はてなキーワード: 物言いとは
悪口を言われたときに悪口を返すのは悪手であるので、基本的に相手を傷つけない言葉を選ぶようにしている。
ただし、単におもねるやり方では継続されてしまうので、しっかりと言い返すというやり方。
悪口というのは「支配ー被支配」の関係を築き上げるための道具である。悪口の程度によって、どの程度の支配力を保有しているかを把握することができる。
悪口はまた、必ず一方的であるわけではなく、闘争の過程で応酬されることもある。
基本的に時間の無駄であるためスルーが基本。次に関わることは無いとして早めに自分の人生から切り離す。これが最善。道端でゴキブリを見ても潰す必要がないように。
最終的に武力がものを言う。圧倒的なムキムキマッチョに「お前はバカだ」とはなかなか言いにくく、相当な閾値を越えなければいけなくなる。
鍛えれば、悪口はかなり言われにくくなる。
悪口を直接言われるとか、間接的にでも伝わるように悪口を流されるというのは、簡単に言うと「武力不足」だとしてナメられているだけである。
敵には、最初に「コイツの言うことは聞かなくても問題ない」という直感があり、それにそのまま従っているだけである。
「動物として格上」と直感で判定されれば悪口を言われることはない。わざわざ虎とわかっている虎の尾を踏む狐はいない。
何が武力として使われるかは、ビジネスなら売上など、その集団の価値観に依存する。
「そんな言い方をされるのは嫌です」「どうしてそういうふうに言ってくるんですか?」「その言葉を使われると傷つくのでやめてください」「少し不愉快なので、そういう嫌な笑い方はしないでほしいです」などの言葉を使う。
これは「悪はお前だ」というメッセージを与える。相手ははじめ「こちらが悪(下等)だから、悪口を言っている」という認識である。したがって、「悪、つまり下等な存在とやらはお前である」と伝え返すことになる。
大抵の人間はこれで気がつくし、普通の人間なら逆に謝ってきて、発言の反省を促すものだ。これ以上やることはほとんど無いはずである。
「性格悪くないですか?」「そういう酷いことをみんなに言ってるんですか」「なんでそんな心無いことが言えるんですか」「それって感情的に私を否定しているだけじゃないですか」のように、最初に思ったことを言う。
相手を攻撃してやろうというよりも、「あなたにも愛があるはずですよね」「あなたという存在の価値はどの程度か?」という善側の気持ちを呼び起こさせる物言いである。
これが効かない人もいるが、ほとんどは、敵は敵の自尊心との戦いになる。低い社会的地位・スティグマを貼ることで、相手はそこから脱出しようとしたがる。
ここで自分が悪口を言ってはならない。あくまで相手の発言に対して、社会的に見てどうかという評価を下すのみである。相手の人生を慮れば慮れるほどよい。敵はより悪になっていく。地獄に落とせ。
相手の言葉を整理して、論理的にどのように繋がっているかを記述する。
「なるほど。つまり◯◯さんは、私がバカだから、この仕事ができないとおっしゃるんですね」というように復唱して、◯◯さんの言動「『私=バカ』→『仕事ができない』」というような記述を行う。
そうすると「なぜバカだと思うのか?」というような分析が可能になる。また「仕事ができない」ということは実際どういうことかなども深掘っていける。
いかに相手が感情的で、直情的で、矛盾をすぐに作り上げ、自分でも何を言っているかわからないということを、誰の目にも明らかにする効果がある。
「メモをやめろ」→◯◯さんの言動「メモをやめる必要がある(メモをやめる必要があるから。同語反復)」などのようにして、そこは無視を貫く。
敵がなぜ悪口をポンポン言えるかというと、プリーザー(喜ばせ屋)の存在があるからだ。プリーザーには意志というものがなく、強い者につき、指示を守るだけの働きアリだ。
彼らは真に敵が好みというわけではなく、自分の保身のために強い者の味方になるぶりぶりざえもんのような存在である。
そのため、プリーザーの中のトップに対して「お前こいつでいいのか?」という視線を投げかけるだけで良い。そいつが落ちれば「落ち目」と判定され、全員落ちて、敵は完全に孤立する。
ターゲットをしっかりと定めて1人を執拗に狙うというのがコツである。1対1に持っていく。
相手の知的レベルを超える言葉を多用することによって、相手は何を言われているか全く理解できず「自分がバカである」ということを嫌でも理解させられる。
どのような悪口を言われているかすら理解できないため、相手はこちらの言い方に噛みつくか「その話し方をやめろ」と言い続けることしかできない。
