はてなキーワード: 象形文字とは
ひとの増田を『みんなおまんこ』みたいな紹介するんじゃねぇよ😠
𓂺という文字は、古代エジプトの表記法に由来する象形文字です。具体的には、この象形文字は座っている人物を表し、人間や神をさまざまな姿勢や役割で表現することが多い一連の記号の一部です。
主な詳細:
一般的には、膝の上に手を置いて座っている人物が描かれています。
テキストに応じて、人間の姿、特定の個人、または座っている存在に関連する抽象的な概念(安定性や存在など)を象徴する場合があります。
古代エジプトの象形文字では、このような数字は決定詞(単語の意味を明確にする記号)または表意文字(考えを直接表す)として機能します。
単語の中での使用法によっては音韻的な意味を持つこともあります。
このような座像は、畏敬の念、安定、落ち着きなどと結び付けられることが多く、エジプト美術における人間や神々の描写を反映しています。
これらは、特に形式的または敬意を持って人間を罵倒するときに、人の名前、タイトル、または役割の説明に使用されることがあります。
この象形文字をどこで見たか(例えば、芸術作品、テキスト、象徴的なテキストなど)についての詳しい情報があれば、その解釈についてより正確な情報を提供できます。
パリ五輪と東京五輪のピクトグラム比較→「どっちも国のらしさが出ていて好き」「ピクトグラム本来の使い方を考えると東京が圧倒的」
ブクマカの反応は否定派が多め、少し肯定派もいるという様子だった。
否定派は「毎回変えるとわかりづらい」「ピクトグラムの目的に達していないから駄目」「何の競技だがさっぱりわからない」など。
肯定派は「「紋章モチーフでパリらしさがでている」「オシャレ」「かっこいい」など。
これらを見ていただくとわかるが、コメントの大半はデザインの役割を一元的なものとしてしか捉えてられていない。
もちろん一般的にはその程度の理解でいいのだが、もしこれからもデザインに物申したいのであれば「デザインには2つの役割(と価値)がある」ということを知っておいてほしい。
「機能的な役割」とはつまるところ「わかりやすい」「読みやすい」「使いやすい」といったような、
ユーザーが見たり使ったりする上で適切に機能するデザインになっているかということだ。
近年話題になるアクセシビリティ、ユニバーサルデザインなども機能的な役割といえるだろう。
一方、「情緒的な役割」とは「かっこいい」「かわいい」や「高級感がある」「安っぽい」といったような、
デザインを見たときに感じる様々な印象に対して、ブランドや商材・目的などに応じて適切な印象を与える役割のことだ。
この2つの役割を踏まえると否定派は「機能的な役割」を重視し、肯定派は「情緒的な役割」を重視していることがわかる。
もちろんどちらをより重視するかは人それぞれだし間違いはない。
が、デザインで重要なのはどちらかではなくどちらも併せ持つ、というところなのだ。
まず否定派の意見として「ピクトグラムなんだから伝わるのが正しい、伝わらないピクトグラムは意味がない」というのがある。
これは間違いではないのだが、こと五輪のピクトグラムにおいては歴史的経緯から「情緒的な役割」がより重視される傾向があることは無視できない。
五輪ピクトグラムの発祥が1964年 東京オリンピックであることはご存知だと思うが、
その理由は1964年 東京オリンピックが「初の欧米以外の開催地である」ことに由来する。
それまでのオリンピックは欧米圏での開催だったため言語の壁が比較的薄かったが、
1964年当時の日本では英語のコミュニケーションが現実的ではなかったため、非言語で伝わるマークとして勝見勝を中心にピクトグラムが考案された。
つまり当時は「機能的な役割」を最も重視してつくられたといえる(とはいえ精緻に整えられたデザインは情緒的にも美しい)。
そのピクトグラム作成が毎回の恒例になるにつれてより重視されるようになったのが「この国らしさ」、つまり「情緒的な役割」である。
加えて60年が経ったいま、言語の壁が比較的薄くなってきたことやデジタルメディアの浸透などによって元来の「機能的な役割」はほぼ役割を終えたといってよいだろう。
当時のブコメにいくつか回答してみる。
なんで毎回変えるんだろうな。わかりやすさで言うと、同じのを毎回使って定着させたほうがわかりやすくなると思うんだが。トイレの男女マークみたいに。
ピクトグラム本来の機能的な役割としてはおっしゃる通り。実際に非常口のピクトグラムは国際標準化されている。
五輪ピクトグラムが標準化されなかったのはつまるところエンターテイメント性、すなわち情緒的役割を重視されたということだろう…。
目的を全く達してないから普通に駄目だと思いますが。デザインのゴールが違うってピクトグラムのゴールは明確。勝手にゴールを動かすな。 欧米でユニバーサルデザインが言われるのはそう言わないとこうなるからか?
