はてなキーワード: ブランコとは
きっかけ
はじめてアプリを使った。田舎の片隅で20ちょいの年数を生きてきて、彼氏欲しいな〜って思ったこともあったけど、嫌な思いもしたのである時から興味を持つことをやめた。私の好きなものは推しと推しカプとBLで、お金も仕事も自信ないし、いずれ適当に死のうと思ってその日その日が過ぎるのを淡々と待っていたから。
それはTwitterのフォロワーがマッチングアプリで男漁り(言い方)をしてるのを上げていたから。
そのとき私は気付いた。(私もマッチングアプリが使える年齢じゃん)と。そう思ったら俄然興味が湧いてきた。話のネタになればなーって思って動いた。
とりあえず顔面登録しなくても使えて、漫画とアニメと、もうオタク感満載のプロフィールを適当に。
地方都市で人口が少ないからか色んな人とマッチングした。歳上、歳下、みんな趣味は似てたけど、タメ口だった。なんならヤリモク(性行為目的)っぽいひともちらほらいて、適当に2、3通やりあったら逃げてた。どうやらアプリを使う人は女性が少ないらしく、蹴ってもそれなりにアポが来た。
登録して2、3日が経ち、歳上歳下問わずに初回でタメ口っていうのがどうも苦手で、そろそろ退会しようかなと思ってた矢先に
「はじめまして!」
と来たのが彼だった。
恥ずかしながらタメ口の男どもに疲れていた私はすぐにやり取りをした。チョロい
同い年、同じ市内、なんなら読書の趣味までそれなりに合った。今まで話した人の中で一番嫌な気持ちにならなかった。
初会編
それは彼も同じだったようで、すぐに「会わないか」と言う話になった。場所は県内で一番大きな書店。私は行きたい想いと、知らない男に会うっていう怖さで迷った。アプリ使っておいて何を言うかって話なのだけれど。
正直私は女としてはガタイがいい方で、可愛くもない、美人じゃないし、昔付き合った男には「痩せたら可愛い」と言われたくらいだ。今でも思い出すだけで泣きそうになる程度にはトラウマだ。悪かったなデカくて。
振るいにかけるつもりで「私可愛くないので期待しないでください」って送った。
(おもしれえ奴)
殺されたりしたらやばいから友人に連絡して、次の日までLINEがなかったらという条件付きで警察に通報を頼んだ。男の車には乗るなって念を押された。
彼には車で迎えに行こうかって聞かれたが、流石に怖かったので辞退した。
その日の天気と彼の服装はよく覚えてる。春先にしては冷たい雨が降ってて、彼はしま〇らっぽいパーカーを着てた。めっちゃ田舎の男の子だった。
「A駅からです」
最初はそんなやり取りからだろうなーって思ったけどつい最寄り駅を答えるなど阿呆をやらかす私。
すると彼
「A駅ってことはB中学でした?」
「どうして?」
「いや、俺もそこなので」
「…………」
確かに田舎だからありえないことでは無いが、まさかそんな事あるとは思わなかった。
私の通っていた中学はそれなりのマンモス校で、更に私は2年生から不登校になっていたので、たとえ同じクラスだったとしても知るはずはないのだ。さらに言うと前述した元彼と同じ部活だったという。
同じ出身校という事であっという間に緊張は解けて、そのまま書店を三時間散策した。休憩無しだったので流石に疲れた。
そろそろ帰ろうかなと思って切り出そうとしたところ、彼から「お寿司、好きですか?この辺に食べログ1位の美味しいお店があって」と切り出された。
私は迷った。なぜなら私は
そして迷う私に彼が追加する
「俺の奢りで」
