はてなキーワード: 証左とは
目下W杯最終予選中のサッカー日本代表ですが、とうとう森保監督を支持する人がどこにも見当たらなくなりました
昨日のオマーン戦も、勝ちはしましたが、Twitterでは#森保解任がトレンド入りするなど、サッカーファンからの評価は目も当てられない状況になっています。選手起用と采配が、殆どのファンにとって納得できないものだからです
ポゼッションこそすれど、チャンスを全く作れなかった前半について「そんなに悪かったですか?」と振り返るなど、森保監督がきちんと内容を分析できていないのは明白なのですが、これは目指しているサッカー像が古くて、そもそもの戦術解像度が低いからでしょう。問題を把握できないのは、問題に対処できないよりもまずい事態です
ビルドアップのコンセプトがない。アタッキングサードでバリエーションがない。フォーメーションありきで、ポジションに選手を当てはめるだけの古いサッカー観。謎のメモ。繰り返される精神論。森保監督の仕事は、ピッチの中は選手に任せて、外から鼓舞するだけの簡単なお仕事に見えます
「W杯の切符を掴み取るために毎試合トーナメントのつもりで戦い抜く」と森保監督は言いますが、日本代表の目標はいつからW杯出場になったのでしょうか?僕の記憶では目標はW杯ベスト8だった気がするのですが、もしかして森保監督だけは、まだドーハで戦っているのでしょうか?
選手選考とスタメンについても、お気に入りのベテラン選手に固執しているという批判があります。もしかしたらこれは、ステークホルダーにいい顔をしたい田嶋会長のゴリ押し、またはそんな田嶋会長への忖度があるかもしれません。森保監督は気遣いの人らしいので、十分にあり得るでしょう。あとは、森保監督は頑固で負けず嫌いな性格だそうなので、外から批判されればされるほど意固地になっているという説もあります。Twitterやネット記事に目を通しているかは分かりませんが、これもあり得る話です。戦術の解像度を高め、旬の選手をうまく活かせるチーミングと選手起用をお願いしたいものです
試合中の修正力の無さ、というのも批判されているポイントです。先制した試合では負けなしだが、先制されると勝てないというデータがあるそうで、これが試合の状況に応じた臨機応変な采配がないことの証左だといわれています。因果関係を示すには一足飛びの論理ですが、森保監督が臨機応変な采配ができないことは試合を見ていれば明らかです
サッカーの最新トレンドを作っている欧州リーグで活躍している選手も多い中で、いまだドーハに魂がありそうなザ・ドメスティック・メモライター、森保監督。田嶋会長がおしすすめるジャパンズウェイの未来は、果たして明るいのでしょうか
まず当然、オタクを醜悪に描くことを忌避するのは「普段みなさんが嫌ってるポリティカル・コレクトネス」ではない。
元ツイートが、橋本宗洋が、ポリティカル・コレクトネスの基準を全く理解していないことを端的に表している、という認識はあっている。
ただそれはポリティカル・コレクトネス支持者たちの反応を見てから初めて分かるものではない。
なぜなら、そもそも、ポリティカル・コレクトネスの基準においては、「悪」を醜悪に描くことは、政治的に正しいからだ。
オタクの行為が「悪」であることを、行為によってだけではなく、その描き方でも表現することにより、無知な大衆でも直感で「悪」を判定できるようにする。
これはポリティカル・コレクトネスの基準において正しい。
行為の良し悪しは無知な大衆には容易には判定できない。その基準を言語化できない。その訓練を受けていないからである。
だから、作者があらかじめ「善」「悪」を判定しておき、それが直感的に、生理的に理解できるように表現を工夫しておく。
もちろん、「悪」でないもの、例えば特定人種や性的マイノリティを醜悪に描くことは明確にポリティカル・コレクトネス違反である。当たり前だ。
だが、間違っているのは、「悪」でないものを「間違って」醜悪に描くことであり、「悪」であるオタクを醜悪に描くことは当然正しい。
醜悪に描いているからポリコレ違反、なんていうのは、全くの勘違い、何ひとつ理解していない証左だ。
冤罪は悪だから、犯罪者を逮捕するのも悪だ、というレベルの全くの誤謬である。