「もしかして理解できていませんか」と一言添えるだけで良い。これを「知的優勢」と言う(言わない)
こちらを慮るような発言をしてきたときには、攻撃を継続するべきではない。同盟まではいかなくとも「戦争に益なし」と思わせれば今後は過ごしやすくなる。
基本的にこれらを使うことはない。なぜなら初期の段階で相手が服従あるいは同盟を選択するからだ。
しかし本物と相対した場合、必ず武力闘争になる。したがって筋肉等の武力は重要である。
>人権なんてフィクションだとか、性自認なんてフィクションだとかいう物言いが最近多くて、それ自体は意見としてはアリだと思うが、そう言いがちな保守の人に限って、「じゃあ人種も民族も皇統も生物学的には無意味だしフィクションだから全部同じ扱いでいいよな」と言ったら怒り狂いそう
https://twitter.com/furukawa1917/status/1680238050222424065
いやーどっちかというと生物学的性という概念をフィクションと主張するトランスアライの方がやばいんじゃないですかねぇ…
>「まともな議論を始めたいのであれば、まずは「体の性」などという概念を捨ててトランスジェンダーのひとたちの性同一性を認めることです。
以下のエントリにぶら下がったはてな民によるブコメを読んでいて、「ああやっぱりいつのもはてな民達だ…」などとぼんやり考えていたらふと、芥川龍之介の蜘蛛の糸を思い出した。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-509289.html
血の池地獄で他の罪人と共に浮き沈みを繰り返していたカンダタは、生前にたった一度、蜘蛛を殺さなかった。たったそれだけの「良いこと」をその血の池地獄の様子をたまたま眺めていた天上界のお釈迦様が思い出し、天界から蜘蛛の糸を垂らしてカンダタを地獄から救ってあげようとしたが、その蜘蛛の糸を上っていたカンダタは、自分の後から続々と上ってきた他の罪人に気づき、「こらっ!落ちてまうやろ!上ってくんな!」と叫んだら、その瞬間、糸はプチッと切れて血の池地獄に真っ逆さま、というあの話だ。
ていうか、田野氏の2年前のツイート炎上の時もそう思ってた。芥川龍之介が始めた書いた童話だそうだが、芥川が伝えたかったことは曖昧で何か教訓めいたものがあるのかないのかよくわからない、と聞いたことがある。ただしかし、私は単純に、「ナチスは良いこともしていたのでは?」なるよくある言い分は、この蜘蛛の糸にそっくりな気がずっとしていたものだ。
蜘蛛の糸を喩えとみなせば、そのような一般的な言い分を認める人たちは、2派に分かれる。一派は、「ナチスは実は良いこともしていたじゃないか」として、絶対悪の淵から救い出そうとする勢力だ。これがおそらくそのような主張をする人たちの大半であろうと思われる。だから、それらの一派は蜘蛛の糸を絶対に切ったりはしない。たとえばそれらの良いことの実例の一つや二つ否定されたからと言って、それらの人たちは次から次へと蜘蛛の糸を垂らしてナチスを救い上げようとするのである。
もう一派は、蜘蛛の糸の話そのもの、みたいなものだ。良いことをしていたかもしれないことは認めるが、ホロコーストなどの悪行のせいで絶対悪の淵からは救い出せぬ、とするのである。まるでその人達は、天上界のお釈迦さまそのもののようでもある。
id:NOV1975 対戦相手を全否定するのって中々の悪手で、観客にその否定の一部でも「いやそれは正しくね?」と思わせてしまえば全否定という主張の根幹が崩れる、という最大級の弱点を無視する人多すぎ問題。
このブコメなどはまさにお釈迦さま視点である。このブコメの裏を取れば、全否定しなくとも、ナチスは否定できると言っているようなものであり、どんなにナチスに良いことがあろうとも、ブチっと蜘蛛の糸を切って血の池地獄に落としてしまえさえすればいいだけじゃないか、となるのである。
話は少し変わるけど、私自身がしょっちゅうはてな民は、お釈迦様みたいなものかもしれん、と思ってたりする。とにかく「偉そう」な物言いを常にするからだ(笑)。いや、ネット民なんてはてなに限らず、ほとんどそんなもんなのだけれど、はてな民は若干だか平均して知性が高いように思わせる「何か」があるので、その分だけお釈迦様度は高いように思われるのだ。
