はてなキーワード: 各論とは
2019年の暮れ、中国武漢市で発見され、翌年客船経由で日本にて蔓延が始まり、2月より世界的大流行となった新型コロナウィルス感染症。
政府や医療系の有識者などからはマスク着用や自粛の要請がなされた。
一方で私は、ノーマスクandノー自粛で暮らしてきたが、まったく体調は崩していないし、他人に害を加えられたこともない。
そんな私が3年間で続けてきたことを3つピックアップして書いていきたい。
外に出てみると、誰も周りにいないというのにマスクをしている人ばかりだ。
本来マスクは感染対策として着用するものだが、そういうところでつけていても意味がない。
一方で、人と人との距離がどうしても近くなり、マスクの着用が効果的といわれる場面もある。
その最たる例が公共交通機関だ。
航空機(日系航空会社に限る)はマスク着用が強制で、未着用の場合客室乗務員に注意され、(その他指示含め)従わない場合搭乗拒否となる。奥野淳也(マスパセ)氏の一件が有名だ。
ちなみにあるTwitterユーザーによると、全日空はその理由を「不安がる客に配慮するため」としており、感染対策がおざなりになっている印象を受けた。
バスは会社による。筆者は西東京バス(八王子駅~サマーランド線)にノーマスクで乗車したとき、乗務員に注意されたことがある。
一方未着用者を追い出して行政処分を食らったところもある。
鉄道はほとんど強制してこない。一応マスク着用の呼びかけはしているが、「国土交通省からのお願い」とどこか他人事のようだ。
改札口をノーマスクで通過しても、すぐ目の前にいる駅員は何も言わない。こちらをしっかりと見ているはずなのに。
ホームに降りる。監視カメラで見えるし、なんなら構内放送で注意できるのに、やはり何も言わない。
そのまま電車に乗ったが、注意されることもない。
Twitterを見ると「ノーマスクを殴りたい」「控えめに言って死ね」などと物騒なことを言ってはいるが現実はそうでもない。
周りはこちらのことなど気にしないし、なんなら隣に座ってくる。
目立とうと思い、その場でデレステのMASTER+(かなり手を動かす)をプレイしてみたが一瞥だにされず。
もし殴りたいなら殴ればいい。穏便なやり方で済ませたいなら口で注意するなり、通話装置で乗務員にチクればいいはずなのに。
乗務員に通報すれば施設管理権で追い出すことができ、運が良ければ警察行きにすることもできます。
(車内の通話装置は非常停止ボタンではありません。乗務員と通話できるだけで運転見合わせにはなりません)
「ヤバい奴と分かっているから何もしないんだ」と言われるだろうが、これも怪しい。
ヤバい奴だと思うなら、それを避けることだってできる。別の車両に移ればいい。
乗務員へチクりるにしても、離れたところでやればこちらに知られることがないからリスクはさらに低い。
それすらもできないならできないでそっと離れればいいのに、なぜかそうしない。
いやホント、Twitterで愚痴を言うくらいなら勇気を出した方がいいですよ。
中には「顔に自信がないからマスクする」「マスクはマナー」と頓珍漢なことを言う人も出てきた。
当然法で定義されたものではない。調べても色々な人が全く異なること、下手すると正反対のことを言う。
どこを探しても各論的なものしか出ず、誰かが言うたびにその種類は無限に増えていく。
(最近は「マナー講師」とかいう、嘘をでっちあげるビジネスが横行しているそうだが)
「人を不快にしないのがマナー」としても、その基準は人によって大きく異なる。
その論理でいえば、無感情な人の前ではマナーは存在しないし、自分を嫌っている人の前ではどう策を講じてもマナーを履行できない。
結局のところ、「マナーを守れ」というのは「自分が気に入らない」ということなのだろうか。
しかし今ではその目的を見失い、マスクすることそのものが目的と化している。
おそらく周りの乗客もマスクの意義についてはよく理解していないか、薄々疑問を感じているのだろう。
しかし日本の文化上権威の申すことや周りと同じことをしないのは社会的デメリットが大きい。
だから嫌々ながらも、あるいは何にも考えずにマスクをしているのだろう。
…と思ってTwitterを見てみると、「私だって苦しいのに」「みんなやってるのに」という、仮説ドンピシャな投稿多数。
要は小学生が学校でよく言う「みんな苦しいけど頑張っているんだよ」「障害持ってるあの子もやってるんだよ」的な代物だ。
(後者は障害者を見下したうえで無理やりやらせている気がする点人権的にいただけないが、ここでは論じない)
大人になるとなまじ知識があるからこれをカムフラージュする言説を組み立てられるが、これは非常にわかりやすい。
それに匿名を前提としたインターネットのことだ、案外リアルでは影響がないのかもしれない。
過激な意見は目につきやすい(閲覧回数が増え、拡散されやすくなる)からどうしても検索上位に来る。
それはインターネットでは目立つが、実生活では無視できるくらい小さな意見なのだろう。
そういえば、インフルエンザのときはマスク着用者や感染者を見下していたくせに今となっては手のひらを返した小説家の医者がいたっけ。
世界的パンデミックとなった当初は世界各国が都市封鎖及び外国人渡航者の受け入れ停止をしていたため、海外旅行へは行けず。
日本国内でも外出や旅行の自粛要請、それを踏まえた各種イベントの中止などがなされた。
だが交通機関は普通に動いていた。航空路線は大幅減便があったが、それでも移動には影響しない。
従って旅行も自粛しなくてよいと判断し、感染拡大前と同様の行動をとった。
とはいえ1年目は、入国関係で支障をきたすことへの不安から海外旅行はできなかった。
そこで沖縄旅行にとどめることにした。当然ながら全行程ノーマスクである。
沖縄本島は高校の修学旅行で行ったので、ここは簡単に回る程度にし、主として離島を回ることにした。
初日、羽田を出てまずは沖縄本島へ向かった。ここを経由し粟国村で一泊。
次いで本島に戻り渡名喜村、その後は北大東村、最後に与那国島を観光。
航空機・船舶路線がないところ(ナガンヌ島、黒島、水納島など)に行けなかったのは残念だったが。
その後各国が入国者受け入れに寛容になったので、海外旅行もスタートした。
すでに5回渡航しているが、最近だと、数日かけてシチリア島からコペンハーゲンまで列車で縦断した。
成田からシンガポールを経由(ついでに空港のシャワーでひとっ風呂)し、早朝にミラノに到着。そのまま午前の便でパレルモへ飛んだ。
列車でパレルモ中央駅に出て、正午過ぎの寝台特急で24時間以上。今の日本にはない列車の船舶積載も体験した。
ミラノからは特急でヴェネツィアへ。これだけで1日が過ぎてしまったのでまた寝台特急。初めての国際寝台列車でシュトゥットガルトへ。
ハンブルクへ向かい、ミニチュア・ワンダーランド(模型遊園地)へ。
さすがに疲れたので、その日はここでホテルを取り、翌日電車でコペンハーゲンに到着。
で、SASの直行便にて2月半ばの金曜日に帰国した。そのまま土日で東京ドームにコンサートへも行った。
このときから政府の指針により声出しOKとなったうえ思いっきり「密」だったが、やはり健康そのものだ。
感染拡大当初はともかく、自分以外にも自粛などしなくてよいと考える仲間がいたのが心強い。
普通に外出をし、飲み会をし、と人生を楽しんでいるようで何よりだ。
ある日のサンシャイン通りは人でごった返す中、外出自粛を呼びかける豊島区役所職員の声がむなしく響いていたのが印象的だった。
(ちょっとかわいそうと思ったが、本人は職務上やらされているだけで本心はバカバカしいと思っていたりして)
ここでは、行動というより気の持ちようについて話したい。
タイトルの通り、「お願い」「要請」と「義務」「命令」は異なるものだ。
後者は守らない場合に何らかのペナルティが科せられるが、前者は無視しても問題ない。
日本政府は「自粛『要請』」「休業『要請』」などと、「要請」しかしておらず、受けるかどうかはこちらで決められる。
一応「強い要請」もあるが、「お願いします」が「しなさい」になった程度でやはり無視することができる点は変わらない。
言い換えると法的根拠がない以上ペナルティを持った法的拘束力はなく、すなわち自由にできるわけだ。
そもそも自粛したところで何の見返りがあるのか。ないのであればする意味はない。
「自粛と保障はセットだろ」といわれたが、国が何もしない以上こちらが義理を尽くす必要もない。
「お願い」=「義務」という言説があるが、きちんと文字と国語辞典を読めと言いたい。
どこをどう解釈したら「お願い」が「義務」に飛ぶのか。そんなことが書いてある辞書がどこにあるのか。論理を飛躍させるな。
お隣さんが言おうが政府が言おうがお願いはお願い以上ではない。守る義務はない。
いったいいつから「発熱外来は真面目に要請を守っている人だけのもの」になったんですか?なってませんよね?
