はてなキーワード: 小手先とは
じゃあご足労頂いて見た目とか声とかがそれっぽい人弾きますね。
じゃあご足労頂いて(ry
(本気で女を採りたくない場合、女っぽい名前を弾くという手もあります。)
じゃあご足労(ry
逆算する手間が増えるだけなので普通に書いといて欲しいんですけど…
(流石に無理筋やろ…)
禁止されたとしても有利な属性持ちの人は自己アピール欄に上手にそのこと書くようになると思うんよね。「男子バスケットボール部で活躍し」とか「もうすぐ卒業なので」とかね。なんなら就活テクとしてアドバイザーがそう指導するようになると思う。
面接でも自分から言うことは禁じられてないんだから、有利な属性持ちならガンガン言ってく事が就活テクの基本になるよね。老け顔の新卒なんかは特に言わんと見た目で判断されて落とされかねんし。結果言わない人は面接官から(あっ…)て思われて結局疑心暗鬼バイバイよね
応募殺到してる大企業なら手間が増えすぎて諦めるんじゃないかって思ってるのかも知れないけど、面接回数1回増やしてその1回を業者に投げるだけの話
あとはリクルートが入力情報とか顔写真を元に性別年齢人種あたりを予測するAIを開発して提供しそう
水曜からはじまるレジ袋有料化の話、個人的な所感としては袋を有料化すること単体に対してはまぁ賛成で、というのも
1. 環境問題的にプラスチックの総量を減らした方がいいということには異論の余地は無いはず
2. すでにレジ袋有料化を実施している欧米諸国では、それでプラスチック袋が実際に削減されている(欧米が正しいとか追従すべきというわけではなく先行事例として充分であるという意味)
の2点から考えれば極めて妥当な発想だと思う。それに個人的にも自分は元々マイバッグ持参派だし。
じゃあ何にもやもやしているかというと、ゴミ出しシステムとの兼ね合いだ。
・ 公共のゴミ箱というものが事実上存在せず、外で出たゴミは各個人が自宅まで持ち帰らなければならい
というのが標準で、これって実は本来公共が担うべきゴミ回収のコストを個人に転化してる。(一部自治体の有料ゴミ袋については従量課金制の概念の有無の話が絡むので一旦置いておく)
そして、ゴミを持ち帰るのにはビニール袋が必要になるし、分別と日時指定が細分化されればその分袋が余計に必要になる。
つまり日本のゴミ回収はビニール袋を沢山消費するシステムになっているし、そのコストは個人に転化されている。
ただ、今までそのビニール袋は日常の買い物のついでに無料で貰うことができていたから、消費者の実感としてコストとは認識されていなかった。
・ この話は環境問題、もといゴミ問題が出発点でありビニール袋を減らすべきという話のはず
・ しかし日々のゴミ出しにビニール袋が沢山必要なシステムは据え置かれたまま
・ その状態でレジ袋を有料化することで、ビニール袋のコストを個人に明確に負担させるシステムになる
という事態なわけで、本来もっと根本的に変えるべき所を放置して小手先の策だけを取った結果、いち市民に負担のしわ寄せを寄越しているんじゃないかと。
本当にビニール袋を日本全体から減らしたいなら、レジ袋有料化と並行して、
2. ゴミステーションには種別ごとのクソデカゴミ箱常時設置(かつての府中市のように)
これくらいやらないと整合性が取れないのではと思っているんだけど、どうだろう。
どこかいち自治体だけがやっても越境フリーライダーが出てくるだろうから、全国的にやらないとダメだろうけど…
そうなると今度は実現可能性が云々で、でも何もやらない訳にもいかないから出来るところから始めましょう的なアレになるのもわかるんだけど……
