①「当たり前」を変えることに抵抗がある
よく夫婦同姓は明治になってできた「舶来」のもので、伝統でもなんでもない、という議論があるが、そもそもそういう批判には意味を感じない。少なくとも自分は夫婦同姓以前の時代を生きたことがないし、その時代を生きていた人はとっくに生き残っていない。子供の頃から、夫婦同姓の社会に生きてきて、それを「当たり前」だと受け取ってきた。その「当たり前」を変えなければいけないほど、大きな事件や社会の変化があったのだろうか。
名前を選択する権利というが、それを言えば親からもらった名前を捨てて選択する権利まで(少なくとも近い将来の話として)主張しなければ筋が通らない。おそらく別姓論者の多くはそれを「極論」だと思うだろう。しかし、夫婦別姓を「極論」だと感じる人も現に存在するのであって、なぜ前者は正しくて後者が間違いだといえるのか、よくわからない。
③個人の好みの話をしているわけではない
別姓論者は、「夫婦同姓が好きな人は、そうすればいいだけで、別に何も変わらないではないか、自分の好みを押し付けるな」という。しかし別姓反対論は、そもそも家族というものは最低限こうあるべきで、それを簡単に崩すべきではない、という家族に関する「べき論」をしているのであって、好みの話をしているのではない。「べき論」である以上、ある種の押し付けがあるのは否定しないが、完全にズレた議論だ。
夫婦別姓を認めないことが、少数者や貧しい人への差別や暴力、排除といった深刻な問題の原因である、というのならば積極的に変えるべきだ。しかし、現在のところ別姓論者でも、そんなことを根拠にしてはいない。むしろ必要性を感じている人の多くは、高学歴・高収入のキャリア女性である。高学歴・高収入のキャリア女性を代弁する主張があってもそれはもちろん構わないが・・・・。
⑤別姓容認の世論は寛容ではなく単なる他者への無関心に過ぎない
世論調査では夫婦別姓の賛否は拮抗しているが、では自分は選択するかどうかというと、世論調査によれば1割を超える程度で、7割以上が同姓を選択するという結果になっている。これは同性婚に関する調査結果とも似ているが、この大きなズレは何を意味しているかというと、「関係ない人たちが何を選択しようがどうでもいい」ということに他ならないだろう。
この意見に賛成してるわけじゃないけど、保守の人のリーズニングはシンプルでいいね。明確。