はてなキーワード: 暖かいとは
私の友人があるツイートをした。
「寒くてダウン着たいんだけど、早いかな?」
寒ければ着れば良いし、寒くなければ着なければいい。
彼曰く「まだ着てる人ほとんど見ないし」とのこと。
ある5月の日、別の友人はこんなことを言っていた。
「ちょっと暑いけど同僚のほとんどがまだダウン着てるからダウン脱げないんだよね。」
こいつは馬鹿かと率直に思った。
当然「暑かったら脱げばいいじゃん」と言ったが、苦笑いしつつ「そうだよね(笑)」とのこと。
これが「上半身全部にタトゥー入れたいんだけど、浮くから嫌だなぁ」というのならわかる。
しかしたかだか暖かいアウターの1枚を着るか脱ぐかすら、自分で決められないらしい。
曰く「自分だけじゃないと安心感がある」とのことだが、一体何がそんなに不安なのかもわからない。
もしかすると彼らは、一挙手一投足が注目されている超セレブリティ気分なのだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tomoya.dev/posts/the-easiest-web3-textbook-is-really-bad/
や、それ以外もそうなんだけど、著者は非常に抽象度の高いマクロな視点からざっくり語っているので、ミクロな面では実態と異なるのは当然なんだよ。
著者が「地球は丸い」とざっくり言ってるだけなのに、
やれ富士山があるから丸くない、日本海溝があるから海の水全部抜けば丸くない。みたいな頓珍漢な批判が横行している・・・。
地球が丸かったら、下側の人は落ちちゃうじゃんwプークスクスしてる人すら居る。
そりゃすべての規格はオープンなんだし、自宅に2台のPC同士でLAN組んで通信させることもできるし、
なんなら自宅のサーバをインタネット上に公開することだってできるんだから、ミクロな面では独占されてないでしょうよ。
だけど、何か実用的なサービスをやろうと思ったら、結局、グーグル・アマゾン・マイクロソフトのクラウド借りる羽目になるじゃん?
3社に独占されてるじゃん!
そこに、さくらのクラウドやGMOクラウドや、その他の泡沫クラウドを加えたところで、世界規模でみてもせいぜい数百社くらいにかならないでしょ。
Web3 になると、ネット接続されたすべての端末が事実上のサーバサービスの提供者となるので、
究極的な未来では誰も大手クラウドサービスを借りる必要が無くなる。
自分の端末がオフラインの時でも、その時オンラインになっている端末が肩代わりしてサービスを提供し続けるし、
逆に自分の端末がオンラインになれば、他のオフラインの端末の肩代わりをちょっとだけ負担する。
今はまだ過渡期だから、大手クラウドと縁を切れる状況では全くないけれど、IPv4が使われなくなるころには、
そういう世界に代わってるはず。
別増田さんも書いてくれている ( anond:20220722005048 )けど、
究極的な未来では、ネット接続されたすべての端末が協働して一つの仮想的なハードウェア基盤を作り上げるので、
今はまだスマートコントラクトという、それこそ原始的なアセンブラレベルのコードしか動かないけど、
IPv4が使われなくなるころには誰も意識することなく、ブロックチェーン上に構築されたOSを使うことになります。
携帯電話が無かった時代に、電話を持ち歩く話をしたら、電話線どうすんだよwwwみたいにみんな思ったじゃないですか。
自動車電話が出来た時、あーはいはい。無線使うのね。移動中は通話が切れるから止まって話すの?だったら公衆電話使えよwwwとか言ってたじゃないですか。
それが今では、誰もが電話を持ち歩き、その電話の上でOSが動き、いろんなアプリ使いこなしてますよね。
そう願っていたし、初回放送では番組の中でやりたいことを推しがどんどん挙げていき、私は期待を膨らませた。
第2回にはゲストがきた。
推しが名前を揚げるきっかけになった作品の共演者で、極めて順当なキャスティングだ。
私ももちろん知っているメンツだったし、最初は視聴者を増やすためにそういうことも必要だと思っ。
普通に楽しんで観ていた。
第3回にもゲストがきた。
当たり障りのない企画をやった。
まだまだ知名度を上げていく段階だ。
ボードゲームなどでよく遊んで知る。
第5回も。第6回も。
それはそうだ。
腹が立つ。
私の心は冷えていく。
いいから一向に送られてこない入会キャンペーン特典を送れと思う。
そして、その次にやった企画の特典も送れと思う。
何ヵ月前のおまけ動画をアップロードせずにいるんだ。その回のゲストを観に来た人多分もう退会したぞと思う。
視聴者のために云々いっているグッズも小ロットで争奪戦になるようだ。
予算はあるので任せてくださいというなら十分な数をつくれと思う。
もうその、運営コメントと視聴者の暖かいやりとり()をやめてくれ、と切に思う。
でも観ていると悲しくなる。切なくなってくる。
普段バイクで移動するので、なかなか駅から自宅まで歩く機会は少なく
