はてなキーワード: 天皇とは
政治と宗教を混同した法治国家を否定するいくつかの政党、政治家は粛清される。
(少なくともフランスにおいてはカルト団体として認識されている)
も同様に粛清される。
今自民党がやろうとしている改憲は中途半端に日本を中国のようにしようという目論見であるが、
初戦は付け焼き刃であり、中国四千年の歴史ある中央集権、独裁によるスピードには敵わないのである。
スピード「感」というのは、それはやってる感を演出している、というニュアンスを含んでいる。
しかもそれは言葉に留まらず、武力的な挑発、核戦争さえも辞さない覚悟である。
なぜ核戦争も辞さないと断言できるのか、といえばベトナム戦争である。
ベトナム戦争は北側のゲリラ戦法が勝利のカギとなった、というのはウソである。
本当は中国、ソ連が、アメリカが敗北を認め、ベトナムから撤退しなければ、
北アメリカ大陸への核攻撃を辞さない、という姿勢を明確に示したからである。
いわばアメリカは中ソにビビってしまい、戦争を終結させる妥協点を見出そうとしたが、
それさえも迷走してしまい、いわば外交の失敗でアメリカは中国に敗北した。
その間にベトナム現地における戦争の方向性がまったく放置されたため、
いわゆる戦争映画の多くに見られるような混乱した状態が続いたわけである。
アソウイシハラは口が達者なだけだが、
中国、ロシア政府は自国の利益のためなら核戦争に臆することはない。
例えば中国で自転車レンタルサービスが起業されても大失敗してしまい、
廃棄されたレンタル自転車が山になっている写真が日本で笑いものにされるが、
こういった大量生産大量消費のスタイルは高度経済成長時代の日本に見られたものと同様であり、
そもそも中国経済は実質的には国がコントロール経済であって、破綻はありえないのである。
日本ではもう20年近く中国経済は破綻する、不動産市場が崩壊するという論が唱えられてきたが、
一向にその兆しはないように思われる。
例えば洗濯機が1年で故障したとしても、保証期間内にクレームを入れれば新品と交換である。
畳と女房だけでなく、あらゆる製品は修理ではなく交換が基本である。
もしくはそもそも製品自体が安価なのだから買い替えた方がコスパも良いのである。
こういったスタイルはそもそもApple製品なんかでは常識ではないだろうか。
iFixItを挙げるまでもなく、
分解や修理する権利というものを破壊するというイノベーションをAppleは発明した。
私はかなり昔、Intel iMacを使用していたが、修理しようと分解してみれば、
中には大量の両面テープが使われており、ネジやはめ込みを使うべき箇所でさえ接着剤を厭わない。
こういったAppleのようなナウでイマいヤングにバカウケの設計スタイルは中国では当たり前である。
分解、修理できない洗濯機だろうが、安価であれば買い換えればいいのである。
そして、大量に廃棄された製品は廃棄処理場で、
貧困層や少数民族、黒人が有毒物質まみれで分解してくれるのである。
これにより都市鉱脈とも表現される金などは再利用されるのである。
そもそもエコというのはコストがかかるものであり、それは奴隷によってしか実現できないのである。
誰かがババを引かなければ実現できないのが世の常である。
ただ、AVのストーリーが警察の不正を暴くとか、国の政治に批判的な内容を含んでるとか、そういうのはアウト。
ところで、自民党も政治批判をネットに書いたら削除する権限を欲しているんだけど、
これって中国政府とまったく同じだよね。
自民党を応援する人は、もっと強力な中国政府を応援するべきだよね。
親学とか、お父さんお母さんを大切にしよう、みたいな教育は賞賛さえされるよ!
天皇はアウトだけど。
平等だね。
中国にはシリコンバレーが失った一攫千金の夢がまだあるんだよね。
そして、思い付きから高品質のプロトタイプ、投資家からの資金獲得、
書くのが面倒なので色々あって、量産、出荷までの過程がすべて一つの都市に集約されてる。
こんな技術者、製造業にとって夢のようなディズニーランドは世界のどこにもない。
なんか書くのが面倒になってきたぞ!