さて、話を戻すと、一つ言いたいのは、これらブコメを書いたはてな民たちの何人が一体、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』を読んだのか?って話だ。この本は共著であり、およそその半分を小野寺拓也氏が著述しているのである。小野寺氏はウルリッヒ・ヘルベルトの『第三帝国』の翻訳者でもある(それがどうしたとか言わないでね。知る人ぞ知る名著です)。流石に二人とも現役のドイツ現代史研究者であり、『「良いこと」もしたのか?』は、極めて実証的に著述されている。もちろん、現代の学術的見解にも精通しているお二人だ。その観点で、記述内容自体は必要十分には詳細であり且つ正確だと考えられる。ナチスの経済政策や、労働政策、環境政策や健康政策などなど、それらが具体的にどんなものであったかを知るための入門書として非常に良書であると思われる。実際、このようにナチスの具体的な政策について概括的に知ることのできる本はこれまであまりなかったからである。『ナチスの発明』?あんなもんただのクソ本だ。ハーケンクロイツをデカデカと表紙にするセンスがそもそも信じ難い。
したがって、まずはちゃんと読んでほしいと言いたいところではある(たかだか100ページ程度の本だ)のだが、実は、同著は別に全否定しているわけでもない。確かに、田野氏は「ひとっつも良いとこなんてないですよ」とツイートでしたからこそ炎上したのだけれど、同著の記述方法は、まずは一般に言われるような「良いこと」を具体的に一つずつ、項目としてあげて丁寧にそれを「良いこと」として詳述するところから始めている。つまり、そこだけ読んで、その後の説明さえ読まなければ、ナチスは良いことばかりしていたかのように読むことさえ可能な本なのである(笑)。その辺が、小野寺・田野氏両名の学者として誠実なところではないかとさえ言い得る。つまり最初からナチスの政策を腐しているわけではないのだ。
結果的には評価として、ナチスの政策は良いところなんて一つもなかったと、結果論として評せざるを得ないことは確かである。その象徴が、現在もバルト海沿岸に残されている『プローラの巨人』と呼ばれる、ナチスドイツの歓喜力公団(Kraft durch Freude)が建設していた巨大リゾート施設である。同著では詳しい記述はないが、同施設は労働者が無料で使用できるリゾート施設になるはずだった。が、戦争が始まると、建設は中途で中止されてしまい、使用されることはなかった。現在は歴史的建造物として、廃墟のまま放置されている(以下追記)。しかし、ナチは確かに労働者に喜びや活力を与えようと、余暇を十分楽しめるように政策を実行しようとしていた証拠ではあるのだ。詐欺集団が実際には存在しない投資物件への投資を求めるのとは訳が違う。ただしそれもこれも、戦争の波の前に全て頓挫してしまったので、「夢」としては良いことかもしれないが、「現実」には良いことがあったとは言えないことになる。しかしその全てを台無しにした戦争を始めたのもヒトラーなのである。
個人的には、お釈迦さま視点など要らないと思う。個々人が個々人自身によって、ナチスにも良いところがあったのでは?と思うのであるならば、批判的視点を忘れずに、それを可能な範囲で自ら学ぶべきだと思う。否定・肯定を抜きにして、『ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、知性高いはてな民にとってすらも良書だと思うのだが。1000円未満で買えるんだぞ(笑)。
追記:プローラの巨人については私自身の記憶が曖昧且つ古かったようで、再利用化が進んでいるようだ。以下、英語版ウィキペディアから機械翻訳そのまま(修正なし)でコピペする。
売却と再開発
2004年、10年以上にわたって敷地全体の売却が試みられたが失敗に終わった後、建物の各ブロックは様々な用途のために個別に売却され始めた[1]。 2004年9月23日、ブロック6は入札者不明で62万5,000ユーロで落札された[1]。 2005年2月23日、旧ミュージアム・マイルのブロック3はInselbogen GmbHに売却され、同社は建物をホテルとして使用すると発表した。2006年10月、ブロック1とブロック2はProra Projektentwicklungs GmbHに売却された。しかし、ブロック1は2012年3月31日に競売にかけられ、ベルリンの投資家が275万ユーロで購入した。
2006年11月、連邦不動産庁がブロック5を購入した。連邦政府とメクレンブルク=フォアポンメルン州からの財政支援を受けて、この建物にユースホステルを設立する計画だった。複合施設の最北端に位置するこの建物は、5つの連続した部分に分割された。
