はてなキーワード: 法要とは
先日、父が亡くなった。がんだった。
父の呼吸が止まったのが14時半。来てくれた担当医さんが死亡確認したのが15時半ごろ。家族皆が泣いていた。自分も唇を噛み締めながら我慢して、それでも涙が溢れてくる。
訪問看護をしてくれていた看護師さんがとてもいい人で、自分たちも手伝いながら、髭をそったり着替えさせてくれたりして、父の準備をしてくれた。
家族で湯灌してあげて、最後の見送りすることがとても良い時間になるよ。と、いろいろ教えてくれた。
これまでの看病で疲れているし、親族や知人の対応は母することになるの明らかだったので、葬儀会社とやりとりするだけでもと、喪主をかってでた。
闘病中、なくなる数日前に、◯レマの営業さんが来て、契約とれないと来週クビになると言われ、母が契約したとのこと。
父は元教員だったので、教え子含めてある程度の人数が来ることが予想されたので、駅チカの広い葬儀場が使えるのが良いかと決めたそう。
15年ほど前に祖母がなくなった時には、地元の葬儀会社で、自宅葬だった。
在宅療養していた父がなくなり皆が動転している中、母は最後まで地元の葬儀会社にするか迷っていた。
とりあえず契約してるんだからという理由で、◯レマに電話を掛けた。
担当営業と契約担当者と葬儀場で連携が取れておらず、あちらに掛けて、こちらにかけて、折返し待ちして、とたらい回しされた。
加えて、最初に電話をかけた時点でこの時間で決めますがよろしいですか?と念押しされた。
こちらのことを知ってる営業からなんのコンタクトもないのか?と疑問におもいつつも、下手に時間を掛けても仕方がないので、最短の日にちで申し込みをした。普通なら、死亡後3日後が告別となるのが最短になるのだが、3日後が友引だったため、4日後となった。結果的には、日付が伸びたことで運良く救われることとなった。
それが終わると、葬儀のプランや料金についての説明が始まった。
私達は営業さんから貰った資料を確認しながら、プランの詳細を選んでいくが、一つひとつ決めるたびに、営業が話してた葬儀プランと言ってることが違うやんと言うことがどんどん出てくる。
契約時には、一般的な葬儀費用のように見えるこの内容で、事前予約75万のプランを契約していた。
この契約があれば、全部まかなえます。と営業さんは言っていた。追加のオプションは断れば良いとも。
https://cerema.co.jp/funeral/plan.php
・契約の葬儀プランでは、入り口近くの小さい部屋しか使えず、+10万ださないと、50名規模のホールには対応できません。
・プランで出来ると書かれていた花祭壇は、+10万ださないと、できません。
・病院から自宅までの寝台車費用は入ってるが、自宅から葬儀場への寝台車費用は入っていない。
→自宅で亡くなったため、おかしくないか?と問い詰めたら、じゃあプラン内の費用で対応します。と
・周りに飾る花代が最小16万~。無いと困りますと言われる。親戚から送られる分が合っても、親族一同の分が必須ですと。
・棺桶に掛ける布は燃やすために毎回新しいものが必要です。(+4万)
・湯灌できるけど、郊外の施設まで連れて行く必要があり、家族参加は不可。(+7万)
・骨壷も今のママだと貧相なので、アップしたほうがよいですよ。あと分骨するなら、追加費用(+1万)。
などなど、諸々で、事前の見積もりが180万ほどとなった。通夜の来場も50人と、少なく見込んだ上でだ。
契約書の文面を確認し、クーリングオフできますよね?と問いかけると、厳しい表情。
葬儀のトータル費用は相場からは離れてない。でも、言ってることこれだけ変わるというのはオカシイ。ちゃんと湯灌してもらえるのか?葬儀が滞りなくすすのか?
ただ、もう期日の予約はした、場所も親しい友人には伝えてしまった。今更変えるのも・・・・。悲しみに浸る間もなく、不安なまま夜を過ごす。
枕経をあげに住職さんが来る。母は自分の世代だと、珍しいと言いつつ、なんだかんだ年3回の法要を欠かせず行っている。
なので馴染みのある住職さんだ。
住職さんに、これまでの経緯を相談すると、◯レマの色々黒い噂を教えてくれる。噂についてはあとで詳しく述べる。
住職さんが、馴染みなので連絡してみますね。と地元の葬儀会社をあたってくれるが、友引明けなので、空きがないそう。
帰宅後にも別の葬儀会社を探してくれて、隣の市ならホールの空きがあるよと教えてくれた。
母の不安っぷりと、担当者が不審すぎて信用できない。これはキャンセルするしかない。
キャンセルもとい、クーリングオフすることを示すように電話。証拠として、電話の内容は録音する。
「次の予約が入っているのですが、そちらにお譲りして良いのですか?」何度も念を押される。
こういう引き止め工作が本当に手慣れている。
簡易祭壇の設置費用と、ドライアイス代で3万ほどかかったが、サンクコストとして考えれば安いもの。
営業担当の方が来て、説明してくれる。仏壇屋さんだったが、仏壇買いに来る人が葬儀の文句ばかり言われるので、なんとかせねばと作った会社だそう。
・花代は3万~。独自ルートで花を仕入れているのでその値段で胡蝶蘭も入っている。
・謎オプションはゼロ。分骨、フルーツ、棺の布、白装束。全部追加費用は不要。
・会葬返礼品の価格が、2万円ダウン。
・初七日するなら、会場費5万かかります。自宅ですることもできますよ。と教えてくれる。
