はてなキーワード: カリとは
PCはWindowsだしスマホもずっとAndroidなので人生初のApple製品。
多少の不安はあったが購入を決める前からガジェット系YouTuberの動画や各サイトなどを見てiPadの使い心地がどんなものかを調べてもいたから、
PCやAndroidと比較して各種アプリの使い心地の多少の差異については想定の範囲内で強くガッカリとか憤りを覚えることはなかった。
WindowsやAndroidだとネットで画像を保存すると自分で保存フォルダを選んだり、名前を自分でつけて保存ができる。
自分で名前をつけなくても、そのまま保存すれば勝手にネットのオリジナル仕様の名前で保存してくれる。
例えば「ドラえもん.jpg」という画像ならほっとけば「ドラえもん」という名前で保存されるし、
エロ画像じゃなくてもエロ画像フォルダに保存できるし、画像なのに書類フォルダにも動画フォルダにも保存できる。
しかし、iPad(iOS)だと画像ファイルを保存しようとすると、勝手にファイル名がつけられる上、全て「写真」という括りで保存される。
少なくとも保存する際には保存の名前もフォルダや形式なども操作できない。ただ「写真に追加」を選ぶことしかできない。
だから「ドラえもん.jpg」を写真に追加すると「IMG0001」とかそんな名前にされてしまう。
「のび太.jpg」も「プリキュア.jpg」も全部「IMG0002」「IMG0003」みたいな名前に勝手になってしまう。
一応写真の括りから外してファイルに保存すれば名前やフォルダを変えることはできる。
しかし結局一度写真に追加した後でないとできないし、もともとネットにあった形の名前にするには手間がかかってしまう。
これでは過去に保存した画像と同じものを忘れてて保存しても勝手に連番になるから重複が分からない。
また、ネットの消えるかもしれない画像を保存しといて後でPCに移そうと思っても、
ファイル名がオリジナルの名前じゃないからPCでのファイル管理が面倒臭くなる。
後からファイル名を見ればpixivで保存した画像かネットのどこで拾った画像かを見分けられたり、ファイル名でキャラ名などが分かったりする場合があるが、
iOSだと全て「IMG〜」という名前になるのでファイル名からは全く推測できない。
これこそ、iOS購入を検討するiOS未経験者に最も注意をさせておくべき仕様だと思うが、もう常識だからなのかわからないが言及してる人を見なかった。
iPadは画像や動画についてはPCで保存した画像や動画をiPadに移して見るためのデバイスと考えた方がいいと思った。
自ら撮影や編集した写真や動画ならともかく、iPadで保存した既存の画像や動画をPCに移すという使い方には向かない。
他にもファイル管理の仕様が面倒臭い仕様で基本的にアプリの下にそのアプリ用のファイルを保存する仕様も面倒臭い。
そこはまあ割り切ってiPadではそういうものと思っておけば我慢できなくはないし、
あまり整理整頓とか区分けとか好きじゃない人には勝手にやってくれるようなもんだから便利とも言えるのだろうが。
上述の独特のファイル管理の仕様のせいもあるのか、AndroidならUSBケーブルでPCと繋げば自由にファイルを移動できるが、
iOSだとケーブルで接続してもアプリを用いないとファイルを移動できない。これが令和の時代のガジェットの仕様かとビビった。
オチっていうか根幹設定?
