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はてなキーワード: アルコール依存症とは

2018-04-30

山口メンバーの件で本当にアルコール依存症スポットが当たってほしい

交際相手完璧アル中だった。

社会的に認められる時間(おおよそ17時ごろ)になると缶酎ハイをあけてぐびぐびのみはじめる。

夜通し飲む。徐々に暴言が増える、内容が理不尽になる。目が座る。体を求め始める。断ると物を投げる。

翌日になると全く覚えていない。

これの繰り返し。

一旦入院して、一年くらいは断酒していたようだがそのご普通に飲み始めて上記の通り。

そして「私はアル中なんかじゃない!」と主張する。

山口容疑者の同様の発言を見てああ、これだ、と確信している。

あれはお酒を飲むと現れる裏の人格が本当の自分である、と確信しているのが病の本質

大量の飲酒によって記憶が「飛ぶ」というのとは別の事だと思う。

飲んだ時の記憶が無い、いつもお酒が手が離せない、という人は山口メンバーの事は他人事だと思わない方がいい。

飲んで普段自分が消えている、そう思ったらすぐ断酒してくれ。

アルコール依存症について正しい情報が広まることを望む。

2018-04-29

山口擁護してTOKIOの味方気取りのあなたへ

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180428-00000309-oric-ent

この記事だけ読んで「リーダーの優しさ」とか言ってるやつは、城島茂を乏してることに気づいて。

リーダーは全く山口かばってないし、山口に怒ってるんだよ。多分、本当にTOKIOに復帰させる気はない。

この記事だけじゃわからないけど放送の時のリーダーの表情を見ると、本当にガチギレしてる気がする。性犯罪したことを隠して一緒に楽しく農業してたなんて、リーダーコメント通り30年はなんだったんだ。

裏では事務所と一緒に示談にして揉み消そうとして、表ではTOKIOと仲良くやって何も知らせず。TOKIOへの裏切りしかないでしょ。

そもそも未成年者に対しての性犯罪を犯した山口への「復帰してほしい」だの「処罰より治療必要」とか書いてる人、あなたTOKIOの味方ではない。

被害者叩きしてる奴は論外だから一旦置いておく。TOKIOの話がしたいから。すみません

山口擁護はここ数日たくさん見た。「アルコール依存症なら仕方ない」「自宅に行った女子高生が悪い」「キスぐらいで騒ぎすぎ」「ハニートラップ」「反省したら戻ってきてほしい」…他のTOKIO人達のこと考えたことあるかな?

来年の25周年記念を潰され、CMも潰され、東京オリンピックアンバサダーも潰され、ずっとやってきた鉄腕DASHもどうなるかわからない。福島に対してずっと応援してきてくれたTOKIOだけど、性犯罪者がいるグループポスターはもう使えない。全部全部TOKIOとして、グループとして頑張ってきたことを潰されたんだよ。しかTOKIOの誰にも伝えずに揉み消そうとしてた。そんな事しでかした人と一緒にTOKIOとして活動できる?一緒に農業できる?

山口擁護する前に、今まで頑張ってきたこと、これから仕事を潰されたTOKIO人達への気持ちを考える方が先でしょ。

そもそも仲良さそうな感じが素敵だったグループの中に、山口という性犯罪者兼裏切り者が戻ってきて「皆で一緒に楽しそうに農業してる姿」本当に見たい?

自分TOKIOが大好きだった。鉄腕DASHが大好きだった。でもだからこそ、山口擁護なんて一切出来ない。

2018-04-28

健康診断同様アルコール依存症かどうかの判定を年1程度で行うことを義務化し、中毒患者と診断された人にとっての酒は覚醒剤と同じとみなすような法改正をしたらどや。禁酒法暴動起きそうだし、酒飲みは「自分大丈夫」と思ってるからアル中から酒を取り上げるという立法否定しないだろ。診察は認めないだろうけどw

2018-04-24

アルコール依存の親父を強制入院させた

先日親父を力づくでアルコール依存病院入院させた。

国立大学卒業している親父は知的で落ち着いた性格だ。

商売は得意ではなかったが学問愛する人だった。

家はそれほど裕福ではなかったが喧嘩はまったくない平和家族だった。

僕が結婚して、子どもが生まれ中古の一軒家を購入。

当時、賃貸暮らし商売がうまくいかなくなっていた親父とおふくろを呼んで同居することに

このときは親父がアルコール依存症なんて知らなかったし

アルコール依存がどんな病気かも全く知らなかった。

一緒に住みはじめて1年で親父は救急車で運ばれた

原因は栄養失調

しか栄養失調の原因は酒で食べ物を受け付けない状態になったことだ。

この時はじめてアルコール依存であると分かり

病院に通うことになる。

当時の親父はまだ理性的だったし

僕も仕事が忙しく子どもが生まれたばかりでアルコール依存について勉強することもなく

お袋にまかせていた。

今考えれば

この時にもっと真剣に向かい合うべきだったと思う。

親父は1年間、断酒した。

今なら分かるがこれはとても凄いことである

外来のみで断酒するのは非常に難易度の高い

しかし、知り合いの葬式で親父は飲酒をしてしまう。

それから病院に行かなくなる。

病院は頭がおかしいやつのあつまり

薬を飲むと精神おかしくなる」と批判が始まる

僕らも説得できず親父の意志にまかせることにした。

そこから

断酒→隠れて飲酒救急車

を繰り返した。

最初は信じていた家族

次第に疑うようになった

親父は自分アルコール依存ではなく

躁鬱病

鬱病を治すとアルコールコントロールできるといい始めた

徐々に上手く行かない全ての原因を自分ではなく

回りや環境転嫁しはじめた

アルコールの話をすると感情的になり

病院に行こうと諭すお袋に暴言を吐き

それを止めようとする僕に殴りかかってきた。

その時の記憶基本的には無くなるから

反省ができない

アルコール依存は最悪の病気だ。

徐々に親父が壊れていく

子どもが大きくなってきて

おかしな状況を感じはじめる。

僕は家族で腹を割って話し合う必要があると思った。

しかし、話合いは待ってくれと

色んな理由をつけて時期を伸ばされた。

ある日、トイレにワンカップが隠してあるのを見つけた

親父は今は断酒してるから信じろ!と怒っていたので

僕は腹が立ってその酒を捨てた。

次の日

親父がいなくなった。

おふくろに聞いたら

外で暮らす。といって出ていったそうだ。

近くの公園転々としながら

1日に2~3回お袋に会いに来た。

このままどうなるんだろう?