橋本宗洋およびその賛同者は言語的な訓練を受けておらず、認識能力の欠如した無知な大衆側の人間だから、ポリティカル・コレクトネスの運用基準が理解できていない。
ただし、醜悪に描かれたものに反応する生理的な性能はあるから、ポリティカル・コレクトネスを用いれば、彼らのような大衆も動員することが出来る。
オタクの何が悪いかを理解していなくてもオタクを叩くことは出来る。
これこそがポリティカル・コレクトネスの真骨頂だ。
だから、彼らの反応はポリティカル・コレクトネスの運用者の意図通りの行動をしているにすぎない。
ゆえに橋本宗洋たちの言説そのものを批判してもあまり意味はない。
それすらもポリティカル・コレクトネスという装置の内側での、想定通りの挙動である。
彼らは、いくら批判されても、醜悪な批判者が向かってくるから、我々は正しいという認識を深めるばかりであろう。
以上より、彼がサブカルのノリを引きずっていて、真なるポリティカル・コレクトネスを理解していない、という推論はありえない。
むしろ、彼はポリティカル・コレクトネスを全く理解しないまま、その正当な実行者として振る舞っているにすぎない。
彼らがオタクをいじり、馬鹿にし、気味悪がるのはポリティカル・コレクトネス違反ではない。
むしろ、それにより、ポリティカル・コレクトネスの体現者となることができる。
真なる信仰者は、聖書を読めなくても、神学の論理構造を理解しなくても、その行いの聖性によって信仰を示すことが出来る。
ポリティカル・コレクトネスの構造も全く同じだ。
最近増田でホットなAndroidとiPhoneの罵り合い。楽しいですね。
なんとなくこの業界に関わってきたので、どうして日本でこんなにiPhoneが支持されるようになったのか、ちょっと書いてみたいと思う。ちなみに俺は今は亡きS社(今は完全に消滅して、かつての本社は市役所になっている)でPHS(みんな覚えてる?)の開発に携わったのが最初。その後は出向で三浦半島の先の方で怒りのデスロードみたいな経験をしたり転職して某関西のメーカーでAndroidやったり。当時一緒にやってた人たちの一部は京セラに行ったけど、大体はどこに行ったか知らない。とにかく日本の一大産業であった携帯電話や基地局の生産や開発に一通り関わってきて、その衰退とともに生きてきました。
で、よく知られているように日本の携帯電話は1999年のiモードの導入から劇的に進歩し、ネットが見れるだけでなく、カメラも付きラジオも聞け非接触決済もできて音楽を聞いてテレビまで見れて、もちろん防水でアプリまで動かすことができた。カッチリ作られた二つ折りやスライド機構は触ってるだけで楽しかったし、こんな携帯は日本メーカー以外どこも作れなかった。
まあそれがガラパゴスと言われて後々の衰退につながるんだけど、実際はドコモはガラパゴスを良しとしてなくて、iモードを普及させようとして海外の携帯キャリアにガンガン出資していたし(その大半が失敗して莫大な損失が生じた)、ドコモの進出と同時に日本メーカーは高機能な携帯を世界に売り込もうとした。でも結局どれもうまく行かなかった。なんとか海外に地盤を築いていたのはソニー・エリクソンと三洋くらいで、三洋はアメリカのスプリントにCDMA携帯を輸出してそこそこのシェアを取っていた。ライヴァルであるモトローラとかサムスンの携帯を買って研究していたのが懐かしい。
後にAndroidやiPhoneがすごい勢いでエコシステムを世界に広げていくのを見ると、どうしてiモードにはそれができなかったのかなと思ったりする。まあでも日本メーカーの小さな筐体にぎっちりと機能の詰まった携帯は、個人的にはサイバーでありジョリーグッドで今でも好きなのだが、海外ではいまいち受けなかったし、ドコモにおんぶにだっこで儲けていたNECやらパナやら富士通は、お付き合い程度にしか海外進出をする気もなかったようだ。
当時すでにスマートフォンは海外ではそこそこ普及しており、SymbianとかPocketPCとかBlackBerryなんかの端末は結構海外のビジネスマンは使っていた。しかし日本ではいわゆる「ガラケー」のデキが良すぎてほとんど普及せず。シャープがWindowsCEを積んだW-ZERO3を出してたくらい(持ってた)。
