はてなキーワード: 人文学とは
https://scicom.c.u-tokyo.ac.jp/activity/415
科学コミュニケーション論は、欠如モデルへの批判とともに発展してきました。欠如モデルというのは、
次のような考え方のことです:人々が科学を信頼しないのは科学的知識が欠如しているからだ。だから、人々に科学的知識を与えれば、科学への信頼が回復する。
これは、科学に限らず例えば好きなアニメについて人に紹介するときなど、普段のコミュニケーションでも陥りがちな考え方です。
しかし、例えばバイオテクノロジーに関する調査によって(Bucchi & Neresini 2004)「市民に科学的知識を注ぎ込めば、知識の欠如が解消する」ことと、
「市民に科学的知識を注ぎ込めば、信頼が得られる」という仮説は共に否定されています。
そこで、欠如モデルとは異なるさまざまな新しい科学コミュニケーションのモデルが提案されてきました。例えば、文脈モデル(受け手のニーズや状況に注意を払って科学的知識を与える)や、
市民参加モデル(科学者と市民が共に社会的課題解決や政策決定などに意見や知識を反映させる)などです。
しかし、正解のモデルが提示されているわけではなく、それぞれのモデルを状況に合わせて使い分けるのがよい、という議論にとどまっているのが現状です。
福島での原発や放射線関係のデマやHPVワクチン関係のデマに対する科学者の態度として
欠如モデルという言葉が何度も用いられてネットリベラル、はてサ界隈で批判が行われてきたけどさ…
むしろそのネットリベラル達がまさに人文学や社会学関係で欠如モデルな態度を取ってきたよね
まるで人間や社会などについて語る時は欠如モデルには何の問題も無いとばかりに
今になって人文学や社会学関係の専門家や知識ある人達が信頼されていないのは
まだ引き起こされてない文化衰退に対して
文系軽視理系偏重の行き着く先。こういう洞察にアッと気付かされるからXは良い。 (略)
- Rabbit@釣柔戯画🐇 @RabbitPostre https://x.com/RabbitPostre/status/1846054035822199060 ( https://archive.md/JFEtC )
(以下に対する引用リポスト 何をもって文学芸術等の衰退とするかという旨で)
(略) すべてが「友か敵か」という政治のロジックに回収されていくことなんだろうな
- 下西 風澄 @kazeto https://x.com/kazeto/status/1845814891501978043 ( https://archive.md/MzRiM )
起きていないことすら文系を重視しないせいとか言われてもですね…
理系偏重であったとしても、理系自体には文学芸術排除の傾向はありませんので文学芸術の発展衰退を大きく揺るがすことはほぼない
私は、送り仮名が間違っている人に対してかなり厳しい。
明治大正あたりの小説では、今とかなり違う送り仮名が使われていたりして、しかしそれは別に構わない。
全国で同じ言語を学ぶと言う国の目的のもと、国語の教科書の内容がある時期に統一されて、それを小学校で全員が学んでいるにも関わらず、間違える人に対して、「なんで気づかないの?」「小学校の勉強もできなかった人かな?」と思ってしまう。
一方で、夫は「伝わればよくない?」とのこと。さらに、「人文学的な内容は時代で変わるのだから」「増田は学校で習った正解にこだわりすぎる」という。
そりゃあそう。私だって伝わればいいと思う。でも、送り仮名がちょっと違えば、ぱっと見て読めないときもあるではないか。うんだ、と読みたい時に、生だ、と書いてあると、難しくないか?
