はてなキーワード: 中毒とは
やっぱり疑問を覚える治療法がちらほらありました。
ホメオパシーは昔、化学物質過敏症支援センターがサイトに記載していて
「うっわー、なんつーものを記載してるんだ…」と思っていたけど、
ホメオパシーが原因で乳児が死亡する事件があった後あたりに削除されていて
心底ホッとしました。
「症状への直接のアプローチ」としては個人的に疑問に思うのです。
こういう解明が遅れている症状って、いろんなものが誘いをかけてくるわけで。
波動がどうたらとか。なんたら還元水だとか。なんたら菌だとか。
化学物質過敏症になったら、ぜひこういう誘いには気をつけて欲しいと思います。
それは自分を守ることでもあり、そして、過敏症への偏見をなくすことにもつながりますから。
だいたい化学物質が原因で起きているのに、そういうので治るのは科学的に考えておかしいでしょう?
その先生の持論は「中毒の一歩手前みたいな状態なんじゃないかな?」でした。
ごく薄いガスに何度も曝露して、体の中はガスの有毒物質まみれで飽和状態。
そんな状態だったら健康な人が感じない程度のガスでも飽和状態の人は体が「もう無理!」ってなっちゃいます。
その理論で行くと、体の中から有毒物質を排出したり、澄んだ空気の中で養生するしかないよね?
医療機関でも、今有効とされている治療はこのあたりを押さえてる。
解毒剤のタチオンを使ったり、ビタミンを使用する試みもされている。
もちろん汗をかくことも毒素を出すのに「ある程度」有効だから、お風呂・サウナ・運動出来るほど元気な人は運動するのもいい。
けれど、先に挙げた疑問を覚える治療法は果たして毒素を出すのにどれだけ有効なのだろうかと思ってしまうのです。
タチオンは薬物中毒とかに使ったりするんだけど、薬物中毒に気功やホメオパシーって有効なの?って思っちゃいます。
逆にそういうので完治したと言うなら、それは本当に薬物中毒だったの?って疑問になる。
そういうのが、科学的に考える人々から見ると「ほら、やっぱり化学物質過敏症ってないんじゃないの?精神的なものなんじゃないの?」
と言われる原因になる。
そういう治療をやっている人々には申し訳ないけど、化学物質過敏症患者の私だってそう思います。
だから、化学物質過敏症の患者一人一人が科学的に物事を考えてくれたらいいなと思っています。
それから、長年この症状で苦しんできた自分から、もう一つ言いたい。
周りのいろんな声なんか無視していいと思う。
「前向きでいろ」「明るくほがらかでいないと良くならない」
苦しいときは苦しいって言えばいいと思う。
無理矢理ほがらかでいなくてもいいと思う。
ガス中毒で苦しんでいる時に明るく前向きで笑っている人なんているわけないじゃん。
周りの人も、そうやって苦しんでいる人をさらに追い詰めないようにして欲しいと思う。
綺麗な空気の中にいれば、症状も楽になって、自然にほがらかに戻るんだから。
今、健康な人にとってもね。
タバコもニコチン中毒など病気の枠組みにある程度入ってると思うんだけど、
じゃあなんでタバコだけ責められて他の病気は言われないのか、と思うんだよね。
みんな治せよ。
だが分かってて治そうとしない奴は全部責めていこうぜ。
おまえは臭い、こっちへくるなと。
>喫煙所が少ない場所の方が物陰で吸い始めるよね。ま、そんなもんだと思う。
つまり、規制が厳しければ、犯罪がたくさん起こっても仕方ないよね?ということでいい?
大丈夫ほんとに?w
>もし周りでその辺で吸ってる人が多いなら、行政に文句言う方が早いと思うよ。
こういうの思考停止って言うんだよな。
>繰り返しになるけど、迷惑をかけたいわけじゃないから、首しめられてるとも感じない。あぁ嫌だったんだねー申し訳ないねーって感じ。
でもあなたを取り巻く環境は、そうでない人たちによってどんどん悪くなっていくよ?
>ただ、追い込んで追い詰めるほどマナーは悪くなるもんだと思うよ。吸っていい場所がないならその辺で吸う人が出て来るのはしょうがないでしょ。と喫煙者的に思う。
それは単に中毒症状が抑えられない、理性のきかない、危ない人たちというレッテルが張られても仕方がないってことですけど、
ほんとに大丈夫?w
受動喫煙防止のために、JAISTでは喫煙後45分間の立ち入り禁止が決められたそうだが、
ネット周りの意見を見ると、いまだに昭和脳の喫煙者どもが「やりすぎだ」と騒ぎ散らしており、本当に見苦しい。
ある者は「いったいどこでタバコを吸えばいいのか?」などとほざくが、とっとと禁煙する以外に何か選択肢があるのか?