どこにも「外出自粛していない人は当院の受診をお断りします」なんて貼り紙はないし、ましてやそういう法律もない。
よって、どうしていようが体調を崩したら病院を受診する権利は誰にでもある。
そもそも、政府の「お願い」レベルのことを聞かないだけでだ。いつまでたっても権利が来ない義務を守り続けないだけでだ。
そんなことで壊れる社会なのですか?
その程度で壊れる社会だったら壊れてしまった方が、そして各個人がもっと自由にふるまっても壊れない社会にした方がいいのでは?
ここまで私のノーマスクandノー自粛暮らしをつらつらと書いてきた。
当然ウィルスは見えないので、こちらが感染したかどうかはわからない。
しかし1つだけ言えるのは、感染して発症するかだとか、それでどうなるかは結局のところ運でしかないということだ。
家の中でもマスクして趣味をいくら我慢しようとも感染するときはする。体調が悪いときは悪い。死ぬときは死ぬ。
どちらも確実ではない。神のみぞ知る確率でどれかに行きつくだけだ。
(素人が適当に確率を言おうとしているものもあるが、大概不正確だ)
ちなみに、私はこれでも3年間一切体調を崩しておらず、毎月PCR検査を受けているが陽性判定が出たことはない。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE227KZ0S2A920C2000000/
公立高校で教師をやっている。うちの学校には外国籍の生徒が多数いて、外国籍者対象の入試がある。正直、大変なことは多い。各々日本語習得のレベルも違う子たちに教える先生達の苦労は大きいし、同様の入試制度を持つどの学校の話を聞いても、カリキュラム内外の日本語指導は十分とは言えない。本当に色んな課題とか見えない問題があって、各論で話さないといけないこと多々なんだけど、面倒なのでそれはしない。
ただ、ブコメの「日本語ができないのに高校に入れる必要はない」という意見を読んで、違和感が生じた。なぜか。
一つは単純な理由で、日本人であればどんなに勉強ができなくても、あるいはしなくても高校には入れるからだ(実際外国人も定員割れてるところは入れるけど)。外国人というだけで「日本語ができるようになってから」等と言われてしまうのはおかしい。それは差別以外の何物でもない。実際に生徒を見ていても、学習意欲のない日本人生徒よりも、日本語では劣るが学習意欲の高い外国人生徒の方が、高校という場には似つかわしいと感じるときだってある。
ただ、たしかに「高校入学のための日本語学校/試験」のような制度/体制ができれば理想的だという意見には同意する。とはいえ、その実現は遠い話のことのように思える。その間にも日本語はできないけど高校で勉強したい生徒はいなくならないんだし、とりあえずは今ある学校での日本語指導体制を整えた方がいいんじゃないか、というのが一点。
もう一つは、「まずは日本語だけ勉強しといてね」というのは意外に難しいことだからだ。当然ながら、言語は内容と結びついている。マックで働くのに必要な言語と学校の学習に必要な言語は違う。学校で教科を学びながら日本語を学ばないと、いつまでたっても学習で使う日本語は覚えられない。そして一般に、学習に必要な言語の方が習得には時間がかかると言われている。「まずは日本語を」とやってたら彼らはいい大人になってしまう。
ただ、全く日本語ができない状態だと授業どころではない。そりゃそうだ。なので、現状でも入学までに日本語学校に行くのはよくあるケースだったりする。それでも、その程度の語学力では高校での学習にはやはり不十分で、そのギャップを埋めるのは「学校で」行うのが一番効率がいい。本人の努力と周りのサポートは不可欠だが。
ちなみに、こんなニュースが出てるのは文科省が高校の日本語教育に梃入れしようとしてるからだろうと推測する。この2つ目の理由のようなことはJSLカリキュラムと言われて小中では既に実践されているところもある。高校もそれに続けというノリで、何だかなあと思う節もあるが、現実的にはこの方向性で行くしかないと思っている。
あと、最後に。ブコメを見てて「入試の枠として必要なのか」「割合を上げる必要はあるのか」という意見があったが、同程度日本語ができない外国人同士でも学力は違うので、全て底辺校や特定の学校に押し付けると生徒にとっても学校にとっても不幸なことになると思う。例えば勉強のできる子は学習に必要な概念も母語でわかるので、必要なのは主に訳語になるから日本語習得も早い。そういう子はある程度学力で学校を選べる方が有意義な教育を受けられるとは思う。
の元増田です。
詳しくはこれまで投稿したとおりですが、大まかな所感としては次のとおりです。
総論
○行政に対する訴訟・不服申立ては、行政側にとって百戦百勝して当然であり、監査請求も同様(たぶん)。
○裁判では原告(監査請求でいう請求人)の主張に反論しなければ、反論しなかった部分はその主張が認められる。よって、多少粗雑でも指摘しうる点はすべて主張に盛り込む方が戦術上お得。
○そのような中で、請求人の主張が一点でも「理由がある」とされたことは重大。(請求人大勝利)
○したがって、「請求人の主張の大部分が退けられたから請求人は誤っている/ほんの小さな事」という主張は、少なくとも行政的には妥当ではない。
各論
○Colaboを調査して新たに作成した資料【表3】により請求人の主張の多くを退けているが、【表3】の信憑性に疑義を呈するような文言が監査結果に含まれており、文書中で矛盾していないか。
○請求人の主張にない部分まで踏み込んで是正を求めるのは、通常の不服審査事務から見ると不自然ではないか(極めて異例、とまでは言えないかも)。
○その他文書中で矛盾と思われる箇所が複数あり、違和感がある。
(以下の2点の可能性があるのでは、と考えています。①急遽結論をひっくり返す必要があった、②事務方の原案に納得のいかない委員側が自ら筆を取った。)
これを踏まえた上で、Colabo弁護団による声明(https://colabo-official.net/20230104/)を見ていきます。
本件監査においては、なんら違法行為は確認されず、監査請求人が主張した事実のほとんどは認定されませんでした。
一部について「不当」との指摘がなされましたが、後述する通りこれも、都の明示の指針にColaboが従っていなかったと認定されたわけでもなくより透明性の高い行政に向けた、担当部局に対する改善の指摘というべきものにすぎません。
(声明文第1の2)
○前述のとおり、論点になりうるものはすべて取り上げるのは通例であり、その中で一点でも不当と指摘されたことは重大であることから、この声明文は妥当ではないと考えます。
(というか弁護士なら当然それを知ってますよね?という思いからこの声明文を見る目が自然と厳しくなってしまいます。)
○住民監査請求は都に対してのものであり、「担当部局に対する改善の指摘」というのは制度上当然です。その中で
「領収書が示されていない事項が本件経費に計上されている」
「仕様書に記載される文言そのものからは委託事業の経費として計上することに妥当性が疑われる」
「受託者に対し、本事業が補助事業ではなく委託事業であること、また、本事業が公金を使用する事業であることをあらためて指導徹底すること」
などとの指摘は、担当部局を通じたColaboへの指摘といえるのではないでしょうか?