理屈が通ってないわけじゃないからガバガバってのとは違うんだけど、作者にとって都合がいい作りしてんなと。
フィクションの大きな嘘は1つだけとはよく言ったものだけど、この作品は「人間を石化させる光線」「超スピードで発展する科学」「チート鍛冶屋カセキ」「ホワイマン←NEW!」という4つの嘘が遂に並んでしまった。
いくらなんでも嘘が多すぎる。
ホワイマンについては何とかして嘘にならない屁理屈を組み上げてほしかったな。
200話も使ってから「序盤にこんな事があったでしょ?あれが伏線だから。はい証明完了」とか言われてもね。
後付けで設置する嘘の大きさに対して論拠の柱が弱すぎてグラグラなんすわ。
もうちょいなんとかならんかったのかなあ……。
別にあの設定が本当に駄目ってわけじゃないんだけど散々引っ張ってはい真相判明!でコレが出てくるのはね……。
いやホンマ惜しかったわ。
物語の構築として美しいのってやっぱ「最後の謎は嘘を付く作者側が圧倒的不利な状況で完璧なロジックを組み上げる」であって欲しいんだよね。
読者としては「お見事ですわ」とパチパチ拍手を上げたいわけ。
それが最後に学芸会レベルの力任せなオチを持ってこられても「え?こんだけ?マジ?」となっちゃうんだな。
いや惜しかったよ。
20話の漫画なら短期打ち切りへの哀れみもコメてこれで見事なオチだったね拍手拍手で終わった。
時間あったんだから100話目ぐらいで「このオチだと弱いわ。パーツ増やそう」って頑張るべきだったね。
頑張った結果がこれなのかも知れないけど、頑張るべきなのはオチのスケールを派手にすることじゃなくて伏線を張ることだったんだな。
動き出しが遅かったね。
いや、ギリギリの動き出しでももうちょっと理屈を調整できたと思う。
思えばアイシールド21の頃から……いやよそうこういう姑じみた過去の掘り下げまではすべきじゃないね。
一言でまとめて終わらせるよ。
ガッカリだ。
二度とアンケに名前を挙げることはないだろう。
軽く調べたところ、「北京オリンピックはゴムマスクをつけた別人ばかり」という主張は見つけることができたのだが、
北京オリンピックの開催自体は認めてしまっているようだ。ガッカリした。
「北京オリンピックはすべてCGで開催されてすらいない」、「北京オリンピックに出場予定の選手は出国記録がない」、「入国後、選手と連絡がつかないし出場してない」
のような自由な発想を期待していたのに。
ごらんのように私はあまり映画に入れ込んでいない。詳しくない。ほとんど地上波でしか見ない。なのでカットシーンがあってもあまり気にしない(シャドウゲームは流石にダメだった)。
そんな私も見る前はちょっとわくわくしていた。面白いらしい映画だとふんわり耳に入ってきていたし、料理映画がいくつか好きだったからだ。
フードトラックのシェフも好きだしレストランのシェフも好きだし、まあレミーのおいしいレストランも嫌いじゃない。同じく南極観測所の料理人シーンがある大統領の料理人も面白かった。というかああいう雰囲気を期待していた。
閉じたシチュエーションのドラマというなら王様のレストランも好きなのさ。本気だぜ。
ところが、だ。
今私は悪態をつきたいががためにこうして筆を取っている。珍しいことだ。つまらない映画なら録画から消して終わりが常なのに、この映画は私の貶したい心をくすぐってきた。だから以後は批評でもなく単純な文句を書くのである。
なお原作があるらしいことは知っていた。しかしドキュメンタリーではなくしっかりとフィクションの映画として味付けしていることを期待していたので、原作がこうだったから。は考えない。
観測所に居る人物は計8人。男だけというのはヒロイン(恋愛要素)が好みではない私には好印象だった。
しかしいきなり全員の紹介をナレーションで済ますのにはガッカリきた。これだけで長い共同生活の中でキャラクターを深掘っていくという期待はもてなくなった。裏切られることも期待したのだが…。
彼らはほぼ所属も役割も異なるメンバーであり、その中の一人、調理担当の西村がこの映画の主人公だ。
そんな彼らが南極で何をするか。
…何をしてたんだろうな?
