からないけど、多分そうはならなかったと思う。今まで数多く放送されたお笑い・モノマネ番組の中で、白人有名人の扮装をした人たちはたくさんいただろうけどここまで叩かれたことはなかったからだ。
もちろん「白人の真似をして付け鼻をするのは差別!」という批判の声があるのは知ってるしそういうデフォルメは糾弾されるべきと思う。「肌の色で人間をカテゴライズしてデフォルメ化するな」というのは分かる。分かるんだけど、今回の件はそれとは違うと思うのだ。一個人に扮してその人の肌の色を真似ることが駄目なら、個人の特徴をクローズアップしてそれをエンタメとする「モノマネ」というもの自体全てアウトなのではないか。
黒塗りにだけ反応して黒人差別を叫ぶ「あの子はかわいそうな子だから触れないであげて!」みたいな腫れ物扱いって、逆差別ではないのか。黒人の肌の色は悪いものでもなんでもなく個人の身体的特徴だ。身体的特徴を揶揄するのは悪い。それは分かる。あれ、じゃあ今回の件もやっぱり浜田が悪いのかな。でもあれって「揶揄するために」黒塗りにしたのかな。じゃあモノマネ自体が個人を揶揄する行為なの?じゃあモノマネは全部よくないの?とかなんかよく分からなくなってきて自分は差別的な人間なのかとか感覚が偏っているのかとか色々考えて自己不信になっている。
元増田だけど、黒塗りメイクを研究しました!っていうタカラジェンヌの話はちらほら聞くのでそんないい加減な気持ちでやってるのではないと思いたい。宝塚において化粧っていうのは歌やダンスや芝居と並んで研鑽すべき技術だから。
が、そのこだわりっていうのもまた問題で、黒人やラテン系のリアリティーの追及のみならず「男役としてカッコいいか」っていう点も重視されるのがどうなんだろうと思う。
別に黒塗りが無くなったって困らないでしょ、とのブコメをちらほら見るが私は…私は…どうしたらいいのだろうか。
お芝居の中で黒人役がある場合、タカラジェンヌはドーランで肌を黒く塗り黒人に扮する。代表的なのは『風と共に去りぬ』のマミー役だ。宝塚において『風と共に去りぬ』というのは『ベルサイユのばら』と並ぶ古典演目で、何度も何度も再演されてきた大切な作品だ。しかし、いくら名作であっても今現在のポリコレ基準で考えるとアウトになるんだろう。
つい最近も、花形スターが黒人役をやる演目があった。「うちの黒塗りは笑いにしてるんじゃなくてカッコイイと思ってやってるんだからいいんです」という理屈は通じるのだろうか?それって傲慢じゃないのか。
これが他所の劇団ならば、黒人の役者を引っ張ってくればよいのだろうが、ご存じの通り宝塚は大半が若い女性たちで構成される劇団である。そうした役者の制約のあるの中で国籍を問わず老若男女を演じなければいけない難しさはどう解決したらよいのだろう。
宝塚の黒塗り文化は芝居だけではない。ショーにもある。いわゆる「黒塗りショー」と呼ばれるジャンル。私としてはむしろこっちの方を心配している。黒塗りって差別的だよねっていうことを何となく理解してもなお、率直な気持ちとして宝塚から「黒塗りショー」が無くなったら心から悲しい。
ショーにおける黒塗りというのは、黒人というより褐色の肌をしたラテン系のイメージである。こちらの代表は『ノバ・ボサ・ノバ』。これも歴代のトップスターたちが演じてきた名作。私の大好きな作品だ。燕尾服やスーツでビシッとスタイリッシュに決めた男役もカッコいいが、裸足でオラオラとサンバを踊る男役のカッコよさも捨てがたい。
宝塚のお芝居はヨーロッパの歴史物が題材になることが多いので(特にフランス革命の酷使っぷりはすごい)、黒人役っていうのはそもそもかなり少ないのだが、「黒塗りショー」はジャンルとして確立されているので定期的に新作が生み出される。もしかしてこれってすごく危うい状況なのだろうか…。
宝塚はずっと昔から定期的に海外公演を行っており、今年も台湾公演が計画されている。劇場でもちらほらと外国人と思しきお客さんを見かけることもある。だから、日本の感性だけでいいっていう開き直りもなかなか厳しいよなって色々考えては鬱になってる。
細ーく、長ーく、ゆるーく、ヅカオタをやってる者だけど、昨今のニュースを見てジャニオタって大変そうだなと思ったことをつらつら書いていく。ジャニーズは全くの専門外なので、的外れなこともあるかもだけど大目に見てくれ。