家族は疲れ切っており

いっそのこと失踪してくれたらいいのに

など僕は考えていた。

ある夜、事件が起きた

深夜1時ごろ

玄関のドアが開いて

浮浪者のようになった親父が入ってきた

そしてお袋の部屋に入っていった

その後、暴れだし暴言を吐き

椅子をひっくり返した

家の回りを発狂しながら

荒らし始めた

家族はみな気が動転して

命の危険を感じた。

僕はカギを締めて警察を呼ぼうとした。

それよりも先に近所の人が呼んだ。

しかし、警察が来たときには親父はいなくなっていた。

この日から親父は完全におかしくなった。

いきなり家に来て

警察を呼んだのはだれだ!ぶっころしてやる!」

と言ったと思ったら

孫に向かって

「かわい〜ね〜」

と言ったり。

凶器を持っている可能性が高かったので

僕は家のカギを締め切って入ってこれないようにした。

夜中にいきなりドアを開けようとする音や親父の怒鳴り声が聴こえる。

みんな寝れないし常に緊張状態にあった。

その時僕はもう

強制入院警察保護してもらうしかないと考えていた。

兄貴と親戚のおじさん(大阪から駆けつけた最強のアウトロー

を呼んで事情説明したら

おじさんが

「俺が話す、病院に連れていく準備しとけ」

と言って親父を探しに行った。

近くの公園に親父はい

それはもう僕の知ってる知的学問を愛する親父じゃなかった。

ただただ虚しかった。

家に連れて行くのは危険なので

車の中で親父を説得することになった。

おじちゃんがどんなに説得しても

親父は病院に行く事に納得しなかった。

話し合いの途中で何度も暴れて

逃げ出そうとした

兄貴とおじちゃんが話し合ってる間に

強制入院可能病院を探した

兄貴から電話があって

「もう限界かもしれない、病院に連れて行こう」

強制入院可能病院が見つかる。

暴れて危険場合警察を呼んで一緒にきてください。

と言われた。

説得してる駐車場に向かった。

親父を発狂して暴れているのを兄貴が車に押し込んでいた。

僕は警察電話した。

しかし、車に乗った親父は動けなくなっていた。

兄貴は180cm80kg以上でずっと格闘技をしてたゴリラのような男だ。

おじちゃん柔道二段で今はムエタイをしている。

親父は完全に固定されていた。

おじちゃん

「いいから出発しろ

と言ったので

警察事情説明病院に行くことになった。

病院までの30分は

僕が今までの人生経験した一番最悪の時間だった。

親父は僕達を罵倒し続けた。

僕は今まで親父に怒られたことがほとんどなかった。

自分仕事成功しはじめて

家族全員が幸せになる方法を考えて

家を買って

みんなで住んで

呪い言葉のような罵倒を聞きながら

病院まで運転する中、ずっと思い出してた。

そして親父はアルコール依存病棟入院した。

アルコール依存

本人だけじゃないくて

家族病気だ。

お袋は親父をかばって嘘をつくようになった

僕は気付けば親父とお袋を常に疑い、監視するようになった。

仲が良かった家族がどんどん崩れていった。

入院期間の三ヶ月

どうなっていくか分からない。

その間、みんなでアルコール依存について学び

親父と戦うのではなく

親父と共にアルコール依存と戦うための準備をしなければいけない。






【追記】

今回はじめて投稿してのですが、こんなに沢山ブックマークが付くとは思ってませんでした。

沢山のご意見ありがとうございます

入院させてしまったあと、言いようのない気持ちを一気に吐き出してしまったため

いろいろな部分を端折ってしまったり説明不足な部分があったり、

今後同じような状況になってしまった人が少しでも参考になるようなことを追記したいと思います



・嫁さんついて

嫁さんは僕には勿体無いくらい良い人です。元々両親とも仲が良く、同居の際もきちんと話し合って決定しました。

僕にとって彼女は全てを話せる妻であり、気の合う友人であり、優秀な仕事仲間であり、頼りになる母でもあります

同居はじめてアルコール依存問題以外にも色々な問題が起きましたが全て隠さずしっかり話し合って解決してきました。

逆に嫁さんに何かトラブルが起きたときは僕は全力で問題解決します。


・こどもについて

親父のアルコール依存最初、非常に分かりにくいものでした。

飲酒量が少なく、呑んでも顔にも出ず、性格も変わらないので

相当近くにいかないと酒を呑んでいることが分からない状態でした。

ただ、躁鬱があり、落ち込むときはひどかったのですが

孫達と遊ぶことで元気になりました。

孫のおかげで躁鬱はかなり良くなったと思います

親父がおかしくなってきたのはこの1年くらいでしたが

孫達には最後までその姿を見せることな病院に行きました。

もし良くなって帰ってきた時のために

僕らも子どもたちと親父の距離感説明については細心の注意を払ってました。





家族関係について

同居する理由ひとつとして

実家賃貸で、部屋のひとつを使って家業を行っていたのですが

両親は貯金年金もない状態で、雨漏りするようなボロボロ事務所だったので家業の売上もどんどん下がって

お金が貯まらないので広告テコ入れもできない、毎月仕送りをしないと家計が回らない状態でした。

そこで、解決策として

家を購入して家業事務所の内外装をリニューアル

きちんと広告計画を立てて売上を伸ばすことを考えました。

一緒に住めば仕送り必要なくなりみんなのお金も貯まります

実際3年間で家業の売上は1.5倍くらいまで回復しました。

親父は躁鬱を治すために何がいいかなと考え

僕のPCをあげました。

そして操作方法ネットの楽しさや

SNS登録したりしました。

晩年父は全く人との交流がなくなってしまったのですが

SNSで昔の友人と繋がったり

僕の友人と仲良くなったりで

とても充実した毎日になりつつありました。

アルコール依存がなければ

親父は本当に幸せ人生を送れたと思います

親父は僕が小学生の頃くらいか仕事が非常に忙しく

