はてなキーワード: 自覚的とは
[注意]
全ての人々の命が戦禍によって、人の手によって奪われることのないよう心から願っています。
既に**沖には**の**、推定**に登る被害が報告されています。
これを受けて日本国政府は非常事態宣言を発令し、全ての日本国民に避難命令を発令いたします。
直ちに**の攻撃を受けている地域から可能な限り離れてください。
繰り返します
ただ今避難命令を発令しました。少しでも安全な場所に逃げてください。隠れてください。ご自分の命を守る行動をとってください。
団体、あるいは個人の判断で抗戦することを政府は推奨致しません。
日本という資源に溢れる、価値ある島と資産が侵略者の手に落ちることが何を意味するのか。
今後の世界を考慮すれば、無抵抗で全ての所有物を差し出す行為は到底看過されるものではないでしょう。
私は最も臆病で無責任な人間として歴史に名を残すかもしれません。
それでも今、自国民の命を、それぞれの愛する人の命を何よりも優先させるという判断を下しました。
日本国という社会通念上の国家は間も無く解体され、一つの歴史が終わることになるでしょう。
この結果は第二次世界大戦を経た日本が平和主義に則り、自衛のための軍事力しか持たないという方針をとり**に頼ったことに起因するというのも一つの事実です。
しかし日本国民が情勢の安定を甘受し永遠の平和を夢見たこの数十年間を「平和ボケ」という言葉のもとに否定することは果たして正しいのでしょうか。
それは反省すべき間違いだったというのでしょうか。
私たちがその実現を切望する平和とは、断じて緊張によって維持された張り詰めた平和などではなく、全ての人が「平和ボケ」できるような真の安息を手に入れることであると信じます。
私たちは他でもない、その真の平和が訪れる日のために武器を捨てて命を守ります。
祖国が踏み躙られ、破壊されることは、あなたを武力による反撃に駆り立てるかもしれません。
しかし最も絶え難い苦しみ悲しみは、国民の命が失われることです。
どうか落ち着いて、日本を見捨てるためではなく日本を守るために今逃げてください。
愛する人と全員で生き残ることを諦めないでください。
生まれ育った風景が跡形もなく焼き尽くされるのは死ぬより辛いことのように感じられるかもしれません。
何よりも、私たち国民こそが日本であり、一人一人決して失われることを容認できませんし、するべきだとも思いません。
国土を失った民族となっても私たちはこの美しい島で過ごした日々を忘れない限り、日本国民として、日本国民であることを誇りに生きていけるはずです。
日本国が地球上の勢力図から無くなったとしても、どんな強大な国家もとい連合といえども日本列島を海中に沈め去ることはできません。
そして日本人は、どこにいようとも日本人であるという帰属意識を打ち砕かれることはないでしょう。
21世紀の今、国は国土だけにあるわけではありません。生きて新しい土地で、他でもない自らのより良く美しい人生を探求してください。
逃げてください。隠れてください。これは避難命令です。
[あとがき]
今一度言っておきます。以上の文は私の思想以外の論拠を持たない創作であり、参考として挙げるべきものもありません。
百歩譲って現実的・国際的な問題について傍に置いておくとしても、実際に「日本列島」と引き剥がされた日本民族が何年、何世代民族の同一性を保っていられるのか。
それは「肉体を失った魂」か、あるいは「魂を失った肉体」に例えることができるかもしれません。
上の文で描かれたものは「お国のために自らを擲つ殉国」の美徳を全時代的な全体主義の思想として批判した上で、「世界平和のために一国を殉ずる」という美徳に基づき最高権力者が国防を放棄する一種の無理心中と言えます。
私たちは前者の美徳を経験した上で反省点としてその恐ろしさを認識しています。
後者の美徳の実現に関しては有史以降前人未到の夢物語でしかありません。
それでも、それぞれ好悪善悪を超えてある種の「美しさ」を感じさせるレトリックではないでしょうか。
私個人は上述の内閣総理大臣のような「命あっての物種」思想を持っていますが、前者の美徳にも共感する者です。
「国を守るために死ぬ」ことを厭わない国家単位の「究極の共感」は社会的生物である我々にかつて経験したことのない高揚をもたらすでしょう。