体に悪いことを知っていながら自分が勝手に吸い始めたのだから、禁煙するのも勝手に苦しめばいい。
本当に禁煙したいと思っているならば、医者の手を借りてでも止められるだろう。
アルコール中毒なら、医者の手を借りるくせに。要は本気度が足りないのだ。
もし禁煙できないものがいるならば、一生家から出てこなければいいだけの話。こんな簡単な話もニコチン中毒者は理解できないのか。
まるでアル中患者のソレと同じだ。アル中患者が「じゃあどこで酒を飲めばいいんだ?」なんて言い出したら
当然施設にぶちこまれてしかるべきだ。一人で急性アル中になるなら勝手に死ね案件だが、酔っぱらって交通事故を引き起こしたり、
他人に暴力を振るったりするなど、アルコールもまた単なる嗜好品のくせに他人に迷惑をかける点で何らニコ厨と変わらない。
アルコールについてはバックにいるスポンサーの関係から、排除論が揉み消されているだけの話であり、どちらも等しく滅びるべきだ。
はっきり言って喫煙者はアル中同様、穢れそのものである。身体に有害であることを理解しながらそれでいて
最近至るところが禁煙化されてなかなか過ごし辛い状況となった喫煙者である俺。
まずは引っ越した先が「東京ルールとは別にタバコで汚した分の補修費は別請求ね☆」と言ってきた。そこでついに家も禁煙という決断にいたったわけだ。そして気がついてみると食事中は禁煙喫茶店も禁煙職場も禁煙トイレも禁煙と相成って、今のところ最後の砦としては酒を飲む時だけはやめられない。とまあそんな状態なので昼間に喫煙者が疎まれる理由もよくわかるし一方難民化した喫煙者の気持ちもわかるという蝙蝠さん状態だ。
しかしそこでわかったのはこれまで自分も「喫煙はニコチンが欠落したため中毒症状的に欲しくなる」と思っていたが意外とそうでもなかった、という事だ。吸わない期間は1日~3日程度あっても大丈夫。
嗜む権利というのは分かる。でもあそこは大学院で「人生を豊かに送る」ための施設じゃないんだよ。
タバコを吸わない人からしたら、学校や職場に来てる時くらいタバコ吸わないでおこうよ、と思う。それが我慢できないんなら立派なニコチン中毒なわけで、いっそうタバコ止めた方がいいんでは?となる。
実際なぜあの大学がタバコ全面禁止にできたかというと、おそらくあの学校では元からタバコを吸う人が絶滅危惧種なんだと思う。
理由1.大学院専用の少人数の学校であり、なんだかんだで上澄みの「良い子」が集まっている。「タバコ?中学校で吸ってはいけないと教わったから吸いません」というような真面目な子たち。そういう人からすると「あれだけ吸うなって言われてたのになんで吸っちゃったの。それで文句言われても……」となる。
理由2.主に情報処理系とバイオ系の学校であり、そういう人たちからすると「サーバー動かしてる自室でタバコとかありえない。CPUや基盤にヤニが付くことを考えるだけで恐ろしい」と自宅でタバコ吸うことに拒否感がある。これが「大人になったしちょっとタバコを吸ってみるか」という誘惑を上回る。
理由3.あの大学はド田舎で、入学の時点で「都会の便利さは捨てる」という覚悟をもって入学している(95%近くが県外出身だったような)。ある程度の不便さがあって当然と考えているので「学校ではタバコを吸えない」というレベルの不便さは些細な部類に入る。
理由4.生徒はともかく教授陣は年齢層高いだろうしタバコを嗜んでる人も多いのでは?と思うのだが、これも意外なことにこの大学でタバコ吸ってる教授の記憶がない。昔からそうだったが、今は変わったか?と検索してみたら「Jaist来て驚いたのは、喫煙者がめっちゃ少ないこと」というツイートがあったので変わってなさそう。田舎だから元の空気が美味しいってのも一因だろう。
(外来者の喫煙については規制されないと思うよ。呼気の計測とかは手間がかかりすぎてデメリットがメリットを上回る)
ある人の権利と別の人の権利がぶつかった場合、双方を勘案して妥協点を探るしかないわけだけど、今回の事例では
「学校に教授・勉強しに来てる時くらいタバコは吸わないでいてほしい」というお願いと「タバコくらい嗜む自由が欲しい」というお願いがぶつかるわけ。
そして今回は「別に学校に来てないときは吸えるんだからそれでいいじゃん」で済む気がするんだけどね。「イヤだイヤだ!俺は自由にタバコが吸いたいんだ!いつでも!どこでも!」ってのはもう「嗜む」ではなくニコチン中毒だよ。
「少しぐらい息抜きしたってちゃんと回っていく社会の方が良い」と思うけど、先生は場合によっては自室に生徒を呼んで一対一で研究指導を行う場合もあるわけで、その時息がくさい教授だとかなり苦痛だと思う。
また例えば楽器を趣味にしている人は、周囲に迷惑をかけない時と場所を念頭に置いてるし、自動車レースが好きな人もどこでも飛ばしていいわけじゃなくレース場があるということを理解している。
オタクの人だって、話題に興味がなさそうな人の前で知識をひけらかしたりしない。お酒が好きな人も昼間っから理性を飛ばすのはヤバイと分かってるから仕事が終わってから飲む、と皆それぞれ時と場所に気を使ってるよ。
それから「車の排ガスの方が~」とかいうけどさ、自動車にしろ、オタク趣味にしろ、音楽、陶芸にしろそれらは「それそのものを趣味としない人にも利便性や鑑賞・芸術としての楽しみを与えられる」メリットがあったりするんだけど、タバコって吸わない人へのメリットがぱっと出てこないからなぁ。税金払ってるしとか言わないでね。
タバコって、胸ポケットに入って、自分一人だけの場所にちょっと移れば吸えるわけで、人に迷惑をかけない方法がわりと簡単に用意されているという随分と恵まれた趣味だと思うけどね。
それに加えて「他人に嫌な思いをさせてでも、好きなときに吸う権利」まではたして必要なのだろうか?
せっかく「タバコを嗜もう」と思ってるんだから、わざわざ他の人から息が臭いなと思われる時間や場所じゃなくても、もっと嗜むために適した場があると思うし、他人に不快感を与えずに吸う方が自分も気分良くない?
ふだん差別や人権にうるさいはてブ民が、女性専用車両には賛成一辺倒で頭がクラクラした。
確かに乗り込んでくる運動家はマトモじゃない。なんせ一刻一秒を争うサラリーマン様の通勤車両を12分も遅延させたんだ。よりによってなんで俺らがこんな目に……殺意を覚えるのも無理はない。
しかし、彼ら運動家を否定できる倫理的な根拠を、はたして我々は持っているのだろうか?
