はてなキーワード: 主催者とは
毎年8月13日は、私の故郷北海道帯広市で大きな花火大会がある。
近年では全道的・全国的に名の知られるようになった花火大会だ。
開催場所が市街地に近すぎて、市内にアホみたいな渋滞を引き起こしている。
最近は、札幌からも客を呼ぶので、なんど道東道まで渋滞していると言う。
トイレ貸してくれ。と、見ず知らずの酔った人に言われる。大便もある。
とこんな感じ(他にも花火の演出がクソださい、花火の前の企業の宣伝がクソ長いなども問題がある)なのだが、
最大の問題は、こういう花火大会開催に当たっての問題点や課題が、毎年開催されるにもかかわらずクリアされにくい構造にあるのだ。
その理由は単純で、主催者が十勝毎日新聞社と言うこの地域のブロック紙だからだ。
十勝地方の新聞社は、長い淘汰の歴史を経て、この十勝毎日新聞社一社のみが現在生き残っている。
現在のミニコミ誌は、十勝毎日新聞社と北海道新聞社の系列誌だ。
新聞だけではない。十勝毎日新聞社はケーブルテレビを展開し、観光事業にも手を伸ばし、ホテルやガーデンを系列会社で経営している。
十勝毎日新聞社のすごいところは、開拓時代から多角経営していてもう100年もこの地域で新聞屋をやっているところ。
この寡占状態ゆえに、だれも地域で反論を上げられない。上げるための器がない。
花火大会自体は経済効果があるからいいのだが、特に反省がなされることなく、だんだんと規模だけでかくして「来年もやりましょ」的に膨張している。
そのしわ寄せを、だれも反対できないし、だれもケアしようとしない。というか、できない(十勝毎日新聞社もただ自分の事業を行なっているに過ぎない)。
十勝毎日新聞社はライバルがいないから、深いところまで気にしなくていいのだ。そして実際気にしていない。というか、できない。他社(他者)の眼がないから。
十勝は昔から農産物の生産地で、モノカルチャーな雰囲気がある。実は産業だけでなく、観光や出版・言論もまたモノカルチャーなのだ。北海道らしいと言えばらしいのだが。
居場所を求めていろんな集まりに参加するようにしていたのだけれど
結局どいつもこいつも自分の利益になるかどうかという点で他人を値踏みしていることがよくわかった。
宗教・ビジネス禁止の集まりの主催者が積極的に仕事用の名刺交換をやるし、
そういう集まりでギリギリ特定宗教扱いされないスピリチュアル系のイベントの宣伝をやる奴もいる。
どーすりゃいいんだよ!
俺は損得無しで知らない奴といろんな雑談をやりたいんだよ!金持ちの自慢やらビジネスの話を聞きに来てるんじゃねえんだよ!
もう俺のやりたいことができるの、匿名のネットコミュニティしかねえじゃん!!
なんでお前らはそんなに人間関係に実利を求めてるんだよ!
https://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018080779271.html
の記事に対して否定的なコメントをツイートしたら落合氏本人からレスがついた。
せっかくなので補足をしてみようと思う。
①サッカーのたとえについて
サッカーのたとえが安易だと思ったのは、ここであげられている例示に違和感を覚えたからだ。
「このオケはマンUのようだ」「この曲はレアルのようだ」という時には、サッカーとクラシック両方に対するリテラシーがいる。
「神奈川フィルは地域密着で有名なプレイヤーは少なくてもど根性プレイを見せるからVファーレン長崎のようだ」とか「ラ・ヴァルスは構造が技巧的でデコラティブだからレアルのようだ」とか、双方をつなぐリテラシーが必要なはずだ。
そこを「感覚」というあいまいな言葉で接続するのは無理がある。
このような安易な例えでクラシックへのハードルが低くなるというのは飛躍しすぎだろう。凄く雑な議論だ。読んでいて話者の「僕はサッカーもクラシックも知っているよ」という「ぼくはAKBもリンキンパークも聴くよ」みたいなスノッブさを感じた。
この対談は日フィルが落合陽一と組んで行う新しい取り組みにたいして以下の2点を目的としているはずだ。
・こうした新しい取り組みに批判的であろう、旧来のクラヲタへの目くばせ