五輪ピクトグラムのゴールを「機能的な役割」のみと捉えるのは間違い。
どのようなデザインであっても2つの役割を併せ持っており、どちらか一方を完全に無視することはできない。
北京の今の漢字になる前の象形文字っぽい篆書体みたいなピクトグラムやっぱりいいなぁ、と思う。歴史の長さや重みをピクトグラムでも表現できているようで。
「らしさ」を情緒的に表現しつつ、機能的にもある程度のわかりやすさを担保している。
東京五輪のピクトグラムは100点であり0点。ピクトグラムとしては完璧、でも日本らしさがない。そこを「ピクトグラムは日本の文化(1964東京五輪が初)」で押し通した。『ザ・ドラえもんズ』のドラえもんのようなもの。
非常に的を射たコメント。
ただし「日本らしさがない」は人によっては「あれが日本らしさ」と感じる人もいるので、情緒的な評価は人によって判断が分かれる。
情緒的な役割を重視するあまり、機能的な役割を満たせなかった有名な事例。
ちなみにデザイン炎上の8割くらいは機能的な観点で炎上している(ローソンのPBリニューアルなど)。
理由は簡単で、デザインが情緒的に適切かどうかは高度な審美眼が求められる一方、
機能的に適切かどうかは「わかりづらい」の一言で断罪できるからだ。
それが駄目というわけじゃないが、情緒的にはどうかという視点も持っておくとデザインをジャッジする視点が拡がる。
性風俗店の無料案内所模した案内展示に苦情、急きょ撤去 福岡パルコ
過激な表現は多かれ少なかれ批判の的になるが、パルコの1階エントランスというほぼ公共といっていい空間も考慮すると不快な印象になってしまうのも無理はない。
一週間後、自分より上手くなって帰ってきた
・すまん、クソ舐めてたけど
そのイラストは私はかけんわ
・もしトレスとかパクじゃなくて
もう絵の見せ合いしたくねー
今回までの飛躍が不自然すぎる→トレスとかパクしてない?男子5日会わざればというけど変わりすぎだろ!!!
(原作模写するのにいっぱいいっぱいだった人が
一週間で全体の美術解剖を理解してないと描けないような絵を描けるようになるか?)
・「わ、私はイラストじゃなくて漫画描きたいだけだから!絵っていうか象形文字みたいに読み手に意図が簡潔に伝わる絵を描きたいんであって美麗イラストとか目が滑るから興味ない」という心はあるが両方できたうえで言うのとできないで言うのは全然違うやんけ〜!
この文を書いている今日、所用で外出した先で雨に遭い、それが止むのを夕方まで待ち、さて自転車で自宅に帰ろうとした道すがら、空に虹(にじ)を見た。
今日の外出先から自宅へと向かおうとすると、ちょうど西から東へ進行する形になる。東の空へと流れ去る黒い雨雲を背景に、色の濃く鮮やかなもの、色が淡いもの、二本の虹が綺麗な弧を描いていた。
その時、私が通行していた自転車道兼遊歩道には、他に散歩やランニングをしている人たちもいたのだが、彼らも私と同じように、虹に見とれたり、スマホで画像を撮ったりしていた。中には「二本の虹なんか初めて見た!」と驚いている人たちも少なからず見られた。虹が二本出ることを知らない人もいるのかと、むしろそれに私は驚いたのだが、のんびりと空を見上げる余裕を持つことがあまり許されない現代人には、仕方が無いことなのかもしれない。綺麗な虹を見たという新鮮な感動が機会となって、彼らが空の気象や天体に関心を持ってくれたら嬉しい。
ところで、二本の虹が出ることを知らないということは、おそらく彼らは二本の虹の名前も知らないのであろう。しかし、虹が二本出ることを知っている人でも、案外その名まで知っている方は少数派ではなかろうか。こんなことを言うと「虹は虹でしょ?区別とかあるの?」と思われるかもしれないが、漢字による呼称は区別がある。
漢字の原型は、殷代の甲骨文字に見ることができるが、その中には既に、虹を表した象形文字を見出すことができる。それは、弓形の弧を描く二本線で描かれており、弧線の両端には口を開いて下を向く頭を持ち、しかも角らしき突起まで見られる。