そのエクスタシーの頂点で敵の兵器によって鮮血とともに命を散らせるのは、一生分の生きがいにも相当する劇的経験かもしれません。
あくまで前時代的であると感じ懐疑的ではあるにせよ、私は殉国を志す人のことを止める術を持ち得ませんし、やりたいようにやったらいいと思います。
何者かの操作によって無意識のうちに行動させられているのではなく、熟慮の果てに可能な限り内発的に選んだ道であれば、ですが。
先程トイレで大きい方に挑みながら唸っていた。
多分おおくの増田もそうだと思うけれど(もうこの時点で確信がない)、半ば無意識にズボンを下ろして腰を下ろしていきんでいた訳だ。トイレなんて生まれてからおそらく1万回以上下手したら2万回近くやってるわけで、なにかこう特別なことを考えてたりするわけじゃなく、このときも確か出さなきゃいけない仕事のメールについて考えながらほぼオートモードで行動していた。
しかし、そのときふと考えた。考えたと言うか、意識がふわっと一歩外に出て自分を見た、というか。
その時自分は座った膝の上に右掌をついて、左手は肘をついて、「う゛ー」的なため息を漏らしていたわけだけど、これは何故なんだろう。いや、何故かといえば自分がそうしたからなんだけど。
何故「あ゛ー」でもなく「い゛ー」でもなく「う゛ー」だったのか? 何故右掌をついているのか? そこにふと疑問を抱いた。いや、多分それが自分のスタイルであって、年月をかけた定番であって、習慣であって、意味は特にないのだろう。それはすぐわかったし納得した。
しかし、おおくの増田もそうだと思うけれど(このあたりから確信がどんどんなくなっていく)、自分は他人がトイレでいきんでいるところを生で見たことはない。ドラマ等ではあるような気もするが、パッとは思い出せない……のだけど、皆様におかれましてはどうでしょうか?
自分自身では自分の行動は全く自然であり異常なところはひとつもないのだが、他人のそれと比較検討したことがない以上、その保証はまったくないのではないか?
大きい方を終了しながら、突然そう気づいたのだ。
そこでデスクに戻ったら即座に「トイレ 姿勢 声」でググってみたのだけれど、そこで出てくるのは介護において排泄を介助する方法や知識ばかりであって、ワードを変えて何度か検索してみたけれど、自分の求める知識は出てこなかった。
こちらが知りたいのは健常な普通の一般人がトイレでする時の仕草なのだ。しかもそれは決してエロい意味ではなく普通が知りたいだけなんだ。
しかし言い訳すればするほど説得力が蒸発していくような疑問なので、知己に尋ねることも出来ない。
一旦冷静になって考えてみれば、それに類する情報が見つけられたとしても、それらはおそらく(自分が「う゛ー」であるのと同様に)個別の個別的な体験や手法であって、自分を安心させるような網羅的で一般が確認できる情報ではないとだろう。検索結果からはそんな雰囲気を感じる。
増田諸賢は、トイレの中での行動というものを、もっと自覚的に、主体的に、ちゃんと意識してやってるんだろうか? そこでのうめき声に主体性を保持してるんだろうか? 姿勢には? 無自覚にやっていないか? 疑問を感じていないのか? すべてがわからない。
プライベートの中心地とも言えるそこはブラックホールのごとく情報を飲み込んで外には漏らさないからだ。
そういう、今日感じた疑問というか、心の動きをここに記録しておく。それが匿名増田のもっとも有用な使い道だというのが今日の結論だ。
脳死 思考を伴わないプレイ。集中力の省エネ化や瞬時の反射という意味で、美徳として使われることも多い。判断すべき時に判断できていないという悪い意味でも使われる。
チンパン、猿 同じ行動しかしない、同じ失敗を繰り返す、いわゆる学習しないプレイヤーを指す。
人権 所有/未所有でプレイに大差が出るようなアイテムやキャラを指す。
難民 人権アイテムを持たないプレイヤー、人権アイテムの入手時期を逃したプレイヤーを指す。
戦犯 試合の敗因になったプレイヤー。あるいはそのプレイ。「戦犯ムーブかました」など。
ガイジ、ゲェジ 障害児の略。ゲーセンで奇声を挙げながらプレイする様。動物園とも。
マンブー オマ◯コブーストの略。女が上手い男に囲まれてランクを上げること。
沼 知的障害者→知障→池沼→沼。プレイミスや初心者に対しよく使われる。
>> なんかワードセンスが小学生〜中学生なんだよな。
