はてなキーワード: アニメ映画とは
まぁ批判の一部は読めば理解できるし、うまく書けているとは言えないと思う。
個人的には聴覚障害を持つ可愛い女の子が出てくるフィクションとして図書館戦争がある。
「え、出てきたっけ?」と言う人も居るかもしれない。そんなあなたはアニメ視聴者。レインツリーの国がそのキャラから生まれた派生作品だと、ファン以外にはあまり知られていない。
アニメでは色々な事情があったらしく、メインキャラにも関わらず出演シーンが無かった。酷いと思った。
スタッフも出したかったのか、特典アニメとしてその子がメインの話をアニメ化していた。
アニメ映画では1シーンのみ出てくる。
実写版では続編に登場した。時間の都合上1作目には出なかったのか、それとも「ま、今回は良いよね当たるかわかんないし」みたいな感じで出さなかったのか疑問はある。
方針か時代が変わったのか実写でそのキャラクターが登場して、少しホッとした。
スピンオフでは原作とは全く違う形で記者会見を開き、いわゆる「感動ポルノ」で訴えかけ始めたときは、頭をかかえ思わずテレビを消した。
まぁそんな風にしてあまり原作通り動かせてもらえていないキャラクターなのだが、ここで言いたいのは原作の話。
まぁいじめられてる描写が無いというのもある。彼女の周りで色々と問題が起こるというストーリーもあるのだが、彼女を気持ち悪いと思うことは無かった。
聲のヒロインは聖者のように描かれていた。無理に振舞っている部分を見抜かれ気持ち悪いと言われるものの、それぐらいじゃ彼女が聖女であることに変わりは無かった。
図書館戦争の彼女は嫉妬もするし人も避けた。聖者として描かれていなかったし、言いたいこともはっきり言っていた。
巻数を進めるごとに普通の女の子として描かれていたし、ある種それこそ「理想」であるかのような状況だった。
ここまで考えて分かったのは、聲の形のヒロインは健常者が障碍者に対する「こうあってほしくない」がつまったキャラなのではないだろうか、ということだ。
健常者の大半は「明るい障碍者」を好むのだ。ある種、自分の都合だろう。
言いたいことを言わない、遠慮をする、引っ込み思案でいつも申し訳なさそうに、そしてなにもかもを許してしまう。
そういう障碍者は多いだろう。そしてこれは障碍者だけではない。コミュニケーションがとれない人の多くはこうだ。
しかし世間でそういう人が好かれるのは難しい。もしかしたら聲の形が描いたヒロイン像は、こういうことだったのかもしれない。
また先にも書いたが、聲の形にはまともな大人がほとんど居ない。
ヒロインが自分をおしこめていくだけの環境は整っていたし、いじめがどうやっても解決できないだけの状況になったのも大人の責任だ。
しかし実際に、図書館戦争のように理解できる大人が周りに居ること。理解できる人と恋におちることができる状況はありえるだろうか。
もし聲の形の原作者がヒロインを「好きになってもらえるキャラ」として描いたというのなら、それはおかしいと言いたい。
だけど「リアルを描きたかった」と言うなら、ヒロインだけを見ると、もしかしたら現実を描いたのは聲の形だったのかと思う。
(ただ漫画全体を見ると付属要素にフィクションが多い。本当に許せるか?という疑問は残る。加害者と被害者の恋愛ものは時々実写であるので、その辺も考察していきたい)
うん。だからやっぱり好きなキャラクターは図書館戦争の鞠江になっちゃうね。
障碍者には言いたいことを言ってほしい。そういうことが言える環境に居てほしい。
この二人を比べた結果、そういうことを思うのだった。
このことについて、しっかり考えたことがあるだろうか。
害は果たして嫌なものなのだろうか。なにかに障害があるのは事実なのではないか。
龍と耳で出来た「聾」の漢字の何が悪かったのか。
よくいるけど、MVとかMV的って言われると貶められた気分になるのかな?
どうしてだろう。
宇多田の元旦那の紀里谷和明がMV出身で、キャシャーンで笑い者にされたからかな?
でも、別に「MV的」とか言う人がいても、貶してるとは限らないだろう。
事実として映画の印象的なシーンで同じバンドの新曲が4曲も流れるんだから。しかもアニメの動きと曲はピッタリ連動する。
監督はできた曲を聞いて、作品をいろいろいじったとも聞くし、曲主体の映像作品、MV的なアニメと十分言えるし、むしろ褒め言葉だろう。
むしろ近年、ドラマ仕立てのMVが量産されてYouTubeを通じてどんどん若い子に視聴されている。
だからこそMV的に作られた『君の名は。』が大受けして何度視聴しても飽きない、リピーターが大勢出現したんだろう。
これからどんどん同じタイプのMV的アニメ映画をつくるべきだよ。
日本のコンテンツは、超長連載の漫画や、最低でも1クール仕立てのアニメばかりで映画は弱かった。
これらの長い物語を映画化しようとすると、どうしても端折る部分が大きくなり、説明不足になりファンは納得しなかった。
でも、『君の名は。』の場合、端折ってるストーリーはたくさんあるが、そこを全てRADWIMPSの歌に合わせてダイジェストで流すことに成功した。
歌と音楽で観客への説明不足を圧倒して、なんとなく理解したつもりになって次の場面に行くことができる。
それは
「君の名は」が
『どういう立ち位置の作品』として見ているかが違うからなんだろうなー
と思う
俺は君の名はもっとマニアックな…「劇場版深夜アニメ」くらいのノリで観に行った
間違っても増田なんて見ることはないリア充カップル向けの恋愛映画
や
アニメ映画だぜ?