気が付いたら友人の忠告も忘れて車に乗ってた。寿司って怖い。食べログ1位のお寿司って行ったことないもん。行きたいじゃん。加えてこの男、
このあと持ち帰られたらどうしようと思った。もう持ち帰られても私が悪いんだけど。
全身しま〇らの男に持ち帰られたらネタになるなとか思いながら寿司食べてた。彼にもしま〇らに悪いな。
お寿司はめちゃくちゃ美味しかった。食べログ1位だった。ちょっといいお店だし、初めてだし、少しは気を使った。食べる方なので。彼は気にせずニコニコ食べてた。チワワスマイル全開だった。
そのあと、心配してたことは起こらなかった。自宅の最寄り駅で下ろしてもらって、次の予定を取り付けた。
後日聞いたら彼は、「そんなこと考えてなかった」そうで、素直な人間代表の私はそうなんだ……と助手席で思ったのだった。
帰宅後、今までは開きたいと思わなかった中学のアルバムを開いた。確かにそこには聞かされた名前と同じ名前の彼がチワワスマイルで載っていた。
少しだけ楽しみが増えたなとこの時は思った。
2回目
週を跨いで二回目。彼の車で水族館に行くことになった。(2度目にして既に彼に対する警戒感は多少薄れていた。)
致命的なまでに人の顔を覚えるのが苦手な私は、1週間で先週会った男の顔を完全に忘れていた。
覚えているのは名前と、強めの車の芳香剤の匂い。あとはやたら笑顔が可愛かったという印象だけだった。
以前降ろしてもらった駅で拾ってもらうことになっていたのだが、はて、車も覚えてないのだ。どうしようかと思っていた。
顔覚えの悪い私でも、こちらに向かって歩いてくる男が居れば流石にわかった。
当日の彼はジャケットを着ていた。
彼を見た時に私は息が止まった。
そしてこの私、三度の飯と同じくらいに男のジャケットが好きなオタクだ。推しカプがデートでジャケット着てたら丸一日元気で居られるくらいには好きだ。
目の前にはオフィスカジュアルな男がいる。例えるなら相棒の神戸尊である。しかも前回はしま〇らチワワだった訳で……。そんなギャップにテンションが上がらないわけがなかった。
一方の私、前回の彼に合わせてラフ目にしてきたため、互いに格好が入れ替わった形になった。格好を例えるなら相棒の亀山薫みたいな格好をしていた。
さて、無事顔を忘れた私だったが、話してるうちに(あー、こんな感じだったな。この人だ)と思い出し始めた。向こうは覚えてたのにこっちは覚えてないとは失礼な話だが、体質だからしょうがないのだ。
なお、このチワワの顔をふんわり思い浮かべられるようになるのは付き合って3ヶ月経つくらいになってからだ。車の顔の方が先に覚えられた。ごめんチワワ。
2度目は正直あまり覚えていない。泳いでた魚は美味しそうだとか、アジは沖と港とで種類が違うとか、港でブリも釣れるとか、話していた気がする。
「今度天気が良ければ釣りに行きますか」って言われた気がする。
それは付き合って早々に実現するのだけれど、そこで私は魚を素手で掴んだまま帰宅するのだった。
彼は何故か感動していた。
話が脱線した。あらかた水族館を見終わって、天気がいいから浜に行こうって言われた。
めちゃくちゃ天気が良かった。カップルが山のようにいた。あまりにも居すぎて見てるこっちが恥ずかしくなった。
それは向こうも同じだったようで、
「わかる」
夕食は誘われたけど、今回は辞退した。理由は忘れたけど。
つぎはご飯を食べようって話になって、知人の店に行きましょうって私が提案した。
拾ってくれた場所で下ろしてもらって、「また来週」って挨拶した。