・結婚という試練
宝塚は未婚の女性で構成される集団なので、贔屓(ジャニーズ界隈だと"推し"って言うのかな?)が結婚するという地獄を見ることがない。結婚する人は宝塚を退団しなければならない。これは絶対の掟だ。
しかし、AKBのように恋愛禁止といった規則はないので、お付き合いする自由はある。美しきタカラジェンヌたちに、彼氏がいたって何の不思議もないがバレることはほぼない。何せ、宝塚はニッチな世界だから、人気のジャニーズタレントのようにパパラッチに追いかけ回されて「交際発覚!!!」なんていうスクープとは無縁だ。
・目標が明確
宝塚の世界観はすごくシンプルだ。タカラジェンヌはトップスターという頂点を目指し、ファンはそれを応援する。目標が単純明確であるが故に、スターとファンの方向性が一致しやすい。AKBだと、総選挙の1位になるというのがこれに当たるのかな。
贔屓が三番手スターになり、二番手スターになり、だんだんと段階を経て、最後にトップスターとしてでっかいでっかい羽根を背負った姿を見た日にはファンは感涙にむせぶ。分かりやすいカタルシスである。
ジャニーズにもそういった目標ってあるのだろうか?でっかいドームでコンサートをするとか、ドラマや映画の主演とかになるのかなぁ。個人の仕事が上手くいっても、グループが活動休止や解散になってしまったら辛いだろうし、その辺のバランスが難しそう。
・終わりが明確
色々書いたけど、これが一番かな。宝塚にはご存じの通り(?)、「卒業」というシステムがある。ごく一部の例外を除き、全てのタカラジェンヌたちはいつか宝塚を旅立つ。贔屓の卒業という全てのヅカオタに訪れるXデー。全てはこの日のためにあったのだと言っていい、オタ活動の最高潮。夢に終わりが来るのは辛いが、終わりがあるからこそ熱狂できるというか。
そうした終わりがないジャニーズって大変だ。ずっと好きで居続けるってとても難しいことだ。
さて、ここまでジャニオタの大変そう(に見える)なことを書いてきたが、最後に、他の界隈のオタでは体験しないであろうヅカオタならではの地獄を挙げてみよう。
宝塚を卒業された男役さんの女性姿に戻るのを受け入れられないっていうのはヅカオタの間では珍しくない話ではあるが、スターさんは卒業が決まると、たーーーっぷりと最後の花道が用意され、ファンは精根(と金が)尽き果て成仏しやすい環境にはなっている。
しかし在団中に男役から娘役に転向した場合、そうしたフォローが一切ないのが恐ろしい。何の前触れもなくある日、突然「○○○○は娘役に転向いたしますので、お知らせいたします」などというニュースが公式サイトにぶっこまれるのである。え、ちょっと待ってあれが○○さんの最後の男役姿だったの!?なんて嘆いても時は既に遅し。次の公演から、あのカッコよかった男役さんは髪をのばしスカートを履き、男役さんをうっとりと見つめる娘役さんになるのである。
まぁ、娘役への転向ってファンもそれ程ついていない下級生時代の場合がほとんどで、男役として長年確立している人が娘役にっていうのはあんまりないんだが。でもそうなった時の衝撃ってすごい。応援してるアイドルの性別が変わるってやばい(いや、宝塚は全員女性だけれども)。
妻(母親)が夫(父親)に「もう娘との入浴はやめて」と言うのは勇気が必要だろうと想像する。
『俺が娘を性的な目で見てるって言うのか』『性虐待予備軍扱いか』
とか言われたら、
みたいなことを言って説得することになるのかもしれない。
なので半ば強制力をもった社会通念として、一人で入浴できるある一定以上の年齢になったら親子であっても
裸を見る/見せるべきでなく一緒に入浴する場合は水着を着るべきとなってほしいと思う。
もし性虐待が発生したとき、子供が自身に行われていることがどういうことか、虐待だと気がつくまでに時間がかかる可能性があること。
自分が虐待されているということが解っても、「やめて」と言えるか。
周囲に自分がされていることを話し、「助けて」と言えるか。
そう考えると、性虐待が起こり難いようより予防的に、社会が気を配ってくれないかと考えてしまう。
"誰々にこういう~~ことをされた"より、"誰々が水着を着ないで一緒に入浴をする"