正しい。ゲームコミュニティは自覚的に幼稚なものを好む。「人間の原始的な快楽や闘争心や本能を良くも悪くも肯定する」みたいな思想が根底にある。
いや俺もゆとりなんだけどさ。
togetterとかで群れて下の世代バカにしてるのみて、「こいつらと一緒だと思われたくねえ~」ってなった。
今日の「封筒の出し方がわからない新人、やれやれ・・・」みたいなエントリとかさ。
新人の失敗は上司・先輩のミス、指導不足だろ?新人がミスるのは当たり前じゃん。
って、10年前なら上司や先輩が総叩きされてたはずなのに、いつの間にか新人をいびるのが正しい、みたいな流れになってて本当にクソ。
(まあまだ半々くらいで新人を擁護するコメントもあるけど、半々になってきてる時点でだいぶヤバい。いずれ擁護1:叩き9になってくんだろうなって。)
ネットで声のデカいゆとり民って、基本斜に構えてて、冷静で、俯瞰的に、合理的になんでも判断できますよ?みたいに装ってるけど、結局ポジショントークから逃れられないのな、っていう絶望。
というタイトルだけで内容が要約されてしまったので、これで終わりでもいいのだが、せっかくなのでもう少し書いてみる。
ただ、当事者にとってのアウティング(=バラし)になるリスクを踏まえ、可能な限りボカして書くので予めご容赦を。
その人と最後に会ったのが20年も前なので、まさしく昔も昔の知り合い。
いわば出向先で知り合った仕事づきあいでしかないのだが、とにかく仕事熱心で、自分がこの会社を支えているんだという、自信と自負に溢れていた。
新婚ホヤホヤで、奥さんと「子供どうしようかー」みたいな話をしていたっけ。
その実力で以て、業界でも少なからず活躍するだろうなーと当時は思っていた。
それが自分の社会人生活も20年目ということからか、最近になって当時のことがふと気になり、あの人、今どこで活躍しているのかなーと思って、名前と画像でググってみた。
程なく見覚えのある顔が、きれいなメイクと手入れの行き届いたロン毛に、柔らかそうなゆったりしたカットソーとともにヒットした。
ついでに現在の音声も聴く機会があって、「あーそういうことなんだ」と把握。
もちろん女性というジェンダーで生きる手段も色々あるようで、つまり全員が全員、手術して戸籍を変えて…というわけではなく、実際某東大教授のような「女装男子」もいる。
ただどんな形であれ、男性から女性にジェンダーを変えた=トランスジェンダーなのはほぼ確実だと思う。
ちなみにトランスジェンダーとして生きるきっかけは、いわゆる「性別違和」というやつだそうで、これはもうシスジェンダーの人間には想像を絶するほど苦しいと聞く。
トランスとして生き方を変える前はもちろん、体に大変な負荷と社会適応の苦労の末、望みのジェンダーを手に入れた後でさえ、自殺する者が少なからずいるらしい。
いわゆる「その立場になってみないと絶対にわからないこと」だらけの世界であることは間違いない。
なので、ただのシス男性でしかない自分がなにか軽々しく言えた話じゃないのは百も承知だが、
「それもまた人生だよな」
と、この件については不思議と納得していたり。
普通の枠に当てはまらない人間は別にそんな珍しいことじゃないし、「自分は普通のはずなのに」とわけもわからず苦しむのと、
「普通ではない」ことに自覚的に苦しむのでは、たとえ同じように死にたくなる苦しみだとしても、恐らく後者のほうがQOLはマシだろうから。
それに、普通の人とは世界の見え方が違うことが、何かマイナスじゃないことをもたらす可能性もあると思うし。
どこで足がつくかわからないこともあり、かつ書き方一つで炎上しそうな話題だと思い、なかなかリアルでは話せなかったので、ここに書き置いていく。
児童とセックスすることや児童ポルノを製造所持することは犯罪だ。
これは当たり前だし被害者になりうる児童のことを考えたら妥当だと思う。
でもこれを自分に置き換えてみると。
自分はたまたま成人異性とのセックスで興奮するタイプの人間として生まれてきたが、成人異性を性の対象とすることが異常なことだとされ、セックスやポルノの所持が違法になったら自分はどうするだろうか。
自分の性的嗜好を打ち明けることもできず、性的欲求に従った行為が軒並み犯罪になれば、自分は自分の性的欲求を胸に秘めたまま何食わぬ顔で健やかに生活できるだろうか