声明文第2の1~8については、監査委員がColaboを調査して新たに作成した【表3】に基づき請求人の主張を「妥当ではない」としたことをもって、自らの正当性を主張しています。
これはこれで良いのですが、これまでColaboが公表してきた資料と矛盾が出てくるような気がします。Colaboとしては、【表3】が正しい、という理解でよろしいのでしょうか?
人件費・法定福利費(税理士および社会保険労務士の経費)(略)について一部、妥当性に疑義が指摘されました。また事業全般についての改善についての勧告も行われています。
Colaboとして不正な経費の利用を行ってきたとは考えておりませんが、(略)
(声明文第2の9)
Colaboとしては、「税理士報酬及び社労士報酬を全額計上しており、本事業の実施に必要な経費以外の経費が含まれること」(監査結果文書)について、不正ではないと考えている、という理解でよろしいでしょうか?
領収書の記載が抽象的であることについては、監査委員も「本事業の特性上やむを得ない事由があることは理解できる」としています。すなわち、虐待やDVから逃げてきた若年女性を保護するという本事業の特性上、その女性やスタッフの居場所の特定につながり得る情報は記載できず、このことは一般的な必要性として監査委員も認めたということです。
(声明文第2の9)
これはさすがに誤読です。
本事業の特性上やむを得ない事由があることは理解できるものの、証ひょう書類としての性質上、領収書として認められるか否か疑義が生じるような領収書が含められていることは不適切である。また、領収書が示されていない事項が本件経費に計上されていることは不適切である。
「本事業の特性上やむを得ない事由があることは理解した上でも不適切」
であり、かつ
「そもそも領収書すら示されてない事項が計上されているのは不適切」
と指摘された(Colaboの理屈を受け入れたとしても不適切と指摘された)ものであり、真逆の解釈といっていいでしょう。
領収書か抽象的であることを良しとする監査結果についても疑義がありますね。そもそも公務員には守秘義務がありますから。
Colaboの言い分を認めると、世の中の相当数の領収書は抽象的で良くなりそうです。国税庁は認めてくれないでしょうけど。
○こういう文書では「何が書かれているか」も重要ですが、「何が書かれていないか」の方がより重要であることが多いですね。議会でのすれ違い答弁を見ているみたいです(あれは大部分があえてです。)。
○監査結果の、請求人の主張を退けている部分はともかく、結論部分はかなり強い筆致で担当部局による当該事業の監督状況を批判しています。あそこまで書くことはそうそうないことを受け止めるべきと考えます。
○この監査結果及び声明文をもって「結論が付いた」「大した問題ではなかった」などとしている方が、大学教授等を含めて数多く見受けられます。おそらく大部分の行政職公務員はそうは読みとりません。研究経験のない行政職公務員の、大学教員への転職(天下り)は批判的に見ていましたが、需要がある意味が少し分かった気がします。
○いずれにしても2/28までに実施されるという、担当部局による調査及び措置を待ちますが、それまでにもいろいろ動きがありそうですね。住民訴訟も行われるようですし。
○「行政側にとって百戦百勝して当然」いや、行政訴訟及び法に詳しくない人の意見であってそれは違う。近年行政法も色々変えていて、行政は住民の意見を取り入れようとしてる。必ずしも勝つのが絶対ではない。
○民間 対 民間の訴訟じゃ無いからな。Colaboは一応、行政側なので、100%清廉潔白で当然。1%の疑義を証明された時点で即死。仮にも弁護士がコレを分かっていない筈は無いのだが……。
語弊がありましたね。
もちろん行政側が100%勝つわけではなく、敗訴事例もあります。ただ、行政側は百戦百勝するつもりで行政を行っています(リスクを判断しています)し、その上で負けた者は法的な責任は負いませんが相応の評価になる、と御理解ください。
その上で、①原告が勝訴することは稀であり、その場合は大きく報じられること、②Colaboは今回行政側に立っており、負けは許されないこと、という結論に変わりはありません。
○都庁の担当部局の人がこんな声明文見たら頭の血管切れるんじゃないかと心配になる…。 民間で言えば下請け業者の不始末で大恥かかされた上に「私たち何も悪くありませーん」みたいに言われてる状況でしょこれ
都庁の担当者とうまくコミュニケーション取れてないんじゃないかと心配になりますね。
報告書の類いや領収書など、あらかじめコミュニケーションを取っていれば問題になる部分ではありません。
前に投稿した、音喜多議員の「もっと柔軟な対応ができないのか問い合わせ」など、政治の力が悪い方向に働いていなければ良いのですが。
○『議会でのすれ違い答弁を見ているみたいです(あれは大部分があえてです。)。』が分かりやすい。議員・役人が「そうすること」にメリットがあるのは分かるが、弁護団は議員でも役人でもないのにああなのは謎だ
これは相手の出した論点をすべて潰さなければ負けである、という通常の訴訟戦術からくるものだと考えています。
ただ、これをする場合は相手の論点をすべて潰さねばなりませんし、ネット上のレスバで潰したところでほとんどメリットはありません。
今回のColaboの場合は、行政争訟の行政側のように黙して語らず、主張は法廷で行うのがよろしいのではないかと考えます。
あえて書かないってのは分かる
自分もそうしてるし
突っ込まれたら答える(その答え方も事前に用意しておく。その内容も玉虫色にしておく)
書かないなら割りきって全部にコメントを出さず「都の指導に紳士に対応していく」とだけコメントするのがよかったのでは、と感じています。
一部に触れ、一部に触れないと目立ちますよね。
※この投稿の前に「Colabo関係の住民監査請求監査結果を読む①(請求文書)」という内容を投稿したのですが誤って消してしまいました。復元する気力がないのでたぶんそのままです…
の元増田です。半日遅れで時機を失した感がありますが、監査の内容に移っていきます。
本音をいうと役人経験がある者としてこの文書は違和感があります(不正があると断定しているわけではありません。)。
①請求人:公表資料や開示された文書によると、・・・のような不正が認められる。
②監査委員:今回新たに作成された【表3】によると、請求人の主張は【一部を除き】妥当ではない。
論点は後出し資料の【表3】と、【一部を除き】、それから④でしょうか。
(さすがに正規の資料を用いた請求について、後出し資料で請求を退けていくのは酷いと感じますがそれは置いておきます。)
ここでいう「一部」とは、Colaboに係る税理士及び社労士の報酬を全額本事業の費用として計上しており、本事業以外の経費も計上している点です。
通常、監査請求であればこの1点をもって理由があるとされたことで大勝利です。
例えば、国賠訴訟で10個の論点を挙げ、1個の論点で賠償が認められた場合、通常であれば原告大勝利と報じられます(もちろん論点の軽重により違いはあります。)。
よって「請求人の主張の大部分は認められなかった。請求人の負け」とする言説には大いに違和感があります。
請求人の主張(監査結果文書第1の3)に税理士や社労士に触れられてないにも関わらず、監査結果には「請求人は、税理士及び社労士の顧問料や決算対応等の業務に係る報酬は・・・不自然である旨主張する」とあります。どこからこの主張を引っ張ってきたんでしょうか(youtubeでは触れられていたと思いますが。)。