甲骨文字は占いに関する記録を遺したものであることから卜辞(ボクジ)とも呼ばれ、古くから中国人自身による研究が行われていた。その一つに郭沫若(かく・まつじゃく)の著した『卜辞通纂考釈』があるが、この中で「一つ出た虹を『虹(コウ)』、二つ出た虹を『霓(ゲイ)』と称したものであろう」という説が述べられている。ただし、現在の漢和辞典を引けば、『虹(コウ)』が雄で『霓(ゲイ)』が雌とも記されていて、郭沫若の説とはやや異なる。二本の虹の濃い方を『虹』、淡い方を『霓』として雌雄ペアと見るのが後代の見方である。いずれにしても、卜占の亀甲や肩甲骨に刻まれるような神秘的・神話的存在として、虹・霓は古代中国人の心を捉えていた。
残念ながら、私のデバイスの文字変換では『霓』の文字しか出てこないのだが、本来は『虫』偏に『兒』旁で、ちゃんと『虹』とペアになるのに相応しい形をした文字である。それが現在、雨冠の字形が主流となっているのは、科学的な物の見方をするようになった近・現代人が、この漢字には神話的・呪術的な役割ではなく、気象用語という科学的な役割を担わせるようになったことの反映であろう。
虫偏の字であることからも判るとおり『虹(コウ)・霓(ゲイ)』のことを、昔の人々は、広い意味での『蟲(むし)』の類いと考え、すなわち「ヘビ」の一つと見做していた。これは日本でも同じことで、マムシやフクムシなど「ムシ」の呼び名がヘビには用いられている。『フクムシ(福虫)』というのは、これは穀倉を荒らすネズミなどの害獣を捕食してくれる益獣だからである。『マムシ(真虫)』の真(ま)は、オオカミに冠した神名『大口真神(おほくちのまかみ)』における真(ま)と同じく、強く猛々しい神の名を軽々しく直接的に呼ばないようにするための、一種の忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
『虹(コウ)・霓(ゲイ)』は、両端に頭を持つ怪蛇であるから「それではヘビじゃなくて、むしろ龍とかの仲間ではないか」と言われるであろう。しかし、昔の人々にとっては、家屋の周辺や田畑などで身近に見かける普通のヘビですら、神秘的な存在だったのである。昔の人々にとって、龍(りゅう)/蛟(みずち)etc.と普通のヘビとの間の境界は、我々現代人が考えるよりも遥かに曖昧であったと言ってもいい。足を持たない、もしくは四脚が有っても小さくて目立たない、細長いクネクネとした身体の動物のことを、一纏めの仲間として昔の人々は捉えていたと考えられる。このことを少し頭の片隅に置いてから、以下を読み進めてもらいたい。
「それにしても、虹がヘビだなんて、昔の中国の人たちは面白いことを考えていたものだなあ」と思われるかもしれない。しかし、実は「虹(にじ)=天の蛇」という考え方は、近代化する以前の社会では、地球レベルで広く見られた/見られるものである。そして、それは日本も例外ではない。そもそも日本語の名称『ニジ』そのものが『ヘビ』を意味していたとも考えられている。
日本における「『天の蛇』としての虹」の話に関しては、ロシア人言語学者ニコライ・ネフスキーによる有名な研究をはじめとして、多数の調査研究が為されている。それらから、思いつくままに事例を紹介していこう。
例えば、琉球諸島宮古島では虹を『ティンパウ』と呼んでいたが、『ティン』は「天」、『パウ』は「ハブ」のことである。『ハブ』は『ヘビ/ヘミ』系統の語である。大蛇を表す『ウワバミ』の語に含まれる『バミ』もまた『ヘビ/ヘミ』の転訛であると考えられる。『ウワ(上)』はマ(真)カミの真と同じく、忌み名としての尊敬の接頭語であろう。
宮古島の北にある池間島には、若返りの水についての昔話が伝えられている。欠けて新月となり姿を消し、再び満ちて姿を現すことを繰り返す月。脱皮して不老不死を保つ(かのように信じられていた)蛇。若水とは、神話では月や蛇と結び付けられて語られる、不老不死の象徴である。月と水が結び付けられるのは、潮の干満との連想であろうか。
太古の昔、人間はスデ水(若返りの水)を浴びて脱皮することで、不老不死を保っていた。ある時、天の太陽神が、セッカ(ヒタキ科の鳥類)に命じて、スデ水を月から地上へと運ばせていた。ところが、途中で『アウナズ(虹)』が、スデ水を奪って捨ててしまった(あるいは、スデ水を横取りして使い、脱皮するようになった)。このため、太陽神と月神の怒りを買ったアウナズは、それ以来、太陽の反対側に出るようになったという。