貧困層を犠牲にしてでも、少数民族を犠牲にしてでもロケットを飛ばすぞ!
フォン・ブラウンやロックスミスが大好きなら中国政府を支持するよね。
ぼくは少なくとも科学技術を最重要視する姿勢は中国を支持する。
自民党の政治家や党員でさえ疑似科学にどっぷりハマってる人が多い昨今だからね。
なんか核の疲れてきた。
この後に中国政府を指示しない方がいい10の理由を書くというネタだったはずなのだけど、
なんか最近疲れやすいし、ほんとに自分も遂にコロナに感染したのかもしれない。
コロナ太りしすぎたし、歯槽膿漏の出血は酷いし、身体中に蕁麻疹ができることがあったり、
皮膚症状もコロナではあるらしいし、しもやけに似た症状とか全部血管に関する異常なんだよね。
失職したのでお金が尽きたら役所に行くなどして無償でフードを提供してもらえると助かるのだけど、
まあ、日本は福祉があるようでなかったりする国だから仕方がないよね。
障害者の雇用とか待遇とか、酷いからもうイヤになってたところではある。
最長6年以内に台湾やフィリピンと中国が戦争するというのがアメリカ側の主張だし、
自分もそんな感じで見積もっていたので、意見が合致して寧ろちょっと自分で戸惑っていたのだけど、
まあ、俺より遥かに頭が良くて高給なアメリカ人でも、俺と同じぐらいの時間感覚だったんだ、
と思ったりもして、昨今の日本の政治のアホさ加減にウンザリしてたので、
コロナで早死には上等な気もするんだよな。
死ねば社会的責任とか長男長女の責任とか、この国の抑圧的な価値観からも解放されるわけで、
それはそれで願ったり叶ったりなんだよな。
「井戸に毒」投稿者に2度問うた 虐殺の現場訪ねた記者:朝日新聞デジタル
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASP517RWXP4PPTIL03C.html
「おねロリキメセク天皇は承認欲求の塊」とかコメントしている人がいて、笑ってしまった。
いやだから何?
少なくとも「バイデンが~」については、誰もあのツイートが「差別を煽動する」ことを証明できてないじゃない。
どういうメカニズムで、誰の何に対する差別をどう煽動するのよ。言えるものなら言ってみなさいよ。
ただ単に、「不謹慎だ」というのに過ぎないじゃない。
天皇賞の代名詞としてよく用いられるのが「盾」です。表彰式の際に優勝馬主へ下賜される、いわゆる天皇盾からきているものです。国内のレースで盾が手渡されるのは天皇賞だけ。
現在、馬主に下賜される天皇盾の正式名称は「御紋付楯」です。縦56センチ、横(最長部)49.5センチの木材(ラワン材)でできた板に「競馬恩賞」の文字が板金ではめ込まれ、その上部に鋳物で金メッキされた菊の御紋章が輝いています。盾は天皇陛下から賜った唯一無二のものであるため、敬意を表して素手では取り扱わないことになっており、表彰式で馬主は白い手袋をして受け取ります。
41年(昭和16年)に御下賜品は木製の盾になりました。47年(昭和22年)春、「平和賞」の名で行われた際には賞品の下賜がありませんでしたが、同年秋には盾に戻りました。このときから盾は持ち回りとなり、馬主にはJRAが制作した盾の複製品(本物の3分の2ほどの大きさ)が与えられることになります。つまり、現在の盾は47年から使用されているものなのです。