で、2010年(追記:2008年の間違いだった、申し訳ない)ついにiPhoneが日本で発売。もちろん俺は買った。当時ソフトバンクの独占発売だった。よく知られているように、当時の論調は「iPhoneより日本のガラケーの方がずっと高機能」で、こんなものは驚異にはならないという話だった。確かにiPhoneはすぐに電池が切れるし、FeliCaも防水もワンセグもなし。文章のコピペもできないダメケータイだった。実のところ俺自身も使ってみて、こんなダサいものが日本の携帯に勝てるもんかと思った。しかしソフトバンクがiPhoneの未来イメージとシンプルで安い料金プランでガンガン攻めてきて、auやdocomoは対応せざるを得なかった。
まもなくシャープや富士通東芝、ソニー、NECなどが次々とAndroidスマホ発売。このあたりの大混乱の思い出はブコメでもよく見るけど、未だにどうしてこうなったんだと思わざるを得ない体たらくだった。iPhoneに対抗するためにキャリアがワンセグやFeliCaの搭載を求めたために、開発は難航。第一Androidの開発をしたことがある人なんていなかったし、そもそもスマホなんて作ったことなかったのだった。納期に間に合わせるためにやっつけて作ったソフトは不具合連発。一体何であんなもんを作ったのか未だにわからない、メガネケヱスと言われて1円でばらまかれたシャープの端末、まともに動いた時間のほうが少ないと言われたレグザフォン、ホッカイロスマホと言われ東京湾に在庫が沈められたと噂されたアローズ。この頃俺は端末の開発からは遠ざかっていたけど、何人が死んでるんだろうと思うくらい現場は悲惨だったようだ。
それでも各社はなんとしてでもiPhoneに抗おうと必死だったようだ。AndroidとiOSはほぼ同時期に出てきているんだけど、端末開発では若干iOSが先んじたが、実際のところ世界ではスマホのシェアはあっという間にAndroidがiPhoneを抜き去っている。しかし日本のAndroid勢はソニーエリクソンを除けば総崩れで、iPhoneを扱うソフトバンクへの流出が止まらない。まずauがiPhone4を扱うことに。docomoは当初ツートップ戦略というサムスンとソニーのスマホで推す作戦に出たが、それによってパナやNECといった古くから携帯を作ってきたメーカーが脱落。その後2013年にAppleに屈した。その契約は屈辱的な内容だったらしく、日経は「不平等条約」と書いた。専用の売り場を設けたりといったよく知られている事に加えて、一説によると販売する端末の3~4割がiPhoneでなければならないとか、iPhoneのために莫大な広告宣伝費を負担するなどである。未だに日本ではiPhoneが発売されるとauやdocomoがiPhoneのCMを流すが、あれにはAppleは1銭も出していない。全部キャリアの持ち出しである。彼らの強欲なやり方を告発した、「アップル帝国の正体」という本が出たのもこの頃だ。
結局の所キャリア各社はこの契約を履行するために、iPhone用のお得な料金プランや分割購入プランを作り、窓口でも積極的に売り込んだ。初期のAndroidスマホのできの悪さを見聞きしてきた人たちは一斉に乗り換えていった。キャリアはいままで苦楽をともにしてきた日本メーカーをあっさりと見捨ててAppleを推しまくった。この頃はAndroidの開発もこなれてきて割とマシなスマホを日本メーカーも作れるようになってきたが、もうキャリアも消費者も見向きもしなかったのだ。実際iPhoneは使いやすかったし、膨大なCMと提灯記事とキャリアショップのど真ん中で扱われたことで、もうスマホを買うことはiPhoneを買うことと同じくなっていく。
もうこうなるとiPhoneなしでは全くキャリア戦略は成り立たない。今に至るまでAppleと契約した屈辱的な関係を捨てることはできず、結局の所3キャリアはAppleの言いなりになって莫大な国富を貢ぎ続けた。まあ彼らのやり方がうまかったといえばそうなんだが、こんな事になってしまった国は日本くらいで、いまやアメリカをもしのぎ世界で最もiOSのシェアの高い国である。他の国ではiPhoneは一部の富裕層の持ち物であり、安くて高性能なAndroidスマホがとっくに主流になっている。iPhoneはそのCPUを除けばもうすでにイノベーションからは周回遅れであり、中国メーカーの作るAndroidがいまや先端を突っ走っているが、日本ではなぜか多くの人がiPhoneを最先端で最高性能と信じ続けた。