お店がオープンしてから、開店にに気づくまでしばらくかかった。
その店が入る前はタコ焼き屋が入っていた。
ひげ面で丸眼鏡の痩せた小柄な日本人の店長が一人で切り盛りをしている。
健康に気を付けてとか、節約になるからとか外面のいい理由はたくさん思いつくのだけど、
一番の理由は食事を終えて満腹の状態ですぐに寝るという悪癖を好むからだ。
どのお店もなかなか訪れる機会がない
このタイ料理屋さんもそんなお店の一つだった。
初めてこのお店を訪れたのは、普段遣いのバイクが突然パンクをしてその修理の手配をした帰り道だった。
突然のトラブルにうんざりした自分は、気分転換にランチを外で食べたくてそのお店に立ち寄ることにした。
店のドアを開け一人の入店であることを伝えると、店長はこちらを見ずに
「カウンターへどうぞ」
と自分を席に案内した。
店内を見回すと、自分の住む6畳のワンルームより一回り狭いぐらいの広さで
二人掛けのテーブルがふたつ、カウンター席が1席のすごく狭い造りだった。
テーブル席の一つはカップルがすでに食事をしていて、一人はカオマンガイをもう一人はガパオを食べている。
時折女性は自分の食べているカオマンガイを男性に食べさせて、男性は自分の食べているガパオを女性に食べさせていた。
店内を見回すと、店内の壁にはタイ語のカラフルな張り紙のメニューが張られていて、その下には日本語でそのメニューの説明が書いてある。
それに目を通していくとランチはカオマンガイとガパオこの2種類のメニューしかやっていないようだ。
どちらを食べるか思案していると、以前ネットでガパオのレシピというのを調べて自作したのを思い出した。
レシピりの調味料と材料を集めて、それなりの金額になったガパオはとても美味しいと言えるものではなかった。
きっとプロの手によって作られたガパオは別物のような美味しいものなのだろうけど、
素人が材料を集めて作れる料理を、めったにしない外食で頼むのは悔しい気がした。
「カオマンガイですね」
注文を終えて、スマホを弄りながら待っていると意外と早く注文はテーブルに届いた。
思ったより量の少ないジャスミンライスの上に、
鶏もも肉がたくさん載せられ、その横に小さなお椀に盛られたスープが添えられている。
食べてみるとこれは意外といっては失礼なのだがなかなか美味しい。
だがやっぱり量が少ないな、何か追加で食べようか。
そう考えながら壁のメニューに目を通していると、店長が突然話しかけてきた。
「うちのお店のカオマンガイは本物なんですよ」
「日本にあるタイ料理屋さんはね、カオマンガイだけ出しているわけではないでしょう。だからジャスミンライスをほかの料理にも使えるように必要な工程を飛ばしてたりするんです。うちはそんなズルしないですからね」
びっくりしながら何か返答しようにも思いつかず、
自分はこんな美味しいカオマンガイ食べたことがないという社交辞令を言うしかなかった。
それから店長とカウンター越しにしばらく会話をした。店長はいわゆるタイに沈没していたバックパッカーらしく
タイ料理やタイでの思い出について聞くと店長は早口で饒舌に語り、日本にあるタイ料理はいかに本物と違うものか演説が始まった。
その日からまたこのお店を訪れるまでしばらくの時間が必要だった。
帰宅しインターネットで食べログを開くと、店長の接客に苦言を呈する投稿をいくつも見つけた。
なんとなく自分だけではなかったのかと安心するような、心配するような気持ちになった。
店のインスタを見つけフォローした、今日も客が少ないと文句を言いながら元気に営業している。
まんじゅう要求BBAの増田を読んで俺も似た思いがあるので書く。
https://anond.hatelabo.jp/20220707214147
大学生最後の年、翌年から地元に帰って就職するので最後の長い自由時間を満喫しようと、バイクで野宿しながら2ヶ月半かけて日本一周した。
途中、紀伊半島でクラッチケーブルが切れてギアチェンジできなくなり自走不可能になって、バイクを押して歩いて海沿いの小さな集落にたどり着き、そこで数日停留した。
なんとかならないかとバイクをいじったがなんともならず、大阪のショップに電話して新しいクラッチケーブルを注文して、知り合ったおじさんの家に送ってもらうことになった。
バイクをいじってるとカブにのった郵便配達のおじさんが声をかけてきて、少しこれまでの旅の話などをした。
ケーブルが届くまで待つため、集落の人に了解をもらって集落前のビーチにテントを張って寝る準備をしてたら、昼の郵便配達のおじさんが車でやってきて、テントをわざわざ探し出して声をかけてくれ、車で家まで連れてってくれて、家族団らんの食卓にお邪魔させてもらい、一緒に晩ご飯を頂いた。
ごちそうさまでした、と帰ろうと思ったら、そのままお風呂はどうだとお風呂に入れてくれ、出たらパジャマが用意されてて「え?」と思ったら、もう布団を敷いてあるよと、そのまま翌朝の朝食まで頂いてしまった。