久しぶりに楽しかったので、友人に洗いざらい報告して、その夜は珍しくよく眠れたと思う。
3回目
ここまででかかった日数は僅か二週間。
二週間で知らないチワワ男と毎日やり取りする仲になったのだ。面白い話である。
ここまでくると次のイベントはそう
「告白」
永遠に私と縁がなかったイベントである。なんなら告白された事はなく、男を見る目もない。可愛くないと家族にも男にも言われ続けて自尊心なんてほとんど残っていない二十代前半で既に出涸らしのような女である。
この頃の私の検索履歴は「付き合ってない 3回目 デート」でいっぱいだった。頭の中はなんでだらけだった。
今回は飲む予定だったので互いに最寄り駅で合流する手筈になっていた。
当たり前のようにチワワの顔は忘れていた。
出かける前にそう彼から連絡が来ていた。
田舎だから駅で降りる人達なんてほとんど学生で、だからなんとなく彼を見つけられた。
その日の彼は残念ながらしま〇らboyに戻っていた。
その時私はなんとなく気付いた。
話が逸れるが、私の実弟はものすごくオシャレが好きな男だ。私なんかよりずっと靴を持ってる。
そんな訳で、イマドキの若い男ってここぞと言う時にはめちゃくちゃかっこいい服着てくるイメージしかなくて、色んな意味でびっくりした。
おすそ分けのタケノコを持っていた私が言えることではないけれど。
初めての異性とのサシ飲みは、本当に友人達とのものと代わり映えもなく、互いに「酒は飲めるがあまり飲む必要はない」というスタンス通りに2、3杯飲んで終わった。
電車の時間まで40分くらい。最後に頼んだ梅酒ロックが効いてふわふわになりながら、「おさんぽすき!!(本当に好き)」とハイテンションで了承した。
散歩と言っても田舎の9時は真っ暗で、ぽつぽつとある街頭の下を酔っ払いのテンションで学生時代の話なんかしながら歩いていく。気がつけば電車の時間まで20分を切ってて、次の電車がいつあるのか把握していない私は心配になった。
「そろそろ戻らないと電車間に合いませんよ」
「あ、公園がある!もう少しだけいいですか」
(なんで草ボーボーの公園に入っちゃうかな〜)と当時は思ったのだけど、今思えばタイミングを探してたのかなと思ってる。
結局ブランコに座ったまま雑談に突入。もう電車は間に合わない時間帯だった。
「俺、もうこのアプリ辞めようと思ってて。」
「私もそろっと辞める予定です。変な人と沢山会ったし!勉強になりました」
これは本当。彼と会って最後は辞めるつもりだったし、身の丈に合わないと思ったから。
彼はそのまま隣でスマホを開いて退会処理を始めた。
気が早いな〜と思って見てたら
「あの、アプリ消したし、よかったら付き合って貰えませんか」
「はい」
なんか流れるように告白されて、私も脳みそが認識する前に反射で答えてた。ついでにどうしたらいいか分からなくて握手した。
電車の踏切の音が聞こえて、乗る予定だった電車が華麗に通り過ぎてった。
なんかもっとこう、告白って、少女漫画みたいなキラキラシチュエーションで、もっとゆっくり時間が過ぎるのを感じるものだと思ってた。
現実は草ボーボーの公園だし、足は寒いし、目の前にいたのは嬉しそうなしま〇らチワワだった。
帰宅後、LI〇Eで「これからよろしくお願いします」と送ったら「うん!こちらこそよろしく😁」ときて、2週間の間全く外れなかったチャットツールでの敬語が外れたので、距離感の詰め方に驚きながらもようやく彼氏が出来たことを実感した。
そんな子と半年も付き合ってる。
あれ? ブランコじゃないの?
