はてなキーワード: ぼんやりとは
彼(彼女?)の絵を見るたびに、彼が去年の夏頃描いた漫画を思い出す。
少女と父親が花火をした後、「ゼンイ」でゴミを拾い、翌日見て見るとほとんど元の状況に戻っている。少女は父に「私たちのゼンイは無駄だったの?」と涙ながらに問い、父はそれに答えられない。
といったようなね。
まあ善意があっさりと踏みにじられるという展開は非常によくある寓話ですわ。
この漫画を初めて読んだ時から反感をものすごく覚えるんだよな。
この作者が一体どのような目論見でこの漫画を描いたのかは知らんので漫画内の父娘に対しての話になるんだけれども
そもそもボランティアのゴミ拾いは何かのイベント後とかで突発的に大量のゴミが発生した場合を除き、定期的に行われる。
そうでなければ当然再びゴミが溜まる。
じゃあそのたびにボランティアの人たちの労力は無駄になっているのか?
当然違う。ゴミ拾いが行われた後は間違いなくその場は綺麗になっているし、拾った何袋分かのゴミはその場に舞い戻ってきたりしない。
間違いなく"拾った分"はゴミが無くなっている。
この父娘はまずそこを見誤ったのだろう。「今この一瞬この場を綺麗にすればその状況は永続するだろう」というぼんやりした期待を持っていたのだろう。
ただ、「ゴミを拾った」という行為自体を無駄だと考えるのは間違いだ。
それは言ってみれば池の向こうに届かせたいと思って投げた最初の石が沈んでしまったから無駄だと断じるようなものである。
石を投げ続ければ池が埋まって向こうに転がるかもしれない。
「向こう岸に届ける」という目的を見つめ続けるならば、最初の一投は無駄になったりはしない。
勿論諦めてもいい。
「池の向こうに届かせなくてもいいや」と考えたって、やはり最初に投げたことは変わらない。
「ゼンイだからただゴミを拾う」ではきっとあの世界のゴミは永遠に溜まり続けるのだろう。
立て札を立てたり、定期的にゴミ拾いをしたり、人を集めたり。
とにかく「あの場を永続的に美しく保つ」という希望を目的に据え、計画的に努力するという行為に考えが至らなかったのだ。
それもまたよくあることだと思う。最善の希望を目的に据えなければ最善の希望は実現できないのは当然だが、それは最善ゆえに困難が多いだろう。
ここで諦めたっていいのだ。それでもこの父娘が拾った幾らかのゴミは無かったことにはならないのだから。
ところが彼らはどうやら自分たちのした事を無駄にしたいらしい。無かったこととして認めたいらしい。
彼らと同量のゴミを、同じように拾い、同じようにその場に再びゴミを投棄された人にも彼らは哀れみの視線を向けそうなところが非常にムカつくのである。
ここまでだいぶ長くなった気がしたが、まだもう一つの主題が残っているのである。
「ゼンイ」の話だ。
この話の中でたしか父は「ゼンイ」だからという理由でゴミを拾っていたのではないだろうか。
素晴らしいことである。実際その「ゼンイ」によって幾らかその場所は不法投棄という犯罪行為が拭われたわけだしね。
しかし、前述の通り、この父娘は自分たちの行為を無為だと認識した。「ゼンイ」は無駄だったと判断したのである。
ふざけた話だ。そもそも「ゼンイ」が無駄にならないという希望を、顔も見えない相手になすりつけるのはお門違いでは?
「ゼンイ」とかいう何となく偉そうな行為を何となくして、何となく裏切られた気がして、何となく失望しているのだ。
まあ娘は仕方ないかもしれないな、子供だし。この作者の描く人物はあまり年齢による区別がないからあやふやだが、多分小学校の中学年とかだろう。
「ゼンイ」が無駄になってしまったのかと泣いてる娘に対して何だその態度は。お前の頭も小学生女児か。
せめて昨日の行為は消えたりしないことは分かるだろ。慰めることもできないのか。親として子どもの心を守ることもできないのに他人に対して「ゼンイ」振りまいてる場合か。いやそれはまあ人によるだろうけどさ!!