こいつら、まあそろえば喋るし一緒に騒いだりもするのだが「一緒に何かしている」シーンか「一緒に居るがすごい無関心」なシーンばかりが記憶に残っているのだ。
「一緒に何かしているシーン」、野球や豆まきのの場面はそこだけを切り取られているから、誰と誰が仲がいいとか、趣味が合うとか関係性が見える会話がかなり少ない。ほぼ全員好き好んで南極に来たわけではないのでゼロフラットな関係から嫌い・好きに振れていくはずがそういう機微が無い。
じゃあ既に仲がいいのかと言われれば会話の節々で間があったりかみ合わなかったり意を汲まれなかったりととにかく思いやりが無い。
面会を拒否するが置かれた飯だけは直ぐに取る
盗み食いによる欠品を何とかするように夜に起こして懇願する(盗み食いが発覚してもまず食べ物の不味さを告げる)
などなど、見ていていじめとしか思えない気分が悪い展開が続く。これ、後々のための伏線などではないからね。
会話が空回る空虚な時間はわざと大量に作られていて誤用の共感性羞恥が襲ってくる。監督の頭がおかしい。
じゃあ逆に仲が悪いのかというと大して衝突や大きな騒動も描かれない。無関心か?後半、長期の閉鎖環境のストレスから数名が暴走するが、錯乱の範疇で人間関係が主要因ではない(要因ではあるが)。
そしてその騒動のとばっちりを受けるのは当然無実で何も悪くない西村君である。脚本によるいじめか。
閉鎖環境であるにも関わらずキャラクターに魅力がない。キャラ同士の相互作用が生まれない。絡んだと思ったらかみ合わなさを見せ付けられる。
中盤からはなんでこんな中年男性を見させられているんだろうと至極うんざりしていた…。
それぞれの職域のスペシャリスト性が出ていればまだ性格に難アリの低関心職人肌集団と見ることもできそうだがそれらのエピソードも取ってつけた薄っぺらいものだ。
(あと早く帰国したいとか来たくなかったとかもまあ分かるのだがそこはサバイバルや刑務所内のドラマと比べれば格段に自由なので分かるは分かるが刺さらないんですよね)
数少ない女性陣についても貴重な遠距離通話でとにかくギクシャクした会話が続き、ついに一人は好きな人ができたと捨てられる。
西村君の家族の妻と娘は大根役者とはとても言えない明らかに演技指導として不快な演出がなされている。単身赴任の打ち明けや任地をあざ笑うシーンなど、ここにも思いやりがなく自己中心的なキャラクターだ。
娘に対して元気が無い母親に料理を作ってあげたらと提案したシーンにはなぜこんなものを作ったのかとかなり泣きそうになった。ハートフルな部分を見せるのかと期待を持たせ一瞬で叩ききる名シーンだと思う氏ね。
エンディングは帰国した西村君一家のシーンだが、まったくもって意図がわからなかった。なぜ私をこんなにラストのラストまで不快にさせるのだ?混乱するほどわけがわからない。わかるのはラストのセリフぐらいだよ。
あと、先述した騒動のとばっちりを受ける無辜の西村君。そのショックで引きこもってしまいます。料理人が居ないからしかたなく残りのメンバーで作るしかないのだが…
って書くとドラマが生まれそうじゃん?揉めあって失敗するのか、西村君が手助けしてハッピーエンドなのか、西村君にはどう謝罪するのか…。罪悪感をどう表現するのだぁ。
ないからね。そんなの。
今までの描写を見るにコイツら、腹が減って料理人が居ないから自分でただ作ってるだけだからね。悪気も無いよ。当然謝罪も。調理現場見てあまり反応もない西村君含めてなんだよこいつら。西村君が風邪で寝込んでしまったから代わりに料理してますでも成立するからね。これ。風邪引かないんだけどさ。南極だからさ。
