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はてなキーワード: 法要とは

2022-09-16

正直もう安倍暗殺事件も飽きてしまった

安倍元総理暗殺されたとき日本でこんな事が起きるのかと衝撃だったし、功罪ある政治家と言ってもこんな形で殺されるのはおかしいと今でも思ってるが、事件が起きてから二ヶ月以上経ってるわけで、もう四十九日法要も終わってるので、個人的な弔意はもう期限が切れてしまってる

国葬についての意見調査で反対派がどんどん増えてるのも、事件が風化して安倍元総理もとっくに過去の人になったのでは感がある

国葬自体については消極的に賛成、もう中止の選択肢もないだろうしやりたいならやれば、位にしか思ってないが、やってよかったとはならないのでは。白けるだけだと思う。

2022-09-07

信教の自由」はそろそろアップデートすべき

人が内心で何を信仰するかについてはそりゃ自由であるべきだろうし、「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すべし」なんてトンデモも本当にそれを信じたくてそれで自分は救われるんだってんなら勝手にしたらいいと思うけど、それは最初勧誘の段階でちゃんと「サタンの金を文鮮明様の元に取り戻すってのもうちの重要な教えのひとつですよ」と明言した上で本当にそれに魅力を感じた人だけが入信すべきであって。

信教の自由のうちの「宗教結社の自由」、わけても布教勧誘については「実態実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って勧誘するのは違法行為」って明確に宣言してほしい。医者とか不動産屋とか金融業者には客に対する「説明義務」ってのがあるけど、それの宗教版みたいな感じ。

統一教会に限らないんだけど、カルトって入り口では全然当たり障りのない道徳的な話とか心理学小ネタみたいなのを繰り広げておいて、それで心の弱ってる人を引きこんだ後にちょっとずつ「疑いの心こそが不幸を呼ぶのでまずは一心不乱に教祖様を信じるのです」とか「布施勧誘こそが最速でカルマを清める顕行なのです」みたいなことを吹き込んで最終的には勧誘集金献金マシーンに仕立て上げるんだよね。いわゆるマインドコントロールってやつ。だからこそ、「いやお前最初勧誘の時はそんなこと言ってなかったよね?なのに中入ったらなんかもうカネカネばっかじゃん!」みたいなツッコミちゃん機能するかどうかって、割と重要だと思ってて。

出版物とかホームページとか勧誘の時に言ってきた事とか、そういう「外向けの売り文句」といざ入信した時に実際に内側の信者に対して触れ回ってることがまるで違っていた時に、何人かにひとりでもマインドコントロールの効きが弱くて「あれこいつら入口を偽って引き込みやがったな?」って気付けたら、その人がちゃんとそれをタレ込める窓口があって教団にペナルティかけれる体制みたいなのがほしい。「青春を返せ裁判」も最高裁確定までに二転三転したうえに14年かかってるし、現状はそこんとこのハードルが高すぎる。

もちろん教義の真髄みたいな部分を最初から一般人理解できるように説明するのは無理だろうし、あと勧誘時の説明がどこまでだったら「ちゃんとした説明」でどこまでなら「まるで違う」になるかって厳密に定義するのは難しいだろうけど、前者については医者とか銀行とかだって同じことで「厳密にはもっと色々あるんだけど嘘じゃない範囲でおおむね必要な分の概要全体像をきちんと説明する」ってのはやればできる話だし、後者についてはそれこそ裁判判例を積み重ねていくべき話だと思う。

なにより「入り口で言ってる教えと全然違う事を内側で信者だけに言わない」ってルールカルトでない真っ当な宗教にとっては何の足枷にもならないはずで、まあ葬式仏教なんかはこれまでその辺の説明を手ぇ抜いてきたきらいはあるけど、法で「義務として今後はちゃんとそれ言いなさいね」ってされたら普通宗教にとってはむしろプラスですらあると思うんだよね。「実は親鸞聖人は死んだら自分の骨は鴨川にでも捨てろって言ってて四十九日とかもあくま阿弥陀さんの救いに思いを馳せる為の機会って位置付けなんすよ」みたいな話、今だって真面目な坊さんほど法要の時とかにちゃんと言ってくれるし。

カルトは結局「その内側で言ってる指示およびその指示の根拠となる教義」がだいたい一般社会道徳感とは相入れなくて、しかも奴らは相入れないこっち(社会)側が間違ってると本気で思ってるから嘘をつくのもマインドコントロール仕掛けるのもまったく躊躇いがない。で、勢力を広げるには何かにつけて金が要って、だからこそ信者にも無茶な献金をさせようとする。来るもの拒まずで本当にただ粛々と信仰してる分にはそもそも家庭崩壊レベル献金なんて要るわけないし、宗教を信じる自由って本来そういうことなんじゃねえの?って。

マインドコントロールって言葉1990年代に一度脚光を浴びたけど、改めてもっと周知されるべきだしそのヤバさに社会の側もちゃん対策を取るべきだと思う。

追記

実態と違うこと言って」ってのがなんかちょっと紛らわしい言葉だったので、「実際に信者に向けて言ってるのと違うこと言って」に変えました。

2022-08-30

anond:20220830112408

これは嘘増、いや僧侶詐称してるから嘘僧かな。

本当に初増田の人が初増田と名乗る訳がない。

しかはてな記法を適切に使いこなしているし、『ブクマをもらって、ただ承認欲求を満たしたいだけ』と増田投稿常連しか使わないような言い回しを使っている。

決定的なのは発達障害』という増田常駐者や増田ブクマカが好む設定で、他者を見下した文章が大半を占めていることだ。

その文章に、住職ならではの知見や見識は一切垣間見ることができない。

おそらくはお気持ち増田ブクマ稼ぎを趣味にしている人が書き上げた創作文章だろう

最近増田では統一教会問題きっかけに宗教話題になっているので、宗教テーマにして文章を書いたらバズる判断したのだろう。

内容はお盆法要住職と接したことを元にしたのだろう。

2022-06-03

葬儀屋父親戒名料を値切ってくれた

父親が急死して、母は高齢なので俺が葬儀屋探したんだけど、

探し当てた葬儀屋さんがすごくいい人で、

お坊さんも探してくれて、戒名料も値切ってくれた。

法要込の値段で20万円だったのが10万円になった。

お坊さんはかなり嫌そうだったけど。

父の戒名は「居士」になった。意味はよくわからない。

あと法要後の親戚集めて食べる店も良いところ紹介してくれたし、

お茶菓子とかの買い出しもしてくれた。

それなのに大手葬儀屋よりかなり安かった。

花代大手だと高かったのに、安くしてくれた。

あの人こそ仏だと思った。

2022-04-29

anond:20220429221439

意図が分からないので、頭のおかしい人だからで済まさず、きちんと関係を断つのが良いと思う

妙な意図が無いとも限らない

独身であることを否定はしないけど、生前からちょっと変だと言われる程度に素行おかしさは周知だったわけで 今現在増田家族迷惑しているわけで

祖母を弔う気持ちで来ているばかりではないかもしれない、というのは勘ぐりすぎだろうか

7回忌などの法要は今後は身内でやろうと思いますので、とか言うとか

命日の日にわざわざ家に押しかけてくるなら、トラバにもあるように家を留守にするとかさ、お寺での法要がありましてとか、なんとでも理由はつけてさ

故人も望んではいないし、家族迷惑に思う相手は、きちんと縁を切るのが良いと思う

2022-03-16

anond:20220316144046

念仏を唱えるだけで誰でも極楽へ行けます。それはそれとしてお墓は作ってください。戒名も付けてください。葬式もしてください。年忌法要もしてください。そのたびにがっつりお布施を取っていくんでよろしく