普段はアニメの劇場版くらいしか見ないのだが、割引チケットが使えずに余ったのでせっかくならとはてブで見かけたこの作品をと前日に思い立ち、翌朝大学へ行く前に見た。
原作の黒澤明作品については全く、有名だという雪の中公園のブランコをこぐ老人の画のことなども全く知らず、そもそも映画に全く明るくない自分である。
ヒーローが世界ごと我々を救いに来る話でない、青春の燦々と輝く汗を我々に振りまく話でない。この物語は小さな人生を、普遍的な人間の怠惰を認めながら、挑戦への契機を残してくれる、まさしく鑑賞者を生かしてくれるものだった。
そんな小さくて地味な物語を2時間も飽きずに見ることができるものかと、ヒューマニズムを描いたドラマなど見ることはないだろうと思っていたが、原作から引き継がれた構成の巧みさ、戦後イギリスの生活の目新しさ、心の底まで侵入する繊細な画面作り、空想を現実に構築する演技、それらすべてに圧倒されてあっという間に終幕であった。
結局何も変わらないかもしれないけれど、長い人生の中何度目標を見失ってもいいから、ふとした時に誰かのことを思い出して何か変化を起こすことができれば、きっと誰かに何かを残すことができる、そう控えめに背中にぬくもりをくれた。
増田って何か始めるのにちょうどいいよね、自分を背負わずに目標を書けるから、達成できなくても罪悪感がない。
俺は今年こそ、こんな感じのアウトプットを定期的にやる。今年こそ。
30代
運動神経は下の上くらい
おっさんとか不摂生してる奴はなにより起き上がれない問題があると思う
そんなことある?と思うくらい起き上がれなくて笑けてくる
スノボでは倒れる→起き上がるは何回もやるから起き上がれないと詰む
予めYotubeで起き上がり方を確認するべきかも、俺はそれでも起き上がりに全体力を持っていかれたけど
手が冷たくて死んでしまう
そして余計に起き上がれなくなる
運動不足のおっさんにはボードを足で持ち上げるだけで重労働だった
リフト乗る時に片足で滑ると思うんだけど、アレで体力が削られる
尾骶骨を何度も強打した
尻の肉がいい感じに付いてる人はいいだろうけど、ある程度体重があるおっさんみたいな人は尻と、あと頭が痛いかもしれない
雪の柔らかさにもよるけどスキー場って結構踏み固められてるしね
なお、逆向きの木の葉はめちゃくちゃ難しかった
これも結局センスだと思うんだけど、つま先に重心をかける感覚が中々つかめなかった
でもこれができないとS字できないからなあ
ボードはどうも斜面の方向が一定じゃないとバランスを取られて余計に難しいから
そこそこ傾斜がついた初心者向けのコースが一番やりやすいと思う
案外できた
みたいな
わかったけど、人によって滑り方がぜんぜん違う、どれが正解かわからない
上手い人の動画を見ると結構スピード出てるからアレを参考にして良いのかもわからない
ゆっくりS字してる女児とか居るんだけど、ああいう風にやりたい
個人的にはスキーより簡単だと感じたけど失敗したら横にすっ飛んでいきそうで怖い
スキーの怖さは足折れそうになるところだけど、ボードは別の怖さがある
次点で首筋
怪我なくてよかった
突っ込みそうで怖い
初心者マークつけたい
これが淘汰か
三々九度の盃(日本式)はアルコールアレルギーに死ねっていってる あと「角隠し」とか「白無垢からのお色直し」とか女性と男性の自我をなくしてイエのものにする失礼な感じがある
日本人は社会や家庭に甘えやすい、成熟して社会に貢献しにくい(幼形成熟というが本当に成熟している成人がどれだけいるか)、
自立をうながす式典(つまりイニシエーション)の一つとして成人式や披露宴があると考えればよいと思うよ
あとハイジ的ブランコより大きなゴンドラもけっこうやり玉に挙がってたけど
カラオケにしろ演説にしろ、本人がいままで世話になった人を客として呼んで
お礼になんとか楽しませたいならなんでもありジャンと思うよ
うちのばあちゃん20年以上長唄やってて高砂はまかせて!っていってたけど
アメリカ人の友達「偽物の教会で、お葬式の曲が流れる不思議な結婚式に出たのよ」「それ、日本の標準的結婚式です…」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1956479