そもそも「ゼンイ」が必ずしも良いことみてえな言い方自体が俺は非論理的だと思うんだけどさ。
人に感謝してもらおうとしてする「ゼンイ」は感謝を求めない「ゼンイ」と比べて劣っていやしない。
しかし、「ゼンイ」に限らず、目に見えないものが認識され、更には感謝されるのは非常に難しい。
だから人目にさらされなかった娘の「ゼンイ」がもし父にだけ見えているなら、父が娘にしてあげられることはあるはずだ。
それもしね〜で(以下繰り返し)
まあ、漫画の中の話に何マジになってんのと思う人もいるだろう。気持ちわかるよ。
でも、ある表現の中の仮想的な話に批判をすることは無意味ではないと思うんだ。
実際この漫画すごい拡散されただろう?いろんな人が関心を持ったのは間違いない。俺は俺の関心の持ち方をこんな形で表現したんだよ
この作者のイラストだの何だのがTwitterで流れてくるたびにこれを思い出してイライラしてたからその整理ってのもある。この人が作ったイラストとか動画で好きなのあるし、それ見るたびにフラストレーション溜めてちゃ世話ないしね。
自分が本当にしたいことは何なのか確認しながら行動をしたほうがぼんやりした失敗や失望をせずに済むということと
「ゼンイ」を目的に据えるということは他者に目的決定権を委ねる原因になること
最近というほど最近でもないけど、3D映画とか3DSとか、とにかく3Dをウリにしたものが巷には溢れている。
タイトルの通り、自分は生まれつきの斜視なので3D全般が認識できない。
斜視は人口の3%というからそれほど珍しい病気じゃない。の割に、「黒目の位置がおかしい人」くらいの認識しかないように思う。少なくとも自分は今までそういう風に言われた。
斜視は重大な病気じゃない。でも、日常の絶妙なところで不便なのだ。ということを今日は書きたいと思う。
まんまだ。
内斜視とか外斜視とか色々種類はあるけど自分は外斜視。昔はロンパリって言ってたらしい。
見たい対象に焦点を合わせようとすると、どちらかの黒目が外側に流れていく。そっちの目は使っていないことになる。
二回手術をした。小学生の時に全身麻酔をかけて一回、中学生の時に局部麻酔で一回。
目の中の筋肉を切って縫い、正しい位置に黒目を調整する手術だ。全身麻酔の時は覚えてないから良かった(でも尿カテーテルがショックで暴れた)けど、局部麻酔の時は意識があって、目が見えてるのに、目の中にハサミだのメスだの針だの入れられる。ブツってなんか切れてる感覚もぼんやりわかる。めちゃくちゃ怖い。人造人間にされてる気分だった。
そんな怖い手術をしても、見た目は完治しなかった。普段は普通の目だけど、疲れてくると斜視が出る。あと手術との相関性はわからないけど、術後目が悪くなった。特に乱視がひどいので、コンタクトが合わなくてずっと眼鏡をかけてる。
これ。
目が悪くなるのも見た目がキモいのもまあ別にいい。問題はこれだ。
前述の通り、斜視の人は片方の目でしかものを見ることができない。対して、立体的にものを見る時は、両目から得た映像を脳が組み合わせて、奥行きや距離感を認識させるのだ。
小学生の頃、保健室に「立体的に見える絵本」がなかっただろうか。上の方に黒い点が二つ付いてるやつ。あれも同じ原理で、脳の錯覚で3D空間を認識させている、らしい。当然それができたことはない。
そしてこの立体視能力は、生後〜幼年時にのみ獲得できるそうだ。その機を逃すと、後から立体視できるようになるのは難しい。訓練することはできる。実際したけど、やっぱりダメだった。
あんなおそろしい手術をしても、この根本的なところは全く治らないのだ。
立体視できないと何が不便か。
階段の段差が飛び出して見えない。飛び出して見えるとか奥行きがあるとかがまずどういうことかわからないけど、とにかくのっぺりとした一枚の絵みたいに見えている。全国の階段はふちにラインが引いてあるタイプに今すぐ切り替えてほしい。
球技ができない。
ボールのサイズで「あ、このくらいの距離だな」とはわかるけど、正確な感覚がわからない。テニスとか野球とか、球が小さいと余計に無理だ。まあこれは自分が運動できないからかもしれないけど。
3Dが見れない。
黒っぽい眼鏡をかけて見るやつは、ちゃんと普通の映像には見える。でも、飛び出すとか広がるって感覚がそもそもないから、本当に普通の映画と一緒なのだ。
青と赤のセロハン?みたいなので見る簡易的なやつは、右目と左目でバラバラに見えるだけで一つに結びつかない。赤と青の世界が変わりばんこに点滅する感じだ。
3Dナントカは所詮娯楽なのでいいけど、下り階段は本気で困っている。
同じ悩みを持つ人がいたら是非斜視あるあるしたい。逆に、治ったよという人がいたら話を聞きたい。
もう一回手術するかって聞かれたけど絶対嫌だ。
あのタグに参加していた人たちの発想と画力は凄くて、見ていてとても楽しかった。
せっかく素敵なタグを発信してくださったのに、本当に大変な目に遭っておられたと思う。
タグ発信者さんに非は全く無いことを前提として、ちょっと思ったことを書きたい。
騒動は、確か「育てたものが育てられたものに恋人的な役割を求めるという気持ちを現実に持ってきてはいけないよ」的なツイートがあって、それに「想像と現実を混同するな!」「これはあくまで人間ではないものと人間の話だ!」と反発があがって、そこからいろいろな人がいろいろな意見を述べて…というものだったように思う。