見積もりは160万ほど。ただし、親族の花代と、通夜の時の親族の食事費用(2万)も含まれている。
費用は下がって、質が確実にアップした。
最初のプランの説明から、会場までの送迎、当日のオペレーション、ナレーション、葬儀後の祭壇設置まで。服装から振る舞いまで、すべてがプロの仕事だと感服する内容でした。
プラン説明時のアドバイスが的確で、常識よりこちらの都合を優先させて柔軟な対応してもらえたのが、ありがたかった。1時間以上かけて車で来る親戚が多かったので、通夜ぶるまいを通夜の前に変更。通夜中にお腹減ることや、通夜に来てくれた人の対応を後回しにせずに済んだ。また来てくれた親戚も早く帰せた。初七日供養後に、食べるのが普通だけど、粗供養品として、食事券を渡して帰ってもらうことにした。
他にも細かい相違点が色々。
・◯レマの線香が化学薬品臭がして、妻が煙たがっていたのが、変えた瞬間に問題なくなる。
・湯灌は家族でやれてよかった。父の体を拭いたりするのは、嫌な人は嫌かもしれないけど、お風呂入って背中流す感覚で、キレイにしてあげれたのは、最後の親孝行でしょう。
・花壇の品質がガッツリ上がった。◯レマの価格を見てたので、安いと思い、親戚からの花もだいぶ増えてしまった。棺に入れれなかった分は、すべて自宅に飾ってあり、1ヶ月近く経つがまだ元気だ。
・姉が嘱託で働いている先の互助組合の提携先葬儀会社だったため、-10万の割引。こちらからは何も言っていないにも関わらず、弔電を見て対応してくれた。
葬儀会社変更して、本当に良かったと思っている。変更の連絡しなおしたり大変な部分もあったけど、満足度が段違い。
結婚式と同じぐらいの金額払うのに、なんで文句言いながら、我慢しながら、サービス受けなあかんのかと。激しく問い詰めたい。
・勘違いさせる前提の資料を元に営業して、キャンセルできない。
・マルチ商法かと思うぐらいに、不安で人を動かそうとする。◯◯するのが普通。◯◯はできません。
・無駄なオプションつけてくる。ってか普通断れへんやろうぐらいの勢いで、オプションつけてくる。
・説明しない。
こうして◯レマをキャンセルして、地元の葬儀会社に変更できたのは、幸運が重なったからだった。
・契約して間もない状況で事前支払いが0円。クーリングオフで押し切れる状況だった。
・友引明けで、日程に1日分の余裕があった。
・付き合いのある信頼できる住職がいて、他の葬儀会社が見つかったこと。
これだけの条件が揃っていてようやくキャンセルできた。
今回は父の葬儀分を母が契約したが、普通はこんな契約はしない。なぜなら、営業担当は自分の葬儀を事前に支払う契約を勧めてくる。ここの情報格差を奴らは狙っている。
過去の噂を聞くかぎり、支払い済みの状況でキャンセルしようとすれば、事前支払い済み分は返金できませんと、そう脅されるだろう。
ちゃんとした式をあげるには+100万かかる状況で、葬儀までの時間はなく、決断は伸ばせない。
親族が亡くなって、気が動転している状況で、あとで事例調べるなり、情報収取するなり、冷静な判断がくだせるだろうか?
すでに親が70万支払いずみの状況で、プランの内容を聞いた後に、キャンセルする覚悟あるかと?
近所にも契約している人いたが、母はすぐ解約するように勧めた。
上にも書いたが、事前契約をメインに営業しているため、後々キャンセルされるケースも多い。
その場合に、解約手数料が掛かる形ではなく、1割も返金しないらしく、訴訟沙汰となっている。
https://www.sankei.com/affairs/news/150122/afr1501220037-n1.html
契約書にも、契約後、180日以後の解約は不可と書かれていた。
・どこかのお寺の檀家ではなかった場合、◯レマから仕事を依頼されることがあるという。
伝えれる範囲は限られるが、あまりタブー視せずに両親と話すこと。
「自分の葬儀代は自分でためておきたい。」「子供に負担を掛けたくない。」
そういう想いに、奴らは付け込んでくる。
なので、早めに話をして、事前に知っておけば、怖くない。
ほぼ悪徳商法なので、早く潰れることを願って、匿名ダイアリーに記します。
ブコメもらえて、拡散したので嬉しいです。(普段のブログでこんなにバズったこと無いので)
もちろん親族や各位には今回のことは包み隠す伝えたのですが、さすがに友達に言いふらすわけにも行かず。。。匿名ダイアリーに書きました。
親族でも、少し大きい規模で、280万という人もいて、葬儀場での話題になりました。
ちゃんとしたものにお金を掛けれた。という印象です。ロウソクや線香一つとっても、ケチるだけケチる姿勢が見えてしまい、なんの信用もできませんでした。5000円のランチ頼んだら、業務スーパーのパウチスパゲティが出てきた感じです。
あのまま乗っかった場合に、普及不要な請求をされそうだったのが一番の不安でした。
確かに160万は安くないと思います。(実際は来場者増えてもう少しかかりました。)満足度は5,000円出して、ちゃんとホテルのバイキング食べれたぐらいの気分です。
消されるの怖いので、反社記述だけ消しておきます。にしてもこんなこと匿名ダイアリーじゃなきゃかけない。
向こうは百戦錬磨でフル武装の営業モード。こっちは虚弱状態からスタートして意思だけで戦わなければいけない状況。