2008年末、プロラが本来の目的を果たし、近代的な観光リゾートに生まれ変わる計画が承認された。同協議会は、3,000人が住めるだけの居住スペースとユースホステル、観光客向けのアメニティを建設する計画を打ち出した。地元議員のケルスティン・カスナー氏は、プロラの海岸を「カリブ海のビーチ」に例えた。しかし、この決定は、すでにこの地域には観光客が多すぎると感じていたビンツの地元住民や、プロラの歴史家であるハイケ・タゴルド氏からは懐疑的な意見もあり、また、町の過去の歴史から観光客には不適切な場所だとも言われた。とはいえ、2011年には、かねてから計画されていた96室402ベッドの大型ユースホステルがオープンし、ドイツ最大のユースホステルとして人気を博している。低予算志向の観光客に向けた施設の拡張の可能性も提案されている[8]。
2010年9月、ドイツとオーストリアの投資家グループにより、1号棟と2号棟を高齢者向け住宅として改修し、テニスコートとスイミングプール、小規模なショッピングセンターを備えた300ベッドのホテルを建設する計画が発表された。投資額は1億ユーロと見積もられている。
2013年、ドイツのメトロポール・マーケティング社がプロラを改装し、サマーハウスとして販売する権利を購入した[9]。その年までに、いわゆるコロッサスの改装済みアパートメントが1戸70万ユーロ(90万米ドル)で販売された[4]。2016年、ブロック1に新しいアパートの第一号がオープンした[10] ブロック2のホテル「プロラ・ソリテア」は2016年夏に合わせてオープンし、2017年半ばには同ブロックで再建されたアパートの一部が売りに出された。当時、建物のうち4棟は再開発の過程にあり、5棟目はユースホステルとして使用され、残りの3棟は廃墟のままであった[4][11][12]。
2017年11月の更新によれば、ブロック1のユニット(フラット)のほとんどは、ハンブルクやベルリンに住む人々のための夏の家として販売され、売却されていた[7]。多くの所有者は、Airbnb[13]やHomeAway[14]などのサイトに短期賃貸として掲載していた。
しかし彼の作る家具には寸分の狂いもなく、ガタつきも緩みもない様子を敬意をこめて”ドン・ピシャリ”と呼ぶようになった。
そこから転じて様々な要素が狂いもなく合致する様が”ドンピシャリ”と言うようになったのである。
しかし、それを快く思わない者もいて、人間性のない四角四面な言動や取り付く島もない様な物言いを、敬称のドンを抜いて”ピシャリ”というようになった。
それが日本に伝わり、「どんぴしゃり」「ぴしゃり」という言葉になっていったというわけである。
この話は、史書である南イタリア連合の起源(United South Italy Origin:USO)800ページに記載されている
すっかりお茶の間の顔になったマツコ・デラックスだが、ジャニー告発を発端とする今の流れが別の議論を呼ぶ前に、今のうちに引退するのが正解に思う。(逆に引退せず自分を自分に取り戻すチャンスとしても良いが、茨の道だしテレビでそれをやり切るのは難易度が高すぎる)
ジャニー告発により性被害が女性特有のものであるという社会の認識は今後ゆっくり変わっていくと考えられる。元々当たり前のことなのだが、これまでの現実社会では被害は女性、加害は男性という構図が出来上がっていた。その証左に電車には女性専用車両があるわけである。男性の性被害は社会としてはほぼ考慮されていない(もちろん法律の守りは最低限あるが)。今回は加害者は男性だが、これまでも某議員など女性からのセクハラも世間としてはほぼ無風だが現実として存在する。スカートめくりとレイプを同一視してきた向きがいる社会である、これが程度の差であるなんて口が裂けても言うことはあるまいや。
他方マツコ・デラックス。軽妙な憎まれ口と印象的な見た目、そして時折見せる教養で気づけばテレビでは見ない日がないほどの人気者となった。また氏はゲイとされており(真実は知らん本人に聞いてない)、前述の特徴も相まって普通の人間では炎上してしまうような物言いも許される状況を作り上げており、テレビはこぞって男女に言いたいこと決めつけに近いことを氏に言わせるのである(尤も、それは本人が完全に望んだものではないと推測できる。氏はブラックジョーカーとして人を楽しませることは好きであろうしそういうことが許される状況を産み出せる気遣い上手であることも自覚のあるところであろうが、そうして作り上げた地盤にまあ裸足で上がられて色々と代弁させられている。氏はおそらく「商品」としての自覚もあり人のせいにすることはしない矜持もあることでその業を少しずつ背負っているのだろう。しかしそれは心も体も蝕むことである(元来働くとはそういうものでそれは氏も理解の範疇ではあるにしろ)。賢い氏のことなので自分に嘘にならないギリギリを行こうとしているだろうがそれも物量の前には諦めざるを得ないところもでる。おそらく氏は今後への漠然とした不安(今は大分小さいかもしれないが)とこのソウルジェムの穢ととはいえ自分の表現の場を失う恐れを天秤にかけてはいるだろう。ただ今はすでに天秤を見るエネルギーも少なくなっているのではないかと、氏の言動からは推察される)。