最初は、「現実に持ってきてはいけない」ツイートを読んで、水をさされた、と思った。
だけど、そのツイートの発言者さん(便宜上『彼』とする)のその後のツイートを見て、じょじょに考えが変わった。
彼はなにも某集会を否定したのではなく、ただ、創作者として、『そういう気持ちを現実に持ち込んではいけない』ということを自覚しろ、と述べただけだった。
創作の世界は何をしても良い。ただ、『現実に持ち込んではいけない感情』を『創作物として』自分は今『楽しんでいる』ことを自覚しなければならない。
育てるものと育てられるものには明確な力の差がある。性別に関係なく、育てるもののほうが上位に立つ。
だからこそ、いつ『育てるもの』になるともしれない人達(親になったり先生になったりいろいろある)は、『自覚』をもたなければならない。薄暗いものを、薄暗いものとして愛でるのは大事だ、と。
たぶん、そういうことだったのだろう。
それはまあ、確かにそうだな、と思った。
他にも、これは彼の意見ではなかったが『最初から愛玩用として育てたんならまだしも、実子のつもりで育てたら、愛されて恋人になるなんて気持ち悪い』という意見があったように思う。
と、まあそのような感じで『育てるもの』と『育てられるもの』の意識についての問題的があったわけだ。
育てるって、身近な行為で、そのわりに与える影響がでかすぎるから。
この件について、彼がまたツイートしているのを見かけた。
正直、言い方がきつかったのは認める。自分はかつて母親に恋人の役割を求められたことがあって、そのトラウマがあるから、あれがたとえ創作なのだとしても見るのが辛かったんだ、と。
大体そんなようなことを言っていて、なるほど、トラウマを刺激されてしまったんだな、と思った。
創作があって、その創作を楽しんでいた人達がいて、でもちょっとそれは薄暗い内容で、中には薄暗いものを薄暗いものだと感じる意識が薄い人がいて、それを見た人の中にトラウマがある人がいて、嫌悪感をもつ人もいて、それが騒動になった。
母親ないし父親がみんな優しい、理想的だとは限らないから育てるものと育てられるものにまつわるトラウマの発生率は結構高いんだろう。だからこそ騒動は大きくなった。
結局、どうあれば良かったのだろう?
創作は自由なんだから、文句をつけないで!現実と創作は別物! という意見もわかる。
創作だって現実に影響力はあるし、薄暗いものと薄暗いものとしてきちんと自覚しておくことは必要、という意見もわかる。
たぶん、『どんな創作をしても良いけど薄暗いものは薄暗いものとして自覚をもとうね』が結論なんだろうな。
自覚が無いなら、その自覚が無いという点につき危機感を抱こうね、と。
うーん、難しい。
悲しいことに、あの創作は、一人の人間のトラウマを刺激し、辛い思いをさせてしまったようだ。
『そんなつもりはなかった』で相手を傷つけることができるのが悲しいな。
いつかなにかで傷ついて、トラウマをもっている人がいて。
そしてその人が、別にその人に直接向けられたわけではないものでトラウマを呼び起こされて、きつい言葉を使ってしまう。
ループしてるね。
彼の言いたいことはわかるし、トラウマは辛かったんだろう。
でも、彼の発言で創作に水をさされた人は『傷ついた』と言っちゃいけないんだろうか?
まあ、要するに「トラウマがあるから○○してしまった、許してくれ」という言い方に違和感を覚えたって話。
許さなきゃいけないのかね。
その為された○○によって、別の誰かが傷ついているじゃないか。
でも、トラウマがあるから○○してしまって、それは多分止められるものじゃないんだよな。
だからやるわけだし…。
どうすれば良いんだろう。
このループは、だれのところで止めたら良いんだ?
特定のキャラにものすごくはまったりグッズを買ったりする気持ちがミリも理解できない。
好きなキャラ程度はできるが、キャラにはまる、という経験は生まれてこのかたしたことがない。
絵を描くのも好きだ。
でもなんていうのか、子どものお絵描きが好きな気持ちの延長なだけで、描くのはたのしいがそれまでだ。
上手にかけると嬉しいな、pixivでブクマがついたら嬉しいな、程度にはもちろんおもうが
二次創作にも創作イラストにもそこまで本腰をいれてはまれないし
同人活動は払う代償が大きすぎて今一つやりたいと思えない。
基本的に一回見たら満足、付き合いで二回見るくらいはあるがそれ以上何度も通ったりしない。
音楽も好きだ。
気持ち悪いのは、画面上の数字が増えていく、ただそれだけのことに案外時間と手間をつぎ込んでしまうことで、
なんか、脳のいちばん原始的な快楽回路を押されている感じがして嫌だ。
世の中のオタクは楽しそうだ。
グッズを集めて祭壇を作ったり、
そんな風に身も世もなく生活も省みずなにかを好きだったことは一度もない。
というのも、私が好きだなーと思っていたキャラ(音ゲーなので持ち歌が好きだった)を友人も好きだといい、
それを皮切りに、そのゲームをやっている友人が増えたのだ。
グッズが出るといって買いにいってみたり、
ライブイベントに足を運んでみたりした。
楽しくなくはなかったが、なんとなく、騙されている感じもあった。
私はほんとにこのコンテンツがこんなにお金だすほど好きなのか?