正直オプションを断ることだけに、体力と意思力を必要とします。途中から、やり取り自体が不毛だったので、さっさとやり過ごしてキャンセルできないか相談するモードに入ってました。
当日に葬儀会社まで決めてしまうのも良くなかった。という考えもあるので、決めるのはなくなった翌日でも良かったんじゃないかなと、後から思い返します。ドライアイス代が+1日で、+10,000円ほどかかりますが、4日後でも、最初から問題ないです。葬儀場が相手ないなら、1日ずらすとかでも良いくらい。
ほんとうに何から何まで、助けてもらいました。
看取ってくださったのが、緩和ケアを専門にやっている町医者さんだったので、看護師さんも経験豊富でした。(決して、年配の方ではないのですが)
冷たい対応されると、余計に辛いだろうなと思い返してありがたい限りです。
可能性としてはありえます。上記の通り、緩和ケアは車で訪問診療してますので、尾行すれば。なんの証拠もありませんが。
古めの住宅団地なので、営業さんがかなり訪問してまわっているそうです。
そのとおりですね。自分も、亡くなった父もそういう考え方です。
ただ、亡くなった人のためではなく、亡くなった人の家族・友人・知人・親族に向けてやるという感じでしょうか。息子としては、親がどんな生き方をしてきたのか知る数少ない機会だったので、ちゃんとやってよかったです。
(ただし父や私の代はもう血が遠すぎて分家扱いもされていない、一般家庭)
私が幼稚園の頃、大規模な法要があって、初めて本家に行くことになった。
「みっちゃん!」
って叫ぶように呼ばれた。
びっくりして声の主を探すと、家の中から足袋裸足でおばあさんが走り出てきた。
そのまま駆け寄ってきて、私を頭のてっぺんからつま先まで見るおばあさん。
私はどうしていいかわからなくて、見られてる間ずっともじもじしてた。
そのうち、他の大人が割って入って、父はその人と一緒にどこかに行った。
私は他の子供たちと集められて、一緒に遊ぶことになった。
遊んでいるうちに法要は終わったらしくて、みんなでお昼のお膳を囲んだ。
さっきのおばあさんは忙しそうにしていたけど、合間合間に私や他の子供たちに
ご飯は足りているか、ジュースを飲むか、おしぼりを持ってきたから手を拭きなさい、
とたくさん話しかけてくれた。
その間にも、おばあさんからの視線を時々感じていたけど、嫌な感じはなかったと思う。
なんというか、すごく気にかけてくれているというか。
何回目かにジュースを勧められたとき、ちょうどお手洗いに行きたかった私は、
おばあさんに連れて行ってほしいとお願いした。
本家は古い大きなおうちで、ちょっと怖かったので、恥ずかしかったけど
おばあさんに、一緒についてきてくれるようにお願いしたら、
おばあさんはちょっと黙ったあと
「もちろん、いいよ。一緒に行ってあげようね」
と手をつないでくれた。
お手洗いからの帰り、おばあさんはなんだか涙ぐんでいた。
大人になって結婚する時に知ったんだけど、おばあさんは、本家の大奥様。
とても可愛がっていたんだだけに、亡くしたときの悲しみも深く
当時は後を追って死んでしまうんじゃないかという落ち込みようだったらしい。
おばあさんやその息子たち(=みっちゃんの兄たち)曰く
「顔立ちはもちろん、ものを食べる様子やちょっとした仕草がみっちゃんそのもの」
「まるで生き返ってきたみたいだ」
というくらいそっくりだったとのこと。
お手洗いに一緒に行った時に泣いていたわけも聞いた。
何でも、みっちゃんが亡くなる前日、
「怖いからお手洗いに一緒についてきて」
とお願いしたのを、その時ちょっと手が離せなかったので
「一人で行ってきなさい」
と宥めて一人で活かせたらしい。
「あの子が最後にしたお願いを、叶えてやれなかった。ちょっと手を休めてついて行ってやれば良かった」
とずっと悔やんでいたんだそう。
それがあの日、そっくりな私が現れて、みっちゃんと同じようにお手洗いについてきてって言い出して
「まるで、あの時のやり直しをさせてもらっているようだ」
と感じたんだって。
私が本家に行ったのはその一回きりだったんだけど
おばあさんはその後ずっと私のことを気にかけていたらしい。
とても他人とは思えないって。
おばあさんは、私が高校生の時に亡くなったそうなんだけど、その際に遺言で
「あのみっちゃんそっくりの子がお嫁に行くとき、お祝いを渡してほしい」
開けてみると、漆塗りの箱の中に櫛や手鏡、かんざしなんかが入っていた。
ほんとに貰っていいのかなって思ったけど、長男さんに
「供養と思って受け取ってほしい」
と重ねて言われたので、ありがたく受け取ることにした。
私には、子供に先立たれた親の気持ちは想像することしかできない。
でも、それは悲しくて切ない事なんだろうし、それをちょっとでも癒すことができたなら
(私の力によるところでは全くないんだけれども)
いいことをしたのかな、と思う。
昨日妊娠していることがわかって、ちょっと感傷モードに入っちゃったので
落ち着くために書かせてもらいました。
映画「We are little zombies」を8/31にウェブでの無料公開で見た。今も劇場で上映されているにも関わらず、という点は素直にすごいな、と思う。海外で賞を取ったとも聞く。Filmarksを見れば、割と高評価を付けている人が多い……ように見受けられる。だけどあれ、そんなに良かったか?
