はてなキーワード: 学術とは
自分は30代後半のエンジニアだ。年収は1800万円、貯金だけで1億円を超えている。そんな自分が、大学生の頃にやっておいてよかった、もしくはやっておけばよかった、と思ったことを書いておく。現役の大学生の皆さんの参考になれば嬉しい。
自分は中高生の頃にほぼ毎日コードを書いていて、大学生でも頻度は下がったがコードを書いていた。大量のコードを書くのは自分にとって消えない財産になる。筋トレに例えられることが多いが、むしろ感覚を研ぎ澄ます瞑想のようなものに似ていると思う。飽きてきたら別の言語や別の環境に手をだせばいい。Mac上でWebサービスやスマホアプリの開発ばかりではなく、Windowsアプリも作るしLinuxデーモンも作る、色々と試してみるのが良い。
毎日コードを書くことで得られるのは経験である。エンジニアにとって、経験は絶対的に必要だ。将棋の本をいくら読んでも指さずに強くなれないのと同様、コードを書かずしてプログラミングのセンスは培われない。
自分はこれをせず後悔している。今後どのような技術が流行るかわからないが、例えば集合知、例えば3D、マシンラーニング、そういった有用な技術の裏側には、線形代数やゲーム理論等のしっかりした数学の裏打ちがある。出来ればComputer Science系の学科に行き、興味がなくとも真面目に勉強をすることをおすすめする。
学術的な背景があれば、何かに興味を持った時にどこまでも深いところまで潜っていける。なければ、公開されたライブラリに沿って使うことしか出来ない。ライブラリを使って何か作ったよというブログを書く側より、ライブラリを作って広く使ってもらう側になろう。
例えば「海外に留学に行きました」とか「大手企業にインターンに行きました」とか、素晴らしい経験である。意識高い系と馬鹿にされるが、行動しないよりは断然いい。しかし、行動力のある人間にとっては海外留学もインターンも、ただ行けばいいだけで簡単な話だ。その一歩先を行って、自分の実績を作ろう。例えば「在学中に技評から本を出版しました」であるとか「未踏ソフトウェア創造事業でスーパークリエイターになりました」であるとか。
実績は名刺になる。実績があって初めて自分の名前を覚えてもらえる。私も色々な学生に合うけれど、覚えているのは何かを成し遂げた人たちだけだ。
本をたくさん読もう。技術書は言うまでもない。ネットを調べれば書いてあることでも、本にまとまっているだけで十分に価値がある。ネットで評価の高い本は片っ端から読むといいだろう。お金がなければ図書館で読んでもいい。またビジネス本も是非読むべきだ。世の中がどのように動いているのかを知るのは、大きな武器になる。他のジャンルも、興味がある本はどんどん読んでいこう。学ぶ意識を持って読もう。
広い視点を持つのは重要だ。社会で必要とされているのは、他に替えのない人だ。他の人と同じことしか出来ないのであれば、他の人と同じ評価になるのは当然である。
英語の勉強のスタートは、早ければ早いほど良い。英語が出来るだけで、世界は一気に広がる。英語が出来ないと、日本という言語の壁で守られた小さな世界でしか活躍出来ない(それでも世界的に見たら十分に大きいが)。英語の読み書きはもちろん、複数人の会議で会話が成立出来るレベルが求められる。TOEFL(TOEICではない)で100点越えを目標にするといいかもしれない。
2年間海外の大学院で留学するのもいいが、英語は手段であり目的ではないことを忘れてはいけない。英語だけのために2年間を費やすのはあまりに勿体無いが、その2年で英語に加えてさらに何かを学べるなら大きな収穫であろう。
自分がやっていることを積極的に発信しよう。仲間内だけではなく、世界に向けて広く発信しよう。仲間内で慣れ合うのは安心だが、安心は停滞を生む。広く発信すると、時には辛い反応がかえってくることもあるが、それは必ず将来の糧となる。失敗を恐れず、自分の知っていること、調べたこと、学んだこと、創りだしたことをどんどんと発信しよう。
面白いことに、アウトプットを増やすと、インプットが増える。自分から人に会いに行くよりも、会いたい人からコンタクトを取ってもらえるようにアウトプットしていこう。
ここに挙げたものは、これをやれば良い、というものではない。こういうものは成功した人に限っても十人十色だろう。気に入ったものを無理のない範囲でやるだけでも十分だし、気に入ったものがなかったからといってがっかりすることはない。所詮、老害が匿名で書きなぐったものだ。毎日の生活が楽しいならそれでいいし、そうでないならまずそれを改善すればいい。そして毎日の生活が楽しければ、将来にわたって楽しい生活が出来るようにちょっと考えてみるといい。その時に、この記事が何かの刺激になれば嬉しい。
高校の物理の先生で、定期試験で難しい試験を出すことで有名な先生がいた。
