はてなキーワード: 高まるとは
いよいよPS5が発売されます。抽選は全部外れましたが、引き続き抽選には参加し続けるので、いつかは手に入れます。
それはそうと、PS5のそれぞれの新機能や機能向上は既存のテレビに映すゲームにも勿論効果があるでしょうが、それ以上にそれらはPS5用にVRゲームに効果がありそうだと、以前から思っています。
PS5の発表済のゲームでは、ヒットマン3がVR対応になっていますが、通常のゲームと兼用のため、そこまで作り込まないのでは、と思っています。VR専用のゲームが出るのが、非常に楽しみです。
※これはしがない男女カプ好きによるただの小言である。
私には好きなゲームがある。そのゲームは何作も発売されていて、何作か毎に舞台が変わるという特徴がある。それぞれ同じ世界を描いた作品ごとに「〇〇シリーズ」と呼ばれていて、その中でもとあるシリーズ(便宜上Aシリーズとする)のとある男女カプに私はとても嵌った。カップリングというものにここまで嵌ることがなかったぐらい好きになったし、そのカプがこの世に少ないのが信じられなくて自分で増やすしかないと決断し、20も半ばに差し掛かった年齢で推しカプのイラストを描くためだけに絵の練習を始めたほどには嵌った。二人が登場するゲームは何周も何周もしたし、何周しても二人がかわいくて仕方がなくて幸せだった。
2年前、その楽しかった日々の終わりが始まった。
そのゲームは、今まではシリーズが完結したらその後、そのシリーズの続編が出ることはなかった。(完全版でイベントが追加されたことはあったが。)しかしAシリーズの10周年を記念して、8年ぶりにAシリーズの続編が出ることが決まったのだ。
この時点で私は既に嫌な予感がしていたのだ。正直、もう既に終わったシリーズを変に弄って欲しくない。もう完結した世界だからこそ、その後の二人を自由に妄想できる楽しみがあったのだ。その未来が、私の最悪な方向に進んでしまう予感しかなかった。
なぜそんな不安だったか?そもそもこのゲームの開発陣は、続編における旧作キャラの扱いが致命的に下手くそだったのだ。
その上そのゲームはどちらかと言えば女の子に比重が偏りがちで、男性キャラはほんの一部を除きあまり良い扱いを受けていなかった。そもそもAシリーズは他シリーズよりも若干百合寄りなところがあり、そこは本当に苦手だったのだが、それ以上に推しカプが好きだったのでそこは見て見ぬふりをして遊んでいた。
しかし問題が一つあった。私の推しカプの女の子側のキャラと、別の女の子キャラとの百合カプがゲーム内一大派閥を誇る程の超巨大界隈だったのだ。そう、私の推しカプはいわゆるマイナーで、対抗カプがメジャーだった。
わかりにくいのでここでは私の推しカプをX(男の子)とY(女の子)、別の女の子キャラをZとしよう。
それだけ人気が高いということは、続編にもそのYとZを登場させろという声は当然の如く高まる。私もそれ自体には半分諦めていた。だって実際人気あったし。そして私の推しカプは人気がなかったし。男の子は雑な扱いをされがちなゲームだったから出てこないだろうし。だからYとZは出てもXは出ないだろう。そういう諦めがあった。ただ、私はYZが所謂地雷だったのだ。そもそもXY固定だったので、YZに限らずXとY関連のCPはXYしか受け入れられなかった。男女だろうと百合だろうとBLだろうとXY以外無理だったのだ。
だからどこかで「頼むからXとY同時に出るか二人とも出ないかのどっちかにして」「お願いだからZは出ないで」と本音では思っていた。前者はともかく後者は口が裂けても言えなかったけど。ファミ通や電プレで新情報が出るたびにZが出ないかビクビクして、出ると発表された時は本気で吐いたし、最後までXの登場を諦めきれなかった。結局Xは出なくて、YとZが一緒に出るという、この時点で最悪の道筋を辿っていたのだけれど。
そして約半年後Aシリーズの8年ぶりの新作が発売された。蓋を開けてみれば、私の推しキャラ、Xの唯一無二のアイデンティティ・役割、そういったXを語る上で欠かせない要素が他のキャラに奪われていた。そう、他の誰でもなくZにだ。
ZがXの役割を奪って、あたかも自分の役割のように語っている様子を初めて見た時の気持ちは、出来れば二度と思い出したくない。
この時、私は初めてゲームの問い合わせ宛にただの問い合わせではなくクレームを入れた。そう、クレームだ。私の好きなXを雑に扱うな、こんな扱いあんまりだ酷過ぎる、受け入れられない、こんなのがAシリーズの新作だなんてあり得ない。そんな当時の荒れた気持ちをひたすら長文でぶつけたただのクレーム。
