「接頭語」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 接頭語とは

2024-03-17

1000000000000000000000TB = 1×10^33 バイト ≒ 2^109.6 バイト

SI接頭語も2進接頭辞もなかった すまん

2023-08-20

anond:20230820012522

彼らはごく自然に使いすぎていて、もはや体臭といえるほど沁みついているんだよな

自分ではそのうさん臭さに気づいていないらしいが外部からは「またか」ってわかる

内容の良し悪し以前に同じ接頭語から入る人間最初から排除されているってのわからないだろうな

2023-06-12

バカってすぐ日本の云々って接頭語つけたがるけどやっぱりバカなの?

2023-02-15

はてブで考えを披露する人が多すぎる問題

「俺が考えるには」という接頭語を抜かして持論開陳を行う奴が多すぎる。

俺がこう思うから河野大臣の答弁は的を射てるとかな!

ブックマーク機能が100文字制限のせいで、省略する人が後を絶たないのだと思われるので、ブックマーク文字数は撤回したほうが良い。

2023-02-09

anond:20230209122553

exギリシャ語の「外の〜」を意味する接頭語exo-に由来していて、英語では外と繋がりのある単語や超越した〜みたいな単語によく出てきます

2022-11-11

anond:20221111223234

知らんけどの精神適当な予想書くと、

多分勢いをつける接頭語的なので強調を加えてるのでは

 

全部動きがイメージできる語感のものばかり

日本語不思議

ぶっ刺すの"ぶっ"

すっ転ぶの"すっ"

ぶん殴るの"ぶん"

「刺す」「転ぶ」「殴る」だけでも十分意味は通じるが、あえてこのような接頭語(?)をつけることにはどのような意味語源があるのだろうか。

まり語感のいい言葉ではない(野蛮に聞こえる)から、滅多に使う言葉ではないけれど。

2022-11-07

虹(ニジ)と、ヘビと、ウナギの話

 この文を書いている今日、所用で外出した先で雨に遭い、それが止むのを夕方まで待ち、さて自転車で自宅に帰ろうとした道すがら、空に虹(にじ)を見た。

 今日の外出先から自宅へと向かおうとすると、ちょうど西から東へ進行する形になる。東の空へと流れ去る黒い雨雲を背景に、色の濃く鮮やかなもの、色が淡いもの、二本の虹が綺麗な弧を描いていた。

 その時、私が通行していた自転車道兼遊歩道には、他に散歩ランニングをしている人たちもいたのだが、彼らも私と同じように、虹に見とれたり、スマホ画像を撮ったりしていた。中には「二本の虹なんか初めて見た!」と驚いている人たちも少なからず見られた。虹が二本出ることを知らない人もいるのかと、むしろそれに私は驚いたのだが、のんびりと空を見上げる余裕を持つことがあまり許されない現代人には、仕方が無いことなのかもしれない。綺麗な虹を見たという新鮮な感動が機会となって、彼らが空の気象天体に関心を持ってくれたら嬉しい。

 ところで、二本の虹が出ることを知らないということは、おそらく彼らは二本の虹の名前も知らないのであろう。しかし、虹が二本出ることを知っている人でも、案外その名まで知っている方は少数派ではなかろうか。こんなことを言うと「虹は虹でしょ?区別とかあるの?」と思われるかもしれないが、漢字による呼称区別がある。

 漢字の原型は、殷代の甲骨文字に見ることができるが、その中には既に、虹を表した象形文字を見出すことができる。それは、弓形の弧を描く二本線で描かれており、弧線の両端には口を開いて下を向く頭を持ち、しかも角らしき突起まで見られる。

 甲骨文字占いに関する記録を遺したものであることから卜辞(ボクジ)とも呼ばれ、古くから中国人自身による研究が行われていた。その一つに郭沫若(かく・まつじゃく)の著した『卜辞通纂考釈』があるが、この中で「一つ出た虹を『虹(コウ)』、二つ出た虹を『霓(ゲイ)』と称したものであろう」という説が述べられている。ただし、現在漢和辞典を引けば、『虹(コウ)』が雄で『霓(ゲイ)』が雌とも記されていて、郭沫若の説とはやや異なる。二本の虹の濃い方を『虹』、淡い方を『霓』として雌雄ペアと見るのが後代の見方である。いずれにしても、卜占の亀甲や肩甲骨に刻まれるような神秘的・神話存在として、虹・霓は古代中国人の心を捉えていた。

