はてなキーワード: 領域とは
映画を見た。詳しいタイトルを挙げるとネタバレに繋がるのでぼかすが、2010年代前半に作られたミステリもので、犯人は40代の男。
動機は70年代に未解決のまま終わった事件の黒幕を捜し出し、復讐すること。男の父親は事件によって殺されていた。
こういう物語は、どんどん減っていくんだろうなと思う。
昔を生きていた人間が年老いて死んでゆけば、過去の犯罪を因縁に持つ犯人は減っていく。私が見た映画だって、舞台が現在(2021年)であれば成立し難い。犯人は50歳を超えているので、少なくともアクションシーンを少し削らなければ。
公的組織の不透明さ、捜索技術の不足、それによって生み出されるわだかまりだとか未解決事件というのは、時が進むにつれ減っている筈だ。
※根拠として示せるものは特にない。映画を1本見た素人の所感なので。
ミステリーの舞台は事件現場から建物の中へと移っている気がする。(※示せるものは以下略)
警察は本当にそんな部署を抱えているの?と言いたくなるような分析組織(監視カメラの映像や前科者のデータが壁一面に映し出されていて、監禁場所を特定する凄腕ハッカーなんかがいる精鋭部隊)が舞台のドラマをいくつか見た。
最新の電子技術を使った捜索、脳や精神の研究者が活躍するミステリー。
犯人の行方、身元が技術の進化によって「謎」でなくなりつつある今、ミステリーは新たな「謎」を求めてより未知の領域へと足をふみこもうとしている。(※素人の以下略。しかし移り変わる先はともかく、昔の推理小説を読んでいたら、「そんなの監視カメラを辿ればいいんじゃない」と思うことが偶にあることから分かるように、過去の題材は、進歩した現在で「謎」になり得ないことがままある。)
ずっと昔、今では義務教育で習う出来事を誰も知らなかった時代、ただの自然現象は「謎」であり「魔法」、「奇跡」、「神の仕業」であった。
それが次第に解き明かされていくと、今度は人間の行動に焦点をあて、物語の謎とした。
じゃあその次は?それらは今現在有名な推理小説作家の作品と並べられるだろうか。
大昔の謎から生まれた物語が神話、伝説とされミステリーとは並ばないように、私達が今楽しんでいる小説、ドラマ、映画も、無知な人間が描いた娯楽作品とされる日が来るかもしれない。
過去に迷宮入りした事件を最新(2010年代)のテクノロジーを利用して暴いていく犯人を見ながら、ぼんやりとそう思った。
本当に素人の考え。
別に知らないから言ってるわけじゃないし、教養がないって煽りはボキャブラリーなさすぎ
建築家の領域でエンジニアの領域を超えるのは工業デザインと、せいぜい都市計画くらいまで
同じ土木建築分野でも橋の設計者は、設計もデザインも両方やるけど芸術家とよばれることはほとんどない
建築がある種の芸術性を持っていることは否定しないけど、公共施設において税金から多額の設計費を払うほどの効用があるのかい?
国立競技場のデザイナー選定騒動はばかばかしいものだったし、都庁だっていまさらあれを芸術だといって愛でる人や、優れたデザインによって都民のシンボルになっていると主張する人はほとんどいるまい
京都新聞。
「マイナンバーが関わる領域が拡大することにも注意が要る。関連法案には、健康保険証や運転免許証、医師免許など国家資格とマイナンバーをひも付けするための法改正も盛り込まれている。だがマイナンバーは本来、税と社会保障、災害対策の3領域に限定され、カード取得は任意とされてきたはずだ。事実上の取得強制につながらないだろうか。」
母が枕を使わない人間だったので、生まれた時から当然のように枕を使わず育ってきた。
一人暮らしを始めてもずっと枕を使っていない。
学生の頃は平気だったが、最近になり、起床すると首や肩に痛みや凝りを感じるようになった。
枕を使ったほうがいいのはわかっているのだが、平たい場所で寝る感覚が気持ちよく、また感覚過敏気味なこともあって枕がある状態だと気持ちが悪くて眠れない。
また、睡眠に関する癖がもう一つあって、寝ている間にマットレスや壁に足首や手首を押し付け、変な方向に曲げる、というものもある。
起きると高確率で手首や足首が痺れているので、よくないのはわかっているのだが、無意識の領域なので意識的にやめることができない。
うつぶせ寝、横向き寝の癖もあるので、枕無しと相まっていつも寝起きは全身が痛い。
ヒゲが(体毛全体も)濃くて毎朝のヒゲそりにかかる時間が無駄すぎる。ヒゲソリで肌が荒れるし、かつ夕方になると青ヒゲヅラになり自分の顔がとても不快。
若いころは週一のペースで毛抜きで抜いてたが、埋没毛になり皮膚下で数センチの長さに伸びてトグロを巻いて膿んだり、ナイフで皮膚切って血を出しながら取り出したりとさんざんな目にあってきた。(数年続けてたが、不毛だし顔が埋没毛の処理で傷だらけになるので20代半ばでやめた)
自家用フラッシュ脱毛機や自家用レーザー脱毛器はとても低出力でまともな効果が望めない。
レーザー脱毛の原理は、肌に吸収されず黒色(毛のメラニン色素)に吸収されるレーザー光をあてて発熱で毛乳頭組織を破壊すればいいということで、基本なんでも自分でやってみる性質なので、レーザーモジュール買って組み立ててやってみた。
自前のウェブサイト持ってるが、違法な部分はないけど色々言われそうなので匿名の増田でやる。
・レーザー脱毛では波長755nm、800nm、1064nmのレーザーが使われており、波長が短いほど発熱効果が高いが浸透性が低く、波長が長いほど皮膚の深くまで届く。安価で入手しやすい波長808nm、出力500mWの近赤外線ダイオードレーザーモジュールをaliexpressから個人輸入した。送料込18USドル。型番 JLM8050ZD-J2Y5 18F30
・レーザー機器には消費生活用製品安全法による規制がかけられており、日本国内の販売業者が一定以上出力のレーザー機器を一般消費者向けに販売するのは禁止されているが、入手や所持することに規制は無い。つまり海外から自己使用のため購入するのは完全に合法。売ったり譲ったら違法。
・皮膚科サイトで医療脱毛用は30msecパルス照射で最大60ジュールと紹介されている。えーとえーと、出力2000W!?そんなんあり得る!?何か間違ってる?? 今回入手したのは0.5Wなので120秒間一カ所に照射して同等の効果になるが、やっぱりおかしい。→後で(たぶん)解決。
・医療脱毛用は肌のヤケドを防ぐため冷却ガスを出しながらレーザー照射する機能があるが、そこまで強力でないのでまあいい。冷却が必要なら照射する前に肌を水で濡らしといて気化熱使えばいいや。
・焼くほどの高出力レーザーを皮膚組織に当てるのは傷害かつ医療行為となり、他人に業として行うのなら医業となり医師免許がなければ医師法違反の犯罪となるが、自分で自分の脱毛するのは業として行っていないので医師法には抵触しない、と思う(ピアスの穴を自分で開けるのと同じ?)。またこれを医師でない人間が他人に施せば傷害罪となるが、自分で自分に何をしようが当然に傷害罪にはあたらない。
aliexpressで発注して2週間で届いた。
モジュールなので照射部分と回路部分が分かれており、スイッチは無く12V入力は汎用性のないコネクタ。
照射部と回路部は両面テープで貼り付けて合体させ、12V入力ケーブルを途中で切断して電源ボタンとしてタクトスイッチを割り込ませ本体に接着、ケーブルの先に2.1mmDCジャックを付けた。あとは普通の12V 1A以上のACアダプタをつなぐだけ。
近赤外線の波長だが可視光領域の光もあるようで赤い点になる。どこを照らしてるかわかりやすい。
煙が出ると思ったが、何も反応しない。触るとほんのり暖かいくらい。おかしい、不良品か?
照射口を紙から離していくとレーザースポットがだんだん収束し、4cmほど離したところで直径1mm弱の点になり瞬時に紙にパッと閃光が走り白い煙が出た。
なるほど、レーザーは照射口から数Km先まで平行光が続くものだと先入観があったが、これ4cm先でピントが合うようになってるのね。
50cmも離すと室内でどこを照らしてるのかわからないくらい拡散してしまい、これは遠距離照射する悪戯には使えないようになってるのか。なるほどね。
逆に言えば定位放射線治療みたいに、精密に皮膚からの距離と照射位置を保てば毛乳頭のみ焼くような芸当もできるわけだな。無理だけど。
次に白い紙に当てるとまったく焦げない。明るい色なら加熱されないわけだな。
ある程度わかったので、まず手の甲の毛を一部剃って、当ててみる。
一点に止めてみると、1秒たたないうちにチクッと来て慌てて電源ボタンから手を離す。焦げる匂い。
これが毛、毛乳頭が焼けた感触だな。
手の甲2c㎡ほど処理。翌日、痛みが続いたり赤く腫れたり膿んだりは無い。
逆に毛が抜けてくることもない。時間が短すぎた?もうちょっと待つか。
皮膚科サイトでは医療脱毛レーザーは照射口が12mm×12mmのサイズとあり、なるほど広範囲を一気に処理できるようになってんのね。2000Wが一点に集中するわけじゃなくて、広範囲を照射するための高出力なわけね。
144m㎡で2000W、1m㎡あたり約14W、これなら納得できる。これを0.03秒照射してるから、0.5Wを0.84秒照射すれば単位面積あたり同じだけ加熱してるわけだ。そのくらいでチクッとしてたから、体感的に納得。
これは時間はかかるが家でヒマなときに鏡みながら毛一本一本焼いていくのは苦じゃない。
次に本番、顔のヒゲ。
上唇は特に痛いと聞いてたが、そんなに。
特に邪魔な頬と首(喉仏付近)のヒゲを集中的に処理。チクチク、ジュッジュッ、毛が焦げる匂い。
翌日、おお!!
いつもは剃って一晩たって手で触ったらザラザラするのに、伸びてないぞ!頬がすべすべしてる!すごいすごい!感激だ!
高校生の頃から20余年間、毎朝毎朝、累計するとどれだけの時間を消耗させられてきたか。にっくきヒゲが消せそうなのでとても感激して駄文を書き連ねてきた。
これから1週間程度様子を見て、また良くも悪くも変化があったら追記する。
最後にお約束、これは俺個人の体験談で、真似して皮膚に障害を負っても責任もてないので真似しないでね
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2/14中間報告
今のところ害は出てない。・・・が、実は効果もはっきりしてない。
最初に「翌日ほほがツルツルのままで感激」と書いたが、どうも思い込みのバイアスだったのか、翌々日にはいつも通り毛が生えてきた。
これが処理した毛根から生えてきたのか、処理時は休眠してた別の毛根から生えてきたのか不明だが、どうも前者な気がする。
たぶん、自分でやるが故にチクッとした瞬間に次の毛に移ってたので、熱の加え方が足りなかったんだろう。
「上唇もそんなに痛くない」と書いたが、熱の加え方が足りないから当然痛くなかったんだろう。
今は慣れてきたのもあり、チクッとしてからもさらに1秒、計2秒間くらい当ててる。けっこう痛いし、しばらくヒリヒリしてる。
これがプロ用のハイパワーレーザーだと0.03秒で熱を加え終わるので、否が応でも死滅させるが
0.5Wの(プロ用に比べると)ローパワーで自分でやるが故の辛さ。
あと、皮膚科だと毛を剃った状態で面積ごとに処理するが、このレーザーは直径1mmの点処理なので1本1本の毛を狙う形になり、
処理すべき毛がわかるよう夜に1mmほど毛が伸びた状態で処理してるが、この毛をどんどん焦がしていくので、すごく臭い。自室やリビングでは無理で、換気扇のある洗面所でないとできない。
あと洗面所の鏡の前に立って前かがみで顔を近づけて処理するので、腰に来る。なのでスマホに付けるチューブカメラをレーザーに付けてスマホ見ながら処理できるようにする。
aliexpressではより強力な1Wの805nmレーザーも売ってるが一気に高価になる(100ドル近くする)ので、
今の0.5Wレーザーのヘッド部だけ5個注文(15ドル)して、LED用の定電流回路に直列で繋げて、5個を一点に集中照射するようパテで固定して2.5Wレーザーを作る予定。
ただ5個も同じレーザーを買うと、商売目的と誤解されて税関で止められないか、通関したとしても警察に通報が行って消費生活用製品安全法違反容疑で家宅捜索されないかが不安。
「社会がどうあるべきかについての個人的な意見を雑なデータで補強して学問っぽく見せかけてるから害悪」
って感じの批判だけど
よく観察するとむしろ批判者側こそがそういう行為が大好きなんだよね
要するに反知性主義者だ
インテリになるための教育を受けたけど、職業インテリになれなかったために嫉妬と憎悪を燃やす人間が中核になるそうだ
日本のネット民は昔から自分だけの狭い領域に閉じこもり、世界を変える努力を放棄してきた
正直中国の弾圧関連は今さらな話ではあるが、最近は注目が上がっていて良い流れだと思う
ところが、関連記事でのブクマに日本も同じとか言ってるコメントが目につく
例えば、ウイグル人の強制収容所については日本の入管も同じとか。
日本の入管に問題があることは確かだが、ホロコーストを前にして比べるに足ると思ってるのだろうか。問題を矮小化して虐殺を利することになってないか?
他にも、中華思想(自民族中心主義)について、日本人も同じというコメントが見受けられる。
中国の問題は中国の問題で、日本は日本の問題に集中すべきという話なのかもしれないが、その領域を逸脱した問題だと思うし、私には受け入れられない
電力会社によるスピーカーの音の違いみたいに、スマホと一眼カメラの画質の差はほとんどの人には理解不能な領域
『文學界』2021年3月号の新人小説月評に関して、評者の荒木優太氏が「末尾が勝手に削除された」とTwitterに訂正願いを投稿、ほどなくして『文學界』公式アカウントも反論のツイートをした。
【訂正のお願い】今日発売の『文學界』3月号に寄稿した新人小説月評の末尾が編集部によって勝手に削除されました(左:本誌、右:最終ゲラ)。消された「岸政彦『大阪の西は全部海』(新潮)に関しては、そういうのは川上未映子に任せておけばいいでしょ、と思った。」の一文を追記してください。 pic.twitter.com/EeFtgele6Z— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
文學界3月号「新人小説月評」の筆者・荒木優太氏が、編集部に月評の内容を編集段階で勝手に削除されたとしてTwitterで抗議していますが、編集部の認識はまったく異なります。ここに経緯を記し、荒木氏の投稿に反論します。— 文學界 (@Bungakukai) February 5, 2021
のちに荒木氏は『マガジン航』で「削除から考える文芸時評の倫理」と題する文章を発表し、背景を説明した。
https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/
最初に荒木氏の①【訂正のお願い】ツイートは2月5日19時半前、②『文學界』の反論ツイートは同日9時過ぎ、その後30分と間をおかず、荒木氏は「とりあえず」との留保付きで③追加説明のツイートを行なっている。
言及ありがとうございます。詳しくは長文にて説明しますが、とりあえず、①「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり、私はメールにて「岸さんの箇所は現状ママでよろしくお願いします」という指示をちゃんと提出しています。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
では「削除」に至った経緯について、両者の主張を見てみよう。と言っても、経緯の主張については対立するところはない。
2. 『文學界』が「批評としてあまりに乱暴すぎるのでもう少し丁寧に書くか、それでなければ削除してほしい旨申し入れ」る。
3. 荒木氏が「では、末尾に『全体的におもしろくなかったです。』と付け加えてください」と伝える。
4. 『文學界』が「改稿していただけないのであればその3行は削除します」と申し入れる。
5. 荒木氏が「『お好きになさるとよいでしょう』、ただし『その事実をSNS等で吹聴する』」と返答する。
7. 「勝手に削除された」と荒木氏がTwitterで吹聴する。
以上である。
さて、ここからが本題である。『文學界』のツイートは一貫して、「勝手に削除された」という「認識」をめぐるものである。
先ほどの経緯を「削除」の一点に絞って書き直してみよう。
1. (略)
2. 『文學界』が「削除してほしい」旨申し入れる。
3. (略)
5. 荒木氏が「お好きになさるとよいでしょう」と返答する。
7. (略)
『文學界』の立場としては、まず削除してほしいと提案し、聞き入れられない(どころか批評たりえない(と彼らが判断する)改稿を提示された)ので削除を宣言し、荒木氏が認めたので実際に削除した=「勝手に削除したわけではない」、ということになる。すなわちここでの「勝手に削除する」は、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とする」ことを指す。
荒木氏の立場としては、編集部の意向で、B「最終的な確認なく削除された」=「勝手に削除された」ということになる。
「勝手に削除してもよいという合意」の上で削除が行われた場合、それは「勝手に削除された」と表現できるのか?
一見して難問だが、前件と後件の「勝手に削除」は、指しうる範囲が異なる。Aの意味は「合意」とそもそも相容れないため、前件ではBのみを指しうる。一方で後件は問いの形式なのでAとB両方指しうる。しかし命題「〜場合、それは『勝手に削除された』」が真となるのは両件ともBを指す場合のみである。
では荒木氏のツイートと時系列に話を戻すと、最初の「勝手に削除された」という荒木氏の言葉は、ここでは後件に相当する。しかし前件はそもそも提示されていないために、AとB、どちらを意味するとも解釈できる状態である。それに対して『文學界』の経緯説明は前件を説明するものであり、ここでようやくBの意味での解釈のみが妥当であることがわかるようになる。
言い直すと、A「著者に一切の了解を得ることなく不掲載とされた」と荒木氏が主張しているように読めるため、そこに出てくる表現「勝手に削除された」は、B「最終的な確認なく削除された」のみを指しうるのだと、『文學界』は反論したのである。
これを踏まえると、「Bでしか解釈できないはずの表現を、Aとも解釈できる状態で公にした」荒木氏側には、『文學界』から反論されるだけの落ち度があると言えるだろう。
私には物理的に手出しできないのだから「お好きになさるとよいでしょう」と言うほかないではないですか。私の意志をちゃんと理解した上で、削除を強行するのは編集権の濫用だと思います。— 荒木優太 (@arishima_takeo) February 5, 2021
「物理的に手出しできない」という不均衡な関係ゆえに形式上同意せざるを得なかっただけで、本来的には一切了解していない、すなわち前件自体が間違っているのだから、Aと解釈すべきである、という主張である。なるほど、物理的に手を出せないのは明らかに真である。だが、「ならば同意せざるを得ない」と即座に結論づけられるのか。これは言わば「抗拒不能」を争うもので、論理から法の領域に踏み込んでしまうだろう。
ここで可能性として生まれるのは、「6. 『削除されなかった』状態で刊行された」パターンである。ではなぜそうならなかったのか。『文學界』側が「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」という論理的な抗拒不能に陥っていた場合である。
本論では『文學界』側にこの主張が成り立つかを『マガジン航』に掲載された「削除から考える文芸時評の倫理」から考えてみよう。
荒木氏は「削除されなかった」場合に作家が反応を示した場合を想定して、こう書いている。
そもそも、作家から「反応」があったからといって、なんだというのか。怒りたければ怒ればいいし、月評に不満なSF作家・樋口恭介がしたとおりウェブに反論文を書いてもいい。場合によっては私はそれで反省するだろうし、或いはやはり自分の正しさを確認するだけに終わるかもしれないが、その過程のなかで新たに発見できるものもあるだろう。
ちょうど1年前の『文學界』新人小説月評に対し、作家の樋口恭介氏が反論した例(https://note.com/kyosukehiguchi/n/n54a493f4d4f4)を挙げ、自身の評言に対しても同様に振る舞えばよいではないかと述べている。
樋口氏の件では反論に遭った両評者とも、作品内容にある程度触れ、自らの解釈をある程度開陳した上で否定的な評価を下している。よって樋口氏は両者の解釈がそもそも成り立たないことを説得的に示し、古谷氏から不適切であったと謝罪・撤回を得ることに成功している。非常に健全な批評的やりとりだった。
ところが荒木氏の問題の3行には解釈がない。解釈が提示されていないのであれば、樋口氏のように「それは誤読だ」と反論することもできないだろう。荒木氏自らが提示したこの事例との比較から、「反論の余地を与えない表現は批評たりえない、単なる悪口である」という論理が――「論理的に適当でないのだから削除するほかないではないですか」――容易に導かれる。
荒木氏は「文学作品は作者による産物であると同時に、読者がもつ解釈格子次第でいかようにも姿を変えるものだ」とも述べている。なるほど、その解釈格子を通して得られた感動は「読者が固有の仕方で編み出した創造物」であるという論も含めて同意する。ところが荒木氏は続けて、「読者に伝えたいのは、私のもっているつまらなさや無感動も、いくぶんか自己に責任をもつところの私自身にとっての大切な創造物であるということだ」と述べる。結論はこうだ。
私の最大の、というより唯一の武器は、面白いものには面白いといい、つまらないものにはつまらない、という、正直であることのほかない。
荒木氏の論理では創造物なのは「(無)感動」である。解釈そのものはそれを生み出すためのフィルターである。そして荒木氏が月評に書こうとしたのは「全体的におもしろくなかったです。」の一言、すなわち「感動」である。
だが、樋口氏の事例との比較で明らかなように、批評文に求められるのは、評者の感動=感想などではなく、それを生み出すにいたったフィルターであるところの解釈である。解釈には確かに属人的な部分もあるが、ある程度規範的な部分もあり、さもなくば書き手自身からの反論も成り立たず、「過剰解釈」が氾濫する。なるべくその規範的な解釈をもって評価を下すのが評者の使命であろう。評者個人の正直な感想など、正直言って全く興味がない。文芸誌を買ってまで読書感想文を読みたくなどない。
月評の制限字数がわずかであるため十分に論が展開できないというのならば理解できる。ところが『マガジン航』には多少なり岸作の解釈が載るのかと思えば、ここでもやはり「簡単な紹介と個人的所感」にとどまる。「個人的所感」などどうでもよい。
解釈ができないのであれば、あるいはするまでもないと思ったのであれば、端的に書かなければよいだけの話であり、結果として「勝手に削除された」のは理の当然であろう。
ある意味で当事者となった川上未映子氏はこうツイートしている。
これは余談。批評の主体は愛や敬意、と言う人がいるが、必ずしもそうではない。それを必須条件にしたものは読み物としては心地よいが批評ではない。批評の主体は、テキストと論理と緊張感。対象作品の書き手の思いや反応や背景など気にする必要は一切ない。ちなみに小林秀雄は批評家ではなく評論家— 川上未映子 Mieko Kawakami (@mieko_kawakami) February 6, 2021
テキストも論理もなく書かれた感想に怒りで反応する皮相な「緊張感」だけが漂う場を、批評とは呼ぶまい。
まず公平性を期すためあえて本論執筆者自身の考えを明確にすれば、「『文學界』編集部の削除対応は、抗議ツイートまで含めて手続き上問題はないが、合理的ではなかった」というものです。
仮に削除せずに全文ママで掲載し、岸・川上両氏から編集部に対して抗議が来た場合、やりとりの履歴はあるのですから「改稿あるいは削除を提案したが聞き入れられなかった」と説明すればよいでしょう。改稿・削除を要求した理由が両氏への忖度だけなのであれば――「裏工作して保身に走る編集者」なのであれば、交渉をした時点ですでに保身は成立すると言えます。
あるいはもし仮に改稿・削除提案が荒木氏自身の体面を守るためというお節介だったとしても、誌面から削除したところで荒木氏自身がSNSで当該の評言を公開することは避けられないわけです。
それでもなお最終的に削除の決断をした。非合理的でしょう。「批評を載せるのだ」という編集部としての決意表明のようなものを感じます(これは解釈を経て創造した感想です)。
無論、コメントでいただいたように、「そもそも読者は批評を求めていない(批評を求めていない読者もいる)」可能性はあります。誌面にどのようなものを載せるか決めるのはまさしく編集の作業なので、この場合問題は「作者が作りたいものと受容者が求めているものが違う」ことです。
ただし荒木氏自身も批評を書こうとしているので(「「批評の言葉」かどうかを編集部が判断するのがお門違いであり」と主張している以上)、問題の3行を読んで「読者は批評を求めていないのだから問題ない」として荒木氏を擁護しようとすると、逆に氏を裏切ることになります。
よって、時評の存在意義や読者の需要はコメントでいただいたように「別の話」なわけですが、それはそれで議論されるべき問題なので取り上げました。
最後に、本論文末の「緊張感」は、わざと誤読のように用いています。コメントでおっしゃる通り、「テキストへの真摯さ」が本来の緊張感ですが、テキスト・論理がないので当然この本来の緊張感も不在です。それとは別の、感情的な応酬という緊張感しかないのだ、と表現するために括弧付きで「緊張感」としました。最後までお読みくださりありがとうございます。
・社会奉仕…一時期ある分野に頑張ってみたけど、そもそもAという領域に肩入れしてBという領域を見て見ぬふりする事への折り合いを自分の中で付けられなかった。全てを助けるにはお金がなさすぎる。
ビルゲイツすごい。
納税するのは社会貢献ではなく義務でしょ。節税してないことを偉いことのように言われても、「すればいいのに。へー、してないんだ。」としか思えない。
まあ、粗のある釣りなんだろうね。
A.B.C-Zを知っているだろうか。
このグループ、驚く程に売れていない。
ジャニーズは基本的に配信を行っていないためCDの売上がいい。最近デビューしたグループはファンの勢いもよくハーフミリオンをたくさん出すし、それ以外の大半のグループもシングルを出せば握手券なしにでもコンスタントに初週20万の売上を出す。
で、このA.B.C-Zというグループ、最新のシングル(江頭2:50作詞)の初週売上が2万枚なのだ。キンプリと桁が一つどころではない。
10周年記念プロジェクトのTwitterアカウントも1.5万フォロワーしかいない。
これは他のグループのアルバムアカウントが10万を超えているのを見ても少ない。かつスタッフの内輪ノリをツイートしてしまったが故に数少ないフォロワーから引用RTで批判を受けて謝罪する事態となっている。
理由は色々あると思う、高齢でのデビュー故、大半が30代半ばという若手とも言えない年齢であることや、単純に後輩の勢いに飲まれてしまったからということもあるだろう。
A.B.C-Zと言えばアクロバットと言われるが、これは歌番組とかでないと見ることもできないし、なんならアクロバット+ダンスを精度よくやるSnow Manがデビューしたからその個性が物凄く薄くなっている。
ジャニーさんに認められたジャニーズさというのも個性として挙げられるが、ジャニオタ以外から引き込むのにそもそものジャニーズらしさなんて知らないし、他のジャニオタから引き込むにも自担にジャニーズらしさを見ていることが多いから魅力にならない。
楽曲についても最近の曲は応援歌が多かったり明るいポップスが多いが、そういったコンセプトはジャニーズWESTだったり他のグループがやっている。個性として耳に残らない。
顔は好みがあるから何も言えない。
いろんな幸運が重なり事業で成功。役員報酬を毎年1億円に設定しても会社は安定するぐらいにはうまくいっている。
TDBもかなりいい点だ。
持ち家も買い、高級車を買い、子供は小学受験・中学受験を潜り抜けいわゆる有名な学校に入学できた。
体も健康。
不幸ではないが幸福を感じ取れない。
子供のころから最低限の用を成すなら安ければ安いほどいいという価値観で育てられた結果、贅沢ができない体になってしまった。
日常生活は業務スーパーで安い輸入肉を買い、ちょっとした日用品も少しでも安いものを探す。
今日の昼めしはスーパーでお惣菜と助六寿司で600円。(個人的感覚としては散財した。)
これぐらい罰は当たるまいと買った高級車も満足度より居心地の悪さの方が勝ってしまう。
いつか行こうと思っている家族でハワイ旅行なども罪悪感が先に来るんだろうな。
それなら、何のために我を殺して重い責任を背負って会社を率いているのか。
仕事は上の立場になればなるほどマネジメントが中心になり、手ごたえを感じられる実務はほぼノータッチ。
年々会社は大きくなり、それに伴って責任も大きくなっていく一方でカタルシスは何もない。
唯一の慰みである報酬もあまり意味をなさないなら、俺は一体どこに向かって生きていけばいいのか。
若くして成功した人が人生後半で道を踏み外す気持ちが正直すごくよくわかる。
そういえばマツコ・デラックスも芸能界引退の噂があるらしいけど引退した後どうすんだろ。
数十億円通帳に入っててやることが無かったらまともでいられんぜ。
(追記)
一杯返事もらえた。嬉しい。ありがとう。
冒頭にも書いたけど自分で不幸とも思ってないんだ。ただ幸福を感じられないことへの愚痴。
・従業員への還元は?…ハードな働きが必要だが給与は同業他社平均は十分上回ってるので悪い会社ではないかと。ある程度以上の勤続年数の人は離職率ほぼ0。
早期離職者はいるけど入社前に会社のダメなところは必要以上に説明しているのでまあ一定量のミスマッチは仕方ないかな、と。もちろん会社としての改善余地があるのはわかってる。
個人の価値観は置いといて、総体として利益が出ているなら世の中の役に立っているとは思う。(社会に必須の業種だし)
・社会奉仕…一時期ある分野に頑張ってみたけど、そもそもAという領域に肩入れしてBという領域を見て見ぬふりする事への折り合いを自分の中で付けられなかった。全てを助けるにはお金がなさすぎる。
ビルゲイツすごい。
無力感の結果、節税をほとんどせず毎年たくさん納税してる。これ以上の社会貢献があろうか。
・●●に金を使う…吝嗇化なので金を使っても罪悪感が先に来てしまう。そういう自分が嫌で高級車を買ってみたが(もともと車好きではあった)セレブな世界にはなじめなかった。
しかし高級車で業務スーパーへ行くことの愚かさも自覚している、その自意識が幸せを阻んでいるんだろう。
・旅行は?…国内は出張であちこち行った結果興味がなくなってしまった。海外は10か国ぐらい仕事で行ったが楽しさよりいろんなことが見えないわからない事への恐怖が先に来る。若いころは無鉄砲だったのに。ああ小市民。
コロナが収まれば国内出張先で出会った美味しいお店に家族を連れてってあげたい。今ある具体的な希望はこれぐらい。
・子育て…十分やってると思う。夫婦仲も良好で出張がない今料理は俺がほぼ毎日作ってる。
・趣味を始めたら?…そんな元気が出ない
ココイチの創業者さんなんかはすごいなーと思うけど、あれをやれるほど会社は大きくなく、小市民の自分にはそこまで大きな志もない。
でもやっぱりロールモデルはあの辺りなんだろうね。
ああ、でも書いてて思い出したぞ。
それならもうちょっと頑張れそうな気がしてきた。
思ったより叩かれてなくてほっとした。
・経営者なの?…証明しようがないけど経営者よ。中小企業のPERなんていかようにもいじれるのにそんな数字出してどうすんべ。売上数十億程度の地方中小オーナーならTDBかTSRっしょ。
・納税…ここはねぇ、一般の人が思う以上に経営者は好き勝手できまくるんよ。合法的に数千万円を自分の快楽に使えてその上法人税を安く抑えることは本当にできちゃう。
そういうことをせずにおとなしく納税しているのってかなりのレアキャラなんよ?
納税なんて当たり前!っていう人はそういう立場になっても本当に節税せずにいられるかな。
・人を育てたら?…やれる範囲ではやってるけど最近気が乗らなくなってきた。「水飲み場に連れてくることはできても水を飲むかどうかはそいつ次第」というのを痛感してる。
自分は外食が好きだ。だからコロナになってから苦戦する外食店のニュースを聞いて、なんとか応援したいと思って、これまでクラウドファンディングにも参加したし、テイクアウトメニューを積極的に使うようにしていた。
そんな中、馴染みの店の店主と少し話したら「いやー今時短協力金でめっちゃ儲かってるんだわ」と言われ、一気に気持ちが崩れた。
自分が応援してきたのって一体なんだったんだろう。自分の職だってこのコロナ禍で先は見えないけれど、それでも自分の好きなもの、好きな人たちを守れたらと思っていろいろしてきたのに、めっちゃ儲かってるんだわと笑顔で言われたらどんな顔すればいいんだよ。
もちろん勝手に応援したのは自分だし、その結果勝手に失望しているんだから向こうからしたら「知らんがな」って感じなんだろう。でも、みんな苦しい中で支え合う、という領域を超えて「めっちゃ儲かってる」って状況を作る協力金の不公平さにはどうしても納得がいかない。恨むなら政権を恨めという感じなんだろうけど、私はそこまで出来た人間ではないので、単純にしばらく飲食店を利用するのは止めようという気持ちになっている。何もしなくても儲かっている人たちをなんで応援しなければならないのかという気持ちになっている。なんなら協力金が打ち切られて路頭に迷えばいいのにとすら思う。
健常者で人格が破綻した毒親はまだマシなんだよ…みんなで表立って批判できる点ではね
コロナ追跡アプリのCOCOAですが、「データハッキングでスマホのバックドアからデータをハッキングされる時の対策は何やってるんですか?」と政府検疫官に聞いたら、
「そんなことは想定してません!」
と言われたw
デジタル大臣はハッキングを想定してないのか?— 深田萌絵 MoeFukada (@MoeFukada) January 29, 2021
スマホでは、AndroidでもiOSでも、セキュリティはOSの領域で、正規のストアで配布するアプリは気にしなくていいことになってる
なので
「そんなことは想定してません!」
で正しいんだが
劣勢だな…
組版の専門家だよ。ブックマークとかで行間のリクツが知りたいという旨があったので、簡単にまとめるよ。
なお、行間に限らず、日本語組版に関する専門的な知識は『W3.org 日本語組版処理の要件(日本語版)』に載っていてタダで読めるよ。
この文書は『JIS X 4051 日本語 組版規則』を下敷きに、超のつく専門家がwebの世界向けにまとめたやつだよ。
この知識で書籍の本文組版がきっちりできちゃうよ。印刷周りの知識と組版ソフトを扱う技術もいるけどね。
これから書くのは、組版の専門家としての意見で、PowerPointとかプレゼンとかの専門家の意見ではないよ。
結論を先に書くよ。
単位は%の行送り。例えば150%と書いたときは、文字サイズが10pointのとき、行送り150%は15point、行と行の間の空白は5pointという意味だよ。
・行数が3行以下
>125〜150%が目安だよ。
・行数が4行以上
>150%が目安だよ。
・行数が3行以下
>150%が目安だよ。
・行数が4行以上
>175〜200%が目安だよ。
・行長が30文字程度
>200%が目安だよ。
>行長が長すぎるよ。
・同じ条件でも、行間は横組みよりも少し広めにとる方がいいよ。
・上の例より少しだけ行間は狭くていいよ。
・背景色とコントラストが弱い文字色を選んだときは、行間を少し広めにとった方がいいよ。
・見出しと本文の間は、本文同士の行間と同じか、それ以上はとらないといけないよ。
・違う本文同士の間は、本文の行間よりも広くとらないといけないよ。
「パワポの日本語の行間」の話に絞るけど、和文の行間を決定する要素は、大雑把に分けると下記のようになるよ。
・書体
・行長
・行数
・与えたい印象
書体は、文字の造形のことだよ。「游ゴシック Bold」とかがひとつの書体だよ。
日本語の文字は原則として「正方形」の中に収まるように作られているよ。
日本語の組版では、基本的にこの正方形をみっちりと横に並べて行を作るよ。
字面が広い書体ほど(≒「黒い」行ほど)、行間を狭く組めるよ。つまりBoldなら行間をより狭くできるよ。
これは直感的じゃないと思うけど、「行間>文字間>一文字中の空白」という順位でスペーシングを行って文字列を認識している、人間の知覚の都合で経験則的にこう決まっているよ。
下の順位の空白が狭くなれば、上の順位ももっと狭く取れるというリクツだよ。
行が長いほど、行間は広げる必要があるよ。なぜなら、行が長いほど行の頭に戻ったとき、見失う可能性が高いからだよ。
行間が広ければ、行の頭に戻るときにも、呼んでいる行を見失いづらいという経験則からこう決まっているよ。
行の多さのことだよ。
行が多いときの方が、少ないときより行間を広くとる必要があるよ。
行数が少ないときに行を見失うことはないから、行間を狭くできる、というリクツだよ。
組版において、行数が少ないものは普通「見出し」か、または修飾的要素だよ。
普通は見出しは4行を超えないから、ここではそれを目安としているよ。
人間は文字の並び方だけでも、違う印象を知覚することがあるよ。
例えば、普通はしないけど行間を0%(文字が縦にも横にもギッチギチ)になってるとき、緊張感を覚える人が多いよ。
逆に、詩の本を組むときは行間を極端にゆったりさせて組むことがあるよ。
化粧品とか、高級品を扱うときは、大抵行間は広めにとるよ。格調の高さを表現する狙いがあるよ。
一方で、広告なんかでは狭くとることが多いよ。緊張感を与えるためだよ。
基本的に、見出し、特に大見出しは狭めに組んで、注意を引きつけることが効果的なことが多いよ。でも実際の案件を見ないことにはなんとも言えないよ。シン・ゴジラの御用学者みたいな言い回しになってしまった。
>行長31文字以上は長すぎるよと言われたら大概の文庫本(小説)はアウトでは!?
・縦組みの場合は最大52字程度
・横組みの場合は最大40字程度
を目安としているよ。
しかし実際には、ここまで長い例はそんなにはないよ。例に上がってる文庫本は縦組みで、多くて40字程度の行長だよ。
横組みの書籍でも、40とはいかず大抵30字程度の行長に設定されている例が多いよ。この記事ではそういった慣例を考慮して数字を設定したよ。
社会学ってそもそも近代社会の自己言及のための(早い話が自画像を描くための)学問で、特に戦後は近代社会を支えていた文化制度や権威をあの手この手で批判して骨抜きにするために戦ってきた。
おかげでかつてのような圧倒的な支配力を誰も持てなくなったし、社会の風通しは大分良くなった。その点で功績はあるけれど、その武器として採用した社会構築主義があまりにも使い勝手が良すぎたもんで、それに甘えて研究レベルも下がっていったし、それ自体を人を支配するための武器に使いたがる社会学者が増えすぎたと思う。
そもそも、欧米の理論は欧米の近代社会を批判するための、向こうの権力関係や文脈を前提としたものだから、そのまま日本に持ち込めるようなものではない。そこら辺をかなり日本の社会学者は都合よくごまかしていると思うし、学問的誠実さにも疑問を感じている。
データサイエンスやゲーム理論、歴史学と組んでいる領域は構築主義の汚染がそれほどでは無いからまともな研究者が多い。
だから社会学全体が叩かれる必要なんていうのはないけれど、一部の領域の構築主義に依存しすぎる体質はディシプリンレベルから考え直さないともうどうしようもないと思う。
なので反省して自己批判する必要は大いにあるけれど、謝る必要はさすがにないだろ。逆に謝れと言う奴は一体何にどのように謝る必要があるのかを明確に説得力のある形で言わないとそれこそ不誠実なんじゃないか。