2日目の昼にガススタ事務所に招いてくれて笹寿司とコーヒーを頂いたり、息子さんの宿題を一緒にやったり、荷物が届かないからと車で一緒に運送事務所まで探しに行ってくれて、まだ無かったので切れたクラッチケーブルを溶接で直してくれた。
3日目に届いたので結局修理済ケーブルは使わなかったし、今ではそのバイクも手放してしまったけど、修理済ケーブルは今も大事にとってある。息子が大きくなったらこのケーブルを見せて思い出話をしたいな。
他にもガススタに来てた大阪から釣りしにきたおじさんの別荘に招かれ泊めてもらったり、ガススタの隣にある民宿のおばさんにずっとバイクを置かせてもらったり、たくさんのお世話になった。
こんな無償で優しくしてくれる人が大勢いるなんて、なんて暖かい集落なのだろうとびっくりした。
新しいクラッチケーブルが届き、バイクに付け、出発するときは、ガススタのみなが手をふって見送ってくれた。
しばらく走ったあと振り返ると、海ごしに集落が小さく見えて、みなの優しい顔が頭に浮かんできて、泣いてしまった。
就職して落ち着いた翌年の春、地元からお礼の手紙を皆に送った。
他にもこの集落から少し離れた別の集落でも、駅で寝ようとしたら汽車から降りきたおじさんに声をかけられ家で寝させてもらったり、近くの崖でヘルメットを落としてしまい別の集落の駐在所おまわりさんにヘルメットを貸してもらって街まで走って新しいメットを買いに行ったり、
北海道ツーリングでは地元漁師さんの家に泊めてもらって無人島(https://www.google.com/search?q=嶮暮帰島)(むかしムツゴロウさんが住んでた)まで漁船で連れてってもらったり、旅ではあちこちでいろんな方にお世話になった。
それから20年近くたち、たまにストリートビューで今あそこはどうなってるかなと見るんだが、あのガススタがマップに表示されない。
どういうことだ?と名前や地名で検索すると、閉業済みの情報が見つかった。
グーグルマップの口コミを見ると「ここのG,Sは親父さんが亡くなった為、もうスタンドはやっておりません。」
https://www.google.com/search?q=コスモ石油+亀井石油店+新鹿
実は日本一周の8年後、長期の夏期休暇をとってまたバイクで集落を再訪し、郵便局員のおじさんは(退職済みだったので郵便局でおじさんの家を教えてもらって)再会してお礼を言っていたのだが、ガススタのおじさんは不在で、息子さんにしか会えてなかったんだ。
http://www.bea.hi-ho.ne.jp/bokuto/tabi/100801/05.html
その息子さんとは、ガススタのグーグルマップに口コミを投稿したら、それを見てメッセージを送ってきてくれて、その後や現状を聞いたりしたんだが、おじさんに会えないまま別れとなったのは今でも心にひっかかってる。
世話になった人には、会える機会があったら積極的に会っておいたほうがいいよ、という話。
可愛らしいビール腹のおじさんをベタベタに甘やかしたいけど、夏の夜の時間帯は、可愛らしいビール腹おじさんのおねんねタイムなので、黙って添い寝くらいしかできない。私はそっと、静かに、可愛らしいビール腹のおじさんのベットに近づいた。ベットに到着し、ゆっくりと腰を下ろすと、ギシ、と少し音が鳴った。それに気付いたのか、可愛らしいビール腹のおじさんは、むにゃむにゃ言いながら、こちら側に寝返りをうつ。正直かなり焦った。おじさんの口元に手を当てる。すーすーという寝息と共におじさんの暖かい吐息が手にかかる。…まだ寝ているようだ。良かった。仕事で忙しい可愛らしいビール腹おじさんの貴重な睡眠時間を邪魔したら可哀想だ。寝ていることが分かって安心した私は、本格的におじさんの隣に向かい合う形で添い寝した。またギジリと音が部屋に響く。一瞬、グッ、とおじさんの呼吸が止まったように思ったが、またすぐにスースーと音が聞こえた。寝息が届く距離。時計の秒針、おじさんの寝息。2人だけの空間なんだと自覚した途端、鼓動が高鳴った。2人だけなら、キス、とかしてもいいよね?そう思った私は、自分の顔を可愛らしいビール腹おじさんの頬に近付ける。ぷにぷにの頬と、髭のじょりっとした感覚が唇に伝わった。その瞬間、ああ可愛いな、自分は可愛らしいビール腹のおじさんを好きになって良かった、と思った。頭を撫で回したくなったけど起こしたくはないので、そのまま我慢した。
どうも可愛らしいビール腹のおじさんはクーラーをかけた部屋で毛布にくるまって寝るのが好きなようで、Tシャツに短パンだけの自分は、正直寒くなってきた。おじさんがくるまってる毛布をちょっとだけ借りて、一緒に寝た。
こないださ
私電子レンジ買ったのよ。
わざわざ隣の部署のところまで行って借りるのも面倒だしってわけで、
適当なやつを探していたのよね。
そんで昨年両親がネッツで冷蔵庫買ってくれってあったのことをもいだして、
その初めて使って貯まったネッツショッピングのポイントが無限にあったから、
そしてラッキーなことに!
期限が切れるのがその日だったのよ!