両親を亡くした4人の少年少女(ヒカリ、イクコ、タケムラ、イシ)が火葬場で出会い、バンドを結成し、社会現象となる。しかし、主人公(ヒカリ)の両親が亡くなる原因となったバス運転手がネットで特定され、運転手は自殺。バンドは解散し、主人公は親戚に引き取られることに。イクコ、タケムラ、イシらはヒカリを連れ出し、ヒカリの両親が事故で行けなかった草原へと目指す。道中で事故に合い、4人の乗った車が水没する。頭の中で走馬灯が駆け巡るヒカリ。突然「Continue?」という文字が浮かぶも、一度は拒否。しかし仲間たちの声もあり「Yes」を選ぶ。するとヒカリの出生シーンが浮かび、気づいたころにはヒカリは事故現場にいた。その後草原へ4人で向かい、平凡な人生がいいねとかなんとか言う。念仏が聞こえ、鯨幕の白からズームアウトして終わり。
大筋だけ抜き出すとそれなりに理解は出来る。というかこういう、理解のない大人や嫌な現実に反抗し、自由を勝ち取るというストーリーは青春モノの定石なので、悪くなりようがないのだ。それから、映像が斬新というのも分からなくはない。短いカットの連続に鮮やかな色彩、独特なショット。
自分が何を思ってどう動いたか、バンドがどうなっただとか、最初から最後まで説明のセリフだらけ!映画は、カメラを通じて作り手が見せたいものだけを見せられるメディアだ。だからこそ、言葉で全部喋っちゃ興ざめなんだよ。表情や仕草、寄って撮るか引いて撮るか、背景に美術、何を画面に入れて何を排除するか、言葉だけに頼らず表現しなきゃ「映画」の意味がないんじゃないの。主人公が一人称でナレーションをたっぷり入れることが効果的に作用する場合もあるだろうが、主人公たちは感情が無く、両親の葬式なのに泣けない(だから「ゾンビ」)という設定のはず。それなのに(一応「ゾンビ」だから棒読みで!)べらべらしゃべるものだから、「俺、中学生だけど正直感情が無くて全てが滑稽に思える」のコピペを思い出す仕上がりである。
「さあゲームの始まりです」は流石になかったが、感電して骨が見える、ネットの特定シーンでは画面上に書き込みと思しき文字がずらずら表示される、などの古臭い表現がそこかしこに見られる。走馬灯も「Continue?」も差し込まれる出生シーンも……4人が逃げ込んだ先はラブホテル、了解です!ちなみに、主人公がゲームボーイを持っている理由は一応明かされてはいるが、イクコ役の中島セナに(iPhoneでもデジカメでもなく)フィルムカメラを持たせているところから見るに、ちょっとレトロな感じよくない?ぐらいじゃないかと疑ってしまう。街中で若者がスケートボードをやっている場面も、有り体に言やPOPEYE感を演出するだけ。こういうのを削除したら90分ぐらいのソリッドなものに仕上がると思うのですが。本筋には関係ないものの、正直かなり冷める。
ここがかなり嫌だった。主人公ヒカリはおそらく東京生まれ、東京在住(東京タワーらしきものが見えることから分かる)の中流家庭であるのに対し、がめつく、金をむしり取る親戚は関西弁である。これをステレオタイプと言わずしてなんと呼ぼうか。他にも、葬式の場で主人公に「感情が無いの?」と泣くよう迫る親戚の女性は福島在住だし、主人公の両親が巻き込まれた事故の原因であるバス運転手は広島?出身であるという描写がある。それだけではない。タケムラの父親は、工場を経営しており、貧困で、母子に対し暴力をふるう。そして母親を巻き込んで自殺する。イシの両親は中華料理屋を営んでおり、イシは太っている。そして実家は火災で全焼する。イクコの両親は、イクコに心酔するピアノ教師によって殺害される。そういう設定だと言われればそれまでだ。気にならない人もいるだろう。だが、私はなんだかなあという気がするのだ。ついでに言うと、主人公ヒカリの父親は広告会社に勤めており、社内では人気者だそうだ。監督は電通の長久允氏であることを鑑みるに、強い電通力(ぢから)を感じる。
主人公たちにバンドを組むよう勧めたホームレスたちの音楽が、見た目通りのヒッピー感溢れるものだったことには思わず笑ってしまったが、それは好みの問題だろうから置いておく。問題は主人公たちのバンドだ。エクスペリメンタルビットポップをやるのは、それも好みの問題だろうから(あと一応「ゾンビ」的設定を生かしたのだろうし)置いておく。それの凄さを語る方法が酷い。CHAIや菊地成孔を出して、彼らがいかに凄いかを喋らせるのだ。鑑賞中、思わず叫びそうになった。嘘だろ?!観客はそれぞれ好みが違うから、楽曲の凄さを表現するのはとても難しいということは分かるが、実在するアーティストに言葉で説明させるのは一番ダメでしょう。先ほども述べたが、それなら「映画」でやる意味がないのではと感じる。
「エモいって古い」にはエクスキューズを付けるいやらしさを感じる。さらに、一種の夢オチとも取れる結末で〆ているところもあまり好きではない。別に、全て主人公ヒカリの内面の旅であっても悪くはないが、それにしてはこの(法要中の)短い間によくそこまで考えたな!となり、オモシロさが増す。また、自己弁護ではないが、「絶望ダッサ」にはどうも乗り切れない。「僕は感情がないから悲しみなんて感じないんだ平気なんだ(自己防衛)→いや本当は絶望して悲しんでいるんだ(自覚)→でもそんなのダサいから乗り越えていくんだ(そして未来へ……)」なのかな、と好意的に解釈するとしても、それは「ダサい」という言葉で乗り越えていくべきものなのか、疑問である。抑うつ状態はダサい/ダサくない、という問題じゃないと思うのだが……。
疲れた。映像が斬新と述べたが、中島哲也に似ているんじゃないかとも思う。他にも色々言いたいことはあったが、もう止める。だいたい夢オチの可能性がある時点で、全ての指摘は負けなのだ。楽しんでいる人をけなしたいわけではない。良かったという人はそのまま、堂々としていればいいと思う。ただ、私には合わなかった。
父、母、私、兄、義姉、母の姉夫婦と親戚10人くらいでしました。
食事をするためにお店を予約していました。
母方の祖父だったこともあり、母と伯母が率先して動いていました。
その時、義姉はたいして動いていませんでした。
男性陣は男ということもあって、動くことはありません。
私としては兄の嫁なんだから、もう少し動けば?と思ったのですが、兄たちは結婚して数ヶ月しか経っていなかったのと、式も挙げなかったので実質今回が親戚と初めて会うので余裕がなかったのかな?とも思いました。
私自身も親戚たちと会うのは数十年ぶりなので、ある意味義姉と変わらないと思うので、お酌して自己紹介でもすればいいのにと思いました。
兄の横にぴったりついてて、一人じゃ何もできないの?と驚きました。
飲み物も気を利かせて注文すればいいのに、そういうのも一切なかったです。
お金を出すのはうちの親だから勝手に頼まないのか、それとも飲み物も頼めないくらい内気な人なのか。
お嫁さん可哀想、結婚して数ヶ月で訳も分からないのにそこまで求めなくても…男はなぜ動かないの?特にお兄さん。
という意見もあれば、
もっと率先して動かないとね、大人なんだから自己紹介も夫なしでもしなくちゃ
という意見もありました。
こんな義姉どう思いますか?