まず前者だが、クラヲタはこの対談で言われるほど理屈っぽくはない。私のまわりのアマオケの友人をみても、音楽史や楽典に精通している人は少数派だ。だいたい当の音楽業界の音楽批評こそが「感性」にたよったポエムみたいのばっかりで、しっかり楽曲の構造分析や演奏技術について記載された記事の方がまれじゃないか。そっちが大丈夫かと思うがそれはここでは関係ないか。また、守破離のくだりでいわれるようにクラヲタは保守的でもない。先日の渋谷慶一郎の科学未来館のロボットAIオペラが盛況だったように、むしろ新しいものが歓迎される素地がある。私だって金さえあればこのイベントに行ってみたい。落合陽一がどんな「挿絵」を曲に添えるのかみてみたい。こうしたクラヲタの新しいものへの「感性」に目をつぶって彼らを見くびるような対談をプロモーションに使う日フィル大丈夫か。
対談の後半くだりは落合陽一をアイコンにするような「アーリーアダプター」だったら興味をもって読むだろう。だが、「のだめ」でクラシックに興味をもったライトな層だったり、そもそも普段クラシックに興味があまりない新規層をとりこみたいのなら「意識高い系が西麻布で美味い飯食いながら<楽しいからこっち来いよ>言ってるみたい」な感じのこの対談がフックになるとは思えない。90年代に流行った空間ディレクターみたいな人たちがウェイウェイ言ってるだけで、全然クラシックへのハードルが低くなっているようには思えない。
私はこういうプロオケの新しい試みはどんどんやっていけばいいと思うけど、この対談にはイラだちしか感じなかった。クラシックへのハードルを下げているのは、主催者が汗水たらしてるラフォルジュルネだったり、プレイヤーがチャレンジしている反田の新しいフェスだったり、そもそも神奈川フィルが地べたを這いながらやっている地域貢献であって、わたしの「感性」ではこの対談に「内輪の軽さ」しか感じなかった。
あと、蛇足だが、落合陽一のファンらしき人から落合氏は凄い人だからおまえも学べとか尊敬しろみたいなリプが複数きた。落合氏もこんなのに普段から囲まれているなら不幸だと思った。頑張れ准教授。
お前(受け取り拒否見たの)初めてか?力抜けよ。
当方の主張は「左のいつもの手口」。であるから左の類似事例を挙げてるわけよ。受け取れないように受け取れないようにやって、相手のせいにするプロパガンダ、もういつもの手口ですわ。
「その人」じゃなくて、左系はそういう行動をしばしば(100%ではないぞ)とるよね、様式だよね、という話なわけ。で、様式であることを示すために、ちゃらっと調べて出てきたのを張ってるわけ。チョコの奴は記憶だから曖昧だがね。どっかにいい無料のニュースアーカイバねぇかね。
今回通告してるし
んじゃ、今回の「抗議文」どうやって渡したんでしょうね。まず抗議集会の開始は、はい、「午後7時」。普通の企業団体ならもうとっくに店じまいだわ。そんな時間に判断がいるモノ受け取れるわけないでしょう。夜間警備の警備員しかいねぇんだから。婚姻届ぐらいだわそんな時受け取るのは。ちなみにご本尊のツイッターだと渡し損ねて記念写真が午後8時ごろですわ。そりゃ絵図が当たってニッコニコのエビス顔で記念写真も撮ろうってなるわな。
え、特級市民にして偉大なるLGBT様のためならカス自民党職員共は居残りでも残業でもしろと?そのために事前連絡もしましたと? さすが特級市民の皆様、ブラックだねぇ、下々にはそんな発想できねぇね。その事前連絡いつよ?それ、リスケできるタイミングじゃないでしょ?
で、この行動のどこに、真摯に相手方に文書を手交しようという意図があるの?
一方的に電話で通告するのが真摯なの? 時間外に呼びつけるのが真摯なの? 衆の力を借りて暴力的に囲むことが真摯なの? 判断もできない現場の警備員をいじめ散らかすのが真摯なの? すげぇな、偉大なる領導であらせられるるLGBT様って奴は。
大体「連絡した」っつってるの、片側の主張じゃね?それ丸呑みして相手のせいだっての、すでにプロパガンダの丸のみなわけよ。
で、絵図かいてはめた連中がいろんなところで「我々の聖なる抗議文を極悪なジミンは拒否した!特級市民様の声を聴かないジミンを成敗せよ!」とかやる。低能な支援者とか間抜けなブクマカとかが「まあ自民党やっぱり感じ悪い!1!!」ってなる。そりゃお左さまにしてみりゃウハウハ、低能釣りのために飽きもせず繰り返しますわ。左Aがやれば左Bがぱくって、それと連帯する左Cがコピッて、その団体から崩れたやつが流れ着いた左Dでもチャレンジして・・・・ってやってるうちに行動様式として定着するわけよ。
ちなみに、例えば、じゃあ45分後におまえんちか、お前の関係先に抗議文渡すからちゃんと受け取れよ、罪状は無断IDコールによる心的外傷で謝罪と賠償要求するからな? と言ったらどうするんだよ?受け取るのか?得体も知れねぇ野郎(or尼orその他な有象無象)を近寄せようとするか?