絶対に無理だ
私は、自分が到底できないことを小児性愛者に課している。私は小児性愛者を糾弾し、糾弾したその口で、その手で、自分の性的欲求を満たす行為をしている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200210094026
有性生殖によって意図的に個体差を作り出しているにも関わらず、個体差を無視し同一存在(クローン)として扱うことは明確に誤りである。
当然ながら個体差を理由として他者の生命財産を脅かすことも法治国家においては明確に誤りである。
当初は増太/増子としていましたが、このデフォルトネームは政治的に正しくないとツッコミが入ったので増田A、増田Bとしました
ポリコレかアレ、まさか一話のやり取りだけでそう言われてるの。
彼気に食わなかったら全方位噛み付くタイプじゃない?
更に言えば無自覚に一言多いタイプの(バスジャック後指摘されて自覚的になった節ある?)
ついでに、これは増田で見かけたレビューからそのまま拝借するけど家庭環境のせいで父親って存在そのもの憎しなとこあるだけで、主義主張があるというより気に食わなかったら全方位噛み付くマンなだけじゃんって気がする。
俺は比較的好きな漫画だったけど、期待していた方向と別ベクトルに進んだから4巻で止めた。
もっと一話完結の短編連発だったら読み進めた気がするんだけど、バスジャックといい広島編といい中長編で展開していくっぽかったからなあ、4巻ラストで謎の女出てきたあたりで「長いエピソードになりそう」って止めた感じ。
捻くれ者ってそういうところない人間には前提が通じてないことあるけど人に対して好き勝手言って自分もそっち側なのにという状況のときは自分はそうなる気はないしできうる限りそう振る舞わないってことだよ
久能くんは自分もおじさんになることに無自覚であるという指摘はされてるけど世間との感覚のズレには我をもってとことん逆らってるあり方を選んでることは明らかに描かれてるでしょ
そういう人間は同じ穴のムジナという状況ではそれ自体に皮肉言ったり自覚的であることを仄めかすし言わないときは態度で自分はそれを選ばないとやる
皮肉っぽい人間の行動様式ってそうじゃない人間には前提が見えないんだなーと思う
元増田的にはキャラクターの設計よりそっちの皮肉を言う人間の精神構造の方が答えに近そう
周りに逆らう、違うことを選ぶという意識を持ってない人間には自分は違うことを選択するという人の意思が見えない、現実の人間で些細なことでもよくあることだよ
遊ぶための自分の庭の中ぽっちですらプロレス抜きの世界を作るのにはコストがかかりすぎると判断したから辞めた
でも「Vtuber界隈はみんなプロレスをやめろ」とは言ってないのよ
個人的な感情としてはプロレスを見て親しさや面白さを感じることはなくて品がないなあとしか思わないし流行ることは受け入れたくないけど、でも、それを武器に人気を得るVtuberさんや楽しむコミュニティを破壊しようとは全く思わない
自覚的でない演者さんは病むのでは?と可能性を指摘したまでなんだ
余談だけど、V界隈の癖の強いコミュニケーションを10代の成長過程の子たちが標準的なものだと思ってしまったら、後々コミュニケーション不全に陥るんじゃないのかなとか勝手に心配もしてる
話を戻して、だからこそなんだけど、最後に書かれた「外野が勝手に踏み荒らしていい領域じゃない」が「プロレスを好まない者はVtuber畑を語るな」という意味ならば、それには反論したい
"THE WORLD IS MINE." 誇張なしにそう思っている。
高校、大学、会社 どこにいっても自分より優れた人間には常に触れてきた。
能力の優劣だけではない、共感性、倫理観、義務を全うする精神など社会的に求められる要素が一部自分に欠けているということも理解している。
しかし能力が劣っていようとも、社会的に必要な要素が欠けていても、それらは何ら問題ではない。自分の認識する世界を最終的に律するのは自分の認識だ。
自分の認識する世界において自分が特別となるのはなんの能力的裏付けも必要でない、と少しひねくれたデカルトのように考えていたわけだ。
社会人になり金銭的・社会的にも余裕が出来た状態でふと思索をめぐらす機会に恵まれ、一般的な人間より思考する際に自分の認識に重い比重をかける傾向に気づいた。