といった風に、より事前に性虐待の発生を抑止でき、子供が周囲に話しやすいところで一線を引いて欲しい。
他のアイドル界隈がどうなっているのか私はしらない。
そしてこれから書くことはシステムの話ではなくて、感想文にすぎない。システムについて興味が出た人はグーグルに尋ねるかお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
タカラジェンヌが公演や、公演のためのお稽古に向かう時に所定の場所で待ち、やってきたタカラジェンヌにお手紙を渡す。
公演は細かいことを全部外してしまえば大きく分けて、宝塚大劇場(以下ムラ)と東京宝塚劇場(以下東宝)で行う。ムラでは公演のお稽古も行われておりそれは「お稽古待ち」という。ファンは公演を観る予定もないのにこの「お稽古待ち」の為にムラまで通う。片道1時間以上かかるファンなんて、たくさんいる。それでも、タカラジェンヌと会う一瞬の為に平気で通う。たまに自分で何やってるんだろうと虚しくなるけれど、虚しくなったら負けである。
東宝は所定の場所に並びお手紙を受け取ったらタカラジェンヌにそのまま「いってらっしゃーい」とお見送りする。タカラジェンヌが通るたびにしゃがむ大量の女性たち(時たま男性)はいつみても壮観である。
ムラだと所定の場所でお手紙を受け取ったタカラジェンヌは楽屋口までそのファンを引き連れてやってくる。そして、楽屋口で「いってらっしゃーい」とお見送りをする。大量のファンを引き連れて楽屋口まで歩いてくる男役スターをみると「うをぉぉぉ!!スター様が歩いてくるぞぉぉぉ!!!」と興奮する。ファンをたくさん引き連れているタカラジェンヌはそれだけで神々しくみえてくるし、圧巻で楽しい。
スターさんによっては「お隣歩き」と言ってこの所定の待機場所から楽屋口までお隣を歩いてタカラジェンヌとお話しできてしまうシステムがある。楽しそうにファンと話をしているスターさんをみながら「なんて優しい人なの!!」と勝手に感動することもよくある。話の内容なんて、当然聞こえやしないが。
以上穴だらけの入り出説明。ちなみにこの入り出は会を登録しているタカラジェンヌにのみ適用されるシステムである。まだ会登録していないタカラジェンヌはまた別のしきたりで入り出があるのだが書いていたらキリがない世界なので放置する。
この入り出。したいと思ってすぐに出来るものではない。まずはその生徒の「ファンクラブ」に入らなきゃいけない。この「ファンクラブ」は「非公認」のファンクラブなのだけど、宝塚システムに置いて凄く大きな位置を占めている。非公認の癖に「@@ちゃん会立てたんだって?」「うん、劇団に立てろって言われたらしいね」「そっか。まだ下級生なのに大変だねぇ」みたいな会話がヅカヲタの中ではよく繰り広げられる。繰り返し言う。ファンクラブは非公認である。
このファンクラブに入ることのメリットとは色々あると思うけど(デメリットも正直あると思っている)大きく言えば「応援している人を明確にする形でチケットをかえること」「入り出が出来ること」なんじゃないだろうか。チケット難の公演でも会に入っていればなんとか観れたりもする。
けど、私がしたいのはこの話じゃないから、このシステムについて気になる人はお近くのヅカヲタまでお問い合わせください。
そう、入り出である。入り出。
私が今好きなタカラジェンヌ(以下贔屓)を好きになった時、ファンクラブに入ろうと思った。ファンクラブに入って、その人の名前を通してチケットを買って、お礼状貰って、その人のお茶会(トークショーのようなもの。一種のファンミーティングイベント)に参加できればうれしいと思っていた。
入り出なんてしたいと思わなかった。
だって、怖いじゃん!?自分がいかにその人を好きか書いたお手紙をちょくせつ本人に手渡しするんだよ!?ホラーじゃん!!って真剣に思っていた。