そんなわけで完成品のマズい(映画冒頭に妻が作ったのと同じ)から揚げを食って西村君が感極まるシーンも理解できなかったよ。
好意的に頑張って考えれば妻を思い出してホームシックな涙なのかなー。それとも自分の代わりに頑張って作ってくれた仲間への感情なのかなー。とは思うんだけどさ。
妻へも仲間へも視聴者の私の感情は冷え切っているから「被害を被ったうえに勝手に調理場を荒らされ謝罪もなくクソ不味い料理を食べさせられてそれが雑に扱ってくる妻を思い出させられて心が折れた」と受け取ったね。素直に。
もしこれが地上波放送によるカットの弊害であったとしたら編集人に拍手を送りたい。もし映画全体を見れば大いなる勘違いだったとしたら、まあ、その、すまん。
よい料理(と食べる)描写とは何かはわからない。孤独のグルメなどは独特に良いと思えるが、詳細な言語化・対比は難しい。
だがそれでも、観測所の最初の食事シーン。私はそこでかなり拒否反応がでた。
きたない。
ガツガツしたややオーバーな食べ方やすする音。それらは私には美味しそうに食べる場面には写らなかった。
しかしそれは我慢できるのである。なぜなら舞台は1997年。人は中年男性。汚らしさはそういうものと受け入れられるまだ。
ロクにうまいとも言わない無反応な男たちもそうそう居るよね。と受け入れられた。
ただ、続くエビフライのシーンで心は折れた。
伊勢海老をどう調理するかでなぜかエビフライが激推しされ、もったいないという西村君は自分を殺し創意工夫も施し伊勢海老をエビフライにしたて上げた。
先述したが、その自分たちが押し通したエビフライという調理法を現物を前にして違ったとぼやくほかのメンバー。ままま!それもすごく効果的に私にストレスを与えられている!と解消への前置きに受け取れたのだが…
いただきますのあと、(西村君を除く)全員が同時に皿に乗せられていた伊勢海老の頭をテーブル上に退けた。
はぁ?
はぁ?なにそれ?は?面白いと思ってやってんの?監督?他の自由に食べるシーンと比べて明らかにタイミングを合わせた演出としてのギャグシーンだよな?は?何も面白くないんですけど?
調理法に折れた西村君にさらに完成品に文句を言って追い討ちをかけた上でのギャグ?まじかよこれがうれしい観客がいるのかよ。
この登場人物たちには、否この監督には料理にも料理人にもリスペクトがない。この映画は「南極料理人」ではあるが、料理にも料理人にもスポットが当たってなどいない。
これは私が悪いのか?ちょうど今話題になっている「大怪獣のあとしまつ」。絶対見ないだろうが、これも私も「怪獣のあとしまつ」がテーマだと思っていたので感想を読むにもし映画を見ていたら同様の怒りを覚えていたこと必死だ。
これを予告や監督から予期できるのだから批判は的外れ(not for you)だとする向きもある。南極料理人というタイトルだけで見始めた私にも同様のことが適用されるのだろうか。
だとしてもこの怒りは収まらぬわ。せめてこんな映画の何を事前に期待して見ろというのか。原作未読者がよぉ!
盛り付けられた料理は美味そうだが作る経緯も食べるキャラも気にくわねぇぇぇ!
自分が夜な夜な勝手に食ったせいで切れたラーメンを懇願して作らせた手作りラーメンにも!
作る!過程に!食う!姿に!私の!心を!入れられ!ないんだよ!
どんなに美味そうに食おうが!お前の目の前の料理人が毎日頑張って作ってくれている料理を尻目にお前が勝手に作って切らしたラーメンの尻拭いを!料理人を差し置いて勝手に作って食っていたモンの尻拭いを!その料理人にさせてんだからな!
私は!情報を!食ってるんだ!
こんな!クソ胸糞悪い!情報を!食えるかっ!!!!!!!!!!!!