【表3】はどのように作られたのでしょうか。
監査結果文書によると、(1)Colaboから「領収書を含めた関係帳簿等の検査に応じることができる」と回答があったため、(2)12/9に関係帳簿等の検査を行い、(3)帳簿、領収書その他の諸記録を調査して作成した、とのことです。
法人Aに対して法第199条第8項の規定に基づく関係人調査として、以下の回答があったため、関係帳簿等の調査を令和4年12月9日に行った。
(略)
回答 本事業実施に係る収支に関する帳簿、領収書その他の諸記録を整備・保存しており、委託者(都)から関係帳簿等の検査を行うことを求められた場合、これに応じることのできる状況である。
法人Aの本事業実施に係る収支に関する帳簿、領収書その他の諸記録(以下「本件帳簿記録」という。)を調査したところ、本事業の実施に必要な経費として法人Aが台帳に記録した経費(以下「本件経費」という。)は次のとおりであった。
なるほど、Colaboに関係人調査を行い、帳簿や領収書その他の諸記録を調査して【表3】を作った、ということなんですね。
そもそも雑過ぎませんか?と思わなくもないものの、とりあえずそこは置いておきこれを全面的に信じることにします。
(領収書について)
本事業の特性上やむを得ない事由があることは理解できるものの、証ひょう書類としての性質上、領収書として認められるか否か疑義が生じるような領収書が含められていることは不適切である。また、領収書が示されていない事項が本件経費に計上されていることは不適切である。
と結論づけている。これは妙ではありませんか?
現段階では都はColaboに対して、【表3】が作成できるよう領収書等の提出を改めて求めることが限界であり、ⅰやⅱが残る中で【表3】を作成することはもちろん、それを根拠に請求人の主張を否定することはできないのではないかと思います。
(ⅰやⅱをすべて計上せずに【表3】を作成した可能性もありますが、それならそうと一言添えるべきでしょう。)
通常の不服審査であれば、請求人の主張を妥当ではないと結論付けたらそれで終わり、(一部)認容と結論付けたらそれで終わりで、そこから更に深堀りは原則としてしません。
実運用をいうと、請求内容以外に是正すべき点が見つかった場合には、こういった公表文書には載せず、事実上の措置として是正していきます。(そりゃそうですよね)
事例が全くないとは言いませんが、何故あえて踏み込んで是正措置を堀り、さらにそれを公表したのでしょうか?
監査請求には疎いのでそのあたり詳しい方おられれば教えていただきたいですね。
本件精算に係る上記各資料を確認した限りでは、後述のとおり一部疑義があるものの、法人Aが本件契約に定められた委託内容を履行していないといった特段の事情は認められない。
本件契約の履行確認において、(略)本件実施状況報告書では、特定の事業によるアウトリーチ実施回数と声掛けをした人数や参加者数の記載にとどまることは、その実態が把握できず不適切である。
実態が把握できず不適切であるとしながら、委託内容を履行していないといった特段の事情は認められないとした理由についてお聞かせいただきたいですね。
これは、法人Aの自主事業も含む本件活動報告書と本件委託に係る都に提出した実施状況報告書との差異を述べるにとどまり、本件実施状況報告書に不正があることの合理的な疎明はなされておらず、請求人の主張は妥当でない
ここはColaboの言い分をそのまま記載しているわけですが、暇空茜さんによると自主事業を含む活動報告書の方が本件事業の実施状況報告書の数字よりも小さくなる部分があると指摘があったはずです。
そのあたりは請求時点で触れられていなかったからスルーなんでしょうか?
(その割には④で請求内容以上に突っ込んでるので違和感しかありません。)
購入していない備品について実績として報告していたら、清算時点でハネられて当然だと思います。
これをハネたあと、「別のところで予算オーバーをしていて、総額では予算超過でした!だから請求全額認めてくださいね?」といって通るものなんでしょうか?
もちろん担当役人との下打ち合わせの時点でこういった記載があるのはセーフ(担当役人からの信頼はゼロになるでしょうが)ですが、正式な請求後に「購入していない備品」が請求内容に含まれていたら、仮に総額では予算オーバーしていたとしても返還を求めるのが通例だと思います。
〇担当局又はColaboを何とか守ろうとしている。(まぁ監査請求だし当然か)
〇その割には請求内容に無い部分まで突っ込んでいて妙。
〇多分いろんなところから突っ込まれるだろうから、まずは2/28を待つ。
〇当然請求人としては納得できるものではないので住民訴訟でしょう。(特に表3の信憑性)
○表3については辻褄は合っていると思う。委託事業の予算を超える費目は自主事業に振替えていると弁護団が説明済み。その振替前の委託事業の費目とも読める。だから後出しじゃんけんかどうかは続報待ち。
これをしてしまうと、外部からは委託事業と自主事業の切り分け(按分)が出来ていないように見えてしまいます。
なので、監査結果文書でも「按分の根拠となる考え方が不明瞭で、その実態が不統一であり不適切である」と指摘されていると思います。
というか、
なんですが、【表3】が正しいとする根拠はなんなんでしょうか(結局ここに戻ってくる)
○“さすがに正規の資料を用いた請求について、後出し資料で請求を退けていくのは酷いと感じますが”
○第三者から矛盾を指摘されても矛盾を解消した文書を後から出せばOKってのも結構甘めだと思うけどその辺が落とし所でいい。不手際を謝罪するだけの可愛げがあれば完全決着だと思うが・・・
補足します。
通常の不服審査でも役所からのより詳細な資料を用意するのは普通のことです。
ただ、後出しの資料が正規の資料と矛盾があったり、「そもそも後出し資料どうやって作ったよ?」と言われるようなものではダメだと思います。
請求内容にないものを突然取り上げ始めたのはこれが理由ではないかなと考えています。
世論を巻き込んでそのようなことをせざるを得ない状況に追い込んだ、という感じでしょうか。
○なんにせよ、実際は次のとおり→https://twitter.com/mkouno4/status/1610601668781178883 colabo側に落ち度なし。暇アノンがありもしない不正のデマを吐き続けていただけ。一連の騒動はミソジニスト側の腐った性根の問題だった。
違います。
その根拠となった【表3】の信憑性について、監査結果文書に基づいて考えた場合、疑義があるのではないかということです。
都では、本事業が今後も若年女性等への支援に資するものとなるようにするため、今年度から各団体を訪問し、前年度の事業実施状況について、意見交換を行うほか、事業の記録や帳簿等を確認することとしている。
・「今年度から・・・することとしている」、つまり現段階ではまだ実施していないか実施途中ということですね。
・暇空茜さんに言われて急遽実施することとなったのでは?と感じます。その一点のみでも、本件監査請求の意義を感じます。
・あえて今年度から意見交換や帳簿の確認をすることになった、という経緯と実施スケジュールについて情報公開請求をしたら面白いんじゃないかな、と思います。
・事業の実施状況の確認であればともかく、意見交換なら団体に役所を訪問させるのが通常ではありませんか?