さて、氏はよく男の品評をする。これはもちろん本音もあろうが(でなくば的はずれなものになる)、自分に期待される役割・コンテクストを全うするというところが大きかろう。これが許されているのは社会的な「男性は性被害に合わない」「ゲイのギャグ利用」という意識であり、この令和でもセクハラだ不快だと言われづらい(「男」が「女」に同様の品評をすればそれなりのクレームは免れない)状況となっている。
これまでジャニーの行いは告発本もすでにあり世間の知るところではあったが、それはある意味生々しさを失ってほぼ「ギャグ」として扱われてきた。メディアに限らずほとんどの市民がそう扱ってきたのである。しかし外圧から始まる今回の一連の流れにより市民は一気に(自分のこれまでの認識を無視して)厳しい目を向けるようになり、果ては山下達郎まで炎上するほど関心が高まっている。ジャニーの行いに生々しさが取り戻されたのである。
するとどうなるか?社会の認識では性被害は女性が対象でありそこに反論しようともミソジニーのレッテルにより閉口させられてきたものに生々しい反論がうまれる。加害側にしてもジャニーは男であるが、先に言ったように女性からの性加害も挙げれば出てくるわけである。そのように世論が傾いてくるとニュースでは女性から男性の加害も取り上げ始める。そうして性被害は誰にでも起こるものと認知が広がり、徐々に「性被害は女性のもの」を前提とするテレビのコメンテーターの発言は炎上の種になっていくわけである。
もちろんマツコ・デラックスも例外ではない。氏の男性への品評は紛うことなきセクハラであり、言われた側も「あとから考えればあれ嫌だったな」といくらでも言える状況になってくる(もちろんマツコ氏は人を選んで発言するが、もはや言われた側の意向など無視して当人置いてけぼりで発言者を批判する現代にそれはあまりにも弱い論理なのである)。そうなると辛い。そうなってから「世の求めに応じて演じていた」と言ってもすでに世間は聞く耳を持たないのである。その世間の求めが氏を作り上げたにも関わらず(世間というのは個人ではないのでここが非常に恐ろしい)。
長くなったが、つまり結論として、マツコ・デラックスは今引退するのはある意味でとても良いタイミングではあると思う。テレビで見る氏のことが大好きな自分にとってはとても辛いことだが、氏の人生こそ氏にとって最優先にしなければならないことであるからして、周りの人を考えすぎず決めてほしいなと、そう思うものである。
(追記あり)Togetterの広告は女子中学生を手ごめにしようとする会社員のマンガを載せたりするのが嫌で、はてブがドメイン非表示の機能を追加したときには真っ先にTogetterを入れた。
その機能追加の記事へのブコメは「Togetterを入れた」の連続で、とぅぎゃったんは「広告は調整するから入れないで」みたいなブコメを書いていて担当者は大変だなと思ったものだ。
しかし今のTogetterはどうだろうか。BLの広告を堂々と載せている。多様性に配慮したのか? いやそういう「調整」を望んでいたわけではない。エロ広告は単価が高いのかもしれないが不快だからやめてくれ。
「そういうのを見てるからエロ広告が出るんだろう」…そう思う? Togetterでエロ以外の広告しか出たことがない人なんているの?
はてブトップを見たらホッテントリに入っていて驚いた。今日は5ch騒動で増田を見てる場合じゃなかったんよ…
いくつかのブコメに返信したいと思う。
それは考慮していなかった。なんか申し訳ない。無理に出てこなくていいですよ。
これofこれ。Togetterよりひどいモロな広告を出してくるところはなるべく早く閉じたい。有益な情報が書かれていても子供に見せたりできない。
セリフを引用しようとすると不快になるのでたしか「くみちゃん」とかなんとか。
その物言い、広告だけでなくそのまま「そういうコンテンツやめてくれ」になるやつやん。「姿慎めよ」論。それ、単に自分の好き嫌いの話してんの?それとも「正しさ」を語ってるの?