でもそうでもしなければ当時の私の心は持たなかった。だって、私の大好きなXとYの関係性が、YとZにすり替わっていた。Xが初登場した時にあれだけキャラクターストーリー全てを通して丁寧に描いたXの役割が、そのまんまZに取られた。よりにもよってZに。そしてそれが「公式が大々的に送り出したAシリーズの正当続編」として出ていることに憤りを感じて仕方がなかった。
事実、Xの扱いに違和感を覚えていたものは私だけではなかった。私がXを好きだからXの扱いにキレているのかと思ったが、Twitterを見たら私程怒ってはいないものの、Xに対して「不憫すぎる」「ひどいな」といったことを言っている人たちをTwitterなど相当数見つけた。勿論私のようにXやXYが好きな人は同じようにブチギレていた。
ただXを出さないだけならまだわかるのだ。だって実際Xはそれほど人気がなかった。キャラ商売なのだから、人気のあるYとZを優先するのは商売として当然で、別にXが出ないのは納得していたのだ。でも、だからといってなんでXの役割を奪うの?どうしてそれをZに宛がって百合のネタにするの?YZはあれだけ人気があって公式からの推しも手厚いのに、そこからさらにXの役割まで奪うの?そんなの絶対におかしい。こんな采配を下した人は頭がおかしいんだ。本気でそう思った。
えっ?なんでそんな見えた地雷なのに買ったのかって?Yがちょっとでもゲーム内でXの事話さないかなって思ったからだよ!!!!一言も話さなかったけど!!!!いやそれにもマジで怒ってるんだけど!!!!あれだけの関係性なのに一言も話題に出さないとかやっぱ制作陣Xのこと嫌いだろ!!!てゆーか役割奪ったこと以外にもいろいろ酷いから!!!Xの師匠キャラですら、関係性がありそうな他のキャラですら誰一人としてXのこと話さないし、近しい話題に触れるのにX本人の話は出ないのどう見ても不自然すぎるんだよ!!!マジでそれはみんな言ってっから!
話がずれた。
その後、そのゲームはDLCが出てストーリーが一部追加された。そこに私は一抹の望みをかけた。頼むからXの話題を出してくれ。誰でもいいから。このままXの役割も存在意義も奪われ、あたかもXが存在しなかった世界になっているようなことはやめてくれ。Yじゃなくていい、誰でもいいからXの話題を出してくれと。本当はこんなXに酷い仕打ちをしたゲームにこれ以上お金を落としたくなかったけれど、藁にも縋る気持ちだった。
まぁそんな望みは叶わなかったわけだけれど。
お察しの通り、DLCでもXの話題は出てこなかった。この時点で、Xの役割がZに奪われ、不自然なほどにXの話題が出ない世界がAシリーズの最新作として発売して、そして完結した。
私はこの時からこのゲームを起動していない。さらに正確に言えば、カートリッジケースからも抜き元のパッケージにソフトを戻して、ソフトごと押し入れの奥に幽閉した。その後このゲームの画集が発売され、もしかしたら画集ならなんか書いてあるんじゃと思い買ったけれどやっぱりXのことはどこにも載ってなくて、これも一緒に仕舞い込んだ。他の登場キャラたちに罪はないし、悪いのはZじゃなくてZにその役割を宛がった制作陣だからZには何の罪はないのだけれど、このゲームに関連するものを見るだけで発売から一年半以上経つ今でも毎回吐き気がするしたまに本当に吐く。だから仕舞い込んだし二度とプレイしないと決めた。それでも売ったり捨てたりできないのは、まだ心のどこかで「もしかしたらいつか私たちみたいな人間の気持ちを汲んで追加ストーリーが配信されたりするかもしれない」という甘い気持ちがどこかにあるからだ。ここまで心をズタズタにされたのに、まだ私は甘い考えを捨てられない。そんな未来は来ないのに。
あのゲームが発売されてから、毎日が楽しくない。そりゃ毎日思い出しては悔しくて悲しくて吐き気に襲われるわたまにガチで泣くわで情緒不安定な日々を一年半以上ずっと送っているのだ。仕事中精神を保ってるだけ私は立派だ。
私はあれからずっとあのゲームがこの世にでた事を呪っているし、あのゲームが発売されなかった世界に行きたいと本気で願っている。推しカプを見る幸せより、Xが受けた扱いを思い出す辛さの方が、今はまだ強い。そして多分、公式からフォローが入らない限りこの先ずっと。
このゲームの制作陣に言いたい。Xに対する虐めのような扱いをする作品を作って楽しかったか?私という一人の人間の感情をここまでズタボロにしたゲームを作った気持ちはどうだ?