父の法要から一日明けた朝、漫然とテレビをつけていたら、NHKのみんなのうたが始まっていた。
あ、ボブネミミッミじゃん、そう思って聞き流した次の曲が七尾旅人さんの「天まで飛ばそ」だった。優しい歌声に枯れたと思った感情がぶり返してきた。
花粉症の鼻をすすっていると母も洗濯物をハンガーにかけながら「この歌誰が歌ってるの?」と聞いてきて、答えられなかったからググって今また歌詞を読んでる。
隠した願いを天まで飛ばそ。あの子は知らない。あの子は知らない。
渡しきれぬ夢を天まで飛ばそ。あの子は知らずにここから旅立つ。
親の心 子知らず、なんて言うけれど、自分もまた知らなかった。
父に勘当されて十数年、妹に見せてもらった家族(自分を除く)のLINEチャンネルにも、遺書らしい遺書にも自分の名前が登場することはついぞなくて。
死ぬ二週間前にお互いに様変わりした顔を合わせた席で「ひさ…」「次に会うのは葬式だな」と会話にならない会話を交わしてすぐに病室を出ていったから、最後まで父が自分のことを思い出す時間があったかどうかも不明で。
それでもあの時の掛け違いの理由を何処かに遺していってくれたらと願わずにいられなくて、書斎を探してみたけど、出てきたのは茅田砂胡さん、菅浩江さん、小野不由美さんと懐かしい著名のファンタジーばかり。晩年は抗がん剤の研究をしていたと聞いたが、仕事に関する本は古いバイオインフォマティクスの参考書を除いて一切なかった。
目を閉じれば思い出すのは、港南台の子ども科学館に、青葉台の郊外の勤め先の研究所と、土日車で連れて行ってもらった子どもの頃の記憶ばかり。あの延長線上に、父の秘された希望もあったのだろうか。隠した願いはもう一生分からない。今の自分ははっきり違うということだけが分かる。歌を聞いて三度去来するのはもう解決すらできないこの寂しさだ。
後、数年もすれば自分も子どもに名前と一緒に隠した願いをそっと飛ばすだろう。夜をギラギラに自己主張するのではなくて、色々な人が打ち上げた願いの中にひっそり混ぜて、旅立ったあの子が気づかずに手に取ってくれることを願おう。そうしてくれたら、いやもし選ばなかったとしても自分から伸ばした手で願い星を掴んだとしたら、それが親としての本願だ。
再婚同士。
私的には、夫の信仰は尊重するけど、和して同ぜず。そんな感じ。夫もそれで良いと云っていた。……直前まで。
話は遡るけれど、義母の本葬のとき夫の息子(成人済み。私とは血縁も縁組もない)に、「正宗ですか?」って聞かれた。
普通、成人済みで家も出て行った息子が、父親の再婚相手(の実家)の宗教なんか、いちいち確認しないと思う……。正直ドン引きだったけど、葬儀の忙しさで正直すぐにそんなことはすっかり忘れてた。
それを思い出したのが、姑一周忌の直前。数十分前。
なので、
「お義母さんの形見分けとか、お義姉さん(夫の姉。僧侶の妻)からいろいろお手紙が来てたみたいだけど、私は信徒ではないから、お数珠とかは宗教的なものは受け取れないし、生前の縁も薄かったから、何もいただく気はないよ」
って話した。ついでに、
「私は信徒じゃないし、入信する気もない。お弔いだから参列するし、お経も一緒にあげるけど、信徒さんかって誰かに聞かれたら否定するよ。それは解ってね」
とも話した。
そうしたら夫が、
「ご受戒だけ受けて、戒名は貰ってないって今回は誤魔化す。戒名ないとうちのお墓に入れないから」
とか云う。
ねえ、それおかしくない?
何で宗教とかで、嘘つかなきゃいけないのよ?
別に妻が信徒じゃなくったっていいから、入籍したんじゃないの?
入籍して5年。ずっとそう思われてきたってことか?
なんかもうとにかく許せない。
もし今土下座で許しを請われても。頭蓋骨粉砕して【いとしきみこと】するまで、踵落としするレベル。
姉が僧侶の妻だからって、自分の再婚相手の宗教まで日蓮正宗にしなきゃなんねーのかよ。冗談じゃねーよ。
結婚前にお互い尊重するって約束したのは嘘かこの野郎。騙してやがったのか糞野郎。
だいたい、嘘で受戒だの戒名だのって、本当の信仰心を持って日蓮正宗の信徒やってる方に対し、すっごく失礼だろ。
何の落ち度もない真面目な信徒さん(夫にしてみりゃお仲間さんだ)に対して、私が無礼な振る舞いをすることになると、何故気づかないんだよ!