2022-02-11

サイゼリヤ問題、前提がバラバラだよ問題

みんな色んなケースで色んなこと語ってるから収集がつかない

  

サイゼリヤ最高!のシチュエーション

→事前に関係性が構築できているパターン日常の一部

◆男女関係

学生カップル

・付き合って長い

結婚/同棲済み

スポーツイベント/アクティティの帰りとか

共通

おひとりさま

仕事帰りに同僚と

子連れ奥様会

友達同士

サイゼリヤ微妙…のシチュエーション

→だいたい関係性が構築できてないパターン、非日常

◆男女関係

社会人男女の関係深まる前のデート

 (落ち着いて話せるお店であれば2000円のチェーンじゃ無いランチで十分)

特別記念日

・両家顔合わせや法要のあとの会食など慶弔関連

共通

会社飲み会

 (全員と仲良しさんな部署ならあり)

・偉い人/取引先の接待

2022-02-10

姉さんへ ~母へのレクイエムに代えて~

母さんは死んでしまった。

コロナ禍に病院でひとりで死んでしまった。

どうせあなたは、はてななんて見てないよね。

からあえてここに書き捨てておきます

病院から様態悪化の連絡があってから一緒に病院へ行ったね。死の二日前だった。

あなたは会いたいというより義務から僕に付いてきたという感じだった。

前々から気になっていたんだ。

いつからあなたの心は母親から遠ざかってしまったのかって。

嫁いでもう50年だもんね。そりゃあ、実家にいたときとは違って当り前だよね。

顔を見ても誰だか分からなくなってしまった母に会ってもしょうがいから......

しょうがなくてもしょうがなくなくても、心配してしまうのが血縁というものじゃないの?

忙しくてもつい気になって会いたくなるのが身内というものじゃないの?

認知症になる前はあんなに仲が良かったのに...

家に来るとあなたと母は大声でしゃべり合い、大声で笑い合ってた。

同じ町内だもの。嫁いでからもいつも実家に来て明るい性格な者同士でそりゃあにぎやかだったよね。

同居の義父母の世話は完璧だったのに。

毎日病院へ行って本当の親子みたいに尽くしてた姿が脳裏にある。

でも、あなたは実母の世話は1年に2~3日でも多い方だった。

それも僕が頼んだ時だけ仕方なくという感じで。

実母の世話の優先順位がかなり下の方にあるのに気づいた時はショックだったのを覚えている。

何回も見損なったものだ。

そして見損なうたびにあなたとの心の距離は離れて行ってしまった。

取り返しのつかないくらいに。

あなたは変わってしまった。

人間は変わっていくものなのかもしれない。

でも、変わってはいけないもの、忘れてはいけないものがあると思うんだ。

人間は変わっていくものなのかもしれない。

でも、いい方向に変わりたいよね。

僕にとっての母は、自分の次に大切な人だった。

あなたにとっての母は、おそらく7番目か8番目に大切な人だったんだろうとは思う。

死を前にした母に対面するとき思ったんだ。

同じ温度差の人と一緒に対面しないとしらけると。

あなたは、衰弱してしまった母を見て、よそのおばさんでも見るようによそよそしかった。

僕は抱きしめて号泣したいくらいだったのに。

そして、いよいよ危篤となったときあなた電話に出なかった。

父の時もそうだったね。

そりゃあ、深夜にスマホで起こされて病院へ駆けつけるなんてしんどいさ。

でも、普通、親の危篤に備えて枕元にスマホ置いとかない?

そして電話があったら飛び起きて駆けつけない?

僕は、深夜、ひとりで母親の死と対面した。

父の時もそうだった。

(どうしてひとりかって?)

-----------------------------------------------------------------------------

ゲイからはいない。

姉は僕がゲイなのを知っている。

(親にもカミングアウトしたけど、なんかイマイチ理解できなくて困惑した。大正まれだもんな。でも姉の世代なら理解できていると思ってたけど違った。

今後、あなた結婚するかもしれないからとか訳のわからないことを言っていたね)

そして僕が母を一番大切な人だと思っているのも知っていると思う。

長女が死に、長男が死に、末っ子次男として生まれ田舎農家の跡取りとして大事に育てられたのにゲイ結婚できないという悪夢のような現実

なんという場違い自分。なんという罰ゲーム人生

こんなことなら生まれて来なければ良かったんだ。

------------------------------------------------------------------------------

葬式の時、あなた悲劇を一手に背負いながらも気丈に振る舞うという女優を演じきった。

仏壇のお花も四十九日法要もご香典も誰かが見てる前では完璧に良い娘を演じきった。

でも、本当に大事なことはそういうことかしら?

本当に大切なことっていうのは、生きているうちにしないと意味がないのよ。

生きているうちにいっぱい会って、いっぱい話して(ボケててもいいから)、いっぱい介助しないと意味がないのよ。

死んでしまってからいくらお花を飾っても、いくら拝んでも、いくらお金を積んでもなんにもならないのよ。

でも、あなたはそのことを後悔しないのよね、たぶん。

自分が生きているうちにこんなことを思うなんて想定外だった。

忘れてはならない大切なものとして兄弟ふたりで共有していると勝手に思っていた。

でも違った。

そのことが残念でならない。

あなたは変わってしまった。

僕は後悔したくなかったから、毎日自分なりに頑張った。

もらった愛情の半分も返せなかったけどね。

それが心残り。

そしてコロナのせいで面会禁止

ジ・エンド。

お母さん、ごめんね。そしてありがとう。また、会えるから...

姉さんへ ~母へのレクイエムに代えて~

母さんは死んでしまった。

コロナ禍に病院でひとりで死んでしまった。

どうせあなたは、はてななんて見てないよね。

からあえてここに書き捨てておきます

病院から様態悪化の連絡があってから一緒に病院へ行ったね。死の二日前だった。

あなたは会いたいというより義務から僕に付いてきたという感じだった。

前々から気になっていたんだ。

いつからあなたの心は母親から遠ざかってしまったのかって。

嫁いでもう50年だもんね。そりゃあ、実家にいたときとは違って当り前だよね。

顔を見ても誰だか分からなくなってしまった母に会ってもしょうがいから......