めちゃくちゃ難しいといっても、中堅~地方帝大の入試問題あたりを出してたんだと記憶しているが、うちの高校のレベルだと、教科書をなぞっただけの俺たちは平均点が10~20点だった。
0点すら何人もいた。
60点以下は追試。
当然、全員追試になる。
解き終えて提出するまで、何時になろうが返してくれない。
解き終わった順に、持っていき、その場で採点。翌日も地獄に付き合わされるかの審判を待つ。
成績は、試験の点数ではなくて、何回目の追試で受かったかで決まるような感じだった。
ノートを取る生徒に
「ノートなんか取るな!俺の話をきけー!」
という具合。
自転車の乗り方を覚えるように、カラダで受験レベルの問題を叩き込まれた。
こんな授業をすべての科目でやれば、生徒の成績は上がると思う。
ちゃんとわかるまで解説をするスキルまで揃っていたあの先生だからこそでだと思うし、ほかの教師では定期試験後1か月近くずっと夜22時まで付き合い続けるパワーもないだろう。
不思議と慕われていた。
そんなわけで、地方の中堅高校にも関わらず、我が校の物理選択者の成績は非常によかった。
彼こそ、予備校のカリスマ教師にも負けない、スーパー教師だったと思う。
ところで、俺の古くからの親友は、その定期試験で常に80点以上を叩き出していた。
成績一位は当然彼で初回試験の点数は80~90点、二位でさえ40点代、追試免除は彼一人という快挙を毎回成し遂げていた。
「才能」
にあふれていた。
風変りな生徒だったとは思う。
ノートを持ってない。
教科書に書いてあることをノートに書き写す必要はないじゃんというし、例題を解くときには計算が必要なときは要らないプリントの後ろを使って、解き終えたら捨てる。
「俺、手を動かしながら聞くっていう器用なこと出来ないもん」
と言ってノートはとらない。
一番に驚愕の偏差値を叩き出していたのは物理だったが、東大模試、東工大模試などを受けると、数学でも同じように驚愕の偏差値を出していた。
(といっても、全国一位ではなかったので、模試の全国一位というのはいったいどんな化け物なのかと思う)
どうしてそんな偏差値だせるんだ?
と聞くと
「迷わずに一気に反射神経だけで解き続けると、時間内に完答できるよ。"とことんぷよぷよ"みたいな感じで」
というこれまた微妙にズレた答えが返ってきたのが懐かしい。
進学先でもやはり博士課程後期まで勧められていたが、普通に就職した。
あれをみたら、誰でも
「お前は才能がある!その才能を学術分野で活かせ!」
と言いたくなるのだと思う。
でも、彼にとって、難しい問題の解決は、ぷよぷよやテトリスをするように、ただただ作業でしかないのだ。
今でも、どんな仕事をしているのかと聞くと、楽しい話を聞かせてくれる。
無理ゲーともいえる無茶な仕事だと思うんだが、専門外の俺にもわかるたとえ話で説明できるということは、その問題も彼にとっては、テトリスやぷよぷよくらいに簡単なことなんだろう。
アカデミアというより投資関係からだけど、政府系研究ファンドはこれから減っていくと思うよ。
ラノベの話題は「アニメとゲーム」カテゴリに入ることが多いけど、個人的には「エンタメ」カテゴリにしてほしいという主張。
アニメゲーム漫画の話題を探してあのカテゴリを見るのにそこにラノベが入ってても雑音でしかない。
アニメゲーム漫画はセットだけど、そこにラノベは入ってないんだよな、俺の感覚だと。
ラノベって大量に文字読まなきゃいけないじゃん。結構ハードル高いよな。
ごちうさの漫画読んだりアニメ見たりするほうが何百倍も楽じゃん。
ごちうさ読んでぴょんぴょんしてる頭の空っぽな俺たちがラノベ読むかっつー話よ。読まねえよ。てか読めねえよ。
ラノベってアニメゲーム漫画みたいなゆるい娯楽とは全然違うカテゴリだ。むしろ学術書や技術書に近い。
俺の観測範囲ではアニオタや漫画読みやゲーオタはまったくラノベ読まない人が多い。(アニメとゲームと漫画がすべて趣味って人はよくいる)
逆にラノベ読みもアニメゲーム漫画には関心があまりなくてもっぱらラノベばかり読んでたりするわけだ。
だからラノベの話題が「エンタメ」カテゴリに入ることで誰もがhappyになる。
アニメ化されるラノベが多いから似た娯楽だと思われがちだが、ほんとは全然違う。
住み分けるべき。ラノベはインテリ向けで、アニメゲーム漫画はバカ向けだということ。混ぜちゃいけないし、本来混ざらないはず。
ちなみに原作ラノベのアニメ版の話題とか、ラノベのスピンオフ漫画とかは「アニメとゲーム」カテゴリで全然かまわない。
文字のつまった本の話題って思うと毎回拒絶反応が出るんだよな。
芥川賞とかは住み分けできてるのになんでラノベは住み分けてないんだ。ラノベも芥川賞も一緒だろ。めんどくせえインテリ向けの娯楽。
「アニメとゲーム」の客層が求めてるのはそういうことじゃないんだは。
んじゃよろしく。
ネタばれをしないように書く。
オデッセイという映画を見てきた。火星で独りぼっちで生き延びようとする映画である。
前から気になっていたのだけど、そこまで見たいわけでもなかった。