それはそうと、マイバッグがXXX円だからレジ袋買った方が安上がり(ドヤ)みたいな論調はちょっとどうかと思う。
別にわざわざオシャレな布の袋買わなくてもいいんだよ、家にある紙袋とかなんか適当に持って行きなよ…てかコンパクトに畳めるマイバッグなんてきょうび100均に売ってるよね。
東京や大阪で順調に感染者が増えているのは単純に人が多いからだと思う。
マスク着用や消毒や換気を神経質にやることや、民度の高低、東京人のバカさや大阪人のアホさ、知事が有能かアピールだけの無能かにあまり関係なく、外に人が多ければ感染が拡大するし人が少なければ感染の拡大は止まる。
人が多ければ人間の距離を確保できない。すべての人が呼吸を止めて何にも触れずに生きることができるなら感染を防げるかもしれないがそれは無理だ。必ず誰かが呼吸して飛沫感染させるか、感染者が触れた物体に触れて接触感染が起きる。
東京と大阪の人口比率の割に東京の感染者が多いが、ある程度人口密度が高くなれば急激に感染率が上昇するのかもしれない。東京に比べれば大阪も田舎だからね。
たとえ鳥取や和歌山でも東京人全員が今すぐ移住してきたら感染を止めることはできないだろう。小手先でどうにかできる問題ではないのだ。
でもそんな小手先の話で自分の人生が決められてしまうようなアホくさい話わたしゃ受け入れられないね、ケッ
ってなってるんだと思うよ。
思うに元増田含め彼らって、人間ってのには個人個人に絶対的な価値が定められてて、何か凄いことして結果出さないとそれを社会は認めてくれないと思ってんだよ。
私には並外れたポテンシャルがあって、受験やら就活やらの杓子定規で測れる横並びの競争の場でそれを誇示できないと一生涯不遇な扱いを受けるとでも思ってる。
でもそんなの十中八九間違ってるよな。受験なんか最悪やらなくても、競争で勝たなくても、やりたいことを実現させる道筋なんていくらでもあるはずだよな。人生って結果論で、成功すればどんなやり方、選択でもそれが正しかったってことになってしまうんだから。
別に今の時代って新卒で入社しても5年内に結構な人間が辞めるし、その中で前より悪い待遇を受ける奴も少なくない。
ばりばり働いていずれ中途で入ってやるって思える根拠も自信も気概もないならそりゃ落ちるわな諦めろ。
なんであんなぼんくらでもとんとん拍子で内定もらってんのに自分は…ってさ、
雇う側からすれば新卒採用で入ってくるような、本気で働いた経験もない勉学修める気もない中途半端なモラトリアム野郎なんざ総じてぼんくらなんだよ。使い物になるかもわからない人間に費用かけて研修施すんだよ?誰も就活生を戦力としてなんて見てない。
ただ素直に波風立てず俺らの言うこと聞いて会社の雰囲気とか文化に染まってくれるだろうかってそれしか考えてねえよ。誰が増田に愚痴書き込んでるゴミ大学生もどきと一緒に仕事したいと思うかよ。雇っちゃって将来的に自分の悪口を増田に書かれてブクマカのおもちゃにされたら嫌だなとか考えちゃうだろうが。
こんなこと言っちゃあれだけど、チー牛みたいなもんでネットのキモいコミュニティに入り浸ってて身近な人間の愚痴とか書き込んじゃうような奴てもう立ち振る舞いでお察しなんだろうな。元増田はもっと根本的なところを見直すべきかもね。
香川県ゲーム規制条例「パブコメ」…LINEのチームが分析、シンポで発表へ 弁護士ドットコム https://www.bengo4.com/c_1017/n_11363/
これは、コンピューターに関して「一応使える」だけの素人が、なにも勉強しないで稚拙な「民主主義に反するチート行為」をやった例だけれど、これを例えば興信所みたいな半汚れに依頼して工作した場合にはどんな感じになるだろうか?