しかしこれは "ルールがあるから守る" と考えているわけではなく "俺様がルールを守ると決めたから守る" と心の中では思っているわけだ。
そのルールの成り立ちや必要性を理解・共感しているわけではなく、"自分が守ろうと思ったからルールを守る" と考えているわけだ。
価値判断が極めて自己中心的なのである。しかし結論として下される判断が標準的な判断と大きく外れていなければ端から見たらわからないだろう。
そしてこのような傾向は大なり小なり人間にはあるものなので程度の問題だとこれまでは流してきたわけだ。
さてここで終わればいつも通りの年がまた始まったのだが、年も開けたことだしと "2021年 匿名ダイアリーTOP200" を読んでいた所 "自己愛性パーソナリティ障害" という言葉を目にした。
端的に言えば自己を極端に賛美、特別視するような人格を指す言葉のようだ。
これはまさしく自分の症状そのものであると思う。大なり小なり人間に備わった傾向だと思っていたが、それも極まると病気と判定されるようだ。
最初に "自分が何か優れた人物ではないということは自覚している。" と表現した。
これは一見自己愛性パーソナリティ障害とは矛盾するようであるがそうではない。
自分が何か優れた人間でないというのは、蓄積された経験から導きだされた経験的推論だ。(そして残念なことに事実でもある。)
この事実を理解は出来ている。しかし共感あるいは自分で受け入れることは出来ていないのだ。
論理的にはその事実を導き出したものの、その事実を認めることは出来ていないのだ。
だからこうしている間にも心の奥底では "自分には何かとてつもない才能が眠っているはずだ。" と思い込んでいる。
これが回り巡って、何を考える際にも "自分はどう認識しているか?" というステップを挟み込むことになり、自己愛性パーソナリティ障害となるわけだ。
病気であることはわかった。病気であること自体は別によいのだが(← ここでも既に自己中心的な価値判断が発動している)、この性格により自分が損害を被ることはないかと改めて考えてみた。
ひとつに、自己中心的な価値判断が標準を大きく外れた際に、標準的な判断へ修正する速度が極めて遅くなるというのが考えられる。
・ 病気を治す
気取った言い方だろうか?端的に言えばこうだ。
・ 腐った性根を治す
・ 間違えない
整理したうえで思い返してみれば、これに該当するような指摘・注意は人生で 2 度受けたことがある。大学生、社会人でそれぞれ 1 度だ。
指摘をまとめると、 "最初に自分で出した結論に固執する傾向があり、アウトプットの質に問題がでていることがあるのではないか" ということだった。
その時は確かこう答えた "自分の最初の出した結論に固執するのは性格なので治りません。なので最初に出る結論が間違えないようにします。" と。
結局時間を惜しまずひたすら知識と経験を詰め込むことで当時の問題は解消して、指摘を賜った人にも "大きく成長した" という風な言葉を頂いた。
しかし腐った性根はそのままだ。
圧倒的なインプットと経験により、標準的な(適切な)価値判断が自分でエミュレートし続けられれば理論上は問題は発生しない。
しかしそれが死ぬまで続けられるほど才には恵まれていないこともわかっている。
そろそろ腐った性根を治す時期が来たのかもしれない。
声優ユニットというものに多くを期待しすぎじゃないのか? 比較対象に出ているようなラブライブ等のコンテンツ主導型のものとは盛り上げ方や続け方が根本的に違うだろう。
そもそも、声優が「中の人」としてじゃなく「生身の人間」として芸能活動していくものは何と言うか、どうしても出た所がピークで、細々と狭く小さいコミュニティになっていかざるを得ないんだよ。
俺自身は90年代半ばからゼロ年代初頭まで、ユニットではないが声優の飯塚雅弓さんを推していた(推すなんて言葉は当時なかったが)。ポケモンのカスミ役などでそのユニークな声質に魅了されたからだ。
中部圏から微弱な電波を捉えて文化放送などのラジオを聞いていたし、CDアルバムやシングルも5作分くらいは追っていた、ライブにも行ったりしたが、そもそも声優というものには旬がある。
大御所と呼ばれるような人になれば例外だが、普通はいずれ本職(と我々が思っていたはず)のアニメ声優のお仕事ではほとんど見られなくなって、それ以外の多様な活動でお見かけするようになる、そういう存在だ。