一人の信徒が(しかも僧侶の身内とか、信心の持ちようがかなりディープな人間)、非信徒に対しそれをやるってことは、日蓮正宗全体として、嘘OKってことと受け取るぞこのド腐れ野郎。例え方便ってやつでもな!
離婚を考える程ではないんだけど、信頼感がマイナスになってしまった。
この1か月、言葉にも態度にも出さないようにしてるけど、本当に辛い。
仏壇ブチ壊したくなる。
欧米と比して宗教色が薄いと言われる現代日本でも、完全に宗教と決別して生きていくことは難しい。
いわゆる「冠婚葬祭」においても、近年では小規模化の傾向が見られるとは言え、有形無形の圧力により望まぬ負担を強いられることが常態化している。
そこで、出来る限りコストのかからない極めて簡素な宗教を新たに用意し、それを宗教的圧力からの逃げ道にすることができないかと考えた。
簡素と言っても、冠婚葬祭を全く執り行わなければ社会的摩擦が生じ、かえってコストが増大しよう。それでは本末転倒である。
なので最低限の儀式は執り行いつつ、それ以上の出費を防ぐために、「私の宗教では盛大な儀式が禁じられている」などと、宗教を言い訳に使えるようにしたい。
メタ目的が「宗教に関連するコストを低減する」ことであるので、「戒律を課す」「現世利益を約束する」といったコストの嵩む方向性は論外である。
そこで「死に対する不安を取り除く」=「死後の安楽」という点に絞る。
死後の安楽を保証するために、まず神を用意する。
神は全知である。
故に神は「人の死後が安楽である」ことを知っておられる。
これを基本にしよう。
「神によって安楽がもたらされる」でないことに注意されたい。
安楽が神によってもたらされるのならば、神に対価を支払う必要性が生じてしまう。
むしろ、
とすべきだ。
信徒は神に期待してはならない。
ただただ「人の死後が安楽であることを知る神が存在する」ことを信じるだけである。
あらためて信心を表明したり、神へ誓いを立てたりすることは、神の全知を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
ことさら神へ祈りを捧げたり、神の名の下に騒ぎ立てたりすることは、神の無能を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
と、このような教義を設定すれば、冠婚葬祭のたぐいを簡略化できるのはないだろうか。
神は新郎新婦の愛を既に知っている。
神は死後の安楽を知っている。
神は死後の安楽を知っている。
埋葬する必要もないが、埋葬した場合でも墓参りはしなくてよい。
といった具合だ。
もちろん冠婚葬祭以外でも様々なシーンで利用できるはずだ。
これを「全知無能神教」と名付けよう。
どうぞ信仰してくれ。
マリオオデッセイのクッパ城で、寿の旧字体である壽と書かれた幟がお拍子に合わせて舞うのをみて、祖父の仏壇を連想する。
子供の頃、親の実家に帰省してふあっとした記憶しか残っていない祖父母の仏壇に漫然と手を合わせるたびに
両脇に「壽」と書かれたぼんぼりがあるのは目にしていたけれども、意味も知らなかった。
その理由を知ったのは初めて身近な人を亡くす経験をした祖父の法要で。
「うちの家紋は寿=壽だから」「寿って?」「ハッピーってこと」
お酒に昔話に弾む大人道中にげんなりとする中で引火してしまって
皆、自分が入ることになった中学の話ばかり質問責めにあって辟易していた。
ゲームから始まるプルースト効果にしたってなんでこんなことで思い出すのだろう。
思い出せてよかった。
家族とか友達とか、身近な人が亡くなると、鬱っぽくなる人がよくある。
じゃあ、お葬式に関わることの多いお坊さんって、鬱っぽくなったりしないのだろうか?
もちろん、都会の商業的というか、お葬式の時にしか接点が無いような場合にはショックもなにも無いだろうけど、田舎とか、檀家が支えてるようなお寺はどうだろう?
月に一回は檀家の家に行って、月命日のお経を上げ、月に何回か、法話日とか法要日とかでお寺に地域の人を集めたり、場合によっては、書道教室や子供会なんかを開いてる、ある意味理想的なお寺のお坊さんの場合を考えると、実は結構しんどいんじゃないかと思う。
地域に根差した活動をしてるお寺は、その地域の人達のことは知り尽くしてるだろうし、年の近い人達には、きっと仲間感を持ってるお坊さんが多いはず。
でも、地方は間違いなく衰退している訳で、高齢化とかの現実を考えると、ひょっとしたら、立て続けに同年代の檀家を亡くすお坊さんも多いんじゃ無いだろうか?
そうした場合、身近な人が亡くなるショック、自分がお経を上げないといけないプレッシャー、そして収入源も絶たれるという三重苦に悩むことになるわけで、鬱っぽくならずに過ごす方が難しいくらいの感覚になると思うんだけど、どうなんだろう?