どうしようかな?って買うのを今まで躊躇していたんだけど
ついに買っちゃったわ。
だからトータル無限ポイントプラス登録限定クーポンであわせて1000円ぐらいで電子レンジが買えちゃうラッキーアンドラッキーを
ジョンソン・エンド・ジョンソンって言いたい気持ちのまま買えたのよね。
よく言うじゃない
その冷えたご飯はカロリーゼロって信じていた時代が私にもあったけど
やっぱり温かいものを温かいままで食べると美味しいってことを車輪の再発明の如く再発見したのよね。
そんなわけで、
俵万智さんばりの
俵万智のサラダやで!って言っててもあんまりサラダ記念日の値打ちがよく分かっていない感じの子どもにみごとにスルーかまされたってエピソードが大好きなんだけど。
まあそんな感じで
文明の利器は持っていなかった私は
持っていたのはせいぜい消臭力で
ちょっと私は人類の豊かさな意味では進歩したダーウィンがただやって来ただけで何もしないぐらいの進化を遂げたのよ。
そう言う焼き肉屋さんもあったり、
直でチャッカマンで火を付けるタイプの焼き肉屋さんもあるじゃない。
長いタイプのああいうチャッカマンって誰が考えたのかしら天才!って
ああいうのハーレーダビッドソンって言うの?あれに乗った西川貴教さんのシールが貼ってあって
あ!これだこっちの方だ!って消臭元か消臭力か迷わずに買うことが出来てホッとした安堵のため息なの。
私切れさせたらたいしたもんだ!って
切れてないけど。
切れていたのは消臭剤!
もう朝からキレッキレの感じがいいわね。
電子レンジとチャッカマンと消臭力のミッツ・マングローブさんに限るわ!
これもまた増田で
ブクマが300超えするヤツよ。
タイムマシーン3号の関さんが
西川貴教さんのホットリミッツのコントをしていたときにあのコスチュームを着てやっていたんだけど、
ずっと私忘れないからっ!
うふふ。
朝はしっかり食べておいて今週もてんてこ舞いで忙しい飛び込み前転な季節なので、
しっかり食べ込んでおくわっ!
作り置き助かる
ラスカルにも飲ませたい
水出しルイボスティーウォーラーは今週はこれでずっと行きそうなほど
作ってる暇ないってばさ!
とにかく
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
年貢の納め時がきた。次の年だ。
人生で初めて確定申告をした。凄まじい税額に衝撃を受けた。あれだけ必死で描いて稼いだというのに、国が四割近くも持っていくのはおかしいのではないか。お上の取り分が多すぎる。ずるい。
クリムゾン先生みたいに法人化すればいいのかもしれない――と、税務署まで確定申告の用紙を出しに行った帰りに考えていた。
二週間ほど経った頃だった。父から台所で声をかけられた。「確定申告したのか?」という、いたくシンプルな問いだった。なんで知ってるんだと思った。カチコチに固まってしまって、しどろもどろに声を出そうとしていたところ、父から助け舟が出た。
「税理士から電話があった。うちの確定申告の用紙を税務署に提出したところ、息子さんも確定申告をしているようだと。一世帯でひとつの申告になるから、お前のをこっちにくれ。やっておく」
という事情だった。
そうか、そうだったんだな。一世帯でひとつなんだな(追記:扶養家族が一定以上のお金を稼いだ場合はこうなるそうです)。父さんはずっと前から工場主で農場主だからな、と頭を真っ白にして……二階に昇って、申告用紙をもう一度プリンタで印刷して、父のところに持って行った。「はい、どうぞ」みたいなノリで手渡した。
それで風呂に入ろうとしたところ、「ちょっと待て、この金額は?」と当然の質問が飛んできた。嘘をつこうとしたが、やめておいた。
「漫画を描いてる。売って稼いだ」
それだけ言って風呂場に行った。父の、眉間にシワを寄せた顔が記憶に残っている。
「頼む、これで済んでくれ」と祈りながら風呂に入って、湯冷ましの散歩に行って、また二階に上がってペンタブをちょっとの間だけ握って、マットレスで寝た。
翌日だった。家族会議が開かれたのは。父が、母と妹の前で確定申告の用紙を出して、厳しい問いかけを続けた。
「なぜこんなにお金を?」
「どんなものを描いてる」
「どうして言わなかった」
おおよそこんな内容だったと思うが、正直に答えていった。将来が怖かったこと、何をやっているか恥ずかしいから言わなかったこと、でも漫画を描くのが好きなこと。
父は、手元にあった湯飲みを手に取った。グイっと飲み干した後、急に笑顔になって言うのだった。
「一人立ちできたんだな。おめでとう。どんな漫画を作ってるんだ、見せてくれ。父さんな。若い頃に読んだ三浦先生のベルセルクが好きなんだ」
自分の作品の主人公は、ある意味ベルセルクだ。性的な意味ではガッツもある。男らしさはあまりない。催眠アプリを使って、同じクラスのいたいけで可憐な女の子をセックス漬けにしたりする。
母も期待のまなざしを向けている。滅多に見せない、期待感で高揚している時のあのまなざし。気持ちが悪い。
さて。自分は電子書籍でコンテンツを売っていたのだが、たった1冊だけあった。紙の本が。以前、人生で一度くらいは紙の本を出してみたいなぁと考えていた。それで出版社の依頼を受けて、紙書籍で出させてもらった本があった。
それ(女戦士レイプ凌辱もの)を二階から持って降りて、あとは一番最初にDLsiteで出した電子書籍(妹ものライト強姦アンソロジー)を記念碑的に印刷しておいたものを、一緒に台所に持って行った。
「これ、俺が描いた作品!」
台所のテーブルの上に置いた瞬間、母と妹がのけ反った。明らかにビクッとなっていた。