結果として、この給料のまるで上がらない国で、値段が上がり続けるiPhoneは売れ続け、日経が「最新のiPhoneは日本人平均給与の6割」という記事を書くまでになった。まあ別に何を買おうと勝手なのだけど、貧困女子といったタイトルがつく報道でカップラーメンをすすっている人が持っているスマホが、10万円近いiPhoneだったりするどこか歪んだ社会になってしまった。最近も同僚から「家族みんなでiPhoneを買い換えるので40万かかる」との嘆きを聴いた。OPPOあたりにしとけば全員分買っても10万で済みそうなのだが、その選択肢は彼らにはない。
とにかく日本のキャリアは総務省の顔色を伺いながらiPhoneを売るだけのAppleのポチになってしまった。auもdocomoも傲慢な連中だったが(もっと言えばNECもパナもry)、Appleはそれに輪をかけて傲慢でクズな会社である。彼らが電気電子産業が壊滅した焼け野原の日本から、ケツの毛一本までも利益をむしり取っていく現状は悲劇としか言いようがない。一社が支配的な力を持つ市場はろくなことにならないという証左であろうが、もっともそのクソに完膚なきまでに負けたのも我々である。ほんとすみません。
俺は岐阜のS社の研究所と虎ノ門のDDIポケットの本社を往復してた時代から、百花繚乱のごとく日本の携帯が咲き乱れた黄金期を生きて、それらが全部Appleになぎ倒されていく歴史の中に身を置き、どうしてこうなってしまったのか、どこでどうしたら良かったのかと今も思う。しばらくはiPhoneに使われる部品も日本製が多かったが、今や台湾や韓国にも負けてしまった。スマホのCPUを作れたのはルネサスだけでそれも一世代で消滅。メモリも液晶もだめになって、今やNANDとMLCCくらいか。最終製品を失った日本にもう一度半導体をと言っても虚しく響く。
まあ、もう50すぎのおっさんの独り言です。ちなみに私が使っているのはかつてアメリカ市場で我々とCDMA携帯のシェアを争ったサムスンのGalaxy。妻とむすめはiPhoneです。二人は絶対にiPhoneじゃなきゃいやだ、Androidは使いにくいといいます。おっさんはそんなことないと思います。でも、何言ってももう彼女らは「iPhone」なのです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/pinhu_haha/status/1329940299372658689
これさあ。
違うんだよな。
あまりに暴論なので暴論で対抗しようと思う。
『(性的魅力の高い)心優しい女性』が何故そういう目に遭うのかと言えばそれは恋愛対象『未満』の人間を人間だと思ってないからだよ。
自分の魅力を知っている自己評価の高い女性は、自分が『あり得ない』と思う相手からの好意はすべて屈辱だし迷惑だしハラスメントだと受け止める。それが『(性的魅力の高い)心優しい女性』が所謂『告白ハラスメント』に遭う理由のすべてだよ。好かれただけで自分の価値が下がると思ってるんだよな。
そして自分は被害者を決め込み、相手を悪者に仕立て、あわよくば第三者を動員して相手を責め立てる。自分の『ウケ』の良さを最大限利用するわけだね。
大体『告白ハラスメント』に遭った女性は「こちらとしてはそんなつもりはなかった」「そんな素振り一切見せてないのに」とか言うんだが、これこそ自分の振る舞いで周囲の人間をコントロール出来ると思っていることの証左なんだよな。自分の言動で周りの人間の心まで操れるなら苦労はないんだが。
もちろん女性全部じゃないが、ちょっとほかより可愛くて小さい頃から周りにチヤホヤされてきた女性は特にそう。
いつも自分の感情が周りにも肯定されて生きてきてるから、告白されただけで泣いて嫌がったりする。
非モテから告白されました→気持ち悪い、不快、屈辱→相手が悪い! みんなあいつを叩け!