周りに友達がいるから会わせてお金を出してるだけじゃないのか??
なんだかふわふわと地に足のつかない感じで、
うすぼんやりと楽しかったがいつの間にかそのゲーム自体から離れてしまった。
好きなものはたくさんある。
けど私が実感を込めて楽しい、と思うのは、
お絵描きをすること、音楽を聞いたり行ける範囲でライブにいったりすることだけだ。
私と彼らの違いはなんなんだろうと思ってしまう。
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以上、以下の記事を読んでの雑感。
石井淳平氏の文章がバズってるけどどうかと思うアホアホっブコメが散見される。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/medium.com/@junpei9/30c20561f812
石井淳平氏って北海道の厚沢部の石井淳平氏でしょ。少し調べたらわかると思うけど。考古関係中心に学芸員やってて組合に異動したこともあるぽいってのは調べるとすぐ出てくる。
http://www.hk-curators.jp/archives/author/ishii
https://assabu.exblog.jp/15193880/
http://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_miyagi36/08/0801_jre/index.htm
その人に「公務員像がぼんやり」とか「内容がガバガバ」とか「表層しかみてない」とか。少なくとも石井氏の来歴や置かれた職場環境(北海道の地方公務員)ぐらいは判るはずだ。そこから文章で想定される射程(やその限界)も公務員問題にブコメするならある程度は類推しうるだろう。
職歴や来歴をはっきり書かず、焦点を絞り切らなかった石井氏もそれなりに悪いけど、事情を何も知らない人が書いたわけではないことは、何度も繰り返すが「調べると」「すぐに」わかる。
文章に対して批判をするなと言いたいわけではない。「現役公務員なのにこういう文章はいかがなものか」「現役だがこの視点が足りない」とかなら批判として成り立つ。北海道の地方公務員が知り得た事例をどこまで敷衍できるのか、の辺りに批判があれば、それは良い議論を生むのではなかろうか。
私は元彼とそこそこ仲がいい。
詳細は省くけど、元彼は結構病みやすくて、その度に深夜までかかって励ます生活に疲れたので私から別れを切り出した。
こういう所が本当に苦手だ、疲れた、とそう伝えた。すると元彼は気をつけてくれるようになって、以前より病む回数も減った。もともと趣味も合う人だったから、普通に友達として楽しくお話していた。
時折好意を思い出すこともあったけど、またあんな生活に戻るのは嫌だったし、付き合えばまたずるずるああいう話に付き合わされるんじゃないかという不安もあった。ただ向こうは私のことがまだ好きなままで、それにつられて感情をこぼしてしまうこともあった。付き合うことはなかったが。
そんなある日、元彼が同期の所謂「推し」の話を始めた。私と付き合っていた時にもよく可愛い可愛いと言っていた子で、私も概ね同意見だった。本当に可愛いのだ。そしてもう一つ言うと、誰の目から見ても明らかに私の元彼のことが好きだった。最近聞いた話だけれど、付き合う前から家に呼んだり、二人で少し遠くまで遊びに行っていたりしていたようなのだ。
元彼は推しのことが恋愛感情で好きになってしまったかもしれない、と言い出した。
そして私のこともまだ好きなままだと。
まあ何日か経って、結局普通に推しが恋愛感情で好きになったと言われた。
私のことも好きだよ、と言われた。正直イラッとした。なんていうか、キープにされてる感が凄かったのだ。散々推しが可愛い可愛いと話をしてきて、最後に思い出したように付け足していく。確かに私は元彼に好意を持っているけれど、そんなのは推しに失礼だ。
それからまた、元彼はぐだぐだ病み始めた。可愛い、告白したいけど怖い、推しが俺のこと好きだって言う人いるけどあんなに可愛い子が好きになってくれるわけがない。どんな会話をしてても突然その話に飛ぶのである。今はアニメの話だろうが、と思っても奴はペラペラと喋り続けるのだ。うぜえ、と思ったがわりと我慢して励ました。推しには悪いけど、二人が付き合ってくれればこういう話は全部推しに流れて、こんな日々からも解放されるはずだ。そう思って励まし続けた。