しょうがなくてもしょうがなくなくても、心配してしまうのが血縁というものじゃないの?

忙しくてもつい気になって会いたくなるのが身内というものじゃないの?

認知症になる前はあんなに仲が良かったのに...

家に来るとあなたと母は大声でしゃべり合い、大声で笑い合ってた。

同じ町内だもの。嫁いでからもいつも実家に来て明るい性格な者同士でそりゃあにぎやかだったよね。

同居の義父母の世話は完璧だったのに。

毎日病院へ行って本当の親子みたいに尽くしてた姿が脳裏にある。

でも、あなたは実母の世話は1年に2~3日でも多い方だった。

それも僕が頼んだ時だけ仕方なくという感じで。

実母の世話の優先順位がかなり下の方にあるのに気づいた時はショックだったのを覚えている。

何回も見損なったものだ。

そして見損なうたびにあなたとの心の距離は離れて行ってしまった。

取り返しのつかないくらいに。

あなたは変わってしまった。

人間は変わっていくものなのかもしれない。

でも、変わってはいけないもの、忘れてはいけないものがあると思うんだ。

人間は変わっていくものなのかもしれない。

でも、いい方向に変わりたいよね。

僕にとっての母は、自分の次に大切な人だった。

あなたにとっての母は、おそらく7番目か8番目に大切な人だったんだろうとは思う。

死を前にした母に対面するとき思ったんだ。

同じ温度差の人と一緒に対面しないとしらけると。

あなたは、衰弱してしまった母を見て、よそのおばさんでも見るようによそよそしかった。

僕は抱きしめて号泣したいくらいだったのに。

そして、いよいよ危篤となったときあなた電話に出なかった。

父の時もそうだったね。

そりゃあ、深夜にスマホで起こされて病院へ駆けつけるなんてしんどいさ。

でも、普通、親の危篤に備えて枕元にスマホ置いとかない?

そして電話があったら飛び起きて駆けつけない?

僕は、深夜、ひとりで母親の死と対面した。

父の時もそうだった。

(どうしてひとりかって?)

-----------------------------------------------------------------------------

ゲイからはいない。

姉は僕がゲイなのを知っている。

(親にもカミングアウトしたけど、なんかイマイチ理解できなくて困惑した。大正まれだもんな。でも姉の世代なら理解できていると思ってたけど違った。

今後、あなた結婚するかもしれないからとか訳のわからないことを言っていたね)

そして僕が母を一番大切な人だと思っているのも知っていると思う。

長女が死に、長男が死に、末っ子次男として生まれ田舎農家の跡取りとして大事に育てられたのにゲイ結婚できないという悪夢のような現実

なんという場違い自分。なんという罰ゲーム人生

こんなことなら生まれて来なければ良かったんだ。

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葬式の時、あなた悲劇を一手に背負いながらも気丈に振る舞うという女優を演じきった。

仏壇のお花も四十九日法要もご香典も誰かが見てる前では完璧に良い娘を演じきった。

でも、本当に大事なことはそういうことかしら?

本当に大切なことっていうのは、生きているうちにしないと意味がないのよ。

生きているうちにいっぱい会って、いっぱい話して(ボケててもいいから)、いっぱい介助しないと意味がないのよ。

死んでしまってからいくらお花を飾っても、いくら拝んでも、いくらお金を積んでもなんにもならないのよ。

でも、あなたはそのことを後悔しないのよね、たぶん。

自分が生きているうちにこんなことを思うなんて想定外だった。

忘れてはならない大切なものとして兄弟ふたりで共有していると勝手に思っていた。

でも違った。

そのことが残念でならない。

あなたは変わってしまった。

僕は後悔したくなかったから、毎日自分なりに頑張った。

もらった愛情の半分も返せなかったけどね。

それが心残り。

そしてコロナのせいで面会禁止

ジ・エンド。

お母さん、ごめんね。そしてありがとう。また、会えるから...

2022-01-25

父の納骨をした時に起こった奇妙な出来事

先週末、父親の納骨をしてきた。雪が続いたので天候を心配していたが、幸い晴れて、少し暖かく感じるくらいだった。

お寺の講堂で法要をした後、ご住職と俺たち家族は骨壷を持ってお墓へ歩いていった。骨壷は意外と軽かったが、少し雪が残っているため落とさないよう慎重に歩いた。

お墓に着き、ご住職がお経をあげ始めた。するとその時、あれだけ晴れていたのに急に天気が悪くなり、雨が降り始めた。しか結構豪雨だ。俺は慌てて折りたたみ傘を出してご住職に傘をさした。妻も母も折りたたみ傘を持っていたため各自傘をさした。

「急に雨が降るなんて…」

俺がそうこぼすと、ご住職はこう尋ねた。

「お父様は頑固な人だったんじゃないですか?」

「!!」

かにその通りだった。肝臓を悪くして医者に止められているのにお酒を飲み、肺がんになっているのにタバコを吸っていた。誰が止めても聞かなかった。今まさに、父親はお墓に入るのを嫌がって雨を降らしているのではないか?いやしかし、そんなことがあり得るのか?

雨は止みそうもなく、降り続ける。仕方ないので、傘をさしながらお経を唱えてもらった。

そしてお墓の蓋を開け、骨壷をそっと入れた。するとどうだろう、さっきまであんなに降っていた雨がさっと止み、晴れ間が見えてきたのだ。

「晴れてきましたね」

俺がそう言うと、

「きっとお墓の中に入ったので、ホッとされたのでしょう」

とご住職は言った。

いやいや、まさか、そんなことあるのか?俺はあまり信心深い方ではないし、お経も納骨も儀式的なものだと思っていた。しかし確かに納骨直前に雨が降り、納骨すると雨が止んだ。ご住職も父が頑固なことを言い当てた。それらが全て偶然であると片付けることもできる。しかしこの一連の出来事によって、そういう世界もあるのではないかと少し感じた。

今まで俺を育ててくれた父。そして闘病生活に苦しんだ父。本当に大変だったと思う。ありがとう。今後はゆっくりあの世で休んでもらいたい。

2021-11-04

人が死ぬ法要連チャンで続いて辛い

通夜告別式初七日四十九日一周忌三回忌→七回忌→十三回忌→… となる。

俺は仏教徒じゃないし、俺のときは何もしなくていいから、参加しなくていいかなぁ。時間も労力も金も飛んでいくよ。

2021-10-18

anond:20211017211035

正本堂解体の話は決定的な亀裂の後、破門してからだよ。

個人崇拝推し進めて僧侶に盾突いて扇動してたら破門されるのは当然なんだよなぁ。

僧侶信仰の内容を500年後1000年後に伝えていくのが使命だし、その為の仏教って概念に対する人身御供な所あるし。

在家の一個人がどれだけ教学に秀でてても、僧侶より偉いんだなんてやり始めたら、信仰が歪められちゃうからね。

以下wiki

大石寺第67世日顕の代、2000年4月に着工し、2002年10月に完成し落慶法要が行われた。 この場所には、かつては創価学会寄進(御供養)により建設された正本堂1972年完成)が建っていたが、

