はてなキーワード: 心理学者とは
金貰ってもいないのにカウンセラーなんぞやんねぇぞならそのままお伝えすれば
「傾聴」は英語で「active hearing」または「attentive hearing」です。「active hearing」は臨床心理学で「積極的傾聴」と呼ばれ、アメリカの心理学者カール・ロジャースが提唱した手法として知られています。
「共感的理解」とは「相手の視点、相手の立場に立ち、相手の気持ちや話の内容に共感しながら聴き入れることです。「共感する」という行いは相手にとって「話を聴いてくれている」「認めてくれている」という安心感を与えてくれます。
「無条件の肯定的関心」とは、聴き手の私的な感情を取っ払い、無条件で肯定的に話を聴くことです。たとえ、話の内容に誤りや間違いがあっても、また社会的に反する内容であっても、否定をせず関心を持って聴く技法です。
「自己一致」とは、聴き手自身の感情や意見も尊重し、相手の話で理解できない点がある時は内容を確認しながら、真摯な姿勢で話を聴いていくという技法です。分からない点をそのまま置き去りしてしまうと、相手に「私の話はそれほど重要ではない」と誤解を招いてしまうこともあるでしょう。質問と答えを確認する行程が加わりますが、相互理解はお互いに安心感を与えてくれます。
ペテン師症候群、詐欺師症候群、Impostor syndrome
1978年に心理学者のポーリン・R・クランスとスザンヌ・A・アイムスの論文で紹介された。"The Impostor Phenomenon in High Achieving Women: Dynamics and Therapeutic Intervention"
高級車や宝飾品のような高額商品を買ったときにそれを感じてしまう人が結構多いのだとか。
https://www.eurekalert.org/pub_releases/2019-12/bc-lcc122019.php
3年ぶり2回め anond:20161202173246
でも欧米の学園物の映画やドラマでは必ず体小さい子ややせっぽちが「ホモ野郎」って罵倒されて嫌われてる。
体の大きいたくましい男が「あれはホモなんじゃないか」と恐怖や警戒されてることなんかないでしょ。
日本でもそう。
ホモフォビアっていうのは根源的には
「ホモに襲われるのが怖い」んじゃあなくて
「自分がホモと関わりのある人間になる、ホモになるのが怖い」なわけ。
女性のレズへの気持ちより男性のホモへの気持ちの方が拒絶が強い気がする。
科学的に比べたわけじゃないけど。
多くの男性はホモについてつまり、出来損ないとか失敗者みたいなイメージをどこかに持ってる。
男児は父親に去勢される恐怖を持ってる、っていってた心理学者がいたけどホモ嫌悪はあれに近い。
具体的に襲われることを警戒するというより、
そのホモとの関係性が出来る、自分がホモに近くなる、自分がホモになる、
肉体的に弱いホモは嫌われる理由が少なくなってわりと寛容に扱われて
ムキムキゲイの故ビリー・ヘリントンは「兄貴」として大人気で慕われてたよね。
あれはつまりボディビルで鍛えあげた超男性的な肉体がホモという「欠陥」を凌駕して
むしろ「超オス的な英雄なのにでかい欠点のある親しみやすい俺達の兄貴」になったわけ。
ムキムキでゲイなら親しみを込めていじられることもある。
線が細くて女性的でゲイならもう救いようがなくキモいのでキモキャラかオカマキャラしかない。
これは結構世の多くのゲイ嫌悪的なストレート男性の反応として心当たりあるでしょ。
「現実的に襲われることが怖い」じゃなくて、
「男の失敗作のバイキンが移ることが怖い」。
これがホモフォビアの大部分の正体だと思うよ。
bigapple11 性的に見られることへの恐怖って女にとっては身近すぎて当たり前になっているけど、男は身近にゲイの存在があって初めて、実感として意識できるようになるんだろう
こういうのはたぶん大外れってこと。
俺の説もこの人の説もともに科学的なエビデンスはない自己研究的見解だけどさ。
痴漢に悩まされたことがある女性とかにとって「スカッとする」説なのでこんなに支持されてトップに立ってるんだろうけど、
スカッとする説が正しいかと言うとそうでもなくて、願望バイアスがあるぶん外していくことの方が多いと思うよ。
ゲイをいじめたりするのはもちろんよくないことで非難されるべきなんだけど、
非難されるべき人間の心の内訳と言うのはとかく「スカッとする」説明をされやすい。
人間は攻撃欲や支配欲や異質なものを排除したい気持ちを本能的に持っているものだから
いじめも差別も本能で自然のことで、何一つ悪い事をしてる訳じゃないよ!