実のところ、今回の運動家に対して寄せられた批判を見るにつけ、賛成派は大した説得力を持っていないのではないかと改めて確信させられた。
以下は、ハフィントンポストの記事に対してスターを集めていた上位2つ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.huffingtonpost.jp/2018/02/15/woc-chiyoda_a_23363098/
そりゃ、プロレスラー専用車なら今回の事件が起きる確率は低いだろう。なぜならば、有無を言わさず力で排除される可能性が目に見えているからだ。しかし、これは明らかな論点のすり替えである。具体的には、運動家の主張の是非ではなく、「力の強弱にアタリをつけ、威圧行動を取っているのでないか」という行為の道徳性が疑問とされている。
そもそも、この運動は代替の効かない公共機関における、特定の属性を押しやる「専用車」それ自体が問題になっているのであって、なにも「女性専用」であることが問題となっているわけではない。今回のような示威行動が起きる確率は低くなるとはいえ、プロレスラー専用車でもやはり大きく問題になり、運動家は出てくるだろう。その場合、どのようにケチをつけるのだろう。今度は「殺人犯専用車だったら絶対やらないだろう。所詮その程度の連中だよ」とでも言うのだろうか?
また、仮に「力の強弱にアタリをつけ、威圧行動を取っている」としても、それは運動の価値を毀損するものではない。声を通せる場で声を通すことが重要だからだ。
この言説は本当に悪質で、「Aを利用している人間が不安に駆られる状況こそ、Aが必要な証拠である」と言っているに過ぎない。つまり、利用している人間が不安に駆られていなければ(満足していれば)、Aの必要性が証明されているし、不安に駆られていれば(満足していなければ)、なおさらAの必要性が証明されている、というわけ。一切の批判を許さないので、イデオロギーに近い。これは「共産主義に異議が唱えられ、圧力を受けている。同志の生活が脅かされている。これこそまさに共産主義が必要であることの証拠なのだ」という議論を考えてみれば分かる。どう思いますか?
賢いリベラルの集うはてブですら、こんなブコメがスターを集めてるのだから、まったくもって酷い有様だ。
ただ、浅薄なロジックはさておき、問題意識は理解できる。以上の2つはともに、女性専用車両とは「弱い者のための暴力からの隠れ家」であるとの認識に立っているからだ。ここでは、関係性は暴力の関係として解釈されている。ゆえに「より強い暴力を誇示できるプロレスラー」に、“ただの暴力”は萎縮するだろうし、「異邦者の闖入」という暴力が起きることこそが、暴力からの隠れ家の必要性を裏付けている、というわけだ。
この「弱い者にとって『暴力からの隠れ家』が必要なのではないか」という問題意識自体は真っ当だと思う。3つ目にスターを集めていた「痴漢被害によるPTSD抱えてる人でも乗れる交通機関は必要」というのは、優先席と同じで傾聴されていい。しかし、これを認めると、1つの帰結にたどり着く。
なぜ、女性だけが「暴力からの隠れ家」の恩恵にあやかるのだろうか?暴力に怯える人間なら、誰であろうと招かれてしかるべきだ。
つまり、女性は「暴力に支配された弱い者」なのか?そして、一般成人男性を排除することは、一般成人男性それ自体が潜在的な暴力の行使者であることを前提としているのではないか?
なお、女性専用車両に対し、「女性が『暴力に支配された弱い者』であることを認めるのか」というフェミニズム的な指摘は、欧米でも盛んに巻き起こっている。
例えば、英メディア紙The GuardianTelegraphでは、女性記者が率直に「女性専用車両は負けを認めることだ」と述べている。彼女によれば、「女性専用車両の導入は、性的暴行を所与とする(normalise)ものであり、あたかも原因が私達にあるかのように、状況平等志向から女性を取り除く(remove from the equation)ことが解決策だ、と世界に向けて言っているようなものだ」とのこと。そこでは日本が、メキシコやタイ、イラン、インド、ブラジルと同格の“人権後進国”として引き合いに出され、イギリスは導入することでそんな国、つまり今欧米で流行りのディストピア・ドラマ「The Handmaid's Tale」の世界のような、女性をモノのように扱う国と同じ方向には向かうべきではない、といったようなことが語られている。
http://www.telegraph.co.uk/women/life/women-only-train-carriages-keeping-women-safe-separating-men
「女性トイレやレディースデイはどうなのか」という賛成派の反論についても、女性専用車両の正当化には繋がらないことを提示したいがキリがないのでヤメておく。とりあえず、リソースの適切な配分(特定の属性だけが特定の扱いを受け、それ以外の属性が不平等な負担を強いられるべきではない)、代替選択肢の存在(「イヤならそこを使わなければいい」が可能か)、その施策が成り立つ前提の倫理的妥当性(女性専用車両なら「女性は潜在的な暴力被害者であり、男性は潜在的な暴力行使者である」という前提)において、質が異なる問題ですよ、とだけ。ちなみに、スウェーデンでは、属性によって分けるトイレから「個室トイレ」に向かっていっているらしい。
はてブの皆さん、差別や人権にうるさい皆さん、本当にこれでいいんですか?皆さんの大好きな世界標準から、馬鹿にされてますけどいいんですか?「日本人男性が世界標準以下の性欲アニマルだから仕方ない」で開き直っていいんですか?