創価学会破門1991年)されたことを契機として、同会員が日蓮正宗信徒資格喪失1997年)した翌年の1998年に、本門戒壇之大御本尊を奉安殿に遷座した上で正本堂解体し、跡地に建設した建物である

2021-08-04

帰省を止めたいなら、お寺にお盆中止の要請を出してほしい

住職ワクチン済)「お盆法要しましょう(1年分たまった分も一緒に)!」

現役世代おれ(ワクチン未)「え、、、」

高齢者ワクチン済)「私らはもう大丈夫からあんた達も帰ってきなさい!」

現役世代おれ(ワクチン未)「え、、、」

なにも帰省したくてしてるんじゃないのよ。

2021-07-04

anond:20210704005115

冠婚葬祭育児重要から

自己紹介で開口一番に伝えられる環境はとても良いと思う

葬儀のあとは初七日法要で大忙しになる

会社の人も手伝いに駆り出されることもある

2021-05-01

父が亡くなった。84歳だった。

ものが食べられなくなり、胃瘻延命措置も断ったので、老衰といってもいいと思う。

慌ただしいながら滞りなく葬儀が過ぎ、四十九日法要も終わり、私の手元には父の腕時計がある。

私が初任給で買ってプレゼントした国産腕時計。値段は1万円ほど。

もう30年も前の話だ。

海が好きで、よく日に焼けた腕にいつもはめていた銀色時計

よくお酒を飲んでは、「これは○○にもらったやつで、水に濡らそうがびくともしない、電池も変えることもなくいつまでもちゃんと動いているいい時計だ」(単に防水でソーラーだっただけだが)

と自慢げに満足そうに笑っていた。

形見としてもらった時はもう動いていなくて寂しかったのだが、陽にあててしばらくするとまた、動き出した。

なんだ。まだ動くんだ。

国産質実剛健な性能に驚き称賛すると同時に、なんだか父が笑っている気がした。

「そらぁ○○からもらった時計からな。いい時計だろう」と。

父がそばにいる気がして、これからは私がその時計を使い続けようと思う。

2021-01-14

anond:20210114171220

聞きかじった話だからあやふやだけど、仏教目的ひとつが「見送った人の心を整える」だったような。

自分も去年家族を見送った(因みに家族葬)けど、心が千々に乱れそうになる度にその事を思い出して正気に戻れた。

上のお坊様増田投稿を読んで改めて自分も救われた。

投稿してくれて元増田とお坊様増田、有難うございます

そして増田は心を整えるためのお葬式がかえって傷を深めるのは本末転倒なので

とにかく温かくして、美味しいものを食べて、ご両親共々少しでも元気になってほしい。

増田判断は正しかったと思う。親戚一同感染リスクを避けられて本当によかった。

そもそもコロナで亡くなった人を棺すら開けられないまま直葬したら信心足りないなんて理屈おかしいんだし。

でもどうしても気になるなら、四十九日法要の報告がてら親戚に直筆の手紙を書くのはおすすめ

弔意に感謝して、でもお葬式平時のように出来なくて申し訳なかったと。

年寄りには直筆の手紙が一番効く。

そこまでして尚文句言う親戚はもうしょうがない。

とにかくお疲れ様でした。

一日も早く増田とご両親が心穏やかに過ごせるようになりますように。

2020-11-10

葬儀コロナ田舎の老人と

先日祖母が亡くなった。

祖母昭和一桁生まれ地方本家長男の嫁で子供が7人ということで、一族ドンと言うかゴットマザーとでも言うような人だった。

本来なら盛大な葬儀になるはずだったのだが、コロナ禍と言うことで親族のみの簡素葬儀に変更になった。

で、祖母長男である父の意向で、規模が小さいのがいい機会だからと、嫡孫にあたる俺が冠婚葬祭勉強を兼ねて取り仕切ってみろと言う事になり、色々と準備する事になったのだが、思う事が多々あったのでここに書き出してみる。

その1 コロナ対策ガン無視の老人たち

新型コロナの第三波が警戒されている昨今だが、老人連中は明らかにビビらなくなってきている。そもそも、「親族だけの簡素な式」と言う事で、俺は参列者は多くても15名程度、せいぜいが祖母の存命の兄弟子供、近くに住んでいる孫連中くらいと考えていたのだが、なんやかんやのしがらみで親戚筋を一通り呼ぶ事になり、結局参列者が50人を超えてしまった。不特定多数不要•不急の集まりを避けると言うコロナ対策観点で見ると非常にまずい。

まぁなんと言うか、年配層にとってはコロナ対策で密を避けるよりも、「この人は葬儀に呼ばれたのにウチは葬儀に呼ばれなかった」と言う不満の声が出ないことの方が大事価値観のようなのだ。若輩者の俺がとやかく口を挟めることではなかったのでやむなく従ったのだが、ぶっちゃけこんなに集まらない方が良かったと思っている。

また、「コロナ禍につき、親族以外の参列はご遠慮いただく」と事前に宣言していたにもかかわらず、アポなしで押しかける近隣住民が多数いたのも辛かった。この地方でのコロナ患者数は県全体で見てもそう多くはないといえ、葬儀ノコノコやって来た彼らはノーマスクで故人の話題をダシに談笑しており、日頃会社や自宅でコロナ対策に気を使っている身からするとなかなかにキツいものがあった。

極め付けはコロナ対策が非常に甘い寺院入り口アルコールが置いてあるだけで、検温等は一切無し。法要は寺の御堂を締め切って行われた。(11月になり気温が下がっていると言うのもあるだろうが。)お経をあげる4人のお坊さんはノーマスクコロナ重症化しやす高齢者も多数いたと言うのにだ。参列者にキャリアがいれば葬式クラスター待った無しである。ちなみに遠方から来ている親戚は、東京横浜名古屋大阪神戸大都市在住の者も多かったので、いまだ内心冷や冷やしている。(もっとも、医療関連の仕事についている親戚はさすがに出席を辞退していたのが。)

その2 不透明なお寺や葬儀屋の料金体系

俺が葬儀を取り仕切ると言う事で、お寺や葬儀屋との交渉にあたったのだが、まあ料金体系の不透明なこと。

まず、お寺は見積もりの明細書や領収書は一切出さない。ざっくりと戒名料が20万で、法要料が1周忌までセットで100万、あとは思し召しでいくら寺院修繕費として寄付をいただければと言うことだった。相場が分からないので、父親祖父葬儀の記録を見せてもらうと諸々含めて80万弱と言うことだった。父曰く、お前は若年だから住職になめられてふっかけられているのだろうとの事。後ほど父が改めて相談に出向いたところ、トータルで85万と言う事で収まり祖父の時と近い金額になったのだが金額根拠不明で非常にモニョった。