家に帰っても不機嫌で中学生になるまでほとんど会話らしい会話をしてない状況でした。

なので僕は小さいこ母親毎日遊んでいました。

悩みも母親相談することが多く

同居してから毎日何かしら話してます

アルコール依存についても最初は任せていましたが

状況は常に聞いていました。

お袋は親父のことをアルコール依存だと思ってませんでした。

親父がアルコール依存じゃないと理論的に説明するので

説得されていました。

おそらく共依存になっていたんだと思います

僕も当初アルコール依存知識がなかったので

お袋の話を信じて、通院せずに自分の力で治すことに納得してました。








アルコール依存という病気について

この1年間、沢山の本を読み、話を聞き、病院先生の話を聞きました。

アルコール依存絶対に治らない病気です。

最終的には死に至る進行形病気です。

最初は変化が見えにくく

進行が進むと嘘をつくようになり

約束をやぶり

攻撃的になります

親父のSNS投稿

最初は孫との幸せ生活で溢れています

後半は世の中や政治批判ばかりになりました。

家族の絆はどんどん壊れていきます

信じたいけど、本当かどうかわからない。

アルコール依存で一番やっかいな症状が

否認

です。

否認についてとても分かりやす記事

https://www.dansyu.jp/アスクヒューマンケア/

親父はこの否認がかなり強く出る傾向にありました。

頭が良い人なので、飲酒理由環境を作るための理論武装が上手でした。

家族は、この「否認」を見抜くのがとても難しい。

それは信頼関係が構築されていればいるほど見抜けません。

仮に見抜いて指摘をしても

アルコール依存の人は認めないし逆上し

敵対します。

抑圧すればするほど攻撃的になります

家族関係が悪くなる前が勝負です。

その時ならアルコール依存認識やす

通院する可能性が高いと思います

家族に対して不信感を抱く段階にくると

どんなに説得しても病院に行くことを拒みます

そうなると強制入院か底付きで死にかける(もしくは死ぬ)結末が待ってます

これは家族ダメージ半端ないので出来るだけ避けて欲しい。

力づくで病院につれていけない状況の人もいると思います

そういうとき警察に連絡して一緒に病院まで連れてきてもらってもいいと病院で言われました。

アルコール依存の後期は非常に危険状態です。

運転している最中に暴れて事故をおこす可能性も高いと思います。(運転している人も気が動転してますし)

このアルコール依存という地獄のような病気苦痛が少しでも和らぐ人たちが増えることを願います

2018-04-12

anond:20180412150536

楽しく飲める方はほんとうにいいと思うけれど。

心の隙間を埋めるために飲んで、飲まれしまっているなら。

アルコール依存症の進行プロセス(表で判りやすい)

http://www.dansyu-renmei.or.jp/kazoku/index.html

アルコール問題相談

https://www.ask.or.jp/article/alcohol/アルコール関連問題を知ろう/アルコール依存症とは?/アルコール問題相談

お酒のことでお困りの方、悩みがある方、左の相談窓口を押してください。

地域相談員がご相談に応じます

http://www.dansyu-renmei.or.jp/index.html


こういう有志のが無理なら、

アルコール依存カウンセラーがあるみたい。


アルコール依存症アルコール使用障害のカウンセリング

https://s-office-k.com/complaint/alcohol

平成30年4月から新しいカウンセラーさんが火曜のカウンセリング担当しま

https://s-office-k.com/news/archives/132





詳しい方々と相談できるので、

漠然知識のない処に相談するより、良いと思います

2018-03-30

自分クズエピソード 1

俺はクズだ。

需要あるかないかからないが、俺のクズ晒していこうと思う。

小学生時代

・友人を川で後ろから落とす。

ドッジボールで投げる瞬間の味方のボールを奪う。

・すぐ鼻血を出す。

・あまり友達を作らない。

高校時代

高校中退。

大学時代

他人のことを考えず、自分が儲かることばかりを徹底的に考えるようになる。

社会人

無職

アルコール依存症

まりクズじゃないか

2018-03-25

飲み会しかコミュニケーションが深められないってコミュ障でしょ

普通に仕事してたら(仕事必要な)コミュニケーションは深められるでしょ

それを飲み会で補うって無能って事じゃん。

別に無能を使えるようにするために研修とかあるわけだから無能でもいいけど

なら飲み会研修って関係になって、それなら会社側が金出すべきだよね

なんで自費でやらにゃならんの?


しかも、強制でも全員に1000円出して1000円のリターンが返ってくるなら気持ち的に納得できるけど

アルコール依存症患者のために5千とか一万とか出して、コンビニの寄せあつめみたいな飯と1L100円程度のジュース飲み放題

上司武勇伝(犯罪歴自慢)もオマケについてくる。

頭悪すぎるでしょ。


業務時間外に無駄時間使って、次の日のパフォーマンスが下がるようなことしたらそりゃ生産性とかクソになります



anond:20180324215049

2018-02-24

これって。

http://www.tokyo-danshu.or.jp/know/taiken/0704ta.html

話が終わると先生は「ご主人はアルコール依存症です。アルコールによる脳機能障害で、嫉妬妄想症です。断酒すれば、その症状も回復します。まずご主人を連れていらっしゃい」と言われました。

anond:20180224001751

ちょっと待って!

昼前   アルコール依存症治療のため通院

なのに

夕方   友人と宅飲み

ひょっとして「飲み」は「紅茶」か「☕」???