これは今も昔も変わらず、声優は声優だけで食い続けることが出来ないからこそ、個人やユニット活動を通して可能性を探りつつ、ファン(というか太客)の動線が途切れることがないよう維持するものなんだよ。
太客は周りがどう移り変わっても家族のように常連でい続けてくれるものだし、そうでない大半のファンは自身の生活の移り変わりを経るうちに自然と離れていくものだ。
最近は音楽主体の芸能活動をするにしてもアイドル的に売り出す人や、そもそも声優ではないがアニメ系アーティストとして名前を売る人などが出てきて、「アニメ系人材の出口戦略」も多様化しているが、本質的には変わらない。パトロンシステムのようなものだ。
とにかく「生身の人間」を追うからには、そういった小さく狭い路地に入り込んでいくことは避けられないわけで、そういうディープな路地に潜っていくことに楽しさを感じる人のためのものだ。
ハイウェイを疾走する周りの旬なコンテンツと見比べてキョロキョロしていたらどうしたって見劣りするし、本来比べるものでもない。付き合っていく胆力が相応に求められる部類の趣味だろう。
一方で俺自身も10年代半ばには、旬モノにハマったりもした。音ゲー好き繋がりでリリース初期のスクフェスに触れたことで、ラブライブ(μ's)にどっぷり浸かっていた時期もある。
ライブも行ったし、ファイナルライブもライブビューイングだが目の当たりにした。そこで分かったことがある。
ラブライブという作品は、「区切りをつける」ことをコンテンツ展開の一環として非常に意識していた。こういうことは作品主導型だからこそ出来るアプローチだろう。
アニメ側のキャラ達が作中で人気絶頂になっていくのと連動して、リアル側の同名ユニットもSSAに東京ドームとハコをどんどん広げ紅白にも出て、という奇跡的なリンクを起こした。
そしてアニメ側のキャラたちが作中でグループを「終わりにする」と宣言したのと同じように、リアル側も人気絶頂のうちに解散ライブをした。
アニメ作品自体は登場人物とキャストを変えてシリーズ化していき、μ'sは名実ともにレジェンド扱いになっている。
アイドルとしては一種の理想的形態である一方、商業的にはもったいない、後続シリーズに乗り換える気持ちがついていかない、というファンの声も当然あった。
ここで「アイドル」というものが如何に難儀かが浮き上がってくるだろう。アイドルである以上、成り上がって華々しい何かを残していく骨太さを求められる。
一方で従来の声優アーティストのような在り方には、個人の才能をどうにか花開かせて行き先を探していく、芸術家的な長い道のりがあるわけだ。
声優アイドルユニットというものは、この2つのベクトルの違う生き方を同時に求められるアクロバティックな立ち位置で、競争の中で誕生してしまった茨の道だと思う。
作品と結びついているのならば、例えばミルキィホームズのように、コンテンツの寿命に伴ってリアルグループも解散することができる。
ラブライブのように、シリーズ化という形で太く短い生命を打ち上げ花火のように散らしていくこともできる。
けれど「本人」として活動しているものはそのへんの扱いが難しい。その背後にあるものが作品のような一過性のコンテンツではなく、一人の人間の人生だから。
付き合う人間側が、本質的にはアイドルオタクで好きになったのがたまたま声優さんだったのか、
本質的にはアニメ・ゲームオタクで、作品性にあてられてあくまで演者としての声優さんを好きになったのか。
後者だった場合、声優さんがもはや声優ではなくなっても追うことができるのか、できないけど熱がある時期だけ追っていたいのかに自覚的になるべきだろう。
俺はやはり後者でアニメ・ゲーム体験への感動が主軸にある人間だから、個人に対しては敬意や愛着こそあれどあまり深入りすることはなくなった。
でも最近は、ましゅまいれっしゅ!のようにアニメの外側でもキャラの形で楽しませてくれるコンテンツがあったり、
それこそVtuberのようにキャラのガワで個性をエンタメ化してくれるモノがあったりして、個人とキャラの境界が曖昧になっているのは感じる。
いい時代であるとも言えるし、受け手の精神力が試される場面が増えているとも言える。
どんな形であれ、多様な道が存在するようになったのは基本的に良いことだろう。