お寺以上に不透明なのが葬儀屋だった。明らかに使いまわしであろう祭壇の設置費用が最低30万とか、花代が一房2万とか、どう考えても原価の何倍もふっかけている。さらに、祖父葬儀の時にはなかった故人の思い出ムービー10万かかったり(必須オプションで外せない、最近流行りらしくみんなやってますよとのこと)、なんというか、1日2日の短期間でプランニングしないといけない弱みにつけ込んで取れるだけむしり取ってやろうという気が満々で非常に腹が立った。

まり理不尽なんで葬儀が終わった後に父に愚痴をこぼしたところ、祖母の代は同世代の親類に気を回す必要があるからやむを得ないが、俺が死ぬときにはAmazonお坊さん便で略式の葬儀で良いぞといわれた。準備中はいろいろうるさいと思っていた父も考えていたのだと分かって、父の柔軟さに不意に感動してしまった。

その3 厄介な老人たちの要求について

葬儀を取り仕切って一番モニョったのがここかもしれない。六曜を気にして、この日は友引から避けろとか、縁起か何か知らないが藁を燃やす手筈を整えろとかよくわからない注文が多い。さら高齢のため、葬儀場に車椅子スペースを設けてバリアフリー対応をしてくれだとか、法要の後の食事は歯が弱くても食べれるものしろとか要求が多く、ただでさえ忙しい葬儀仕事を増やしてくれる。そのくせ準備はほぼほぼ手伝ってくれない。お願いだから自力葬儀会場に来れない老人はコロナ対策に家でじっとしていてくれ。

そんなわけで

今回の葬儀を取り仕切るまではなんだかんだで冠婚葬祭日本の伝統文化だし、非合理的な部分があっても年配の人の考えは尊重しないといけないなと思ってたのだけど、冠婚葬祭文化マジカスじゃね?くらいに180°考えが変わった。

まあ、祖母兄弟もあと10年もしたら皆鬼籍に入るだろうから、その後に葬儀を取り仕切る機会が有れば、父の勧め通りに迷わずAmazonお坊さん便で、略式の葬儀にするだろうなとは思う。何だかんだ思うことはいろいろあったが、良い社会勉強の機会であった。

2020-11-02

全国の小姑の皆さんへ

「遠くの親戚ほど文句を言う」(だったかな)とはよく言ったものですが

金もさない手も貸さないのに要らぬ口ばかり出すのは本当にやめましょうね

あなた方が放り出した親の介護やら寺関連の諸々やら親戚付き合いやらですが

文句があるならご自分がやればいいんですよ

だいたい挨拶してもシカト、たまに口を開けば嫌味しか言わないような人に

人の道なんか諭されたくないんですよ

今日義母四十九日法要

お寺に早く着き過ぎて時間が余ったので、墓地の隣にある公園を夫と散策した

夫も何十年かぶりだそうで「だいぶ変わっちゃったなー」などと言いながらも懐かしそう

公園中央にある小さな丘は、子供の頃ママチャリで駆け下りた思い出深い場所だそうだが

夫は現在進行性の難病で歩行が日々困難になりつつあって「登ってみたいけど無理かなぁ」と寂しそう

「せっかく来たし登ろうよ!」と励まし、えっちらおっちら2人で何とか登り切った!

から景色はだいぶ変わってしまったそうだけれど、この眺めはしっかり脳に焼き付けようと思った

次来た時にはもうこの高いところから景色は望めないかも知れないか

天気もよくて、いい思い出になったなぁ…

と、とてもいい気分だったのに、小姑のアレコレで台無しだよ!

明らかに具合悪そうな夫に労りの言葉をかけるでもなく

供物が安物だの誰それ呼ばないとはどういうことだ(コロナで寺から最小限でと言われていた)だのグヂグヂと…

こっちは夫の病気への対応精神的にも経済的にもいっぱいいっぱいなんだよ!!!!!

思い出したら腹立って寝られなくなってきたのでここに書き殴って義母の魂と共に昇華する

読んでくれて有難う

そして心優しき小姑の皆さん、主語デカくてごめんなさい

2020-10-29

勝手死ぬな」「勝手に生きるな」と勝手に言われるし勝手に言う

要は自分が何を言いたいかというと健康診断検査つらい」なんですが。

それについていろいろと考察した長い文章が下に続いているだけ。

社会

日本人寿命が長いのって、国民皆保険があるからお金負担が安いことと、会社員が35歳以降に人間ドックを毎年受けることで早期発見治療しているかなのだろうか?人類医療で生かされてる(活かされてる)んだよな、健康的な意味でも、寿命的な意味でも。そりゃあそうだ。予防医学だよな。歯医者の定期健診を受ける、とか。

でも、トシくって様々な検査ちょっと辛かったりするのを目の当たりにすると、

検査をしたり医療を受けたりしてまでも生き永らえたいというモチベーションが、果たして自分にはあるのだろうか?」

という疑問が湧いてきてしまうのだよな・・・

積極的安楽死か、消極的安楽死か、なんか、そういうのが脳裏によぎる。

会社員でいる以上は、自分労働リソースとして供出しているのだから、その「労働リソースとして将来的にどのくらい使えるか」ということが会社的には気になるわけだし、あと法律で決まってるのかな?その辺の理由で、会社から言われたとおり健康診断を受けなきゃならない。「直せばまだ労力として使えるのならちゃんと直せ」というのが、営利企業や国力といった視点から論理と言えるだろう。

なんか、自分の体は自分だけのものじゃない」という感覚がする。「公僕」、会社社会の共有物かのような感じがする。

それは良いことなのか、悪いことなのか。

あ、検査がつらいんで受けません。安楽死しまーす。っていう自分の体に自己決定権利はないのかな。それ人道的にどうなのかな。

その「自分の体が自分のものじゃない」の最たるものが、家族意向により、胃ろうで生かされている人間でしょう。倫理的にどうなのでしょうか。かくいう私の親戚にもいます。こわいので面会していないです。いまはコロナで面会もままならないですが。

医学は、人為的に死をコントロールできる術です。進歩すればするほどコントローラブルな範囲が広がる。いずれは不老不死も実現するのかも知れない。

そのコントローラーを渡されて握るのは、本人であるべきなのか、他人であるべきなのか。自分というシステムroot権限は誰が持つのか。


えらい

それにしても、35歳くらいを超えてる会社員の全員がこういう検査受けてる、ってすごくないですか?