になる。
感情はともかく、取り繕ってその場を収めるってことを知らないんだよ。だってそんな必要なく生きてこられたんだもの。
で、今回母の人は「非モテに優しくすると告ハラに遭うから皆さん非モテは冷たくあしらいましょう」と呼び掛けてるわけだよ。
そして流れに乗ったツイッタラーやブクマカのある程度はそれに同調してるわけだよ。
実際に告白してきた相手を叩きのめすだけに飽き足らず、非モテ全てを対象に機先を制した形だ。ここにも『他者をコントロールしたい』欲が駄々漏れてるんだよな。
女の人っていつもそうですね...! 私たちのことなんだと思ってるんですか!?
少なくとも人間だとは思ってないことはこれまで説明してきた通りだが、ここまでされると流石にこちらも看過出来ない。のでこのエントリを書いた次第。
コロナによる巣篭もりでの需要を反映したのか、昨年からyoutubeで料理動画が人気だ。
もちろんその中にはフランス料理もある。
ところが…注意深く見ていくと、地元のスーパーじゃまず入手できない食材が散見されることに気づく。
まず目につくのは生のハーブ類。まあドライを使うという代替手段はあるものの、微妙は微妙。
玉ねぎのような茶色い皮に包まれていて、剥くと小さい紫玉ねぎみたいになってるやつ。
店では「ベルギーエシャロット」という名前で売っていることが多いのかな。
これ、生ハーブ売っている店でもなかったりするくらいで、地方ではマジ入手困難。
だから「ご家庭でも簡単に作れる~」系の、心あるレシピを紹介しているところは、本来エシャロットを使う場合でも玉ねぎで代用している。
フランス料理では色んなレシピに登場するという意味で、ほぼマストと言っていい食材なのに。
ちなみに台湾名物の魯肉飯でも必須材料だし、中国本土では揚げたやつを結構使うらしい。
そういうマストアイテムでさえ売ってないのって、フランス料理はイタリアンほど、家庭料理として日本では盛り上がっていないことの証左になっている気がする。
そもそも出汁文化の日本と違って、食材そのものの旨味を引き出すのに一手間も二手間もかかる上に、その旨味を凝縮したソースとなるとかなり難易度が高い。
それを言うのであれば野田さんがやめるとなって安倍さんに切り替わるタイミングで上がったのはやはり野田さんが完全に間違っていたってなるんだけど
菅総理批判してる人はそういうことに頭が回らないのか、民主党政権の終わりを覚えてないのかどっちなんだ。
オバマからトランプに切り替わる際も株価が大幅上昇してたやろ。じゃああれはトランプが正しかったからなのか?
今回の立憲民主党を支持してる人はこのあたりどう整合性取ってんだろ?