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180730024721
よくあることについてはご理解頂けたようで何より。
遺憾ながら左派はいついかなる時でも虚偽を言う事当然(ex.放射脳共が意図的にふりまくデマ、国会におけるイラク2外交官殺害米軍陰謀説を唱えた民主党)況やほかの状況においておや。
大体「通告」なるモノの内容時間はだれか公開してましたっけ?
それに党員が出ろとは言ってないよね?時間が遅いから最初から警備員に渡しててそこは問題にしてない。しかも最終的に受け取られたし
関係ない業者が受け取っていいものかどうかわからんのに押し付けようとする行為が是なんだ、ふーん。業者いじめやね。政治家なら、政治的な文章の取り扱い位どうすべきか知ってるのにわざわざ末端が困るように行動して恥じないわけだ。さすが特級市民にして偉大なるLGBT様はちげぇね
さらに言えば
https://twitter.com/KamikawaAya/status/1022910260418207749
いないこと知っててやってるわけですよ? これでイノセントだって言い張るんだ。さすL
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180730024721
公開され無くても自民が通告に抗議しない以上、常識的だったと理解すべきだ。警備員は関係ないというが、受け取り自体は業務内で行えて後に渡してるから、自民側から事前に話を回せばいいだけでは。
なんの証拠もなく、受け渡し側の言い分を丸呑みするという信仰告白であると受け止めます。しかし、こちらはそのような宗教を信じているわけではないので、説得には全く寄与しない言説でした。なお、相手側に強弱はあれ負担を強いるのはすでにして失礼な行為では。
その他にご異存はないようなのでまとめると
信じる根拠が身分だけ、というのは些か前近代的は御発想で素晴らしい奴隷根性であると申し上げたいと思います。懐疑の心ってやつは"身内"に向かんもんですな。議員がどのようなウソをつくのか、まさかご存知ではありますまいに。
合意していたら、そもそも騒ぎなぞにはならんでしょう。それほど
俺は手帳持ちの発達障害でなんとか働いてるけれど、やはり社会に居場所がなかった。
だから最初は当事者会のようなところに参加していたのだけれど、主催者の参加費横領などのトラブルが続いたため距離を置くことにした。
その後今度は働く障害者の集まりのようなところに参加したのだけれど、いろいろとつらかった。
なにもかも相対的に障害が軽い俺にあらゆる負担がのしかかるような場所だった、とだけ書いておく。
いろいろやって気づいたことがあるんだけれど、一番きつかったのは軽度の知的障害を伴った発達障害者と関わることだった。
そしてその根底には自分自身にある知的障害者への差別心があるのではないかとも思っている。
自分も障害者という枠組みの中では何も変わらないのに、それこそ例の増田のような「俺はそいつらとは違う」という気持ちがあるのは否定できない…
LGBTにも他の性的倒錯者を差別する気持ちがあるように、似たカテゴリにいても差別心というのはどうしても出てきてしまうのだろうな。
性的マイノリティにしても障害者にしても聖人ではなく好悪の感情があり、苦手なものを好きになることは無理なのだろうとも思う。
その事実を認識しなければ今回逃げ出した増田のやりとりのようにお互いが不幸になるだけだ。
今は福祉とは関係の無い、人の集まるイベントや集まりに参加することにしている。
自分の障害の話はしない。いきなり「自分は発達障害者なので」なんてカミングアウトして困惑しない人間はいないだろうし。(当たり前だ)
歴史コンテンツの最大勢力である戦国時代と三国時代はどっちも内戦コンテンツ。
岳飛みたいに外敵と戦った英雄とか、ガンジーみたいな独立闘争の偉人とか、びっくりするくらい日本には存在しない。
下手すりゃ北条時宗よりチンギス・ハンのほうが人気あるんじゃないの。
幕末も、攘夷や維新そのものよりそれを取り巻く内ゲバが注目されて、一番人気も内部粛清大好き新選組。
義経とか信長とか龍馬とか、志半ばで内ゲバに巻き込まれて暗殺される人たちが大好き。
オタクコンテンツでも、ウルトラマンはウルトラマン同士、仮面ライダーも仮面ライダー同士で戦うようになったし。
Fateやローゼンメイデンみたいなバトロワ系コンテンツも大流行したし。
いまの流行りは仲間同士の足の引っ張りあいを楽しむデスゲーム漫画。
まあ、理由なんてないんだけどね。
「日本民族の思考が」とか「日本のこれまでの歴史が」とか偉そうに語りだすやつがいるけど、
こんなのピックアップする部分によって何とでも言えるでしょ。
ウルトラマンはいまでも怪獣と戦ってるし、ライダーも怪人と戦ってるよ。
マジ、何とでも言えるんだよね。
終わり終わり。
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12173-056478/
はじめに、誤解のないように言っておくと、私自身は所謂「ネタバレ」はお勧めしない。
だからブログなどに投稿するときに「ここから先はネタバレなので注意して下さい」と注意を書いたり、
「物語最後の方で、とある人物があれを持っていることが判明するのは予想していなかった」等とぼかして書くのは分かる。