とはならないだろうに
「そういう気持ちを持つ」だけなら別にいいんだよ。ただ、それを特定の人に向けたらそらダメだって話。
他者の人権に抵触しない限りにおいて内心の自由は最大限保障されるべきという考え方。
そもそも自分だって、食事で殺しをすることを正当化しながら生きてるだろ?
本質的に生きてるだけで他の生物の生命も他人の立ち位置も奪うもので、
人間の本質に関わる汚い部分を正当化していけないのなら、そもそも生きてるのがおかしいはず。
それに、本能的に人間には差別とかいじめとか(性欲とか)汚いものを持ってるのはもう色んな専門家が言ってる。
心理学者のフロイトが「どうすれば戦争は無くなるか」に答えた書簡が興味深いから読んでみたらいいよ。
こことか。
http://news.kodansha.co.jp/20170123_b01
最近だと脳科学者の中野信子氏が「ヒトは「いじめ」をやめられない」って本を書いてた。
「脳科学者である著者は、いじめをなくすことより、この本能をどのようにコントロールするのかという方向に、
いじめの回避策が見いだせる、と説いている。」ってことらしい。
多分、心理学や生物的にはいじめや差別の気持ちは誰しもが持っているのが普通なんだと思う。
相手の気持ちを考えるとかでその攻撃性を人様に向けないようにするのが教育という話なんじゃないか。
もちろん男の性欲についても同じな。
なんでそういう話になるのかわからんけど、これはアウトだわ。男の側が悪い。
それを直接嫌がってる誰かに直接向けない限り見て見ぬ振りをしてやれっていう話。
この例みたいに嫌がってる相手に「直接」向けたらアウト。
一方で、想像するだけとか直接の行動を起こさなければセーフだ。
どんな考え方や気持ちを持ってもいいが、それを人に向けてはいけない、なら別に両立するだろ?
で、「想像されるだけでも我慢できない」って話になるなら、多分それは男の感情を誤解してるだけだから、
下の方は例が悪かったな。付き合い出す直前ぐらいを想定してたんだが。
「男の家に泊まったのなら性行為に同意したのと同じか」って議論があったよな。
そら理屈で行ったら、それだけで同意したなんていうのはおかしいけどさ、
男からしたらそれを一晩我慢し続けるってのは拷問っていう話なんだよ。
別にどちらかが悪いとかどっちが正しいって話じゃなく、
お互いの感情を理解してトラブルになったり相手を苦しませないように
配慮できるようになりましょう、って話で、
まぁ、わざと生きにくい考え方を選んで一生男の感情と戦っていくのを選ぶなら
自由にすればいいと思うけど、すごい生きづらい考え方を選んでるように見える。
絶対になくならない人間の本能を否定して戦うとか地獄にしか思えない。
悪い言い方をすると、増田は自分(女)のことしか考えてないのよ。
どうすれば男も女も楽に生きられるか、両方の立場を考えてないわけ。
逆に性教育できてない男は、自分(男)のことしか考えてないのよ。
だから女性が怖いと思う気持ちとか女心とか生理とかが理解できなくて傷つけたりしてる。
行動主義はJ.B.Watsonが最初に提唱した心理学の哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。
しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義を自称している行動主義者は現代にはいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。
そこで、行動主義の誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。
Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学の対象を客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。
当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。
Watson が反対したのは、Wundt の方法論である「人間の自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能な事象の関係を研究の対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射の概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。
また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓や筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代の身体性を重視する心理学・認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。
さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である。場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。
注意しなければいけないのは、Watson の行動主義の立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判は歴史的な批判以上の何物でもなく、現代の科学の議論ではない。
では、行動主義を自認する現代の研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である。
Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。
Skinner は、科学の目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。
徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学の重要な対象であるとはっきりと述べている。
逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明」である。心的な活動は実在するし、それ自体研究の対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。
ただし個人な見解としては、行動分析学はほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。
行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。
なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹と帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータが必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係のデータの蓄積を重視した。
つまり、あくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。
ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義と区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。
また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。
Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。
ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくまで歴史的な展開として捉えるべきである。
Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学の研究対象は客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。
Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数の挙動の変化により行動の予測に挑戦した。
Hull の研究の問題点は、いたずらに潜在変数をいくらでも増やせてしまい、理論が肥大化する危険をはらんでいるためである。特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論は必要か?」という論文で理論研究を批判していているのだが、Skinner が批判したかったのは Hull の心理学だったのである。
Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。
Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である。
現代の視点で見ると、認知心理学の下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。
ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義の立場からすると方法論的行動主義に立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義者なのだ!
なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象の研究をする。公的事象の操作 (実験条件) を通じて、内的事象の定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象は公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究者集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である。
1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針が多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。
Skinner の行動分析学はプラグマティックな科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパース、ジェームズ、デューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能的文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。
Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学の目的である予測と制御に寄与しないと考えたことも一因である。
Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。
具体的には、「態度」を測る質問紙研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究の問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。
このような、伝統的な行動主義と比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学の自由主義化」であると述べている。
少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である。
また、機能的文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。
行動主義の科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実の問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。
これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造のプロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。
巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。
(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」
Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。
巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性が行動主義心理学の分析単位であると主張している。
つまり、ミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロな環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である。
行動主義心理学の目的を予測と制御に置くならば、結局はマクロな記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。
Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。
彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである。
このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである。
Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学に必要であると考えた。その点は、実験結果から法則を抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である。
行動主義心理学の目的は、予測と制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象を記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズムと表現」の位置に心理学を位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。
Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくまで心理学的レベルでの記述である。
ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。
Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析の単位とするかは、それ自体が研究の立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉で表現している。
それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学が伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである。
また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカルな議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。
一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義と認知心理学を分ける特徴の 1 つである。しかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。
色々なアイデアはあるものの、基本的に現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学の議論として行動主義を批判したければ、Skinner を相手にするべきである。
行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解の責任は基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。
個人的には、アンチは信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワークの出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。
ガニメアンには面子というものがなかった。自分の誤りが明らかであればそれを認めるのに毫もやぶさかでなかった。自分のほうが正しかったとわかっても、ガニメアンは自己満足を味わうということがなかった。自分のほうが優れているとわかっている仕事を他人がしても、彼は黙って脇で見守った。地球人には到底真似のできかねることだった。立場が逆で、傍に自分よりも優れた者がいればガニメアンは遠慮なく助力を求めた。ガニメアンは威張らず、驕らず、決して他を貶めなかった。一方、彼らは自ら卑下せず、謙遜せず、決して他に媚びなかった。ガニメアンは間違っても脅迫的な言辞を弄さず、また仮に他からそのような態度を示されたとしても一向に恐れる気配はなかった。彼らの言動ならびにその言動に伴う態度には、自身の存在を主張し、優越を求めるものはかけらほどもなかった。心理学者の多くは人類社会におけるこの自己主張が、共同生活の中で抑圧された闘争本能の発揚に代わる儀式であると認めている。だとすれば、ガニメアンには人類における抑圧された闘争本能に当たる感情が欠落していると考えるしかない。
——ジェイムズ・P・ホーガン『ガニメデの優しい巨人』
悲惨の事件、前代未聞、単独殺傷事件での死者数過去最多…なので、多分どうやって考えればいいか分からなくなっている部分がある。
一つの事件を一つの視点で考えることは、どんな犯罪においても違うとは思うのだが、
事が事だけに混乱しているメディアや書き込みが目立っているような感覚を持つ。
なので一つ一つを整理していくべきだ。冷静に。犠牲者に悲しみを持って。
まず最初に、大勢の人間の命が失われたことについて考えなくてはならない。
これが同じ人間としてまず考えるべきことであり、これが考えられない人に以下を考える資格は無いとすら思う。
なんの罪の無い人たちが、殺されてしまった。いまだに入院している人もいる。怪我人も多い。
居合わせた74人のうち無傷だったのは6人だけ。
我々はまず、悲しまなくてはならない。
そして、彼らの今後に想いを馳せる。そのために必要なものはなにか、協力できないかと考える。
集められた資金は、まずは彼らのために使われるべきだろう。
次に文化的価値についてであると考える。いや本当は防災意識なのかもしれない。しかしいつだって感情が先なので、これは後回しにしよう。
日本は文化を持って戦争に負けても自尊心を保ってきた。アニメは文化だ。
多くの日本人は文化価値の重大さにして理解しているからこそ、アニメーターに価値を見出している。
さらにドラえもんやクレヨンしんちゃん、コナンや美味しんぼ、キャッツアイや犬夜叉、初期ジブリ作品など京アニが関わったことのある作品を見たことの無い日本人はいるだろうか。
アニオタでなくとも、その事実に気付いたときにハッとするものがあるだろう。
大きな喪失感はきっとこの辺にあるのだろう。
次に考えるのは防災観点だと思う。京アニが問題だったわけでは無い、と断言する。少なくとも、法律上は問題が無かったのだから。
しかしこういうことが起こるのだ、という前提で今後危機管理を行っていかなければならなくなった。
そうせざるをえないのだ。いつだって最悪を想定して防災は進む。
これで何かが変わらなければ、日本はそれこそ成長が止まった国となるだろう。
特殊な事件だからで終わらせることは出来ない。一度あることは二度ある。だから、考え続けなければならないのだ。
次に考えるのは京アニの再建だ。
しかしこれは再建しようとする人が居続けることが必要だ。事件後すぐ表に出てきていた社長は再建すると言っている。
ただ、事件後間もないことだ。社長の気持ちや状況も汲んであげたい。アニメへのテロ行為に屈するわけにはいかないのだから。
我々はきっと社長の言葉に期待しているが、それは時間がかかることだろうし、気力が続くかどうかも分からないことだ。
今はただ、彼らがしたいことの手助けをするのみだ。あれをしろこれをしろ、という時期ではない。
彼らのためにできることが、京アニの復活に繋がると、信じて待とう。
目を向けなければならないのはいつだって人の気持ちだ。そうでないと人で無くなってしまう、と考える。
被害者やその家族、そして関係者、友人、救助にあたった人達、近隣住民。そしてファン。
この人達のカウンセリングについても考えていかないとならない。
今は警察が100人体制で動いているが、来年は50人も残っているのだろうか。
するべきことはたくさんある。今すぐにすることと、長期的にすることを考えるのが大事だろう。
さて注目されている犯人の動機だが、それを聞いて納得できた人は、危ないと思う。
殺人事件を書く小説シリーズにありがちの言葉だが、殺人鬼の言い分を理解してはいけない、ということだ。