余談だがロケットニュースでは、ニュースのタイトルが「【キモイ】今朝の東京メトロ千代田線の遅延理由が「頭おかしすぎる」と話題 / 男性複数人があえて女性車両に乗り込み……」となっている。この記事にも「然り!」のブコメが沢山ついていた。
https://rocketnews24.com/2018/02/16/1021546/
「キモイ」「イケテナイ」「ダサイ」「カッコワルイ」。こんな調子で、本当にいいんですか?ネット最後の良心だと思っていたはてブがこんな調子では、私は一体どこへ行けばいいんだ。
はてブにも良心があって安心しました。捨てたもんじゃないですね。ひとまず、Twitterとブコメで寄せられた、いくつかの重要な質問に答えます。
手段が低コストであることが、その手段に正統性を付与するわけではありません。あくまでもその手段で影響を受ける人間の利害関係によって調整されるべきです。これは極端な例ですが、麻薬犯罪を無くすために犯罪者と中毒者はその場で殺害、あるいは火事を鎮火させるために周囲の家を片っ端から打ち壊し。ともに「ラクな解決手段」ですが、 適切ではないのは明らかですね。
マシなものがないのではなく、マシなものが鉄道会社に選択されないから、そう思うだけです。これは上の「低コストで予防できるんだからいいじゃん」とも関係しています。ただ、監視カメラ・警備員の配置、満員電車の解消、あるいはより良いシステムの構築に向けた過度的なものなら悪くはないですね。
これは確かに一理あるのですが、この話をしだすと論点がズレるか、あるいは論点先取になっています(女性専用車両は痴漢対策だ。痴漢こそが対策されるべき問題である。よって女性専用車両は必要である)。かつて、盗聴法の成立時に「法の是非を問うより、盗聴されるような行為をするヤツをまずは問題にしろよ」という議論があったのにも似ています。もちろん、諸悪の根源は痴漢です。しかし、ここでは対策の方法がもたらす帰結(あるいは、そもそもその対策方法が妥当か)が問題になっているのです。
また、「痴漢を撲滅することの難しさが女性専用車両を生んだ」というのは「犯罪者を撲滅することの難しさが、(犯罪者の多くはAという属性を持つので)Aという属性はお断りの○○を生んだ」と言っているのと同じですが、これに何も疑問を覚えないのでしょうか?それでも特定の属性を「潜在的犯罪者」として括りたいのであれば、もう私からは何も言えません。入れ墨外人温泉入浴問題と同じですね。どうぞ、ファシズムに突き進んでください。
その存在を「暴力からの隠れ家」として否定していないことには注意してください。
もちろん、特定の状況下における「合理的区別」は合法でしょうし、鉄道会社の営業の自由も一定度は認められてしかるべきでしょう。すでに社会的に認知されていることをもって、女性専用車両の存在を「公知の事実」とする判例も出ています。しかし、ここで私が問題にしているのは、法律ではなく、倫理です(「まず痴漢の倫理を問題にしろよ」という方は、上記の3を参照してください。「いや、それでも合法だから正しいんだ」という方に対しては、これ以上私からは何も言えません)。
ちなみに、「障害者専用車両みたいなもの」という意見は、はてブ民が大好きな欧米のリベラルフェミニズムから相当な反発を食らいそうですね。深くは立ち入りませんが、この例えを安易に使うならせめて「骨折患者専用の障害者専用車両」に限定した方がいいかと思います。
アファーマティブアクションがいい例ですね。非対称性や権力勾配の是正措置自体は、それが段階的な解消を狙いとした施策であればアリでしょう。
ただし、代替手段のない公共サービスの鉄道、それも日本の通勤電車で、はたして導入されるべきなのか。また、そもそも車内における男性と女性の関係において、暴力的な非対称性が一般的に存在しているのかにも注目する必要があります。この存在を認めると「女性は庇護されるべき対象」となりますが、ここから先はカトリーヌ・ドヌーヴの議論にも通じるものがあるかも知れませんね。
それから、私が「逆差別だ」とは一言も言っていないことには注意してください。あくまでも、ここで私が問題にしたいのは、賛成派とされるはてブ民のくだらなさ、何よりも“潜在的な何か”を理由にした排除の論理は、新たな権力構造を生むだけではないか、ということです(女子トイレなどとの比較は、別のホテントリにお任せします)。
しっかりと読んでいただければ分かるかと思いますが、私は「暴力からの隠れ家」として特別枠が設けられることには、否定的ではありませんし、優先席も公正な資源配分の観点から注目すべきだとは思っています(廃止すべきだ、という議論を完全に否定ではできませんが)。
これはシンプルな代案ですが、「ケア車両」はどうでしょう。暴力に怯える人は誰でも入ればいいじゃないですか。その代わりその車両には、監視員や監視カメラをガンガンに配置する(もちろん通常車両もなおざりにして良いワケではありません)。監視の目が行き届くよう、乗車の人数制限も設ける。
これである程度は、無関係な人間による車両乗車への抑止力が働くでしょう。それでも「傍若無人なオッサン」が闖入してくる可能性はありますが、実のところ彼を排除する合理的な理由はどこにもないでしょう。
「女性専用車両よりもコストがかかる」というツッコミがあるかもしれませんし、「じゃあ早速オマエが鉄道会社に直訴してこいよ(笑)」という揶揄もあるかもしれません。しかし、コストがかる&直訴されて突っ返される可能性が高いからといって、この歪な構造、そして痴漢犯罪が「女性専用車両(あるいはケア車両)」を免罪符にして放置されていいことにはならないのです。
いろんな意見があるかと思いますが、これについては私のスタンスが勘違いされるのも野暮なので、ハッキリ言っておきます。対抗して男性専用車両を作るのは、個人的にはトラブルを増やすだけだと思っています(総量を男女比に応じて適切配分するのはアリかもしれませんが、はたしてそんな前近代的なディストピアの到来を望みますか?それで賛成派の皆さんがいうところの「非対称性」は解消されますか?)。そもそもトイレや風呂と違って、ジェンダーやプライバシーが密接に関わり合うようなものでもありません。
しかも男性専用車両を望む男性の皆さん、男性専用車両があるなかで一般車両に乗ってしまい、冤罪に遭った時のことを想像してみてください。もう、どうなるか分かりますよね。ちなみに、同じことが女性にもすでに起きています。こういうの、警察(「なんで一般車両に乗ったの?」)と鉄道会社(「専用車両を用意したじゃないですか」)が笑うだけなんですよ。男や女に対する排除の論理ではなく、上で挙げた「ケア車両」のような“包摂”の論理で対策を考えませんか、と私は思うんです。そもそも鉄道会社が誰かをケアする義務を負うのか、という根本的な問題はありますが。
これは、以前Twitterで流行った「『告発を無力化する話法』として無力化する話法」ですね。特定の集団が抱えている痛み・苦しみが、特定の属性の排除を許すわけではありません。もちろん、何度も述べているように被害者の痛みに寄り添うことは大切だと思います。ただ、そうであるならば「痛み・苦しみを抱える人」は、男女関係なく包摂されるべきではないですか?もしかして、その有無・大小を性差(しかも外見上の特徴)で見分けるのですか?