けれど、鉄腕ダッシュだ!と騒がれていたのが気になったのでわざわざ映画館に足を運んだ。
見た感想としては、おもしろかった。色々気になる点はあったけどまぁメンズデーで安くなっていたし満足はしている。
けれど、あれは火星版鉄腕ダッシュじゃない。そこだけは言いたい。
確かに、オデッセイの主人公は農業をしていた。詳しくはネタバレになるから書かないけれど、TOKIOならこれくらいは考えそうだなと思う部分もあった。
しかし、それは映画のほんの一部である。ほかの部分はTOKIOっぽくない科学的な技術だった。
TOKIOが鉄腕ダッシュでやっていることって、色んな第一次産業のひとから様々な技術を学び、それを生かすということだと思う。
それは、どちらかというと生活の中から学ぶ「智」恵のようなもので、だからこそウケていたのだと私は思う。
一方、オデッセイでやっていたことはあくまで学術的な「知」恵を生かしていたように思う。
例えば、水をつくるために化学的なアプローチを行うのだけれど、そういった方法はTOKIOはできないのではないかと思う。
できたとしても、それは生活の中で学びとったものを生かすという方法でしかできない。
社会は公民や歴史、地理など広く知っておくべき事が多岐にわたる。
だけど、理科は?
理科科目って社会とくに会社務めする上で必ずしも必要ではないと思う。
現にそういうのがいる会社はあっても、普通そういう会社に就職するなら
だけど、一般にある普通会社に就職するのに理科って必要かなと思う事がある。
よく理系大は文系とか体育会より賢いからって自慢する人多いけど、
実際の社会生活において理科が生かされる機会ってあるんだろうか。
実は生物学とか物理学って大学によっては文系の範疇にある事もある。
つまり理科系統とされてる分野ですら文系と呼べるものもあって、
話は戻るが、理科科目は本当は社会生活の役に立たないのではないか。
何故なら、それらの分野は理科と異なってちゃんと学問としてあって
もし理科系統ならば、医学部じゃなくて理科学部医学科といった学術体系に置かれなくてはならない。
故に理科は社会生活において、どの程度関与する事が出来るのか。
恐らくそこから考えない限り理科が社会生活に必要かどうか断定できないのでないかと思えてならない。
そういうのは大学以降で行うべきだ。
バカにしてるっていうのは書きすぎたな、バカにはしてないけど誰かも書いている通り尊敬というのとは違ってあまり評価の対象にならないっていうところ。能力然り。能力がある人なぞ幾らでもいるが、それが=尊敬にはならない。人格もそれを支える様々な背景が透けて見えてくることが多いので、あまり尊敬とはリンクしないかも。そりゃちょっと自分より長くやってりゃ出来て当たり前でしょとか思うこともしょっちゅうだけど程度は様々。大学院の話はちなみに海外でビジネス系なんで学術系とはちと違うかもな。
いずれにせよ、純粋にすべてを含めて勝てないと思うことはないなぁ。絶対どっかどっかで(もし勝負があるとするなら、そしてそんな事は普通はないけど)俺がこうやって戦うって言う方を考えるし、それ以外は単に知り合い・友人としての同列のイメージしか持ってない。
このやり取りがネットで話題になっているようだ。
口火を切ったSF作家は「ライトノベルは向上心を持つ妨げになる」と主張している。これに対し、ライトノベル作家は「ライトノベルは単なる娯楽であり、向上心云々は関係ない」と反駁を試みている。togetterのコメント欄やはてブを見る限り、ライトノベル作家の肩を持つ人が多いようだ。
さて、このやり取りでは「中高生はライトノベルを読んでいいか否か」ということが問われている。筆者は「中高生はライトノベルを読むべきではない」と考えている。ライトノベルは社会への批判精神の涵養を妨害することが、その理由である。
ライトノベルの題材としては、学園生活や異世界での冒険といったものが目立つ。基本的にこれらは、社会的な問題を提示したりするものではない。また、ライトノベルの話は魅力的なものが多いと推測される。ライトノベルの根強い人気がその証明である。この2点より、ライトノベルはある種のプロレフィードとして作用することが導き出される。つまり非現実的かつ魅力的なライトノベルは、社会的な問題に目を向けさせるのを防ぐ効果を持つのだ。
本来中高生時代は、社会への批判精神を養う時期である。社会への批判精神を養うには、勉学やボランティアなど様々な行動を通じ社会の不合理を体験したり、あるいは書物や新聞を読み考えることが必要不可欠である。しかしこの時期にライトノベルを読んだらどうなるのか。答えは火を見るよりも明らかだろう。