新海誠ってそんな映画のつもりで作ってたのかなー?(ちなみに俺は新海誠作品はこれ以外何も見たことない)
例えばアレだ
あれくらいの感覚
「基本的にはアニメ好きなオタクをメインターゲットにしてるけど、なんかの拍子にリア充(非オタク)にも受け入れられたらいいなー」
くらいの作品
だから俺は深夜アニメの美少女キャラが男に媚びた言動をしても(個人的にはムカつくが)違和感を感じないように
「まあこんなもんだよね」
としか思わなかった
ネット特番とか見てると異様に腰が低くてめちゃくちゃ常識人臭がするけどあっちこちで叩いてる人いるのが面白い。
さて今朝は君の名ははエロゲみたいだと主張する意見について語りたいと思います。
まずエロゲの定義として胸部をさわさわするものではなく、この場合はストーリーがあるものだとします。
エロゲ会社の社長のツイートがソースですが、エロゲ売上は5年以上連続で毎年20%前後下がり続けているというデータがあるのだそうです。
理由はいろいろあげられますが、とりあえず「売れなくなった」ことが客観的にある事実なのです。
最近の若い子はストーリーのあるエロゲを知らないとは言わないけれど、少なくともブームにはまったく触れてないのでしょう。
大人になってもエロゲをやめられない大きなお友達には、なにかの欠陥があるのかもしれません(それでこそオタクだと言えるでしょう。誇りを持ってください)。
若い子がメインのゲームで、若い子がプレイしない。産業としての終わりを感じますね。
それは「エロゲ」を比喩として使う層は、少なくとも10代では無いということです。
5年連続とも言ってますし、U25にはもう馴染みがないのかもしれません。
エロゲを知り尽くしているかのような発言を見てもアラサーがギリでしょうか。
と言ってエロゲをみんながしていた時代なんてありません。09年の感覚によればエロゲの売り上げは1万でヒットレベルです。
君の名は。は動員数700万人を超えました。
エロゲだ、エロゲだ。と騒いでいる人。それを広めたい人が居るようです。
しかしまったくもってその比喩は広く響かないし、自分がエロゲマニアのおっさんだと認めるようなものなのです。
エロゲプレイヤーとして自信を持っているのなら良いですが、どうも目にするのは「みんなエロゲしてるよね。エロゲみたいだよ。若い子は違和感抱かないのかな」みたいな論調が多く、怖いです。
KOWAI。KIMOI。似てますね。
それと同時にセカイ系を連呼している方もいらっしゃいますが、エヴァンゲリオンは今年で21周年を迎えます。
若い子は知らない、のではなくそこから受け継がれていたものがあり、何度も形を変えたと思う方が自然でしょうが、何故「セカイ系」という概念にこだわっているのか。
古い概念で論じている時点で、多分「君の名は。」を語ることはできないと思います。
(BUMPと一緒に語られることもありますが、BUMP世代よりもう少し下の世代の配信時代が始まってから出てきたバンドです)
(アラサ―世代はニコニコでMADに触れ、ハレ晴レユカイを文化祭や運動会で披露した世代です。新海監督の演出ががっつりハマる層だと言えます)
(テレビで何度もアニメ映画が放送されるというのは、子供だけではなく大人まで影響を及ぼしているはずです)
何故エロゲに結び付けるのだ。もっと色んなアニメや映画や本、漫画を読めばいいじゃないか。
これが今朝の気持ちです。
いや、実際のところ、神木くんみたいな役者さんって貴重なんじゃないかな
その点、君の名は。の神木くんの声はものすごく「普通の男子高校生」っぽさがあったと思う
ただ、逆に言えば神木くんみたいな声の持ち主がいたとしても深夜アニメなんかには居場所が無さそうなんだよね
書き方が悪くて伝わりにくかったかもしれない
神木くん自身が実写映画でも出ずっぱりなのはその通りなのだけど
アニメ映画には実写の俳優ではなくてアニメの声優を使うべき、みたいな論調があるでしょ
で、「君の名は。」にアニメ声優を使うなら誰だろうって、向こうの増田のコメントにもあったけど、
「君の名は。」の主人公を演じることができるようなアニメ声優がいたとして
他のアニメでも仕事を取ることができるかというと難しんじゃないかなあ
と思ってしまったという話
これは普段から映画やアニメを積極的に見ていない層まで取り込んでいるからだそうだ。
確かにプロットも一捻りした謎要素があり、しかし決して難解ではない(見る前からある程度オチが予想できる)
加えて男女の恋愛も盛り込んでいるのだから女性も話に入り込みやすい。
で、だ。
この記録的大ヒットがもたらす今後のアニメの道筋はなんだろうか、と考えた。
主流はやはりTVだ。深夜アニメの数は膨大に膨れ上がっている。
TVアニメの続編、あるいは総集編といった形での映画化は結構ある。
ただそれはTVアニメという土台があり、見てくれる信者がいてこそ、採算が取れるからGOとなった。
かたや君の名は、はどうだろうか。
宣伝がうまかったにせよ、監督のことを知らなかった人も多いはず。
信者以外の人を大勢動員したことで、つまり単発アニメ映画で採算が取れる可能性が見えたのではないか?