昨今話題になっている婦人用タイツについて、広報面からではなく実用面で理解をする為に実際に着用してレビューすることを試みた。タイトルで述べた通り私は男性なので、閲覧に不快を及ぼすと考えられる方はこれ以上先を読まないように注意されたし。なお、メーカーに対する悪評を避ける為にも、メーカー名は伏せることにする。
休日の昼頃に通販で注文した婦人用タイツが届いたので、約半日ほど実際に自宅で着用してみた。タイツのデニール表記はよくわからなかったが、ネット市場の評価から主流だと感じた80デニールの物を選んだ。
実際に着用する際、つま先からすね全体までピッチリとタイツが肌を覆うので、すね毛が濃い人は不快感を覚えるかもしれない。幸いにして私はさほど気にならなかった。始めはトランクスの上からタイツを着用したが、トランクスの生地が肌にまとわりつく不快を感じたのでボクサーブリーフにした。ビキニパンツならもっと違和感なく着用できたかもしれないが、所持していないので詳細はわからない。下着を着用せずにタイツを直接履くのも良いかもしれないが、性器や肛門がタイツに触れることに衛生的な嫌悪感があったので、私は実施していない。
下半身をタイツ姿でしばらく過ごしてみたが、下半身全体がスースーするのだが寒くない。下半身を覆う布地があまりにも薄いことに違和感を感じるがそれでも寒くない。普段自室ではジャージを履いているのでタイツの上にジャージを履いてみたが、そうするといつもよりじんわりと下半身が温かくなった。
ただ下半身全体をやんわりとだが締め続ける感覚はあまりリラックスできないと感じた。仕事ではベルトやネクタイなどで体を締め付けられることに慣れていても、自室でくつろいでるときにベルトやネクタイは嫌だろう。それと同じような不快感が下半身全体を常に支配し続けている。
激しい運動を試みてないからわからないが、歩いたり立ったり座ったりの動作に関して足腰に違和感はない。ただし、男性器に関しては大きな違和感がある。これを次の項目で述べる。
陰茎を下着の中でどのような向きで収納するか、いわばチンポジの問題である。トランクスであれブリーフであれ、チンポジはさほど重視されることはなく、身体の動きに合わせて陰茎は柔軟に稼働することが常であろう。しかし、タイツを着用すると陰茎の位置は完全に固定される。婦人用タイツでは陰茎が占める空間を考慮していないので当然のことだろう。下向きに陰茎を収納すると勃起を阻害されるので、上向きに収納するのがいいだろう。ただし、陰茎がへそ下の肌にぴったりと張り付くので、陰毛が包皮に絡まりやすい。陰毛を短くカットしている人や、手術等で包皮に余りが少ない人なら問題ないだろう。
陰茎よりも問題なのは睾丸の位置だろう。立ったり座ったりの動作で腹腔内に収納されそうになる。私はタイツの着用により幾度となく左の睾丸が腹腔内に入り込んでいくのを経験した。無論だが睾丸を長時間腹腔内に収納するのは、男性機能にとって良くないだろう。
元サッカー選手にして日本代表の選手や監督を歴任した岡田武史氏は、サッカー用のアンダーパンツとして女性用ショーツを愛用していたという。激しいスポーツでは男性器の動きをいかに押さえて保護するかは大きな関心事だ。漫画でしか知らないことだが、コッカケなる睾丸を腹腔内に収納する格闘技の技法もあるそうだ。ただし、スポーツ等の運動を実際にやってみたわけではないので、婦人用タイツがスポーツに適するかは不明である。
立って小便をすることはほぼ不可能になる。タイツをひざ近くまで下ろすと、足を開くことがタイツで阻害される。がに股になることは不可能で、肩幅程度に足を開くことすらできなくなる。タイツの伸縮性はあくまでも着用した時のものであり、脱ぎかけ状態での伸縮性は考慮されていないようだ。無理にそのまま小便しようとすると、タイツや太ももに小便がかかることは必至だろう。足首までタイツを下ろすと、一歩も動けなくなって転びそうになるので小便どころではない。よって、必然的に座っての小便を強要されることになる。自宅なら問題ないが、外出先でこの問題は致命的だろう。
普段私は夕食後しばらくたってから小便を済ませて入浴をするが、せっかくだからタイツの保水性を確認してみようと思い、タイツを着用したまま浴室で小便してみることにした。タイツで男性器を圧迫し続けているので、着用したままでは小便は出づらかった。何とか小便をひりだしたがかなりの尿量を吸収する。計量したわけではないので概算だが、200mlほどは吸収できるのではないかと思う。タイツの色は黒なので尿染みは目立たない。
小便を漏らしたまましばらく立ち尽くしていたが、むせあがるようなアンモニアの香りとともに、下半身の不快感が高まってきた。長時間そのままでいると尿で肌がかぶれると思うが、それより先に寒気が全身を襲ってきた。11月になり夜は寒くなってきたし、上衣が尿でぬれることを嫌って上半身裸だったこともある。シャワーヘッドをタイツの中に突っ込み、温水で洗い流すとともに体も温めた。
タイツ姿のままで浴槽に張った湯の中に体をつけると、タイツが肌に張り付いたままに縮こまり、自然と膝を抱えるような姿勢になった。下半身の可動域が狭くなり、足を動かすのに力が必要になる。もしもタイツを履いたまま川などに転落したら、溺死する危険性が高いだろうと感じた。
前述の「男性器の位置」の項にて、下向きに陰茎を収納すると勃起を阻害されると述べた。その状態で勃起をする程に性感が高まると、通常陰茎に流れるべき血流が流れず、代わりに下腹部を中心とした全身が火照ってくる。さながら女の子になった気分だ。タイツの上から陰茎や睾丸をなぞると快感が襲うのはもちろんだが、乳首・耳・首元・臀部など全身の感度も高まり、自ら撫でるだけでも高い快楽を得られる。
性交渉の場でもタイツの着用を応用できると思うが、残念ながら相手がいないので確認できなかった。
普段着用なら星5つ中星1つだが、性具用なら星5つ中星4つと評価する。そもそも、普段着として防寒用に利用するなら男性用のタイツ(メンズタイツ)を利用するのがいいだろう。それに対して性具用としては、「保水・耐水」の項と「自慰・性交渉」の項で述べた通り高い潜在能力を秘めている。安価で洗って繰り返し使えるので、オナホール等よりも経済的といえるだろう。ただし、睾丸を圧迫するなど男性器に悪影響を及ぼす恐れが考えられるので、男性器を生殖に用いる予定のある方は利用を控えたほうがいいだろう。
BLUE GIANTって漫画を最近読んだんだが、それ以来音楽を聞いてると楽器演奏者の姿が浮かぶようになってきた。面白さ2割増しだ。