盾はレースが行われた競馬場内の金庫に厳重に保管されているということです。唯一無二の盾で保険は利かないため、輸送は外部の業者に依頼せず、総務課の職員が直接取りに向かいます。しかも慎重を期すために必ず複数(多くの場合2人)で行います。東京―京都間は新幹線、それ以外の行程は全てタクシー移動です。丁重に扱わなくてはならないため、輸送中も気を抜けません。新幹線内では3人掛けの真ん中の席に置き、両隣を職員が挟みます。他の乗客の迷惑にならないよう、あまり混雑しない昼の時間帯に乗車するということです。タクシーでも職員が盾を膝の上に乗せ、抱えて持っていきます。当然、床に置いたりトランクに入れたりといったぞんざいな扱いは許されません。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO29783290U8A420C1000000/
メジロマックイーンが、ライスシャワーが、ビワハヤヒデが、マヤノトップガンが、スペシャルウィークが、ゴールドシップが手にした (そりゃ実際には馬主が、だけど) 天皇盾。時代が短中距離志向になり、スピードが求められる時代にあっても、変わらない3200m先の重み。
(他国でも自己犠牲を賛美する風潮はあるが、露骨に特攻を命令するのは貴重な兵士というリソースの無駄使いであり、普通はありえない
今の日本の政治家も悪党としては小物感が漂いすぎてて、こすいというかケチというか
WWIIもそうだけど、上層部は小悪党なのに強い言葉(コロナに勝った証とか)を言うだけで、結局は全部現場に丸投げでしかない
現場に丸投げというなら米国のベトナム戦争もそうだったわけだけど、流石に特攻を命令したり賛美したりはしない
(ベトナム戦争は北軍のゲリラ戦術が勝因ではなく、実際は中ソが米国への核攻撃を匂わせたため、米国は核による脅迫という外交で負けたのである
特攻が嫌で徴兵から逃げた息子を親が捕まえたり、特攻するために出兵する息子を親もご近所も万歳三唱したり、
GHQに支配されても、やっぱり日本人の本質は変わってないんだと今回のコロナでも思ったよ
国難というか、困ったことが起こると先に精神論に持ち込んでしまう
日本人以外に頑張る系の自己啓発は基本的に「ダルい」という反応しか得られれないと思う
(そうすると従業員やチームメンバーがついてこなくなるため、上層部は妥協案や合理化を考える
良くも悪くも基本的に真面目、
だから、上の人間にその真面目さを体よく利用されやすいのだと思う
付け加えるなら、ズルをしてでも敵国に勝つ、ズルをしてでも勝って支配する、領土を奪うという「欲」がない
キリスト教だってプロテスタントは「合理的禁欲」という考え方が根本にあるため、
お金を無駄使い散財しない→いざというときのために貯蓄する→資本主義
という流れがあったが、しかしあくまで「合理的」禁欲であり、仏教のような無欲を良いものとは考えていない
そもそも、無欲になりたい、という欲で座禅や修行をしているというトートロジーがある(一休宗純
うろ覚えだが、アニメのコードギアスでもシュナイゼルには「欲」がなかった
欲や執着心がないことがかえってルルーシュに負ける敗因になってしまった
自己啓発などで欲や執着を捨てようというネタもよく散見されるが、これはバランスの問題であって、
欲や執着が自分を苦しめるなら量を減らすべきだが、欲や執着がなければなんの成功にもたどり着かない
老後になったらオレオレ詐欺で無一文になっても構わない、なんてことはない、
それでは明日から生きていけないわけで、死ぬまでお金や何かに人間は執着するべきなのである
そう考えてみると、この国はコードギアスのシュナイゼル側に似ているとも思える
欲や執着心が足りないのに、「美しく」勝利しようとする
これが自分には良くないように思う
「美しい国」だの「国家の品格」だの言い出した時点で、アベはシュナイゼルにどこか似ているように思う
持論だが、まず「美しく勝とう」などと考えてはならない
大切なのは「みっともない形でもまずは目標を達成する」ことである