今日の予定

朝    ジムに行って筋トレ有酸素運動ストレッチサウナ

昼前   アルコール依存症治療のため通院

昼下がり オンライン英会話読書

夕方   友人と宅飲み

夜    ネットフリックスで何か見る

2018-02-23

anond:20180222134603

 つまりケミカル意識の中でこの世のクソさから逃れるためにトリップする価格市場ではちょい飲みと同じと評価されてるってことだよね。1回1000円の価格は決しておかしくないよね。なるほどなあって思った。2万円ってちょい飲みの10回分の回数券を買うようなものだし。牛丼ビールよりちょっといくらい。

 一応念のため、おれは覚せい剤買ったことも使ったこともないです。

 もちろん、意識高い人が生産性挙げるために使う場合もあるし、そんな人も身近にたくさんいるんだってことを訴える文章として書いてると思う。ただ、貧困層にとっても生きづらさからとりあえずで逃れるためにはちょうどいい値段だと思った。ケミカルにこの世のクソさから一時的に逃れるという意味では、ちょい飲みもほぼ同じ価格帯だし。

 以下は元の増田さん語っていないところに、想像を膨らませてほかの読み手に向けて一応ねということで書いた文章

 一般的に捕まってる人達所得から推測したら、瞬発的に生産性を上げる強化版ユンケルとして使ってる人はやはり使用者の内では少なさそう。数としてはたくさんいると思うよ。おれは100人いたらたくさんだと思う。だけど、金持ってない連中が失うものが少ない分、そしてこの世のクソ差から逃れたい欲求が強い分酒の延長線上にあるトリップ(クソさから逃れる)を欲して手を出すやつが比率的に多そうだなってイメージを持った。高いちょい飲みトリップできるんだし。

 生産性問題にしなきゃいけないほど詰められてる層は貧困層と重ならなさそうで、さら貧困層に比べて数も少ないし、トリップ手段としてリスクの低いアルコールに逃避・依存する傾向が高いんじゃないかな。社会的な死というリスクをかけてまでつかう人は貧困層に比べてはるか割合的に少なさそう。

 生産性挙げるために使ってる人はたくさん(100人いたらたくさん)いるよ、という意味ではその通りだと思う。でも、そんな人しかいない、そんな人ばっかりだっていう割合の話になるとすこし事情が変わってくる。使ってる連中のほとんどはわかりやす貧困層じゃない?さらにいえば販売者へのアクセスもしやすそうだし。だって売る側も貧困層だろ?

 そうやって整理するとちょい飲み、というかもっとトリップできるコンビニで買ったストロングゼロのロング缶2本+気の利いたつまみよりちょっと高いというのは適正価格な気がする。ていうか1回分1000円で小出しに売り出したら、売り手のリスクはともかく日雇い労働者殺到するんじゃない笑

 犯罪者あなたの隣にも、というように例えば頑張ってスーツ着てかっこよく働いている人にもアルコール依存症DVが身近にもいるんだ!という趣旨ならその通りだと思う。でもそんなやつ、割合ベースで見たら少なそうだなって思った。まあ、ホワイトカラーあなた関係ない人がたくさん使ってるし、比率でいえばスーツ着て仕事してる奴も少ないけど使ってます、というお知らせとしてはその通りなんじゃないかな。

 繰り返すけど元の文章スーツ着てる奴しか使ってないとは言ってない。実際、経営やってる奴でクスリやってるんじゃね?という噂されてる奴は知り合いにいる。やってるかは知らん。

 あと、そもそも買い手と売り手がお互いにだいたいの価格設定とか売り手の価格設定についての相場とかを把握出来たらある程度は価格市場はまあ当然成立すると思う。近所の店とかちょっと歩いて行けるところに好物が100円で売ってたら、わざわざ隣の200円の店行かないよな。遠くに行けない事情があったり間抜けな奴は200円で買うだろうけど。80円で実は嫌いなものを売る奴はいても比率的に少なさそうだし、200円で買うやつは少数派だから200円の店は客を失い市場から淘汰され、80円のクソ屋は少数派なままだ。買い手にとって価格品質において買い手が妥協できる店が生き残り、望まれる「市場価格」を提示できた店が繁盛する。このあたりはネット情報交換できると市場の力は強く働きそうだよね。

 ただ、元増田文章意味ないって言いたいんじゃなくて、おれは改めてここまで考えて価格設定ってなるほどなあって思った。

 まあ、はてブ民はヨッピーの言う通り、飲む福祉トリップしとけよ。おれは少なくともそうしてる。

2018-02-22

話題になったこニュース

覚せい剤適正価格ちゃん存在する

https://anond.hatelabo.jp/20180222134603

id:SndOp ストロングゼロより高いやんけ

このスター集めまくってるコメントみて、俺思わず笑っちゃったよ。

口数ばかり多い、ウラナリのはてブ民には、遠い遥か彼方の銀河系の話なんだろう。

アフィのノウハウ英語勉強記事をシコシコ無言でブクマしてる暇があったら、ちっとはイオンリカーコーナーでも行って見聞を広めた方がいい。アルコール依存症は100万人以上、年間35,000人以上が急性アルコール中毒で死亡するこの国のリアルだ。

大学を出て吹雪のような現代社会で働くお前らにとって、ストロングゼロはお前らを包んでくれる暖かいウールだと教えてやる。

安定した価格市場はれっきとして存在する。

ストロングゼロ価格は10ml=4円がベース。これはコンビニ350mlベース計算で、量が増えていくに連れてじゃんじゃん安くなるなぁ(10mlあたり3円近くまで落ちる)というイメージ。もちろん、コンビニで買えば多種多様つまみが一緒に買えるし、お買い得リカショップで買うなら家でつまみを作っても良い。

町中から酒屋が排除された今、購入場所流行りの密林というやつ。ここで売人と連絡取って直接送付してもらうのが今のトレンドだ。だけど、毎回アクセスして購入ってだんだん面倒なので、そろそろストロングゼロダッシュボタン作って簡単に買えるようにして欲しい。酒屋やドラッグ取引なんかと違って、顔つき合わせるなんて面倒なことはしないぞ。売人と客は最初から最後まで顔はおろかお互いの素性すら知らない。たかが酒に礼儀なんて糞って思うだろ?だがブツはヤバくても取引セーフティーに。苦虫噛み潰したような顔でもメール上ではお互い笑顔円満取引のコツだ。Anonymous仮面だっていつもにっこり笑顔、だろ?

で、だ。

どうせお前らは「ストロングゼロ」なんてシロモノは、増田ストロングゼロ文学くらいしか知らないんだろう。ストロングゼロが無くなった近未来だの、西野カナ結婚式だの、あのあたりだ。ブラック企業で働いているサラリーマンや、コンビニのイートインスペースでストロングゼロ飲んで気絶してる、壁の向こう側の人間の話だと思ってるんだろう。

これだからノマド生活に憧れる脳内お花畑ティーボーイはダメなんだ。現実を見ろ。アルコール依存症ですと診断された人間が100万人以上いる国だぞ。診断書がでているだけでその数だ。推定500万人近くの人間依存症に近いと言われている。お前らには全く気づかれず、いや気がついているかもしれんな。二日酔い会社を休むようになった、なんてヤツが周りにいたら、要注意。そいつは俺だ。

じゃあ、俺は何のためにストロングゼロに手を出してるんだ?