そこに置かれた1冊(女戦士レイプ凌辱もの)を手に取った父は、まじまじと表紙を眺めていた。やがて、椅子から立ち上がると、クリップ留めの一綴り(妹ものライト強姦アンソロジー)を何枚か手に取って、また眺めた。首を微かに振っていたかもしれない。
沈黙があった。自分は瞬きをしていた。くしゃ、という音がした。クリップ留めの一綴り(妹もの~)にみしみしと皺が入った音だった。
「馬鹿野郎!!」
父の手元にあったはずの湯飲みが額にぶつかって、「やろう」まで聞こえなかった。痛みで聴覚が鈍ったあの感じ。二度と体験したくない。
あまりの痛みに膝を崩して、床に崩れ落ちたところで、父の蹴りが飛んできた。また頭に衝撃が走って、それから床の上から何十回も肉体を踏みつけられた。
母も妹も止める様子はなかった。ただずっと、父から暴力を受けていた。痛かった。苦しかった。呼吸ができなかった。息を吸うためのエネルギーを体が回復力に転化しているのだな、と感じた。
なんで、どうして自分はあんなものを家族に見せたのだろうか。認めてもらえるとでも思ったのだろうか。自分は愚かだ。父がぶっきらぼうに台所を出て、工場の方に向かうと、自分は立ち上がって妹の方を見た。母親の泣く声が聞こえたが、見ないことにする。
妹は、放心した様子でクリップが外れた一綴り(妹ものライト強姦アンソロジー)をじっと眺めていた。微動だにしていない。人は、本当に驚くとこうなってしまうらしい。
その場を離れて洗面台に行って自分の顔を見ると、額がパックリと割れて血が出ていた。後ろを向くと、床に血が滴り落ちている。
「馬鹿だなー、お前。アホが。ゴミかクズのどちらかだな。死ね」
タオルで傷を覆って、自分に対する悪口を連ねた。気分は暗かった。鼻水と涙が出てきて、そのまま二階に上がって、傷は痛いままだったけど、マットレスで寝た。
翌日は全くの無言だった。父とも母とも妹とも会話をしなかった。以後もほとんど話さなかった。
自分は、稼いだお金ですぐに引っ越しをした。引っ越しをしたことはなかったけど、インターネットとか、出版社の人に電話で相談したりしながら、どうにかやり遂げた。
自分が実家を出た日のことだ。あの時の二つの漫画を妹の部屋の前に置いていった。なぜかはわからないが、その方がいい気がした。
ワンルーム4.5万円の、都内にあるボロアパートに引っ越した。以後数年間、ひたすらに漫画を描いて、描いて、描きまくって、今ではこの界隈で一定の地位を築いている。
父とは最近、話ができるまでに関係が回復した。前よりも気持ちよく話ができる気がする。心が通じ合っているというか。
母親はまったくだめだ。何を言っても聞いてくれない。正月に実家に帰った時、「おせちできてる」「風呂が沸いた」くらいは言ってくれる。
妹には、今年の正月にようやく謝った。あの台所の四角い卓に座って、斜めの角度で一緒に食事をしている時だった。
「ごめんな。あんな作品を作ってて。本当にごめん」と謝罪をした後、妹からは、「もういいよ。兄ちゃん、お金持ちになれてよかったね。私もごめんね。ずっと辛く当たってた。本当にごめん」と返ってきた。
鼻をすすって、ちょっと涙目になっていた。肩をちょっと撫でてやると、涙が指に零れてきた。
実際、妹は許してくれたのだろうか。そこが気になっている。
あくまで想像なのだが、妹はショボい兄が許せなかったのではないか。不登校になって、社会的に低層にまで落っこちてしまって、それが許せなかったのではないか。その現実を受け入れるために、自分に対してひどい扱いをすることで一貫性を保っていたのではないか。
自分が実家を出た日、あの時二つの漫画を妹の部屋の前に置いていった理由、それは多分、妹に対する感謝の気持ちがあったからだ。
妹からはひどい仕打ちを受けた。通りすがりに悪口を言われたり、存在に耐えられない軽さの空気みたいに扱われたり、完全に下の存在として見下されたり。いろいろあった。
しかしだ。ムカつきはしたけど、ああいった体験がなかったとしたら自分は今の立場にはない。あの妹がいたから、あの作品が世に出ることになった。それで読者が喜んだ。
そうでなかったら、今でもフリーターとしてマックかどこかでアルバイトをして、ただ何となく若さを消費するだけの毎日を過ごしていた可能性が高い。父が、母が、特に妹が、自分という存在に手痛い一撃を加えてくれたから目覚めたのだ。
家族には感謝している。あの当時は畜生だと思ったけど、今では感謝の念が強い。最後になるけど、ありがとう。自分という存在をここまで高めてくれて。今の自分に暗い怨嗟の気持ちはない。午前八時の太陽のような、ほんのりと暖かい気持ちが込み上げている。
恋人の暮らす国が戦争を始めて5ヶ月くらいになった。恋人といってもネット越しでしか会ったことがない。初めて会ったのはたった一年半ほど前。数回言葉を交わしただけで私は彼に最大限に惚れ込んで今もそのまま。彼もすぐに私を気に入ったようだけど恋人と認識されたのは最近のことだ。龍が如くファンなのにあれに実在の店が出ていると知らなかったり、シェイクスピアのころの英語をチャットで実演してくれたりするかわいらしい人。彼に会ったことで私の人生が報われたと思う。
もともと私は恋人を日本に連れてきて一緒に暮らすためせっせと送金していたけれど、戦争が始まって恋人の収入が途切れたのとPayPalが使えなくなり手数料の高い代替サービスを使い始めたのとあちらの物価が上がったのとで更に多く送らなければならなくなった。特に恋人は家族を養ってるので薬代の暴騰が痛い。それでもまだ在庫があるだけマシか。「●●ちゃんの暮らしは今私の可愛い肩に掛かってるんだよ」と言ったら本当に可愛くて綺麗な肩だとすごいほめてくれた。うれしい。