(自治体なら少し緩いですが、霞が関ルールだと企業に役人が出向くときというのは、実地の確認以外は謝罪するときかお願い事をするときというのが多いのでは)
実際の経費が本件委託料の上限額を超えたことから、その超えた部分は本件委託料とは別の法人Aの活動に係る財源で賄い、本件委託料の上限額までを記載することで事業実績額とし、本件精算の基礎にしたというのである。
これを認めているのが本当に不思議なんですよ。
もともとモデル事業・補助金による事業で、現在は国と自治体で財源を折半している事業ですよね?
事業の全体像が分からなければ、来年度の予算の要求が出来ないし、国へ報告して全国展開もできないじゃないですか。
「今年度は100の予算だったけど、実際は120かかっている。精査したところ115の予算を要求する」
(来年度の本事業の概算要求資料、どうなってるんでしょうね。見てみたいなぁ)
国からの補助金を上限まで使いきればOKと考えてませんでしたか?東京都、ホントにそれでいいんですか?
新聞に出てくる用語は「現代用語の基礎知識」「日経キーワード」「朝日キーワード」を読めばいい。ちょうど来年分が新しく出てるはず。
あとは、正確性には欠けるけどやはりWikipediaで検索するのが楽だよ。
正確性を求めるならコトバンク。これは出典が辞典だから。https://kotobank.jp/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%A3%E7%9B%9F
自民党派閥(Wikipedia)ここに清和会とかの話は書いてある
枠組み合意は、それぞれの合意ごとに知らないといけないのでは。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%9C%9D%E6%9E%A0%E7%B5%84%E3%81%BF%E5%90%88%E6%84%8F
https://www.nikkei.com/telling/DGXZTS00000290X10C21A9000000/
分からない単語があったら、英単語調べるみたいに初めにあげた本やWikipediaやコトバンクやググって調べる。
そして新聞読んで、文脈で感覚を掴む。英単語の覚え方と同じな気がします。
以上、一意見として聞いてもらえれば。
毎週、きっちり成果を出せる人はすごい。
ある分野の専門知識をベースにアイデアを形にして、デザインし、提案していくコンサルティングな仕事をしているけれど、
ときには、解けない数学の証明問題をにらめっこしているかのように、いつまでたってもアイデアがでないときもあるし、アイデアがでてもそれを束ねて整理して、きれいなロジックを作れないときもある。
総論のロジックさえ整えば、各論は持てる知識と技術を総動員して、もうダッシュで駆け込めばなんとかなる。でも総論が論理破綻していると思えば思うほど、各論に着手できず、悶々としてしまう。
頭が悪い、向いてないんだろうなー。
食中毒出した店が取り締まられるのはいいけどこんな大騒ぎするもんじゃねえだろ、生ガキだって「色々検査して安全性は確保してますが当たる時は当たります」で売ってるんだわ。鳥刺し系も「気を使ってるけど当たる時は当たります」表示を徹底させればいいだけじゃん。
子供がスケボーみたいなので遊んでて怪我して死んだって、そりゃ遊んでりゃ稀にそういうこともあるんだよ。当事者は大いに悲しめばいいけど、社会全体で大騒ぎするから、社会は子供に絶対の安全安心を提供すべき→親も子供を絶対安全に育てるべき→責任重すぎで少子化、ってなるんだろ。一人死んだら三人産めばいい、一日1000人死ぬけど1500人産んでます、みたいな気軽な感覚に戻さないと人口増えねえよ。
京都ネタはやめろ尼崎ネタはやめろ東北ネタはやめろ東京ネタはやめろ、チー牛はやめろこどおばはやめろ、冗談でも人権ないとか地雷とか言うな、そうして誰かが傷つく言動を一個一個潰してったら、生傷は減ったけど呼吸ができなくなって生きが悪くなってる。チー牛なんて元々オタク同士の自虐ネタだぜ、「内輪以外の目にも触れる世の中だから」なんて理屈で、自虐ネタすら許されない世界が幸福か? 踏んでる足をどけましょうってみんなで見張り合ってたら、ダンスする人がいなくなって文化は衰退期に入りました。
日本でイノベーションが起きづらい、画期的な企業が少ないし経済成長しない、それがなぜか? 色々理由はあるけど、一つには企業に安全責任や政治的正しさを求めすぎだからってのもあるだろ。中国並になったらヤバすぎるが、アメリカ辺りでも企業活動で被害被った人間や新サービスに対応できず切り捨てられる弱者へのフォローが結構なおざりで、だからこそモラルには欠けるが開発や金儲けの才能はあるやつが集まってきて、活気が生まれて経済成長するんだよ。まあ最近では、先進国はどこもまずモラルありき、コーポレートガバナンスやコンプライアンス重視ってなってはいるが、日本は70~80年代頃から割と安全安心意識が厳しかったのにさらに強まって、ろくすっぽ面白い企業活動が出来ねえ。ごくまれに成功しかけても、頭角表しだした頃に「正しい社会」からコンプライアンス問題を指摘されて勢いを削がれる。最近ならアニメ漫画にアイドルにVTuberにプロゲーマーみたいなオタク系産業がちょっと活性化してきたが、なんとまあ素行を叩かれることよ。いけいけどんどん、不道徳だからなんじゃガハハでやりゃいいんだよ。
俺だって「正しさ」と「安全」に大いに守られてきたさ。でも先進国ほど少子化になってるし、特に治安の良い日本が特に少子化が深刻なのを見ると、これは続けられないんだろうなっつう危機感がある。モラルがひどかった時代よりマシだと断言する人は、モラル正しく安全に人口減少していきづまるならそれでいいと思ってるのか答えてほしい。それって穏健な反出生主義に近づくけど。
目の前の苦痛をやわらげようってのは優しさだけどさ、それはミクロ目線での善行であって、マクロだとむしろ悪い結果に繋がることもあるんだよなあ。
お前らは人類史上最も賢いはずなのに、瞬間的な同情や共感に引っ張られすぎだ。目の前で飢えてる子供がかわいそうだからとなけなしの種モミを振る舞って、次の年には集落丸ごと飢えちまうみたいなことをやっている。その子の身内がそうしたがるのは仕方ないが、他人は同情と冷静な計算を両立させてくれ。
「目の前で苦しんでる人間は、四の五の言わずまず救うんだ!」というもっともらしい道徳意識が強まり、かつ「新たな苦しみを次々に定義し主張するメソッド」が広まってる現代は、短期的な安心安全を追及して、結局は清潔な集団窒息死に向かってるんじゃないですかね。
俺個人の話をしてるんじゃねーよ、「正しさ」という祟り神に目をつけられぬよう息を潜めながらじゃないと他者と触れあえなくなってきた、お前ら文明人の先行きの話だよ。
※ブコメに対して
「今回の食中毒事件じゃ被害者はそんな覚悟なかったろ」って言ってる人たちは、ちゃんと文脈を理解してくれ。
今回の事件は、注意書きがなくて客が覚悟してなかったのは確かに問題だ。だから、表示するようにすべきだと俺も書いてるだろ。
しかし、生肉文化やめろとか食中毒懸念のある料理全部禁止しろとかまで騒いで、正しさと安全の名の下にどんどん締め付けようとしてる人たちはおかしいって意見だよ。
また、食の話は一例にすぎない。
俺の例示の脇が甘かったのかもしれんが、話題の一つでしかない鶏の話にだけ食いつきすぎだろ。「日本人は大抵のことは笑って我慢するが食の問題には怒る」というエスニックジョークの実例みたいになってるじゃん。
この記事の主題は、社会のゼロリスク主義を批判することだ。ゼロリスク主義という総論を問題視するなら、各論でも、食中毒リスクの大雑把な許容という一見道徳的じゃない主張をしないと筋が通らない。
ゼロリスク主義への批判は色んな人がしているが、彼らも具体的な各論になると「正しくない」主張をするのにビビってしまいがちなんだよな。それじゃあダメだよ。感覚的に強く抵抗したくなるような各論事例でこそ総論原則に則って考えないと、どんどん議論が骨抜きになる。(匿名で書く俺もビビってるけどさ)
丸山真男『日本の思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式や精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。
この本の書かれた年代は古いが、現在のSNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というものの精神性の核をとらえているように思える。
例えばこれ
(2)推論的解釈を拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈の多義性に我慢ならず自己の直観的解釈を絶対化する結果となる)、
(3)手応えの確な感覚的日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、
(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手の理論の信憑性を引下げる批判様式、
(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考、
1-5まで、スタンスの左右を問わず現代のtwitterやはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?
これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。
キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会や思想が発展した背景から、思想それ自体を神格化して同じ轍を踏まないために、思想の形式的不備を市民が監視する構造が浸透している。
一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想を適用すると何が便利なの?という発想である。思想それ自体の形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。
なお中国は儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。
日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。
引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性に価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価は一見矛盾するようで、そうでもない。
道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存の価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存の価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のものと解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化を自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。
一方で抽象化・一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。
日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈や意図的な誤訳によって、既存の価値観と同居させる形でイデオロギーを解体して取り込むのである。
個人主義やリベラリズムやフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンスが右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想の各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。
本当に頭が悪いんだな。人格批判も何も同じツリーで何度も説明している前提事項を踏まえずにトラバしてくる奴は頭悪い以外に評価のしようがない
当初主張Aがネットでバズっていたとしてもそれはたまたまその時点でフォーカスを集めていただけであって、広いネットには初めから主張B・主張C・主張Dを主張する人も当然存在するわけだ。またそもそも当初はネットに書き込んでいないけれど個人の意見として主張E・主張Fを持つ人もいるわけ。で主張Aに対して反論A'がぶつけられ、再反論A"が生まれ、また別の主張BとマージされてA"+Bになり、と思ったら全く新しい切り口の主張Eが書き込まれ……みたいに無数の人間が相互に影響しながら無秩序に意見交換していくのがインターネットだろ。
だから「各論が論破されるたび別の論点が出てくる」なんて(実際に論破されているのかはともかく)主観レベルでは当たり前の話で、混沌とした議論の中でお前の主観で見たいものを見ているだけの話なんだよ。それを主観として整理できないのはお前の能力が低いせい。頑張りなさい
長文返信ありがとう。せっかくなんでこちらの記事に返答書いてきます
反論一辺倒になるのは俺も好きではないので相違点を明らかにしながら応答する形で…
自己啓発でよく名前の上がるマズロー、名前は知ってるけど今回の話題の整理にぴったり来るものではなさそう
俺が言ってる「人類が元来持っているもの」は社会契約論の「自然状態」とかロールズの「原初状態」が近いんじゃないかと思う
(我流で考えてるんで他の思想家でぴったり来る何かの概念が思いつかない)
マズローの欠点は z1h4784 の示すとおり欲求の分類が恣意的で曖昧なところで、
この曖昧な分類を元にした「生理的欲求」を否定されることがすなわち俺が再々言ってた「尊厳を損う」ことではないです。言葉足らずだった
とにかく、俺のこの内から来る欲求をメディアの介在で変更可能だと認識したり極端な話薬で安易に除去したりしてほしくない、
こちらの意見、俺と z1h4784 で同意が取れているかと思ってたら違うという認識だったので意外。
特に性に関する話題は誰が誰に対して行動するかで価値が大きく変わるので、本文中や追記に「人によって線引きが異るよ」と主張したつもりだった
先程の夫婦生活から言うと隣の旦那に性欲を向けられるのはたまったもんじゃないと思うが隣の旦那が隣の家の妻に性欲を向けたって問題ない
はてな内では総論では性欲≠性暴力だっていう合意は取れてても、各論に入るとぐちゃぐちゃになるんだよな
今回の話は共産党の表現の自由規制から発したと認識してるんだけど、創作物であるポルノに対して
それらは加害ではないということを主張したい
こういうの、「どの程度のものが不快か」については人によって線引きが違うから調整しなきゃいけないって話なんだろうけど
ネットみたいに情報が制御しやすい環境では、「私はこのくらいの性的刺激が好みです」とリコメンドしたら
それに沿ったコンテンツが見れるくらいの環境を整備するのが、自由主義的でいいような気がする
自分が制限されたら嫌だと思っていることを意に反して制限されたら「勝手に悪に分類された」と感じるだろうが、関係ない物事が制限されてもそうは感じないだろう。
これはそうではなくて、「状況が許されたら自由に享受するのがあるべき姿」なのが非悪(善とまでは言わない) 、「状況が変わってもない方が望ましい」のが悪だと認識してる
「コロナ禍で山岳救助とかやってられるか!入山禁止な!」という例なら、コロナ禍が収まれば当然自由に入山できるのがあるべき姿だ
いじめについては正直どの状況がクリアできればそれがあっても望ましいのか想像もつかない
性的欲求はどうか?個人個人が理想の欲求を享受できる場があれば、それはあるべき姿だと思ってる。それはバーチャル空間のポルノかもしれないし、潤沢に用意されたフィクションかもしれない
共産党の表現規制は、この欲求をあるべきでない姿だと認識しているように見える。それが悪扱いだ
ここに反対したい
とはいえ現在技術的な問題が残っている状態なのでいくつか他者の不快にも配慮しなきゃいけないのは認識がある
近所の小学校の数百メートル先にエロゲ―ショップがあり下校中の小学生がポスターを見ていたりするのはこれまずいんじゃないのと思っている
https://togetter.com/li/1426932
俺としては秋葉原の町並みはゾーニングの中で許容範囲だと思うが、
これが一般的に小学生が一人で移動を許される学区内でもOKかと言うとさすがにNGだ
これがどこまで線引きがOKなのか俺個人も明確な答えがあるわけではないが、
昨今のコンテンツの中でエロではないという線引きが最も合意された例がウマ娘なんではないか
このコンテンツは馬主の意向でエロ二次創作ができない状態だが、現在のところ大きな禍根なく運用がなされている
多少の露出度はあるかもしれないが、このレベルなら健康をアピールしている範囲であって公共の場で認められると俺も思っている
https://gamewith.jp/uma-musume/article/show/287905
https://gamewith.jp/uma-musume/article/show/284507
(水着イベントの衣装とかは12歳以上のレートになっているので少し厳しいかもしれない)
恐らく今後、こうした擦り合わせをどこかで行っていくのだろう
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自分語りは苦手だけど、立場を明確にすると表現の自由はなるべく尊重したい立場
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/m_nsc/status/1449950761505361920
greenT 人類に元から備わっている欲望を勝手に悪に分類するのがおかしい。しかも存在せず社会的に構築されたものとして扱うなどもってのほか。
z1h4784 id:greenT 殺人もいじめもオタク差別も性暴力も人類に元々備わっている欲望「だから」制限しないといけないんですよ
俺(greenT)のブコメへの反応として正しいのか?ってのが疑問なのと
複数の論点を1つのコメントに盛っていて100文字では対応できなさそうなので
確かに差別も性欲も元から備わっているんだが、id:z1h4784 が列挙したものは社会がうまく構築できれば存在しなくていいものが混じってる
この中で暴力や殺人は人が追いつめられる前に介在できるリソースがあればある程度は防げそうだし
オタク差別なるものはそもそもオタクに何の予備知識や情報を入れていなければ発生しないな?