 残念ながら、私のデバイス文字変換では『霓』の文字しか出てこないのだが、本来は『虫』偏に『兒』旁で、ちゃんと『虹』とペアになるのに相応しい形をした文字である。それが現在、雨冠の字形が主流となっているのは、科学的な物の見方をするようになった近・現代人が、この漢字には神話的・呪術的な役割ではなく、気象用語という科学的な役割を担わせるようになったことの反映であろう。

 虫偏の字であることからも判るとおり『虹(コウ)・霓(ゲイ)』のことを、昔の人々は、広い意味での『蟲(むし)』の類いと考え、すなわち「ヘビ」の一つと見做していた。これは日本でも同じことで、マムシやフクムシなど「ムシ」呼び名がヘビには用いられている。『フクムシ(福虫)』というのは、これは穀倉を荒らすネズミなどの害獣を捕食してくれる益獣だからである。『マムシ(真虫)』の真(ま)は、オオカミに冠した神名大口真神(おほくちのまかみ)』における真(ま)と同じく、強く猛々しい神の名を軽々しく直接的に呼ばないようにするための、一種忌み名としての尊敬接頭語であろう。

 『虹(コウ)・霓(ゲイ)』は、両端に頭を持つ怪蛇であるから「それではヘビじゃなくて、むしろ龍とかの仲間ではないか」と言われるであろう。しかし、昔の人々にとっては、家屋の周辺や田畑などで身近に見かける普通のヘビですら、神秘的な存在だったのである。昔の人々にとって、龍(りゅう)/蛟(みずち)etc.普通のヘビとの間の境界は、我々現代人が考えるよりも遥かに曖昧であったと言ってもいい。足を持たない、もしくは四脚が有っても小さくて目立たない、細長いクネクネとした身体動物のことを、一纏めの仲間として昔の人々は捉えていたと考えられる。このことを少し頭の片隅に置いてから、以下を読み進めてもらいたい。

 「それにしても、虹がヘビだなんて、昔の中国の人たちは面白いことを考えていたものだなあ」と思われるかもしれない。しかし、実は「虹(にじ)=天の蛇」という考え方は、近代化する以前の社会では、地球レベルで広く見られた/見られるものである。そして、それは日本例外ではない。そもそも日本語の名称『ニジ』そのものが『ヘビ』を意味していたとも考えられている。

 日本における「『天の蛇』としての虹」の話に関しては、ロシア人言語学者ニコライ・ネフスキーによる有名な研究をはじめとして、多数の調査研究が為されている。それらから、思いつくままに事例を紹介していこう。

 例えば、琉球諸島宮古島では虹を『ティンパウ』と呼んでいたが、『ティン』は「天」、『パウ』は「ハブ」のことである。『ハブ』は『ヘビ/ヘミ』系統の語である大蛇を表す『ウワバミ』の語に含まれる『バミ』もまた『ヘビ/ヘミ』の転訛であると考えられる。『ウワ(上)』はマ(真)カミの真と同じく、忌み名としての尊敬接頭語であろう。

 宮古島の北にある池間島には、若返りの水についての昔話が伝えられている。欠けて新月となり姿を消し、再び満ちて姿を現すことを繰り返す月。脱皮して不老不死を保つ(かのように信じられていた)蛇。若水とは、神話では月や蛇と結び付けられて語られる、不老不死象徴である。月と水が結び付けられるのは、潮の干満との連想であろうか。

 太古の昔、人間はスデ水(若返りの水)を浴びて脱皮することで、不老不死を保っていた。ある時、天の太陽神が、セッカ(ヒタキ科の鳥類)に命じて、スデ水を月から地上へと運ばせていた。ところが、途中で『アウナズ(虹)』が、スデ水を奪って捨ててしまった(あるいは、スデ水を横取りして使い、脱皮するようになった)。このため、太陽神月神の怒りを買ったアウナズは、それ以来、太陽の反対側に出るようになったという。

 若水物語に登場する『アウナズ』という語は、琉球諸島地域におけるアオヘビ類を指して言う『アウナジ/オーノジ』系統の語と明らかに同じものである。他に、八重山群島竹富島でも『オーナーヂィ』と言うとされる。つまり『天の虹』と『地上の蛇』を、同じ名前で呼んでいたのである