一方、そのようなファン同士の“揉め事”を未然に防ぐために、アーティストやアイドルのファンの間では、ライブツアーの最終公演が終わるまではセットリストや演出内容などがわかる感想を投稿しないという“ネタバレ禁止”文化が存在する。
アーティストたちにとっても、参加回数に関わらずライブを観に来るファン全員を同じように楽しませたいという意識もあるのだろう。実際に、NEWSはメンバーの希望で“ネタバレ禁止”を徹底しており、ツアー中はネット上でほとんど情報が出ない。
だが、基本的には“ネタバレ禁止”はファン側の“暗黙のルール”。ファン同士の“配慮”によって成り立っている部分が大きい。どこからNGなのか、どこまでOKなのか、ファンになりたてのネットユーザーにとっては困惑することのひとつでもあるだろう。
本来投稿すること自体は自由であるはずなのに、何故禁止なのか。
見たくない人に強制的に見せつけることは問題であっても、「ネタバレ自体禁止です」という権限はNEWSのようなアーティスト・主催者側にも、ファンにもそもそも無いはずである。
権利がないのに権利を主張する、これは「擬似著作権」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BC%BC%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9)に構図的に近い気がする。
「ネタバレの著作権」「セットリストの著作権」という意識で主張しているのかは分からないが、構図的には近い気がする。
「ネタバレ注意」は分かるが「ネタバレ禁止」はおかしいと考える。
こうして今思った事だが、誤った権利意識が人の権利を侵害しかねないのかもしれない。
まして事実を書くという問題のないはずの行為に禁止ですというのは正当性があるのだろうか。誤解を拡散しないでくださいなら分かる。
ところで、余談であるが、ネタバレ禁止というのはいつまでの期間なのだろうか。
一つ思い出した例がある。任天堂の人気ゲームソフト、ゼルダの伝説 時のオカリナ(1998年11月21日)にゼルダ姫という人物が登場する。ゲームが進むと、ゼルダはシークという人物と同一人物である事が判明する。
同一人物という情報はネタバレ禁止で当時雑誌にも載せていなかった。永久規制と言われていた。
しかし、その後任天堂より発売された「大乱闘スマッシュブラザーズDX」(2001年11月21日)という格闘ゲームでは、ゼルダ姫はシークと姿を変えながら戦う。
スマブラを先に遊んだ人が、ゼルダの伝説 時のオカリナを後から遊んだら、シークを見て「知ってる。この人の正体はゼルダ姫でしょ」と分かる。
つまり、スマブラはゼルダの伝説のネタバレになっている。それも発売元の任天堂がネタバレをしている。
私の記憶では、当時ニンテンドードリームという雑誌では、ゼルダとシークが同一人物というネタバレは禁止ではなかったのかという疑問が読者より寄せられていた記憶がある。
作品発表よりも、何年も立てばネタバレ禁止は意味がないと判断したのかもしれない。
想像だが、展開が有名な作品はネタバレとは見なされないのではないだろうか。
それとキャラクターを特徴付ける重要な設定は、後から判明するものであってもネタバレとは見なされにくいのではないだろうか?むしろ、ファンからすれば知ってほしい事実のような気がする。
あの日武道館で『輝きのエチュード』を聴きながら、左隣りの人も右隣の人も、嗚咽を漏らして泣いていました。私も泣いていて、まともにサイリウムを振ることすらできませんでした。会場中から鼻をすする音が聞こえてきました。でも、こんな企画をやられてしまうと、あの武道館は一体何だったんだろうと、そう思わざるを得ません。
別に「卒業」したはずの歌唱担当が『アイカツ』のイベントに登壇することに文句を言いたいわけではありません。「あなたたちは卒業したので来ないでください。歌は全部声優が歌います」なんてことになったら、それこそひどい話です。だからそういうことではなくて、「5周年」にかこつけてイベントを乱発すること自体が問題だと思うわけです(というかもうすぐ6周年じゃないですか?)。「思い出は未来の中に」ではなかったのか。「同じ光のなかこれからも 迷わないでわたし歩いていける」と、あの日誰もがそう思ったのではなかったのか。「心に集めるたくさんの永遠」とは、「いやあアイカツは素晴らしいね尊いねいつまでも終わらないね」と定期的に執拗に確認しないと消えてしまうような「永遠」だったのだろうか。これではまるで、星宮いちごのアメリカ行きを無理矢理引き止めているみたいではないか。なんでも弁当もスターライト学園も全部放ったらかしにして、無理矢理マスカレードをステージに立たせているようなものではないか。霧矢あおいが、光石織姫が、星宮りんごが、一体そんなことをするだろうか。大げさかもしれませんが、そう考えてしまいます。
東日本大震災が起きたあの日を契機に、『アイカツ』は「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」を目指してきました。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」と。
——その後、ゲームおよびアニメの企画は、どうなったのでしょう?