殺人者の動機を延々考えている推理作家たちの結論が多くそこに行きつくのが、なかなか興味深い。
だから正直なところ、聞いても仕方がないと思う。
しかし聞かなくてはならない。そして対話をしなければならないのだろう。
話しもせず死刑を執行することは、結局のところただの殺人鬼と同じになってしまう。
法律は本来国民が決めるものだ。国民の意思で話も聞かずに殺すとなれば、国民が理屈の無い殺人鬼になってしまう。
死刑制度について考えてしまうが…まぁきっとこれは、凶悪犯が出てきたときに逐一考えていくことなのだろう。結論はそれぞれだ。
ただ犯人の動機を聞いたところで、上記に書いたことよりは得られるものが少ないように思う。
正直なところ、その分野の詳しい人や心理学者に研究を委ねるべきなのだろう。
きっとまだ考察すべきことはあるのだろう。
日本脱カルト協会 (にほんだつカルトきょうかい、英文名称:The Japan Society for Cult Prevention and Recovery、略称:JSCPR)は、心理学者、聖職者、臨床心理士、弁護士、精神科医、宗教社会学者、カウンセラー及び「議論ある団体」の元メンバーや家族等から構成されているネットワーク団体である。
1995年11月に日本脱カルト研究会(英文名称:Japan De-Cult Council)として結成、2004年4月に現在の名称に改称。
日本脱カルト協会の理事兼事務局長の滝本太郎弁護士が、所属する横浜弁護士会から3月31日、「弁護士としての品位を失うべき非行」が認定され、懲戒処分(戒告)を受けました。
滝本弁護士は、医師である教会員のAさんが診療所を開設する準備を進めていたところ、建物貸主のB社から委任を受けたとして、無断で建物入口のカギを付け替えたり、建物内に保管していたカルテを持ち出すなどしたとしてAさんから懲戒を求められていました。
日本脱カルト協会のホームページには「当会は破壊的カルトの諸問題の研究をおこない、その成果を発展・普及させることを目的としたネットワークです。心理学者、聖職者、臨床心理士、弁護士、精神科医、宗教社会学者、カウンセラーそして『議論ある団体』の元メンバー等により構成されています」とありますが、その事務局長自身がこのような不品行・非行によって懲戒処分を受けるようでは、全く信用性の欠如する団体であると言わざるを得ません。
アメリカの心理学者・アブラハム・マスダーの欲求5段階説によれば、
男性の性欲は、動物的な低次の欲求からより高次な欲求へと進化してゆくそうです。
生理的欲求=射精さえできればよい。(オナニー、夢精、レイプ含む)
↓
↓
↓
↓
人間の欲求は、下位の低次の欲求が満たされると上位の高次の欲求へ上がっていくので、
彼氏の性欲もただの生理的な射精欲求からあなたに対する承認欲求へと変わってきているんじゃないかと。
ただ、女性に生理周期があるように、男性にも精子製造の周期があって、
精子が精嚢に十分に溜まっている時期は、射精したくてたまらないけど、
具体的行動に落とし込んだ定義はありません。
そして立法もされていません。調べようね。
見せても納得しなかったじゃん。
「女性の進学率低い」とだけと受け見せられても、「選択の結果だね」としか言いようないだろ。
あのね、「逃げなかったから加害者を受け入れていた」とかいう解釈がまかりとおったりするのね。
実際にはカメラの確度であったり医学的要因から否定されてるような痴漢が有罪になったりするのが本邦の裁判。
こりゃ失敬。
謝るところが一つだけありましたな。申し訳ない。
具体的行動や発言レベルの定義がないセクハラなんか拡大解釈でいくらでも当てはめられてしまうわ。
恐ろしい。
私に紹介されなくても見つかるほど、めちゃくちゃ事例が転がってるのに、一個も見たことがないのなら、あなたの勉強不足だから。
全然事例が転がってないのに、極端な事例だけ取り上げて男叩きするの、あんたの勉強不足だから。
根拠がないから信用されない。信用されもしないことで人権侵害をするから反発される。
俺は困ってるんじゃない。怒ってるんだよ。
自説の根拠も並べられないのに顔も知らない、自分がぶん殴ってる相手に甘えちゃって、恥ずかしくないの?
フェミは攻撃してる。君は賛同者だろ?じゃ攻撃にも賛同してるってこじゃん。
「腕力がある」→まあ分かる
「腕力にまかせて女性を襲っていいと思ってるやつがそれくらいいる」→あなたの感想ですよね?
ソース無し。
大人と子供の関係で、大人側が女性なら女性が強いこともありうるけど、残念ながら子供への性犯罪も男性から女性(女児)への方が圧倒的に多いです。
こないだの事件でも「おねしょた」とかいってるフェミの何と多かったこと。
「腕力云々」のエビデンスを先に出してくれたら探してきますが?どこにそんな統計があるのやらwwww
妊娠できる体の人が妊娠するかもしれない、ってことを当たり前にして社会を動かさなきゃならないの。
それは、いつか病気するかもしれないとか、忌引きで休むかもしれないってことと同じ。
病気や忌引きは突然やってくるが、妊娠はコントロールできますね。終わり。
人を思いやらない人は人からも思いやられないよ。
人を思いやらず衝動のまま根拠もなく他人をぶっ叩いてきたから思いやられない。
「欲しいと思ったら確実にできるわけじゃない」は正しいが、作ると選択しない(避妊をやめない)限りできないだろ。
調べろよ。すぐ出てくるから。
ちょっとだけ教えてあげるけど、「犯罪が被害者のせいであるかのように言ったり、被害を軽いものと見なしたりして、傷付いている被害者を更に追い込むこと」です。
ご丁寧にどうも。
実際には「判決確定前の事件への想像」などにもバンバン適用されてるから、上記定義が全く不足してるのは確か。
うん、フェミが最大限拡大解釈した「セカンドレイプ」を振りかざして他人を黙らせようとしてる姿がたーくさん出てきますね。
揃ってます。
証言は物証ではないし、防犯ビデオの映像も擁護派が言ってるような映像じゃなかったんでしょ。
いいか?「ランダムに選ばれた市民も不起訴判断」という事実を噛み締めようね?