 少し変わったものでは、小浜島では虹を『チネー・ミマンチィ』と呼んでいたというが、これは『ティン・ヌ・ミミジィ(天の蚯蚓[ミミズ])』の意であるという。細長くてクネクネした動物を昔の人々は一纏めに捉えていたという話を、今一度、思い出してもらいたい。

 新城島では、虹を『アミ・ファイ・ムヌ(雨を食うモノ)』と呼ぶ。雨が降りそうで本格的には降らない俄か雨で終わる状況を「虹が雨を食った」と言うからだそうである与那国島には『アミ・ヌミャー(雨を飲むモノ)』という呼び名もある。

 虹が喉の渇きを潤すために雨や地上の水を飲みに現れる、或いは、虹が喉の渇きを潤すために雨を呼び起こすという信仰もまた、広く見られるものである

 長野県では、龍が天から水を飲みに降りてきた姿が虹とされ、また、同県更科では「虹は『ジャ(蛇)』の吹く気である」と信じられていた。山梨県西部でも「『ノジ』は蛇の息」とされた。秋田県平鹿では「『ノギ』は吹いた」と表現した。大分県でも、虹が出ると「『ジャ(蛇)』が吹いた」と言われていた。水神としての蛇神が棲むとされた湖沼から天の蛇としての虹が出現して、雨を呼び起こすという話も広く分布していることが認められる。このことからネフスキー湖沼支配神を指す『主(ヌシ)』も『ニジ』と同一起源ではないかと考えたようであるが、それは流石に後代の研究から否定されたようであるしかし、湖沼の主といえば大抵は龍蛇なので、語源論としてはともかく、ヌシと虹を結びつけるネフスキー見方は意外に悪くないと思える。

 ネフスキーと同じ頃の時代宮良当壮という研究者は、虹とヘビ類の方言呼称分析して「『ニジ』はヘビを意味する語から分化した」ということを立証しようと試みた。ニジの呼び名には『ノジ/ネジ/ヌジ/ヌギetc.』がある。既に上でも紹介したが、琉球諸島地域におけるアオヘビ類の呼び名が「アヲ+(語根)」の形をとっており、その語根部分の変化が『ノジ/ナジ/ナギetc.』となっていて、極めて似ている。そこから、宮良は「『ナギ』が『ウナギ(鰻)』を含めた『ヘビ型動物』の総称であり、そこから『ニジ/ヌギ』などの語が派生分化していった」と考えたのである。細長いクネクネした動物を一纏めに捉えていたという話を、再度、思い出していただけたであろうか。

 この宮良説の傍証としては、例えば秋田県ではアオダイショウのことを『アヲノジ/アヲノズ』と呼び、『ノジ/ノズ』は同地域における虹の呼称共通しているなどといった事例が幾つも見られるので、宮良説はあり得ると個人的には思っている。大蛇を指す『オロチ』という語も、尊敬の『接頭語オ(御)+ロチ(ノジ系統語の転訛)』と考えられる。

 とはいえ現代人の感覚から見れば、特に生物学動物分類学知識を通じて見れば、ヘビとウナギ同類視するという考え方は、なかなか受け入れ難いものと思われるかもしれない。しかし、以下の話を読まれたならば、どうだろうか。

 昔の日本人は、雷神に対して信仰を抱いていた。特に農民は、落雷に対する特別信仰を抱いていた。例えば、岐阜県美濃地方では、稲田落雷があれば、その場所注連縄を張って神聖視・聖別した。何故このように稲田への落雷特別視したのか。それは『稲妻(イナヅマ)』という単語に端的に表されている。イナヅマとは「稲の配偶者」であり、昔の日本農民たちは、雷神を「稲田神を孕ませる夫(ツマ)」と見做したのである。これは、落雷のジグザグ線が蛇神の顕現と見做されたこと、そして、蛇体が男性器の象徴と考えられていたこととも関係しているのであろう。落雷は豊作の予兆であった。

 東北地方には、落雷のあった稲田神聖視する風習存在した。例えば、岩手県では、落雷のあった稲田を「お田の神の田」と呼んだり、女性家畜を入れないようにしたり、雷神と刻んだ石を建てて祀るなどした。