(加藤陽一)大きな転機になったのが、東日本大震災です。コンセプトを固めている最中の2011年3月に、東日本大震災が発生しました。地震が起きた瞬間、僕は東京・浅草のバンダイ本社で『アイカツ!』の会議に出席していたんです。地震で電車が止まったので、車で来ていた僕が3人に声をかけて、皆を送っていくことになりました。TVで原発や津波のニュースを見ながら進むうち、都心で車も動かなくなっちゃって。結局浅草を出て、皆を送って23区内の家に帰るまで12時間位かかりました。そのとき一緒にいたのが、アニメ『アイカツ!』の若鍋竜太プロデューサーと企画スタッフです。車に缶詰状態で、8時間から10時間ぐらい、地震の影響を目の当たりにしながら、皆で『アイカツ!』のことを話しました。まるで合宿みたいな濃い時間でした。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」という話もその場で出て。それを受けて書き直した企画書の内容が、そのときの僕らの思いを込めたものだったんです。
——どんなふうに変わったのでしょうか?
ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになったんです。「トップアイドルを目指すスポ根サクセスストーリー」の部分はそのままに、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」と、企画をブラッシュアップしていきました。この段階の企画書に書いてあることは。現在のところほぼすべてが、作品内で実現しています。あの震災が、『アイカツ!』という作品にとっての転機だったと思いますね。
そして『アイカツ』はたくさんの人を「温かくて前向きな気持ち」にし、たくさんの人が前へと進みました。「今日が生まれかわるセンセイション」、「いつだって、ここから、あたらしい夢 どこにだって行けるよ!」。『アイカツ』を観たたくさんの人が「素敵な明日」を迎え、「未来向きの今」から未来へと全力で走り出したはずです。『アイカツスターズ』もそうです。あれだけの作品を前にして、前作とは別の方向へと舵を切るなど、並大抵の覚悟ではできません。巴山萌菜さんもそうです。私は詳しい動向を追ってはいませんが、TVドラマ『賭ケグルイ』のOPを歌っていたようですし、ワンマンライブもやっていたと思います。STAR☆ANIS/AIKATSU☆STARS!から卒業し、自分の決めた道で頑張っています。
それが、何故こうなるのでしょうか。別にイベントをやるなとは言いません。「卒業」した歌唱担当を呼ぶなとももちろん言いません。ただ、何故今なのか。10周年や20周年まで待てないのか。これではまるで、私たちに「明日を信じる力、未来への夢」なんかないのだと言わんばかりではないか。全く「未来向き」じゃない、完全に過去を向いている。私にビジネスの知見はありませんが、商業的に考えてもこんなやり方では長生きできないと思います。
昨年9月、甘粕試金氏によって『この幼形成熟の世紀に』と題された原稿が公開されました。当時それを読んだ私は「言いたいことはわかるし何も間違ってないと思うけど、アイカツのファンダムはそんな人ばっかりじゃないのになあ」とかなんとか思っていました。でも、どうやらもうそんなことを言ってはいられないみたいです。
『アイカツ!』が放送終了して新シリーズ『アイカツスターズ!』が始まった今『アイドル活動!』よもう一度とばかりに『アイカツメロディ!』が来ることの意味は、先述の原稿の論旨で言えば「和声」的解決を意味することになり、『アイカツ!』も円環的時間の気持ちよさによって欲望を生産する作品だったという結論にならざるをえなくなる。それを証し立てるきっかけになったのが「シリーズ5周年記念企画」の楽曲だったという事実は、フランチャイズの圏内にある作品がファンク的時間を持つことの不可能性をも証明してしまったのではないか。このことに私はほとんど嘔吐せんばかりになってしまったわけです。
「なんで和声的ならダメなの? 気持ちよければ良いじゃん」という問いに答えるには、それだけで一つのまとまった原稿が必要になるのでここでは書きません。フランチャイズに話を絞りましょう。ここ数年で最も忘れがたいフランチャイズ批判、高橋ヨシキさんが『ローグ・ワン』を前にして発表した「幼年期の終わり 〜さようなら『スターウォーズ』〜」を部分的に引用します
観客が耽溺し続けること自体を難ずる権利はぼくにはありません。〔中略〕それでも、観客を「耽溺させることを目的に」商品を作り、供給することは邪悪なことではないかとぼくは思うのです。
〔中略〕
