はてなキーワード: 洗礼者ヨハネとは
バイオラ大学での福音学での恩師、カーティス・ミッチェル博士はよく言っていた。「救いの前に彼らを迷わせなければならない」と。もし人々が自分たちの生活に何か深刻に満たされていないものを感じていなければ、新たな信仰を受け入れるとは考えにくいし、まして神や救いを求めようとするはずもない。
ダニエル・L・エヴェレット(著), 屋代通子(翻訳)(2012年)『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)pp.369
キリスト教が宣教師によって世界各地に伝播していく仕組みはこれだったのか。ローマやエルサレムとははるか遠くに離れたアジアや南米にまでキリスト教が広まっているのが不思議だったけれども。キリスト教には原罪というすべての人類に押しつけがましく罪悪感を植え付ける思想があって、個人的には気に食わなかったけど、宣教にはうってつけの手法だったのか。
著者のエヴェレット博士は、SILという米国のキリスト教宣教師の組織の一員として聖書をピダハン語に翻訳して宣教するために、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの集落へと妻子と共に赴いた。著書によると、聖書を翻訳してピダハンに理解させることはできたが、キリスト教信仰を受け入れさせることはできなかった。
ピダハンは特別に宗教を信仰しておらず、実際に見聞きした物事しか信用しない。あえて何らかの信仰があるとすればアニミズム信仰であり、あらゆる物に精霊が宿っていると考えている。さらには自らが精霊になったりもする。故人に変装して土葬されたときの気持ちをトランス状態で語ったり、精霊の名のもとに自らの雄弁さや教訓を語ったりといった具合にだ。日本で言うところのイタコ芸かと私は思った。ピダハンにとって精霊は、実際に見聞きできるものなのだ。
ピダハンにとってイエス・キリストは実際に見聞きをすることのできない存在なので信仰の対象たり得なかったのだ。翻訳された聖書の音声レコードを聞いて文化の違いに笑ったりもするが、聖書はエンタメとしか理解されなかったようだ。洗礼者ヨハネが首をはねられる場面を楽しみながら何度も聞いたという具合にだ。エヴェレット博士は宣教師だが、同時に言語学者として大学での研究も並行していた。実証されたことしか信じないピダハンの態度を目の当たりにして、エヴェレット博士は科学者としての自らの論理的思考の結果から、信仰に疑問を持って無神論者になったという。
聖書をアニミズム信仰者に理解させることができなかったことは、キリスト教宣教師が自らの信仰を喪失させるほどのことだったのだろうか。だとしたら、過去に世界中にキリスト教を宣教できたのはなぜだろうか。やはり、金や暴力といった強制力を働かせなければ宣教は難しいのだろうか。日本に対するキリスト教宣教師がそうだったように。冒頭で引用したように、強制力をもってして迷わせることが、キリスト教宣教による救いを与えるのに必要な前提なのだろう。ジャングルという恵まれた自然に満足して常に笑顔を絶やさないピダハンには、迷う必要がそもそもなかったから、キリストは不要だったのだ。
科学技術の発展にともなう人々の論理力の向上と、金や暴力による強制力を忌避する社会的な風潮によって、宗教の力は今後ますます縮小していくことだろう。日本において神道・仏教などの宗教の力が人々から薄れていくのと同様の運命を、キリスト教など他の世界的な宗教でも同様にたどっていくことだろう。
シトロンーッス
本日は焼肉の日、文化財保護法施行記念日、ケーブルカーの日、エジプト暦の最初の日
その洗礼者ヨハネの首が乗ったお盆を持っているのが古代パレスチナ領主の義理の娘であるサロメ
そのサロメが義理の父の誕生会の時に踊って、それに感動した義父が「褒美になんでもくれてやるぞ、何か欲しいものはあるから」みたいなことを言って、それに困って実の母であるヘロディアに相談したら洗礼者ヨハネの首をねだるように言われて、それをそのまま言っちゃったから人間の首が乗ったお盆を持たされるって大変なお話。
なんでも素直に答えちゃダメですね、ちょっと考えてから言わないと大変なことになっちゃいますもんね。
ということで本日は【冷静な判断力よいか】でいきたいと思います。
けものフレンズという物語は、キリストの言行録たる福音書である
ジャパリパークに女性のフレンズしかいないのは、キリストの処女懐胎を暗示している
フレンドにとってのヒトとは、人類にとっての神。
サンドスターがなぜかばんと一体なのかというのは、もとのキリスト教の三位一体説もかかえる矛盾
かばんが現れるなりセルリアンに襲われるのは、ヘロデ王が赤子を皆殺しにしようとしたことに相当する
そこでかばんを助けるサーバルは、イエスを救うためにエジプトに逃げた聖母マリア
サーバルは同時に、イエスの最後を見とるもう一人のマリア、すなわちマグダラのマリアでもある
かばんを導くラッキービーストは洗礼者ヨハネ。不幸な最後が予想される
かばんを泥棒扱いするが後に改心するアライグマは、改宗者パウロおよびサウロ
ジャパリパークに広がるサンドスターローとは、サンドスターにより知恵を得たフレンズが同時に得た原罪
サンドスターローにより力を得るセルリアンは、蛇であり、悪魔であり、同時にイエスに害をなすヘロデとその一党
原罪(サンドスターローにより力を得たセルリアン)を背負って倒れたかばんは、神性をあらわしミライとして蘇り、フレンズがいつか神の国(彼の世界の人間の世界)へ召されること、またミライがいつかふたたびジャパリパークに現れることを告げて去っていくだろう