 この岩手県をはじめ、東北地方には「ウンナン田」と称する水田の事例が見られ、これは「落雷のあった水田」であり、しかも「鰻(ウナギ)の姿が見られる水田」のことであるとされる。ウナギが住める水田は、水温が比較的高く、良い水田だと考えたからともされる。落雷後の水田ウナギを目撃したことで、農民たちは「雷神水田に棲み着いて、良い水田に変化した」と考えたのであろう。しかし、それだけではあるまい。

 今では、落雷が豊作の予兆であるという考え方は、単なる非科学的な迷信ではなく、それなりの自然科学的な根拠があったと知られている。農作物の稲だけに限らず、植物の生長には、窒素肥料成分が不可欠である大気中には気体の窒素が大量に存在するものの、それらは化学的に安定な窒素分子状態存在しているため、そのままで植物栄養素として利用できない。ハーバーボッシュ法による大気中の窒素を人工的に固定する方法確立し、窒素肥料大量生産が実現するまでは、大気中の気体窒素を、植物栄養素として利用できる窒素化合物の形に化学変化させることができたのは、マメ科植物の根に共生している根粒菌を除けば、雷による空中放電だけであった。おそらく、落雷が起きた水田の周辺では、雷の電気により生じた窒素酸化物の影響で、稲の発育が良かったのだと想像される。それを見た農民たちが、経験知として「落雷=豊作の徴」と語り伝えたものが、ウンナン田なのであろう。

 最後になるが、もしも『ナギ系統の語がヘビ型動物を指すという説が真実であるとすれば、そこからどうしても思い浮かべてしまうのが、インドから東南アジア地域に広く分布する蛇神『ナーガNaga』の存在である果たして、ヘビの古い呼称の一つである『ナガムシ(長い蟲)』の『ナガ』は『ナーガ』と関係があるのか。水の中にいる長くクネクネしたヘビのような身体をした動物ウナギは、もしかしたら『オ(御)+ナーガからその名が付けられたのか。

 妄想は尽きない。

【参考文献】小島瓔禮・編著『蛇の宇宙誌』(東京美術)

 今回の内容は、この本の受け売りである。とても面白い名著なので、是非、図書館などで一読することをおすすめしておく。

栗花落カナヲと蛇の話⇒anond:20221108215545

2022-10-01

(元)親友の書いた短編小説を読んでしまった。

 (元)親友とは、もう十年以上さして交流がない。ちなみに親友接頭語に「(元)」を着けたのは、単に中学卒業して別々の高校に進学して以降、会う機会が数回しかなかった上に、(元)親友がいつの間にか数多の友達を持つ交遊関係のやたら広い奴になっていたかである。きっと、ぼくの事なんかミリも覚えていないと思う…………そう、それって単なる被害妄想

 中学の頃はヤバいくらいにべったりくっついて離れないくらいの勢いで互いに「親友」と称していたぼくらだが、現在の接点はというとTwitterのほぼ死んでるアカウントと実況アカウントとで相互フォローになっているくらいのものだ。

 (元)親友はぼくの知らないオンラインゲームの戦況をひたすらツイートしている。ぼくはアカウント放置し、他にいくつか所有する趣味垢で呟くのに忙しい。

 ぼくは趣味小説を書く。ただし投稿サイト粛々と投稿し続けるだけで、本を出したりはしない。(元)親友もどうやら小説書きであるらしい。二次創作小説を書きイベント頒布しているようなのだが、具体的にどんな活動ぶりなのかを聞けば言葉を濁すばかりなので、よくわからない。

 (元)親友にはぼくの知らない顔がある……時点で、すでに親友とは呼べないのではないか? という悲しい思いがなくもない。

 ちなみに、(元)親友はといえば、ぼくのTwitter放置垢だけでなく趣味垢も知っているから、その気になればぼくの書いた作品を読み放題だ。だが、(元)親友がぼくの書いたものに何かしらの反応を寄越したことは一度もないので、ちょっと読んでドン引きたか、あるいはそもそも社交辞令アカウントを聞いて繋がってみただけなのかもしれないな。なんていう非対称性もりもりで実のない関係性というか、関係の断絶なのだろうか。書いててちょっと涙が出てきた。

 もはや「謎の元親友のような者」と呼んだ方がいいような気のする彼女ツイ垢を、昨日なんとなく久しぶりに覗いてみたところ、プロフィールにぷらいべったーへのリンクが貼ってあるではないか。ぼくはドキドキしながらそのリンククリックした。