崩壊寸前の現場は、君の名はの成功を見て、劇場で見るアニメの可能性を模索し始めているのではないかと想像した。
そもそも発声可能上映だとかペンライトがんがん振りながら見るとかある種の「異空間」を演出できるのが、今の映画館の強みだ。
3Dだって4Dだってアイマックスだって可能性はてんこ盛りんぐ。
ニコ動でコメント打ちながら見るのが新しかった時代は終わった。
これからは、誰かと同じ空間で同じ興奮を味わいながら楽しむ、「ライブ感」が重要になる。
君の名は、はそういったライブ感とは違うけど、皆が見てるから俺も私もという連鎖に入っている。
オタクはもう引きこもっているだけじゃ物足りなくなってしまったんだ。
そして制作側も、あわよくば一般層を引き込める劇場アニメに魅力を感じるかもしれない。
最近のそれなりに売れてるようなアニメ映画を見て来てちょっと思ったことなんだけど。
障碍者を感動ポルノとして消費云々の話が色々あるよね。(最近だと聲の形がいじめっ子向けの感動ポルノだーとかの話とか)
そこまでとは言わないけど母子家庭や父子家庭も出汁にされまくってると思うんだよね。
こういう家庭事情が、「可哀想な主人公」みたいな刷り込みを植えつけたり、大人っぽいだったり母性だったり性格を表現するためのひとつの"属性"としてすごく安易に使われていてなんだか気持ち悪く感じてしまう。
例としては、話題の「君の名は。」とかさ、主人公とヒロインの家庭がどちらも父子家庭だったりするわけよ。
「聲の形」も主人公もヒロインの家庭も母子家庭。バケモノの子もなんだか不器用な父のいる父子家庭をバケモノのフィルターを通して面白おかしく書いただけに見えてしまった。
おおかみこどもなんかも母子家庭だっけ。
ほんとにそれ必要かなぁとか思ってしまう。とりあえず親殺しときましょうみたいな感じなわけ?
親を失っている身としては理解できないというか、そういうのを見るだけでなんだかなぁと思ってしまう。
遅れて鑑賞。若い子も多かったがカップル以外の客も増えていて、結構年齢層も公開初週よりは上がって来たのではないだろうか。以下、長い。
年間とかではなく今までの興行収入ランキングみたいなものを見たら分かると思う。
何故売れたのか?と疑問に思うものまでさまざまだ。
少なくとも「スカスカ」映画ではなかったし「何故売れたのか」という点でも完璧ではないが、ある程度説明つくのではないか。
ステマだけではなく本当に評判が良い映画が自分に響かないと、ただ普通につまらない映画を見たとき以上にガックリくる。
この映画を見る今日まで、映画通やら映画通という名のアニメファンやら映画通という名のやり○ん騒動男やらの、いろんな批判を見た。
映画が好きな自分からすると、「そうか。食いつける映画なんだな」ということで、自分にとっては逆宣伝になった。
(まぁ信頼する映画通たちは結構試写時点で絶賛してたんだけど)
映画が好きだと書いたが、アニメ映画に関してはもっぱら円盤待ちの人間なので、その自分を映画館に行かせたという効果は絶大だ。
まず自称新海ファン評の「新海らしくない映画」だが、しっくりこない。
むしろ新海監督のファンサービスがちりばめられていて、過去作好きこそ振り回される映画ではないだろうか。
キャラ、ストーリー構成から唐突感だったり、詩的な部分だったり、感覚的な部分。とても「新海らしい映画」だと感じた。
むしろ新海らしくないというのなら、何らしいのか。
思いつかないので、やっぱり新海らしい映画だった。
隣りで見てた50オーバーが号泣し、終わった後感想を熱弁していた。50オーバーを若い世代という世界には住んでいない。
しかし確かに今まで見てきたアニメ映画とは、一味もふた味も違うのかもしれない。
ニュージェネレーションに対するギャップが、ある人にとっては大きかったのかもしれない。
例えば主役が高校生だから高校生しか感動しない。というのは馬鹿な話である。
じいさんが主役でも、子供が主役でも、感動するものは感動するだろう。無理なら想像力が欠如している、と言っているようなもんである。
RADWIMPSは嗜む程度だが、あまりRADWIMPSらしくもなかったので、激烈RADファンからすると絶賛はしにくいんじゃないか。
自分のような嗜む程度のやつに、ちょうどよかった。
歌もしっかりはまっていたし、劇判にも仄かにRADらしさがあった。しかしやっぱりそんなにRADらしさは無かったかもね。
つまりファン以外も満足しているということだ。(ファンもある種の初期RAD感が出ていて嬉しいのかもしれないが)
ここはとても「邦画」感が溢れていた。秒速~以外に、自称映画通なら何作品か思い浮かべたいところだ。
昨今の邦画は設定を詰め込み、それを全て説明しようとしてくる。故に物語に勢いが無くなったりする。
しかしそこまで説明されずとも作りこまれている映画に傑作が多い。本家アカデミー賞受賞作などを見ると、設定をしっかりした上でとにかく勢いが凄くて、設定なんてどうでもよくなる。