なぜなら、それは観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える行為だからです。
〔中略〕
「前へ!」というのは、ルーカスだけでなく、どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢だとぼくは信じています。その先に何があるか分からなくても、あるいはそれがどういう評価を下されるにせよ、とにかく 「前へ!」。これはクリエイターに課せられた祝福でもあり呪いでもあるのですが、「前へ!」という大前提は旧三部作でも、またプリクエルでも(プリクエルは実は後退していたわけではないとぼくは思っています。何度も言いますがコンセプトに対してエクセキューションが貧しかったのがまずかった)、そして部分的ではあれど『フォースの覚醒』にも共通していました。前へ!
〔中略〕
ところが『ローグ・ワン』は「もはや前に進む必要などない」という、ルーカスフィルム/ディズニーの宣言のように、ぼくには見えました。なぜ前に進む必要がないのか? なぜならそれを誰も望んでいないからです。誰も、 というのは『スター・ウォーズ』世界に耽溺することに慣れきった観客のことです(ぼくも含みます)
〔中略〕
興行的に、『スター・ウォーズ』が「前へ」進む必要がないことを『ローグ・ワン』は証明してしまったのです。
Crazy Culture Guide Vol,30-30,5(http://www.mag2.com/m/0001673228.html)
SWシリーズにまったく思い入れを抱いていないうえに『ローグ・ワン』も(ドニー・イェンがドン・キホーテ役をやっている映画なのだし)楽しく観ることができてしまった私は、当時「はぁ、そういうものなのかなぁ」程度にしか読めなかったのですが、少なからず前のめりに接してきた『アイカツ!』5周年企画に際して、これらの文章は「あっ、この状況を言ってたのか!」という今更の得心とともに蘇ってきました。「前へ」進む必要がないこと、それは「和声」的時間に閉じること、フランチャイズの体系に閉じること、円環的時間=手回しオルガンの歌に耽溺しきることを意味してはいないか。ベケットらを念頭に置いて「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。それこそがフランチャイズの罠であり病ではないのか。という疑惧と危惧が一斉に襲ってきたわけです。これは単に「前に書いた文章と矛盾しちゃった」から狼狽えているのではありません。「あれっ、自分は《これ前にも聴いたことあるわ、良いわ〜、知ってるわ〜、延々と続けられる正当な伝統、良いわ〜》みたいなことに気持ちよくなりたくてこの作品を支持してたのか? そもそもこれってそういう気持ちよさを是とする作品だったか?」という、本質的な足場が揺るがされたことに原因があります。それも公式の「5周年記念企画」によって。
甘粕試金『この幼形成熟の世紀に』(http://petrushkajp.blog.fc2.com/blog-entry-165.html)
「アイカツ!シリーズ5thフェスティバル!!」を楽しめる人を悪だとは一切思わないですし、主催者がダメだとも思いません。もちろん、私が正しいとも一切思っていません。私も何かの手違いでチケットを手に入れたら、それはそれでそれなりに楽しめるんじゃないかと思います。そりゃあ声優と歌唱担当が揃ったら嬉しいです。生アフレコなんてしたら最高です。そりゃそうです。ただ、あの日「車に缶詰状態」で「合宿みたいな濃い時間」を過ごし、それを受けて書き直した企画書は、そこに込められた思いは、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」とは、こういう類のものだったのか。木村監督がプロットを書いた「大スター宮いちごまつり」のMCの「みんなの今日が、明日が、少しでも素敵になったらいいな」とは、「いつでも何度でも集まって際限なく盛り上がれる。いつまでも終わりを引き伸ばせる。ずっとここにいられる」という意味だったのだろうか。『アイカツ』が3年半、『アイカツスターズ』が2年かけて描いてきたことは、そういうことだったのだろうか。どうしたって、そう頭を悩ませずにはいられないわけです。そして、“「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。”。このことは、常に考えるべき問題であると思います。