あとですね、付け加えるとですね。閉鎖環境での食事ってめちゃくちゃ大事だと思うんですよ。実体験はないですけども。
毎日何が出るかウキウキ。代わり映えしない毎日の唯一の楽しみ。刑務所の中の描写とかでもみる話です。
一年以上の長丁場で、料理のそういったありがたみが(受け入れらないラーメンのくだり以外)ぜんぜん感じられないのがなんかもう見事に物語に料理が関係してなさすぎてなんのドラマティックさもなかったですはい。
ふぅ。ここまで大体ひたすらないがしろにされる料理人の西村君の姿にヘイトをためてきたわけだが…。
中盤を過ぎたころから西村君もキャラが掴めなくなって気持ち悪くなってくる。
まずコイツ、怒らない。
家族に無碍に扱われても大事なものを失っても料理が冷めそうでも仮病で面会拒否されてさらっとメシだけ掻っ攫われてもラーメン盗み食いされてもバター丸かじりされても夜中に起こされても怒らない。大事なものは寝込んだけどさ。
会話がかみ合わなくて空虚な時間が流れる半分は彼のリアクションが無いせいでもある。
そんなこんなで彼のキャラクターが掴めない。
おさらいしておくと、彼は海上保安庁の所属で同僚のアクシデントで急遽望まぬ南極行きを無理やり承諾させられた人物だ。
南極では料理は丁寧に仕事をこなし、あまり我を出さずニコニコ。仕事の文句も言わない。
はて、彼のスタンスはなんだろうか。
料理人といってもいろいろあるだろう。
たくさん食べてもらいたい人。お残しは許しまへん人。自己満足できる料理を作りたい人。美味しい料理を美味しく食べて欲しい人。調理場に入ってほしくない人。材料にこだわりたい人。解説したい人。食事をコントロールしたい人。美味しいといわれたい人。
まだまだあるだろうがいろいろな属性を少しずつ持ってたりするものだ。
劇中の彼はどうか。料理は冷めて欲しくないし伊勢海老は刺身にしたい。うん。まぁ、それぐらい、かな。(後半につれながら見なのでかなり怪しいのだが)
あとおにぎりに当たりを入れるちゃめっけも見出せるかな。なんか普通の人の感性内じゃないですか。
料理人としての面がそんなに料理にも会話にも出ない。ま、まともな会話のキャッチボールができる人物も居ないのですが。
不本意な任地で作り甲斐の無さそうな人たちに料理を振舞っている彼の内心が見えてこないのだ。
では本国に居るときと南極に居るときの対比を見てみようとすれば…彼は南極以外で料理をするシーンがないのだ…。
あるのはただ妻のから揚げに文句をつけるシーンだけ。家族ゆえの気軽さを差っぴいても職業料理人の夫が妻に食事を作らせて事前にアドバイスもせずに文句をいうというのはあまり性格が良いとは言えない。
そして南極の食卓では黙ってニコニコ。彼がわからない。わかります?
普段の料理人の彼がわからないので南極の彼の心境が、あるいはあの打たれ強さや我慢強さがすとんと腹に落ちない。
私の怒りとシンクロしてくれない西村君。料理が好きなのか誇りを持っているのかもわからない西村君。あんな妻や娘が好きな理由がわからない西村君(嘘。家族だから好きなんでしょうね)。
そんな理解不能な彼も他の登場人物同様好きじゃないです。わけわからなくてキモい。
それと、わざと無言で間や動きで伝えようとする描写が好きそうな監督。
なんか、あなたが好きそうなもののことごとくが私は嫌いでした。
まあ、この作品は賞をとってますし聞こえも良い。次作のキツツキと雨も同様。
あとあれですね、半年以上一緒に暮らしているのに朝のおはように返事をしない奴に執拗に返事を要求する奴とか、子供二人居る家庭の妻のから揚げに文句をつける夫とか、いまさらかよって描写も鼻につきました。
あ、書いていて思ったけどから揚げは単身赴任するから妻が料理の勉強中だったのかな。見落としていたらすいません。
監督で傾向を判断するというのは監督にチャレンジがなく作風が固定されるきらいがありあまり好きではないのですが、まあそんな感じなので今後は避けようかと思います。
堺も生瀬も好きなのにこうなるのかぁ。という点は新鮮でした。
この個人的にエンターテインメント性も低い。コメディ・笑いも低い。ドラマティックさも低い。カタルシスも感動も低い。クライマックスの盛り上がりも低い。だけど評価が高い。そういった映画、いや邦画を私は知っています。