俺自身も「多少はPCを使えるしちょっとくらいの知識もある」程度の素人なのだが、思いつくこととしては
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
新型コロナウイルスの猛威が止まらない中、弊社も対応を迫られてきた。
時間差出勤という小手先の対応を経て、時期に在宅勤務が命じられた。
在宅で勤務など真面目にする人間などいるのだろうか。
と言うか客もろくに仕事をやってない中、マジで営業は仕事がない。
しかしここで不満が溜まったのが変わらず通常出勤を続けざるを得なかった事務員達だ。
自分たちが必死な思いをしながら出勤しているにも関わらず、営業に電話を架けると呑気に家でくつろいでいる。
これでは不公平感が募るのも致し方ない。
しかし事務員を減らしたところで事務作業が無くなる訳ではない。
どうしても誰かが会社に来なければならない。
そこで白羽の矢が立ったのが俺だ。
隔日出勤となった事務員の穴埋めに、俺が毎日出勤することになった。
いや「白羽の矢」って適切な言葉なのか?ここ。
恐らく上司としては誰かを人柱にせざるを得ない状況で、若手で且つ最も営業として仕事ができない、且つイエスマンな俺を指名したのだ。
後輩も何人かいるにも関わらず、このご指名は精神的にもかなりしんどい。
事務所は相変わらず人が密集し、多くの人が出入りする状況だ。
もちろん事務員のおばちゃんの状況も何とかしなければいけない。
でも、なんで俺だけ最前線に送られるんだ。
俺に出勤を命じた上司は「優秀な力が必要だ」とかなんとか心にもない見え透いた嘘を抜かしていたが、ずっと家でゴロゴロしてるんだろう。
元増田のエントリにはさほど反感を感じなかった男だけど、このエントリは意味が分からなかったので整理のために書いてみた。ちなみに私はジェンダー否定派だけど、婚活が構造的に男女らしさを求めるのは別にいいんじゃないのと思っています。
まず増田が何に怒っているのかわからない。いや、確かにブコメからの反感は必要以上に激しかったなあとは思う。それに対して怒りを覚えるのもわかる。元増田の話は入門編というか、「人格やその他すぐには表出しない要素だが素晴らしいものを持っている人が、そのような第一印象で足切りされてしまうのは忍びない」というメッセージだと思って読んでいたので、かなり共感した。一昔前の脱オタとも通じるところがある。
で、そのうえで増田が何に怒っているかがわからないなって考えて、以下整理。
なぜここで男らしさの話になるのかわからんかった。元増田は婚活カルチャーにおける軽めのジェンダーロール肯定派。このパラグラフで増田が述べているのは確かに論外な例ばかりだが、その話って元増田のエントリと何一つ関係ないような。むしろブコメは全体的に潔癖なまでのジェンダーロール否定派だろう。(だから、非モテは「女めんどくせえ」と言い、はてなのリベラルは「男性にロールを押し付けるな」と言うのだ)
とりあえず「適切なタイミングで関係性を性的な構造にシフトしろ」というメッセージは読み取れたものの、こういうジェンダーを肯定派なのか否定派なのかのプリンシプルがとにかくぐちゃぐちゃですげえ読みづらい。お前の怒ってる対象はどこなんだ、非モテか?リベラルぶってる社会人男子か?イキリ浮かれチンポなのか?リベラルぶってるけど実は男性優位主義者の社会人男子とか具体的過ぎて怖い
とにかく「女に媚びずとも、オレの男性的魅力を見せつければ女は惚れる」という考えは男のプライド的には心地良い言説だけど間違ってるからすごく危険だよ。
節子、それこじらせた非モテとちゃう。マイルドヤンキーや。非モテがそんな自信持っとるわけないやろ。
私も相談所の業態がわからないので、そんなもんなんだろうなって感じ。要約すると「相談所の甘言に騙されず自己研鑽を積もう、カモにされるぞ」というメッセージだと理解しました。その通りなんだろうなと。ただ、女子が厳しくされすぎってのはかなり私情込みだとは思うけど。
このパラグラフでもアドバイスと私情が入り乱れてぐちゃぐちゃになっている。コミュ障受け身人間に対して親を殺されたのはわかった。コミュ障に対する認識もさほど間違っていない。が、判断ポイントは女性の間で共有して、情報の非対称性を保っておいたほうがいいのではないだろうか。コミュ障がこれ見たらデートの段取りだけはしっかりやり始めるだろう。魚を取ってきて釣り方を教えないようなアドバイスだと思った。
あと気になったのが、
好ましくて大事にしたい相手ならどうすれば喜んでくれるかあれこれ想像したりして段取り自体を楽しめるはずだし、ここで「失敗したらどうしよう」とか自分の保身感情で一杯になる人は一見真面目に見えても本質的に自分だけが可愛い人なんだと思う。
他人ではなく、他人からみた自分の評価だけ守りたいという脆弱な自己愛だよ。本人は思慮深さだと美化して勘違いしてても他人にはカンタンに見抜かれるよ。
ここまで人の内心の深いところに突っ込んでおきながら、
見極めの基準は収入や居住地などもあって一概に言えないけど、個人的には最低一度はデートの店探しから予約まで段取りをしてくれる事かな。
このあり得ないくらい軽い見極め基準てなんなんだよ。えマジで?