その部分がエンタメ邦画には足りないなぁと常々思っている。(無いとは言わないし、説明カットし過ぎてダメなのも邦画あるある)
結局作りこみすぎると、ヲタクは解説したくなってしまうのだ。(ヲタク=脚本家・監督)
君の名は。はその絶妙なバランスにたどり着いた。日本人が受け入れられる塩梅での。勢いと説明の狭間だ。
例えば、見てない人には分からないだろうネタバレだが、三つ葉が父を説得するシーンが今作には無い。しかし説得した、と分かる。
でも後々…もしかしたら見終わった後で、もしかしたら2回見た後で「あ、そういえば説得してたな」と気付く仕組みになっている。
見ても無い自分が「フィクションだからさぁ…」と突っ込みたくなるような批判だったが、見た今なら「あれはこういう意味があったんじゃないかな?」と推測できる部分がしっかりある。むしろちりばめられている。突っ込んだ人はもっとストーリーをみるべきだった。
きっとリピーターは血眼で探しているだろうし、他のそういう手品のトリックみたいな演出も、多分2回見たいと思わせる構成だ。
男女入れ変わりと聞いたら、転校生を始めいろんな作品が頭をよぎるだろう。使い古された設定に見えるかもしれない。ボーイミーツガールは王道だし。
その設定を使ったこういう構成の脚本を、薄っぺらいと言うのか。本当にそう思ったのなら絶望的な感覚である。とまで言っちゃう。
「薄っぺらい」ではなく「説明なさすぎ」の言い間違いじゃないのかなあ。
これくらいで良いと思うけどね。商業映画は。(もう一度見て理解したいと思わせる技は必須)
おっぱい揉んだりパンツが見えたりしただけでヲタク向けになるのか。
パンチラは角度的にどうしても見えてるだけであって、逆に見えないのはあの画の中では大きすぎる嘘になってしまう。
パンツが見えないのはギャグだ。リアリティがない。むしろ日常萌えアニメはミニスカで絶対見えるパンツを描かないことで、フィクション感をだしている。
ていうかパンツ一瞬しか見えない。コンマ何秒とかしか見えない。騙された。
この理屈と同じで、実際あの状況なら胸は揉むだろ。
そんなわけであがっている批判を見ても、「え?なんでそんな批判があがるの?」というものばかり。
(例えば漫画原作のように<漫画という神>と違うからという批判は、心情的に良く分かる。調理した方と見た方の問題は根深い。)
是非まだ見てない人に、見てから判断してほしいと頼みたい。別に批判をする人がわるいわけではない。的外れな批判が溢れているだけだ。
どうも売れすぎて、色んな雑音が耳に飛び込んでくる状況になっている。
これを読んでる人は、君の名は。のことが気になっているはずだ。素直に、自分がどう感じどう思うか?と映画で考える良いチャンスなのだ。
そういう空気が付きまとう世界情勢で、映画界、とくに邦画界にもある時点から閉塞感があった。
いつだって現実が向かってきたし、夢物語は無い。そう示してくる話が多く、心の片隅が窮屈な想いをしていた。
若者たちは経済が少し上向いても無駄遣いをしない世代になった。夢を見るやつは、馬鹿だと思っていた。
でも「君の名は。」は希望のある夢を見せた。ここまでの大きな夢は、もしかしたらあの時の自粛ムードと共にタブーになっていたたのではないかと思う。
フィクションだから、アニメだから、一つの大きな嘘を内包することができた。
なにかの穴を埋めてくれたのかもしれない。
JCJKが好むリア充映画だと某所で見たが、それは少し違うと思う。
やたら女子力が高く女の子走りしたり頬染めたりカフェ大好きと、THE萌えアニメヒロイン!な三葉がただただ気持ち悪い。
ストーリーは童貞が描いた理想の恋愛のような気持ち悪い歪な青春像。
キャラクターとストーリーという骨子が萌えアニメで、背景美術と音楽、全体のリズムがエモーショナルな作り。
だから「君の名は。」は「一般人も観れる萌え豚・子供向けアニメ映画」であって、リア充映画でもスイーツ映画でもない。
あと、主人公二人が結婚するところは全然想像できない。すぐに別れそう。
まあ、すぐ別れそうな恋愛物語という意味では非常に少女漫画的で、たしかにJCJKが好みそうではある。数年で黒歴史になると思うけど。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2016/09/14/122251
この底の浅いヒョロヒョロな評論考察を読んでイライラしてしまった。ライターが仕事ほしくてケツにローション塗りたくって新海と川村と野田にケツ差し出して媚びてるようなヌルヌル文章だよ。こんなの。
まあネットを巡回して色んな意見をまとめて自分の考えをたとえ薄っぺらい内容でも分かりやすく主張して言っているという部分ではローションライターとしてはいい線いってるんじゃないか。
で、内容は
東浩紀や渡邉大輔とかはリア充性に注目しているけど、そうじゃない、エンタメ技術論なんだと。うん。その方法論の実現のためにRADWIMPSという存在があると。うん。で、そういう組み合わせを仕掛けた川村元気が天才的なんだと。ううん?