性欲はそういう性質のものではなく、何も知識を入れなくても個人個人に備わっている欲求だ
自由に生きたいとか衛生的に暮らしたいとかそういう欲求と同列のもの
そういうのをあたかも「社会のあり方によっては存在しなくてよいもの」と取り扱うのは尊厳を損う行為だ
「教えさえしなければ自由なぞ与えなくてもよい」と言ってるのと同じだと思ってもらえばいい
上段で「人類に元から備わっている欲望」を分類したが、俺はこれらを「勝手に悪に分類するな」と言い、id:z1h4784 は「備わっているから制限するべき」と言っている
悪に分類するのと制限するのとでは大きな差があるんでいまいち会話が噛み合ってないが、最善の層を組み取って理解してみよう
人類に元から備わっている性質、以下のように列挙したがそれぞれ「制限すべき状況」があるのは理解できる
だが、「制限すべき」ものは「悪」ではない。上記の中で明確に悪なのはいじめくらいだろう。基本は「欲望自体は尊重されるものだが、社会のリソースに限りがあるのでみんなで制限も受け入れましょうね」というスタンスを取るべき
差別の項目は意見が分かれると思うが、こういう場合俺がよく出すエッジケースは入墨差別だ
入墨を入れたからと言ってそれ自体が何か悪さするわけではないが入墨を入れた人間に悪い人間が多いので一律付き合いが制限されるし、入浴も拒否される。これは個人を見ていない明確な差別だ
しかし入墨の人間に恐怖を感じる感情自体はそこは尊重すべきものだと俺は思っている
しかし制限が本当に容認できない場合、例えば手術も何もできなくても容認すべきとまでは思わない。そういうスタンスだ
場合によっては制限が必要と言っても、今現在受けている性欲の扱いはそれを発露する描写だけで忌避される非常に制限のきついものだ。正直ここまで制限を受けるべきものではない
上段でいじめを明確に悪だと分類したが、性欲はそれとは違って人間関係の維持に良好な影響をもたらすものだからだ
そこが端的に現れるのが夫婦関係だと思うが、「夫にいじめられないと/暴力を受けないと夫婦関係が維持できない」という悩みを持つ夫婦はほぼ見たことないが
「夫に性欲を向けられないと夫婦関係が維持できない」という悩みは古今東西枚挙がないくらい見る
つまり、性欲の問題は「適切な対象には向けられたいが不適切な対象には向けられたくない」という性質から発生するもので
男女の差はそこの対象の適切性が広かったり狭かったりするから発生するものなのだろう
んで、「どの対象が適切なのか」は人によるに決まってるので、他人の適不適に口を出すのが不当なのはここからわかるはず
先程の夫婦生活から言うと隣の旦那に性欲を向けられるのはたまったもんじゃないと思うが隣の旦那が隣の家の妻に性欲を向けたって問題ない
ここまで説明して、やっとブコメの元記事となるツイートの話題に戻るわけだが
日本社会で性暴力や性搾取は許されないっていう合意なんてもう既にあって、むしろ搾取や暴力を伴わない性欲や性行動まで一緒に悪いもの、存在しないものにしようとする理想像の押し付けこそ性虐待だし、性暴力を受けた子供や男性や女性が口を噤むことに繋がっているんじゃないか
という結論が導き出せるはず
そこからid:z1h4784のブコメへの回答としては
→ここが元ツイートの更に大元の話題、共産党の表現規制の話に繋がっている
[おまけ]
思ったより多く反応があったので人気コメントに反応。別に人気コメ以外見てないわけではないのでご容赦ください
saiusaruzzz ド直球で言うと「男は女を犯すことが可能だが、逆はかなり難しい」けど、男はこの前提を認めて話すことが難しく、女性はこの肌感覚ありきで話すので、最初から話がまったく噛み合っていないんじゃないかなと最近思う
非対称性は事実あるし知識は持っているが、肌感覚は持ちようがないので制限のある中で喋ってる意識はある
ただ女の肌感覚も論理的に落としこまれている訳ではないなとは感じていて、
犯し犯される肉体の非対称性の範疇外にも性嫌悪を表出している例がある。ここはきちんと論理的でないことを認識してから議論したい
→好例としては女湯に入る男児の視線を気にする話。当然精通していない年齢だし力で十分勝てる年齢の眼差しにも嫌悪感を抱く発言が多い
俺も女児にちんこガン見されて失礼だなとは思うけどそこは年齢が低いからしかたないと受け入れている
肉体の差だけではない、社会的に構築された性への嫌悪が含まれているように感じる
mahal 性欲自体の問題より、ポルノの規制が「予防戦争」的なものという性質の問題が重い気はするのよね。予防戦争に勝利というゴールは無いから、それにフリーハンドを与えると永久機関で動くゴールポストが出来てしまう
ぶっちゃけ、本文に出した入墨差別についても予防的な防衛意識から出ているものだ
ポルノを好む人間の性逸脱を警戒するのも、もっと踏みこむと加害の意識が証明できもしないのに女性用トイレや風呂から男性を排除するのも、
差別は許容されうる範囲もあるというのが俺の見解だが、昨今の性欲の扱われ方は容認の範囲を越えている
t-oblate 性暴力や性虐待は暴力や虐待が悪いのであって性が悪いわけじゃない、つか暴力や虐待は性がつかなくても悪い、ということを理解してもらうのは結構大変。
そう、大変なんですよね
暴力や虐待は性がつかないものも包括的に社会問題とすべきなんだけど
どうも性にかかわるものは個人の中で嫌悪感が強いのか、分離して議論されやすい
aquatofana 性欲を全て制限すべきとは思わないが、刑法で「一方的に性行為を強要した際、された側が全力で逆らわなければ無罪」なのはむしろ社会の管理が弱い証拠では。性欲が安易に暴力と結びつくのをなんとか止める必要がある
→性犯罪は支配欲から来るという話には繋がっていない。ここは後のコメントにも記載
frothmouth 性欲=性暴力みたいな認識の人たちがいるのな。まずそこからか/性暴力を抑制するためには国家の警察力を高める方向でいくしかなくて、性欲を抑制する方向性は正直無理だと思う。また、教育だけで性犯罪は消えない