恋人の友達は開戦前後にほぼ国外に脱出したらしい。パスポートを持っていたり、国外の会社に招かれたりしたそうだ(ここらへんの仕組みはあまりよくわからない)。ネットがあるのが奇跡みたいなシベリアの小さな村で暮らしていて高等教育も受けていない恋人にはどちらもないので、私と結婚するほかに逃れる道はなさそうだ。
しかし日本の国際結婚は数年前に条件がすごく厳しくなったらしく審査に通る気がしない。ああ、数年前に知り合っていればなあ……
それどころか恋人が国を出られるかどうかも怪しい。「もし出てこられないなら、代わりに私がそっちに行こうか」と提案したら養えないからと却下された。「そんなのはわかってるよ、だから一度抱きしめてそれから自殺するつもり」と言ったらこれも却下された。
仮に呼べたとしたら多分持ち家が必要になる。借家だと入居時に面倒なことになりそうだ。暖かいところがいいなあ、冬でも雪じゃなくて雨が降るところが。恋人はきっと雪はもう見たくもないだろうし、それほどでなくとも別に見たくはないだろう。シベリアの冬がモスクワあたりよりずっと寒いことは知らなかった。同じぐらいだと思ってた。夏が日本より早く来て6月中旬に30°を越すことも知らなかった。シベリアに送られた人たちに罪がないとすれば、シベリアに生まれた恋人は前世で罪を犯したんだろう。
私の父さんと母さんには黙ってた方がいいかな? 子供が売国奴になったと知ったら悲しむかもしれないし。でも国際結婚は親族が認めてるとやりやすいらしいから悩みどころ。
それかどこか第三国に行くか? どこがあるだろう。トルコか、カザフか、最近彼の国の人をビザなしで受け入れ始めたという韓国か。どれにしても手続きは困難そうだ。友達はロシア語と英語と少しのドイツ語ができるが私は日本語しかできないのも難易度を上げてくる。
ともかく今怖いのは国境閉鎖とネット遮断と予備役の徴兵。これをやられると生きてるうちに恋人と連絡が取れる可能性がほぼ0になる。3/6から予備役の徴兵が始まるという噂を恋人に聞いたときは目の前が真っ暗になった(結局ガセだった)。
会いたい。それで抱き合って、一緒に暮らしたい。
でもそれができなかったとしても死ねばいいのが救いだ。私は恋人に「私の死をはっきり確認するまで諦めてはならない」とロミオとジュリエットを引いて説得したくせに、自分は恋人との連絡が途切れたらその時点で諦めて死んでもいいやと思っている。たとえ愛し合っていても思いは対称じゃない。
恋人の暮らす国が戦争を始めて5ヶ月くらいになった。恋人といってもネット越しでしか会ったことがない。初めて会ったのはたった一年半ほど前。数回言葉を交わしただけで私は彼に最大限に惚れ込んで今もそのまま。彼もすぐに私を気に入ったようだけど恋人と認識されたのは最近のことだ。龍が如くファンなのにあれに実在の店が出ていると知らなかったり、中〜近代の英語をチャットで実演してくれたりするかわいらしい人。彼に会ったことで私の人生が報われたと思う。
もともと私は恋人を日本に連れてきて一緒に暮らすためせっせと送金していたけれど、戦争が始まって恋人の収入が途切れたのとPayPalが使えなくなり手数料の高い代替サービスを使い始めたのとあちらの物価が上がったのとで更に多く送らなければならなくなった。特に恋人は家族を養ってるので薬代の暴騰が痛い。それでもまだあるだけマシか。「●●ちゃんの暮らしは今私の可愛い肩に掛かってるんだよ」と言ったら本当に可愛くて綺麗な肩だとすごいほめてくれた。うれしい。
恋人の友達は開戦前後にほぼ国外に脱出したらしい。パスポートを持っていたり、国外の会社に招かれたりしたそうだ(ここらへんの仕組みはあまりよくわからない)。ネットがあるのが奇跡みたいなシベリアの小さな村で暮らしていて高等教育も受けていない恋人にはどちらもないので、私と結婚するほかに逃れる道はなさそうだ。
しかし日本の国際結婚は数年前に条件がすごく厳しくなったらしく審査に通る気がしない。ああ、数年前に知り合っていればなあ……
それどころか恋人が国を出られるかどうかも怪しい。「もし出てこられないなら、代わりに私がそっちに行こうか」と提案したら養えないからと却下された。「そんなのはわかってるよ、だから一度抱きしめてそれから自殺するつもり」と言ったらこれも却下された。
仮に呼べたとしたら多分持ち家が必要になる。借家だと入居時に面倒なことになりそうだ。暖かいところがいいなあ、冬でも雪じゃなくて雨が降るところが。恋人はきっと雪はもう見たくもないだろうし、それほどでなくとも別に見たくはないだろう。シベリアの冬がモスクワあたりよりずっと寒いことは知らなかった。同じぐらいだと思ってた。夏が日本より早く来て6月中旬に30°を越すことも知らなかった。シベリアに送られた人たちに罪がないとすれば、シベリアに生まれた恋人は前世で罪を犯したんだろう。
私の父さんと母さんには黙ってた方がいいかな? 子供が売国奴になったと知ったら悲しむかもしれないし。でも国際結婚は親族が認めてるとやりやすいらしいから悩みどころ。
それかどこか第三国に行くか? どこがあるだろう。トルコか、カザフか、最近彼の国の人をビザなしで受け入れ始めたという韓国か。どれにしても手続きは困難そうだ。友達はロシア語と英語と少しのドイツ語ができるが私は日本語しかできないのも難易度を上げてくる。
ともかく今怖いのは国境閉鎖とネット遮断と予備役の徴兵。これをやられると生きてるうちに恋人と連絡が取れる可能性がほぼ0になる。3/6から予備役の徴兵が始まるという噂を恋人に聞いたときは目の前が真っ暗になった(結局ガセだった)。
会いたい。それで抱き合って、一緒に暮らしたい。