これはつまり「ブライダル業界の結婚式」だが、なんでこうなったのか?。
今主流のこういう結婚式の始まりは1970年代なんだが、その元は60年代にある。
日本のイエ制度は明治に出来たようなもんだが(武家を除く)、昭和初期には堅固なものとなり、更に国家と天皇がイエに擬製されて人間はそこから逃れる術はほぼ無かった。ゲマインシャフトと国家有機体論の合体だ。
戦争に負けるとおせっかい焼きのアメリカが自由の形だけを作って置いていった。国家権力だけは縛ったからあとは勝手に使うがよいと。
それで戦後も時代が下り生活レベルが向上すると段々と生活や人生上の自由が増大化していった。
イエというのは家督であり、継げるのは長男一人だけだ。しかしその他の女子や次男以下も生き方が制限された。
長男は適齢期になると親が勝手に縁談をまとめて「あの家の娘と一緒になれ」。断った場合は勘当されて死ねと言われる。
次男以下は中学(尋常小学校)を出ると「小僧」の勤め先を親が決めてくるので、そこに入る。小僧っていうのは商家に住込みの店員見習いだ。然程の長時間労働ではないが「仕事」ではなくて24時間主人に仕える事が求められる。全人格労働だ。
こういう風習があったので会社勤めが一般化しても昭和中期まで独身者は会社の寮に住込みが基本だった。勿論集団生活で雑居だ。プライバシーとかいう事を気にする者はアメリカかぶれの不良である。
女子は妙齢になるとやはり親が勝手に嫁ぐ先を決める。断るのはアメリカかぶれの不良である。そもそも断ると生きていく術が無い。本人が何とかなっても家族が村八分になる。
商家に女版小僧として働くというケースもあった。勿論住込みの全人格労働だ。これも妙齢になると主人が見合いの相手を見つけてくるので恋愛期間なく結婚せねばならない。
戦後生まれの団塊世代が成人する60年代末になると都会ではそういう古いイエに縛られない核家族が増え、子供用個室が出来たりもした。
でもそれは都会の話で、田舎の方ではまだ古いイエに縛られたままの人間が多かったのだ。
例えば中島みゆきの『ファイト』は1982年の歌だが、「薄情もんが田舎の町に砂かけんのか、出てくならお前の身内住めんようにしちゃる」と言われて長距離切符燃やそうとしたが出来なかった。東京行の文字が滲んだ切符をまだ持ってる、っていう節がある。
なんでこんなキツイ歌詞を考えつくの…と思うがこれは中島みゆきの深夜ラジオに送られて来たリスナーのハガキの内容を切り貼りした歌詞なんである。
つまり1970年代末~1980年代頭にもこういう思いをした人は居たという事だ。
「ファイト」の語感だけで元気を振るう歌だと思っていると衝撃を受ける事と思う。苦難や挫折が生々しいのだ。
勉強を頑張って東京の大学に進む事が出来るように先生に親を説得してもらう(余計な勉強なんかして更に大学に進もうなんて親不孝のアメリカかぶれの不良である)。
集団就職に参加する。
一度商家に入り、数年奉仕し18or20歳の年齢制限をクリアして暇を貰い、水商売に入る(増田の親のパターン。単に不良である)。
そういう状況だったから古い世間では自由恋愛=不良であった。それは流行恋愛歌に乗せられて人の道を踏み外すアメリカかぶれの不良である。
一方、若者からすれば自由恋愛とは誰と恋愛してもいいよという状態の事だけじゃなくて因習から逃れる解放のテーゼだ。
人は好きな人と結ばれる権利がある。それを称揚すべきである。ロマンチックラブイデオロギーだ。
そういう訳で沢山のフォークソングで自由恋愛が称揚されるようになった。1960年代には社会への異議申し立てという歌詞が多かったのが、70年代になると安保闘争の挫折も相俟って現状肯定、恋愛称揚などのポジティブ系にシフトしていく。
有名なのが吉田拓郎の『結婚しようよ』1972年で、僕の髪が伸びたらチャペルで結婚式を挙げよう、というもの。
チャペルはキリスト教会の礼拝場の事なのだが、実際に多く使われるのはミッション系大学の礼拝場だ。要するに学生結婚したいねという欲求を惹起する歌だ。
もう一つ有名で披露宴でも使われるのがチェリッシュの『てんとうむしのサンバ』(1973年)で、夢の国の森の小さな教会で結婚式を挙げました、という歌詞。