でも、ツイッターを見ている限り「歌唱担当戻ってくるなら純粋に楽しめばいいじゃん」「そんなにヒリつくことじゃなくない?」という人が多数派を占めているようです。だから私がおかしいのかもしれません。「めんどくさいオタク」なだけなのかもしれません。なので、「アイカツ!シリーズ5thフェスティバル!!」に行かれる方には、純粋に楽しんで来て欲しいと思っています。皮肉でも嫌味でもなく、本当にただ純粋に、楽しい時間を過ごしてきて欲しいと思います。アイカツファンの方々——あるいは演者やスタッフの方が読んでいないとも限りません——、お気を悪くされた方がいたら、本当に申し訳ありません。拗らせたアイカツファンの戯言だと思って、どうかご容赦ください。
僕の体験を前提にお返事させていただきます。いくつかあなたの体験と食い違う点があると思いますが、ご了承ください。
>しかし仕掛ける側は、このお化け屋敷は安全で、後々は楽しい思い出になることを知っている。
https://anond.hatelabo.jp/20180528013920
ここに書いたとおり、毎年体調不良者が出ていて、救急車さえ出動させたことがあり、主催者(と先生)側もそのことを承知のうえで行っているのだから、「安全」だということはないでしょう。
本文中に書きそびれたので、勘違いしている人が非常に多いですが(勘違いさせてすみません)、僕がこのことを経験してから既に1年たっています。それでも、初めに持ったものと同じ感想を持ち続けています。(僕の頭が固いだけかもしれませんが)
>客観的に見れば明らかに蛮習であることは2,3年生もOBOGも先生も、みんな分かっている。なんなら地域の人も割と知ってる。が、その上でなお、それにプラスの価値を感じているから続いている。
先生方の中でも反対の意見が多くあるようです。実際に、僕たちに向かって「自分たちの代になったらやめてほしい」と言った先生もいました。プラスの価値を感じている人もいるとは思いますが、全体に共有された考えでないことは確かです。
二次創作の同人誌即売会で、「マタニティマークのパロディ」のノベルティが頒布された件が大炎上しました。
この文章では、
について、できるだけ詳しく書きたいと思います。
なお便宜上、グッズを頒布した当人を「Sさん」という仮名で記述します。(「S」は彼女のイニシャル等とは関係ない全くの仮名です)
彼女は現在、すでに二度に渡る謝罪文を出し、グッズの外での使用を控えるよう呼びかけていますが、
その補足になればと思います。
1.Sさんが、新刊のノベルティ(無料のおまけ)に、某アニメ関連の「犬」のグッズが好きな人向けの「バッジ」を作成
2.そのイラストを「マタニティーマーク」のパロディにし、アニメのキャラクターが犬を抱いている構図にした
3.このことを問題視し、ノベルティの頒布を中止すべきといったメッセージが、Sさんのところに複数届く
この文章では、「グッズ自体の何が問題だったのか」を詳しく解説します。
マタニティマークは、周囲が妊婦さんに配慮しやすくするための公共マークです。
それを模した構図・色合いのイラストは、やはり、ぱっと見て周囲の人に誤認される可能性もある、と言わざるを得ないでしょう。(補足※1)
また、たとえ誤認しなくても、「公共マークのパロディ品」の存在自体に不快感を覚える人がいたり、
せっかく配慮したのにパロディだと分かったら、今後はそのマークへの配慮を躊躇してしまう人もいるかもしれません。
そもそも、マタニティマークや妊婦自体に反感を覚える人もいるそうです。(ここまで来ると、もはや今回の件以前の問題かとは思いますが)
ただし、Sさんのイラスト自体は、二次創作としてはよくあるような「可愛い」絵柄のもので、
だからこそ、今後も誰かがやってしまう危険性があり、注意していくべきことだと思います。
さらに、その絵がアニメ(およびアニメの公式グッズ)のキャラクターの二次創作であるため、
「このアニメ公式が、公共マークと紛らわしいグッズを出した」と誤認される可能性もあります。(補足※2)
もちろん、1サークルの新刊ノベルティとしての頒布数程度、ということを考えても、
ただ頒布しただけであれば、そこまでいく可能性は決して高くありません。
ただ、この1件のリスクが低くても、同じ事をたくさんの人がやったらどうなるか。
また今回のように、不特定多数にまで情報を拡散されてしまったらどうなるか……
ということを考えると、頒布数がどうということではなく、
「皆で守るべきマナーの問題」として考えなくてはならない、と思います。
しかし、これは「バッジ」であり、他人に見えるように身につけることを前提としたものでした。(補足※3)
現在は「痛バ」文化が浸透するなど、公式グッズと同人グッズを一緒にして、
他人に見えやすいように身につけることも、一般的になっています。
グッズは、同人誌と比較して、公式のものと混同される可能性が高く