ど、どういうことだろう。一体この人は何を言ってるんだろう。
>こういう風にお互いに共通する世界観、作家性を持つクリエイターを結びつけるのが、まさに「プロデューサーの仕事」なんだなと思う。そして、「音楽×映画」という観点で見ると、川村元気という人はいろんな実績がある。
中略
>高木正勝や山口一郎や野田洋次郎や中田ヤスタカのような作家性の強いアーティストに「映画のための音楽」を作らせる手腕。さらに主題歌と劇伴を同じアーティストが手掛けることによって、映画と音楽が密接に関わりあう作品に仕上げる手腕。そのあたりは、『バクマン』や『君の名は。』や『何者』に共通する、川村元気のプロデューサーとしての天才性だと思う。
おうおうおうおう、いぇいいぇいえいぇい。そうね。はいはいはい。
なんか知ってるなあ。こういう物語と音楽のあり方、なんだっけなあ。昔あったな~、同人誌のタイトルで、椎名林檎とかcoccoとかポルノグラフィティとかの曲名を同人誌のタイトルにしたりさあ。自分の好きなカプのテーマ曲を脳内設定したりあったなあ。つか今でも見かけるなあ。
結局川村元気においての映画と音楽なんてのはこういうことを東宝のプロデューサーとしてのスケールでやっているだけで、天才的な手腕でも何でもない。ただの凡庸さゆえにより大きなマーケットに向けての仕事ができるというだけです。村上春樹聞きながらレディオヘッドとか聞いてる学生と似たようなもんなんです。たぶん、人脈つくりや人と仲良くなることが得意なんでしょう。どうでもいいことですが。
本題なんだけど、もうさ、君の名は。の褒め文章、どれもこれも高校生のポエムみたいなのでうんざりする。なにがちょうちょ結びだよ。テーマが結びだ? んな程度のことたいていの物語系のコンテンツで君の名は。以上の水準でやってるよ。挿入歌の歌詞の考察でアニメ映画の評論かいな。さらにそんなスッカスカの考察のアホみたいな文章にブコメで称賛するスーパーアホもわんさか。こういうアホどもをあぶりだしたことが君の名は。の最大の達成かもしれんな。あと褒めるべきは、中高生をひたすら甘やかしてうっとりした気持にさせるためだけに日本のアニメシーンで最高峰の人材が浪費されたのは虚しいこととはいえけっこうな金儲けになったことだけはまあ褒めてもいいだろう。問題はそんな映画についてクソポエムを書いてしまう連中とそれにくっついていくクソオタ。
チャーリーのポエムに続けて40のオッサンが「ここはまさに同意」じゃないんだよ。
君の名は。に前史みたいなものがもしあるとしたら、適当に今考えつくだけでも、書けるだろう。
そして新海誠が作った山崎まさよしのPVになってしまったような秒速5センチメートルが公開されたのは2007年、ハルヒダンスなんかも当時の中高生にとっては重要なのかな。適当に言ってるだけだけど。
つまり、アニメ文化とPV的映像センスの親和性と消費者のリテラシーがこの10年間でとんでもなく浸透し、上昇した。具体的には、自己像を架空の世界、二次元キャラアニメ世界に没入させる技術が今の10代20代はそれ以前の世代と比べて圧倒的に優れているわけ。
そしてさらにカゲロウプロジェクトや告白実行委員会、ボカロ小説といった、若者向け物語文化がさらにそういうPV的な音楽と物語の需要にさらに拍車をかけた。
はっきり言って、やってること同じでしょ? 君の名は。とカゲプロとかずっと前から好きでしたとかって。新宿感はストリート感に対応しているし、青春ドキドキ胸キュンストーリーだし。
震災をダシにしつつ実際は自分の恋愛の成就にしか興味がないウスラバカのための映画で子供の背伸びにもピッタリ。
というのはまあクソオタ向けのまとめであって、なんでこんなとてつもないヒットしたかって、結局のところ新海誠のくどい撮影のキラキラ画面というのは、大衆にとって衝撃的な画面として映ったってことでしょう。しかも、描かれているものはスピリチュアルでスケールが大きい。ただ素朴に、「え~。アニメでこんなにキラキラした画面初めて~。すご~い」ですよ。それを映画館の大画面で見るんだからカルチャーショックでしょう。物語の内容がアホみたいな間の抜けた王子様とお姫様のきっしょいラブストーリーだとしてもね。べつに中高生がうっとりするのにはそれでいいんですよ。(本当はよくない) 問題はそんなのでポエムしちゃう連中。