そしてついに先日、付き合うことになったと報告を受けた。私の胸に広がったのはようやくか、という安堵の気持ちだった。
ようやく終わる。感極まって私は付き合ってくれていたことへの感謝を述べた。祝福した。売れないJ-POPみたいな、恥ずかしい言葉で。今思うと完全に舞い上がっていた。これからも仲良くして欲しい、という元彼の言葉に、私は二つ返事で了承した。
すると元彼は言いやがったのだ。これからも、私には悩んだ時に話を聞いてもらうと。推しには推しが幸せになるような話をする、と。
ぐらりとした。本当に目の前がちかちかした。何故。何故だ、元彼。そういうところだぞお前ほんと。それが原因で私に振られたくせに、私が嫌だって言ったのを知っているくせに、なぜそんなことを平気で言えるんだ。なぜ新しい彼女には優しくできるくせに、私にはできないんだ。してくれないんだ。
昨日の夜、椅子の上に体育座りになって、机に半分寄っ掛かりながら、ぼんやり考えた。元彼にとって私ってなんなのか。これから私は、どうしていったらいいのか。そう思ううちに彼から連絡が来た。わかりやすく浮かれていた。彼女が可愛くて可愛くてたまらないのだろう。本人に言えよ、って感じだった。そう言うと、彼女はもう寝てるから、と言われた。よく言うよ。私と付き合っていた頃は深夜2時半に突然何十回も電話をかけて来たくせに。
まあそんでもって適当に話を聞いているうちに、なんでか彼は病み始めた。本当に好きでいてくれるのだろうか、みたいな。うわめんどくさいパターン入ったな、と思った。彼はぐだぐだと喋ったあと、もういい、と言って眠ってしまった。
もういい。私が付き合っていた頃、何十回も聞いて、その度に嫌で嫌でたまらなかった言葉だ。それをもう聞くことはないと思っていたのに、また聞かされるのか。そう思うと、私はなんだかどうしようもなくて、しんどくて、吐きかけたのを抑えて寝た。
これを書いてだいぶすっきりした。
他の人にも(オンラインでだけど)軽く話をきいてもらって、やっぱり発散するって感情の整理に大切な行為なんだなとおもった。
それからは段々と落ち着いてきて、そろそろ猫タワーを片付けるかと思っていたところ、動物病院から電話があった。不幸があったときの支払いは別日に「ご都合の良いときに」行うマニュアルがたぶんあり、そういうことになっていたのだが、こちらとしては当然あまり近寄りたくない場所になっているので訪問を避けていた。だが、いつまでも逃げ続けるわけにもいかない。
実はその前にもフラワーサービスが動物病院から届いてたりしたんだよね。そのぶんの代金を引いて欲しいとか思ったけど、コップに移し替えたら百合の花は案外長持ちしている。つぼみを咲かせるまで保たせたい。
で、今日、支払いに行ってきたんだけど、到着してベンチに腰掛けてる間に涙腺が緩んできて困った。本当に、最近は全然だいじょうぶになっていたから、場所に潜在意識が反応してしまったんだと思う。それでまた増田に縋るというか、こぼしに来た。
これから人と遊ぶ予定なんだけど、花粉症の季節だから顔面赤くても誤魔化しやすそうで助かるわ。
ちなみに処置費用は前日の検査費と合わせてざっくり六万円ほど。
他の猫が急死したときは原因もわからず、飼い主として出来ることがあったはず、と後悔も大きかったので、これは飼い主が納得するための費用だなと思った。一方でただ死ぬためだけに6万円……と貧乏人は歯噛みするのだが、獣医師さんもボランティアでやってるわけじゃないので仕方ないですね。
保険には入っておいた方が良いラインってどれくらいからなんだろう……とぼんやり考えたが、それはギャンブルの考え方だよな……。
はーーーー、いなくなった猫のことを考えるとしんどい。
しっぽつきのロボットクッション https://shop.qoobo.info/ が販売されるとのことで飛びつきそうになったが、発売日が秋口とのことで堪えた。
1年ほど前のこと。
しまう場所を移したところ、なんと湿気で顔とか髪にカビが生えちゃった……。
これは大変だとお店に連絡して聞いてみると、どうやら修理ができるらしい。
それから色々忙しくて、数ヵ月後にようやくお店に持っていくことに。
だけど、うちには車がないもんだから、買った時のバカでかい木箱ごと大きな風呂敷につつみ、
真夏である。人形に何かあったらいけないから、あんまり早歩きは出来ない。
店員さん曰く、専門の方に見せて、どういう修理方針になるか決まったらまた連絡しますとのこと。