そしてライトノベルを読み、社会への批判精神がなくなったらどうなるか。権力者が供給する低劣な娯楽(ラノベ・アニメ・漫画・ゲーム・大衆小説・ギャンブル・性風俗など)を貪る奴隷だらけになる。今の社会はそういう奴隷ばかりである。コスプレ喫茶で働く女子校生を題材にしたわいせつアニメに現を抜かす男性、酢こんぶみたいな名前の中年男性グループに黄色い声をあげる女性、男性器みたいな名前の違法賭博にのめり込む工場労働者。彼らは全員奴隷である。そして奴隷がたくさんいることで、社会の格差拡大は進み、近隣諸国との関係悪化や環境破壊も進んでいる。
学術書を読めとは言わない。しかし岩波のブックレットであるとか、あるいは中央公論新社が出す新書などを読むべきである。全てではないものの、筆者のような浅学菲才の身でも理解ができる内容のものが多い。中高生はライトノベルではなく、こういう本を読み社会への批判精神を涵養すべきだ。
病気療養のため都内の自宅を引き払い、西日本の山地にある実家にもどる。
職のあてはないが、実家のある地域に仕事なんてないため、機会があれば都内に戻る予定だ。
都内とその周辺部に戻れないならそのときは人生そのものを諦める。
四国とネットで猛威を振るうトマト大王(口癖は『まだ東京で消耗してるの?』)みたいに、田舎最高なんておめでたい考えは持っていない。
それはさておき、療養生活に入る際アニメと漫画を断とうと考えている。
また、アニメや漫画の情報が入りそうなインターネットにも機能制限をかける予定だ。
具体的には、文化庁除く政府機関と大学などの研究機関、書店以外のすべてのサイトにアクセスできないよう設定することだ。
宗教団体の「創価学会」を「学会」って略すのやめようよ。「学会員」然り。
「学会」っていったら学術的な集まりのことを言うんであって、宗教団体のことは言わないんだよ。
そういう意味もないし、「学会」といったら宗教でもなんでもない、普通の何かの学会みたいで、誤認を招くんだよ。
「教団」と「信者」って言えよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160123131828
やれ技術が古い、テストをしないだのと叩かれまくっているけど、SIerって言っても色々だと言いたい。
俺が勤めている会社は、100人に満たない小さな会社だけど、ちょっとしたニッチな固有の技術を持っていて
それを売りにした製品を自社開発すると同時に、受託開発も引き受けている。
固有技術なので顧客には完全なブラックボックスということがあって、それが顧客との間で有利に働く。
当然論文も特許もあるけれど、それを理解できる客など殆ど居ないので商売としては相当な強気を通していて、
受託受注額も業界屈指だと思うけど、技術力の高さに関する評判の為に顧客も文句は言われないし、その結果として給料はいい。
平均年収は800万程度だったはず。残業はないわけではないけど、社員平均で月間40時間は切ってたはず。
同時に社内にも、うちは技術力を売りにしている、という自負があるので、現場の環境整備に関する要求も当然の様に行われる。
アジャイル開発が話題になれば、いち早くそれらを試す位の事はしてきたし、gitを始めとして話題になったものは積極的に使う事はいとわない。
JIRAなど有償のものなら、それを購入するのも躊躇いなく行う。
社内勉強会も活発で、いわゆる流行りの言語ついてとか、機械学習など流行っているものの専門書の輪講など様々に行っている。
例えば、論文を執筆して発表すれば、出した会議や学術誌のインパクトファクターなどで評価値が決まっていて、これは公開されている
エンジニアでも、コードのコミット行数、ビルドの失敗回数、バグを出した数、修正した数などが、ビルドサーバーで自動的に計測されており、
一方で、ここで下位扱いになっても、クビにはしない。ただ、相当期間の再学習期間を与えられ、様々にテストを課される事にはなる
まず、役職者には工学博士を持ってないとなれない。新入社員も当然ながら全員修士卒以上を要求しているが、学部卒も稀にとる
しかし、博士がないと出世は出来ないので、優秀であれば、どこかのタイミングで大学院に進学する事を求められる。
その間は、午前中のみ会議や、ちょっとした仕事をするために出社を要求されるけど、ほぼ一日を研究に割り当てる事を業務にする
テーマは殆どが自社製品に関するものなので、修了者全員が業界屈指の専門家として帰ってくる事も会社の強みにしているのもあり、
その間に給料が下がることはないし、海外留学する場合にも学費も何もかもが会社で負担してもらえる。
海外留学や海外との取引を行うために、英語学習も推奨されていて、某大手英会話学校の講師が会社にきてレッスンを行うなどするが
社員にはTOEFL80点を常に維持することが求めれられている。高額な受験費も会社もち。
一方で育休などの制度も充実していて、企業内保育所を作り保育士を1名雇っているので安心して出産を行えるなど、女性にも受けがいい。
ちなみに社内結婚も推奨されていて結婚時には50万円一律で支給されるとあって、何組かカップルがいる。
さらに、家賃の半分を会社が持つなど優秀な人材を一人も社外に出さない事に社長は余念がない。社内では人材コレクター呼ばわりされる所以だ