客観的に見ればそんなことはないのだろうと思う。高校生の頃は、学校に行けば隣に座っている人から話しかけられ、それに返事をすることは多かった。自分から他人に話しかけることはあまりなかったけれど、部活や学校行事などで業務連絡をしたい時には普通に話しかけた。
それでも、友達が居ないという感覚が拭えない。特にTwitterというツールがその感覚を助長している。クラスメイト同士がリプライを送り合って会話を弾ませる中、自分は何もできない。そういう時とても息苦しさを感じてしまうのだけれど、Twitterさえ辞めてしまったら自分の居場所は本当にどこにも無くなってしまう。
学校での人間関係なんて辞めて好きな趣味を持つ者同士で関係を作ればいいではないか。そう思って趣味垢なるものをやったこともある。趣味垢をやっている時間は確かに学校では味わえない楽しさがあった。オフ会をしたことも2, 3回はある。
一方で、ネットだけで関係性を続けることの難しさも感じた。いつのまにかTwitterに浮上しなくなった人、趣味が変わって別のグループに属するようになった人、グループ内でトラブルを起こしてしまった人、様々だ。何より自分自身も受験が忙しくなって趣味垢を使わなくなってしまった。今考えれば高校生という時期に始めたのが間違いだったのだろうと思う。
去年、大学に進学した。大学では自己紹介をすることに苦手意識を感じてしまって、サークルに入れなかった。高校の時以上に人と会話をしなくなった。今考えれば大学が新しい友人を作るラストチャンスだったのかもしれない。でもそれが出来なかった。大学は高校と同じ最寄り駅で、エスカレーター式でもないのに一学年の半数がその大学に毎年行っているのだ。「線路の向こう側の大学に行く」とよく揶揄される。そんなわけで、高校の延長線のような感じで大学生活を続けてしまっている。
毎日大学とバイトに行くだけの生活。長期休暇中は大学さえ無い。当然友達が居ないという感覚はさらに強まった。Twitterで高校同期がリプライを送り合っているのを見て、不快感を覚えることも多くなった。
それでも一つだけ変化がある。それは声優イベントに通うようになったことだ。別にイベント会場で他人と話すわけでもない。一人でフラッと会場に入って、声優の話や歌を聴いたりして、終わったらすぐ帰る。それだけだ。
ただそのイベント会場に居る時間だけ、友達が居ない感覚など自分のことをすっかり忘れて、声優を好きな気持ち、応援したい気持ちでいられる。その気持ちに半ば中毒になってしまって、今では毎週のように声優イベントに参加している。
結局のところ、これは身近できちんと友達を作る努力をしなかったことに対する代償行為なのだと思う。だけども、自分には声優イベントに通う以上に人生を豊かをする方法が分からない。
テオブロミンはカフェインと似た物質であり、大脳や呼吸器、心臓、筋肉に対して強い興奮作用を持っています。チョコレートやその原料のカカオマス(カカオ豆)やコーラ、お茶などに含まれますが、特にチョコレートやカカオ豆は高い含有量を持ちます。
犬はテオブロミンの分解と排泄にとても時間がかかるため、テオブロミンの量が体の許容量を超え易く、人間と比べて中毒症状を起こしやすくなっています。
https://anond.hatelabo.jp/20180214155553が文字数制限?に引っかかってしまったのか途中で切れたので続きです。
「003: アメリカ政府より強力」~「005:ジェダイのマインドトリック」の前まで
続きはhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344
巨大テクノロジーに屈服してしまったのは連邦政府だけではない。アマゾンの第二本部への入札の一貫として、州とシカゴ市の役人はアマゾンに13億ドルの給与税を免除し、そのお金をアマゾンが適切と考えるやり方で使えるようにすることを提案した。すばらしい。シカゴは徴税権をアマゾンに渡してしまい、シアトルの企業がシカゴの住民に最適な方法でお金を使用してくれることを期待しているわけだ。
政府の服従はそれからひどくなるばかりだ。もしあなたがアイスキャンディーを作って子どもたちに売ろうと思えば、高額な食品医薬品局のテストを無数に受け、また原料・カロリー・糖分を表示した完璧なラベルをつけなければならない。しかし、インスタグラムのユーザー同意書にどんな注意書きが書いてあるだろう。我々はソーシャルメディアのプラットフォームがティーンエイジャーの抑うつ状況を悪化させていることを示す大量の研究の存在を知っている。自分自身に問いかけてみよう。もしアイスクリームが子どもたちを自殺させやすくしているとしたら、我々はドレイヤーズのCEOがシリコンバレーのディナーで大統領の隣に座るのを肩をすくめるだけで見過ごすだろうか。