ダクトテープによるプロトタイピングとか、まずはみっともなくても完成させる、目的を達成することである
この段階から「軍神」がどうのとか、戦場に美的感覚を持ち込みすぎてはならない
勝利よりも何よりも、まずは目的を細分化し、その1つ1つをみっともないながらも達成していくことである
そして、そこから今度はそのみっともないものをブラッシュアップしていくことである
私は格闘ゲームをやったことがほとんどないのだが、人間がコンボを入力するのはバカげている、
キー操作を記録して一発のキー入力で技が発動できないか、みたいなことを考えるのである
WWIIの日本は、根性でみっともない形で達成しても、それを合理化、単純化しようとしない傾向があるように思える
また、そういった合理化や単純化を悪としたり、そういうのは美しくない、みたいな余計な美観が介入しているように思える
ズルをしてでも勝たなければならない
軍神がどうの、天皇がどうの、そういう美観を戦場に持ち込んではならない
そういう意味で、仮想敵国である中国はやはり良くやっているように思わざるをえない
ホリエモンだったか、自著の自己啓発本で「真似される奴になれ」とか偉そうに書いているらしいが、
真似をするというのは一位の背中にピタリと追随してスリップストリームを利用して走る二位のようなものである
そんな二位がゴール手前で一位を押し倒して一位になってしまうものである
たしかに「真似される奴」はオリジナルであり、ブレイクスルーを作り出すものであり、偉大な存在である
しかし、ホリエモンは起業家としてビジネスの歴史をそれなりに知っているはずではないのか?
ビジネスの世界で意外と最後に勝利するのは二番手だったりすることが多いのである
シュナイゼルについてうろ覚えなのでググってみたが、この文を書いていて、ついアベ氏と似ていると書いてしまったが、
goldhead氏だったか、安倍晋三氏がテレビで演説しているのを観て、
なんて空っぽで空虚な人なんだろう、みたいに思ったようなことをブログだかに書いていたと思うのだけど、
それは自分も同感であって、
安倍晋三氏=シュナイゼルと考えると意外と彼という人物を理解できる気がしてきた
まず、生まれながらにしてすべてが揃っているため「欲」がない、執着がない、
そして、「周囲が望むことを喋り、実行するだけ」の、
ある意味、気味が悪いぐらいよくできた長男みたいな人物だということだと思う
それが見える人には見えるのだけど、見えない人には見えない
なぜなら、安倍晋三氏が空虚に見えない人にとって、そういった一部の大衆が望むようなことを声高に喋るからである
自分のフラストレーションを代弁してもらっているような気分になるから、彼が空虚に見えない
しかし、その崇め奉っている彼は単なる「鏡」でしかないのである
端的に言うなら、二世だから出自が恵まれすぎている、生まれてこの方金銭関係などで大した苦労もない、
それが人間性に反映されて「欲」がない、
しかし、悪い意味で「いい子ちゃん」だから、周囲の望んだことを喋る、
そうやって有権者中の有力者の気持ちを代弁することで味方を増やす、勢力を付けるという戦法だったように思う
そう考えてみると、私はマシュマロ・テストというのがやはり解せないのである
今はルルーシュにくれてやるとしよう、みたいな台詞がうろ覚えだがあった気がする
もちろん、戦争であれ何であれ、意図的に負けてやる、忍耐みたいな姿勢も大事であることは理解できる
しかし、マシュマロ・テストというのはあれも極論めいた話であって、場合によるのである
では、目の前のマシュマロを誰よりも先に奪わなければ死ぬとしたらどうだろうか?