という具合に、SIといっても様々なので、ひとまとめにして貶されることに抵抗がある。
MBA(経営学修士、経営管理学修士)の取得に対する世間の目は厳しい。
「(MBAの知識は現場で)役に立たない、(MBAホルダーは)使えない。」
これは、ホルダーや現在進行形で通学している人は痛感しているところだと思うが、そんなことは当の本人が一番分かっている。
MBAの取得の意義はいくつもあるが、その一つ「自分ではできないことがあることを知る。」ことだと思う。
転じて、自分の強みや興味あるところにフォーカスして学んでいく、仕事に繋げていけばいい。
自分が通ったビジネススクールの入学式では、人間力を磨け、と言われた。
どんなにビジネスに直結する知識や思考法を学んでも、仕事は人と人との繋がりで行うもの。いくら成績優秀でMBA取得できたとしても、人間力、魅力を磨かないと宝の持ち腐れだということである。
かと言って、MBAに通いながら人間力を磨くことなんて容易いことではないが、否が応でも「働くこと」の意味を散々考える機会があるため、必然的に人との付き合い方、人の動かし方を考えることになる。
自然とこれまでの自分の仕事の仕方、これからの仕事の仕方を考えさせられる。
ビジネススクールに通って一番良かったことは、学んだ知識も然ることながら、経済界のトップリーダーと呼ばれる人たちの考えや思想、熱意に触れることができたことだ。
新聞や雑誌の字面では綺麗事にに思える言葉も、直接語りかけられると言葉の重みが異なる。
「意識高い系」などと揶揄する言葉があるが、意識高くて良いじゃないかと思う。
誰だってビジネスで成功を夢見ているし、できることなら実現したい、幸せになりたいと思っているだろう。(ただし、成功・幸せの定義は人によって異なる)
夢や希望を実現するために意識を高めることはモチベーションを高めることの一つでもある。
すべてのリーダーは皆意識が高い。そして行動する。当然失敗もあるが、成功するまで続ける。
これぐらいは、「意識高い系」の本や雑誌記事によく書いてある。強調したいのは、彼らはみな自分の夢や希望を実現させることに執着している点だ。
執着心があるから、一時の人とのぶつかり合いは気にしない。半端な人付き合いは蹴散らす。
むしろ失敗の積み重ねをサクセスストーリーに織り込んでセルフブランディングしている人もいる。
執着は信念とも言い換えられる。
堀江貴文氏は「お金の本質は信用だ」 (http://amzn.to/1QeDAGy)と言っているが、実現に執着して行動しているから信用され、結果的にもお金が集まる。これは単に所得としての儲けの話でなく、事業を自ら始めるための資金調達においても同じである。
執着のレベル、度合いで成功が決まると思うと随分腹落ち感をあったことをよく覚えている。
そのぐらい執着した先に何があるか自分には分からないし、そんなに執着できることがないと悟ったのもビジネススクールで学んだことだ。
冒頭の「使えない」評価は、そのMBAホルダーに執着心がないことの評価でもあると思う。
ビジネススクールに通わなくても成功の実現に向かって執着心がある人はいる、ビジネススクールがすべてを解決してくれるなんてことは思っていない。
ただ、名目上、学術的な戦略論、会計学、組織学がカリキュラムのコアであるが、ビジネススクールで得られる学びというのは、実際に通ってみて初めて見つかるものなんだなという感想である。
ビジネススクールを頭ごなしに否定することは簡単なので、もし少しでも興味がある、キャリアについて思うところがあるなら、学校説明会とか近くのホルダーを尋ねて見ることをお勧めする。
そもそも日本の著作権法で認められている転載可能な著作物は、この3種しかないよ。
・(説明の材料として使う場合に限定して)国若しくは地方公共団体の機関、独立行政法人又は地方独立行政法人が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物(著作権法32条2項)
・新聞紙又は雑誌に掲載して発行された政治上、経済上又は社会上の時事問題に関する論説(学術的な性質を有するものを除く)」(著作権法39条1項)
・同一の著作者のもののみを編集して利用する場合を除き、公開して行われた政治上の演説又は陳述及び裁判手続(行政庁の行う審判その他裁判に準ずる手続を含む)における公開の陳述(著作権法40条1項)
ナショナルジオグラフィックは楽しいサイトで、会社のパソコンでよく昼休みに見る。
学術的発見などはともかく、環境保護に引っ張り出される動物が、逆に不快なのではないだろうかと思うようになったからだ。途上国で我が子の身体障害を晒して物ごいを強制している母親のように。
大体、そんな母親は「この子はうちの稼ぎ頭なんですよ」と自信満々な顔でいるんだけど、何かこう、複雑な気分になることはある。もうちょっとどうにかならんかったのだろうか、と。いや、おかんのほうもっと気張れよと。