こうしたソーシャルメディアのプロダクトがタバコと同様の中毒媒介システムであることを信じない人は、7才の子供からiPadを取り上げようとして、自分の殺人計画を告げるような視線で見られるといった経験がないのだろう。この手のプラットフォームの中毒性を信じないなら、どうしてアメリカのティーンエイジャーが一日平均5時間インターネットにつながったスクリーンに張り付いているのか、その理由を自分で考えてみればいい。ソーシャルメディアが与えてくれる様々なご褒美のせいで、我々はまるでスロットマシーンの前にいるように自分の通知をチェックさせられ続ける。子供や十代の少年少女はこうしたプラットフォームがもたらすドーパミンの欲望にとくに影響を受けやすいという研究もある。多くのテクノロジー企業の幹部が自分の子供にはこうしたデバイスを触れさせないと公言しているのも不思議ではない。
以上のような問題は全て正当な懸念だ。しかしこれらの理由のどれ一つとして、あるいはこれら全てを集めたとしても巨大企業の分割を正当化する理由としては足りない。これから述べるのが、私が信じる四大企業を分割すべき理由だ。
ヴァンダービルト大学のロースクールの教授であるガネシュ・シタラマンの主張は、アメリカには中産階級が必要であり、我々の代表民主制が上手く機能するために富がバランスよく分配されるよう、憲法もデザインされているというというものだ。富めるものがあまりにも多くの力を持ってしまえば、寡頭政治につながる。だからアメリカの民主主義という舟を安定させるためには中産階級が舵にならなければならないのだ。
経済とそのキーとなる主体である会社の基本的な目的は、中産階級を作り出し維持することであると私は信じている。1941年から2000年にかけてアメリカの中産階級は世界の歴史においてもっとも優れた「善」の担い手だった。アメリカの中産階級は正しい戦争に資金を提供し、戦い、勝利した。高齢者の世話をし、ポリオの治療にお金を出し、人類を月に送り、世界の他の国に対して、自分たちがモデルとなって、消費とイノベーションが社会・経済を改革するエンジンになりうることを示したのだ。
経済の上向きのスパイラルは家庭と企業の間での循環に依存している。家庭が資源と労働を提供し、企業がモノと仕事を提供する。競争は発明と優れた製品(ハッピーアワー、リアビューカメラetc.)を提供するモチベーションとなり、車輪はいつまでも回り続ける。巨大企業はステークホルダーに対して莫大な価値を作り出す。それなのにどうして私たちの目の前で、歴史上初めて、他の国の中産階級が成長しているのに自分たちの国の中産階級が没落するという事態が起きているのだろう。経済が中産階級と中産階級が育む社会の安定を維持するためのものであるならば、我々の経済は失敗してしまっているということだ。
過去30年でアメリカの生産性が大幅に向上したのは間違いない。アメリカの消費者があらゆるレベルで自由主義社会の羨望の的になったことを否定することはできない。しかし生産性の拡大と消費者の地位の向上の結果作り出されたのは、高給の雇用と経済の安定をすばらしい電話と1時間以内に配達されるココナツウォーターと交換してしまうようなディストピアだった。
どうしてこんなことが起こったんだろうか。2000年代になってから、企業と投資家が夢中になったのは人間をテクノロジーで置き換えることによって急速な成長と利益の急拡大を可能にしてくれるような企業だった。こうして作り出された巨額の富が安価に資本を引きつけ、他のセクターは脆弱になった。古い経済に依存する企業と巣立ったばかりのスタートアップには何の希望もなかった。
結果として出来たのは企業にとっても人々にとっても勝者総取りの経済だった。社会はイノベーション経済の側(領主)とそうでない側(農奴)の二つに分かれてしまった。一つの素晴らしいアイデアがウン億のベンチャーキャピタルを集める一方で、普通の人、あるいはただ幸運でなかった人々(私たちのほとんどだ)は退職後の貯金をするためにもっともっと働かなくてはならなくなった。
億万長者になるのが過去に比べて簡単になったり難しくなったというわけではない。痛いほど明らかなのは、過去30年で見えない手が行ってきたのが中産階級を締め上げることだった、という事実だ。30歳の人間がその両親が30才だったころに比べて貧しくなったのは大恐慌以来始めてだ。
何か手を打つべきなのだろうか。こうしたイノベーションのアイコンたちが、経済の調子を保つための一時的な撹乱を行っているだけだとしたらどうしよう。トンネルの向こうではより強い経済と高給が待っているという見込みはないんだろうか。しかしこんなことがありえないという証拠はすでにある。事実、二極化は勢いを増しているように見える。これは我々の社会に対する最大の脅威だ。これが自分たちの住んでいる世界なのだから仕方ないという人も多いだろう。でもその世界も私たち自身が作り出したものではないのだろうか。百万人の百万長者を生み出すことからひとりの一兆長者を生み出すことに、私たちは意図的にアメリカの使命を変えててしまったのだ。アレクサ、これって良いことなのかね?