若水物語に登場する『アウナズ』という語は、琉球諸島地域におけるアオヘビ類を指して言う『アウナジ/オーノジ』系統の語と明らかに同じものである。他に、八重山群島竹富島でも『オーナーヂィ』と言うとされる。つまり『天の虹』と『地上の蛇』を、同じ名前で呼んでいたのである。
少し変わったものでは、小浜島では虹を『チネー・ミマンチィ』と呼んでいたというが、これは『ティン・ヌ・ミミジィ(天の蚯蚓[ミミズ])』の意であるという。細長くてクネクネした動物を昔の人々は一纏めに捉えていたという話を、今一度、思い出してもらいたい。
新城島では、虹を『アミ・ファイ・ムヌ(雨を食うモノ)』と呼ぶ。雨が降りそうで本格的には降らない俄か雨で終わる状況を「虹が雨を食った」と言うからだそうである。与那国島には『アミ・ヌミャー(雨を飲むモノ)』という呼び名もある。
虹が喉の渇きを潤すために雨や地上の水を飲みに現れる、或いは、虹が喉の渇きを潤すために雨を呼び起こすという信仰もまた、広く見られるものである。
長野県では、龍が天から水を飲みに降りてきた姿が虹とされ、また、同県更科では「虹は『ジャ(蛇)』の吹く気である」と信じられていた。山梨県西部でも「『ノジ』は蛇の息」とされた。秋田県平鹿では「『ノギ』は吹いた」と表現した。大分県でも、虹が出ると「『ジャ(蛇)』が吹いた」と言われていた。水神としての蛇神が棲むとされた湖沼から天の蛇としての虹が出現して、雨を呼び起こすという話も広く分布していることが認められる。このことから、ネフスキーは湖沼の支配神を指す『主(ヌシ)』も『ニジ』と同一起源ではないかと考えたようであるが、それは流石に後代の研究者から否定されたようである。しかし、湖沼の主といえば大抵は龍蛇なので、語源論としてはともかく、ヌシと虹を結びつけるネフスキーの見方は意外に悪くないと思える。
ネフスキーと同じ頃の時代、宮良当壮という研究者は、虹とヘビ類の方言呼称を分析して「『ニジ』はヘビを意味する語から分化した」ということを立証しようと試みた。ニジの呼び名には『ノジ/ネジ/ヌジ/ヌギetc.』がある。既に上でも紹介したが、琉球諸島地域におけるアオヘビ類の呼び名が「アヲ+(語根)」の形をとっており、その語根部分の変化が『ノジ/ナジ/ナギetc.』となっていて、極めて似ている。そこから、宮良は「『ナギ』が『ウナギ(鰻)』を含めた『ヘビ型動物』の総称であり、そこから『ニジ/ヌギ』などの語が派生分化していった」と考えたのである。細長いクネクネした動物を一纏めに捉えていたという話を、再度、思い出していただけたであろうか。
この宮良説の傍証としては、例えば秋田県ではアオダイショウのことを『アヲノジ/アヲノズ』と呼び、『ノジ/ノズ』は同地域における虹の呼称と共通しているなどといった事例が幾つも見られるので、宮良説はあり得ると個人的には思っている。大蛇を指す『オロチ』という語も、尊敬の『接頭語オ(御)+ロチ(ノジ系統語の転訛)』と考えられる。
とはいえ、現代人の感覚から見れば、特に、生物学や動物分類学の知識を通じて見れば、ヘビとウナギを同類視するという考え方は、なかなか受け入れ難いものと思われるかもしれない。しかし、以下の話を読まれたならば、どうだろうか。
昔の日本人は、雷神に対して信仰を抱いていた。特に農民は、落雷に対する特別な信仰を抱いていた。例えば、岐阜県美濃地方では、稲田に落雷があれば、その場所に注連縄を張って神聖視・聖別した。何故このように稲田への落雷を特別視したのか。それは『稲妻(イナヅマ)』という単語に端的に表されている。イナヅマとは「稲の配偶者」であり、昔の日本の農民たちは、雷神を「稲田神を孕ませる夫(ツマ)」と見做したのである。これは、落雷のジグザグ線が蛇神の顕現と見做されたこと、そして、蛇体が男性器の象徴と考えられていたこととも関係しているのであろう。落雷は豊作の予兆であった。
東北地方には、落雷のあった稲田を神聖視する風習が存在した。例えば、岩手県では、落雷のあった稲田を「お田の神の田」と呼んだり、女性や家畜を入れないようにしたり、雷神と刻んだ石を建てて祀るなどした。