こういう曲のヒットにより「小さなキリスト教会での挙式」というのが憧れとなり、実際にミッション系大学併設の教会での挙式が多く行われた。因みに式の前に洗礼を行って形だけでも「キリスト教者」になっておく。
ただ、ミッション校の教会は限られていてパイが少ないし両方の親族が沢山来たら礼拝堂に入らない。
でもそれがまた「イエvs.イエ」の結婚式へのアンチテーゼとして働いた訳だ。
なんでキリスト教会なの?と言えば、それは第一に西欧への憧れであり、第二に「日本古来の神式、仏式でないから」だ。神式、仏式にはイエの因習の表象をまとっていた。
今は厳かな神式も人気で特に鎌倉鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前式は人気だ。これには団塊/全共闘の残した軽いノリへのアンチテーゼで権威的なものを好むというテイストもあるだろう。
でも今の神前式を選ぶのと60年代の仏/神前式は意味が違うのだ。現代のは一度因習との結びつきが嫌われて廃れ死んだ後に、「博物館入り」して個人にとって安全になったものだ。安全になったので「自由意思で選択」しているのである。
「花嫁は夜汽車に乗ってとついでいくの」という『花嫁』(はしだのりひことクライマックス 1971年)なんか歌詞をよく確認してみたら駆け落ちなのな。こいつを披露宴で掛けるのはヤバそうだ。
それ以前の結婚式は仏式/神前とあったが、特に都市部だと著名な特徴があった。
それは「祝言(しゅうげん)として能の演目『高砂』の一節の謡いを仲人がやる」という事。俗にいう「高砂や~」である。
https://www.youtube.com/watch?v=Zm1Se2fRnvU
これをこの調子で仲人が謡う。これは都市部では必ずやる。絶対にやる。だから仲人はこの祝言を暗記して慣れない能の謡い方を練習した。それを笑った落語もある。「高砂や~」って練習してる時に「とうふ~」と豆腐売りが来ちゃって混じって覚えちゃうのな。
これは恐らく江戸時代後期には一般化していたと考えられるが、廃れた時期ははっきりしてて団塊世代の適齢期だ。
ちょっと脱線だが老松町という地名があったり地名変更で無くなったが祭りの町内会名や祭りの神輿や山車の提灯なんかで出てきたりする。
でも昔は結婚式では「必ず」高砂の祝言を謡ったのだ。『高砂』の内容とは、神主が兵庫県の高砂で老女老男に出会い、我らは片や高砂の、片や大阪市住之江区の住吉大社の老松だと言われる。小舟に乗って去った老夫婦の後を追って船で住吉に向かうと、住吉明神が神々しい舞を見せた、というものだ。
まぁ今は埋め立てで遥か内陸になってしまって阪堺電軌じゃないと行けませんがね…。
この「老松」なのですよ。昔は結婚式で必ず仲人が高砂を謡った。故に門出の歌なのですな。
関東大震災で下町が壊滅すると多くの人が板橋区とか池袋、世田谷、杉並などの郊外に移り住んだ。すると農村の人口が増えて村から町になり区画も分割される。そこでめでたい瑞祥地名として新婚の門出と長寿と願って老松町というのが増えた。
でもその後字面が年寄臭いって事で消えてしまった。『高砂』が廃れた現在から見るとやっぱ年寄臭く見えるけど、それは習俗が途絶えて常識が消えたせいなんでありますな。
会場が教会だったり披露宴でフォークソングとか歌うし高砂やはやらないしで、この新しい結婚式に保守的な人らは憤慨していた。
どのくらいかというと、わざわざ入試問題に新型披露宴を批判したり、親戚のオヤジがマイクを渡されてフォークソング披露宴への憤懣ぶちまける説教演説したのを現代文の問題で出したりするくらい。そんなのを入試に出すなよ。過去問としてアーカイブされて10年以上参照されるんだぞ。
しかし芸能人などが次々とキリスト教式で挙式するようになる。するとこれは大きな需要であるから「ブライダル業界」が立ち上がり、洗礼とかがない宗教的に気軽なキリスト教式結婚式を提供するようになったのだ。それまでは互助会のような組織が主だった。
ホテルなどでの挙式よりは断然安い。しかし教会での式よりは断然高い。