今まさに我々は劇的なマーケットの失敗の只中にある。そこでは政府が巨大テクノロジー企業への大衆の熱狂によって黙らされてしまっている。頑丈なマーケットは効率的で強力だが、グランドに定期的に入って旗をあげ、チームを動かすレフェリーなしではフットボールのゲームが成立しないように、枷のない資本主義が私たちにもたらしたのは気候変動、抵当危機、そしてアメリカの医療保険だ。
独占はそれ自体常に違法だったり望ましくないものだったりするというわけではない。単一の企業が投資を行い、安価にサービスを行うのが合理的であるところでは、自然な独占が存在する。しかしこの場合トレードオフとして厳しい規制が伴う。フロリダ電力は1000万人にサービスを提供し、親会社であるネクストエラ・エナジーは時価総額720億ドルだが、その価格とサービスの基準は市民に受託された人々によって規制されている。
対象的に四大企業は厳しい規制なしに独占「的」な権力を維持しおおせている。私が彼らの力を「独占『的』」と表現したのは、アップルだけは例外かもしれないが、彼らがほとんどの経済学者が独占の核心だと考える、顧客向け価格の釣り上げを行ってはいないからだ。
しかし、四大企業は我々が本能的に感じる大きな政府への反感を見事に利用し、競争が――私有財産、賃金労働、自発的な交換、価格システムと同様に――資本主義のエンジンの不可欠なシリンダーであることを忘れさせてしまっている。彼ら四大企業のサイズの巨大さに加えてチェックを受けない権力によって競争市場は抑圧され、経済が本来の目的を果たすことも阻害されてしまっている。つまり、活力ある中産階級を作り出す、という目的だ。
どうしてこんなことが起きるのだろう。1990年代にマイクロソフトがどうやってネットスケープの息の根をとめたかを思い出すのは有用だ。はじまりは何の問題もなかった。ある会社が優れた製品(ウィンドウズ)を作り出して、それがセクター全体へのポータルになった。今であればプラットフォームと呼ばれるだろうものだ。その成長を維持するため、その会社はそのポータルを自社製品(Internet Explorer)の方向に向け、パートナー(Dell)をいじめて競争をシャットアウトした。ネットスケープのブラウザの方がより人気で90%のシェアを得ていたとはいえ、マイクロソフトが意図的にインターネットエクスプローラーを援助しているのでは勝ち目はなかった。
同じ状況は四大企業ではどこでも起こっている。グーグルが上手くマネタイズできるよう、検索結果の最初のページがゆっくりと支配されていくことや、iPhoneの画面上の準標準プロダクト(アップルミュージック等)、強豪相手(Snap)を邪魔し、叩きのめせるよう会社(フェイスブック)の持てる全ての資源を按配すること、他の会社がとても競合できないような要求水準の設定と攻撃的な価格設定(アマゾン)。
もしかしたら消費者にとってもこういった「自然な」独占の方が都合が良いのかもしれない。しかし司法省の考え方は違ったようだ。1998年に、連邦政府はマイクロソフト相手に訴訟を起こし、反競争的な慣行を非難した。裁判を傍聴していた人が報告するところによると、マイクロソフトの幹部はインターネットエクスプローラーをタダで提供することで「ネットスケープの空気の供給を断」ちたかったと証言したのだそうだ。
1999年11月に、ある地方裁判所ではマイクロソフトは反トラスト法に違反しており、会社を二つに分割することを命じるという判決が出た(一つはウィンドウズを売り、もう一つはウィンドウズ用のアプリケーションを売る)。会社分割の命令は高等裁判所で却下されたが、マイクロソフトは会社の独占的な慣行を抑えることで最終的に政府と和解に達した。
和解内容に対して甘すぎるという批判もあったが、司法省があの時マイクロソフトを有望新進企業を芽のうちに潰してしまうという罪状で警告することがなかったら、今のグーグル――今や7700億の市場価値があり、自由市場の信奉者にとっての希望の的だ――が存在しえたかどうか、考えてみる価値はある。反トラスト法がなければ、マイクロソフトはマーケットの独占を利用して、ちょうどウィンドウズによってネットスケープを安楽死させてしまったように、グーグルよりもBingを使わせるよう仕向けていただろう。
司法省のマイクロソフトに対する訴訟が、マーケットに新鮮な酸素を送り込むという点で最も大きな効果を持った例であることは確かだ。株価にして何兆円ものドルを解き放ったのだから。四大企業による力の独占は、酸素不足のマーケットを作り出してしまった。私は何十回も小さな会社によるベンチャーキャピタル向けプレゼンを聞いたことがあるが、そこで説明される内容はどこでも、いつでも同じだ。「四大企業とは直接戦えませんが、四大企業の買収先としては素晴らしい会社になれます」。その細い針の眼を通すことが出来なければ、会社はその幼少期を生き抜くために必要な酸素(資本)を絶たれてしまう。IPOもベンチャーキャピタルの資金提供を受けた企業の数も過去数年で着実に減少している。
かつて「悪の帝国」そのものだったマイクロソフトと違い、グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾンは巧妙なPRを洗練されたロビイング――オプラ・ウィンフリーとコーク兄弟をかけ合わせたようなものだ――と組み合わせて、マイクロソフトに課されたような批判からほとんど逃れおおせている(https://anond.hatelabo.jp/20180214161344に続く)
安倍総理、潰瘍性大腸炎を言い訳にして大麻入りのサプリメントを密輸か。
安倍総理、大麻中毒か。安倍晋三首相が使用しているというサプリメントに日本では御法度とされる植物の成分か|ニフティニュース https://news.nifty.com/article/domestic/government/12104-95506/
驚愕スクープ 安倍晋三 逮捕者も出た「大麻サプリ」使用の禁断生活! 厚生省が警告を発する「違法成分」を海外から入手して…
ちょっと前にヴィーガンがどうたらこうたらってのが話題になってた
俺はヴィーガンではないのだが、料理が趣味なので興味本位でその手の料理にチャレンジする事はある
豆腐関連のレシピは普通の料理にも応用が利くものが、結構あって料理の幅を広げるのに役立てさせて貰ってる
豆腐の唐揚げで鶏肉っぽい食感を再現できた時は、ちょっと感動した
ただ、気になる点はある
理由は分かる
豆腐などを肉や魚の代わりに使ったレシピの場合、肉や魚を使った料理そのままの同じ味付けではかなり薄味になってしまうからだ
肉無しで料理を作ると強く実感できるのだが、肉や魚の持ってる味の力は凄まじいものがある
ヴィーガンの人達に言わせれば「動物性たんぱく質の中毒になっているからだ」というところなのだろうが、俺は単に食材としての旨味の濃い、薄いの違いでしかないと思う
当然ながら動物性のダシも使えない
禅寺の料理みたいに昆布+干し椎茸などの乾燥キノコのダシなどである程度は補えるとはいえ、全体としては旨味不足になりがちだ
それを補う為に濃い味付け、特に塩分を多く使う傾向がヴィーガンレシピにはあると思う
もちろん、それこそ禅寺の修行みたいに自分の精神を高める為のトレーニングとして、薄味のヴィーガンレシピで頑張ってる人は問題ないとは思う
ただ健康の為に肉を控えようみたいな考えで、でも薄味だと満足できないから濃い味付けでごまかしてる人は、塩分摂取量には気をつけた方がいいのかもしれない
5000兆円って大金をタンス貯金で管理するわけにもいかないし
色んな銀行に預けようとすると銀行ごとの付き合いとか面倒になりそうだよね
でもって5000兆円って凄い大金だからいろんな人に狙われるじゃん?