時代で変わる、に関しても反対だ。なぜなら、増田と同年代は全員同じ指導要領で学んでいるので、違うはずがない。
正解にこだわりすぎる、というのも、よくわからない。正解うんぬんではなく、そもそもひとつしか解がないので、それ以外を選択しようがないではないか。
一方で、テストのときは点数のためにちゃんと書くべき、と言っている。おもしろい。じゃあ普段から書けよってな。
うーむ。
中高年期の勉強の続け方のコツ、仕事しながら大学で学んでる人などのコツを教えてほしい。
最初の大学を卒業した後、通信制大学や社会人向けの修士課程などを経て、35歳までに学士3つ、修士1つ、博士1つを取得した。学士は文系が2つだが、残りは理系である。趣味で人文学領域の学びを継続している。
自分の仕事はホワイトなので、仕事に関係しない分野で学びを深めていこうと思い、学部〜修士レベルの学びを続けていこうと思っているが、35歳を超えた辺りから、明らかに文系の本や論文を読む体力が衰えた。
普通に運動習慣を作れば読書などの体力も戻るかもしれんと考え、スパルタンレースに出るようになって、毎日高強度インターバルをやっているが、文学部的な学びをちまちまと続けていく意欲は戻らない。
きっかけかどうかは分からないが、これまで年に10本ぐらい観た映画の批評を書いてきたが、ここ最近、箸にも棒にもかからない映画批評が多く、これと同じレベルのことをする意義を感じなくなり、批評も映画鑑賞も辞めたところ、他の領域にも無気力が侵犯してる気もする。6年以上、通信制大学などを活用して人文学を学んできたが、これ以上は時間の無駄で、もっと社会の役に立つ学問に転向した方が良いのかとも悩んでいる。
大学時代を過ごした2010年代前半から、ずいぶん時代は変わってきたと思う。
まだ中国が胡錦濤や習近平初期の時代。中国のカオスにはもっと好感が持てた。チベットや新疆も旅行できた。それが今はどうかという感じ。
グローバル化が進展し、SNSで遠くの人と知り合ったり連絡とったりが容易になった時代。円高もひどくなく、どんどん国際交流して、世界は交わっていくと思っていたな。それがコロナで交流が断たれた時期もあり、円安で日本人が旅行しづらい時代になった。欧米でもグローバル化への反発が高まっている。
テクノロジーはどんどん社会を明るくしていくと思ってた。AIで便利になった面はありつつ、ソーシャルメディアのアテンションエコノミーやフェイクニュースの害悪が目立つようになった今。
いま絶対なものも、時には徐々に、時には前触れなく急に変わる。社会状況も、価値観も。
流行なんて追ってもすぐに古びる。いちいちの時事に反応せずに、哲学とか人文学とか、もっと長いタイムスパンでの検証に耐える価値を大切に生きていきたい。
まあ人文学以外でも無理だけど
言いたいことはわかりました。うーん。
ただボーイズライフってのは関係性が恋愛未満であることっていうのがそのジャンルへの所属資格として前提になってるようですね。
確かに恋愛未満なら性描写はなくなるというのはほぼ真でしょうが、性描写がないから恋愛未満ってのはちと短絡的ではと思えます。
食事シーンがある漫画はいくらでもありますけど食事したら現実的には排泄するはずなのにそのシーンがある漫画は不自然なぐらい少ないですよね。
別に同性愛で結婚できる世界観のもとで結婚生活を描いとしても、性描写を描く必然性はないってことですよ。
でもこれって紛れもなく同性愛でしょう?
普通に回答しただけで「いつのまにかお腹膨らんでるのいくらでもありますよね」とか長々話しだすの生理的に無理だし気持ち悪いです。
俺だって議論のやり取り上必然的に出てきた不明点を普通に書いただけなんだが
排泄とか同じことを伝えるのにそれ以外に適当な言葉ないよね。じゃあ女とは人文学的な議論も満足にはできないことになるだろうな。言論封殺じゃん
最初から致命的なところを出してしまったが、オタクは全般歴史に疎い
ググれば正しそうな情報に当たりやすい科学的な知識などと違って、人文学系の知識はググるとトンでもの宝庫である
匿名掲示板のオタクは本を読んでシコシコ調べるなんて能力はなく、ググって胡散臭くなさそうなサイトであれば真実だと思い込む連中ばかりである
弥助騒動で弥助の部分だけを否定しようと思っても、周辺知識が間違いまくっているオタクしかおらず、説得力がない
歴史系の書籍の本棚を見ると露骨だが、アマチュアや素人は右翼っぽい本を書いていてプロであるほど中立から左翼的な視点で本を書いている