だから団塊のイエへの抵抗から始まったブームが大きくなって70年代中頃に業界化し、80年代には完全に一般化してこっちが主流になったのである。だが80年代には色々行き過ぎて珍妙な式が行われており、それでまた年配者の顰蹙を買ったようだ。ハイジみたいなブランコで新郎新婦が登場とかラブソングカラオケ熱唱とか色々おかしい。
だから「なんで偽物の教会でやるの?」と聞かれたら「それが昔は近代的な解放だったんだよ」「その意味が社会から消えても形式と業界がそのままになってるんだよ」「貴方の国の若い人らもハングルやひらがなを混ぜて書く事があるけど、それも同じ抑圧からのサブカルチャー的解放の意味があるんじゃないの」と言えばよい。
それとは別にやっぱあの形式の結婚式にはダサさを感じるし、偽物の教会も中途半端で教会建築への理解の少なさが出ちゃってる。標準的形式の練り直しはすべき時期かもしんない。
フォークリフトをブランコに 8歳女児が死亡 群馬・前橋(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/e82c5f92a7bcd74532d39d5b370fedc62487d40f
このニュースで「子供と遊んであげてた優しい父親が起こしてしまった不幸な事故なんだ😭」ってブコメがトップなの頭おかしすぎんか
そもそもリフトで上げた重量物の真下に入るとか禁止行為だと知ってる知らんとか以前に本能で危険を感じて怖い
そんなところに入れる奴は頭の線が何本か切れてるとしか思えないし、自分の子供にやらせるとか純粋なキチガイ行為
まだ事故に見せかけて子供を殺そうとしてましたって方が納得できるよ
36歳既婚女、子あり、地方出身、在住。高校の時付き合っていた男が未だに忘れられない。
忘れられないけど誰にも言えないのでここに書いてみる。
その男=(Sとする)は小学生からの友達で小中のうちに2回告白してくれた。
その時は友達で仲良くしていたけど全く付き合う気持ちにはならなかったので断るでもなく誤魔化して友達のままでいようとした。
趣味が合うし話しやすいし、正直に言うと私のことが好きだということも若干利用してわがままなことも言っても許される空気が楽だった。
高校のときに私は別の人と付き合っていたがSとはよく遊んでいて普通に家でと遊んでいた。
いきなりキスをされて押し倒されたがビックリして抵抗も受け入れも何もできずに固まってしまった。しかしそのまま先には進まず、Sもバツの悪そうな顔をして帰っていった。
そんなことがあっても、しばらくすると私は友達でいてほしくて何もなかったかのように振る舞ってまた同じ関係に戻った。そのキスについても何も触れなかった。Sも普通にしてくれていた。
しばらくして私は付き合っていた彼氏とも別れた。そのときに、やっとSのことがすきなのかもと気づいた。
別の高校に通っていたので一週間に一度くらいしか会えなかったが丁度良く楽しかった。
バイトもしていたし高校も遠かったし受験のために塾も行っていたので忙しかったけど、会える時間を作った。散歩したり、ほしいインディーズバンドのCDを色んなお店を回って探し回ったり、ブランコにのってコンビニのおでんを食べたり、それだけで本当に楽しかった。
段々とSが私を束縛し始めた。
連絡を5分以内に返してほしい。
過去の男の話を想起させるような話をするな。
などなど、それまで私のことが好きな何でも言うことをきいてくれる幼馴染の男の子。であったSが彼氏になったことで全然言うことを聞いてくれないキレると怖い男になってしまった。
極めつけが、とにかくセックスをしたがること。セックスをしているときだけは満たされる。私の過去を気にしなくてよくなる。と言い、とにかく毎日セックスをした。
一日の少しの時間でも隙間があればSの家に行かなければならなかった。行かなければ、死にたい、殺してほしい。というほど落ち込んで立て直すのにかなりの時間が必要だったから、行くしかなかった。
そんな毎日が大変だったのにも関わらず、私もSに依存していった。
こんなに愛されるなんて二度とないことかもしれない。他の人と付き合ってももう満足できないかもしれない。と思った。
Sが一緒に死にたいと私に言うと、私もそうしたいと思うようになっていった。