日本でも例えば東京での絶滅危惧種例えばゲンゴロウやミズスマシなどの話題はほぼ無視で、限界集落だらけの過疎で山深い地域や離島の生き物ばかり取り上げる。
以前、中国の片田舎で新種の毒蛇が発見されたが、これは住民によって撲殺された後だった。
立派、ないしかわいくない生き物は滅びるに任せるのが、世界の現状なのだ。
そんな感情立脚した保護活動の嬉々とした報告に少しばかり嫌気がさしたのかもしれない。
オッサンになると涙もろくなる。
(多少だが)苦労していると、「この人は真実を語っているな」ということは大体分かるし。
ネットの世界では凄そうな人がいるんだけども、身近な凄い人は案外そういうのと無縁で生きている。
少なくとも、四六時中ネットのリアルタイムの話題にリソースを割くなんて馬鹿な真似はしない。
「ネットはいきなり頂点の人が可視化されるので自信を無くす」という話はよく聞くが、
自分の体験からすると頂点らしいネットの凄い人も身近な凄い人も能力的にはあまり変わらない気がする。
要は「本人がやりたいかどうか(いや、「やるかどうか」)」が問題なだけであって、煌びやかさに惑わされて
能力が無いと思っている人も続けていれば勝手に能力はつく。連戦連敗でも「何割かは勝ち」の場合もある。
それを次につなげれば、逆境であるほどレバレッジがかかって能力が上がる。
ある時、凄く出来る女性プログラマーがいて「どうやればそんなに出来るんですか?」と聞いたことがある。
答えは、「デスマーチをくぐっていけばこれくらいの実力はつく」だった。
だから、能力が無いと嘆く若者も(オッサンも、あるいは女性も)絶望する必要は無いと思った。
単に守りの姿勢、ポジションが安定したので、後は受け身で人生守りに入ろう、となった瞬間に思考が硬直化
するだけの話であって。
とまあ、増田で書いた所で寝言なのだが、「ネットの人がそれほど凄くもない」ということは、
例えば、はてブで上がってくる書籍関係の記事はほとんどフィクション系でノンフィクション系が少ない。
いつだかの村上春樹のネット相談で、「小説をバカにする夫が許せない」みたいな話題があったが、
実際は逆じゃないかな?と思う。「ビジネス書を読んでいる人は意識が高い」と揶揄されるのが
本当のところではないのか。
しかも下らないライフハック系の記事はホットエントリになったりして、Kindleのセールで買えよと思う訳だが、
そんなことを言っても聞き流されるのがオチだと言うことも分かる。
それはともかくとして、最初の話に戻ると、真実を語っている人に弱い。
今日、ようやく仕事に区切りがついたので、ダラダラとネットを見ていたが、久々に再読してフリーでもいい文章が
落ちているものだと思った。上に書いたワイ氏の駄文の何千倍も役に立つ文章が落ちている。
リンクを貼っても読まれないと思うので、抜粋しながら以下に転載したい。
「ハッカーと画家」のポール・グレアムの抜粋だ。ハッカー以外にも役に立つと思う。
転載元:
http://practical-scheme.net/trans/hs-j.html
<版権表示>
本和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。
(「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。
Copyright 2005 by Paul Graham
原文: http://www.paulgraham.com/hs.html
日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)
<版権表示終り>
(「知っておきたかったこと」より)
だから、卒業演説はこんなふうになるだろう。 「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。
そして自分の能力を過小評価しちゃいけない。」 でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど
多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。 かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、 泥を
かき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、 これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。 それに、
これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。 「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?