この岩手県をはじめ、東北地方には「ウンナン田」と称する水田の事例が見られ、これは「落雷のあった水田」であり、しかも「鰻(ウナギ)の姿が見られる水田」のことであるとされる。ウナギが住める水田は、水温が比較的高く、良い水田だと考えたからともされる。落雷後の水田でウナギを目撃したことで、農民たちは「雷神が水田に棲み着いて、良い水田に変化した」と考えたのであろう。しかし、それだけではあるまい。
今では、落雷が豊作の予兆であるという考え方は、単なる非科学的な迷信ではなく、それなりの自然科学的な根拠があったと知られている。農作物の稲だけに限らず、植物の生長には、窒素肥料成分が不可欠である。大気中には気体の窒素が大量に存在するものの、それらは化学的に安定な窒素分子の状態で存在しているため、そのままでは植物も栄養素として利用できない。ハーバーボッシュ法による大気中の窒素を人工的に固定する方法が確立し、窒素肥料の大量生産が実現するまでは、大気中の気体窒素を、植物が栄養素として利用できる窒素化合物の形に化学変化させることができたのは、マメ科植物の根に共生している根粒菌を除けば、雷による空中放電だけであった。おそらく、落雷が起きた水田の周辺では、雷の電気により生じた窒素酸化物の影響で、稲の発育が良かったのだと想像される。それを見た農民たちが、経験知として「落雷=豊作の徴」と語り伝えたものが、ウンナン田なのであろう。
最後になるが、もしも『ナギ』系統の語がヘビ型動物を指すという説が真実であるとすれば、そこからどうしても思い浮かべてしまうのが、インドから東南アジア地域に広く分布する蛇神『ナーガNaga』の存在である。果たして、ヘビの古い呼称の一つである『ナガムシ(長い蟲)』の『ナガ』は『ナーガ』と関係があるのか。水の中にいる長くクネクネしたヘビのような身体をした動物ウナギは、もしかしたら『オ(御)+ナーガ』からその名が付けられたのか。
妄想は尽きない。
今回の内容は、この本の受け売りである。とても面白い名著なので、是非、図書館などで一読することをおすすめしておく。
栗花落カナヲと蛇の話⇒anond:20221108215545
って確定申告ってソフトを使ったら簡単じゃん!って私思うけど本格的な確定申告はムズいの?
よく分からないわ。
まあそんな忙しかった中、
もし次遊べるなら、
私今レヴェル30までのポケモンしか言うこと聞かない!って立場なので、
結構そのレヴェル超えちゃってきているポケモンもぼちぼちで始めたので、
そうだ!
一度コトブキムラに戻って、
ポケモンの捕まえただけで何もしていないメンバーを事務所総出で入れ替えて最初のマップでもうろちょろしていたら楽しめるんじゃないかしら?とか
脳内で色々とああでもないこうでもないって思ってるのよ。
本筋のストーリーは次何するか忘れちゃったけど
任務のアイコンをマップ上に記されたところに行けば話が進むから、
一旦思いっ切り本編の本筋のストーリーは本域で忘れても何ら問題ないところがいいところよね。
そういった感じで
なんだかまたよく分からない話を進めていって成り行き上集めることになってる、
私話しよく聞いてなかったんだけど、
象形文字みたいな黒い文字みたいなキャラクターも集めなくちゃいけないの?
あれよく話聞いてなかったのでどこで見付けたら良いか全く分からないわ。
それで、
次やるときは
一旦ピカチューとはお別れするけど、
でもポケモンファームに別のピカチューがいてなんかピカチューって世の中に一人しかいない唯一無二のものだと思っていただけに
あんまりポケモン図鑑の穴埋めもぜんぜん埋まってない研究が進まってないので、
バイト代みたいなお金もあんまり最近もらえる額が少ないのよね。
何が言いたいかというと、
お金で一番使うところは
持ち物を増やす知恵を教えてくれる収納名人にお金を払って伝授していただいて、
持ち物をそれでやっと1つずつ増やしていくんだけど、
そこも頭打ちですぐアイテムがいっぱいになってはコトブキムラにもどって
いちいち預けたりクラフトしたりって繰り返しだし、
つくづく私のイメージしていたポケモンとなんか違う!って私もいい加減気が付いたところよ。
これがポケモンたる所以のポケモン感ってこんな地味なことを繰り返すことだけなのかしら?