アイスランドのジェンダーギャップ指数についての記事を読んでて、まさかそんなことはと思って調べてみたら本当にデタラメな指標だったので書く。
「形式的に」というところがミソだ。たとえば多くの立憲君主制国家では、形式的には君主が一番偉い。君主が首相を任命し、議会を招集し、軍の最高指揮権を持っている(自衛隊の最高指揮権が首相にある日本は例外的)。
でも、実際には、君主に実権はほとんどない。日本やイギリス、ノルウェーのような民主的な立憲君主国では、議会の多数派を握った人物を首相に任命し、内閣に言われるがままに議会を招集し、実際の軍の指揮は首相や国防相といった政治家に任せている。
つまり、そういった国では、「その国で『形式的に』一番偉い人」」と「その国で『実際に』一番権力を持っている人」とは別になる。
後者、つまり「その国で『実際に』一番権力を持っている人」のことを、「政府の長」という。
アメリカのような大統領制の国では、「国家元首」と「政府の長」は同一人物だけど、議院内閣制の国では、この2つは別人だ。
つまり、こういうこと(天皇が元首かどうかというややこしい議論はここでは措いておく。実務的にはどう見ても国家元首なので)。
国 | 国家元首(形式上一番偉い人) | 政府の長(実際に一番権力がある人) |
アメリカ | ジョー・バイデン大統領 | ジョー・バイデン大統領 |
イギリス | エリザベス2世女王 | ボリス・ジョンソン首相 |
日本 | 徳仁天皇 | 菅義偉首相 |
で、オーストラリアやニュージーランド、それにカナダは、いわゆる英連邦王国だ。つまり、イギリス国王がオーストラリア国王やニュージーランド国王、カナダ国王を兼ねている。そうすると、こういうことになる。
国 | 国家元首(形式上一番偉い人) | 政府の長(実際に一番権力がある人) |
オーストラリア | エリザベス2世女王 | スコット・モリソン首相 |
ニュージーランド | エリザベス2世女王 | ジャシンダ・アーダーン首相 |
カナダ | エリザベス2世女王 | ジャスティン・トルドー首相 |
つまり、これらの国の「直近50年での国家元首の男女比」を調べたら、ここ半世紀以上ずっとエリザベス女王が国家元首をしているのだから、全期間にわたって「女性が国家元首」と判定されないとおかしいはずなのだ。
で、ここで最新のジェンダーギャップ指数の報告書を見てみよう。
ドキュメント内を“head of state”で検索すると、最初に出てくるのは次のような文章だ。
...Across the 156 countries covered by the index, women represent only 26.1% of some 35,500 parliament seats and just 22.6% of over 3,400 ministers worldwide. In 81
countries, there has never been a woman head of state, as of 15th January 2021... (p.5)
……思い切り、なんの留保もつけずに「国家元首」って書いとるやん……
いや、普通、こういう文書を作るときはさ、「政府の長」とか「政治的リーダー」とか「選挙によって選ばれた最高位の役職」とか、そういう言い回しにしておくものなのよ。だって、「国家元首の性別」っていうのはジェンダーギャップを考える上で無意味極まりないから。オーストラリアもニュージーランドもカナダもイギリスもこの半世紀以上ずっとエリザベス・ウィンザーさんっていう女性が国家元首だけど、それって政治におけるジェンダー平等においてはなんの意味もないでしょ?
そして、読んでいくとこういう表現にも行き当たる。
...However, in Canada, a woman has been in a head-of-state position for only 0.3 years over the past 50 and in the United States, there has never been a woman as president. (p.30)
……やっぱりこの報告書、「国家元首」と「政府の長」を区別してない! カナダはこの半世紀以上ずっと女性が国家元首だって言っとろーが!