ブルーピリオドって漫画も少し前から読んでるんだが、こっちも読んでから美術館に行くと、作った人間の気持ちとか、それを色んな立場の人がどう評価してきたのかに思いを馳せられるようになった。面白さが倍になった。
こういう作品って他にもあるのかね?
いわゆる目を開いてくれる系の作品だと思うんだよな。
優秀な批評家は作品鑑賞の幅を広げてくれると言ってたのはヨイコノミライだったかな。
つまる所、俺が今求めてるのは「その作品の影響で自分の中に正しく作品批評をしようとする視点が新たに生まれるような作品」なわけだな。
ある?
多分はてなーなら1000個ぐらい知ってるでしょ。
半分でいいから教えてくれ
これからの時代、子供を持つのも持たないのも自由だから子無し世帯も増える。
努力をする、という行為はそもそも矛盾であって、人間は努力をしないようにできている。更に言えば、人間は努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。
というのは、努力をする、という行為が必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事だからである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義で効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト(努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身のマイナスにしかならないということなのである。
脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力が必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力が必要=期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間の努力は無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。
例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体(努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間の生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為は人間の生存戦略上の矛盾なのである。
とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間が期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間の生存戦略に矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。
繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである。
才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽は期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力は努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。
とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。
俺は凡人である。つまり、努力をしている人間である。期待値の低い試行を繰り返している人間である。
というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄にリソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的な判断能力はとっくの昔に欠落している。
さて、そのような凡人にとって、基本的に努力というものは期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率の努力がある」というテーゼがそれに当たる。
凡人――最も努力の費用対効果(コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というものが存在する。それは事実である。「努力は矛盾である」という原初的命題(テーゼ)を止揚(アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。
「制限された状態から効率の最大化を求める行為は矛盾ではない」。
これがジンテーゼだ。
努力をしなければいけない人間は、能力に制限と限界(リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力は基本的に効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というものが存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェスの世界における現人類最強の人間はノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間は相対的にチェスの能力に制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり、人間には万民において制限が、限界が、リミットが存在している。
となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいかに効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為が可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為は可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空の重力トレーニングを想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。
そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種の制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空が重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種の重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。
そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるのである。
ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである。重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力の対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力に意味を見出すことができるのである。あるいは、重力そのものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである。
テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。
人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。
誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳からの重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。
例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章の練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。
毎日あいうえお、と書いていると、殆どの人間は次のように思う。「『あいうえお』簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。
そうなったならば、相対的に難しいけれど比較的簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事は簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである。
そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。
才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。
すると矛盾は消える。
まずオフェンス面としては「言葉による定義」や「その定義に当てはまるものの社会的な有害性のエビデンス付き証明」ぐらいは必要ですし、
ディフェンス面としては「同じ定義に当てはまるものが社会に大量にあったりはしないかのチェック」ですとか、「エビデンスに恣意性がないかのチェック」ぐらいはしておかないと討ち死にリスクが高まるでしょう。
現代日本人の過半数が大卒なはずなのに、こういう理解をちゃんとできてる人が少なすぎる。
まぁこういう傾向って規制派・フェミニストというよりは、右左にかかわらず「先鋭化しちゃってる層」の共通の特徴だと思うわ。
右側で言うなら街宣右翼。
自分の考えが「完全な正解」だと思い込んでるから他人の話に耳を傾けず、仮に本を読んだとしても自分の都合のいいように解釈する。
批判されても自分は完全に正しいと思い込んでいるから相手の話を聞く前から間違っていると決めつける。だからそもそも真面目に話を聞こうとしない。
俺は第二次安倍政権以降の自民党下で選挙権を獲得した20代男性だけど、これまでずっと野党に入れてきた
それは俺自身と保守的なイデオロギーとの親和性が少なく、またアベノミクスの恩恵を賜れなかった人間の1人だったからだ
あと様々な政治スキャンダルにおいて文書主義や立憲主義に反してるといった反感も、一応はあった
しかし後述するように俺はインテリに反感を覚えているので、文書主義や立憲主義といったインテリが築き上げてきた価値観を擁護することに心理的抵抗があったのも事実
表題の話に戻すが、ぶっちゃけると俺はスガーリンが学術会議のインテリどもを弾圧する様を見ていてめちゃくちゃ痛快だったんだわ
いわゆる大学人達が俺みたいな(俺は高卒である)大勢の有象無象の非インテリが払った血税を原資に学術会議等という大層な看板を掲げた象牙の塔に集ってなにやら難解な言葉遊びに終始していたわけで、スガーリンはそんなインテリどもが積み上げていた言葉遊びのジェンガを横から派手にぶっ壊してくれたんだよね
そりゃ痛快でしたよ正直に言って!!
俺はこれまで会社で新卒が入ってくる度に学歴コンプレックス拗らせてきたんだよね
俺は高卒中途採用組なんだけど、MARCHくらいの人達がよく入社してくる会社なので俺の学歴コンプレックスは高まる一方だったんだよね
それで俺もコンプレックスを補償する様に小難しい新書を読んだり朝日新聞取ったりしてきたわけさ
だけど根本的な部分でインテリに見下されてるっていうコンプレックスは解消されなかった
話変わるけど俺の同期にも高卒がいて、そいつは俺と違って大卒へのコンプをかなり明け透けに口にするんだよね
MARCH卒の新卒の後輩に対しても「大学なんて遊ぶ為に入るやつばっかでしょう?」みたいなことを言ったりする
俺はそれを端で聞いててソワソワするわけだけど、それ言われた後輩の表情には余裕が見て取れるわけ
「まあそういう人もいますね」とか言って同調してみせるんだけど明らかにアカデミアの内情を知らない高卒への余裕を感じて取れるわけ
こういう余裕に俺はとても敗北感を覚えるんだよね
まあそんな話はともかく、俺はスガーリンの学術会議虐めに正直言って喝采を送りたいよ
こういうこと言うとインテリどもは「菅政権は新自由主義政権だぞ!お前みたいな弱者が支持するのは肉屋を支持する豚に等しいぞ!」みたいなご忠告をして下さることが多いけど、じゃあお前らは俺達みたいな非インテリの為にどんなビジョンを打ち出してくれるの?って思うわ
インテリどもが支持してる立憲民主党だってマイノリティや貧困層への視点こそ分厚いものの俺みたいな能力的に劣る非インテリへの態度は多分に新自由主義的なんじゃねーの?