憧れは憧れの存在のままでいて欲しかった。お手紙を直接渡すことが繰り返されるうちに、純粋な憧れは必ず憧れと違うものになると思った。それに、入り出(ガードともいう)する人が怖かった。宝塚の宗教じみた世界の一端はこのシステムが担ってるに違いないと思っていた。事実私の友人の一人は宝塚大好きで何年も見続けているが「ファンクラブなんてあるから宝塚が気持ち悪いところだと思われている」と吐き捨てた。だから、宝塚ファンがみんなこんなことをしているのだと思ってほしくは無い。舞台の上で輝いているタカラジェンヌをみることだけが楽しみで、公演を楽しんでいる人だってたくさんいる。入り出をはじめとした会活動は確かに不思議で独特なシステムであって、未だに奇妙だと思うこともあるけれど、私がこの世界に入ってしまったから非難することが出来ないだけだ。
私が宝塚を好きになってから仲良くなった人は、入り出をする人だった。
「おいでよ」
とその人は私と贔屓が違ったがそういった。
「入り出は楽しいよ」
正直、興味はあったのだろう。後を押されたのか、押されたという言い訳が欲しかったのか私は入り出にいった。同じファンクラブに所属している知らない人に挨拶をしながら贔屓を待ち、やってきた贔屓の目もロクにみられずに消え入りそうな声で「オハヨウゴザイマス」と告げながら私はその場から消えたかった。見慣れた顔の中に知らない顔がいるからか、彼女は私の目をじっとのぞきこんだ、気がする。
もう、数年前の話なのであまり感想は覚えていない。覚えているのは誘ってくれた友人とお茶をしていたらその友人が楽しそうに「また来週も会おうね」と言ってきたことぐらい。その時は「行かないよ!?」「一度経験したのでもう満足しました」とその人に伝えていたのに、翌週には何故か私はそこに立っていた。
それから、毎週のように私はそこにいた。
何が楽しいのか、私は未だに分からない。あえて言うなら贔屓と会った後にファンの人同士やお友だちとするお茶が楽しいと言ってしまうかもしれない。長時間乗る電車の中でポストカードに手紙を書き、ムラについてから贔屓を30分以上待つこともザラだ。やって来た贔屓に「おはようございます」の一言だけを告げて、ほんの少し会話をやりとりして、楽屋口まで贔屓の背中をついていく5分足らずの時間の為に多くのことを費やしているという事実を数年かかっても未だに認めきれない。
おはようございますの一瞬で目を見てくれたかとか、笑ってくれたかとか、今日は機嫌が良かっただとか、なんだか疲れているみたいだとか、たった一瞬触れ合うだけなのにそういうことで喜んだり心配したりする自分が滑稽だと常々思っている。
贔屓と仲良くなんか、なりたくない。勿論ファンとして大事に思われたい。嫌われたくは、ない。でも、近付きたくは無いし、入り出をしてどれだけ時間がたっても私にとって贔屓は遠い存在だ。
笑い話みたいかもしれないけれど、私は入り出するようになってしばらくしてから友人に「贔屓に顔を覚えられてしまったかもしれない」と言って泣いた。贔屓をみるのは楽しかったけれど、贔屓が私の顔を覚えるのは耐えられなかった。贔屓が私の顔を覚えるということは、関係が蓄積していることに他ならず、それがいいことだとは欠片も思えなかった。送る手紙はいつだって適切なものとは思えなかったし、贔屓がそれを負担に感じていたらどうしよとばかり考えていた。
今は、贔屓がどう思っているかなんてわからないし、私がやりたいからやってるでいいんだよって笑っていられる。手紙も送りたいから送るのだ、贔屓に喜んでもらうために書いてるじゃないよと言い張ってる。時々それにも失敗しているけれど。
入り出はタカラジェンヌによって色々で優しく雑談をたくさんしてくれる人もいれば、視線も合わせずお手紙を回収してさようならの人もいる。たくさんお話してくれるタカラジェンヌの話を友人としながら「@@ちゃんさすがだよね」と笑いあうけれど、そこでガードすることはない。会のシステムが無くなったとしても、多分しない。私が入り出をしたいのは、贔屓だけだし、その贔屓が見せてくれる一瞬がどんな神対応よりも意味を持っている。
AKBの柏木由紀さんは握手会を「10秒の公演」と称したそうだけど、きっと宝塚の入り出も近いものがあるのだとそう思っている。
毎週5分の為に駆けつけて、直接お手紙を渡すことで愛が伝わっているのかは分からない。エゴだけが伝わっているのかもしれない。
それでも贔屓だけをみれる時間が嬉しい。舞台の上に立つ完全な男役ではなく、化粧を落し、ほんの少しだけ素の部分を見せてくれるその瞬間がたまらない。
少なくとも、贔屓が退団するまでは。