今回の件も金融市場興味ない人は菅さん辞任というだけで上がったように見えてるかもしれませんが、そうではないです。
・そもそも「EPSで見て株価水準はもっと高くてもおかしくなかった」という土台があり
ところに9月SQ絡みの値動きが相まって一気にコール踏み上げが起きた現象だよ。
本来株価30000の方が正しくても内閣支持率が一定以下で推移すると27000円前後で推移させられる。
そのくらい「政局が不安定であること」「政権が安定しないこと」というのはそのくらいリスクがあるということの一つの証左になっており、
「政権運営能力がなくいつまで続くかわからない」政党が与党になるのは大変にリスクが高いです。
#kutooo 運動の創始者である石川優実氏が、ここ最近ビジフェミ界の猛り狂う邪神と化しているのを知って以来、野次馬根性からか彼女を観察するのをやめられなくなってしまった。「こうすれば炎上するに違いない」という打算と本物のヒステリックな怒りが入り混じった意味不明な言動、そしてそれを用いた猛獣の如き全方位攻撃は“”社会運動“”の神輿にまつりあげられてしまった人間がどう壊れていくかの貴重なサンプルであり、ドキュメンタリックな臨場感に溢れている。
彼女はいわゆる“界隈の姫”であり、石川氏がレスバに興じるさいにはフェミニストを自認する大量の男性アカウントがわらわらと湧いてきて彼女に援護射撃をしたり後ろから撃ち抜いたりしている。基本的に男性を男性であるというだけで異常に嫌悪し、「男は性欲のみを原動力とする恐ろしい化け物であるから彼らの娯楽は全て取り上げ檻にでも閉じ込めておかねばならない」と定義するツイッターフェミニズムを全面的に肯定しているというだけでかなり歪な哲学を持っていることが自明だし、その上で「自分はそのような怪物ではなく、フェミニズムによって浄化され女性を敬うようになった解脱者だから大丈夫」とでも言いたげな彼らの姿勢を見ていると“名誉男性”ならぬ(ラディカルフェミニズムにおける)“名誉女性”とでも呼びたくなってくる。
彼はとてもすごい。
クボ氏は石川氏と親しい間柄のようで、頻繁にリプライでやり取りしている姿を見ることができるし、ここでは特に言及しないが、石川氏のTwitterアカウントの運営に携わっているらしいという疑惑さえ出てくるほど石川氏に近しい。
では、彼の何がすごいか?
彼は人を苛立たせる才能にあまりにも長けているのだ。
石川氏が誰かを燃やしたり逆に誰かに燃やされていると気づくや真っ先に駆けつけ、侮辱的な屁理屈を投げつけるのがクボ氏の仕事なのだが、その鋭さたるや並大抵のものではない。
彼の言葉は、それを投げつけられた側がどうしてもカッとなって買い言葉をぶん投げてしまったり、なんか変な受け取られ方してると感じて誤解を解こうと一生懸命返信したりしたくなってしまう魔力に満ち満ちている。言い回しも刺々しく上から目線で、絶妙に相手の話を聞かずに少しずつ論点をずらし、勝手に勝ち誇る。また石川氏シンパ以外のフェミニストにも積極的に喧嘩を売ることで、人々の義憤を喚起しやすい選民思想も鮮烈に見せつけていく。あまりに技巧的だ。
そして彼が敵対者に貼り付けるレッテルもまた、非常に的確に反論をさそう「ズレ」で彩られており、本当に攻撃力が高い。
まともな思考回路の人間はたとえば「通り魔事件の被害者を悼むサイレントデモ行為をなかば揶揄した形の支援金の募集活動がTwitter上ではじまる」→「この支援活動に金を落とした連中は全員アンチフェミのオタクで声を上げる女性をおちょくりたいだけの粘着アンチなんだな!」という連想ゲームはできないし、ネタで思いつけたとしてもうっかりツイートしたりしない。むろん彼がこういうぶっ飛んだレッテル侮辱をするのはこれが初めてではない。
いくらなんでもそんな喧嘩の売り方しちゃダメだろと思うようなやり口のさらに下を行く、侮辱とか以前にあまりに倫理観に欠ける言葉をポンポン思い付きポンポン投擲できるのは間違いなく正常な精神に基づく行いではない。
クボ氏自身の存在それ自体もこの優れたヘイト管理能力の一部だ。彼のツイッターアカウントは、いわゆる“意識高い系アカウント”そのものの見てくれながら何をしている人なのか全くわからず、不気味さとあまり綺麗ではないビジネスの臭いを放っている。これによりそういったものを本能的に嫌悪し警戒しがちな人間が多数を占めているアンチフェミ界隈の、クボ氏および彼の擁護するものたちへの対する怒りを更に煽ることができるのだ。Googleでクボユウスケを調べようとすると真っ先に「クボユウスケ 何者」と出てくるのが良い。「職業」とか「経歴」とかそういうのではなく「何者」というなんとも言い難い問い。まさしく彼の立ち振る舞いを見た多くの人が「何様なんだこいつ……(ドン引き)」と思ってきたことの証左であろう。