王政復古のために神仏分離を行なって数多の文献を寺から燃やした明治政府を好意的に解釈している歴史学者などほぼほぼいないが、アマチュアの歴史本書きは明治維新の周辺人物のことをみんな大好きである
弥助騒動は左派をまったく巻き込めていないので、真っ当なアカデミックのムーブメントとして偽史を非難するという流れになれないのである
オタクたちは英語ができないのでchatGPTで翻訳させたバカみたいな英語でリプや宣伝活動をしているが、バカがAIに作らせた英文だと一目瞭然である
日本人もAIっぽい文章が分かるように、ネイティブが見たらネイティブっぽい文章かそうでないかはなんとなく分かる
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当該発言を庇うつもりはまったくないけど、事実関係が違うのはどうかと思うので。
『「そろそろ薬で男性の性欲をコントロールすべきでは」准教授の訴え』へのコメント
この人、人文系じゃないよ。専門はタイの政治、つまり政治学者であって、政治学は社会科学系なので、文系ではあっても人文系ではない(文系は、文学・哲学・歴史学などの人文系と、政治学・社会学・経済学などの社会科学系におおまかに分類される。もちろん境界的な研究領域はあるけど、下で書いたようにこの人は直球の社会科学系)。
Synodosでも色々タイ情勢に関する記事を書いてらして、普通に面白いのでみんな読むといいと思う(正直、これらの記事を通して認知してた人だったので、twitterでの発言を見て「Oh......」となってしまう感じ。作者と作品は……別だから……!)>https://synodos.jp/expert/toyamaayako/
筑波大の「人文社会系」というのは、人文系と社会科学系の教員が所属する集団という意味であって(cf. https://www.jinsha.tsukuba.ac.jp/about)、そこに所属しているからといって人文系の研究者とは限らない。同大学の「数理物質系」に所属しているからといって物理学者とは限らない(数学者や化学者かもしれない)のと同じ。
大学も貢献してますよ感出すためだけにジェンダー系のポスト設けてあげてるのにどんどんヘイト集めるからかなり煙たいだろうなぁ
上述の通り、専門はタイの憲法とかクーデターとかそういう話なので、ジェンダー系のポストで採用されたわけじゃなく東南アジア研究とか比較政治学とかの枠で採用されてる人。大学のウェブサイトに載ってるご本人の研究キーワードが「憲法改正と民主化、政治の司法化、汚職取締と民主化、新しい強権的政治リーダーの登場と体制変動、政軍関係、立憲君主制の国際比較研究」だからね。ゴリッゴリの政治学者ですわ。ジェンダー研究は門外漢やろ……
学者が専門外のことでいっぷう変わった発言をするの、みんな心当たりのあることだと思う。統計力学の分野で名を上げた大阪大学大学院理学研究科物理学専攻の教授が財務省についてどんな発言をなさっているか、皆さんはよくご存知でしょう。
学者は同時に市民でもあるので、学問の追求者として厳格であっても市民としては偏見まみれみたいな人は大勢いるんすよね。ほら、国際日本文化研究センターの助教の人だって本業の日本中世史ではマトモだったじゃないですか。
上述の通り、現代タイ政治の分野では有名なセンセなので、たとえばタイでまたクーデターが起きたりしたらそういう場に出てくることもあるだろうし、それは全く問題にすべきではない、とは思う。不適切な発言してる理系研究者でも、たとえばノーベル賞の解説番組なんかに出るのは全然問題ないだろうし。
「人文系」という定義の話だけで外山先生の所業に関しては何も言及していないのだが、ご専門が「タイの憲法学」と聞くと、憲法学という括りではあんまり大差ないかもしれない
すまんこれはこちらの説明も悪かったんだが、彼女は憲法学者でもないんだ……憲法学は法学の下位区分だけど、このセンセの場合は憲法そのものの研究というよりも、憲法で決められたシステムがどんなふうに現代タイの政治に影響しているかを論じているので憲法学者ではなくてあくまでも政治学者なんや……
(「9条を素直に解釈すると自衛隊は違憲になる」みたいなのが憲法学で、「9条の規定がどんなふうに与野党対立に影響しているか」みたいなのが政治学)
いわゆるダメな人文系の代表格としてあげられるのが社会学者なんだか社会科学だから人文系じゃないは通らないでしょ。むしろ哲学や倫理学の人たちはこの手の狂い方する人少ない気がする
それは、まず社会学を「ダメな人文系」扱いしてバッシングしてた人たちがカテゴリエラーを起こしていただけなのでは??????
何で他者によるカテゴリエラーの責任を呼び間違えられた側が取らないといけないんですか??????
政治学や社会学はふつうは人文系には分類されない、のは単なる事実ですが??????
文系内部の細かい違いがわからん場合は、人文系とか社会学とか言わずに素直に文系って言っておけばよいのでは。社会学者でも何でもない文学研究者や歴史家が社会学者って言われてる光景、浜の真砂ほど見たので。
社会学は社会科学ではないというのは分かるけど人文科学と社会科学の線引きは何なのだろう?法学や政治学や経済学など社会科学は「技術」を論ずるもので、人文系は「価値観」を論ずるみたいなこと?
人文学に分類されているものが人文学で社会科学に分類されているものが社会科学です(進次郎構文)
……いやマジでこれはそうとしか言えない。文学・哲学・歴史学・宗教学ってだいぶ違うし、伝統的に人文学にまとめてます以外の説明はしづらい……(アジアの本質って何ですか? って聞かれてる感がある。日本とパキスタンとモンゴルとインドネシアの共通の本質……? とりあえずヨーロッパやアメリカではないです、あとワールドカップでは同じ地区で予選してますね、みたいな……)なので、線引きがわからんって人は、こういうもんだと割り切って「人文学に含まれる学問リスト」を丸暗記するか、無理に人文学とかの言葉を使わずに個別の学問の名前で呼べばいいと思います。
何を思って増田がこれ書いたのか分からんが、学部とかどうでも良くて差別的な発言するって教育者としてどうなの?てだけの話です/コロンブスの時と良い、最近話をわざわざややこしくする人多いね。
盗人猛々しいな。話をややこしくしてんのは政治学者を人文系の学者と誤認した連中だろ。そいつらが間違った認識を振りかざしてなけりゃ訂正記事書く必要もねえんだよ。話をややこしくしたくないなら間違った事実認識に基づくコメントをつけんじゃねーよ。
カテゴリ分けがどうでも良いなら指摘されたら直せば良くないですか??????
「外山准教授を人文学者やジェンダー研究者と間違って呼ぶ人がいなければこんな増田を書く必要はなかった」という当然のことを忘れないでもらっていいですか??????
初代ガンダムの描写を批判するのはいいけど、「これだから萌えアニメは」とか言ってたらおかしいし突っ込まれるでしょ? マジでそのレヴェルの話であるのを分かってほしい。萌えアニメの定義がわからんなら「これだからガンダムは」とか「これだから日本アニメは」って言っとけよってこと。
そんな「アジア系以外の一般のアメリカ人視点では日本人はチャイニーズ扱いされがち」とか「非オタ以外の一般人視点では宇崎ちゃんはエロ漫画扱いされがち」みたいなこと言われても……
スコットランドの平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。 天文学者:ここの羊はみんな真っ黒なんだね。 数学者:少なくとも1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。
ぼく「そこはイングランドです」
(前半からの続きです。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093126
もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います。作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。
大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品はほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。
思い返せば2020年のトリエンナーレにあった「エビにSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビと水草の入っている閉じた水槽)の中でエビは酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草は二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビは生殖をしなくなる。そこでエビに生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品はエビにセクシーな格好をさせるとか、エビの秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶しています。しかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球の生態系の比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授の課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています。
2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号と出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家のメモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事が引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています。自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。
現代芸術の作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます。人文学、哲学、歴史学、経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。
かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家は自由に作品を作れるはずなのに、ただ社会の要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります。
しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。
トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島の原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品の面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。
しかし問題は受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケな作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります。
今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術を意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味を付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています。作品と意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います。
私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメの解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかしアニメ本編とはズレているから面白い。YOASOBI の歌はアニメのストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術も世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界をアートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います。
しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地を創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。
批判めいたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレを批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーションと環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感も理解できますが、それとは別に、芸術と資本の関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本の資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品が意味をもつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味を暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。
咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーターの解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身が作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義のマルボロの広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランスは果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーターが真剣に構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います。
要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます。
魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風のファンになり、富山妙子の画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号のオブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛けの作品が好きでした。
つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。