でもそれができなかったとしても死ねばいいのが救いだ。私は恋人に「私の死をはっきり確認するまで諦めてはならない」とロミオとジュリエットを引いて説得したくせに、自分は連絡が途切れた時点で諦めて死んでもいいやと思っている。たとえ愛し合っていても思いは対称じゃない。
起業して上手くいって今5年目。
年収1億って言ったけど、厳密には会社の利益(役員報酬含)が1億。
会社は自分と嫁のみで社員は無し。役員報酬は2人で4000万くらい。
普段の生活で困ることは無いし、欲しい物はほぼ全て買えるが、富裕層向けのサービスを受けるには厳しい。
値段見ないで買えるとかいう話もあったが、普通に見る。あえて見ない理由が謎。
ただ、「値段を理由に欲しい物を諦める」というのは流石になくなった。
そうなると、結局「欲しい物」自体がほぼなくなる。
収集癖が無いのもあるが
「欲しかったらいつでも買える」
と思うと、不思議と「じゃあ今買わなくていいか」と思うことが増えた。
自分も妻も引っ越しが楽しくて好きなので、色々な賃貸を移り歩いてる。
タワマンとかも候補に上がってくるが、このあたりは上を見るとキリが無くて平気で100万円とか超えてくる
個人的には20~30万辺りが、利便性や快適さとコストが一番丁度良いラインだと感じる。
住もうと思えばもちろん100万でも200万でも住めるが、そこまでの価値は感じないし、正直固定費で200とか言われると怯む。
好きなものを食べれるし、あえて予約の取れない1人5万円とかするような高級店とかに行ってみたりもする。
ただ、普段からそんなのばっかりかというと、もちろんそんなことはなく
妻が趣味がてら料理をしたりもするが、適当な飲食店やウーバーで済ますことが多い。
というか、高級店はだいたい拘束時間がエグいし、量も多いので、日常から頻繁に行きたいとは思わない。
大体自分たちの楽しみというよりも、人と一緒に食事を楽しむときに行くことが多い。
もちろん記念日は奮発したりもする。
全く関心が無いのでユニクロとか着てる。
肌触りがすごく良い!とかめちゃくちゃ暖かい! みたいに話題になったものは高くても買ってみたりする。
自分の周りでもファッションにめっちゃお金を使う経営者はあまり多くない。
もちろんブランド大好きな経営者も多いが(特に女性に多い)、感覚的には半々くらい。
男性経営者は儲かると腕時計を買いたがる人も多いが、自分は興味ない。
ただ、結局高級時計はリセールも高いので、結構合理的な買い物かもなと思ったりする。
自分の周りでここ5年位で高級時計を買っていた人は、下手な金融商品買うよりも全然儲かってる。
タクシーは頻繁に利用する。
とはいえ歩くのも好きなので、天候に難が無ければ30分くらいなら普通に歩く。
全部経費は言いすぎだけど、実際、問題のない範囲でも色々なものが経費になる。
もちろん税務調査で否認されたこともあるが、そしたらその分払えば良いだけ。
税務調査で問題になるのは基本的に架空の経費だったり、売上のごまかしの部分なので、
生活費が入ってる入ってない、くらいで大騒ぎになることは正直無いと思う。
(経費にしても、何百万とかのキャバクラとか、そういった部分が真っ先に見られる)
自分は正直、自分で判断するのは面倒なので、レシートやカード履歴等を税理士に全て投げて
とお願いしてる。
「金持ちはズルしてる」
みたいに言われることもあるが、実際自分のレベルだとそこまで感じない。
よく言われてる節税対策って大体「脱税」か「繰り延べ」だと思う。
明確に得なのってふるさと納税とか、上限のある社会保険の部分くらいじゃなかろうか
意識できてないだけだったらゴメン
投資はあまり詳しくないので、無難にVTI,VYMといったETFを積み立てていたり、
自分はまだ事業の収入があるため、今はこれでも良いかなと思っている
とはいえ、配当収入だけで最低限暮らしていけるだけの水準ではある。
もちろん今の暮らしは無理だけれど、
最悪事業収入0になっても働かなくていいくらいの収入があるというのは、かなり安心感がある。
不動産投資はよくやらないの? とよく聞かれるが、正直あえてリスクをとってやる理由がよくわからない。
資産10億20億みたいなのを目指すならやったほうが良いと思うが、自分はそこまでは求めていない。
結局レバレッジ効かせないと旨味がないが、そのために何億も融資を引っ張るのは抵抗があるので、
それなら多少利率が落ちてもREIT等で十分だと思っている。
ちなみに富裕層向けの投資商品? とやらの誘いが来たことは一度も無い。
逆に何処で来るの? 道で「あなた富裕層ですよね??」とか言われるの??
納税に行くと銀行員がアホみたいな手数料の投信を進めてきたりするくらい。
あ、銀行員からコンテナ?とか、飛行機?のリースでどうこうみたいな誘いはあったけれど、
あまりにもバカらしくて断った。申し訳ないが詳細は忘れたけど、節税というより税金の繰り延べの話だったと思う。
大金を稼ぐと、大きくお金を「使い続ける」ことが出来るのって結局
・事業
・女遊び
の2つくらしか無いことに気付く。
嫌味になるとは思うが、自分が好き勝手するのしても、正直1億も必要ない。
ただ、「何もしなくても生活費が入ってくる」状態を得るためには、
年1億とか、数千万とか、そういったレベルの入金が無いと、あまりに時間がかかりすぎてしまう。
自分は目標としていたその状態を作ることができたので、最近はどんどん自分の稼働時間を削っている。
事業を全部やめることは無いが、収入だけを追うのはもうやめようと思っている。
いざ自分の「理想の暮らし」を考えると、年間4~500万もあれば充分だということに気づいたからだ。