「不快なのでやめてくれ」で伝わらなかったようですが好き嫌いの話のつもりであり、TPOをわきまえてほしいと考えています。
はてブ→Togetterという導線は自分はなくなったのでよくわかりません。今はTwitterから行くことが多いです。
とぅぎゃったんははてブ常駐してて無難なまとめには即ブコメするくせに、個人への中傷レベルのまとめとかこういう批判がランキングに上がってきても顔も出さないし対策とかも一切しないから滅茶苦茶イメージ悪い。
いやそこまでとは思ってません本当に。中の人は単なる一従業員でたまたまとぅぎゃったんを担当しているだけでしょうし。とぅぎゃったんを名指しで批判したつもりはなかったのでなんか本当にすみません。
ブコメ、トゥギャったんがブコメするのってTogetterだけでしょ?他にブコメしてないのをどうこう言うのは違う話だと思う
はてなブックマーク公式ブログが「ドメイン単位で非表示にできるようになりました」と告知する記事で「広告は調整するから非表示にしないで」とコメントしていたんですよ。
今のところアプリでのみ設定できるそうです→「はてなブックマークアプリでミュート機能(β)の提供を開始しました - はてなブックマーク開発ブログ」 https://bookmark.hatenastaff.com/entry/mute
そうだそうだ。Togetterがエロマンガのサイトならエロマンガの広告が出てくるのはマッチングしているけれど実際はそうじゃないでしょ。
であればBL広告は出さないでもらいたい!!!こちらストレートの成人男性でBLには興味ありませんというか不快です。
えっそんなマンガがあるんですか? けしからん! 自分が見たのは中学生を相手にするマンガの広告でした。
yositosi 広告からの収入も厳しい中で、広告の量も貼り方も記事の途中に入れないなど他に比べれば配慮している方だし、悪質な広告事業者特定してブロックとかいろいろやってるんだけどなー
絶対的に自分たちが正しいとする物言いと相手を人とも思わないような暴言が多すぎる
その言動を非難したくても特定のコミュニティではリベラルの数が多すぎて異様に攻撃的で袋叩きにあう
韓国と立憲民主や共産党さえ褒めなければネトウヨに噛みつかれることは経験上無いが、リベラルはスイッチが多すぎて地雷原みたいになってるし
凄く息苦しいし対話どころか一方的だし自由なんてむしろ制限してるぐらいだ
それに加えて他板にまで出張してきて無識な連中に啓蒙せんとばかりに暴れまわる
【追記】
コメントであの会長の物言いには記者が無礼な態度をとったのでは、というものがあった。記者の態度については当然自分も知らないが、研修会で某会長の講演を聞いたことがある限りでは、普段からああいった話し方をする人だと思う。それなりの精神科医が内心思ってる、でも表には出しにくいことを、時に攻撃的に露悪的に主張する、というのは一定の需要がある。
それと一つ抑えておいて欲しいのは、あの会長は「精神科病院協会」の会長であるということ。つまり精神科医の大多数を代表する精神神経学会とは無関係。精神科医でも某会長を嫌ってる人は山ほどいる。それでも重症患者の現場を知る精神科医であれば、あの会長の言うことの全てを否定することはできないだろう。
【追記終わり】
精神科医です
あの会長みたいに開き直るのもどうかと思うが、
あの新聞みたいに運良く退院できた人を連れてきてみんな退院できるはず!と思わせるのも不誠実
とりあえず身体拘束を減らしたいのであれば、認知症で入院した人が病棟で歩いて転んで亡くなった場合に
まずはそれからだ
一方で身体拘束しなければ24時間見守らないと何するか分からない
こんな状況で無理して身体拘束外すインセンティブがあるわけないでしょう
まあ認知症への身体拘束は医療側に責任を負わせるような判決が続くかぎり
増えることはあっても減ることはない
認知症は以上
では統合失調症はどうか
身体拘束していないと自傷、あるいは他害するおそれのある統合失調症患者は一定数いる
それは間違いない
が、今の身体拘束は必要最小限かというと、それよりはかなり多くなっている
なぜか
統合失調症の急性期に3時間話を聞いてクールダウンさせてなんとか薬を飲ませる(あるいは徒労に終わる)のと、
身体拘束して有無を言わさず薬を飲ませる(or 注射で投与する)のと、
他の入院患者が不穏になって、むしろそちらが身体拘束が必要になるかもしれない
精神科病棟は伝統的に看護師配置人数が一般的な身体病棟よりも少ない
それだけで十分だろと思われているのだ
そして残念ながら多くの人員を配置すれば予後が大きく変わるわけでもない
下手したらとっとと身体拘束して薬を投与したほうが退院までは早くなるかもしれない