いち消費者である俺に、その道の先にあるものの是非などを語る資格はないが、今の所は楽しみ方を見いだせているので、楽観視している。
原神の推しキャラであるあの子の声優さんが、演技が違うもののよーく聞くとDMMのあのウン十億かけたブラゲーで主役のあの子を演じていたことに今更気づいたり。
キャラの性格的にはそこまでツボではないけどなんか好きだなーと感じていた原因はこれかっていうね。
そしてまた別の流行ってないがめちゃくちゃ可愛らしいDMMのご飯系ブラゲにも出演されていて、絵師がおう氏のキュートな立ち絵で、振り回され系の可愛らしいボイスでどストライクな演技をされていることを発見したり。
名義が違うのであんまり大きな声で言えないが、界隈を掘っているとアイマス系などで耳に馴染んだ方々の声もちょくちょく聞こえてきて楽しい。誰かがDMM沼に引きずり込んでるのか?
また逆に、表では活動されてないっぽいんだが若手っぽいこっち系の有望な声優さんも僅かながら発掘できたり、同人音声で有名だった人がゲーム畑に降りてきてたり。
はたまた売れっ子声優さんがDLsiteで続々とアダルトではないASMRを発表してたりと、アニメ・ゲーム軸の声オタ(≠声優オタ)な自分からすると最近は楽しいことばかりだ。
オタク的なものは、密かに楽しめばいいと思う。極個人的な、密室的な、内面的な楽しみとして。広げたとして、鍵のかかった匿名的なネットワークの中で、同好の士たちと、密談をするように楽しみや喜びを分かち合えばよい。
というのは、自分はライトオタクにあたると思うが、それを公言したりはしない。本当にライトなあたり、たとえば今で言うと鬼滅の刃みたいなものは、見たよ、楽しんだよ、と話すことはあるが。
なぜそうするかと言うと、自分が楽しんでいるものの中に、ある種の非常に一方的な、思い込みの強い、恥ずべき欲望が含まれていることに自覚的だから。最近流行りの擬人化もの、女体化もの、いわゆる美少女動物園的なコンテンツが好きだが、主要キャラクターが概ね若い女性で、露出度が高い格好をし、主人公に常に好意的な設定は、どこかおかしいと感じているから。そこから自分がなにを得ているかとなると、ある種の安らぎ、受容の安心感、疑似恋愛的な幸福感、興奮。客観的に考えると、こんなに自分勝手にキャラクター、さらにはその原型となる現実、特に女性を消費的に扱っているというのは、なんというか…大変気持ち悪いと思う。
だからこそ、大っぴらに言わず、自分の部屋の中で、ひとりの時間に、頭をカラッポにして楽しむ。これが楽しいのは確かなので、無くなってもらっては困る。ただ、消費している自分の、消費の仕方、消費の前提となるマインドは、大変気持ちが悪いものなのだ。呆れられて当然のもので、正当化も擁護もできない、自分勝手で子供じみたものなのだ。
それには常に自覚的でありたいと思っている。
大会をとにかく盛り上げようとする事を至上命題とする事自体は構わないと思う。
でもそれは「笑いの真剣勝負」という事からはどんどん外れていってしまっている事にはもっと自覚的になった方がいい。
真剣勝負だったら生放送で一笑いも起こらず完全に滑ってしまう組があってもそれを是としなければならない。
当日の観客は明らかに「ムーンウォークが始まっただけで爆笑してしまう」ある意味お笑い上級者ばかりだった。
事務所の先輩サンドウィッチマンの、ランジャタイが放送事故にならない為の関係各所への根回しはほぼ完璧だった。
つまり、全国民からミトコンドリアの遺伝子を調査をすれば、天皇家の家系図なんかよりも正確な国民全体の家系マップが生物学的に作成出来ることになる。
これは独り身であるか否かは全く関係ない、クローン人間でも無い限りは確実に母親から産まれて、その母親を辿った先には必ず血縁関係が存在するからだ。
ある死刑囚の賠償金の額が、被害者一人当たり3億円だったとする。25人犠牲になったら75億円必要だ。
こんな額を加害者と加害者の可視的な親族が払うのは到底不可能な話である。そのため、加害者1人を死刑囚として殺処分することで被害者が泣き寝入りしているのが現在の日本政府の運用である。
しかし、被害者遺族の立場に立ってみると元々ゴミ屑のような加害者の殺処分の有無よりも、目の前に3億円が出てくる方が遥かに実用的で有意義な措置では無いだろうか?