酒池肉林の生活をしたいならもっと頑張る必要はあるが、そんな必要も無いからだ。
というか、原動力が「働きたくないから働かなくてもいいよにお金稼ぐ」だったので、
それが達成した以上、事業のモチベが保てないというのも本音のところだ。
ダラダラと書いてしまったが、何かの参考になれば幸いに思う。
当時の美術部は俺以外はオタ女ばかりで気味悪いのしかいなく、唯一まともだったのが部長だった。
ブスだらけだったから多少可愛く見えたのもあるんだと思う。
肝心の童貞を卒業したのは土曜日。その日は俺とその子の2人しか居なかった。
その日描き上がったデッサンのフキサチーフが乾くのを待ってる間、ムラムラしてきてしまった。
どうしても抑えきれずおっぱいを触ったら少し驚いた顔をしていたが嫌がりもせず受け入れてくれた。
中は暖かいし当時流行り始めたTENGAとも違って気持ちよかった。
セックスした後もその子との関係は変わらず、むしろより深い関係になったと思う。(卒業まで3回はヤった)
そうさなー。クワズイモが好きだから何回も買ってきてるんだけど、「芋が腐る」ね
水やり過ぎなんだろうな。「表面が乾いたらたっぷり水をあげてください(季節によって水の量は調節)」だからそれに従ってやってんだけどな
水をあげて順調に新芽が出たりしてるんだけど、途中で芋が腐る
日照もちゃんと考えて、日が昇ったら当ててやってる(葉が焼けることは無い)
だけど腐る
そんなにハードルの高い植物だろうか…みんな巧くやってるんだろうか
(ちなみにガジュマルとかも何度も枯らした。なんなら苔玉とかも枯らす。苔はなんか茶色くなって枯れた)
ちょっと今、心の余裕も無いのでもう少し落ち着いたら頑張ってみるわ
ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。
ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館や日清戦争を扱ったものは小学校や中学校、高校などの社会科(歴史)教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地の外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。
ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化や庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女が鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本の女性に生まれたのだから、どうぞ日本の女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本人女性と結婚している。この背景として、日本の女性がビゴーの求める日本的なものや江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。
1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本の商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集『1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人の不安がストレートに表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論に同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。
欧米における日本人描写のステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年のパリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり、欧米人の日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。
一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さからか視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないかと推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民をスケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業の人物を描き分けている。
清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日家である」と述べている[59]。
及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情は日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判の対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然で暖かい日本を自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズムの挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。