集学的な治療が、残念ながら現実的なアウトカムにそこまで影響しない
こればっかりは病院の体制によるので外から簡単に批判できることではない
ただし0にはならない
あとは重めの知的障害や自閉症スペクトラム、会話での疎通が困難なケース
環境調整で身体拘束が減らせたり、うまくいけばなくせることもある
そもそもこういった人は本来病院にいるべきではないと自分は思う
とりとめもなく書いてしまったが
時代は変わる
先日娘が生まれた。
私と妻共に初産で、互いの両親から離れた地方都市で、新生児の娘と3人で暮らしている。
強い違和感を覚えたのは、娘の出生後に私の両親が訪れた際のこと。
ミルク育児を選んだ妻に対して、「母乳でなければ健康な子供が育たない」「愛情が育まれない」などと平気で悪態をつく。私が居ればその場でフォローするなり嗜めるなりのことは簡単なのだが、私が赤子の世話で外している時に限って言ってくるのでタチが悪い。
母親はミルク育児に理解はあり、妻の味方になってくれようとはするが、その場で強く父親を否定できない様子だったそうだ。
その時点では妻もそんなに気にしていない様子だったが、問題は続く。
幸いにも無事に娘が生まれたことは、互いの両親や親戚に祝福され、様々なお祝いもいただいた。妻の両親にとっては初孫ということもあり、日頃の感謝を伝える意味でも「みてね」という写真共有アプリで、互いの両親に日頃の娘の成長を共有している。結論から言うと、これが良くなかった。
動画と写真を共有を開始してまもなく、私の父から「母親に笑顔がないので赤ちゃんが不安になります」「ミルクは太りやすいです」などのクソリプが、連日私や妻の投稿した写真や動画に紐づいたコメントに投稿されるようになってしまった。コメントは妻の両親も見られる仕様になっており、私が「娘は妻のことが大好きなので何も問題ないです」「余計なお世話😎」と応戦するも、まるで意に介さない。さすがの妻も気にせずにはいられない様子で、次第に娘の状況を報告することが少なくなっていった。
私の父親は典型的なSNSをさせてはいけない部類の人間で、ネットリテラシーはおろか、普段のコミュニケーションでも相手の状況や価値観などを想像することもなく、思いついたことをその場で発言してしまう。無論本人には悪気はなかろうが、故にタチが悪い。離れて暮らすには支障は無いが、親戚や、特に奥さんの両親や親族のいる場所に出してしまってはいけない人。
増田諸兄も同様の経験はないだろうか。Twitterで晒しあげられるクソリプ見て、一体どんなやつが投稿しているのやらと笑っていたら自分の親だったという絶望感を味わったという話だ。
以上で話はいったん一区切り。この状況について、今すぐにどうこうする気はないし、対処療法的な策は少し考えれば思いつく。その気になれば父親のアカをBANすることも容易い。いったんはそれで解消する程度のいざこざである。
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一言で言えば、私は父親との関係をミスっている。振り返れば関係構築の機会が十分に与えられることがなかったのかもしれない。
父は高度経済成長期の只中に生まれ、首都圏の大学卒業後にメーカーの営業一筋40年間。定年まで勤め上げ、高校卒業後に専業主婦となった母親と共に3人の子供を育てた。何せ企業戦士という言葉がポジティブに使われていた世代よろしく、私が小学校に入学して以降は単身赴任で全国を転々とし、思い返せば思春期以降にまともに話をした覚えがない。そして、私が高校を卒業後に家出同然で地方へ移住してしまって以降、その機会は完全に奪われてしまった。
様子がおかしいこと自覚したのは、父の定年後に久々に実家に帰ったときのこと。父は大概リビングで無言でスマホをいじっている。何をしているのかと思えばyoutubeで右翼コンテンツの類をヘビーリピートしているのだった。ちょうど『ネット右翼になった父』というwebメディアの記事がバズった頃。当時の私にとってはそのことがひどく憂鬱で、同世代の友人にそのことを共有したりしてとりあえず笑うことにしたのだが、父とは特にコミュニケーションすることはなかった。
家族を経済的に成立させるという点において、父は立派な人間だった。子供の頃はよく遊んでもらったし、海外旅行や外食はほぼ無かったが、進学費用をはじめ経済的に苦しかった記憶は無いし、不倫やDVなど、いわゆる毒親と呼ばれる要素は皆無だったので、総合すれば素晴らしい父親に恵まれたと今でも思う。一方でコミュニケーションに難があり、また、個人の思想やライフスタイルの多様性が尊重される時代において、価値観をアップデートする機会に恵まれなかった結果として、前述のような問題として表面化してしてしまったと感じている。