田中将賀のパンピ向けデザインが安藤雅司ほかのとんでもない水準のリアリズム超作画で青春ドキドキ胸キュンストーリーが、実際の物語としての出来はともかく、予告だけ見てたらとんでもなくヘルシーで健康的な印象でしょ。そういうただひたすらキュンキュンときめきたいっていう大衆の眠っていた願望を呼び覚ますには充分すぎる画面を提示することができたわけ。本当にただそれだけなの。凡庸な物語センスの新海誠と凡庸な音楽の仕掛け人であるところの川村元気のセンスが大衆向けの子供だましクールジャパンアニメの到達点として結実したというのが妥当な見解でしょうよ。
物語コンテンツの需要における文脈や楽しむための作法には積み重なっていく歴史があるんだということさえ理解できないバカが大量宣伝を大衆向けの物語でやったから川村がすごいんだと単細胞な意見でつっかかってるんだね。ガンダムとマクロスをたとえに出して、君の名は。とカゲプロが似てると思うのは老いだぞ、とか。このエントリの文意さえ読み取れてないみたいで、これはバカでも分かるように書かなかったこっちが悪いのかな。それともバカなのが悪いのかな。
君の名は。をバカにされて頭がフットーしてる人、ケチつけられることがつらい人にオススメなのは川村元気は他所の畑で実った果実を自分の畑で植え直して大衆に売ることの天才とでも思っとけば川村でも天才扱いできるからいいんじゃない?
こっちはライターがフェアな関係であるべき対象を天才とか軽々しく言い出したのがイラついただけなんでね。
文脈なんて前提だよって人もいるけど、だったらライターはその文脈を歴史として記述しなきゃ。ポエムなんかよりも。
なぜヒットしたのか? 天才プロデューサーの仕事だからでありますって。ちゃんちゃらおかしいよ。ライターがプロデューサー褒めそやしてバカな素人がそれに乗っかって「これが君の名は。の正しい評論だよなあ」って好きなもの同士の特権意識で頷き合ってる気持ち悪い構図になってるんだがら。
このライターの人も君の名は。をRADWIMPSの音楽で読み解きたいんじゃなくてただ取引先ともっと仲良くなりたいってだけなんじゃないかなあ。業界の仕組みなんて知らないけどさ。
僕がシン・ゴジラについて「はいはい庵野庵野」と言ったのは、庵野秀明作品の中ではあからさまな様式美の詰め合わせでかつ、他作品でやったことのやきうつしだったからだし、そこに熱狂する人はオタクとして強度が… / “東浩紀氏「シン・ゴジ…”
典型的な学者気取りのオタクが書いた、わっかりにくい日本語と、エビデンスで取り繕ったクソみたいな文章の好例。こういう文章を自己満足でつくることを評論だ、批評だと言う人が嫌いで俺は評論同人への寄稿をやめた / “『君の名は。』の大ヒ…”
アニメについての評論や批評を見ても作品が面白くなる解釈ができるようになるわけでもなきゃ、アニメの見どころや作画的な技術論がわかるわけでもないことに気づいた途端に急に冷めてしまったのです。あー僕がやりたいのは作品紹介や楽しく見るために抑えておきたい情報であって評論じゃないな~と
「オタク文化がリア充色や社会派色を帯びて一般化して、オタクの時代は終わった」とか言ってる東浩紀に心底言いたいのは「今の20代は子どもの頃に押井守アニメやエヴァみたいな要素を含んだ冒頭からスタートするミュウツーの逆襲からアニメを見始めてそれがおとなになっただけ」ってことさ!!
支援ブクマ。いいぞ~ころしあえ~ / “「『動物化するポストモダン』はどこがまちがっているか」はどこがまちがっているか - 赤目無冠のぶろぐ” (2
「オタク論」は学者ごっこでしかなくて、実際にコンテンツが好きな人がコンテンツの話をするためにやってることではないからなぁ~。「評論ごっこ」「論文的なエビデンス漫才ごっこ」であって、もしこれを人文系の学問というならこんなもんに国がカネ出してる方が異常。憧れて同人作るのも狂気
オタクという自意識を持たない人をリア充だというならそれってどうなんだろうって感じはあるし、ジブリアニメで育った世代はオタクじゃなくてもあんなこじらせたものを国民的娯楽だと言って幼いうちから見せられてるんだから、オタクじゃなくてもその基礎的な土台はオタクなんだと思うぜ?