どうせどっち選んでも相手にされないなら俺はインテリどもが嫌がる政党を支持するね
デービット・アトキンソンでも竹中でも三浦でもインテリが嫌がるなら大いに結構
橋下徹だろうと高須委員長だろうとどんどん呼び込めばいいと思うね
まあ実際はインテリも馬鹿じゃないから大半のインテリは空気に逆らわずに文書改竄とかするわけじゃん
だからスガーリンが粛清できるインテリっていうのは自己の主張に意固地になる堅物なインテリに限定されるんだろうけどね
まさか俺だって現代日本でポル・ポトみたいなインテリ大粛清が叶うとも思わなければ望んでもいない
ただ学術会議みたいなインテリどもの巣窟が粛清される様には溜飲が下がる思いがしたよ
選挙はわかんない
正直また野党に入れるかもしれないし初めて自民に入れるかもしれない
それは事実なんだよ
僕の好きな仏教系の挿話に「火事で燃えてる家と赤児の話」というのがあって
どんな話かというと、とある家が火事になっているとする――。その燃えている家の、崩れた瓦礫の隙間に赤ん坊が取り残されているとする。赤ん坊はどうやら周囲の状況にあまり気付いていないらしく、指を咥えてぼんやりとした面持ちのままその場に座り込んでいる――。まだ火の手はそれほど近くにまでは来ていないから、何らかの手段を講じれば赤児の命を助けられるかもしれない、みたいな話。
でも、瓦礫でできたスペースは小さくて、その奥まった場所に取り残されている赤児の元へは、大人の体では大きすぎて辿り着くことができない。また、その瓦礫を除けようも、ちょっとしたバランスの変化で瓦礫は崩れ落ちそうに見えるくらい、その均衡は危うい。つまり、その時赤ん坊を助け出す手段としては、赤ん坊自らの力によって瓦礫の外へと這い出してもらうより他に方法がない、という状況である。
さて、この時赤児にアプローチするには幾つか方法があって、この挿話によればその方法は主に二つである。一方に関しては、これは失敗が決定付けられた最も愚鈍な手段であるんだけど――次のようなものだ。
「火事なんだ! すぐ傍にまで火の手がやって来ている。だから早くその場所から逃げ出すんだ。さもないととんでもないことになるぞ!」
当然この方法は赤児の命を救うことができない。それは無論のことで、赤児はまだ大人の冷静な言葉を解するには年齢や知能の発達が不十分で、その言葉を正しく理解することなど到底できないから、正しい指示を送ったところで何の役にも立たないということなのだ。
また、そこにはもう一つ細かい問題というのもあって、この挿話ではそれについて次のように述べている。大人が必死な目をして、必死な声で赤児に対して叫ぶのを見て、むしろ赤児は言うことを聞くどころか怯えて、泣き出して人事不省に陥ってしまうなり、あるいは、間違った方向へと這いずって逃げ出してしまうなり、むしろ事態が悪化する行動を取る結果にしかならないだろう――とこの挿話の語り手は述べるのである。
さて、そのような具合に、「正しい情報を与え、正しい指示を行う」といった方法はこの場合何の役にも立たないことが示された。それどころか、より事態を悪化させることにしかならない、という結論が述べられた。勿論これはあくまで仏教的な挿話の範疇で示唆されていることではあるんだけれども。いずれにせよこちらは失敗にしか傾斜しない、二者のうち一方の愚鈍極まる手段ということであった。
では、もう一方の手段とは何か。
それは、「何か音の出るおもちゃを持って、笑顔で赤児に呼びかける」である。
上手くいけば、赤児はそのおもちゃに興味を示して、出口の方へと這いずって自ら正しい方向へ歩むことができるかもしれない。少なくとも、何ら言語を解さない赤児に向かって、「逃げろ」だの「火事が迫っている」だの叫ぶよりはずっと結果はマシになる筈であろう、とのことであった。因みにこの方法を用いる理由として一つ、さらに重要な前提があって、つまりそれは赤ん坊はよくも悪くも自分自身がおかれている状況に無自覚であるということである。そのため、赤ん坊は火事の危険を知らず、余計な恐怖や危機感によって泣き叫んだり人事不省に陥ったりする心配は今のところ無い――つまりは割と平然としているということが、この第二の手段を更に正当化する理由となるのであった。
時間制限は確かに存在する。火の手が回る前に、迅速な判断が必要な場面ではある。とは言え、自らの膂力によって瓦礫を除けたり、あるいは赤児の取り残された小さな隙間に入り込むといった手段を使えるわけでもなし、正しい指示を送ることは怯えさせるだけで役に立たない――そんな時に用いるべきなのは、本当は「おもちゃの音色と、同時に浮かべられる朗らかな笑顔」なのだというのが、この挿話の結論であった。