人によっては人間ドックを毎年サボってる常習犯が居たりして、まあ気持ちはわかる・・・ってなっちゃう。

医療体制がすごいのもあるし、検査にみんな耐えてるのえらいですよね。

医療進歩して検査負担を減らす改善継続的に行われていて、胃カメラを口から入れるとき不快感を減らすためにイカリングみたいな白い輪っかをくわえると、かなりラクになるんですよね。あれ。ノーベル平和賞でしょ。10年前に受けた時あんなのなかったし肩に注射麻酔してたんですけど、最近はのどスプレー麻酔になったし1時間麻酔切れるし、カメラ自体も細くなった。昔の胃カメラトラウマになってる人もいると思いますけど、いまだいぶ負担減ってるんで、バリウム飲むよりもラクじゃないかと思いますよ。


加齢と経済消費傾向

若い頃ってさ、なんか、さまざまな「リソース」というもの無限であるかのように錯覚していた。

言い方を変えれば「有限なリソース」という概念のものが頭の中になかったのかも知れない。

健康時間も、仕事にかけられる労力も、無限だと思ってたので、スケジュールも何もなくがむしゃらに働いていたような。

でも社会に出て、あ、いろんなものって有限なんだなって気づいて。そのリソース管理がすごく難しいことに気づいていった。

そして30を超えると、「自分健康寿命」というリソースの有限さをひしひしと感じるようになる。

若いころはモノを買うときお金の使い方がコスパばっかり考えていたように思う。安物買いの銭失いだ。

それはそれで「将来への投資」の考えがなさすぎる、貧者の思想だとは思うけど。お金に対してそういう貧しい考え方で育ってしまったのだから仕方がない。トシとっていってお金の使い方が少しはマシになったし、服にかけるお金がふえたりした。

トシを取ると自分寿命が頭の隅にチラつくので、コスパが多少悪くてもペイするように意識が変わっていっていると思う。

「いまは時期が悪い」とか言ってチャンスを見送っているうちに自分寿命のほうがなくなっていくからね。

たとえ時期が多少悪くても、じゃあいまやろう。お金をポンと出してやったぜ。と。

経済の話でいうところの「機会損失」って、商品在庫があるとか、買える機会とか、開催期間が限定されたイベントとか、そういう「外的な機会」の損失するかどうかを焦点にしがちに見えるけども、それだけじゃないんだな。外的機会がある間に、かつ、自分健康もなければならない。健康でなければ商品を購入して満足することができないから。

健康が不足していて機会損失も大いにあり得るわけです。「大切な推しイベントなのに風邪ひいていけなくなった」とか。

これっていうのは「推しは推せるときに推せ」「孝行したいときに親はいない」と通じるものがある。

から商売するのって、「ちょっと健康不安が出てきて、かつ、そこそこお金持ってる人」を狙うのが効率よさそうですよね。健康商品じゃなくても。

ゲスいですが。足元見てる。

そういうターゲッティングして商売してる人間自体も、いずれはその該当者になるんですよ。

自己決定

「おれは長生きしないんだ」つって、暴飲暴食してる人、ラク死ねると思うなよ。苦しむぞ。みたいな脅しツイートを見かけたりしますけど、まあ確かにそうなんですけど、それも安楽死があれば解決するんですよね。

日本における安楽死議論での反対派って「イジメみたいに同調圧力によって安楽死自己決定を促されてしま危惧ドグマにしてますけど、

すでに健康診断圧力によってつらい検査を受けさせられてる」現状があるので、たしかにそうかも。そうなるだろうなあとは思われます

自殺と他殺」という対比の概念がありますが、それと同じように「自生と他生」とでもいいましょうか。

どう転んでも、自分の体の健康維持や死についての決定権は、自分けが独占的・排他的に所有してはいない(できない)ようですね・・・。やはり自分の体は公僕性、公共物性を帯びているようです。それは国民皆保険であるから、国としては保険治療コストの高い病気をなるべく支払わずに済ませたいので、治療コストの高い病気にかかるリスクを下げておくための検査コストを支払っておく(強制的に受けさせる)ほうがトータルでコストが安い、という計算なのでしょうか。

他者圧力によって胃ろうで生かされてしまうようなことがある社会と、

他者圧力によって安楽死で死なされてしまうことがある社会

どっちがマシなんですかね?

同調圧力存在すること自体は不変なんですね。


勝手死ぬな」

勝手に生きるな」

勝手に言われるし、勝手に言う。

介錯してラクにさせてあげたほうがいいんじゃない?とも思うし、

もっと生きたかったんじゃない?とも思える。

人為的に死をコントロールできてしまうということは、サバイバーズ・ギルトってやつが生まれる。生存者の罪悪感。

面倒なことにならないように、自分の生死を他者人為的コントロール下に置かれることが無いようにしたいですね。

やっぱ自分コントローラ握って健康診断うけるかどうか決めたり、コロっと安楽死理想なんですよ。でもそれって一貫性としては、このコロナのご時世で「公衆衛生を省みない自分勝手自由な行動に出ることの許容」をも意味してしまうのですが。感染症や、医療保険の有無、といった社会的な連帯関係のものは物議をかもしますよね。そりゃ。

タイマーをセットできればいいのにね。デスノートみたいに。

自分死ぬときVR-HMDかぶって、なんか、すごい音と映像で逝きたい。

臨床宗教師仕事の中に「VR機材の管理」も含まれてくると思うんですよね、今後は。「テクノ法要」もありますし。映像や音声のクリエイターも、その走馬灯のような「最期映像」をクリエイトする日が来るわけですよ。

からVR業界から法曹界医療関係転職するようなキャリアパスもあるでしょうね今後は。

塞翁が馬

みとりびと、おくりびと

2020-10-08

anond:20201008002355

叔母さんはお寺に払い込まねばならないお墓管理料が納骨されている数に比例して増えるので経済的負担が増えるのはつらいとおもったのでは。

実際ムスコがツルオカにいったあとは三周忌くらいからあとは面倒になってだれも祀らなくなる可能性も考えられる。

 

ここから個人的意見だが仏教大変だな。田舎土地があまっているからってそんな墓ばっかり増やしてないで集約すりゃいいのに。

都市部のお寺は永代供養の納骨堂として鉄骨ビル立ててるけどそのうちまた建て替えるのではないかなあ。

https://www.e-butsuji.jp/butsuji3-1.html

年忌法要は、年回法要ともいい、一般法事と呼ばれているものです。

亡くなった翌年が一周忌、その翌年の2年後が三回忌です。三回忌からは亡くなった年も含めて数え、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と追善供養法要を営みます

法事ってお墓参りパーティみたいなものから、墓の近くにすんでる人じゃないと開催準備できないよな

2020-09-23

隔離生活

アメリカから身内の不幸で日本に戻ってきた。葬儀は無理でも四十九日くらいは参列したかったので。今は都内隔離生活中。感染可能性が低くなるまで直接実家に向かうのは避けた。