ちなみに箱は預かってもらえないらしく、また同じように持って帰った。
すると、数日後の朝にお店の方から連絡が。
その時、私は寝起きで朦朧としながら朝ごはんを食べていたんで、母の電話口でのやりとりをぼんやりしか聞いてなかった。
お昼に、どうだったかと聞くと、お店の方曰く、「完全には取れないかも、それか顔を変えるかどちらかです」ということらしい。
母は、綺麗に取れるか分かんないみたいだし変える方にした、そっちの方が安いと私に言った。
最初は「ほーん」と答えた。
でも何かなあ、すっきりしなかった。ホントにこれでいいのか。
お雛様とお内裏様の顔立ちは、本当に綺麗だった。
忘れてたけど、そういえば小さい頃、3月になると和室に飾られるお雛様を見るのが楽しみだった。
確かに、顔を変えれば綺麗にはなる。
だけど、顔を変えたら、それはどんなに似ていたとしても”あのお雛様”じゃなくなっちゃうんじゃないだろうか。
その日の夜、その旨を母に訴えた。
母も、私の言い分に納得したようだった。
翌日、またお店に連絡し、結局修理することになった。
で、2か月後くらいに修理が終わって、母が取りに行った。
そしたら、すごく嬉しいことがあった。
そのお雛様が、職人さんたちの間で「20年前のものとは思えないデザインの良さ!」と絶賛だったって。
顔立ちももちろん、着物も今ではもう作ることが出来ないらしい。
顔を変える方法から修理する方法に変更した際、職人さんはとっても喜んでいたんだとか。
それを聞いて、やっぱりうちのお雛様は凄い!と何だか誇らしい気持ちになった。
あとで知ったことだけど、そのお雛様は、私の亡くなった父が購入したものだった。
寡黙で、いつも買い物は母に任せっきりだった父が、珍しく「これが良い」と言って買ったらしい。
母は、「やっぱり貴女の言った通り、修理してよかったよ。顔変えたら、違うお雛様になっちゃうものね。」
と喜んでいた。
顔に汚れがあったお雛様の方は、顔を少し削ったとのことだった。
職人さんも、すごく頑張ってくれてギリギリのバランスで削った、と。
確かにほんのちょっと鼻の線が滑らかになって、お顔がうす桃になったけど、
まあこれはちょっと整形したんだよね。
やっぱりあの時、言ってよかった。
ようやく春になって、2年ぶりに雛人形を飾ることが出来た。
やっぱり、うちのお雛様とお内裏様が、一番綺麗だと思う。
最近毎日もやし鍋が続いていたので、たまには違うものを食べよう。そう思って買ったスーパーで鶏肉を買った。
家について気付いたのだが、ストックされている食材はもやしと豆腐と卵、調味料くらい。
もやしは足が早いし使い切りたいのでもやしと鶏肉を炒めてみた。
完成したものは、なんとなくこんな感じだよね、というまずくはないが特別うまくもない料理だった。
なんだろ、ぼんやりした感じ。
やはり完成品のイメージがぼんやりしていると、結果もぼんやりしたものになるんだなぁと思った。
その点鍋は偉大だ。なんとなく野菜をぶち込んだだけで鍋料理になってくれる。
明日も鍋にしよう
つらつら書いてたら凄く長くなったので時間のある人よければ。私のクズっぷりにイラつくかもしれません。
クソつまらん理由というのは、部活のとある仕事をマジで絶対クソほどやりたくなかったから。以上。ちなみにこの仕事は私が高二の時に廃止になった。ちょっと笑った。
その頃の私は毎日活動のある部活に所属していて、学校に行く=部活に行くだと思っていた。部活のアレをしたくない→部活に行きたくない→学校に行きたくない。我ながら酷いダメ人間だと思う。
母は学校に行かないことにちょっと、いや本当はかなり反対していたのかもしれないが、「もう義務教育じゃないからね」と目を瞑ってくれていた。その代わり引きこもる間は私が家事をしていた。と、言っても洗濯と皿洗いと肉屋のタイムセールに行くくらい。かなり優しく甘い。でも部活が嫌すぎて精神が弱っていた私は否定されなくて安心した。本当にいいお母さんだと思う。
父は良くも悪くも寡黙な人で、私が学校を休んでいて暫く言わなかった。逆にドキドキしてたが、母には「あいつは学校に行かんのか」と相談していたらしい。わたしにも「高校なんて行かなくてもいい。大学で何をどのくらい勉強するかが大事」と言ってくれた。マジで優しい。大学生一年目に全然勉強してなかったら怒られた。二年目は頑張るよ。