自己肯定感と自己愛を混同してるやつは、関連書籍読んでから出直してこい。 自己啓発クソ野郎が書いてるクソビジネス書じゃなく、心理学者とか心理療法家が書いてる、専門書の方な...
違ったんか?(´・ω・`)
だよ
肯定感が異様に低い人は「アンタはこう」ってむしろラベリングした方がええと違うと書いた
その上で自身の特性 (というか重視している価値観/行動) に自覚的になった方がいいと思うやで
「傾聴」は英語で「active hearing」または「attentive hearing」です。「active hearing」は臨床心理学で「積極的傾聴」と呼ばれ、アメリカの心理学者カール・ロジャースが提唱した手法として知られています。
「共感的理解」とは「相手の視点、相手の立場に立ち、相手の気持ちや話の内容に共感しながら聴き入れることです。「共感する」という行いは相手にとって「話を聴いてくれている」「認めてくれている」という安心感を与えてくれます。
「無条件の肯定的関心」とは、聴き手の私的な感情を取っ払い、無条件で肯定的に話を聴くことです。たとえ、話の内容に誤りや間違いがあっても、また社会的に反する内容であっても、否定をせず関心を持って聴く技法です。
「自己一致」とは、聴き手自身の感情や意見も尊重し、相手の話で理解できない点がある時は内容を確認しながら、真摯な姿勢で話を聴いていくという技法です。分からない点をそのまま置き去りしてしまうと、相手に「私の話はそれほど重要ではない」と誤解を招いてしまうこともあるでしょう。質問と答えを確認する行程が加わりますが、相互理解はお互いに安心感を与えてくれます。
実証重視の方々にとっては「物語」の代表に見えるであろう精神分析系の心理療法も、ちゃんと効果が確認されるようになってきたたことです。
それこそ、そのエビデンス(論文)でも提示されればいいんじゃないですかね。
この辺りのこと?
Jonathan Shedler,"The efficacy of psychodynamic psychotherapy."(American Psychologist 2010)
Falk Leichsenring,Sven Rabung,"Effectiveness of Long-term Psychodynamic Psychotherapy: A Meta-analysis"(JAMA 2008)
精神分析医のフィーリス曰く(1)、フロイト派のセラピーはビクトリア時代の人たちには、うまく機能していたが20世紀半ば以降、人々の「性格の鎧」の質が変わり、セラピーはうまく機能せずに行き詰まって失敗することが多かった。
フロイト派の精神分析法は、「幼少期の体験が成人してからの人格の基礎となる」というものが骨子の一つ(2)だが、そのことに大打撃を与える調査が出てきた。1990年代にマシュマロ実験の文献を詳しく調べたマーティン・セリグマンは、幼年期のできごとが成人してからの人格に影響を与えるということは、ひどい心的外傷や栄養失調があった場合にはありうるかもしれないが、それ以外では有力な証拠がほとんどないと結論づけている(3)。子供時代と成人してからの性質に、ごくわずかな相関は認められるが、それは主に遺伝的(生まれつきの)性質、つまり概して明るいとか気難しいといった性質の反映として説明できるという。
また心理学者のバウマイスター一同がフロイトの提唱する理論的メカニズムの数々を現代の文献と付き合わせて検証したところ、最も最悪な理論が昇華説だということが判明した(4)。そもそも昇華説には根拠がない上、事実はその逆だと考えられる理由が多いからだ。
もちろん、フロイトの理論は示唆的で興味深いものが多いし、余談だが「快感原則の彼岸」については現代思想の中ではかなり重要な位置づけになっている。ラカンも執拗にこの論文にこだわるわけだしね。
それに、フロイトの批判をしたバウマイスターは、フロイトの提唱する説でエネルギーが重要な位置に置かれていることに敬意を表して、フロイトが使っていた自己を指す言葉「自我(エゴ)」を使って、「自我消耗」という言葉を「人の思考や感情や行動を規制する能力が減る現象」に名付けた。自我消耗に関しては、後に脳波記録検査法(EEG)で脳内の前帯状皮質におけるスパイク発火(エラー関連陰性電位)が対応する脳機能であることが確認された(5)。
著名な心理学者であるスティーブン・ピンカーは、 今回で言えば「人生全体」「物語の蓄積」「人生の深み」といったことで、科学の基本的研究方略である「単純化(simplify)」を退けようとしていることに苦言を呈している(6)。 研究の対象をとなる複雑な現象をいろいろなレベルに単純化し、いろいろなレベルごとに 解明していくことを拒んで、複雑な現象をありのままに理解しようとしていたのでは研究はいつまでたっても現状に停滞したままになる。単純化を嫌って、複雑な現象を複雑なままで捉えようとする人文系学問に多く見られるのこうした研究方略を、ピンカーは完全な正確さを求めて「原寸大の地図」 を作った愚かな地図職人を描いたホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)の寓話で批判している。