 中身はやはり何らかの二次創作であるようだ。いわゆるブロマンス。男同士の熱くて強固な関係性を描いたもの。色気とエロは一切書かれていないところが君らしいな、と思ったそばから、それはぼくが彼女に潔癖を求めているからそんな風に思っただけのことだと考えた。

 へぇゴリゴリ理系国語は得意じゃないと昔は言っていたのに、小説ちゃんと書けるんだな。うん、ぼくほどではないと思うけど、上手いと思う。

 だが軽い衝撃を覚えたのが、それらの短編小説達が一体何の二次創作なのか、さっぱりわからない事だった。登場人物名前すら出て来ない。名前が入って然るべき部分は全て一人称二人称三人称があてられていた。君ってやつは、どこまでも秘密主義なんだな。

 ふと、短編いいね! とブクマをしてやろうかと魔が差したが、そんな事をしたらいよいよぼくらの関係性は断ち切られてしまいそうな気がして、ぼくはそっとブラウザを閉じた。

2022-09-13

いけ好かない」の「いけ」って何?

マジわかんねーな。

辞書はいけは接頭語で「好ましくない意味の語に付いて、いっそう卑しめ、さげすむ意を表す。」らしいけどなんでそれが「いけ」なのかわかんねーわ。

あと現代になって「イケてる」のイケと若干被る領域が出てきている気がしていて

たとえばイケてるのが気に食わない。イケメン嫉妬!みたいな意味が新たに付与される気配がする。

まあもっと意味わかんねーのは「いけしゃあしゃあ」のシャア意味だけどな。

2022-08-28

ご飯が、おんめしとか、ぎょはんにならない

ご飯はもともと、メシ(飯)と言った

古墳時代あたりに呉音(ごおん)がやってきて御飯(ごふぁん→ごはん)という言葉ができ、ついでに、オココロ・オンココロ(御心)など訓読みの接頭語も「御」になる

→平安に漢音習得が推奨されたが、御飯(ぎょはん)、御心(ぎょしん)にはならなかった

吾妻鏡の「御意」(ぎょい)、明治の「御名御璽」(ぎょめいぎょじ)、「制御」(せいぎょ)あたりでは漢音になってる

とはいえ今でも御社(オンしゃ)を(ぎょしゃ)とか(オンヤシロ)とは言わない

 

呉は宋と合併消滅したのに、呉音読みがまだまだ残ってるのはどういうこと

2022-08-26

anond:20220826161249

comという接頭語は「共に」とかそういう意味やで

お互いが約束を交わすのが妥協ってことやで

2022-08-21

髪切りにいったんだけど

バリカンって変な響きだわ

サイドはばりかんで刈り上げちゃってよい?

あ、はい。お願いします。

刈り上げる道具としてのネーミングセンス

なんかバリカンって感じ、バリバリ刈っちゃう

刈り上げちゃうけどよいのか?普通はハサミでチョキチョキするぐらいだけど。

そこを刈っちゃって良い?この俺様の持つバリカンで!

的な有無を言わせない感が

この濁音で始まって軽やかに終わる言葉の響きに凝縮されている気がする。

バリカンなのか

有識者に聞けば、バ-リカン かもしれない。

バは接頭語リカンを否定する意味とか

ヘリコ-プターみたいな

兎にも角にもですが

現状、頭部のサイドはショリショリしていている

2022-06-24

根性の「ど」と超ド級の「ド」

前者は強調効果のある接頭語

ど肝を抜く、ど真ん中、ど派手、どぎつい、などが用例

後者戦艦ドレッドノートが由来

超ド級の原義は戦艦ドレッドノートより大きい戦艦のこと

転じて非常に程度が大きいことを指すようになった

全く違う由来の言葉が似たような意味で同じ「ど」に合流していて面白い

2022-04-17

anond:20220417111713

こうしてみるとギリシャ語から直接借用してるもの、似ているもの全然違うものといろいろあって面白いな。

英語接頭語ギリシャ語
トリトリ
クアドラテトラ
クインティペン
クタヘキサ
サプタセプタ
クタクタ
ノナノナ
ディカデカ

2022-04-13

anond:20220413195939

小さいという漢字接頭語に付いていると言うことは

小さいということが始めに付いていると言うことなんです

小泉進次郎

2022-03-13

お見立て会」って気持ち悪い

○○坂の新メンバー披露するときに使ってるけど、なんか気持ち悪い。

「御披露目」じゃ駄目なの?