はい、答えを教えます

ストロングゼロ最大の利点は「考えなくていい」「泥のように眠れる」ところにある。明日への活力が云々・風邪予防とか言ってるヤツは耳学問青二才から気にしなくていい。それは芋焼酎だ(健康のためには芋焼酎を飲もう!)。確かにストロングゼロでも、明日への活力にはなるが、そんなもんは副次的だ。筋弛緩剤のように体から力を奪っていくからセックスする相手が居ても勃たずに眠ってしまう。

余談だが。ストロングゼロってのはな、仕事疲れた時、ちょいと会社トイレで飲むだけで、次の日から働けなくなるんだ。10ml=3円とした場合、1回の目安が350mlだから、1回105円。ここぞという時にキメれば、105円で職を失うんだから、安すぎる。下手すりゃロクな仕事をしてくれないっていう噂の労基署よりスマートブラック企業から離脱させてくれる。もちろん、露頭に迷うリスクはあるが、そんなもんにビビってちゃ資本主義社会では生き残れない。トレーラーハウスはいつまでも居るわけには行かないって奴だ。

さて。この「考えなくていい」ってのが最大の利点でもあり副作用でもある。

ストロングゼロ飲んで朝起きたと思ったら部屋に西日が落ちていた時、人間はどうなると思う?俺たちは諦めて「もう一本開けよう」と冷蔵庫に走る。

携帯電話に不在着信がズラッと並んだ(「無の境地になる」ってやつだ)現実直視しないために、もう1本決めよう…となりゃもうオシマイ。ジャンキーまっしぐら。気づけばパック(内容量:1,800ml)の出番だ。だけど、栄養ドリンクと同じで、ここぞという時の武器にしてるヤツはそこらじゅうにいる。悪魔的に言い訳が上手いやつがな。逆鱗に触れるギリギリのところを見極めて正しく守ってさえいれば、言い訳なんてなんとでもなる。痛い頭をこすりながらシャワーを浴びてコーヒーにんにくで酒臭さをカバーポカリスエット一気飲みして小便ピューリタンすれば午後からは出勤できるからな。

まあ、はてブ民はストロングゼロ文学ではしゃいでいるのもいいだろう。でも、一般知識としてアルコール依存症自分とはそんなに遠くないところにあって、知り合いの誰か(あるいは自分かもな)がそうなるかもしれないということは知っておくように。

2018-02-05

アルコール依存症が増えています、という話

身内にその疑いがある人がいるので独学だけどちょっと調べてた。

そしたらその筋では有名な先生の著書があって読んでたらすごいこと書いてあった。

要約すると

アルコールを飲みすぎて前後不覚になるということは昔からよくあった。

 急激に増加をするようになったのは市民生活レベルが一気に高まった高度成長期から

 しかし当時は父親が飲みすぎて潰れても、家族が家まで連れて帰ったり、汚物を本人が寝ている間に始末してくれていたので表面に出ることはなかった。

 それが現代になり、女性経済力がつき離婚に抵抗感がなくなったことでそうした飲みつぶれた父親ケアをする人が少なくなった。

 飲みすぎて潰れたら妻と子供は世話することなくあっさりと家を出ていってしまう。

 そして残された孤独からまた酒を飲むという男性が増えた。

 だからアルコール依存症現代病と言っていい」

らしい。

いやいや、それ、表に出なかっただけでアルコール依存症増加してないじゃん。受診する人が増えただけじゃんて。

しか女性アルコール依存症については「主婦旦那にかまってもらえなくて寂しくて飲む」くらいしか記述がないし。

権威っつってももう80歳くらいのジジイ先生みたいだし。

本気でそう考えて治療してるならこわいなーと思った。

という読書感想文でした。

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

モルモット Permalink | 記事への反応(1) | 03:05

2017-12-16

2017-12-12

アルコール依存症を盾にストロングゼロ文学規制しようとする人達

ストロングゼロ文学などこれっぽっちも面白くないが

さすがにそりゃあねえわって思ったわ

2017-12-03

anond:20171203174348

ぶっちゃけて言えば、増田希望通りに事を運ぶのはとても難しい

同居の家族が頑張っても通れるかどうかわからない、狭き門

結局のところ、本人が酒をやめたい、やめなくては、と思わなければどうにもならない

 

うご存知かもしれないが、アルコール依存症断酒経験談が載っているサイトを貼っておく

これを読んでご友人に当てはめられそうなところがあるか、検討してみては

 

http://alcoholic-navi.jp/follow/memoir/person/

アルコール依存症の友人

大学出会った無二の親友アルコール依存症なんだ。

大学卒業してから干支一回りしたおっさんです。

自分自身は、二十代でちょっと身体を壊したのをきっかけに、アルコールはまったく飲まなくなった。

病気が落ち着いた頃に結婚した妻も、お酒を飲むのが好きなタイプではないので、我が家にはアルコールの類いは基本的に無い。

数年前、親友と会ってるときに、「最近時々、痙攣発作で倒れることがある」と言われた。

最初は、てんかん持ちだったのかなって思って聞いてたんだけど、どうやら、アルコールが切れると痙攣発作を起こすらしい。

後日、ネットで色々調べてみると、アルコールが体内から無くなって痙攣発作を起こすのは、アルコール依存症の一番重い症状らしい。

薬物中毒みたいに、幻覚が見えたりするイメージがあったけど、人によって症状はそれぞれのようだ。ただ、痙攣発作を起こすのは、幻覚を見るのと同程度かそれより重い症状らしい。

その後、今までの数年間、できるだけ時間を見つけて親友と会って、薬物依存セミナーに連れて行ってみたり、日常的な悩みを聞いてみたりという関わり方をしてきた。

本人は、自分アルコール依存症だということを否定してる。だからそういう専門の病院かにはまったく行ってない。

こちらも仕事や家庭があるわけで、会ったりするにはかなり無理をしてるんだけど、こちから連絡しても、仕事で繋がらないか泥酔してるかがほとんどで、まともに会えるのは、二ヶ月に一回程度。