時節と理由から日本の友人にも報告せず帰国したので、電話などで話せるのが身内しかいないのだが、これが結構精神的に苦しい。身内との会話は法要相続に関する手続きなど事務的なことばかり。あーアホな話したい。ゲームとか本の話とかさ。人が亡くなったとはいえ、ずっと悲しんでばかりもいられない。そうするには体力も気力も足りないんだ。悲しみに浸るのは体力を使うんだとはじめて知った。薄情なのはわかってる。でも軽い話もしたい。

2020-06-23

私と信仰

深夜に変なスピリチュアル広告読んでゲラゲラ笑った後に、ちょっと思うことがあったから思いついたから書いただけなんだ。

乱雑だし、プロット作りも推敲も何もしていない。ただずっと抱えていたものを吐き出す場が欲しかっただけなので、とりわけ目立つものもない。

これを書いている私は、いま地方大で歴史を学ぶ大学院生だ。ストレート大学院まで上がった位の年齢だと思ってほしい。

私の専門は歴史だが、そこから興味が広がって宗教や、それに関連する文化の話も好きだ。本来専門ではないけれど、色々本を読んでみたりしている。

そこで思うことがあった。宗教信仰は本当に人の暮らしに密接に関わっていると実感した。そして、勉強を続けたからこそ気付く事や、それまで抱えていた自分気持ちに整理をつけることができた。

この記事はそんな私の20ちょっと人生で触れてきた宗教に関する思い出の覚書だ。

私の家の目の前には、カトリック教会があって、附属幼稚園教会のすぐ隣にある。ミッション系というやつだろう。

からすぐということもあって、私と妹はそこの幼稚園に通っていた。

幼稚園に来たら、シスターたちに挨拶をし、玄関マリア像の前で十字を切る。朝礼やお昼のお弁当を食べる前には「主の祈り(天におられる私たちの父よ~のやつだ)」を唱えたし、クリスマスの時期になれば、年長クラスの子たちがキリストの聖誕劇をやるために練習をしていた。

ああそう、あとメダイちゃんともらっていた。確か聖母子像か、聖母マリアのものだったはずだが、年に数回会うおじいちゃん(どう考えても教会神父だ。園長って呼んでいたけど)から新年度になるたびに名札につけてもらっていた。

そんな幼稚園キリスト教に触れる生活を送っていた幼少期。年長クラスクリスマスに聖誕劇をしていたけど、年中クラスや年少クラだって讃美歌を歌ったり、合奏をしていたので、どこの幼稚園もこういう歌を覚えているものだと思っていた。

卒園式のお祝いには、聖書を分かりやすくまとめた絵本をもらった。絵本といっても結構文字が書いてあるし、ハードカバーの大型絵本だった。聖書の教えも何度か聞いていたはずだが、私がきちんと聖書物語に触れたのはあの卒園式の日だったに違いない。

既に本の虫だった私は、それなりに漢字も読める方の子どもだった。だからその絵本も気になって、天地創造から長い時間をかけて読み通した。

当時6歳の私は、意味はあまり分かっていなかったけど、ところどころの挿絵インパクトは強烈だった。

洪水翻弄されるノアの方舟モーセが海を割るシーン、キリストが茨の冠を被せられ、鞭うたれるシーン。幼い私は、もうそれはそれはびっくりしたのだ。

それから数年経って、小学校卒業して中二病が芽生えるような年になった頃、私はイキってまた聖書に関心を持ってみた。

西洋美術が分かるやつはかっこいいし、その元ネタが分かるとなおかっこいいと思っていた。恥ずかしい話だが。

そこでもう一度聖書ストーリー絵本(今度は妹がもらってきたやつだ。まったく同じ絵本だが)を読んでおさらいし、やっぱり意味理解しないままミルトンの『失楽園』とかを読んでいた。

この後、ぼんやり興味を薄く抱き続けたまま、今一度大学院に入ってからちゃん勉強をしようと思い、現在に至っている。世界史とかは大事な要素だしね。

こうしてみると私はクリスチャンのように見えるのだが、家には仏壇があるし、今の興味の原点がある幼稚園時代にはその仏壇で「まんまんちゃんあん(関西仏壇やお墓でお参りをするときに言う幼児語)」をしていた。祖母は今でも毎朝、犬の散歩から帰ると仏壇の前でお経を上げる。

父方の祖母と同居しているのだが、祖父は私が生まれる1年ほど前に亡くなっている。祖母は幼いころの私の面倒を、共働きの両親に代わって見てくれていたから、幼稚園から帰ると「おじいちゃんにまんまんちゃんあんして、ただいま言うんやで」と言われるがまま、お鈴を叩いて手を合わせていた。今でも何か報告(たとえば大学に受かった時や、卒業認定をされた時)があるとき仏壇の前に座ることがある。

お盆お彼岸には、お墓参りはできるだけしようと思っているし、昨年京都に行ったときは私の家の宗派本山のお寺にもお参りした。これは本当になんとなくだったけれど、行ってよかったなとは思っている。

から私は、今のところは仏教徒で、ごく一般的日本人宗教なのだけど、困ったことに、私はとある宗教3世にあたる血筋でもある。

名前を出すのは少しはばかられるので婉曲的な表現をするが、先述のように私の家は仏壇のある仏教徒の家だ。宗派を言えば浄土真宗

ただ母方は宗派が違い、日蓮宗なのだ。分かりやすく言えば父方の祖母は「南無阿弥陀仏」と唱えるけれど、母方の祖母は「南無妙法蓮華経」と唱える。

この時点で察しの良い方はお分かりかもしれない。母方の祖母はいわゆる「学会員」だ。

から、母方の祖母の家に遊びに行くと某新聞が置いてあったし、本棚を見れば某氏著作が置いてあった。

自身学会員ではない(嫁いでいるし)し、母の姉夫婦もそうでないのは知っている。私自身会員ではない。

から3世を名乗る立場ではないのだが、私は学会員としての祖母の姿を見て、ああいった宗教に対する疑問を抱くようになった。

実際あの学会について「おや?」と思ったのは、私を可愛がっていた母方の祖父が亡くなった数年後だった。

祖父が亡くなった後、葬儀四十九日法要に関しては違和感を感じることはなかった。後になり、伯父がかなり骨を折ったことを知ったのだが。

違和感をはっきりと感じたのは母方の伯母夫婦、大叔母、そして私たち家族祖母が参加した七回忌の法要だ。

いわゆる法事から自分認識では「お坊さんを呼んで、お経を読んでもらって、そのあと親族食事をする」というものだった。事実父方の祖父法事はお坊さんを呼んでいる。

だが、母方の祖父の七回忌法要は様子が違った。

まず、お坊さんを呼んでいなかったのだ。黒スーツに黒いネクタイを締めた見知らぬ男性(見た感じ祖母とそれほど歳は変わらない人だった)が居て、私の知らない親戚かと思っていた。最初は。