最初一週間は風邪なことにしていた。症状が酷いことにして友達からのLINEもみなかったし返さなかった。見放さないでくれた友達全員が聖人過ぎる。きっとこの人たちは長生きするし良いことがある。
一月下旬、部活の仲良しグループのLINE通知を見て思わず既読をつけた。
「今から〇〇の家行くわ」
部活終わりの18:30過ぎの通知。見たのは19:15。お風呂で見た。学校から家までは大体1時間。私は大慌てで髪やら体やらを洗って風呂を出てまたグループを見た。
「マジでいってる?」
1ヶ月弱ぶりの返事に既読は即ついた。四人グループだから既読3。驚いた。
「ちょっと迷ったけどもうすぐ着く」
三人は本当に来た。お風呂上がりで髪の毛も濡れてるし死のうと思ってドアを開ける。学校来いとか部活こいとか言うだろうか。何を言いに来たんだ、どうしてきたんだ。
「あ、なんか思ってたより元気そうでよかった」
三人はそう言って笑って私に次に出る公演のチケットを渡すだけ渡して帰ろうとした。私はとりあえず三人にチョコパイを渡して、慌てて外に出れる格好に着替えて最寄り駅まで送った。
駅までの道で「死んでるかと思ってたー」「なんかこれ青春っぽいね」「お腹すいた」みたいな話をした。私はあーとかうんとか言うばかりだった。混乱してたし。
別れ際に一人が言った。
来たくなったらでいい、来れそうならでいい、とか続けてて私はちょっと笑った。この人たちは今でも仲が良い。本当にいい人達だ。誰も彼氏はいないけど。
でも私は行かなかった。本当バカ。行けよ。
二月。バレンタインの季節だなんて思ってたら担任から二者面談のお誘いが来た。外に出たくないわけではなく、部活に行きたくない、授業に行きたくない、学校の人に会いたくないだけだったので行った。家庭科の先生だったから家庭科室で面談した。
「やっぱり、部活のせい?」
私のいた部活は辞める生徒も毎年何人かいて、まあ厳しい部活だと思われていたのだろう。私は部活が厳しいから辞めるわけじゃないし、そこまでヘタレじゃないし。と謎の意地を張って(しなきゃいけないことがしたくない、つまり部活のせいで学校に来てないわけだけど)「違います」と言った。で、まぁぼんやり考えていたことを担任に言った。転校しようかなと思ってるとか、高卒認定試験受けようかなとか、学校にいく意味がわからなくなったとか。担任もまた良い人で、無理に来いとは言わなかった。「二年生として転校したいなら協力はするから、三学期末テストだけは受けて欲しい」とか「合唱コンの練習を頑張ってるから見に来て欲しい」とか言われた。私は三学期末テストを受けて合唱コンを見にいくことを決めた。
ちなみにこっそり見に行った筈の合唱コンなのにクラス全員に私が行ったことはバレていた。
Twitterの裏垢というのがある。仲良い友達同士だけでフォローし合う身内アカウントだ。そこで「三学期末テスト、受けるだけ受けようと思う」みたいなツイートをした。
クラスの仲良い子から電話が来てびっくりして出た。聖人二人組だった。
「一緒にテスト勉強をしよう」「いつもしてた(定期テスト前はグループ通話をしながら勉強した)みたいにしよう」「範囲は全部教える」私は受けさえすればよかっただけのテストを勉強しはじめた。
テスト一週間前くらいから聖人コンビはほぼ毎晩電話をかけてくれた。内容はほぼ雑談で何を話したかあんまり覚えていない。「一回学校来てみて」「一回きたらするっと復活できるよ」と言われたのは覚えてる。でも学校に関すること本当それだけ。嘘、合唱コンの結果も聞いた。一年生ではトップだった。
その日の朝は死ぬほど嫌で嫌で嫌で嫌で死にたかった。ヒソヒソ話されたら死ぬ。でももうあと3.4日でこの学校とはおさらばだ…四月から二年生として生きるために耐えるしかない…。
そう思っていたけど周りは普通だった。普通にインフル明けの人みたいに接してくれた。元気?とか遅刻してないねとか、覚えてないけど超普通でなんというか拍子抜けした。
次の日もその次の日もテスト最終日まで私は遅刻せずテストを受けたし赤点はなかった。なんなら数学は普通に点数良かった。
テスト最終日、数日後のレクリエーションの球技大会の競技決めをした。私も普通に頭数に入っていたし、私含めた八人グループみんなでドッヂボールにした。学校行ってこの人たちとドッヂボールしてからやめても良いか。
球技大会まで学校に行っててふと気づいた。別に普通だ。学校行って虐められるわけじゃないし普通に楽しいし、多少先輩がいるかもとか気を使うけど超普通。え?じゃあ学校行けば良くね?