自分はまったく飲まないので、会っている時は泥酔することは無い。でも、何かと理由を付けて飲もうとする。

ある時、うちに泊めたことがあったのだけど、泥酔はしないものの、「飲まないと眠れないから」とコンビニ度数の強いチューハイを買って来て飲んでいた。実際は、アルコールのせいで夜中に何度もトイレに行くので、睡眠導入剤としての役割果たしていなかった。

そして、その程度のアルコール摂取量なら、翌日の昼には呼気には検出されないだろうけど、体内にはアルコールは残っている。夕方頃に飲酒すれば、体内からアルコールが抜け出る瞬間は無い。つまり、痙攣発作を起こすことは無い。

自覚無自覚に関わらず、痙攣発作を起こさない為に、飲み続けなければならない。

しかし、根本的な治療断酒しかないという状況であろうというのが、まだ病院はいっていないけれど、予想される現状。

何とかこいつをアルコール外来に繋げたいと思う。

できれば、三十代のうちに。

遅くなればなるほど、内臓にも、脳にもアルコールの悪影響は及んでいって、自活することが困難な日が早くなる。早死になんてこともあるだろう。

だけれども、それはそうそ簡単なことではないと、この数年間で思い知らされた。

そもそもアルコール依存症の人の周りに居るのはアルコール依存症予備軍みたいな人ばかりで、アルコール依存症から抜け出そうとすると、まず一度は、その輪から離れなければならない。それも、かなりの長期間場合によっては一生。アルコールを見て飲みたいという欲求が起こるかぎり、再発の危険があるから

アルコール依存症関係の本のなかで、「アルコール依存症とは、毎日アルコールをやめ続けるのを一生続けなければならない病気」というようなことが書かれていた。

最初に書いたように、自分自身アルコールをまったく飲まない。

から、この親友の周りに居る「飲み友達」とは、ほぼ接点が無い。

数回だけ会った「飲み友達」の人達が悪い人とはまったく思わないし、親友大事に思ってる絆があるように思う。

それを自分が無理矢理絶ち切るようなことをしても良いのだろうかという葛藤もある。

アルコール外来の専門病院に行ったとしたら、その場で断酒入院を勧められる状況であることは間違いない。場合によっては措置入院だ。

そうなれば、彼らの絆は確実に切れる。

絆を繋ぎ続ける方法は、「飲み友達」全員が断酒する以外にはあり得ない。飲酒なしで関係が続く本当の絆があるんじゃないかと信じたく思う自分もいるけど。

こんなとき、どうすれば良いんだろう?

現在、予定さえ合えば嫌がらずに会って話をしてくれる現状を継続して、長~~~~~~~~~~~~~~~~~~い目で付き合って行くしか無いんだろうか?

2017-11-09

酒を言い訳にしないとまともなコミュニケーションできないって

それもうアルコール依存症じゃんね

2017-09-16

父を愛することが出来ない

 父は貧しい個人商店長男で、奨学金を貰いながら大学に通った。やがてお見合い結婚をし、母との間に私と妹が生まれた。妹が生まれる直前に、土地付きの家を買った。家族旅行にもよく連れて行ってくれた。私も妹も、名の通った私立大学を出ている。

 専業主婦の母と娘二人を養ってくれた、世間的には平凡だが立派な父。

 理屈ではそんな風に考えられるのに、私は父を愛することが出来ない。30歳になった今でもだ。


 子供の頃、我が家には大きなピアノがあった。私がピアノ教室に通い始めてすぐ、音楽の心得のある父が付きっきりで練習を見てくれたことがある。幼稚園児だった私にとっては、トラウマと言ってもいいような記憶である

 私がうまく弾けないでいると、父は厳しく叱り付けた。正しい運指を見せて、この通りにやれ、と言う。殴られたわけではないが、涙が出る程度には恐ろしい口調だった。両手が塞がっているので、涙も鼻水も垂れるがまま、いつ間違ってしまうかと怯えながらピアノを弾いた。見せてもらったばかりのお手本の真似も出来ない自分は、きっと出来の悪い子供なのだと思った。

 その後も父にはしばしば、「同じところで何度も間違うな」と注意されたことを覚えている。間違えると叱られる。私にとってのピアノとはそういうもので、演奏を楽しんだり、褒められた記憶はない。今でも鍵盤を前にすると、誰かに監視されているような気がする。弾くことは、もう一生ないと思う。

 子供にも音楽やらせたい、最初に正しい型を叩き込むのが肝心。それは父なりの愛情表現だったのだろう。ピアノは高価な買い物だったはずだし、月々の月謝も安くはなかったはずだ。何より、わざわざ時間を割いてくれた。練習の様子も気に掛けてくれてはいた。

 そう、理解はしている。理解はしているのだが。


 家族食卓を囲んでいても、父は原則として、人の話を聞いていない。「お父さんはどう思う?」と水を向けても、大抵は無反応である

 テレビを見ながらの大人同士の雑談なら、それでもいいかと思えるが、毎日出来事を話したい盛りの子供には辛いものがあった。進路や学費といった相談事まで無視されるのには辟易した。仕方なく何度も話し掛けたり、大きめの声で注意を惹くと、ものすごく不機嫌になる。金は出してやるから好きにしろ、とだけ言って背を向けてしまうので、どのみち会話は成立しない。

 そのくせ父の方は突然ウンチクを語り出したり、つまらオヤジギャグ飛ばし、望んだような反応が得られないと機嫌を損ねるのだ。

 そんな壊滅的な父の対話能力は、酒が入ると完全に消滅する。自分語りやお説教を垂れ流すのはともかく、好意的な反応を返さないと拗ねたり怒鳴ったりするのが厄介である

 体のためにも酒量は控えて欲しいと、家族がどれだけ注意したところで、ネットショッピング無尽蔵に取り寄せられてしまう。それでも家計に響かない程度に稼いでいるのは父自身なので、経済的な切り口から禁酒を勧めることも難しい。健康診断は既に要注意項目が複数あるのだが、どれも「危険」の一歩手前であるため、「これくらいは大丈夫ってことだろ」と言い張って毎日のように飲む。

 酔った時の父について、私は子供の頃、まるで人語の通じない別の生き物みたいだと思っていた。大人になり自分自身が酒を嗜むようになった今でも、その印象は変わらない。お酒楽しい時間を過ごすためのもので、酔って記憶も正体もなくすのでは本末転倒だと思う。