いつになったらお坊さんが来るのだろうと思ったら、法事が始まるから仏壇の部屋に来いと言われた。言われるがまま妹の隣に座り、数珠を持っているとその男性が仏壇の前に座って、読経を始めた。

「は?」と思った。なんでこのオッサンがお経読んでるねん。お坊さん来られへんかったん?違和感しかなかった。

どうやら件の学会ではその地区で一番偉い学会員法要読経をするということを知ったのは、さらそれから2年ほど経った頃だ。

ただ法事の時に、伯父が「僕はちゃんとした日蓮宗のお寺に骨を埋めてもらうように言っている」と若干怒気をはらんだ口調で言っていた理由が、理解できた。

母方の伯母夫婦とは、その七回忌の法要以降会っていない。いや、何度か伯母とは会ったが、伯父とはそれ以来もう何年も会っていない。

昔はよく祖母の家にお盆正月の折に触れて来てくれていたのだけど、仕事関係で来れない、と言うのが聞いている理由だ。でも、多分彼はきっと、学会員である祖母宅周辺の人に会いたくないのだろう。少しだけ言い合いになっていたし、伯父が祖父葬儀に口出ししたことで何かがあったのだろう。

同時に、祖母が熱心に読経を一日に何度も行う理由祖母の家にあった新聞書籍がなんだったか、芋づる式に分かってちょっとだけ嫌気がさした。

祖母よりも熱心だったのは大叔母(祖父の姉)で、会合(というのがあるらしいが、この辺りは詳しく知らない)にも熱心に参加していたみたいだ。

別にこの記事批判をしたいわけじゃない。けれど、どうしても伯父の言葉がずっと心に引っかかっているのだ。

「お義父さんの事も、ちゃんとお弔いしたいのにそれが出来ないのはほんまに悔しい」という伯父の言葉が。

いま色々な宗教の事を学び、宗教社会に与える影響の強さを知った上で、私は伯父の言葉同意したい。

信仰自由だ。それはこの日本で認められた権利だ。けれど、大好きだった祖父のことを、あんジジイの安い読経で弔いたくはないのだ。

そしてああ言った新興宗教団体が、親族との軋轢を産んでいることを伯母夫婦の一件で身に染みて実感したのだ。

母方の祖母我が家の仲はいい。祖母はい一人暮らしだし、私も長生きしてほしいと思っている。

けど、少しだけわがままを言うなら学会と縁は切ってほしいかな、と思わなくはない。

少し愚痴っぽくなったが、最後にその新興宗教がらみの話をちょっとだけ聞いてほしい。

大学進学以降そうした新興宗教がらみのトラブルエピソードは少なからずあると知った。友人も巻き込まれたことがあったらしい。

大学の最寄駅前には某証人人達が冊子を配るために立っているし、家にも何回かチラシがポスティングされたり、勧誘そもそも来たりした。迷惑から帰れ、と総スルーかましたが。

去年なんか、右翼おっさん一般人に絡んで暴行しかけた事件証言を、某会の勧誘をしていた女性二人がしていて「情報量が多い!」と内心ツッコミを入れた現場を目撃した。

彼らも、それを信仰するのは自由だけど、私のように嫌悪するまでもないがもやを抱えた人間を周りに産んでいるのではないかな、と時折思わなくない。

スピリチュアル系のトンデモ科学に関するツイートTwitterなどでも話題になりがちだが、そういうのを見ても「ああ、なんというか、かわいそうだな」と思ってしまう。

思ってしまうだけで、それを思いっきネタにして笑い飛ばしているあたり、私はかなり嫌な人物だなと自戒しなくもないが。

何度も言うが、批判する意図はない。あなたがもしここまでに挙げた何かの信者であっても、私は知らない。

ただ、ひとりの学生が格好をつけて、自分は何を信仰しているのだろうな、と思い返すための文章から、大した感想も求めていないのだ。

ここまで読んでくれた奇特な方には、こんな感じで生活を送ってきた学生が一人居るというのを知ってもらえれば幸いだ。

2020-06-17

anond:20200617185732

2005.03.13 Sunday

いかりや長介さんの一周忌

2004年3月に死去したザ・ドリフターズリーダー俳優いかりや長介さん(享年72)の一周忌法要いかりや長介さんを偲ぶ会」が12日、都内ホテルで行われ、生前親交のあった芸能人、知人、親族ら約700人が出席。故人を偲(しの)んだ。

桜の花で飾られた祭壇の遺影は、葬儀の時と同じ99年のテレビCMウッドベースを奏でる姿を撮ったもの。「1年って本当に早いと思います。でも、長さんが向こうに行ったことが信じられない」。発起人を代表した加藤茶あいつのように、ドリフターズメンバーは一様に「まだ、どこかで生きている気がする」と口にした。

この日は4人のメンバーがそろって献花。「まだまだドリフターズ解散しません。4人でドリフターズコントをずーっと続けていきたい。バカを貫いていきたい」(加藤)と“ドリフ続行”を、天国リーダーに誓っていた。

2020-03-19

遺書赤木氏の妻がこのタイミングで公開した理由

// 文春の記事の要約

こうして昌子さんの中で「真相を知るには裁判しかない」という気持ちが芽生えていった。

夫の死には佐川氏も相当の責任があるだろう。だから裁判を起こすとしたら佐川氏も訴えたい。そうすれば法廷佐川氏に問い質すことができるかもしれない。

通常、この手の事件では「国家公務員行為は国が責任を負う」という国家賠償法規定に基づき、国だけを相手裁判を起こす。

だがこのケースは、到底通常の公務とは言えない違法改ざん行為をさせた責任を問うのだ。公務と言えないなら個人責任だろう。

しか佐川氏は当然、謝罪説明を行うべきだが、遺族の求めに全く応じていない。これはまさに佐川個人責任だ。

昌子さんは弁護士相談を重ね、佐川個人被告に加えることにした。

 昌子さんとしては、お金のためではなく真相究明のための裁判から賠償金はいくらでもいいと考えていた。

しか弁護士によると、安い金額では国が「認諾」と言ってこちらの主張を丸呑みして認めてしまう。

請求額を支払うことで裁判をすぐに終わらせ、それによって遺族側に原因追及をさせないことが狙いだ。

 そうさせないためには、丸呑みできない金額で訴えるしかない。佐川氏と国に対し、総額一億一千万円余の賠償を求めるつもりだ。

 裁判あくま佐川氏を法廷に呼び出し、謝罪を求め、真相を追究するのが目的だ。

訴状の冒頭にも「本件訴訟目的は、第一に、なぜ亡俊夫が本件自殺に追い込まれなければならなかったのか、その原因と経過を明らかにする点にある」と明記されている。

から勝訴して得られた賠償金は、何らかの形で世のため人のために役立てたいと考えている。特に、二度と公文書改ざんなどという不正が起きないようにするために。

 

 事件後の佐川宣寿氏

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