そんなの些細な言葉の使い方の間違いじゃん、と思うかもしれない。でも実は、これは重要な問題なのだ。
現在の民主主義国家の政体を分類するにあたって、国家元首と政府の長がどのように権力を分担しているか、という指標は重要だ。それに従うと、民主的な政治システムは概ね次のように分けられる。
システムの名称 | 内容 | 代表的な国 |
大統領制 | 直接選挙された大統領が政府の長となる | アメリカ合衆国 |
半大統領制 | 直接選挙された大統領と議会の支持を得た首相が権力を分担する | フランス |
議院内閣制 | 国家元首は形式的な存在で、議会の支持を得た首相が政府の長となる | 日本、ドイツ、インド、イギリス |
ここで大事なのは、同じ「大統領」でも、大統領制と議院内閣制では持っている権力が全然違うということだ。アメリカの大統領は国民から直接選挙され、連邦の行政権を握っている。いっぽうドイツの大統領は、議員たちを通じて間接的に選ばれ、国政に関する権能をほとんど持たない。これはどちらかというと戦後憲法下での天皇に近い存在と言っていいだろう。違いは世襲されるか選挙されるかという点だけだ。
サミットを開いたときに、なんでアメリカとフランスは大統領が出てくるのに、日本・ドイツ・カナダ・イギリス・イタリアは首相が出てくるのかといえば、後者の5カ国は議院内閣制の国で、国家元首(天皇や国王、大統領)より首相の方が権力を持っているからだ。なんでオリンピックの開会式では首相ではなく天皇や国王(カナダの場合は国王の代理たる総督)が挨拶するのか? 形式的には彼らの方が偉いということになっているからだ。
(ところで、太平洋諸国やアフリカには、「議会から大統領を選ぶ」タイプの共和国がけっこうある。南アフリカ、ボツワナ、ナウル、マーシャル諸島といった国々だ。こういう国の場合、議院内閣制でありながら大統領が実権を握っているということになるので注意されたい)
なので、「大統領が女性」とだけ言われても、どのくらい権力を持っているのかがわからなければ意味がない。仮に、大統領がなんの権力もない完全なお飾りで、首相がすべての権限を握っている国があったとして、大統領がずっと女性で首相がずっと男性だった場合、女性が政治的に平等な立場にいると言えるだろうか?(インドの大統領がこれに近いかもしれない。10年ちょい前のインドの大統領は女性だったんだけど、覚えてる人ってどんくらいいます? まあ覚えてないよね、インドではここ数十年ずっと首相が男性だったので……)
だから、本当に大事なのは「大統領制における大統領」や「半大統領制における大統領あるいは首相」、そして「議院内閣制における首相」の男女比のはずなのだ。ジェンダーギャップ指数はそれをカウントするべきだ。
それなのに、無邪気に「国家元首」の男女比を出してきて「ニュージーランドでは過去50年間のうち14年間は女性が国家元首でした」なんていうデタラメをぶっこくような報告書を、どうして信用できるだろう(なんでデタラメなのかはわかるよね? NZの国家元首は50年以上前からずっとエリザベス女王だからです)。この報告書は「この国は過去何年にわたって女性が国家元首でした」という数字を羅列してはいるが、「国家元首」の定義がデタラメで融通無碍なのにその数字をハイそうですかと受け入れることはできない。本当に国家元首を数えたのか? 国家元首と政府の長を混同してないか? それらの数字は別々に数えたのか、それとも合算したのか? このことがちゃんと注記されていない数字をどう使えというのだろうか。
まさか、こんな基礎的な事柄について、こんな雑な数字を出してくる統計だとは思ってもみなかったよ。国家元首と政府の長の区別なんて、政治制度を分類する上でのイロハのイじゃねーか。その程度のこともわきまえてないやつが数えた数字になんか意味あんの?