 私は思春期を迎えると共に、夕食を食べ終えた後は子供部屋に引きこもるようになった。妹は部活動アルバイトで、なかなか帰って来なくなった。

 父の帰りが遅かったある日、嫌味を言われたことがある。

「俺の金で生活出来てるくせに、女同士でだけ楽しそうにしやがって」

 何も言えなかった。父がいない日は妹も早く帰ってくるし、私だって居間宿題をやった。


 父はたぶん、精神的には幼児のまま、体と職能けが立派になってしまった人だ。父方の親戚や祖父母の家を見れば、経済的にも精神的にも恵まれない育ちだろうと想像はつく。発達障害の特徴もある。それでも一家大黒柱として、アルコール依存症気味になりながらも私たちを育ててくれた。

 立派だね、頑張ったんだね、育ててくれてありがとう

 きっと、そう言えるのがいい娘であり、いい大人だ。

 分かっていても、気持ちが追い付かない。虐待を受けたわけでもないのに、愛情を注がれてきたはずなのに、肉親を愛せない自分失望する。


 食卓に出された料理を、自分が欲しい分だけ取ってしまう父。一人二つずつだからね、と食べ始める時に母が釘を刺したにもかかわらず、無視して三つも四つも食べる。それが久しぶりに帰省して来た娘の好物であってもお構いなしだ。酒が入ると、もう手が付けられない。

 だから小皿に分けてって、いつも言ってるのに。ごめん、大丈夫だと思ったんだけど。母とは目と目でそんな会話をして、肩をすくめた。

 父は視野の狭い、ただの子供だ。悪気はないんだ。ならば歩み寄れる、愛せるようになるはずだ。

 そう自分に言い聞かせようにも、欲のままに飲み食いする還暦過ぎの酔っ払い視覚インパクトがあり過ぎる。卑しい、醜悪だ、という感情を打ち消すことが出来ない。自分の血肉の半分がこの男から受け継いだものだと思うと、身の毛がよだつ。どうして母は、こんな男と一緒に暮らし正気を保っていられるのだろう。

 こんなことは誰にも言えないから、ここに書く。

 私には、父を愛することが出来ない。

2017-09-08

疲れました。

ふとした疑問なのですが普通の家庭ではどんな会話ができるのでしょうか?

私の家は一般的な家庭とは少し違うみたいで、純粋にどんな会話をしているのかが気になりました。

親は子供の好きなものを知っていますか?好きなもの話題になることはありますか?テレビ自由にみれますか?好きなもの否定されていませんか?怒られるならどんなことで怒られますか?

支離滅裂文章だと思います。けど最近毎日死ぬことしか考えられなくなるほどにしんどくなってきたので吐き出させてください。

私の家は、私が物心ついた時にはすでに家で騒がしくしていたら「ニュースが聞こえない。黙っていろ」と注意される家でした。公園などで遊んではしゃいでいてもみっともないと注意されました。小さい頃から友達になった子はいましたが一人一人、あの子の家はこうだからあんまり…と言われたりあの子は頭がいいから仲良く、と言われたこともたくさんありました。

私は小さい頃からペンと紙を持って絵を描くのが大好きでした。そして外で遊ぶよりも中で遊ぶ方が好きで、アニメを見るのも大好きでした。

勉強はそこそこで平均くらいでしたが絵は人並みに描けていたと思います

毎回絵を描くたびに「絵なんか描いて何になる」と言われ続けてきましたがやっぱり絵を描くことが好きだったのでやめられませんでした。

アニメ自分の知らない世界がたくさん広がっていて大好きです。見るたびに「こんなくだらない、つまらものを見て何になる。つまらいかニュースに変えろ」と言われてもそれでも大好きです。

年の近い弟が一人いましたが、弟は外向的でテニスがとても得意です。

弟は小学校からテニスクラブに入っていて、中学高校でもずっとテニス部遠征によく行ったり試合がある日は両親揃って弟の試合を観に行ってました。テニスの道具なども進んで買ってもらっていたと思います

弟の方が手間かかることがあり私のことはほとんど放置で一人でいることが多かったのですが、思春期だったこともあり放っておいてくれて良かったと当時は感じていました。

私も弟がテニスを好きだったのと同じように私も絵を描くことが好きだったのでイラストコンクールなどに参加していました。

その時に、私の作品入賞して主催の方から絵を学ばないか勧誘を受けました。いわゆる通信講座のようなものです。本格的に絵を学びたいと思い親にその旨を伝えてみました。

返ってきたのは「くだらない。そんな口車に乗せられて情けない」でした。挙句には勧誘してくださった方にくだらないことに誘いやがって、詐欺だ!!とクレーム電話を入れられてしまいとても誘っていただいた方に申し訳なくてたまりませんでした。今でもふとした疑問なのですが絵を描くことはそんなにくだらないことなのでしょうか?勉強する価値もないのでしょうか?弟もテニス用具だったりシーズン毎の遠征費はかかっているのですが全て親が払っています。私は水彩絵の具や絵筆、キャンパス学校で使う以外は全て自分お小遣い範囲です。そして弟のテニスについては一言もくだらない、と言われている記憶がありません。それどころかいつも褒められていてどこか他所に行っても毎回弟はテニスが上手で…、と自慢げに他の人に話しています。私は自分の絵をくだらないと言われたことはあっても褒められたことは一度もありません。不公平に感じるのは私の心が狭いからでしょうか?