勝手にアプデ済ませとけと思う一方で、父にとって最も身近な若者である私と兄妹が、その役目を果たすことができなかったことに責任の一端を感じないでもない。父同様に、これまで私も父との会話をサボってきたのは事実なのだから。
こうした問題を世代間における価値観のギャップと切り捨て、ともすれば縁を切れと脊髄反射で発言する輩がいるが、私はそれをサボりたく無いのだ。現実的には、両親のサポートが必要な場面は今後も生じるだろうし、観念的には、そうした家族の面倒ごとは大袈裟に言えば私のアイデンティティそのものに関わってくる問題だと思う。こういう事象をサボった結果として、自分が将来娘と絶縁する世界線もないとは言えない。無論、努力した結果絶縁されるのは仕方ないとして、それをせずに絶縁するのは違くない?と。
少し極端な物言いになってしまったが、要するにアプデに失敗した老人の暴走という問題として片付けたくはなくて、家族のコミュニケーション不全を見直す良いきっかけにしたいと思っている。昭和の終わり〜平成の初めにかけて生まれた人間にとって、同様の問題を抱えている人は多いと思う。死ぬほどだるいしムカつくけど、一緒に頑張っていきましょう。
最後に妻よ、私と父親のサボりによって被害を被ってしまって本当に申し訳ない。時間はかかるし、今後も問題は起こるかもしれないけど、少なくとも今よりは改善できるよう努力します。
娘よ、私の至らぬところで君の祖父という人間について、希薄な情報しか残すことはできないかもしれないけれど、父ちゃん頑張るので許してくれ。
仕方ないじゃん?フォローしてる奴らの興味のある話は飛んでこずに、知らない誰かのバズったような投稿がタイムラインに流れてくるんだから
仕様変更で見知らぬ他人のツイートが自分のタイムラインに流れてくるようになって暫く経つ。
みんな改悪だと言ってたけど、まあ、自分の興味の範囲外からたまに面白いツイートが流れてくる事がたまにあって、自分的には設定変更などせずそのままにしていた。
変化が始まったのは数ヶ月前からで、明らかにしょうもないツイートが流れてくるようになってしまった。
正直、YouTubeのshortよりダルい。shortだったらスワイプで次の動画に切り替えてくれるけど、Twitterはそう簡単に切り替えてくれない。スワイプして投稿削除とか、タイムラインに表示しないようにするとか言う仕組みがない。クソツイートを視界から消したかったら三点タップして投稿者ごとミュートにするしかないというすごいだるい仕様。なんで会話ミュートで即座に画面上から消えてくれないのだろう。自分のツイート並みの手軽さで消せる仕組みがほしい。
そんなくさくさした気分で居ると、どや顔でつまんないツイート垂れ流してる奴に物言いたくなるのも仕方がない。
今頃、人がこなくて店が大変とか、それにツイッタラーが反応するだけで売上に繋がらないとか、いやもう何年も在庫余り詐欺やってた弊害だって気づいて。
マストドンから来たような限界オタクたちのツイートはひたすら楽しそうだけど、正直何言ってるかよく分からんからもう触ってない。
とにかく感情論でしか動かない絵師様のお気持ちも見ててうるさいし。
明らかになんかの宗教じみた倫理観を強制する奴とか見ててイヤになる
そんなのに試しに引用ツイートして感想述べたら、特にツイート主から反応はないみたいだけど、引用ツイートしてる奴には自分に近い感想述べてる奴も居て、そういうのを眺めるのが楽しみになってしまっている。
今日も一握りの善良な人間からの言及を期待した独り言にゴミが寄ってきて不快になってしまった。
おれは名前を隠して楽しく日記をやりたいだけなのに、なぜこんな目に。
おれは百万遍繰り返された床屋政談も男女論もしてねえんだから他あたってくれよ。
匿名だからってどうせ現実じゃ言えやしない言葉を強気になって吐き捨るのは本当にみっともないし、社会性が低すぎる。
おれだってこうもストレートな物言いで親しくもない生身の人間に向かっては言い返せやしないけど。
言い争った所で相手を喜ばせるだけだし、せり上がった感情の全てを押し戻して無視した。そこは自分を褒めたい。
ゴミに絡まれても高潔な精神でもって許し、自分のためになる反省をしよう。
SNSにすらロクに友達もいないからこんなクソサイトに頼ってしまう。
周りがみんな攻撃的だから自分もそうなっていいなんて道理は通らないし、絡まれた側のこちらに責任は一切ない。
でも事実として民度の低いサイトを利用して自ら不快な状況に遭遇する要因を作り出したのはおれだ。
もっと孤独に強くなるか、素直に勇気を出して友達を作っていかねえと。
強くなりてえ。幸せにならねえとな。