結局なんだけどさ、ムキーってなってる独身男子にアドバイスしてどうしたいのってとこなんだよわからないのは。大丈夫だよ、お前の基準を抜けられる男子はムキーってしてない。お前が例示したクズどもがこのアドバイスをラーニングしたら、そいつらが足切り基準を抜けてくるんだぞ。こんな小手先の所作で思想や根本の人格が変わるわけない、ましてや隠しおおせたとしても結婚生活で露呈するに決まってるじゃないか。ブコメでもめっちゃ言われているけど、それを実現したのが恋愛工学なわけでしょ。
なんというか似非リベラル男子、イキリ浮かれチンポ、コミュ障受け身野郎というボキャブラリーで感じたんだけど、ただ悪口をいいたい対象なんじゃないの。非モテ男性(あえて一括りにするけど)という存在が。「アドバイスを実行すれば、お前らは結婚できる」「こんなこともできないから、こんな思想をもっているから、お前らはクズで結婚できない」というメッセージでしょこれ。決して「こんな表層的な要素で足切りされるのは損だよ、やっとけや」ってことではないじゃん。アドバイスって言いながらマウント取って気持ちよくなってるか、もしくはアドバイスの対象がぐちゃぐちゃになってる気がするのよ。
広報の「マスクの洗い方」では汚れたら都度洗い推奨なので、くしゃみ一発で替えが必要になる。
https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/mask-abe
「くしゃみぐらいで替えてたら洗い替えがあろうと足りないだろ」だって?
そうだよ。
もともと洗い替えがあったとしても2枚じゃ1人分にも足りないんだよ。
ところでネット上のレビューを読むと、このあとがきは賛否両論のようだ。
「めちゃくちゃ面白い!」
「これだけでも一読の価値がある」
という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、
「あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理は不要である。」
「著者のファミリーのヒストリーがあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」
このての感想はなんつうか、物事の本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。
"本編は面白いけどあとがきは不要"って……。いやいや逆でしょ。
こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!
本は情報を吸収する道具、著者は情報を提供してくれる装置、では断じてないのだ。
真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれぬのっぴきならない著者だけの特殊な事情がある。
何かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義。
その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。
そうせずに小手先のマーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。
これはなにも小説や脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。
「私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」
「いっぽうには、わたし自身の歴史があり、わたしの経験からひきだされたわたしの価値観や、わたしの書いたものや、わたしの立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的な世界があり、そこでは戦争や自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的な知識人というものが存在しないのは、あなたが言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなたは公的な世界にはいりこんだことになるからだ」
「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。そして、個人的な曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである」
「ジャン=ポール・サルトルやバーランド・ラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有の個人的な声であり、その存在感であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているからである。彼らが、顔のない役人やことなかれ主義の官僚によもやまちがわれることはあるまい」
そう、だから、パンツ脱がずに小手先の情報だけで書こうとすると、必然的に無難な一般論や官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから。
そうすると書き手の洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。
話を益尾氏の本に戻すと、
なぜ"東京対北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。
本編を読んでもその意味と必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿としか言いようがない。
ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。
そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。
学者の場合、小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。
たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係や客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから。
それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。
その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者のあとがき」として大変面白かった。
自分が今まで読んだ中では、安丸良夫『近代天皇像の形成』のあとがきを彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。
当然コルピクラーニだよな!
というのは不動の前提知識として、にわかに注目されているらしいのが、バンドリ!に最近加わった、Morfonicaとかいうバンド。
えー、女性声優でヴァイオリン弾ける子なんていたっけ?と思っていたら、例によって「逆に考えるんだ、ヴァイオリニストが声優やってもいいさと考えるんだ」ときやがった。
だからお芝居は百歩譲ってノーコメントだけど、個人的にこの人の弾き方も音も、あんまり好きじゃないんだよなあ。
とびっきりのトッププロはともかく、そうじゃない多くの日本人ヴァイオリニストにありがちな「小手先の奏法から始まり、百万回さらって成功した人」というか。
それだけ「作り物を極めた」努力は本当に凄いけど、同時にそれは死屍累々の道であり、何より音楽の原点である歌からかけ離れたアプローチと言う意味でも真似すべきじゃないと思う。
そういうのにリスナーも敏感なのか、ポルノグラフィティの名曲、メリッサのカバーは相当否定的な評価みたいだし。
まあでも、ヴァイオリンが印象的なアニメ系の楽曲は色々あるし(微妙に古い例ばかりで申し訳ないがこれとかこれとかこれとか)、どうカバーされるかは期待しておこうと思う。
これも「生暖かい目で見守る」ということになるか。
https://togetter.com/li/1479559
https://togetter.com/li/1436302
まあ、アレだけ反差別や人権を盾にしながら、当人が逆に差別的発言を行っていたら敗訴するのも必然だよねとしか言えん。
何故か当人被害者面しているけど、これに関しては被害者は寧ろ事業者の方なのよね。
それとこの人豪州のマッチポンプの件を見ても都合が悪くなると途端に被害者面し出すし、あの件でもツイを消させようとして、法的手段とかある種相手に脅しをかけて潰そうとしたりしたしねぇ。
しかし見ていて下手したら自分は聖人君主で誰からも恨みを買っていないとか思っていそうだよねと読んでいて思ったりもする。
この方に関して言えば並大抵の恨みの買い方ではないからな。
個人的にも児童ポルノ関係の創作物規制関係でこの人には大変嫌な思いをさせられてきたから。
それで一回敗訴しているにも関わらず、今だこんな事言っているのは本当にどうかと思うよ。
本当指摘されている様に小手先ばかりで墓穴を掘っていると言うのは同意。
あなたにとって当たり前、普通と思っていることは彼にとっては普通ではないのかもしれない。
鈴木大介さんの著書の言葉を借りるなら、例えば、彼が車を使ったら洗車をするという文化圏にいたとしたら、彼はあなたにもそれが当たり前として接してくるかもしれない。別に車が汚れているわけでも何でもないのに、ちょっと外出しただけなのにといくら不合理に思っても、それが常識だと思っている人の前には通用しない。
まず、あなたの家事にそういうところがないか点検することかな。
どちらかと言うと小手先のテクニックの話ではなくて心がけの話として、他人が自分の為に何かしてくれた時は感謝する所だろうな。
逆に、所詮他人なんだから何もしてくれなくてもそれが当たり前なんだと思う。
あと、自分が相手に対して一番不満に思っていることと、相手が自分に対して一番不満に思っていることを交換するというのもあるよね。
鈴木さんの場合は床に物を置いてほしくないとお妻様の朝起こされたくないを交換したんだったと思う。
別れないという選択は相手の嫌なところも受け入れていくという選択なんだと思うよ。
彼は子供ではないのだから別に起こさないでいいし、食事も用意しなくていいし、洗濯もやってあげなくていいと思うのだけど。
あなたが負担に感じているのに彼の分をやるのは間違っていると思う。
小手先だけマイルドにしたところと、さらに盛り込まれてるところと。。https://t.co/mxlKY8g6yR— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) 2020年1月20日
しかしこの手の規制を進める連中って当時の児童ポルノ禁止法や都条例でも昨今の著作権のダウンロード違法化拡大でも見られたことだけど、世間で大々的に非難されたら、非公開だの身内のみでの会議だのの密室をやらかして、反対の声を聞いてる不利だけをしてこの程度緩めれば世間は騒がないだろうと言う打算の元、弥縫策ばかりに終始して、挙句、結局は何も問題点を変えない所か時には余計に悪化させる様な事ばかりして、強行させようとするんだよね。
余りにもこう言う事が行われすぎて、現にその規制の悪影響が出まくっているからこそ、世間もこの手の規制にシビアになっている事にいい加減気づいた方が良いと思うけどね。
(a)家庭で決めるべき事項に介入する問題点、自己決定権の侵害
(b)インターネットの利用時間を制限することの非現実性
