あるいは「我々がフィクションに対して求める『リアリティ』なる安っぽい感傷が人類の持つ可能性を狭めていることを今一度思い出すべきだ」。
ここで「トップクラス」という表現を使い「頂点」と言わないのは、藤井が置かれている環境が藤井にとって有利だった部分も含めてのものであり、天才という表現が「環境を含めて」のものであると勝手に定義することを筆者が咄嗟に避けたからである。
もしも、藤井の前に今まで現れたライバルの強さがもっと強かったり逆にもっと弱かったら、もしも藤井が生まれたのがあと10年早い、または10年遅かったら、彼の天才はこのような形で開花できたのか、それは誰にもわからない。
「RPGの勇者が誕生する条件の一つはLV1でも倒せるモンスターが村の周りにいることだ」というジャパニーズな湿っぽいジョークがあるが、これが完全に間違っているとは言いきれいない部分が現実において天才が生まれる過程に多々ある。
程よいライバル、強敵、敗北、勝利、それらに恵まれ続けることが育まれるのに必須となる才能の形が数多くあるのは歴代の天才たちを見るに疑いようもない。
藤井もまた将棋界という世界の中でこそ花開いた天才であり、もしもこの世界で将棋を指す物が藤井聡太だけだったとして、彼が生涯をかけて残す詰将棋の数と質が今と同じであっただろうか。
藤井がこれだけの天才となった背景を現実はこれでもかと入念に組み上げてくれる。
フィクションにおいてそれだけの天才を描くとき、人は多数のごまかしを加えながらも、張りぼてであったとしてそれなりの背景を描くに迫られるだろう。
だが待ってくれ。
フィクションにおいて天才が天才であることに対して「天才である」の一言で済ませることがなぜ許されないのだ。
「物語にはたった一つ大きな嘘をついても許される」とは誰の言葉だったのか、もちろんこれは数多の鑑賞者が勝手気ままに作品論をぶち上げ続けたはてに巷で生まれた有象無象の戯言の集合体その一つである。
何故か。
簡単だ。
たった一度しか嘘をつけぬのなら、「この棋士は天才である」などという部分に使いたがらぬのだ。
まったくもって同感である。
新たなジャンルの創作物が生まれたばかりの原始の海であれば「この主人公は天才である」の一言で作品は成立するが、今はもうそんな時代ではないのである。
主人公の天才なぞは作中であれこれと理由をつけてリアルの一つとして読者に飲ませ、別の部分で嘘をついてこそフィクションは成立する。
情けない話だ。
それもこれも読者が「面白ければ大きな嘘をいくらついても俺が許す」と言えなかったばかりに、安い作品論を解くことを面白い作品を読むことより優先させたものばかりだったばかりに、こんなことになったのだぞ。
よーく恥じるが良いぞ