賢明な読者の皆様はお気付きであると思うが、この「火の手が迫り今にも崩れそうな家」と、「状況を理解していないし、また言語を解すこともできない、取り残された赤ん坊」は、現世と衆生にそれぞれ対応した比喩となっている。もっと言えば、それは我々の世界と我々自身についての比喩なのだ。
(あるいはこれは、悟りや涅槃(救い)というものと、それを理解できない衆生の対比になっているとも言える。)
いや、こんなこと言ったら気分を害する人もいるかもしれないんですけどね、まあ仏教というか宗教全般は大体そういう通底した考えとか世界観があるのはしゃーない。正しい言葉で語りかけても、衆生は危険を認識するどころか怯えて遠ざかり、尚の事炎の害に遭う可能性が高まるので、何らかの便宜的な他の手段(この場合はおもちゃと笑顔)を講じるべき、というのが、仏教側のスタンスだということでした。まあいずれにせよ昔の人は面白い喩え思いつくなー、とかそういう話なんですねはい。
嫌なんですよ。嫌なものは嫌なんですよ。
別にマスク自体は嫌じゃないですよ。去年までは花粉で鼻がムズムズしてるときとか普通につけてましたよ。マスクつけてかぶれるとかも特にありませんよ。
春先、ちょっとメンタルが弱ってたんですよ。でもそんなの、適度に遊びに行って人と交流して図書館に入り浸ってイベントに通ってとかやってれば自然と治まるくらいのメンタルの落ち込み具合だったわけですよ。
なのにそれを全部奪われた。
狭い部屋に閉じ込められた。ギスギスした環境で暮らすことを強いられた。テレワークの普及でただでさえ遅かった通信回線が激重になって、ネットすらできずそんな場所に軟禁された。死んだメンタルのままで何ヶ月も過ごすことになった。ぶっちゃけ軽く病んでましたよあのとき。
だから、もう、これ以上何かを奪われたり何かを強制されたりするのは嫌なんですよ。
私をあんなふうに閉じ込めた連中の言うことなんて絶対聞きたくないんですよ。
マスクをつけろという圧力がはびこっているのなら私はマスクを外しますよ。マスクが嫌だからじゃない、マスクが強制されているから外すんです。
これが仮に帽子をかぶれという圧力だったら私は髪をむき出しにして往来を歩きますよ。眼鏡をかけろという圧力なら裸眼で街に出ますよ。視力クッソ悪いけど。
私は去年通りの生活を続けますよ。鼻がムズムズしているわけでも咳やくしゃみがすごい出てるとかでもないのなら別にマスクはつけないっていう生活を続けますよ。
それが抵抗ですよ。私のメンタルをボロボロにした連中へのせめてもの抵抗ですよ。私を軟禁したやつらへのささやかな叛逆ですよ。
もちろんわかってますよ、あのひとたちも善意でやってたんだってことは。あのひとたちはあのひとたちなりに必死だったんだろうなってことは。
でもそんなのボロボロになったメンタルとズタズタになった人間関係とポシャった仕事の前では何になるっていうんですか。
許せない。私をあんなふうに閉じ込めたやつらのことは許せない。いや許してもいいけど、あいつらの言いなりになって行動に制限を受けるのだけは我慢ならない。
だからマスクは基本的につけてませんし、接触確認アプリも入れてません。嫌なものは嫌なので。
自分がコロナにかかったらこれまでの判断を後悔する日がひょっとしたら来るのかもしれないけれど、少なくとも今の私は、圧力に屈さずノーマスクを貫くことで自分を支えてる今の私は、熱もなければ咳もしてないのにマスクをつけようという気にはなれない。
数年後くらいにはマスクと和解できる気分になっているのかもしれないけど、残念ながら今の私のメンタルはまだマスクを許せていないので。
っていうか、繰り返しになるけど、許せないのはマスクじゃなくて、マスクが象徴している監禁の記憶なんですよね。あの閉じ込められた悪夢の日々の記憶が薄れない限りユニバーサルマスキングには協力できないなぁ。
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
強制されるのは嫌と言うのは分からないではないが、わざわざ逆を行こうとする必要はないのでは。マスクをつけるのが嫌なのはよく分かる。
別にわざわざ特別な行為をしているわけではないですし……去年と同程度のマスク消費量で暮らしてるだけです。つまりごくごく普通の、当たり前の日常生活を送っているだけ。わざわざ能動的な行為なんてしてないっすよ。
マスク着用のところを非着用で入ろうとして揉めるとか
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
飛行機で降ろされた人?