(c)子どもの権利条約との矛盾
(d)各部局のネット・ゲームを利用した広報・振興戦略との矛盾
の4点から、このネット・ゲーム規制が筋の通らないものかを論じています。— ドラグーンTGC卿 (@dragoon_tgc) 2020年1月19日
昨今は凄いな。
県職員でも身バレ覚悟で発言しているのを見て、本当に変わったと思うし、この人偉いと思うよ。
しかし共産県議からも今回は空気を読んで賛成できないと言う発言も出ているし、コレも大方著作権と同じで一部の人のプライドだけで進んで止まるに止まれない所まで来ている所なんだよろうね。
そのせいで多大な被害が出るのは現時点で予測されているのだから糞だとしか言いようがないが。
本日から、通常国会が始まりました。「山田太郎の3分DIET」も本日から開始の予定でしたが、体調不良のため、お休みとさせて頂きます。はやく体調を回復して、皆さんに国会の状況をお届けすることを楽しみにしています。申し訳ございません。— 山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例) (@yamadataro43) 2020年1月20日
そりゃアレだけ動いていたらなぁ。
何にせよお大事にと。
ものを作る仕事をしている。音楽とか、絵とか、そういったものだと思って欲しい。
数年前からアイディアが枯渇してしまい困っている。クソみたいな小手先の作品を量産してもOKを出されるので食ってくためにやっているけど、本当に自分が作りたかったものを見失ってしまった。
昔のライバル的な存在の人や、師匠らが身も震えるような作品を生み出したりどんどん才能ある若いやつらとつるんで大きなことをやっていたりする(もちろん俺は声もかけられない)のをインスタやらなんやらで見ていて嫉妬と焦りと諦めと将来への不安で死にそう…
今は素人みたいな人でもそこら中に荒削りな、でも光る才能がゴロゴロ転がっていて恐れ恐怖し
中学時代に結構落ちぶれて、勉強は全てダメだと思っていたし、得意科目なんてないと思っていた。
でもある日模試を受けて、国語で100点を連発した。なんでこんな簡単な文章でみんな60点とか取ってるんだ?って思った。
中学の国語は、教科書作ってるような人が教えていた。そういう人がどんなテストを作るかと言えば、読解力が必要なのは10点分程度。
残りの90点は100人一首の暗記だったり、大学の授業で教えるような知識の詰め込みだった。読解力は評価されない仕組みだったのだ。
読解力問題というのは、端的に言えば「粗探し」だ。論理的な間違いを指摘するだけの簡単な作業。
よくツイッターだと国語の読解問題が叩かれるが、彼らは馬鹿なんだと思う。論理と命題すら理解できない自分の頭の悪さを隠したいだけだ。
話を戻すが、自分の先生は意地悪で、成績の悪い生徒をたまに当てて晒し上げるのが趣味だった。
その日は「スピーチ」の練習で、先生が突然与えた議題を基に即興で文章を作るという物。「りんごとイチゴはどちらが素晴らしいか?」みたいなそんなん好みだろ、と一言で終わるのを
1分間語り続ける。生徒当てルーレットという、先生が目をつぶって座席表をから当てる、という手法で生徒が指名される。
当たり前だが、ベテランの先生なので、目をつぶって居ても狙った場所に当てる事が出来る。先生と目が合ったので自分に来るなと思ったら、案の定自分に当たった。
「うーん、思いつかないっす」で終わろうと思ったが、そういう雰囲気ではなかった。とりあえず適当に出まかせで喋ったら、それらしい文章になり、クラスから歓声があがった。
他の人も当てられたが、皆しどろもどろでうまく言えてなかった。
今考えると、自分は親が厳しかったので、嘘をつく能力が異常に発達していた。その上、作文を毎回授業開始10分前で泣きながら書いていたので、巧く言えた。
自分の持っている読解力と、出まかせで論理をつなげられる作文力は、模試国語の成績向上に大いに役立った。
ここまで読んでわかったと思うが僕は卑屈なくせに、プライドがものすごく高い。
そういう人間がどこに行くかというと、2chだ。兎に角相手の文章の齟齬を見つけ、作文して論破する。
正しさなんてないと知っていた。だから自分の思想を全部捨てて、適当に相手に反論しかみつくことを繰り返していた。
高校でも成績が悪かった。自分にはやりたい夢があったが、得意の論破力で自分の夢さえ否定していた。
先生に学力ややる気に関して何か言われても、それを上回る理由付けで先生を黙らせることが出来た。
友達と遊ばない理由、勉強しない理由、彼女を作らない理由、何かしない理由なんていくらでも思いついたし、それで自分を納得させることが出来たし、周りも納得していた。
正しさなんてないと知っていたのに、自分の「しない事」に関しては正しいと思い込んでいた。
やらない理由を探す努力は、何も実らない、とアニメでやっていた。
それは正しいと思う。経験則でそうだったからだ。実際言い訳ばかり作り、自分と他人を騙し続けた人生。本当にやりたいことはやれなかった。
中学の先生は他の学校がやらないような知識問題ばかり入れてきたのか?と言われれば、優秀故に結局正しさなんて主観でしかないと知っていたからだろう。
国語の問題の答え何てどうにでも言うことが出来る、そんな小手先の論理じゃなく、血と肉となる知識を頭に詰め込みなさいと。
それが経験となり、人生を豊かにさせる。論理なんてただのゴミなのだ。人生においては、10点分程度の価値しかない。
とまぁ、という事をうそぶいて、他人の行動に勝手に意味を与えて、自分の論理の中にねじ込む。
やってることは今までと変わらない訳だ。
でも、と思う。やる理由を探す為にこの国語力を使う分には、少なくとも空しくなることはないんじゃないか。
とりあえず、アニメ『俺を好きなのはお前だけかよ』、毎週水曜-木曜の深夜にやってるから見てみような。