まず、「二元主義型議院内閣制」と「一元主義型議院内閣制」と言っているが政治学ではそんな分類は使わない。議院内閣制とは政治権力が議会で選ばれた首相に一元化させる制度のことである。仮に分立しているならそれは半大統領制という別の制度であって、議院内閣制ではない。
「二元代表制」という言い方はあるが、これは日本の地方自治を指す言葉だ。日本の地方自治は、首長(知事や市長)を直接選挙で選び、首長が県庁や市役所を率いて行政を取り仕切るシステムになっている。上で書いた類型に当て嵌めれば大統領制になるが、知事や市長を大統領と呼ぶのは変なので「二元代表制」と呼ばれている。「二元」というのは、首長と議会がそれぞれ別に選挙されるからだ(議院内閣制では、行政のトップは議会の多数派から選ばれるので「一元」になる)。
(余談だが、現代日本の政治がグチャグチャに混乱している原因の一つが「中央は議院内閣制で地方は大統領制」という政治制度のちぐはぐさだろう。議院内閣制と大統領制では「権力の握り方」が違うから、中央と地方でシステムが違うと政党組織を1つにまとめることが難しいのだ。ある組織の内部に異なる論理で動く複数の組織が混在していると一枚岩になりにくいのは、感覚的に理解できるところだと思う。この点、中央も地方も大統領制で統一しているアメリカや、連邦と州のどちらも議院内閣制で統一しているカナダやドイツと比べてみると日本のちぐはぐさがわかる)
蕨から作るという事で蕨市が発祥なのかというとどうやらそうでもないらしい。
鎌倉時代、時の天皇によってわらび餅が全国的に広まって奈良や京都を中心に一般的な甘味として広まったみたいね。
でも原価率とか売上とかあんまり国中を揺るがす程、いわゆる社会現象には今も昔もなってない感じ。
数年前に一瞬だけわらび餅の高級化が進んだきらいもあったけど最終的に今のスーパーとかで見かける一般的なわらび餅1個100円(よく半額シールが貼られてて最大39円のスーパーもある)程度で落ち着いてる。
元の中国ではさして浸透しなかったわらび餅が日本では一般的な甘味として700~800年位歴史が続いてるのにあんまり評価されないのは嘆かわしいね。
お団子でさえも、だんご三兄弟が売れてた頃もみたらし団子や三色団子、ヨモギ団子などが売り切れ続出になる位ブームになったという話があったのに、わらび餅には無縁だった。
基本的に和菓子、特にわらび餅は日本で評価され難いのでないかなと思う。
羊羹ういろうや栗菓子などはお中元で人気だから和菓子全体が不人気でもないのは明らかだけど
じゃあ何でわらび餅は殆どブームが来ないのかというと多分僕たちの生活圏で一般的になり過ぎて見過ごされてしまったんじゃないか?
そうじゃないとスーパーで売られてるわらび餅にあんな頻繁に半額シール貼られないと思う。
・平家
平宗盛…アホの子。源頼政挙兵のきっかけを作っちゃった人。こいつのせいで平家は滅亡(出典:平家物語)。
・源氏
・北条氏
北条泰時…承久の乱に勝利し幕府の基礎を固める。これで一応鎌倉幕府は安定するが、執権は全員短命に。
・足利氏
足利義満…いわずもがなの権力者。南北朝を統一し、有力な守護大名を押さえ、勘合貿易で経済を潤し、息子を天皇の前で元服させる。権力が強すぎたせいで死後幕府は混迷・没落
・豊臣氏
豊臣秀頼…実質的には二代目。秀次を挟んで三代目。徳川家康が恐れる体格・人格を持つ。右大臣にまで登りつめるも、大坂の陣ではほぼ何もできず豊臣は滅ぼされる。
・徳川氏
徳川家光…有史以来のキチガイ。インセルに権力を持たせたらどうなるかよーくわかる人物。バカとインセルに刃物と権力は持たせてはいけない。
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
疑問どころか、網野氏の史観は「国民の物語」との格闘の結果と言ってもいいくらいだよ。
それが形を変えて「日本とは何か」や「天皇とは何か」に繋がっていく。
この辺は最晩年の対談集「日本をめぐって」の最終章、小熊英二との対談でかなりあけすけに語っているので、是非。
https://www.amazon.co.jp/dp/4062110237
国民的歴史学運動については、同じく小熊英二の「<民主>と<愛国>」の第8章に詳しい。
あと呉座氏や亀田氏が、ベタに「国民の物語」を希求している訳はないけど、トータルヒストリーの語り口としての「国民の物語」に、関心がないはずはないと思うんだよね。