坊主丸儲けとか、お坊さんを揶揄する言葉があるけど、現実問題として、人口減少時代には、お坊さんのメンタルケアが必要かも知れない。
今年の1月に父親が死んだんだが、まあこういうことは共有しといたほうが良いかと思うのでこうだったら良かったとか、これは良かったということを書く。
病気になって弱ってたりとか入院したりとか言うことはあるが、それでもやっぱり死ぬのは突然だ。電話で死んだときかされると思っていたほうがいい。特に延命治療を希望しない場合は死んでから連絡がある(一応病院は死ぬ前に連絡はくれるが間に合わない
突然死だと用意できないが、高齢になってきたら元気でも用意しておいたほうが良いと思う。まず永代供養の墓地が常に売り出されているとは限らない(売出し時期がある)。あと墓のデザインもある。どこに名入れ(?)をしてもらうかとかもあるし、そもそも石を加工するので時間が必要だし、当然お金もかかる。死んでから用意するとバタバタすぎるし金がバンバン飛んでわけがわからなくなるので、まぁ先に余裕を持ってやっておいたほうが良いだろうと思った。先祖の墓に入るってんならいいんだけどさ。
寺にもよるとは思うのだが、うちの頼んだ寺だと先に信徒になっておくと色々と格安でやってくれる。檀家になると色々かかるので、あらかじめ市営などの墓地に墓を用意しておいて信徒になるのが楽だ。あと死んですぐはホントバタバタするのでここに連絡すれば大丈夫ってのがわかってると心理的に楽である。余談だがお坊さんからきいたところによると、遺族に頼まれてお墓にいったら、この墓うちの信徒のじゃねぇな…ってなって管理してる寺に引き継ぐことがあるらしい。いまや檀家とかよくわからなくなってることもあるので、生前にその辺りははっきりさせておいたほうが良さそうだ。
会員になっとくと割引があったりする。まああと変なところから来られても困るので、死んだらすぐに「うちは○○に頼むことにしてるので」っていうとすぐに連絡が取れて楽。葬儀社はエキスパートなので、まずは呼んでなにをするか聞くのがよいし楽(とはいえうちはすぐに全員があれこれぐぐって必要な手続きをリスト化し、いついつまでになにをして、そのときになにが必要かを洗い出した。相手も人間で抜けがあるかもしれないので一応自分たちでもスケジュールは組むべき)。ある程度年をとったらそこら辺の手配はしておいてほしい。
合成で作ってくれたりするんだが、出来があまりよろしくないのである程度年を取ったら元気なうちに写真は撮っておいたほうが良い。プリンタで引き伸ばした質の悪い写真になるので、大きなサイズも用意しておくとなお良い。
うちは地味に時間があるときにやっといてくれたので家探しせずにすんだが、まとめてないと大変だ。あっても一個ずつ確認して連絡とって手続きをしなければならないので非常に大変。忘れがちなのが家の火災保険の名義変更や、公共料金の名義変更(これがまたガス・水道・電気で違うのでややこしい。固定電話もかなり面倒)なども煩雑なので、できれば生前にできるものは名義変更しておいてほしいし携帯は解約しておいてほしい。いきてる間にやったら楽なものも少なくないので。
うちは密葬で、ということにしていたのだが、葬儀社に一応連絡だけは入れておいたほうが良いと言われたのでそうした。そうしてよかったと思う。別に死んだ人間のためというわけではなく、「人の死を軽くあつかった」というふうに思われたくない人間のほうが世の中には多いので、伝えておかないと家に線香あげに来る人があとをたたない。葬式後は相続関係で家を開けることが少なくないのでバラバラに来られると困るのだ。町内会に所属していた場合などは町内会の会長に連絡を入れ、「故人の希望で…」といって最低限以外はお断りするのが角がたたないし、相手も納得する。会社関係は厚生年金などの手続きですぐに訃報が伝わるので、会社の方から連絡があるが、その時はおなじく「故人の希望で…」と最低限以外はお断りするとよい。
当然だが祭儀場には限りがあるので、死んだ日の夜に通夜ができるわけではない。まず場所を押さえ、いろいろとプランを決めてから準備に入るので、最短でも二日か三日はかかるようだ。そもそも死んでから三日は焼いちゃいけないしな。ドタバタはするが死ぬほど忙しいわけではないので安心しよう。会社は少なくとも七日は休んだほうが良い。通夜までの間に喪服とか必要なものは買いにいけるので大丈夫だ。あと通夜までの間に実印を持っていない法定相続人は実印を作ろう。三文判でも実印にできるけど、名字の漢字が珍しいひととか三文判でも作るのに時間がかかるからね。
病院からもらう死亡診断書さえもらっておけば、焼くまでの手続きは全部葬儀社がやってくれるし、香典返しの手配とかもやってくれる(プランはいくつかあるが)。納骨までの仏壇もレンタルしてくれる。任せるのが楽だし、楽のためにお金を出したほうがいい。ただでなくても疲れるのに諸手続きをやったらたぶんぶっ倒れる。
まず花があるとかなり華やかになるので安いプランでもあらが目立たないし、遺族の気が紛れる。ちゃんと葬儀をしたという実感もえられる。祭壇をシンプルなやつにしてても花があると豪華にみえるのもよい。献花を申し出られた場合はお返しがちょっと大変だが一応受けておいたほうが良いと思う(華やかになるから)
食事は生きている人間のためのものなのであんまり食が進まないかもしれないがある程度のものを頼んだほうが良い。ただでなくてもしんどいので、食事くらい良いものにしないときが滅入りすぎるし、まずい食事は後々尾を引く。とくに通夜のあとの食事はちょっといいものにしたほうがよい。
死後、遺体も生き物なので体が腐っていくわけだが、エンバーメント処置をすることでそこそこきれいに保つことができる。夏場は腐りやすいのでやったほうがいい。うちは冬だったのでやらなかったが、やはり目はどんどん落ち窪んでいくし肌の質感とかも悪くなっていくので微妙に辛いものがある。ただまあそうやって変わっていくことで受け入れられるものもあると思うので、大丈夫だと思うならやらなくてもいいのかも。
お金がいりようになるということはよく聞くので連絡を受けて向かうまでの間にさっと引き出せる口座に百万くらい移動しておいたが特に使わなかった。うちは死ぬ死ぬ詐欺がながかったので口座の名義変更とかお金の移動とかある程度済ませていたのであんまり混乱がなかったが、まぁでも何かと入りようなので焦らないためにも近親者はすぐに大金を引き出せるようにしておいたほうが良いだろう。葬儀とか病院はクレジットカードで払えるのだが、引き落とし口座が死亡者の名義だったりすると、引き落とし日に口座が使えなくなっている可能性があるので要注意だ。そのあたりは生前によくよく確認しておくべき。
うちは女ばっかりの家なので男手がなく、出棺のときに困った。葬儀社がだいたいやってくれるのだが、あれ、ただでなくても重いからね。男手はあったほうがよい。
コートは人によって違うのでわかるのだが、マフラーはほとんど全く見分けがつかないので、混乱を避けるために名前を書いておいたほうがいい。
あと結構場所の移動があるので、それぞれに係をきめておいたほうがよい。運転係、お金関係の係、葬儀場の係、部屋を出る時に最後の確認をする係(うちでは自衛隊係とよぶ)、食べ物を用意する係、などなど。
場合によっては遺産の配分も考えたほうが良い。まぁ働けっていう話もあるんですが、何十年も専業主婦やってきた人は働けないからね…