高校生の時、大学をそろそろ決めないといけない時期にどうしても絵を学びたくて美術学科があるところを視野に入れていました。昔から絵を描くことはくだらないと言われ続けていたので言うに言えずに高校二年生の冬が来ました。頑張って美術学科に行きたいこと、入試デッサンがあるので画塾に通いたいことを打ち明けると渋々了承を得られました。そこから頑張って画塾に通って同じ受験生の子切磋琢磨して厳しくても毎日が楽しかったです。でも、通っていた時にも度々画塾なんてお金無駄、と言われていたので最後までいたやめさせられるかわからないと怯えながら画塾に通っていました。

話は変わりますが親は所謂アルコール依存症のようなもので一日中お酒を飲んでいました。朝や昼、夜も関係なくひたすら飲んで落ち着いたら寝て、目が覚めたらまた飲んでの繰り返しです。なので夕方から夜にかけて寝て、私が寝ようと思った頃(23時くらい)に目が覚めてテレビ大音量で付けて夜中まで騒がれていることがほとんどです。2リットルの紙パックの焼酎?も一晩で全て無くなるくらいにはずっとお酒ばかりでした。

からでしょうか、何か少し自分の気にくわないことがあればどんな理不尽なことでも怖いことや暴言をたくさん吐かれました。

弟と違い、私はずっと否定されてばかりなのでつい気になって私をどうして作ったのだと聞いたことがあります。「間違えだった」と返って来ました。そして私は本来双子で生まれるはずだったのですが生まれる前に一人流れてしまったことも同じ時期くらいに知りました。その時から今もですがずっと間違えて生まれて来た私に生きる意味まあるのだろうか?ずっと疑問でいっぱいです。また、あの子ではなく私が代わりに流れていたら良かったのではないか?むしろその方が良くて、あの子の方が私よりも出来が良くて怒鳴られずに済んだんだろうか?所謂普通の、好きなことを、好きなものを、ありのままでいられる、ビクビクしなくてすむ家族になれたのではないかとずっと思うのです。

そして、間違えて生まれしまった私は間違いだらけでどんなにあがいても普通人間にはなれないなと毎日感じています

せめて普通人間になれるように頑張りたいと思います

書いていて自分でも訳が分からなくなりました。

2017-09-04

セックスの後のみりんうまい

アルコール依存症を拗らせて4年、性への興味が異常であることに気がついて7年、気がつけば酒と性に溺れていた。

たまには家の酒を全部捨てたりもするのだが、結局東京駅から神田駅に歩いて行く途中のカクヤスで買い込んでしまう。

性に関しても同様で、複数回やったパーソンの連絡先を消したりもするも、気がつけば新たなパーソンが増えている。

何故か酒と性を混同することは頑なに拒否しており、酔っ払って性をすることはない。もちろん雰囲気作りに酒をやってから性をやることはあるけど。

ただし、最近は割と限界に来ていたのだと思う。酒と性を同時にやりたい気持ちが極限まで高まっていた。しかし、酒を飲みながら、飲んだ後の性は抵抗がある。ならば直後に飲むのはどうか。しかしピロートークも朧げに台所で酒を空けている姿は結局自分忌避している酒と性の混同に他ならないのではなかろうか。そのような考えに自縄自縛状態となり、性の後にみりんを口に含んだわけである

うまかった。

2017-08-31

メンヘラは一回氏ね

15歳の頃から鬱病希死念慮を抱くようになり、自傷過食嘔吐を繰り返して、果てにはアルコール中毒になり今年肝臓腎臓が悪くなりすぎて、意識を失い心肺停止状態になり緊急搬送。2週間意識がなかった。

目を覚ましたとき病院ICUにいた。そんな状態になるまでよく生活できてたなという点だけど、私の住んでる地域では精神科に通院している記録があると、一般病院ほとんど入院を受け入れてくれなかった。私のカルテには摂食障害アルコール依存症不安障害男性依存境界性人格障害自傷癖などの病名が記されていた。受け入れ拒否も、当たり前といえば当たり前だと思う。(さすがに緊急搬送は受け入れてもらえた)

私の家庭は両親ともにまったく毒親でもなく、たまに「普通の家庭なのになんでそんななの?」と聞かれることもあったが、目を覚ましてから特に家族によくしてもらった。その献身的な姿や意識が戻ったことに心底喜んでくれている姿は、今までの蛮行のすべてを恥じ入るには十分だった。

目を覚ましてからしばらくは自力で歩くこともままならなかったけど、自分の体がどんどん回復していくことが嬉しかった。

今まで、生きていることがずっと辛かった。世界のどこにも自分がいることが許される場所なんてないと思ってた。犯罪行為などこそ関わったことはなかったものの、色々と恥の多い人生を送ってきた。楽に息が出来る場所を探すのに必死だった。

何をやっても誰といても見つからいから、半ば自暴自棄に生きてきたので、学歴も職歴もなく、現実的な話、今の私は要素で見れば「死の淵から蘇ったもの」ではあるけれど、今までの「最低な自分」と何か変わったことがあるかと言われれば、何もない。

それでも「一回死ぬ」。この経験に、今までの何もかもの価値観をぶっ壊してもらえた。

生命には意義がある。それはどうかな?と思うけど、少なくとも自分は生きててもそんなに悪しき存在ではないのでは?とポジティブに物を考えるようになった。

今まで、何をしてもされても言われても、変われたことなんて一度もなかった。もがき苦しんでた。でも、死んでしまったら、もがくことすら出来ないんだ、当たり前の事だけど、今まで飲み込めなかったことをすんなり理解した。

メンヘラは一回死ね」は極論だと思う。真剣に死に取り組んでしまったら、そのまま戻ってこれない可能性の方が高い。

最近メンヘラヒロインだのやみかわいいだの、心の闇に着目して文化として取り入れる傾向が強くなってる世の中。それだけ、罹患者が多いのだろうし、昔よりは精神病もつ人が迫害されない世界なのかもしれない。

でも、問題はそこじゃないと私は思う。精神病他者と共有する問題じゃない。それを生み出した自分との格闘の日々なんだ。

自分が変わらないことには何も変わらない。辛いままの人生が続く。

でも、そんな辛い人生でも、輝いていた時間は少なくても、確実にあったはず。その光をありがたく思うことが出来れば、世界は明るい。

そんなことにすら気付けなかった。一回死んで、何もかもをなくして、はじめて些末なことの有り難みを知った。

これから、私は生きていき、辛いことや悲しいことを今まで以上に味わうかもしれない。でも、死んでたら?

そうなっていたら味わえなかった痛みだと思うと、それもまた愛おしく思える。

自殺幇助目的なのではない。何をしても変われなかった人間が、たった一回死んだだけで、変わることが出来た。私はできなかったけど、聡い人ならいくらでも、死ぬまではいかなくとも自分を楽にしてあげることは可能だと思う。

人は変わるよ。大丈夫だよ。今の辛さがすべてだと思わないでいてほしい。

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