@tm2501 いやだからその事実自体が「オタクの時代は終わった」なのでは
@kimiterary だったら、それは20年前(もののけ姫や、ミュウツーが邦画の歴代ランキングで上位に食い込んで、アニメ映画をオタク以外が見に行く時代になった時)に約束された話だから、今それを言うこと自体が遅すぎない?…とは思う。
まぁ、その辺は記事にしたので夜に出すけど.それはね、多分「表面上の言葉でこの言い方をしたら絶対に誤解されるから、俺なら絶対こんな言い方をしないわ」っていうレトリックの問題であり、ある種の(正直言って、納得行かないけど)同族嫌悪なんだと解釈してるよ…うん
@tm2501 確かにもののけ姫やミュウツーに「オタク特有のグダグダした心理」の描写はないんだけど、その二十年分の変化の集大成として、節目の年と感じてるって話じゃないのこれ。その二十年前にいるのがまさにエヴァなわけでさ。
@kimiterary 東浩紀の文脈(オタクの定義を動ポモで扱ったものやそれを論じたゼロ年代ゲンロンとした上で)あるものはエヴァでありエロゲなんだろうと思うけど、世の中の人のターニングポイントが本当にエヴァだったのかと言われるとそこにはとても疑問を感じるかなぁ…数字の問題として
というか、うちのブログやそのスタンス自体が、「哲学者・批評家の言ってることを噛み砕いて、アカデミックな言葉を使わないで書く」という部分(本人すらアカデミックでそれをもっとシンプルに言い表した言葉があったことを知らずに書くことは多い)があるからねぇ~うん。
@tm2501 「誰しも土台にオタク的部分がある」のは普遍的にそう。ただ、それを突き詰めても「だからみんなオタクであり同時にオタクではない」みたいなところに帰結するだけで、そこからこぼれ落ちる人間、こぼれ落ちる想像力は確実にあって、で、それらはもはや力を持てないって話なんかなと。
@tm2501 世の中のターニングポイントがエヴァだったのかが問題なのではなくてシンゴジラの監督が庵野であることがこの文脈では問題なのでは?
@kimiterary あー…直感的には理解したけど、いいアクションを持ち合わせない部分がある話やなぁ~。
@kimiterary あー…うん。(概ね納得)
だとするとすげー個人的な話を主語がでかいままネットに書き込んだ系のことやなぁ~。「お前はそうかもしらんが、一般的な分岐はそこじゃないだろ」的なモヤモヤは個人的な話である時点ですでに意味を持たないというかその人の手を離れるわな…
@tm2501 つまり「アニメ・マンガ文化愛好者」としてのオタクと「少数派としてのグダグダなメンタリティ所有者」としてのオタクの問題。前者がもはやメインストリームに取り込まれた(皆オタクであり非オタな世界)として、後者の想像力が表出してくる余地が果たしてあるのか、でしょ。
@tm2501 そもそもアレ個人の感想だけどな?
@kimiterary それな(盛り上がってるから真夜中にがんばって記事を書いたけど、結局東浩紀との対立というよりも、EXILEまでオタク的になったという話までの道のりを自分がポケモンとかジブリを使って補填するようなすごく説明的な記事だからいいんだけどさ…)
@kimiterary 「後者はそもそもオタクなのか」とはてなブログにいるとすげー思うけどなぁ~。結局、何を議題にしてもグダグダにグズグズに揉めてる印象があるから。オタク論争だけでなく、人間関係でも、サイトやブログのアルゴリズムやテクニカルな話でも
@tm2501 ちなみにこんなこと言っておいて難だけどセカイ系とは相性が悪いマンだからさほど感慨はない……w
@kimiterary あ、僕もそこはどうでもいい派。15年以上前のオタク同士でランデブーしてろ派だし、安易に話に入ると誰も幸せにならないから意図的にスルーする派
@tm2501 端的に言って本人の能力値がどこでいいからどこかに向けて高くない限り救いようがない人種だけど、わりとそれオタクの本質の1つだと思うんだよな。
@tm2501 てゆーか貴方だしすっげえ雑なこと言うけど、要は1つのテンプレとしては太宰に感情移入しちゃうタイプのメンタリティが挙げられるんじゃないの、後者。ファウスト系に人生曲げられたマンとしてはこの辺他人事ではない
@kimiterary それ、私には発達障害の問題(IQの低さと高さが混在した人間の宿命や悩み)の話に聞こえるから、哲学案件ではなく、精神科案件か臨床寄りな心理学案件な感じがあるかなぁ…。個人的な話でもあると同時に、それらを病気や克服すべき問題と定義したのはそっちだし。
@kimiterary そこまで広くくくっていい話だとすると、それは確かに哲学案件。
@tm2501 俺としては「病気が治ってしまったら病気が治る前の自分は死んでしまう」みたいな感慨があるからいかに病を抱え続けていけるかの問題、自己肯定の問題なんだけどなそれ。戯言遣いが言う「変わりたいって気持ちは自殺だよね」に未だに取り憑かれてる感。
@tm2501 「太宰に感情移入しちゃうタイプ」の「太宰」に代入出来る解としての庵野なり新海ではもはやなくなった、ってことだと俺は理解してるし、なんならそこに代入できる解って今の世界にいるのか?そもそも求められているのか?ってところで一般化していけそうではある。