また公式側からも「海賊版」とみなされて注意を受ける可能性もあります。
グッズを中心に活動されているサークルさんは、すでに気をつけてらっしゃることだと思います。(補足※4)
ただSさんの場合、新刊につける無料ノベルティとしてのグッズであり、いつもグッズを頒布しているわけではなかったことも、
ノベルティでグッズを付けるサークルさんが増えている中、このことは改めて注意すべきことだと思います。
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以上、この3点については、今回の件から学べることとして、
ジャンル問わず、同人活動をする多くの方が改めて認識した方がよいと考えます。
同人誌だと、冒頭や奥付等に、以下のような趣旨の注意書きが入っていることがあります。
「この作品は同人誌です。個人が私的に作成したもので、公式の制作会社様等とは一切関係がございません。
同人に対する理解のない方の目には触れませんよう、ご協力をお願い致します」
でも、「グッズ」を手渡すだけだと、この手の注意書きすら書くことができません。
二次創作のキャラクターを使って、他人に不快感を与える可能性のある図案で、
他人に見える場所に身につける前提のグッズを作ることには、リスクがあります。
全くの他人が見たときの不快感の可能性まで、なかなか想像が及ばないかもしれません。
そういう二次創作ではよくあるモチーフも、図案によっては問題になり得ます。
ただ「マタニティマークのパロディはまずい」、ということだけではなくて、
「全くの他人が見たらどう思うかな?」
「この二次創作のキャラクターを全く知らない人が見たらどう思うかな?」
ということを、特に身につけるグッズについては、
◆補足※1
「厚生労働省のマタニティマーク規定に違反している」、つまり著作者が明確に禁じている、という指摘も多くありました。
確かに、マタニティマークの改変、特に一部を変えるような改変は、厚生労働省の規定で禁止されています。
ただし、これは「マタニティマークとして使用する場合」のことで、それを目的としない「パロディ」については言及されていません。
つまり、パロディについては「規定がない」というのが、正確なところだと思います。
もちろん、だからといって許可されているわけではありませんし、そもそも改変を禁じる理由は、認識時の混乱を防ぐためだと思うので、
◆補足※2
※1とも関連して、「著作権に違反している」という指摘も多くありました。
しかし、著作権はあくまで親告罪であり、これを持って他人が人を訴えたり、裁くことはできません。
Sさんが謝罪文で述べている通り、イベント主催者さんへの通報があり、ノベルティをチェックされたときも、
「イベントの頒布禁止の対象には当てはまらない(ただし何かあれば個人の責任で対応して下さい)」と言われたそうです。
ですから、このグッズが即違法性があるというものではありません。
ただし、アニメ等と異なり、公共マークはパロディや二次創作の文化がないこと、
またダブルパロディなので、権利者がこれを問題とみなすリスクも二倍あること
そうみなされた瞬間に違法な物になってしまうということは、改めて注意すべきことだと思います。
◆補足※3
その後、Sさん本人は、謝罪文で外での使用を控えるよう呼びかけています。
にも関わらず、「付けている人がいるのを見た」というツイートが拡散されたこともありました。
ただし、その方のアカウントは現在削除されており、この件の真偽のほどは分からないことは補足しておきます。
いずれにせよ、外で付けることは思わぬトラブルを呼ぶ可能性もあるため、絶対にしないことをお薦めします。
また、たとえ家の中で所有しているだけでも、同人や二次創作に対して理解のない方の目に触れる可能性があるならば、
念のため破棄した方がよいと思われます。(これは、全ての二次創作物について言えることですが)
◆補足※4
もともと同人グッズが同人誌と比べて規制が厳しいのは、同人誌で書かれる内容が、まず公式が出すことはないものが多いことに対して、
シンプルなデザインからなるグッズは、公式および公式からライセンスを購入した企業が販売するものと、似通ったデザインになる可能性が高いからです。
そうすると、著作権侵害を黙認された同人グッズであるにも関わらず、「公式のグッズより同人グッズを買おう」となってしまい、
「権利者の利益を侵害するモノ」(=いわゆる海賊版)となってしまうため、注意が必要なのです。
一方今回の件は、公式が出したかのように見える「公共の利益を侵害するモノ」となる可能性があったという点で、
まとめますと、今後の教訓として、
少なくとも、この3点だけは肝に銘じていけたらと思います。