辞書だとあてまるのが①か②だけど、意味あってるのかな?

https://www.weblio.jp/content/amp/%25E3%2581%258A%25E8%25A6%258B%25E7%25AB%258B%25E3%2581%25A6

お‐みたて【御見立】

〔名〕 (「お」は接頭語

① 見て選び定めることをいう尊敬語

雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下「己れもお前の内で二三度深谷に逢ったことがあるが、兄さんの御見立は些と間違て居る様で」

近世、遊里で客が相方(あいかた)としての遊女を選ぶこと。

洒落本・南閨雑話(1773)「『御初会だ』『どふせふの』『お見たてが能ふ、ござりませふ』」

③ ある所まで見送って別れの杯をくみ交わすこと。

破戒(1906)〈島崎藤村〉二三「『お見立(ミタテ)』と言って、別離の酒を斯の江畔の休茶屋で酌交(くみかは)すのは」

2022-03-11

護衛艦センサーの型番は「O」で始まるらしいが、その理由が残念

例えば、護衛艦レーダーは「OPS-14」、ソナーは「OQQ-21」とかなので、やはり「O」で始まっている。

しかし、その理由を調べてみると…

海上自衛隊電子機器の型番はアメリカ軍軍用電子機器命名規則におおむね基づいているが、一文字目のみは米軍式では「S」がつけられるべきところを、「お船」(Ofune)ないし「艦載用」(On Board)を捩った「O」とされている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/OPS-14

えっ。「お船」だから「O」なの?

「お」を付けていいんだったら、船じゃなくてもいいじゃん。

なんなら、「おにぎり」の頭文字で「O」しにてもいいじゃんって思った。

On Boardにしたってそう。

On ○○」の形にすれば、やっぱり船でなくてもいい。on trainとかでもいい。

接頭語や前置詞を基にして「O」の発祥とする理由付けは、護衛艦でなくても当てはまるのだし、なんか残念に思う。

もっと護衛艦から「O」なんだね!と納得できる理由は作れなかったんだろうか。

2021-12-23

anond:20211222133906

imとかanとかは非って接頭語

モビライズはモビライゼーションとおなじ、モバイル化、携帯できる、持ち運べるみたいな意味

それをライズ動詞にした上でer(あー)でする人・するものという意味にした

持ち去ることができなくするもの、という意味

2021-07-03

anond:20210703093335

デルタ(Δ)やで

その後の記号の微小な差を表すやで

例えばΔtは微小な時間を表す

演算子というよりは接頭語というイメージやで

dy/dxはdxを無限小にした時のyの差だからその時点での接線の傾きになるやで(つまり微分)

2021-06-21

anond:20210620220545

自分の親は違うけど、友人とかに話を聞くとそれなりにいるんだよね。

Facebookとかでもう連絡とってない大学とか職場最初に一緒だった人みたいなのの中にも

ワクチンとか、健康への影響被害(ただしソース個人ブログ書き込みYoutube)を

雄弁に語っている人がいて、金輪際こちからは連絡とらないし、徐々にフェードアウトしていこうと思っている。

ある程度の大学を出てて、親世代よりはネットリテラシーもあるはずなのに引っかかるのだから

ソーステレビ、みたいな人たちがこういうのに引っかかってしまうのは仕方ないだろう。

諭したところで「あなたもこのブログ見て!騙されてるのよ!」みたいな地獄になっている友人もいる。

最近じゃあどちらから攻撃されてしまうからか、

「私は打つのも打たないのも個人が選べばいいと思う」みたいな接頭語をつけている人も増えた。

いや打てよと。

1万歩譲って打たないとして、収束するまで買い物以外に外でんなよと。

結果的ワクチン接種が進んで収束に向かったとして偉いのはちゃんワクチン打った人たちのおかげで

あなたたちがワクチン打たなかった決断のおかげではない。1ミリもない。

友人の親がらりぱっぱになって疲弊しているのは見るのがつらいし、

昔少なくとも友人だった人と思想が合わなくなって離れていくのも悲しいものですね。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん