はてなキーワード: 試行錯誤とは
一列に並んでゆっくり進む。
幼い頃はゆっくり進む列を、時には前の人の背中を押してみたり、時には立ち止まって後ろの人を困られたり、時には背伸びしたり跳び跳ねたりしながら、果てしなく思えたゴールの様子を伺おうと試行錯誤してみたり、ただただ毎日はしゃぎながら前に進んできた。
近頃、老を感じるようになった。
顔も老けた。身体も徐々に言うことを聞かなくなってきている。それに伴って心にも張りが無くなってきた。
この列のゴールはまだ見えないのだけれど、少しずつゴールに近づいているのは分かる。
俯きながら歩くようになった。前の人も俯いている。後ろの人もきっと俯いているだろう。
あの頃みたいに背伸びしたり跳び跳ねたり、はしゃぎながら歩いている人は誰もいない。
昔はゆっくりに思えた流れも、今では息切れするほどに速く感じてしまって少し怖い。
待ってくれ。と言いたくなる。
でも誰も何も言わず、逆らわず、薄ら笑いすら浮かべながら、俯いて歩く。
ゴールが目に見えた時、泣くだろうか。
私は人嫌いである。
正直に言おう。
Facebookで起業家が、「会社のスタッフに感謝!」「ここまで来れたのはみんなのおかげ」などと従業員を気持ち悪いぐらいベタ褒めしたり(※これは組織化した経営者ならこういう行動を取るの理由もよくわかるが)、会社でパーティーをしている写真を見たり、有名なメディアに掲載されました!などと報告している投稿を見ると反吐が出る。
「誰もお前のことなんか知らねーよ、興味ねーよ」と率直に思う。
人が嫌いで、会社嫌いで、オフィスなんてこの世のからなくなればいいと思っている。オフィスや会議室で行う会議なんて人生の無駄以外の何者でもない。
人が嫌いなんて言おうものなら、そんな人間を雇う会社は何処にもないだろう。ただでさえ事業や組織の専門化、高度化、分業化が進み、やれチームワークが大事だ、コミュニケーションが大事だ、ダイバーシティが大事だと叫ばれている世の中である。
そんな世の中で、その暗黙の了解と常識の中で生きるのは、外向型の人間にとっては何てことはないのだろうが、内向型人間にとっては地獄である。
一人だとエネルギーも充電できるし、いろいろアイデアが湧いてくる。
大人数でやるブレストなんてだいっきらいだし、あんなものはバカが寄り集まってグタグタ責任のなすりつけ合いをしているようにしか見えない。いや、実際そうだ。
今の世の中というのは、何処へ行っても外向型の人間であることを求められ、内向型人間には非常に生きづらいのだ。
これは、何処へ行っても、会社を変えても、誰といたとしてもみんな一緒だ。
だから、私は一人になった。
一人で仕事をやることを決めた。
オフィスなんかクソ食らえ!
チームなんかクソ食らえ!!
である。私はずっとそう思っている。
この世の中は、誰しもお金を稼がないと生きてはいけないのである。
だから、
『どうやったら、たった一人で家から一歩も出ずに、面倒な人間や嫌いな人間に一切会わずに、月100万円を安定的に稼げるのか?』
これが当時の私の大きな疑問だった。
そこで私はネットや書籍で調べ、いろいろなものを実際に試した。
クラウドソーシング、アフィリエイト、コンサルティング、FX……
全部一人でもできるものだ。
一人でもできるもので、月100万程度は稼げそうなビジネスモデルのもの。
サラリーマンを辞めたのが2012年。それから早4年が経った。
いろいろ試す中で、それぞれはそこそこ稼げはしたが、到底100万には届かなかった。
一体、何が足りないのか?
一体、何をすれば私の願いは実現できるのか?
毎日、毎日、たった一人で狭い部屋に閉じこもりながら、ずっと試行錯誤をしていた。月に1度しか外出をせずに、ずっと一人で篭って様々なことをやった。
そんな生活にも疲れ、時には一人で夜の街に出かけ、カウンターに腰掛けながら、酒を飲んで気分を紛らわすような日もあった。
私はずっとインターネットでいろいろなものを調べ、考えていた。
しかし、考えても、考えても、試しても、試しても、私が望む現実は一向に手に入る気配はなかった……。
そんなある日、転機が訪れる。
今思えれば、アレが明確な転機だったのだということがよくわかるのだが、残念ながら当時はまったく気づかなかった。あれだけ探して、試していたのに、である。
アレのおかげで、私は今、
『たった一人で家から一歩も出ずに、面倒な人間や嫌いな人間に一切会わずに、月100万円を安定的に稼げる』ようになった。
本当にアレには感謝している。
これから、アレについて話していこうと思う。
あなたにも、アレの素晴らしさが伝わることを願っている。
はちべえが勃起するんだけど、まだ勃起という概念を知らなくてはかせやもーちゃんとおちんぽをいじって遊んでたら射精に至った。で、それを見たハカセやもーちゃんも勃起しちゃって、お返しにといじりあいが始まる。後日、昨日のあれは射精っていうらしいぜとどこからともなくはちべえが聞きつけ、急に3人が羞恥心を持つ。それ以来いじりあいはなくなったんだけど、3人はそれぞれおちんぽを気持ちよくするために試行錯誤し始めた。モーチャンは公園で知り合ったおじさんにハッテン場を教えてもらったことがきっかけで、ハッテン場に入り浸るようになる。ハカセはネットでアナルオナニーを知り、こっそりとアマゾンでディルドなどを買ってアナル開発に勤しむようになる。ハチベエは女の子から可愛いとよく言われるような容姿だったので、自分のオナニー姿を見て興奮していたが、いよいよ女装に手を出し、自撮りしたアナニー動画をネットにアップするようになる。これが『ズッコケ三人組 それぞれの好色』のエピソード。
いままでも、狙って300ブクマとか、500ブクマとか出してたことはあったけど
さほど労力をかけずに準釣り系のエントリで、狙って3日連続で100ブクマ以上の記事をここ最近書いた。
意図的に「釣り」ができるようになると、なんかネット民として一段上のステージに進むのではないかという気がして
チャレンジしてみたことだったけれども、自分のネット民としてのステージがあがったのかどうかはよくわからない。
はてぶとか集めまくって、ネット上でそれなりの人間のような顔をしている人たちに、
「くだらねぇこと書いて注目集めてるだけで偉そうにしててUzeeeeeee!!」みたいな気分があって、
その結果、「ネットで注目集めるだけなら俺にだって、すぐできるし!」という子供じみたプライドが芽生え、
やってみようと思って、やってみたわけだ。
何度か試行錯誤したら、まあできました。
できたからといって、自分の中に達成感のようなものがあるかと言われるとよくわからん感じ。
100ブクマ以上を安定的にあつめようと思うと、どうしても釣り要素なり、時事要素なりを入れる、みたいなことになってくるわけだが
世の中に美味しい思いをしている人間がどうしても許せなくて、何でこんなに心がかき乱されているんだろう、と思っていたんだけど、最近分かった。
人間、自ら負けを認める敗北主義者になったら終わりだと思ってたけど、これほどメンタルがやられるくらいなら、さっさと負けを認めて、その上で自分の手が届く範囲で試行錯誤した方がマシって気がしてきた。
そりゃどんな選択をしたって批判するやつはいるだろうし、心の中にある批判的な自分の自己批判に心が折れそうになることもあるけど、結局のところ他人が上手くやってるのを羨んで、その裏返しで悪口言っても詮なきことってことなんだよね。
何というか、もっと自己満足を優先するというか、かえって自己中心的な価値観で生きていった方が人生ラクだろうし、もっと楽しめる気がする。
方々からアンチャーテッドでたけどやらないの?と質問されるのでやらない理由を書きますぅ。
まず、アンチャーテッドって時点でもう財宝発掘争奪WINストーリーって分かるから、結局なんだかんだあってそれなりに終わるんでしょ感半端ない。
少年心的には心躍るワンピース感があるのだと思うけど、そういうのは少年ジャンプでおなか一杯ですしもう飽きてますぐふぅ。
ゲーム内での熱いストーリーなんて、松岡修三ぐらいのうっとうしい熱さじゃないと引きがないっすよ。
■主人公強すぎ
だってなんだってこなしちゃうもの。アクション映画の主人公じゃん。強すぎ。死ななすぎ。危ない!って思うときもストーリー上あるかもしれんけど、
アクション物ってだけで、危機一髪はいはい生きてたね感が先に想像付くしその想像裏切らないからもう面白くない。意外性ない。欲しいよ意外性。
要するに、単なるアクション映画がゲームになってるって域をどうしても超えないんすよ。アクション映画そのものすらもうそんなに需要ないんだし。
もっと引き込む、興味汁出まくる奥深くて緻密で想像できないストーリーを頂戴よ。Last of usみたいにさ。
もっとやりがいのある、試行錯誤してなお難しい、思わず天を仰いで絶望してしまうほどの難易度頂戴よ。ダークソウルみたいにさ。
おっさんは年を重ねるにつれやらないといけないことがふえてく
若いころにはほっといてもよかったものとかしなくてもなんとかなったもの
しなくてもきにならなかったことしたいとおもうこと
しないといけないと思い込んでることがおおくなる
するとしなくていい時間がへっていくししたいことにさける時間がすくなくなってく
したいこととかあたらしいことへのとりくみとかにさける時間
ふめいなことに使える時間よりも具体的に消化すべき時間にまわされてく
維持とか選択に時間をかけないですむように人に選んでもらったり整えてもらったりするから
そんな時間のない状態でもし新作がでても興味があるとかないとか以前に
さける時間がないのともうそれはあるってところで優先度をたかめられない
昔あったものの新作リバイバルがでるんだけどとか昔の記憶なり商品なり道具なり
そんなのを試行錯誤して新しい経験をえてそこから次の可能性をみつけるひまがあったら
自由な時間がありあまっている人からみればそういうところで消耗して
機会を減らして頭がかたくなっていくといわれるのだろうけど
かりにおっさんの自由な時間をありあまっている人が肩代わりしてあげるなら
それはできるんじゃないかな
あたらしいものに積極的に取り組む気持ちだとか学びだとか余裕だとか
よゆうのないおっさんに余裕をつくれって余裕のある人がいうのは
自分のくびをしめているようなものかそこから脱却したい人なのか
時間に余裕があってすべきことしないといけないこと
したいことがとくにないおっさん
街中で妊婦を見かけると、それがどんな女性だろうがハ淫セ(イチャラブ中田氏セックス)してる情景を勝手に想像してしまってとてもつらい気持ちになる。
中にはもちろん不妊の人もいるだろうし不満足なセックスライフを送っている女性もいるだろうけど、問題の本質はそこじゃない。
見目麗しさとは程遠いカップルが目の前でペッティングするよりキツい想像を勝手におっぱじめる脳のせいで本当に不愉快な気持ちになる。
正直とても困っている。
ちなみに小さい子供を連れてる女性を見たときは一割くらいの確率で「セックスだ!!」と思う。
病気なのかな。
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臨月の妊婦となった今、上のようなことは起こらない。むしろ彼女らの苦労を忍んでしまう。我が身にふりかかる妊娠ゆえのトラブルが重かったのもある。しかし、当時の自分と根本的に異なるのは、セックスの有無は本質ではないと分かったからかもしれない。以下は自分語り。
当時の自分は、人生とセックスは切っても切り離せないものだった。欲望に忠実で、どうしても手に入れたいものが目の前にあるなら手段を厭わず行動していた。行動力の源泉としてブラックホールのようなものが自分の中にあり、自分の中の物足りなさや満たされなさを埋めたくて欲望のままに何もかもを吸い込んでいたと思う。今ならその正体が少しは分かる。生まれてから死ぬまで徹頭徹尾自分は孤独であること、ひとりうまれひとりしななくてはならないこと、不十分な自分の人格を誰かが代わりに育ててくれるということはなく自分が満足するような自分自身になるためには他でもない自分の努力や意思に基づく試行錯誤によってのみ実現すること。近道もズルも存在しないこと。これらが耐えがたい苦痛であるためにずっと目を背けた結果ブラックホールのようなものが誕生したのだった。
そのブラックホールに名前を付けるとすれば驕り、または臆病な自尊心かもしれない。私は妊娠で「底つき」を経験できて、きれいさっぱり驕りが解消されたので、よかったと思う。
重症妊娠悪阻で水も飲めず点滴を打たれて寝ているあいだだけが「人間」でいられた。
一人で外出はおろかシャワーさえ浴びられない。仕事はなくなった。なんのために生きているのか分からなくなった。
まともな食事ができるようになってからは、日中の静かな家に一人取り残されて、孤独感に苛まれ、頭がおかしくなっていくのが分かった。暇を解消しようとするも、体が動かず、情報に敏感で、ラジオすら聞き続けられない。寝ようとしても数分~数十分で起きてしまう。深夜に帰ってくる家族との会話が命を繋いでいた。
仕事もしない、家事もしない、寝ているだけ。今までの人生において、そんな「役立たず」や「穀潰し」になったことがなかった。いつも私は自分で自分を納得させる生きる上での口実があった。こんなにも満足のいかない生活は初めてだった。
初めて知る。「ただ生きているだけでもたいへん」ということを。
人間は生きているだけでもたいへんなので、ほかの要素が組み合わさったら当然カオス的に大変である。解析的に解けないし、適切な数値解にたどりつくには果てしないパラメータチューニングの試行錯誤が必要になる。そして苦心して解を得ても、誤差項を多いに含む。
元の記事に戻ると、人生をモデル化した時に性行為が欠かせないと思うから妊婦を見てセックスを連想するわけだよ。
今の私はもうそうは思わない。人生は存在それ自体が大変。大変であるというのが人生の本質。その大変さの各論は個人によりけりで、ひとによってはセックスが困難かもしれないし、暮らしが困難かもしれないし、自分の体が困難かもしれない。それは外見からは分からないことだよ。
ひとくちに妊婦といってもフェーズによってトラブルはコロコロかわる。
当初、腹の中に人間がいるのさえ自覚がないのに、そのために日に日に変化する自分の体がグロテスクで、第二次性徴への嫌悪感を思い出した。
今でも、腹の中に人間がもう一人いるというのには慣れないが、皮膚が突っ張って痛いほど膨れる腹への受け入れがたさは時とともに薄れていった。そのかわり、乳頭から滲み出る乳汁への嫌悪感は凄まじい。ひとつ解決すれば、別の問題が浮上するものである。
艱難辛苦汝を玉にす、とはよく言ったものだよ。妊娠を経験したおかげで、他人に向ける視線から邪な思いが少しは消えてよかった。
昔、仕事でデータベースをPCにインストールしていた時のことだ
丁寧なインストーラーもなくマニュアルもない状態で、試行錯誤だ
言語フォルダらしいところを見ると、同じ構造で日本語と英語で2つ
表示は日本語になった
別に知識があったわけでもない、そんな経験をしていたわけでもない
なんとなく、だ 確信も何もなく、やってみた程度
それを見ていた同僚が「は?そんなんたまたまじゃん、普通分かんねーよ」と鼻息の荒いコメントをした
たしかに確信はなかったが無闇矢鱈ではなかったし、なんとなく 感じるものはあった
運とかセンスとか表現されるのはこういうもんなんだと今になって思う
わかりやすい努力やトレーニングをした結果なわけではないが、何かしらの根拠のあるもの
運が悪いと感じていた自分を振り返りつつ
クックパッドに数多あるコロッケのレシピでコロッケを作ろうと思った。
存外上手くいかない。
材料が揃いまくってて辻調かと思ったりもしたけど
ということは、おいらには土台無理だということだね。
電子レンジに耐熱皿を置いてレンジ調理するという超高等テクを見た時も
自分の場合は耐熱皿がどれなのか判断付かなくて普通のお皿をやると
バーンって爆音と共にひび割れたそれを見た時、ついにレンジ調理を諦めた経緯がある。
コロッケも自分で手作りするより買った方が調理代が安く済ませられるんじゃないかって
試行錯誤してみたけど、よくよく考えたらコロッケって結構簡単なイメージと費用を思う。
かのキテレツ大百科のお料理行進曲に倣えば、この通りに作れば良いじゃないかって最近思うようになった。
なんだ簡単じゃないか!(できませんでした)
日陰が寒そうだったから、こっちにおいでよ、と日なたに連れだした。
いやだ、日なたは暑いから、というあなたは、太陽から顔をそむけながら、
それでも日なたを楽しんでいるように見えた。
日なたとは、こういうものなんだと、語るわたしに耳をかたむけながら、
しばらくあなたは、日なたですごした。
そして一区切りついたところで、もう十分だ、といった。
もう、日陰にもどるのだという。
わたしは、あなたを日なたに連れだす役目があるのだ、と伝えたところで、
あなたはふふっと嗤う。
あなたは、こういった。
その役目とやらで、アイデンティティをつくりだしているのね、と。
そういわれて、どこかで、なにかがずるりとむけた。
ちょうどライチの固い皮がむけるみたいに。
強烈に。強制的に。
わたしの役割とか、わたしのやるべきこと、とか試行錯誤しても、
ほんとうはそんなものありはしなくて、
ただ生きてるという時間の概念だけが存在しているだけなのかもしれない。
そうして、わたしの中で、よりどころがなくなった。
心地よいほどに、消え去った。
ふとおもいだす。
どう生きればいいのですか、という壮大な問いに、
やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなきゃいい
と導師は、こたえた。
どうやら、そういうことらしい。
どうやら、
そういうことらしい。
さあ、どっちに歩いていこうか。
YouTuberとして「好きなことで、生きていく」なんて現実的な夢ではないという話はまぁあるとして、それより、既に食えている(と思われる)トップクラスのYouTuberたちが、果たして「好きなこと」で食ってるのかってのが気になる。
なんか、佐々木あさひとかバイリンガールとかは、まだネタが一貫してるから分かるんだよね。
よくわからないのが、瀬戸弘司とかKAZUとかはじめしゃちょーとか、まあ他にも色々いるけど、総じて「昔はすごく個性的で面白いチャンネルだったのに、気付いたらみんなマイクラとスプラトゥーンの実況で再生数稼ぎをやってる」みたいなのがすごい残念に思える。
シバターも、以前は「YouTuberってのはしょうもない存在で、結局みんな商品レビューやってるだけ」みたいな冷水を浴びせる役をやってたわけだけど、結局お前もパズドラ実況とかやっとるやんけ。
彼らが彼らなりに商売で成功しているとすれば、それはそれで凄いと思うし、逆にイマイチ儲かって無かったとしても「じつは大して儲かってなくて安定もしてなくてヤバイらしいぜざまぁwww」みたな気持ちにもならない(そういうのを言いたくなる人も多いみたいなので一応断っておく)。
俺は単に、チャンネルから個性が失われて行ってるのをみて、なんか寂しいなぁと思うだけ。
「知る人ぞ知る、ネット上の有名人」みたいな人が、無償または小遣い稼ぎ程度でネットに上げているコンテンツに魅了されるという経験は、90年代の終りからずっとあった。
昔(YouTubeとか出てくるよりも前)はネット上のコンテンツに広告収益が流れる仕組みとかあまりなかったから、長続きするわけでもすごく有名になるわけでもなく、しばらくすると忘れられるって感じだった。それが最近は、カネが流れる仕組みが確立されてきた結果だと思うけど、忘れられるというよりは「ある程度以上有名になって、みんな同じことをやるようになる」というパターンになったんだなと実感した。
俺が初めて「YouTube内有名人」みたいな人がけっこういることを知ったのは2012年ぐらいかなと思う。あまり正確に覚えてないけど、遅いほうだろうな。それまではYouTubeってもっとカオスな場所だと思ってたんだけど、企業や有名人のチャンネル以外にも「みんなが見てる有名なチャンネル」ってのがあるのを知って、へぇ〜と思った。
その頃俺が面白いなと思って見てた動画も、結局は「デジカメとかパソコンの商品レビュー」が多くて(上に挙げた人たち以外では、例えばジェットダイスケとか秋葉仁とかな)、これもまぁ、海外の人気YouTuberたちが確立した「手軽に稼げる、パターン化したコンテンツ」ではあったんだけど、それでも今よりは面白かったんだよね。
瀬戸とかKazuとかも、昔の動画はけっこうガジェオタっぽくて良かったんだよ。それが「商品レビュー」というお手軽パターン化の一種であったとしても、ある程度のヲタ臭があることがギリギリ、面白さを支えていた。
それがマイクラ実況とかやりだすとね、なんかもう、「いやお前らべつにそれそんなに興味ないっしょ?」感がハンパない。
スプラトゥーン実況とか流されても「お前らぜんぜん上手くねーし」って感じで、存在意義がない。
ちなみにHIKAKINは、俺がその存在を知った頃にはすでに小学生向けの今の路線だったので、最初から面白いと思ったことがなく、変化はあまり分からない。
そういう意味では、なんだかんだでHIKAKINが「手軽に稼げる、パターン化した動画」の日本におけるパイオニアで、他のYouTuberが追随したって感じなのかな?でもHIKAKINだってもともとは、ヒューマンビートボックス動画で有名になった人だよね。それらいつのまにやら、お菓子を食べた感想とかゲームのプレイ映像で食う人になってるわけだ。
あ、そういえばビートボックスで思い出したけど、HIKAKINと違ってビートボックス動画を一途に継続していて好感を持っていたdaichiも、いつの間にかゲーム実況チャンネルを開設して、マイクラとスプラの実況やってたわ。なんなんだよほんとに・・・。
とにかく最近のYouTuberの活動をみてると、「ヲタがヲタじゃなくなっていく」過程でしかなく、それって「好きなことで生きていく」とは真逆なのではないのかと。
以下追記。
ブコメの論評がけっこう面白いので、みなさんあわせて読んでみてね。「文句あるなら見るな」みたいな不毛なコメはなく、みんなけっこうネット上の草の根コンテンツを愛しているんだなということが分かってよかった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160410104626
>ニコ生みればいいじゃん
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/algot
それ真理。
>固有名詞が全然分からない。そんなにみんなyoutuber見てんのか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/aoi_tomoyuki
実際そんなにみてないと思う。俺は社会人だけど、ビジネスマンでYouTuberの名前出して分かる人ってほとんどいないわ。
渋谷に看板出したりテレビCMもやったりしてる割には、「YouTuber」という人種は世間一般にはまだ知られておらず、そういう意味では「知る人ぞ知るネット上の有名人」みたいな位置づけは変わってないとも言える。
ただ、UUUM所属のYouTuberが典型だけど、ここ2年ぐらいで急激にチャンネル登録者数が伸びてはいるね。あと、ゲーム実況者に関しては、小学生はけっこう知ってたりするな。子供はけっこう、親のスマホをいじったりニンテンドー3DSとかWii UとかでYouTubeみてるので。
>テキストサイトの管理人がライターになれた時代があったように、ああいうのって先にパイを占有できた人たちの早い者勝ちなところあるよな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/natu3kan
>先行者利益で食える一部の層がいるにすぎないからなぁ。そういう意味では最初に飛び込んだ人らは動画作成が趣味みたいな人々だったのだろうから好きな事で生きていくってのはあながち間違いではなさそう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/kirifuu
俺の印象では、2010年以前のYouTubeって、テレビなどの著作物の無断アップロード動画を探すときが典型だけど、話題で検索してひっかかった動画をみていくってのが基本だったと思うんだよね。そういう時代から、自分が登場する企画動画(昔は「ビデオブログ」なんていい方もされてた)を定期的に撮り続けて自分のチャンネルを育て、登録者を増やしてきたのは立派なことだと思う。
あと、成長したチャンネルをみてて一様に言えるのは、とにかく継続力が凄いってこと。毎日とか週に数本アップし続けるのって、やっぱ大変だと思うんだけど、それがないと登録者数は伸びない。
>テレビが辿った道そのままなんだな。深夜で尖ったことして人気出てゴールデンでつまらなくなるアレ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/htnmiki
まさにそれ。
>瀬戸弘司は「動画撮って編集してみんなに見てもらうこと」が好きな人だと思うので、ゲーム実況も分かるかな。Kazuは視聴回数が上がりそうなことを試行錯誤してるんだろう。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/Desperado
瀬戸の編集はすごいよね。あれがあるから、まだ職人芸的な見どころを感じる。
ゲーム実況をdisるようなことを書いたけど、瀬戸のマイクラ実況は演出がきいてて(劇団員だしな)、面白い部類であると認めざるをえない。子供がよく見てるから俺もたまにみてる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/kasanova10
ワロタwしかしセイキンもいまやチャンネル登録者160万人だぜ。
バイリンガールがあのクオリティで登録者50万人しかおらず、セイキンはあのクオリティで160万人もいる。これが今のYouTubeだ。
>PDRさんを見なさいPDRさんはシバターみたいに毒舌だけじゃないし編集凝ってるし一人コント面白いし英語の勉強にもなるしイケメンだし面白いしアンチuuumだからみんなPDRさんを見なさいPDRさんを見なさい(洗脳)
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160410104626
PDRさんはPDSとも違って、クオリティにこだわりあるし、時流に媚びない姿勢がよい。
しかしなんというか、ネタがあまり個人的に興味ない感じのが多いから、頻繁にチェックはしてないな。
去年ぐらいにあった、「バイリンガールが教えてくれない英語」みたいなタイトルでFuck!の言い方を何通りも紹介してたやつとかは、10回ぐらい再生した。
>この人はyoutuberが好きなんだな
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160410104626
ええ、好きですね。
>youtuberさん は好きなことで生きて行ってないかもしれないけど エンジニアさんは好きなことで生きていけてる人が多い印象
http://b.hatena.ne.jp/entry/284732020/comment/kuxumarin
悪いがそれは幻想だ。
子供の頃、学歴が大事なんて知らなかった。大学ってものがなんなのかよくわかってなかった。
大学というものが見えてきたころには、底辺高校の2年生で、そのころでもボンヤリ学年トップのやつがいくところというイメージしかなかった。
社会にでて30歳を迎えようとしたとき、大学出身だとどうも高待遇を受けていることを知った。
もう遅い。気が付くのが遅い。
親が低学歴、底辺労働だと大学や高待遇社員のことを知る機会がない。
知ったところで勉強の仕方がわからない。親も当然しらないし、底辺高校の先生なら、けだるそうに追い払われていただろう。
お金だして良い先生に就いてもらうなんてうちの家庭では無理だったろう。
こういう話が盛り上がる様は知性の堕落だ。きのこたけのこ論争や犬派猫派なんかと同じだ。一見ファイティングポーズを取っているようでいて、その内実は当たり障りのないどうでもいい事だ。みな「そんなの勝手でしょ」で消化できることが暗に分かっているから、空気を読んで安易にノってしまう。そんなぬるま湯に浸かる姿勢は、はてな匿名ダイアリーを愚弄している。もっと人間の心の闇、ネットの闇に切り込む鮮烈な一閃のようなエントリを書くべく、みなが知恵熱を出すべきだ。角が立つような物言いもするだろう。そのための匿名なのだ。その思想を茶化してスカしてみせるような、日和ったネタ、短文のイチャモン、それらは存在してもいいがメインになるべき器ではない。
増田は遊びではない。仕事につかれた人間が息抜きにやるしょうもない作業ゲーの如きものに成り果ててはならない。試行錯誤を繰り返し最適パターンを見いだし、体に刻みこむような、そんな本格的ゲームのように、どっしり腰を据えて、マジになって、世の中や人間に対して、怒りや憎しみや不満を大いにぶちまけてほしい。別に議論にしなくていい。建設的でなくてもいい。狭窄で偏屈な主張でいいから、ただただ本気の筆致を感じる文章を読みたいし、書きたい。少なくとも自分にとって、心に残った増田はすべて本気の熱を感じるものだった。
この論にべつに共感してくれなくてもいい。どうせこのエントリはブクマもトラバも0だ。あってせいぜい「キモっ」だ。そもそも長文で、しかもトラバである時点でまともに読まない人間が多いだろう。暇を持て余したニートが何かほざいてる、とでも察されて、「触れちゃいけない人」感を全員が感じ取り、協調するように何事も起きないままネットの海に埋もれていくのだ。そういう孤立的な状態や無反応を極度に恐れる空気があるから、くだらなくても何か盛り上がるネタや、他人をひっかけるレス乞食のような物言いをする人ばかりになっていく。そして自分の尖った体系的な意見を表に出せる人が極端に少なくなる。言えてせいぜい、感情的な短文の罵倒だ。twitterを想像してもらうといい。これが現代のコミュニケーションの病理であり、他愛無い話がぐんぐん伸びて幅を利かせる理由だ。たまに飛び出る長文ブログがやたらと炎上する理由でもある。だからあえて今ここで、孤独に醜態を晒す。「空気を読まない」を実践する。そんな訓練ができる場が、ここなのだ。
実際この論がかなり偏屈で、他人に無茶を求めていることは自覚している。けれど、世の中にあふれる偏屈を見て見ぬふりして、なあなあにしていると、気づくと自分も何らかの偏屈な思想を一部取り込んでいるものだ。そしてそれに無自覚でいる人が多くなると、ついにはヒトラーやトランプ氏のようなポピュリストの主張が支配的になるような事態に結びつく。だから自分の中の偏屈の種をさらけ出し、また他人がひり出した偏屈の種に向き合って、大真面目に思いを馳せ、「我がふりなおす」時間が大切なのだ。実は、そんな意識は誰しも持っている。誰もが日常のなかで他人の偏った主義主張に触れ、無意識のうちにメタな視点を持っている。だから、他人の考え方につっかかって、自分の中で醸成されたバランス感覚を披露したくなる欲求は常にあるのだ。
元増田も、そういう欲求から生まれたものだ。けれど、下手だ。欲求の発散のさせ方が下手。いや、逆に上手すぎる、適応しすぎているのか。当たり障りなく、適当に手短に欲求を発散させ、かつ反応を引き出しやすいやり方を心得ている。それでもやはり、欲求を満たす機会と時間を、こんなチャチなテーマで消費してしまうのは実にもったいない。「いいや、どんなテーマでも大真面目に普遍化して思考訓練の材料にすることは可能だ」という向きもあろう。でもエビ嫌いdisとカキ嫌いageというテーマで本気になれる人がどれだけいるだろう。それを配慮すると、やはり最初からハードコアな話題を振ったほうが良い。でも大仰なことを書こうとするほど、言い出しっぺにかかる期待と責任は増していく。ここが難しいところだ。本気の増田が求められるほどに束縛感が増して、萎縮を招く。でもある程度そういう風でいいと思うのだ。緊張感が大事だ。
不愉快な正論やご大層な暴論の刃をぶつけあう、殺伐とした場になれるポテンシャルがある。2chよりも。それが増田だ。増田には半匿名のtwitterに馴染めなかった人の受け皿としての側面があるのも分かるが、せっかくダイアリーという形で長文が書けるのだから、たまにはあなたにもこういうクソみたいな長文を書いてほしい。この文章のように、推敲もされておらず、同じことを言い続けた挙句言い逃げする時間泥棒のような文章で構わない。私は読んであげないけどね。
やはりというか最後の2センテンスが理解されなかったようなので、ロックじゃないけど言っておく。文章の中段で書いたように、他人に反応してもらうためではなく、まず自分のために書いてほしいんだ。だから、読者への配慮すらも気にせず、拙い文章でもがむしゃらに書いてほしい。私は読んであげないというのはツンデレのようなもので、誰かに読まれることを期待するような媚びた精神を振り払うための呪文だ。内なる情動から湧いてくる言葉をガーッと綴るときに、自分がどう思われるか、誰に読んでもらえるか、なんて視点は一旦置いておかねばならん。エクスキューズやポリティカル・コレクトネスを脇における機動性が匿名の良さなんだから。それこそ、真意を伝えるためには自分が憎まれるような言い方だってできる。それが、最後の皮肉の意味だ。
「改行くらいしないか」と言われているので前々から思っていたことを書く。増田における改行はpタグの挿入を意味する。つまりパラグラフを区切りたい時に改行するのが正しい。二言三言の簡潔な文章のエントリなら1センテンスごとに改行…という名の段落分けしたほうが見やすいだろうが、このくらいの長文になるとパラグラフごとに改行すべきだ。個別ページでみれば、ちゃんとパラグラフごとに字下げと適切なマージンが取られているのが分かる。これなら一般の書籍と似たスタイルで、読みにくいとは思わないはずだ。ただ、トラバの吊り下げリストを展開した表示だと字下げもマージンも取られずに見づらくなる。それは承知しているが、それははてな側の問題であって、HTML上妥当な書き方をしておいたほうがベターだし保守性もいいだろうという判断でこうしている。だから現状、トラバが長文だと思ったら個別ページを開いて読んでもらうのがいい。
「最後はうんこ漏らした話で締めるのが美学」? それは、このエントリで表現を変えながら主張してきた内容に反する。本当に読まれたのだろうか。まあそれに憤る気はない。私の技量の問題でもあり、読み手にとって巡りあう時ではない文章だったという事もあろう。いずれにしろ主張は変わらない。そうやって読者受けを狙って媚びたおちゃらけで締める事こそ、惰弱な精神の象徴。そういう内輪ノリみたいな軟派なコミュニケーション欲求を排して、最初から最後まで舌鋒鋭く自分の言葉で斬りつける。それが私の思う美学だ。ブコメに応えている時点でそれも揺らいでいるが、コミュニケーションを第一目的とするわけではないからあえてidコールもしていない。書くことで自分を研ぎ澄ませるのが目的だから、本来は「伝わらなかった」ことに苦慮する必要もないのだ。ならローカルのメモ帳でいいという批判もあるだろう。だが、あえて直接的に反応を見ない等と決めていても、自分の残したミームの一部がどこかに化学反応を起こしたら、と考えるとワクワクするだろう。それを物書きの動機付けにする程度なら、良いことだと思う。
なぜそこまでコミュニケーションを、他人の反応を忌避するのかと思うかもしれない。その理由は、効率が悪いからだ。ネット上の他人は年齢も育ちも見識も人格もあまりにも多様すぎて、その差異をカバーすることに労力を使っているとアウトプットの量も質も落ちるからだ。とかく我々は、相手も自分と同じような能力や規範を持っていると勘違いしやすい。だからいちいち説教して回りたくなるものだが、その欲求のために個別に相手をしていたらすぐに人生を使いきってしまう。だから、言いたいことがあったら、このエントリで述べてきたように、増田を利用した放言スタイルで重量級のをカマしてみてはどうか、という話だ。
あまり自己肯定感が高くはないタイプの人間で,それにあまり要領もよくない人間だったから,その分ちゃんと頑張って生きようと思ってよりよい人生を送るためのささやかな努力――自堕落な生活を送らないための自制心や忍耐,日常生活におけるPDCA――をいつもやってきたはずなんだけど,ここ一ヶ月くらいもうそれらが全部どうでもよくなっちゃって,全部だめになっちゃった。
たとえば早起きずっと苦手だった,だから,ありとあらゆる試行錯誤をして,負担少なく無理なく続けられるやり方を考え出そうとした。まず,睡眠時間の記録を何ヶ月も続けてとって自分の睡眠傾向の現状を調査をした。また帰宅後の自分の時間の使い方を手帳に逐一しばらく記録して,いったい何にどのくらい時間を費やしているのか調べた(たとえば風呂にはいつも30分かかる,とか)。それらの記録を元に予定を組み替えて,早く寝れるよう時間を捻出してみたりした。目覚ましのおき場所も工夫して。テレビやラジオのオンタイマーを活用して。そしたら早起きが無事できるようになった。やったね!朝ごはんをきちんと食べれることの幸せを得ることができた日々は本当に幸せだった。
たとえばファッションセンスが激ダサだった。アラサーなのに高校生みたいな服を着てた。クローゼットの中身は一朝一夕ではどうにもならない。なので三カ年計画でクローゼットを改革することにした。ファッション雑誌や指南本をいくつか読んで基礎を勉強した。不要な服を廃棄し,シーズン毎に手堅い定番品を買い足した。所有している服は全て写真を撮ってクラウド管理。すると自ずと次に買うべきものがわかってくる。以前に比べて服装に自信が持てたし,服屋のセールを眺めるが楽しくなった。道行くひとを眺めることでさえ勉強になる。ファッションはとても奥が深くて面白い。
たとえば暮らしが貧乏だった。手取り十数万で一人暮らし。奨学金の返済もあるし,年に一回は片道1万円かかる実家に帰省しなきゃならない。当然家計簿はつける。月ごとに自前のエクセルで集計して分析。各種定期的な支出は積み立てをする。趣味も整理して無理なく出費を続けれるように支出を調整。給料日の幸福感は減ったけど,自分の家計の不透明さは減った。数年内に転職はしなきゃならないけど,家計簿のお陰でなんとか今もまあまあ楽しくはやれている。
全部やれてたし,それなりに全部楽しくやれてたはずなんだけどな。
どれもささいなことだけど,がんばったんだよ。自分なりには,がんばったんだと思う。
でもなんかもう全部どうでもよくなってしまった。
少しずつでも歩き続ければ今よりももっと素晴らしい自分になれると思ってた。今でも多少はそう思ってるけど,でもなあ,あんまり信じられない。1x2=2だけど,0.1x2=0.2なわけでさ。同じ「x2」の努力をしたところで,もともとのものが少なければ一歩前進できたところでそれは微々たる物なんだよね。そんなの当たり前で,だからこそ少しずつ進んでいくしかないんだけど。だけどさ。ものすごくがんばって,それでようやく人並みになれて,それって何が残るんだろう。
それにさあ,どんなに努力のやり方を考えて工夫しても,結局そのやり方を遂行するにはそのための,なんていうか,精神的体力みたいなのがさ,必要で。それって努力ではどうにもならないんじゃないかなあって最近よく思う。がんばっても精神的体力は回復しない。精神的体力をうまく回復させる方法を考えるけど,考えることで精神的体力が消費されて結局意味がない。
もっとパワフルな人間になりたいと思う。どうしたらなれるだろう。どうやったらなれるだろう。考えるけど,考えるだけでうんざりする。がんばってもがんばっても,わたしはわたしにしかなれないので,よりよい人生というのも幻なんじゃないかと思えてならない。でも向上心を全部なくしてしまったら,今以上に今後がよくならないなら,今すぐ死んでしまうのが最も合理的だっていう結論に辿り着いてしまう。死にたくない。でもやっぱり生きるのはつらい。
こういう生きるのがつらい系記事増田に最近ちょくちょく書いてるけど,仮にホッテントリ入りしたところで釣り認定されるんだろうか。まあ釣り認定は増田の華なので別にいいけど。でもいつも思うんだけど,はてブってよくライフハック記事があがってくるじゃない。みんなあれを実践しててつらくならないのかなあ。それとも世の中の大多数の人間は,自分よりも格段にパワフルなひとばかりなんだろうか。
ソシャゲの大手とそうじゃないところの両方に居たので描く。冷静に比較して、大手じゃないところに正直居たいとは思わなくなりましたとさ。
もうね、何か何まで恵まれてたし効率的だったのよ、大手は。大手に入ると、そうじゃないところではどうあがいてもさっぱり勝てる気がしませんでしたとさ。人一倍やる気に溢れる若造は、さっさと大手に来ないと、やっぱり人生損するよ?と思うのだけどどうなんだろう...?きっと当たり前過ぎて話題にもならないのかな...こんなこと。
オススメと言いつつ他人からの引用や個人の趣味が入り乱れてて、そも年200本が大したことない上にそれでも本数に見合わないチョイスだから一言いいたくなるんだと思いますよ。ひとつひとつは小さいツッコミ所が集まって爆発したというか。
例えば年200冊マンガ読む人がドラゴンボールやワンピースと低俗霊day dreamer勧めてる微妙感というか…非常にモヤモヤするんですな
あとジャッキーブラウン前後のタランティーノってファッションとして映画観る層にもウケてて、それがジャッキーブラウンで離れて行ったことがあって、まあ藁人形といえばそうなんだけどそいつら思い出してムカつくってのもあるのかなーと。というか個人的にそう。ジャッキーブラウンを外すタラ好きは一瞬警戒します。
んでオススメの話題に戻ると、ネットとかで間口広く映画をオススメするんなら、今の話題作や人気作からそれと似た趣向だったり関連する作品を掘り下げるのが一番だと思うんだよね。
例としてオデッセイなら、
・宇宙で生き残るため試行錯誤する→ゼログラビティ・アポロ13
とかさ。後半ギャグだけど。
これなら今の映画界に貢献できる上に過去作の活性化にも繋がって映画ファンを増やす道筋を提示できるし、著者が過去に観てきた作品の本数は説得力の材料にもなる。まあ要するに真っ当な評論家がやるようなことですな