はてな内では総論では性欲≠性暴力だっていう合意は取れてても、各論に入るとぐちゃぐちゃになるんだよな
今回の話は共産党の表現の自由規制から発したと認識してるんだけど、創作物であるポルノに対して
それらは加害ではないということを主張したい
NOV1975 ここで殺人を本来欲求ではないって扱うのって、人間と社会におけるバグ的な存在を仮定からすっ飛ばす話で、それで済むなら性犯罪も大抵バグ(一定の度を越すのが)で済みそうではある
平成22年の犯罪白書でデータはやや古いが殺人とその動機の分類のデータが↓9ページに見える
https://www.moj.go.jp/content/000112398.pdf
他4種類の「報復・怨恨、暴力団の勢力争い等、痴情・異性関係トラブル、介護・養育疲れ」を含めたTop5で8割を占めている
憤懣や怨恨、介護疲れなどの動機を見て、本来欲求によって起こったことと思えるだろうか
これらは様々な悪条件が重ならなければ生じなかったものだと思うし、
今の性欲の議論のようにメディアの悪影響などがなければ発生しなかったとも思えない
そういうわけで、今回の俺の議論では社会構築されたものと扱っている
getcha “いじめを明確に悪だと分類したが、性欲はそれとは違って人間関係の維持に良好な影響をもたらす” / 自民支持者のTweetの「あなたの姓になって嬉しいわ。と女性が喜ぶので論理的に夫婦別姓は反対」を思い出した。
そこでもう一歩進みたいのだけど、選択的夫婦別姓は同姓を選ぶ権利も、別姓を選ぶ権利も平等に選ぶ自由があるというのが建前だったはず
同姓を選ぶ人間がメディアに出るのは抑圧だという論調は踏みこみすぎだ。ドラえもんの映画でしずかちゃんが同姓を選んでる描写に反発があったけど、あれは自由から逸脱していてよくない例だと思う
今、性欲の扱いは性欲を発露したいという欲求と発露を見たくない欲求が平等で自由に選べる状況とは思えない
はてなの中には性欲の発露はクローゼットの中のみ許容されて公的な場では出していけないとまで主張する者もいる
greenbuddha138 性暴力の大半は性欲より支配欲が根源じゃないかな ʕ•̫͡•ʕ*̫͡*ʕ•͓͡•ʔ-̫͡-ʕ•̫͡•ʔ*̫͡*ʔ-̫͡-ʔ
性犯罪は加害者の性指向が色濃く反映されすぎてて、支派欲ベースで考えるには分離が困難なように思う
端的に言うと、「とにかく弱い者が困るところを見たい」というのなら、痴漢はひったくり同様もっと老人の被害者が増えてもいい
rirukarinka 純粋な性欲=内心の自由は問題なくて、合意がある場合を除いて、性欲を表明することは推奨されなくていい。/夫の性欲が〜のくだり、男女で非対称がすごい例えだなぁ。その辺りから非物理暴力の匂いしてる
内心の自由を狭く捉えすぎ。心では思っていても他者に表出した瞬間に断罪されるのであれば、それは自由とは言えないと考えてる
「夫の性欲が〜のくだり、男女で非対称がすごい例えだなぁ」
男女の非対称性はあるとは思っている。ここは非対称性は必ずあるものなので、これがない例えを出すのが難しい
どこら辺に暴力性が?乱暴な議論はしたくないので、威圧的な口調などが伝わって言いたいことが言えない状況だったら指摘してほしい
h5dhn9k
h5dhn9k もっとシンプルに。食欲(性欲)を持っている事は自然だ。盗み食い,食い逃げが犯罪の様に、相手の合意が得られない性行動は基本的に全て抑えられるべき。で良いと思うが
このブコメも含め、性欲を食欲・睡眠欲と混ぜて3大欲求などとくくっている例があるが、俺このくくり方は雑であまり議論に資するところ少ないと思う
ぶっちゃけ睡眠欲って欲望か?運動しまくって疲れて休みたい状態を「休息欲がある」なんて言わないはず
レイヤーが違うものをくくっているのでこれで議論は進めづらいが、あえてブコメに乗っかるとすると
ただし食欲を見たす欲求を公的な場で表出しても何も問題ないはず
金銭を支払って食欲を見たす行為が社会の風紀を乱すとも言われてない
ので、性欲は過剰に制限されていることはわかるはず
→ただし性欲は人間関係と密接にかかわっているので、食欲並に何でもありにはできないとは思っている
これはレイヤーの違う3大欲求を似たようなものとしてくくっているためにバグが生じている
===== おまけ =====
z1h4784 こんなに深く考えてくれて嬉しい。あとで返信を書きます。とりあえずオタク差別を入れたのは、はてブで絶対悪として扱われているテーマだからです。単に差別とすると否定的でない人もいるので
元ブコメでは若干喧嘩腰に書いたのに誠実に回答してくれてありがとうございます
返信については必ず目を通します
いいところは 1,000円からで注文できる(おひとりさま向け)ことと、お子様ランチ
の充実さ。増田のいうことでくりかえし申し訳ないけど、本当にそう
> 配達最低料金が 1,000円 (昼間は 1,500円) これはひとりぶんだけを頼むには大きい要素
そうなのよ。ひとりぶんというのは、他社だとサービス料だとか配送量とかでなかなか厳しい
テイクアウトとデリバリーの値段差が他社に比べて少ないのもよいところ。他社だと
現地390円のカツ丼がデリバリーだと720円したりするんよ?
> 火を通したお魚のメニューが極端に少ない(というか2種しかない)
それはそう思う。鶏肉を西京焼きする前になんか焼くもんあるやろ?
まあどうしてもなら最低でも幕の内はあるし
> 悪いところ
> 2. …
うまいまずい好み不好みはあると思うけど、ファミレス品質で特に悪いところはない
逆に、悪いところあれば聞きたい。他増田そういうのつつくの得意だろうから教えて
あとついでに推薦するデリバリー店も
これはやや弱点。米はふつうか並。。なおカレー系は別の米(低水準)を使ってそう(増田調べ n=1)
> 飽きるかも
飽きるね
適当なこと言ってたらなんかケチつけてやろうかと思ったけど、優先順位の違いはともかくほぼ同感であった
まあサービス良すぎて近々なくなりそうとも思う