そもそも私は地上波オンリーでもさらに邦画はかなり見ない方なのでなにも語れないのですが…。
是枝作品は賞を取ったりでなんどか地上波で拝見したのですが、これのどこが面白いんだ?が続き、これのどこが賞を取ったんだ?(だけど心にちょっと残りごくごくたまーに見たくなる)で終わるものでした。
私自身エンタメ作品しか愛好していないことは重々承知しておりますが、まあ是枝作品が評価されるならこの作品も評価されるわな。とは思いました。是枝作品嫌いだし、ならこの作品も嫌いだわな。
それぐらい、上手く言葉にできませんが私が嫌いななにかしらの邦画要素がたっぷり詰まった作品なんだと思います。邦画らしい邦画を久々にうかつにも見てしまったと言う点はよくないけどよかったです。
ただ是枝作品ほど心には引っかかりませんでした。大統領の料理人もすっきりしない作品でしたが、あれは面白かったです。やはり料理人のこだわりの有無でしょうか?あれは面白かったけどこれはダメでした。あとチョコレートドーナツ(映画)も好きですしお辛い非エンタメ映画全般がダメというわけではないです。これはダメでしたけど。
あーだこーだ書きましたがもう二度と見ない映画にこれほどの時間を捧げさせたのですから、名作と言ってもいいんじゃないでしょうか。しらんけど。
なんの予備知識もなく鑑賞したがガッカリな内容だった。ただただ薄っぺらい。意味のない無駄カットが多すぎる。そして、やたらナレーションや説明が多い。NHK『ノーナレ』千本ノックしてほしい。
「狭いところに閉じ込められてカワイソウ」以上のメッセージをわたしは受け取れなかった。さらに、アフリカの精神障害者は野外に鎖で繋がれているだけなので開放的というエピソードは一体なんのために挿入されたのかも意味不明。
この映画にはたくさんの精神障害者の顔写真と名前が出てくるが、ご本人やご遺族の許可が取れているのだろうか? 遺族の上映許可なく「この人は精神障害者で私宅監置されていた」と映画にしたなら、これは大規模な公衆アウティングであり重大な人権侵害だ。
事実、一部の遺族から無許可および事実誤認について異議申し立てがあったそうだ。原監督は「公表したのは名前だけで苗字を含まないから特定不可能」だという。地方の部落では同姓も多いからお互い名前で呼び合うのが普通だ。都会の人には想像すらできないだろうけれど、そこには隣近所のプライバシーや匿名性のない濃密な社会が存在する。映像内で第三者の「帰りたくても帰れなかった」という表現(事実誤認)は、インタビュー形式であればその発言の責を逃れられるという意味でそのまま残したのか? (わたしは初見だが、このインタビュイーの発言を事実として受け取った)
こうした遺族の異議申し立てによって、文化庁の上映会が延期されたそうだが、かかる人権侵害の申し立てがあれば主催する上映会の一時差し止めが常道であろう。それを遺族からの「クレーム」問題と捉える姿勢は悪質。原監督が「国家権力による言論封殺」と述べた時にはズッコけた。
現代社会の精神障害者が置かれている立場や精神科医療問題、さらに法整備への問題提起とはならなかった。むしろ、歴史上の「沖縄カワイソウ」にフォーカスし、精神科入院病棟があった本土や台湾などを上位づけするのは、現代につながる精神科病棟の諸問題(例えば医療保護入院や社会的入院など)を正当化するに等しく大いに誤解を招く内容だった。
自堕落すぎてこのままでいいのかと自省するために徒然に記す。
職種はSEで長年に渡る実績が認められ技術顧問的な立場にいる。
2020年春からリモートワークが始まり業務効率化の名目でワークフローを刷新し、
本来ならマネジメントする立場なのだが後進育成ため中堅に任せようと回避し、
定常タスクを割り当てられることがない窓際おじさんポジションへ収まることにまんまと成功した。
この効率化の仕組みづくりは非常に頑張って他PJにも取り入れられるレベルの出来だったので
この偽装工作のおかげでたまに発生する高度な課題や問題を解消するだけの晴耕雨読の日々だ。
最短30秒、かかっても数日程度のタスクをサクッと片付けて期限まで毎日頑張ってるフリをしているが、
ほかの人間では期限内に解決できない内容なのでまったく疑われていない。