風上
この問題の解法は、反対側からやってみることだ。 ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、
より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。 成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。
卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、 次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。
ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、 今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより
時間を無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。 面白いと思えて、選択肢が
増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを 選ぶかなんて後で考えればいいんだ。
たとえば、君が大学の1年生で、数学と経済学のどっちを専攻しようかと 迷っているとする。この場合はね、
数学の方が選択肢がひろがるんだ。 数学からはほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、
経済学の大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、 数学の大学院へ進むのは難しい。
グライダーを考えてみるといい。グライダーはエンジンを持っていないから、 風上に向かって進もうとすると
高度を大きく失うことになる。 着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく
限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。 だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。
「風上をめざせ」。
でも、どうすればいい? 数学が経済学の風上だったとして、 高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。
もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。 風上を知る方法のヒントを
いくつかあげよう。 賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。
そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。 但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。
大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。 教授たちはみんな
手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能な論文を 発表している。でもね、確かに難しい考えが
いっぱい詰まっているせいで 理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように
見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。 こんなふうに言うと中傷に
聞こえるかもしれないけれど、 これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャル・テクスト』事件だ。
ある物理学者が、人文科学者の論文には、 知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないものが
しばしばあると考えた。 そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、
一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。 小説を書くことは難しい。
小説を読むことは簡単だ。 難しいということは、不安を感じるということだ。 自分が作っているものが
上手くいかないかもしれないとか、 自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安を
感じていないなら、それは難しくない問題だ。 ドキドキするスリルがなくちゃ。
ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい。 不安を感じなくちゃダメだなんて。 そうだね。
でもこれはそんなに悪いことじゃない。 不安を乗り越えれば歓喜が待っている。 金メダルを
勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。 どうしてそんなに幸福なのかわかるかい。安心したからさ。
幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。 ただ、不安の中にも、
そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。
野望
「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」という ことだった。そして、
君は今日からそれを始めることができる。 ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。
たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと 思う。いわゆる現実社会では、
この要求はとても強い力なんだ。 しかし高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。
やらされていることが偽物だからだ。 ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の
仕事なんだって思ってた。 だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、
学校でいい成績をあげることだと思ってた。
その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、 たぶん大人は生活のために
稼がなくちゃならない、と答えていただろう。 間違いだ。ほんとうの違いは、大人は
自分自身に責任を持つということだ。 生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を 昼間の仕事のようにあしらうだろう。
学校でなまけるということじゃないよ。 昼間の仕事のようにやる、っていうのは、
それを下手にやるってことじゃない。 その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。
たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、 自分をウェイターだとは思わないだろう。
同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。 そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。
高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、 たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに
無駄にしたってね。 君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと 思っているなら、
きっと後悔することになるよ。
これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。 ぼくはそうは思わない。
高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに
「遊んで」いたはずだ。 やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど
無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。
今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、 ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。
友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。 誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さな
ロボットに なるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。 時々食べるからおいしい。
毎食チョコレートケーキを食べていたら、 たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。
良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、 『課外活動』のことだと思うかもしれない。
でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。 チャリティの
寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、 それは難しいことじゃない。 何かを成し遂げるってこと
じゃないからだ。 何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、