これを可能にするのがミトコンドリアによる生物学的家系図を使った賠償の自動化である。加害者の可視化されていない「親族」から血縁関係の近さに応じて税金のように少額を捻出するのである。
勿論これらの処理は血縁関係になってしまった本人が自覚的に払うものではない、自動的に国家が天引きするのである。結果無理なく被害者遺族は満足の行く賠償金を受け取り、国民全体が意識せずに社会責任を全う出来るのだ。如何だろうか?
社会責任を罪のない刑務官に押し付ける今の運用は健全だろうか?加害者の殺処分の有無がそんなに大事だろうか?もう一度よく考えてみてほしい。
表現の側が表現に責任を持っていないし。言葉狩りだ!表現の自由だ!法で規制されているわけでもない表現に個人のお気持ちで文句をつけるな!それが嫌なら法規制しろ!って主張してたわけでしょ?
表彰は社会にどんな影響も与えないし、犯罪が認容されるように誤解させるミスリードをしたり、専門知識を誤解させて広めたり、義務教育で習わない大人が聞かれてすぐに答えられないような事柄について、倫理観を欠如させるような描写をしたり、イジメや軽犯罪を肯定的に描いたり
法規制はされていないのだから、それを止める権利はない。表現の自由に対する侵害だ!
主張ってのはこうでしょ?
でも実際にはゆるキャンが売れればモチーフのキャンプ人気が高まる
真実味を帯びたような描き方の表彰や報道は様々なミスリードや誤解を招く、女性に対して軽いノリでセクハラが流行ったのもスカート捲りが流行ったのもタバコが広まったのもドラマやアニメや漫画の影響だった
現に、海外から見たら今の日本は幼い女性キャラクターが男性にあたかも恋愛感情を持っているかのような表情や言動、大人の女性らしい特徴を備えた描写をしている
客観的に正常な感覚で見れば明らかにポルノなんだけど現に表現物に慣れ表現に強く影響されたことにより麻痺していて、ごく普通の少女がこんな見た目で男に媚びた設定で、実在の少女を描くこと、女性を描くこと、ではなくてエッチで自分を性的に受け入れてくれるポルノキャラクターを描いてるから、言論の自由や表現の自由に無関心かつ熱心な反対派が騒いでいる
おじさんの欲望のサンドバッグなのに、しかもそこに自覚的になっていないから、温泉むすめのようなキャラクターを温泉地に置いてしまう
大人になったら消えるキャラクターなんて、ほとんど性奴隷じゃないか。性を客体化し性の自己決定を否定した作風が全肯定されていいものか
こんな現状で規制派は二次元と三次元の区別がついていないとか立証されてないと言うのは詭弁だね
立証というのも、表現が社会的に無害であることは立証されていないし有害性についてはいくつもの過去事例が存在している。立証するなら現代社会から隔離されたグループを用意しなければいけなくなるんだから
法規制がないからと表現の側が責任を放棄して無制限に表現をしていいと主張するなら、必要な政策だと思う
表現が規制されて失われることを嘆くなら、表現の自由を社会的な責任を伴って正しく使いこなせなかった社会の未熟さを憂うしかない