現代心理学の始まりがブント(Wilhelm Wundt: 1832-1920)のライプチヒ大学での心理学実験室創設とされるように、そのスタートから科学を目指したものだった(7)。 人文学の科学化と言っても、物理学や化学の実験を導入するのではなく、心理学の実験手法や神経科学の実験手法(EEG、fMRIなど)を取り入れればいいのである。また、国際的な科学的心理学の学会APS(Association for Psychological Science)の会長だったカシオッポはこうした点に注目し、心理学が科学と他の文系の学問とのハブとなるべきであると主張している(8)。
個人的には、人生全体からの人間理解やフロイト理論の人間理解よりも、人類史からの人間理解(進化心理学)(9)や神経科学からの人間理解の方(10)がより多くのことと整合性が有ると思うし、「物語」を一切考慮しないで休職者の約53%を予測したリシテア(11)といったことの研究に心理学がより一層取り組んでいくことを願ってるわ。
▼出典
(1)Allen Wheelis,"The Quest for ldentity"(New York: Norton,1958).
(2)Sigmund Freud,"Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie(『性理論三篇』)"(1905)
(3)M.E.P.Seligman,"What You Can Change and What You Can't :The Complete Guide to Succesful Self-Improvement"(New York:Alfred A.Knopf,1993).
(4)Roy F. Baumeister,Karen Dale,Kristin L. Sommer,"Freudian Defense Mechanisms and Empirical Findings in Modern SocialPsychology: Reaction Formation, Projection, Displacement, Undoing, Isolation, Sublimation, and Denial"(Journal of Personality,1998)
(5)Michael Inzlicht,Jennifer N. Gutsell,"Running on Empty: Neural Signals for Self-Control Failure",(Psychological Science 2007)
(6)Pinker, S."Science Is Not Your Enemy: An impassioned plea to neglected novelists, embattled professors, and tenure-less historians." (New Republic, 2013)
(7)Bringmann, W. G., Bringmann, N. J., & Ungerer, G. A."The establishment of Wundt's laboratory: An archival and documentary study." (W. G. Bringmann, & R. D. Tweney (Eds.), Wundt studies: A centennial collection (pp. 123-157). Toronto: Hogrefe. 1980)
(8)John Cacioppo,"Psychology is a Hub Science"(Observer 2007)
(9)Martin Daly, Margo Wilson,"How evolutionary thinking inspires and disciplines psychological hypotheses." Pp. 15-22 in XT Wang & YJ Su, eds., Thus spake evolutionary psychologists.(Peking University Press,2011)
(10)一例を挙げれば、心の理論(Theory of mind)における神経科学の役割とか。サイモン・バロン=コーエンが有名だろうが、研究は色々有りすぎて挙げきれない。
(11)HR テクノロジーで、人や組織のパフォーマンスの最大化を図る 「リシテア/AI 分析」サービスを販売開始(https://www.hitachi-solutions.co.jp/company/press/news/2016/1201.pdf)