コンピュータをプログラムできるようになるとか、 工業化以前の社会の生活が実際どんなものだったかを知るとか、
モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。 この手の活動は、大学入試願書に一行で
書けるようなものにはなかなかならない。
堕落
大学に入ることを人生の目標にするのは危険なことだ。 大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない
相手っていうのは、 概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、 きみの合否を決めるのは教授じゃなくて
入学管理者で、 彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。 きみがどれだけ賢いかなんて
彼らに分かりはしない。 私立の進学校が存在することが、その証明になっている。
入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。 私立の進学校は、入試に
受かるための学校であることを明示している。 でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、
ただ地域の公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、
君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるように なることだと思っているだろうね。
でもそれは、自分の人生を空っぽの プロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界が存在しているほどの
プロセスに押し込めていることになる。 シニカルになるのも無理ないよ。 君が感じている不快感は、
リアリティTVのプロデューサーや タバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。 君の場合は給料を
もらっているわけでもないのにね。
じゃあどうしようかね。 ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。 ぼくは反抗した。それは間違いだった。
ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、 なにか臭いものを感じていた。
だから全部投げ出したんだ。 世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。
教師の一人が試験対策のアンチョコを使っているのを見つけた時に、 ぼくはこれでおあいこだと思った。
そんな授業でいい点数をもらって どんな意味があるっていうんだ。
今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。 これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、
おまえ反則しただろ、 ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。 反則はどうしたって
起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。 ただゲームを続けるんだ。
きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。 そう、きみが思っているように、
授業で習うほとんどのことはクソだ。 そう、きみが思っているように、大学入試は茶番だ。 でも、
反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない。 だから、ただゲームを続けるんだ。
反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。 どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。
一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。 言われたからただやる、でもなく、
言われたからやらない、でもない。 かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと
考えれば 学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを 内職しててもいい。
好奇心
じゃあ、本当の仕事は何になるんだろう。 きみがモーツァルトでない限り、やるべきことはまずそれを
探し出すことだ。 やりがいのあることって何だろう。すごい発想をする人達はどこにいるだろう。
そして一番重要なこと:自分は何に興味があるだろう。 「適性」という単語はちょっと誤解を招きやすい。
元から備わった性質のように思われるからね。 最も強い種類の適性とは、ある種の問題に対する
どん欲な興味だけれど、 そういう興味は後天的に獲得するものが多い。
この考えの変化したものは、現代の文化においては「熱意」という言葉で 呼ばれている。
最近、ウェイター募集の広告で「サービスに対する熱意」を 持った人を求めている、というのを見た。
本物の熱意は、ウェイターくらいじゃおさまらないものだ。 それに熱意という単語も良くない。
むしろそれは好奇心と呼ぶのがいい。
子供は好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心は 子供のとはちょっと違う。
子供の好奇心は広くて浅い。 ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。
多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。 これは仕方無いことだ。
だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら 何もできないからね。でも野心を持つ大人では、
好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。 泥の庭が井戸になるんだ。
好奇心を持っていると、努力が遊びになる。 アインシュタインにとっては、相対性理論は試験のために
勉強しなくちゃならない 難しい式の詰まった本ではなかったはずだ。 それは解き明かしたい神秘に
見えていただろう。 だからたぶん、彼にとって相対性理論を見出すことは、 今の学生が授業で
それを学ぶことほど、努力とは感じられなかったんじゃないかな。
学校で植え付けられる幻想の一番危険なものは、 素晴らしいことを為すには自分に厳しくなければ
ならないというものだ。 多くの科目はあまりに退屈に教えられるから、 自律心が無いと全部に
出席することなんてできやしない。 大学に入ってすぐに、ぼくはヴィドゲンシュタインの言葉を読んで
びっくりした。彼は自律心が無くて、たかが一杯のコーヒーであろうと 欲しくなったら我慢することが
できなかったというんだ。
今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、 みんな同じなんだ。自分を律すると
いうことをほとんどしない。 延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようと
しても全くの無駄だ。そのうちの一人ときたら、自分の結婚式に 出席してくれた人へのお礼の手紙を
出してない。 結婚して4年経つのに。もう一人は、メールボックスに26000通のメールをため込んでる。
自律心が全くのゼロだったら困るよ。走りに行こうかなと思うくらいの 自律心は必要だ。ぼくも時々、
走るのが面倒だなあと思うけれど、 一度走り出せばあとは楽しめる。そして何日か走らないと具合が
悪くなる。 素晴らしい仕事をする人にとっても同じことなんだ。 仕事をしてないと具合が悪くなるし、
仕事を始めるだけの自律心は 持っている。ひとたび仕事を始めれば、興味の方に圧倒されて、
自律心は必要なくなるんだ。
シェークスピアは偉大な文学を産み出そうと歯を食いしばって 勤勉に努力したって思うかい。
そんなわけないさ。 きっと楽しんでいたはずだ。だから素晴らしい作品が書けたんだ。
いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する 大きな好奇心だ。アインシュタインに
とっての一番大事な瞬間は、 マクスウェルの方程式を眺めて、これはどうなっているんだろうと
自問したところにあった。
生産的な問題に照準を合わせるのには長い時間がかかる。 本当の問題は何なのかを見つけるだけで
何年もかかるかもしれないからね。 極端な例を言えば、たとえば数学だ。数学を嫌う人は多い。
でも学校で「数学」の名前でやらされていたことは、 実際に数学者がやっていることとはほど遠いんだ。
偉大な数学者のG. H. ハーディは、高校の時は数学が嫌いだったと 言っている。ただ他の生徒より
高い点数をとれたから選択しただけだったと。 後になって、彼は数学が面白いということに気づいた。
質問に正しく答えることのかわりに、自分で問題を見つけるようになってからね。
ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると 母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」
っていうんだとぼやいていた。 でもそれが、やるべきことなんだ。世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。
素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。 ただこの世界の中の、
ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。
これは学問だけの話じゃない。
「車はどうして贅沢品じゃなきゃいけないんだ? 車が日用品になったらどうなるだろう?」
これがヘンリー・フォードの発した 偉大な問いだった。フランツ・ベッケンバウアーの問いはこうだった。