年金受給年齢に達していない場合、生活が遺族年金頼みになる。毎月(給付は二月に一回だが)いくら収入がはいってそのなかで生活費や税金としていくら出ていくのかを見積もっておかないと生活に困窮する場合がある。うちの場合はなぜか最初から子供が全員遺産相続を放棄する前提だったのでよかったが(なんでだろうなぁまあ最初から放棄するつもりだったけど一応聞けよ)、法定通りにきちんと分けようと考えている時は、その後の援助などの計画もきちんと考えたほうが良いだろう。
http://www.izokunenkin.com/about.html
確定申告がバタバタになるので。年をこしてからだと準確定申告できるので四ヶ月猶予があるが、年末ギリギリに死なれると三月十五日までに確定申告をしなければならないようだ(死亡届を出した日になるのでほんとに年末ギリギリだと年越してから死んだことにできるかもしれないが)。つまりそれまでに相続を確定しないといけない。ここらへんよくわからない場合は遺産相続のプロに代行を頼む必要とかもでてくるので、できれば確定申告が終わるまでは頑張っていきていてほしい。
https://www.nta.go.jp/taxanswer/shotoku/2022.htm
昨日、祖父(享年93)の四十九日の法要があって、久々に実家に帰った。
法要が終わり、宴会場で食事をしているとき、和尚が眼鏡をずらして大泣きしだしてギョッとした。
そのあと、腰を上げて本家のおじさんと机越しに握手して、「もううち寺の味方は増田本家さんだけや...」
みたいなことを言って、肩を抱き合ってて、とにかく普通の雰囲気ではなかった。
そんな中、増田家が父に代替わりし、お布施の額が激減。すごく心細くなったという。
今回の祖父の葬儀では、父は2人しか坊主を呼ばなかったというのが「信じられない!」そう。
増田本家のおじさんは、常日頃から増田分家(集落に20軒くらいある)に対して
寺にお布施をするよう呼び掛けていて、
「うちは跡取りが婿でこのへんの人とは交流が乏しいから将来が心配だ」
本家のおじさんが和尚の立場に寄り添うような話をしたら、感極まって
「ああ、私より先に増田本家さんが亡くなってまったら、うちの寺はどうなるんだ」
と不安になって涙が出た、と。
食事に出席した分家のひとたちも、和尚の話を聞いてなんか笑ってるし、
「和尚さま、しかたがないなあww」みたいな感じで、その発言を許してる。誰も咎めることなく。
祖父は、私たちが子どものころ、朝夕お寺にお参りしてお墓掃除をする人物として集落でも有名だった。
お寺は、わたしと兄の集団登校の集合場所だったので、朝のお参りは、子供の見送りのついでだった。
寺までの道中、祖父から「あの和尚さまは偉い人なんだよ。礼儀正しくするんやよ」って言われていたので、
わたしも兄も、祖父の言いつけ通り、和尚を「和尚さま」と呼び、
そんなかんじで、祖父から尊敬するように教えられていた和尚から、この仕打ちかよ。
祖父は生前、この和尚から、「あなたはもう徳が十分だから、戒名のランクを上げなさい」と助言されていたらしい。
だがこの祖父は、なにかの機会ごとに2-3年に1回は、
「戒名のランクは絶対に上げてはいけない。一度戒名のランクを上げると、
子ども・孫にその経済的な負担を強いることになるから、絶対に上げてはいけない。
生きている間だけ世話してくれればいい」と言っていた。
「おまえらのお布施の額が少ないから不安になって泣けてしまった」みたいなこといわれないかんのだ。
いや、言いたいなら言ってもいいけど、本家ともなにしゃべってtもいいけど
二重に三重にどん引いた。
昭和の集合住宅に住んでいて平成不況と人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしい http://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html
さて、私は仏教徒だから遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国で仏教と儒教が習合してしまって渡来したから日本では混同されている。
私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産も相続したくない。
遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかったから火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。
遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離」である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。
「千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。
遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。
生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である。
死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶も所詮は細胞の状態でしかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。
日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである。日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元の岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。
そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院の資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典を暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文のネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術上のものでしかない。それでもその檀信徒が財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体が目的化している。
あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから、後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分が死ぬ方が先だろう。
忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変である。しかしその記憶もデータであって、細胞の状態である。
本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データでしかなく、ディスクがクラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。
それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。