定例会議などもオブザーバーに収まったのでたまに質問が飛んでくるくらいで特にすることはない。
IT業界で目の敵にされている悪いコンサルみたいな働きぶりだ。
給料に見合った分は働いているつもりなので騙していること以外にはない。
仕事をサボるための手段を充実させ過ぎて、成長することもサボってしまっているからだ。
おそらく周りのレベルが低いために危機感が抱けずモチベーションが湧かないのだろう。
だがマサカリが飛び交う界隈で切磋琢磨したいとも思えずこれもある種のコロナ鬱なのだろうか。
転向先でなんだかんだあっていつの間にか全員辞めていたという憂き目に遭ったことが大きいと感じる。
人を育てる気力が失われ、自分も成長する気が失せたのだ。
最近の人事考課の面談で上長の取締役にその不満は伝えてあるが、
時間は有り余っているから身の振り方から考え直していくしかないのか。
鬱でもN〇tflixは楽しめるのでお勧めです。
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
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●┼┼┼
自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
●┼┼
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相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
今に始まったことではないけど、駅の女性用トイレの使い方がひどい。
職場に向かう前に駅のトイレを利用させてもらうと、糞尿が飛び散っている状況までは(滅多に)ないが、毎回と言っていいほど個室の中にゴミが置かれている。
うまくちぎれなかったペーパーや落ちた毛は別にいい。それさえ拾えとは思わない。
私が許せないのはフリーペーパーやスタバのドリンク、食べかけのハンバーガー、さらには家庭ごみと思しきそれなりの大きさのビニール袋など明らかにトイレの用途を逸脱したものの放置だった。個室内のごみ箱に無理やりつめこんで蓋が閉まらなくなり、本当に捨てたい衛生用品が捨てられない。
またパウダールームの台には使用済みコットンだの化粧品だのレシートなどが転がっている。
近頃は駅のゴミ箱が撤去されて、ちょっとしたゴミの処理に困るのは誰しもそうだよ。だからってその辺に置きっぱにするのはどうなの。自分に潔癖の気があるのを差し引いてもやっぱり汚い。世の女性たちはどう思っているんだろう。街中の綺麗な女性の中にもこうしてゴミを置いていくことに抵抗がない人がいるんだろうか。すごくガッカリだ。立つ鳥跡を濁さず、って知ってる?
末筆ながら、そんな場所をお掃除してくださる方々には日々感謝しています。綺麗に使ってくれてありがとうございます、の貼り紙がぼろぼろで心が痛いですが……
って、いつくらいなんだろう。
ふと思っただけなんだけどさ。
昔は当たり前だけどファミコンよりゲーセンのゲームの方が明らかにグラフィックも綺麗でハイクオリティだった(からファミコン持っててもゲーセンに通ってた)。ファミコンのグラディウスの細切れレーザーに慣れた後にアーケード版の揖保乃糸のようなレーザーの美しさに仰天したもんだが、そもそもファミコンにグラディウスが移植されること自体が話題になるような時代だった。
そんな調子でマークIIIのスペハリに仰天し、PCエンジンのR-TYPEに仰天し、アーケードの源平討魔伝に仰天した後にファミコン版にガッカリする青春時代を過ごしてきたが、メガドライブあたりからそんなに仰天しなくなってきた。以前はプレーできるだけで有難かったのに、家庭用ゲーム機の性能が上がるにつれ有り難みがどんどん薄れてきた。
PS、サターンくらいだと、まだアーケードの方が上なのかな。サターンのVF2は少ししょぼかった気がする。PS2のVF4とかはもう違和感無かったから、この辺りが肩を並べた瞬間なのかも知れない。
もちろん今の時代の方がゲーマーにとっては恵まれているんだけど、スト2が50円のゲーセンを求めて、2つ先の駅まで自転車漕いだ時代もまた懐かしく魅力的だった。女神転生5終わったから、次何遊ぼうかな…