ここまで読んで「こんな特徴を持つ石川氏親衛隊はいくらでもいるだろう、つーかだいたいそんな野郎ばっかりじゃんか」と思われる方もおられるだろう。確かにそれはそうなのだが。そうなのだが、だからこそトゥギャッターなどで彼がレスバをしている姿をきちんと見れば、他の騎士たち、そして何より石川氏の言動とも一線を画すクボ氏の横柄さ、異様さに圧倒されるはずである。
石川氏の“売り言葉”には、彼女の少々ゆがんだ価値観にもとづく失言や鬱憤やわがままや憤りなどが詰まっており、ある種の人間くささがきちんと感じられる。クボ氏以外の騎士団員の言葉もやはり、石川氏を思いやる気持ちや純粋さ故の間違った怒りが彼らの人間性を照らし出しているのを見てとれる。
翻ってクボ氏の発言を見てみると、彼はもしや人間を苛つかせるために開発されたAIなのかとさえ思えてくる。他の男性に見て取れる石川氏への媚びもほとんどなく、むしろ敵対者を的確に逆上させることで石川氏陣営とのレスバをさらにヒートアップさせるための布石を丁寧に並べていることが多い。そこには彼の驕り高ぶりと“まちがったふぇみにずむ”のあまりに恣意的すぎる印象が輝いているだけだ。機械的ですらある。なぜこんなに的確に人を怒らせ愕然とさせることができるのか。
それは分からないが、一つだけ確かなのはクボユウスケ氏のようなヘイト発生装置がエンジンとなっていなければ、石川氏は今のように暴走ロケットの如くブッ飛び続けることはできなかったであろうということだ。クボ氏がレッテル爆撃を行うことで呼応する様々な属性の義憤を掘り起こし、それらすべてを自身およびフェミニズムに対する攻撃とみなして迎撃しようとする石川氏の狭量さと溢れる攻撃性が両輪となって“フェミニズム”を彼方まで運び去り続ける。
ゆえにクボユウスケは#kutoo 運動における最大の功労者であり、拡散の立役者でもあり、世間への浸透後の歪な軌跡の象徴とも言えるだろう。
追記:石川氏のことをラディカルフェミニスト(女性を魅力的にとりあげたコンテンツをエロであるか否かに関わらず全て地上から一掃しようとしていたり等するヤバいひとたち。いわゆる“フェミ”の内でも抜きん出てイカれている。思想的には現代のそれよりも過激なカトリックやイスラム教などに近い)であるかのように書いていたが、彼女はその陣営ではない。当人はリベラルフェミニストだと思っておられるようだが、石川氏の行動は上野千鶴子氏などのそれとはいろんな方向であまり似通っていないので何と呼ぶべきなのかはよくわからない。間違えて書いちゃったのを思い出したので訂正しておきます。すみませんでした。
だれも「現実的だから面白い」あるいは「現実的でなければ面白くない」なんて話はしてない。
「面白さ」なんてどうでもいい。
大元増田の論点は「フィクショ内での、【ある表現・設定】に難癖がつかないなら、【その表現・設定】は現実世界の価値観で広く受け入れられている」だ。
言い換えれば、
「現実世界の価値観で受け入れられていない【表現・設定】は、(たとえフィクション内の表現であっても)難癖がつく」だ。
たとえば直近の炎上でいえば、ルックバックで描かれた犯人が統合失調症への差別につながる、だとかそういうのだ。
そばかす姫で細田守の行政不信癖が叩かれてたのも記憶に新しいな。
ま、これまで炎上してきた数々の作品をみれば言いたいことはわかるだろう。
で本題に戻ると、もし仮に、社会が本当に「大人×子供の恋愛・性交」に否定的であったならば、大元増田に上げられているような国民的アニメで「大人×子供の恋愛」が描けるはずかないんだ。
だってそんなことしたら炎上するし、ボロクソに叩かれてしまうからな。
「大人×子供の恋愛」が、ごく普通のメジャーな作品の中で(ここ大事)、当たり前の表現として描かれている。そしてそれに対してクレームがついてない。
このことこそが、現代日本を生きる人々の価値観に「大人×子供の恋愛・性交」が「否定すべきでないもの」として自然に溶け込んでいることの証左だ。
別に作者が明言しているわけでもないのに、多くの人が『ルックバック』に京アニ事件を読み込んでいるという事実は
それだけで彼らが統合失調症患者を「意思疎通の出来ない危険な存在」とみなしていることの証左だと思うんだけど。
それを無視して「なにも統合失調症患者がみんな意思疎通の出来ない存在だとは思っていない」という主張は難しくないか? と思うんですが、どうでしょう?