観た人はわかると思うけど女性人気が爆発してるわりには「君の名は。」は結構エロい。パンチラ、乳揉み、口噛み酒…
しかしそれが結果的には作品の爽やかさに繋がってる というのが素晴らしいと思う。
入れ替わりという題材だからエロスを描かない訳にいかなかったんだろうけど、正面から描いたことによって笑いにも繋がっているし
エロの上位にロマンチックラブが自然と配置される構造にもなっている。
これはおそらく今までのポストジブリアニメ映画にはできなかった事だ。
アニメのエロというのは基本的にキモいし、一般向けを狙うなら禁忌の対象だからだ。
それでも正面から扱ったのは新海の中に逆にロマンチックラブへの強い信仰心があったからできた事だろうし、その方が健全だという確信なんだろう。
アニメが若い世代に受け入れられる土壌が出来たからやっと大衆性の壁を越えたのだと言ってもいいかもしれない。
君の名はと比較されやすいのは細田守作の青春を描いた出世作の時をかける少女だと思うけど、あのアニメは
高校生の男女を描きつつも「セックスするかもしれないししないかもしれませんが、何か?」みたいなスカした部分があって個人的に少し不満だった。
(まぁ題材が違うし当時はあれくらいが良いバランスだったのかもしれないが)
この映画は若者に受けてるみたいだけど、個人的には田舎だったり郊外の男子高校生なんかにいっぱい見てほしい。
エヴァにハマったある年の夏、アニメ映画を見まくっていた中オススメされていた「秒速5センチメートル」は当時の自分には輝きすぎてて予告編だけで辛かったし、何より現実路線の恋愛話なんだろうと思って距離を置こうとしていた。それでも調べてみれば聖地巡礼というまだ聖地巡礼という行為がそこまで一般化していなかったあの時代にそういう事をしている人が居るという事はそれなりに面白いのとリアリティがあるのだと感じ、見た。まず出た感想が「絵が凄い」だった。それからは考察や聖地巡礼を通じて「秒速5センチメートル」は遠距離恋愛という距離と恋愛で構成されている事を理解したし、小説版で補完もした。何度見直したか覚えていない。その後、「ほしのこえ」「雲の向こう、約束の場所」と見た自分はいつの間にか新海誠作品のファンとなっていた。秒速もあってアニメ業界では有名だったけど一般人にはまだまだ有名では無かったからこの人の作品は凄いんだよと周りに言いまくった。
でも「星を追う子ども」で流れが変わったと自分は感じた。追っかけていた自分はまずあれをジブリに似た何かだと。それからは思考が停止したかのようにあの描写はジブリのアレ、これはあれ、みたいな感じで多くの描写を他の作品で出てきた物と捉えた。もちろん今でもそう言ってる人は居るし、初見であればあの光る石を見て飛行石だと感じる人も少なくないと思う。
それでも先日の配信で、2度目の「星を追う子ども」を見て自分はある事に気付いた。それは新海誠作品のテーマの1つに「生と死」がある事だ。自分が入った「秒速5センチメートル」では死というものはほとんど描かれず、生きるの辛いって言いながら生き続ける人の物語だったとも言えるので、これに気付かなかったのも仕方がない気はする。距離・恋愛という先入観から前の2作品ともこの状況下の恋愛はなぁ・・・みたいなのが無意識にあった事で、受け取る感情が制限されていたのかもしれない。ほしのこえは宇宙戦争、雲の向こうは昏睡状態(と戦争)が描かれ、星を追う子どもでは家族の生死が描かれている。だから自分にとって今まで新海誠作品というものは距離・恋愛・心理描写がテーマになっているものという意識をしていたけど、星を追う子どもを見たことで生と死というテーマもあるのだと気付かされた。また、星を追う子どもは公開が2011年とあの東日本大震災から間もない頃で正直な所、生と死なんてテーマを扱った時期が悪すぎたというか運が悪かった感じがあるのだと思う。自分にとってはあの出来事もあってそういった部分をシャットアウトしていたのかもしれない。断言しておくが被災者ではない。だから先日見た時は家族(または親友)を抱きしめたいという気持ちに一瞬駆られた。
自分にとって「星を追う子ども」はターニングポイントであると感じていたがそれは全く違くて、ただ「生と死」というテーマを強く出した新海誠作品以外の何物でもないという事になるし、その後の「言の葉の庭」も考えてみればいじめの様な生死の関わる話が入ってきたりエンディングで距離が生まれるという事は、テーマに沿っていた訳でやっぱり新海誠作品は最高だという事が分かった。このテーマは建設会社やZ会のCMにも出てきている様に自分は感じるし、どういったコンテンツであってもポリシーを貫いている監督は素晴らしいと素直に思う。
今回の新作「君の名は。」には予告編を見る限り、恋愛や距離、そして生死という新海誠が描くテーマが備わっているように見えた。自分にとって最高の作品になっている事に間違いない。だからこそ新海誠作品に描かれるテーマを今更分かった自分が、見に行って自我を保てるか不安でならない。(隙あれば自分語り 執筆時間30分)