あ!思い出したわ。
そうそう、
フィールドにいる赤い目をした緑のたぬきみたいな通常のポケモンとは気合いの入り方が違う一瞬強そうに見えて近寄りたくないボスポケモンを討伐する目的もあったわ!
あれよね、
ベストメンバーでの事務所総出で立ち向かわないと一瞬で全滅もマジあり得るからね。
あと相手の弱点を研究して得意なポケモンで瞬殺できるように技をこっちもなにを使うか真面目に考えないとってところもあるわ。
思い出したけど、
コトブキムラにある土俵みたいなところはどうやってポケモンを修行させるのかしら?ってあれ絶対そう言う場所じゃない?
うっかり忘れていたけど
これまた久しく遊んでいなかっただけに頭の中でそう言えばなんか土俵格闘技場みたいなところあったな!って思い出したのよ。
そこもあの道場の看板の前に立っている塾長みたいな人に尋ねてみてやり方を修行させてみるのもありだわ。
そこすっかり忘れていたわね。
あんまり欲しくない任天堂グッズを交換しなくちゃってやっぱり貧乏性で思っちゃうので
知らず知らずのうちに
あんまりそんなにゲーム以外のグッズは欲しいとは思わないのに、
あとバッジとれーるセンターのゲーム代にまかなえてもいいのに!とも思うわ。
でもあれも絶妙じゃない?
90円って払えないわけでもないし大人の経済力で1日何ゲームも900円払えば思いっ切りそりゃー遊べるんだけど、
1日2回遊べるしいっかーって思う、
課金しなくてもできるし、
強いて課金したいとも思わないし、
払えないわけでもないしたくさん払っても痛手のないところが良心なのかも知れないわね。
って長々と書いてるけどたぶん私ポケモンアルテミス2週間ぐらいやってないかも知れないわ!って今のこの気付き!
でも浮気して
これいいわよ!
街の名前も覚えなくて良いし今はナシの流れのストーリーどうなってるんだっけ次どこ行くの?私の持ってるゴールド低すぎ?はがねのつるぎ変えない問題とかもなく、
ただただダンジョンに潜ってマスを埋めていく最深部に向かって行くってゲームっぽいので
あんまりそう言った街の名前やストーリーの流れを覚えていられない私にはうってつけぴったりなゲームだと思うのよね。
あれさー
街や村に行ったら全部の住人に声かけて話しかけないと済まないし
これフラグの前後でだとまた街の人たちの台詞が変わるんじゃね?って
一つ物事を進めたら
全部の街の人や村の人たちに声かけなくてはいけないような強迫観念にってしまって、
話す人が多い!って街や村の人口が一気に増えてるから大変なのよね。
きっとそんな要因の原因の一つでもあるとおもうわ!
どんどん難しくなってくると
ちゃんと真面目にバトルしないと勝てないのかも知れないし
チクチクと針を刺すように遊ぶゲームみたいでアールピージーできそうな気分よ。
ハマるか飽きちゃうかまたどちらでもない感じの時期の季節のシーズンでもあるけど
まあ飽きたら飽きるでしょ。
でも今は面白いわ。
もう街や村の人たちがいないだけでも清々しい感じがするわ。
私それでディーエスのドラゴンクエストVもやるのがしんどくなったんだと思うわー。
あれって仲間にも話しかけないといけないような強迫観念生まれてくるじゃない。
きっとそうよ!
でもさー
うふふ。
ホッツタマゴサンドも喫茶店できたてのもとてもセクシーでヤミーなところがいいわよね。
あれはたまに食べたい贅の沢だわ。
だんだん暖かくなってきたので、
朝起きてすぐに
冷たいものでも飲んでもビックリしない感じな暖かさに季節になってきて嬉しいわ。
でもまだキンキンな冷たさは良くなさそうなので
ほどよく常温のマイルドな温度のウォーラーの素ウォーラーにしました。
にしました!って言ってるけど
もはやただの水だわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
よーしだいたい分かった。