レトロゲームの偽物がここ数年通販サイトなどで目立ってきている。
本稿ではその原因や、「偽物の質」の紹介、偽物の販売方法、買い手側の対策と反応あたりを主軸に語ってみたい。
なお私の専門分野はファミコンカセットのみであり、レトロゲーム全般としては事実と齟齬があったり記述が不十分である可能性がある。ご海容いただきたい。また不備を指摘していただけたらありがたい。
発売から数十年が経過し、ソフトの評価が定まり、さらに希少性も高まっている。
特に、箱や説明書がついている状態のいいものは値段が跳ね上がる傾向がある。
「悪い嘘」「優しい嘘」があるように、偽物にもいろいろなパターンがある。
一般流通していたファミコンで一番高価な『サマーカーニバル92烈火』の偽物は2010年代後半からアジア圏からやってきている。
上述の通り完全品となると値段が跳ね上がるため、箱と説明書と付属の葉書などを偽造するもの。
全部偽造のものもあれば、中身のソフトだけ本物で入れ物その他を偽造するパターンがあるようだ。
後者は、ゲーム芸人フジタという人物がyoutubeで紹介している。
お察しの方も多いかもしれないが、ヤフオク・メルカリあたりが「主戦場」になる。
具体的にはあげないけれども、悪名高い出品者が名前を変えながら活動している(悪名高いのに名前変わるのは変かもしれないが)。
2ch5chにレトロゲームの偽物に関する情報スレがあるので気になる方は見てみると良いだろう。
偽物を買わないようにすることと表裏一体になっている。
よくわからない話だが、本物より安い。コピー商品であることの言い逃れになるのだろうか。
これも言い逃れのために書いている。値段の安さとセットになっており、ある種「誠実」と言える。
もちろん、偽物(データをコピーしたもの)を売るのはどうかとも思うが、後述の、買い手側の「プレイできればそれでいい」という問題につながる。
この辺りは普段鍛えているであろう各自のインターネット筋力が試されるところ。
本稿では深入りしない。
個別のソフトには、もちろん本物と偽物とを見分けるポイントがある。わかりやすいもので言うと、カセットの形状が異なるものがある。
他にラベルのデザインなどで違いを見つけられればよいのだが、実は、違いを指摘してネットで情報発信すればするほど、対策を促してしまうと言う問題がある。
昨今、偽物への注意を促す文章がネット上にも増えてきたがあえてこうした見分け方を書かない場合も多いようだ。
スーパーファミコンはここ数年で地獄の様相を呈しており、中の基盤のニンテンドーのロゴまでも偽造したソフトがあるらしい。
今までは中を見たら一目瞭然だったものが、これで本格的に区別がつかなくなってきているそうだ。
これらはかなり大切なムーブで、お店はプライド持って販売している。偽物売ったら評判が下がる。本当に迷ったらぶっちゃけ駿河屋で買った方がいいに決まっている。
竹馬やベーゴマと違い、テレビゲームはゲームの情報こそが本質だ。そして、テレビゲームではその本質が容易にコピーできてしまう。
偽物でも遊べてしまう。ここに、偽物販売が蔓延する裾野がある。そして頂にはプレミアソフトの偽造の問題がある。
俺はもちろん現物を取り扱ってこそだと思うけれども、エミュレーターの問題なども絡んで、とても難しい問題と思っている。
・レトロゲームソフトは増えないのだから、希少性は増すばかりで、すなわち偽物は増え続けるものと思う。
・普通は商品価値の下がる「カセット背面への名前の書き込み」「ラベルの剥がれ」などは、今後逆にそのソフトが純正品であることの証左となり、むしろこっちの方が値段が高まるかもしれないとも感じている。