お友だちに誘われて、前日まで行く予定にしていなかったのに急遽行くことになった。
こちらオリコンチャートにのるような音楽には全く詳しくない宝塚オタク。音楽番組は紅白を家族が観ていたら観る程度。Perfumeはもちろん知っている。好きな曲もある。だから、物は試しにと行ってみた。
ちなみにコンサートなるものに行くのは高校生の時親に連れられて以来という、まぁ、なんていうか、私の人生から縁遠いものだ。
「どんな服でいったらいい?」「動きやすい服でいいよ」
そうか、コンサートとは動くのか。普段は宝塚しかみない私はその時点で新鮮だった。私たちはお芝居の間中背もたれから背を浮かすことすら禁止されている。後ろの人もちゃんと楽しく観劇するための当然のマナーである。
何を持っていけばよく分からないからとりあえず、普段宝塚を観劇するために持っている倍率10倍のオペラグラスを持っていく。
京セラドームでたった倍率10倍がどこまでの効果を発揮するとか、私は知らない。そもそも京セラドームの広さを私は知らない。
貰ったチケットには@塁と書かれていてそれに驚く。塁!そうだ!!ここは野球場だったのだ!!!という新鮮な驚き。
上手下手ではないらしい。一つ賢くなった。
そして席に着く。なんとか手持ちの10倍オペラが有効に使えそうな距離だった。近い。と思った。ちなみに宝塚なら劇場からはみ出てる程度の距離感ではある。それでも、なんだか近かった。
コンサートの前にチョコラBBのCMが画面に流れそれに手拍子で応える観客。私はこんなに熱いCM鑑賞を初めて見た。私も手拍子しておく。
コンサートの内容についてはどこまで話していいか全くわからないし、曲名も知らないままのものが多かったので割愛。
3人しかいないのにお衣装チェンジとかどうするんだろう、宝塚みたいに着替えている間に違う人が場を埋めてくれるとかできないよな、とか真剣に悩んでいたけど、すごくうまいことなってた。凄い!!っていうかなんでも宝塚基準で考えるのやめよう自分。それ、狭い世界の話だから。
良く知らないけれど、それでもその場の空気に適当に乗ることにためらいがない私はずっと手拍子したり手を振ったりキャーって言ってみたりして、凄く楽しかった。同じアホなら踊らにゃ損損。
楽しかった!!かしゆかもあーちゃんものっちもみんな可愛かった!!本当にお人形さんが動いている。
この会場の大きさに対しあーちゃんもかしゆかものっちもとにかく小さいなと思った。別に本人が無力とかそういうことじゃない。本当なら一人5メートルくらい必要だと思う。それでも足りないかもしれない。
3人だけの力じゃなくて、映像や音響の力もあっただろうけど、たった3人でこのおっきな会場を埋めて、満たしていたPerfumeは本当に凄い。
大きなスクリーンでは踊る3人の表情が観れる。それでも、表情も確認できない、オペラをつかってなおバービー人形のようにしか見えない3人を観ている時間が長かった。必死に踊っている3人はとても近くて、遠かった。
凄いなって思った。
そして、何よりこの3人はとてもファンのことを思ってくれてるなと凄く感じた。
宝塚の舞台でもジェンヌさんはよく「ファンが大事」と言ってくれる。でも、ファンとして信じきれない時がある。
だけど、3人のコンサートは、私が本当のファンではないちょっと離れた距離から観てたからかもしれないけれど「こんな大きなドームをたった3人で埋めてしまえるほど凄い子たちにとっても、ファン一人一人は大事な存在なんだな」と本当に随所から伝わってきた。
もうちょっと、自分の大好きな宝塚のジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉を「はいはい、社交辞令ですね」とか思わずに受け止めようってちょっと反省した。
ライブ、凄く楽しかったのです。言いたいことはいっぱいあって、連れて行ってくれた友人にもありがとうって凄く言いたいし、他にも書きたいことはたくさんあるけれどどこまで書いていいのか分からないからこんな適当な感想になってしまった。でも、面白かったことを誰かに伝えたいからここに書いておきます。
こんなにも反響があると思っていなくて少し驚いています。読んでくださってありがとう。そしてPerfume愛されてるなぁ!!!