依存が加速していくと、この瞬間を永遠にしたくなる、だから死にたい、みたいな、よくわからない感覚になっていくらしい。
忘れられないのは、セックスをしているときの彼の顔。苦しそうな幸せそうな顔を毎回していた。
その顔が今でもフラッシュバックする。
お互い相当依存していたが、大学にいくようになり、新しい世界に入ると、段々洗脳のようなものが薄れてきて、やっぱりこの関係は良くないよな。と思うようになった。
それをそのまま伝えると、Sは別れたくないと泣いて怒った。そして勢い余って私を殴った。
首を絞められたことはあったが殴られたのは初めてだった。
殴ったことは流石にSをも正気にさせたのか、私はその場から逃げて、それきりになった。
そんなふうにして別れ、私はそれからも何人か付き合ったりして今の夫と結婚した。
今の夫はとても穏やかで優しく私のこともとても好きでいてくれて幸せではある。
けど瞬間的な、暴力的な、あの異常な空間の愛(と呼べるかはわからないが、相手を支配したいという感情)が未だに忘れられないし、できることならまた味わってみたいと思ってしまう。
あれはなんだったんだろう?狂喜に満ちていて、でも未来が全く見えない恐ろしさが常にあった謎の恋愛。
二度としたくないような、またしたいような。
Sは今どうしてるんだろう。
元気にしてるかな。
彼も私のことを忘れられないでいたらいいのにと思ってしまう。
18歳の浪人生。高層ビル群に見下され、樹とボロい公園によって世間から目隠しされたような、一日中日光の当たらないオンボロ団地に派遣社員の母と年金なしの祖父と3人で暮らしている。
元から裕福ではなかったが、質素な生活で金がかからず、一人っ子であったこと、都からの補助金と給付方奨学金のおかげで、塾には通えないがほぼ無償で私立の男子中高一貫校に通えた。しかし受験期にとある事情で急激に経済状況が悪化。力不足とストレスで2021年度の受験結果は東大文一に不合格、早稲田法と慶應法法に合格した。あとから奨学金が貰えるとしても私立は当座資金の面で厳しく、アルバイトしながらの宅浪が決まった。早朝に倉庫で宅急便の積み込みをして、近所の区立の小さな図書館が閉まるまで勉強する。夜はファストフード店でアルバイトか遅くまでやってる隣の区の大きな図書館の自習室。流し併設のリビング、和室一間、風呂、トイレしかない家にいるのは苦痛なので、夜以外はなるべく外にいるようにしていた。ちなみにこのような住環境なので、同世代の人たちや女性にはキモがられるだろうけど、今でも和室で祖父と母と川の字で寝ている。
そんな中
・母の慣れ親しんでいた派遣先が変わり、時給大幅ダウン。
・毎年水漏れしていたクーラーが一週間前に壊れる。ただでさえ金がないのに部屋の造りから施工に余計な費用がかかり、新しいクーラーがつけられない。
・突如不眠症。布団で夜寝られない代わりに勉強中とバイト中に猛烈な眠気。
ということが重なった。それでも「橋下徹だって貧乏出身と学生結婚で苦労しながら弁護士になったんだ」、「自分より大変な人は日本にも世界にも沢山いる」と言い聞かせ勉強していた。
のだが、昨夜20連チャン目のおにぎりをバイトの休憩中に食べている時、同い年のバイト仲間がスタッフ割引で購入した商品を目の前で食べる姿や、5ヶ月ぶりに開いたインスタで同級生の投稿を見てもう全てが嫌になってしまった。帰りにバイト先やコンビニで色々衝動買いし、団地内の公園のブランコに乗ってそれらを泣きながら食べて今に至る。途中でこのサイトを見つけたので登録して、自分の現状を吐露しようとこれを書いた。
もう勉強もバイトもする気力がなくなってしまった。東大を卒業して国家公務員になりたかった。貧乏人定番の国立医学部や起業して金持ちになることには昔も今も全く興味がない。小さな頃からこの団地で都や区の職員から俺ら住人に向けられる軽蔑の眼差し(生活保護受給家庭には直接的な侮辱がぶつけられていた)を体感しながら育った。だから彼らよりも上位の、彼らが媚びへつらう役人になりたかった。しかしそれが叶わないなら働く気力もつもりもない。俺は結局大嫌いだったこの団地の住人たちと同じかそれ以上に悲惨な末路を迎えそうです。