ボディーガード雇ったりしないといけないし家の防犯もちゃんとしないといけないしやっぱり面倒だわ
でもって知り合った人からのビットコインの勧誘ぐらいなら断れるかもしれないけど、
知り合った人に知らん間に自分の身体におクスリ仕込まれちゃって中毒になっちゃったらもうお金をそっちにお金使わないと生きてけないだろうし
スナイパー的な人に狙撃されかねないし
ゆったり生きてけなさそうだよね
やっぱり面倒だわ
5000兆円あっても自由どころか面倒事ばっかり巻き込まれそうだから5000兆円もいらないや
800万円、800万円ぐらいが丁度いいや
どなたか800万円下さい
中毒になってるお薬成分の正体は…
普段だったらあの手のペットボトルカフェオレ、2日~1週間かけて飲みきるのが普通なのに
アレだと一日で飲みきっちゃう。
最初飲んだ時は普通に不味いなって思ったのに、何故か次が飲みたくなってしまう。
なんかこれ中毒にするお薬とか入ってるんじゃないの?
悔しい。
だけれど自分が低スペックが故に、これしか方法が無いと思い行動した。
ゲームは好きだし楽しい、だけれど後ろめたさみたいなものに耐えられなくなった。
適度な時間、充実した余暇を楽しむ人には素晴らしい娯楽だと思う。
しかしながら、時間にずさんで依存症の様にやり続けてしまう自分にとっては辛いものだった。
勉強時間にあてるはずの休日も、ついつい始めたゲームで一日を潰してしまう。
まして自分の現状が29歳フリーターと、なんの取り柄もない立場の低所得者だから引け目を感じたりしていたのだろう。
好きな事だからと大切にしていたけれど、これでは精神的負担にすらなっている。
個人的な話、祖父が寝たきりになったり親族がや病に倒れたりと環境にも変化があった。
そこで周囲の人間を援助できる力も無い自分に無力さを感じ、楽しむ余裕がなく感じてしまった部分も大きい。
関係ないはずなのに、楽しむことが悪、そんな思いがずっと頭に纏わり付いてしまった。
何を言っているのかわからないのだけれど、遊んじゃいけないのに遊んでしまっている気がしてならなかった。
当然ゲームが悪いわけじゃない、用法用量を守れない自分が中毒になっただけ。
ただ尚更、しっかりと仕事にも就いたり家庭を築いたりしている上でゲームを楽しんで居る人を見ると、悔しいし悲しい。
本来娯楽とは基盤を形成した上にあるべきで、破綻した状態で続けている自分には自己管理能力の無さに吐き気すら感じてしまう。
今回自分がとった行動は、ゲーマーとしては情けない事だと思う。
ただどうして良いかもわからない現状、こうするほか無かった部分もある。
64歳。
たぶん、不安障害とか、ギャンブル中毒とか、記憶の捏造とか、そのたもろもろ疑わしい症状はいくつもある。異様な買い溜めとか、異常な感情の起伏とか。
このままだと、ゴミ屋敷になるか家族全員がまた心の病になってしまう。
うちは弟がいちじき引きこもりで学校にもいかず家族に刃物とかむけてたり、自殺未遂しまくりのときもたぶんみんな心病んでた。あの頃は私も10代でよくわからないこともおおかったけど、というか、鬱病とかになったけど、間も無く30代になるいま、もう、あんな、参事はくりかえしたくない。
でも、私はたぶん、知らないことがたくさんあると思う。
(母親と弟とは同居、自分だけが離れて暮らしてる。母親と弟の話を聞いたり、自分も実家に帰って家の様子とか見るとそう感じるところはある。自分との会話で変なところはないから、心の乱れには波があるよう)
こんなときは、どうすればいいんだろう?
まず、なにからはじめたり、調べたりしたらいいの?
ねぇ、ほんというと、
わかんない、こわい。たすけて。
お父さんが異様で、こわい。お母さんも弟もかわいそう。こわいよ。お父さんはがたいがいいから、キレて殴ったりしたら、みんな骨が折れるどころではない。殴られたことはないけど、最近は、少しずつ、弟を殴る回数がふえてきた。こわい。将来のこと考えると、こわい。お母さんや弟が、ときどきお父さんのことで悲しんだり怒ったり心配したり、疲れたりして私にラインしてくるんだけど、慰めたりすることしかできない。