一応言い訳なんだけど、ジェンヌさんたちの「ファンが大事」という言葉が本心でないとは思ってないよ。みなさん、心底言ってくれていることは本当は知っていて。
ただ、中にいすぎて外からその姿がどう見えてるかわからなくて、(すでにのめりこんでいるというのに)のめりこむのも怖くて「はいはい、社交辞令ですね」と受け流してしまうのだと思う。もちろん、Perfumeの3人とタカラジェンヌではファンとの距離とか思いの返し方は全く違うので比べるだけ無駄なのかもしれないけど。
タカラジェンヌだっていろんな人がいて、いろんな返し方をしてくれているし。
でも、そういう物事をベタに受け止められなくなっている自分に気付かされたライブでもあったのです。もうちょっと、ベタに受け取った方がいいなという反省。
宝塚も独特だけどとても面白い世界なので興味を持ったらお近くのヅカヲタまで声をかけてみて下さい。すごい勢いで宝塚の世界に案内してくれると思います(笑)
知人に天海祐希のファンがいたのだが、驚いたことに彼は宝塚時代のエピソードはほとんど知らなかった。
天海は、宝塚ではかなりの伝説を作り上げてしまった人なので、これを知らないファンがいるのはもったいないなぁ、と思った。
なので、ざっくり彼女のジェンヌ時代の伝説を書いてみようと思う。
これは男役としては異例の速さだ。
新人公演というのは、本公演と同じ内容の演目を、入団1年目から7年目までの新人達だけで演じる公演のこと。
トップ路線に進む男役の子は普通、この新人公演で良い役をもらいながら、7年目までに一度は(新人公演で)主役をやる。
その後本公演でも、徐々に良い役をもらうようになってゆき、所属する組の三番手、二番手を経て、トップになる。
(ただしこれは天海在団当時のルールで、新専科が出来た今は、多少異なる)
とは言え、いくらなんでも1年目で新人公演主演は早すぎだ。
さらに新人公演が7年目まで出演可能なことを見ても分かるように、入団7年目では普通まだ新人から卒業する程度の段階。
この段階でトップになった者は、現在のスターシステムが出来たあとの男役では、他に存在しない。普通は十数年かかる。
(娘役の場合は、いきなりトップをもらうことがあるので、この限りではないが)
ちなみに彼女がトップをやっていた時の二番手であった久世星佳、三番手の真琴つばさは、天海の上級生である。
これは、他にも早い人はいるので、異例とは言えないのだが、トップ就任2年そこそこで辞めてしまうのは、やはり早い方だ。普通は5年くらいはやる。
トップになるのも早ければ、辞めるのも早かった、まさに彗星のように表れ、去っていったトップスターさんなのである。
宝塚を余り知らない人でも、でっかい羽根を背負って、大階段から降りてくるタカラジェンヌの姿は、ご存じの方が多いだろう。
あれは公演の最後のフィナーレでの姿なのだが、あそこではトップに近い人ほど大きな羽根を背負うのが通例。
ところが、トップになった天海は普段の公演から、かなり小さい羽根ばかりを背負っていた(当然周りはもっと小さい羽根になる)
どうも彼女が、仰々しい羽根を背負うのは嫌だと、劇団側に通させてしまったらしい。
基本的に劇団とジェンヌさんの力関係は 劇団>>>>|越えられない壁|>>>>ジェンヌさん ってくらいのものなので、例えトップでも普通はこんな要望は通らない。
のだが、彼女は通してしまった。天海だから許されたのだ、と言われている。
圧巻は退団前の最後の公演で、完全に羽根をなくしてしまったということだ。こんな公演、羽根が通例となった以降には、そうそうない。
ジェンヌさん達の行動基準は普通「劇団の通例>ファン>仲間達との絆>その他」みたいな感じなのだが、天海の場合は「仲間達>ファン>通例>その他」みたいな順番だった。
分かりやすいのが公演のフィナーレで、幕が下りるまでの間、普通は客席に向かって手を振るのだが、天海はどちらかというと、一緒に練習してきた仲間達をよく見る傾向にあった。
お茶会というのは、ファンの融資でジェンヌさんを呼んで開かれる、アンオフィシャルな会。
普通はまぁ、ジェンヌさんはお人形さんじゃないが、ファンのみんなに囲まれて、色々お喋りの中でいじられる感じなのだが、天海はガチのトークに入ることが多かったらしい。
退団時もファンクラブからの融資で色々やる。普通は良い車を借りて、スターさんを乗せてパレードしたりするのに多くの金を使うのだが、天海はファンクラブの人全員にワイングラスを贈ったようだ。
実は女社会の常というか、ファンクラブでも(ファンが自主的に作った)序列みたいなものがあり、幹部さんと、ファンクラブ入り立ての人では、受けられるサービスの度合いが違ってくるのが普通なのだが、天海は全員に全く同じワイングラスを贈ったらしい。
色んな意味で、序列社会の習慣を無視しまくった、またそれを可能にする実力があった人だったのでした。
歌って踊れて芝居できて、何より華があるという、本当にパーフェクトなジェンヌさんでしたからね。