元々海外にはよく行くのとメーデー民なので飛行機で基本的な自由が制限されることは諦めてますね。空港と機内ではおとなしくマスクつけます。
でも飛行機でマスク拒否して降ろされたマンのニュースには同じマスク拒否マンとして同情と連帯の気持ちが湧いてきて市中では積極的にマスクを拒否していこうなというお気持ちが高まるというか……
所属する共同体への貢献とか、チームプレイみたいな行為のことを、この手の人たちは「同町圧力が」「強制が」「全体主義の足音が」とか言う。
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
映画館でマスクせずに会話するのなんて去年までは当たり前だったでしょ。その程度のことでガイジ呼ばわりしてくる人の方がどうかしてますよ。まあこっちに関わってこないのならどう思ってようがその人の自由ですけど。私も別に積極的にあんたらに話しかけたりはしないので。
んじゃあ「生きろ」って強制されたら死ぬんですかね、的な極端なことを言いたくなる程度には「ああただの我儘か」で斬って捨てたい案件/自分が感染するのは勝手だけど「他人に感染させる」リスクは考えてくれ。
じゃあ私がメンタル病みそうになったのもただのワガママってことですか。あまりにもクソ野郎の言い分すぎて「マスク拒否に正当性を与えてくれてありがとう」としか言えないっすね。
っていうか、私が風邪をひいたときもインフルエンザにかかったときも水ぼうそうになったときもおたふく風邪をもらってきたときも水虫を発症したときもなんかのウイルスで死ぬ寸前の状態になって病院に担ぎ込まれたときも、誰も私に感染させた人を責めなかったし、病気にかかってそれを他人にうつしてしまった人もあくまで被害者であってなんら責められるべきではないというのが良識的な態度だったはずなのに、なんで私が自分のメンタルを守るために普通の暮らしを送ろうとしたら「他人に感染させるのか!」って責められなきゃいけないんですか? 理不尽 of 理不尽。こういう犠牲者非難には絶対に屈しない。人権を守るために徹底的に闘いぬいてやる。
大口叩いてる割には本気の怒られが発生する場所(飛行機、個人店)ではマスクするとか日和ってるな。大丈夫そうな所でだけマスクしないマンやって勝った気になってるとかダサすぎるわ。
いや、個人店ではしてませんけど。よく行く個人店でマスクしてなくて怒られが発生したことはないし今後もなさそうなんで安心してノーマスクで通ってますね。あくまで民間のお店には巨人ファンを断ったりピアスしてるやつを退店させる自由はあるよね、という原理原則を確認してるだけです。
たっくさん書いた後に「空港と機内ではおとなしくマスクつけます」って書いててズコッとなった。わがまま通せそうなところでは通そうとし、絶対無理なところでは長いものに巻かれとるやん。
上で書いたけど、コロナ前には旅行やら何やらで年に何度か飛行機乗る生活してたんですよね。で、もともと飛行機っていうのはコロナ以前から
という2つの条件があるから、別に1つや2つ制約が増えたところで気にならないわけですよ。っていうか諦めモード。年に数回の非日常経験のために自分の自由やプライバシーが制約されるのはある程度仕方ない、嫌なら船なり列車なりそんな偏執的に身体検査とかされない乗り物に乗ればいいんだし、という話で。
それに対して1年で300日以上過ごし日常的に使う街や施設でこれまで享受できていた自由が享受できなくなるのは受け入れられない、という話です。そんなにわかりづらい?
長期間マスクすると呼吸に支障あるので、それが必要な所にはもう行かなくなった自分には、メンタルが耐えられないと言いつつ何時間もマスクして飛行機に乗れるというのは嘘八百にしか見えない
たまにしか乗らない飛行機の中や空港で当たり前の自由が制限された非人道的な扱いを受けるのは慣れてるしそんなもんかと耐えられるけど日常的に使う地下鉄や商業施設でそんな扱いを受けるのは慣れてないし耐えられないし慣れるつもりも耐えるつもりもないという話なので……
監禁とかよくわかんないんだけど、強制が気に入らないというのなら卒業式の起立斉唱やら戦争中の飼い犬供出にも抵抗するんだろうか。だったら応援します。
卒業式の国歌斉唱を強制するのは明確に反対で、戦時中に非国民呼ばわりされてでも全体主義に反対した人たちのことは尊敬してますね。まさかたかだかマスクをつけずに電車に乗る程度のことで先人の衣鉢を継げることになるとは思いもしませんでしたが……
献血には定期的に行ってますけど、もしも仮に赤十字が「来てくれた人ありがとう! 献血できる人は献血してくれると嬉しいな!」じゃなくて「来て当然。来ないやつは社会不適合者」みたいな態度を取り始めたとしたら献血行くのやめますわ。当たり前でしょ?
こういうのはレアな難病でマスクがつけられない人みたいなものだと思えばいいのでは。徒党組んでマスク反対集会をするわけでもなさそうだし。
クラスターデモに参加しなかった最大の理由は「デモとかするときは顔バレとか嫌だからなるべくマスクを着けたい」というコロナ以前からの考えと完璧に衝突するデモだからですね。どんなに良い目的であっても素顔をさらしてデモ行進とかするのは抵抗がある。でもまさかマスク反対デモにマスク着けていくわけにはいかないので……