学校は辞めなかった。転校もしなかった。
でも部活はやめた。でも家に来てくれた三人は変わらず仲良くしてくれた。
特に盛り上がるところは無かったが私が高校を辞めそうだった時の話はおわり。
話の構成下手ですまん。
とにかく両親と担任、友人五人に支えられて、この人たちのおかげで私は高校二年生になれた。
もちろん高校の人がみんないい人で私を指差して笑う人がいなかった(いたかもしれないけど私は知らない)から二年三年と辞めずに済んだ。
特に友達五人には感謝しても仕切れないしなんていうか意味がわからない。
出会って一年ない他人にここまで尽くせるか? 家まで行ったりテスト範囲教えて一緒に勉強したり、普通に学校戻っても仲良くしてくれたり。
私は高校三年間でたくさんの人にお世話になった。ここであげたのは八人だけど、私はこの八人なら誰の連帯保証人にでもなれる。
(追記)
映画見終わったら上の方にあってびっくりした。読んでくれた人本当にありがとう。
私がいいやつだったかは自分ではわからないけど、本当に周りに恵まれて愛されて育ったんだなって思います。あと連帯保証人はやめます。私の自慢の友達に限ってそんなことはないと思うけどね。
誰かを助けられるような人になるよ、ありがとう。
横ですが。
数年前に、親知らず2本抜いたけど、特別痛くもなく、血は多少出て縫った程度。歯並びはいいほう。
突然だが私はアイドルマスターSideMのS.E.Mというユニットの担当Pだ。
自分語りのような事が苦手なタイプなので上手く話せるかわからないけれど、とにかく今消化しなければと思ったので、これまでの話と、2018年2月3日、記念すべき3rdライブ初日に起こった事、感じた事をそのままダラダラ書こうと思う。備忘録のようなものなので、見るも見ないも自己責任でお願いします。
タイトルにもある通り私は現JK。小学校の頃高校に上がれば自然にできると思ってた彼氏は勿論いない。ただのオタク。
通っているのは中高一貫、自称進学校と言われているタイプの学校。偏差値と釣り合わない勉強スピード、量。それに加え人間関係が重要になってくる部活。(詳しく書くと知っている人にはバレそうなのでやんわり言っておく。)
中学に入ったばかりの頃はそれまでと違った環境にわくわくしつつ必死にくらいついて勉強していた。受験後の先取りもあり成績は中の上。この時既にアイマスには出会っていた。真ファン、律子Pをやんわり続けていた。突然だけど初星二日目の律子ヤバかったな。その調子で2年が過ぎた。
段々あれ?と思いはじめたのは中二の冬。勉強のモチベが上がらない。(この時、SideMにも出会っていた。元某サッカーアニメオタクのショタコン私、ホイホイWともふもふちゃんに釣られました。かわいい。)
英語は文法なんて覚えなくても教科書の例文を丸暗記で最低限必要な点数が取れる。
数学は、担当教師が某有名大学卒業生でプライドエベレスト、質問しても何故か違う話に飛躍する。(私達の偏差値が某有名大学に間に合ってないのもあると思うが)教え方は教室満場一致でド下手という評価。しかも間違いを指摘すると逆ギレ…という人間性で、単純バカな私は数学そのもののやる気が削がれていた。
その他理科、社会etc…もただただ暗記。理科はもともと苦手意識があったのでこの頃から少し逃げていたかもしれない。
ぼやぼやと今やってる勉強って意味なくね?と思い始めてしまっていた。
キツイな、と確信したのは中3入りたて。(ここらへんで趣味嗜好が180度変わったヒゲおじさん大好きウーマン私、本格的にS.E.M&山下次郎Pに。)
学校の教育方針で、数学や英語は中学の間に高1の内容をほぼ終わらせる事が目標だった。
そのおかげで内容は急加速、もともと集中力も無く勉強の理解に人一倍時間を要する私は秒で置いて行かれた。
成績はほぼほぼ地に落ち、補習、小テストの追試常習犯。夏休みの3分の1を奪われるらしい特別補習はなんとか免れたものの、遅刻もしばしばしていた。
一つできなくなると全部芋づる式にできなくなるタイプなので普通にヤバかった。
担任もそういったことにとことん追い討ちをかけるような人で何度も「このまま進級する気ですか?」「あなたがこのまま高校生になれるとは思えない」と面談等で散々言われた。ちくしょう、思い出してちょっとムカムカしてる。
5月頃、既にリリースされていた「ST@RTING LINE-06」を購入した。SideMのはじめての担当の曲が入ったCDだった。
ドキドキしながらCDケースの蓋を開け、pcに取り込み、はじめて「Study Equal Magic!」を聴いた時。
私はただただひたすら驚きで固まっていた。
こんな世界もあるのか、と単純にびっくりしたのだ。小学校も私立で、受験が確定していたため、小学一年生から塾に通い受験勉強をする毎日。結局行ったのは六年間の努力虚しく落ちた第一志望では無く全く今まで知っていた校風と毛色の違った滑り止め。
それでもなんとか喰らい付こうと頑張るも突然虚無感に襲われ全く手をつけられなくなった、「それ」=辛い、という私の中のイメージが、一瞬で粉砕された気がした。
けれど、私の中に根付いた勉強から離れた習慣、実際相手をする教師、そんなもの達はなかなか簡単に私の苦手意識を振り払ってくれなかった。
成績は若干持ち直したものの、それ以上もそれ以下も無く、ずるずる引きずったまま高校に上がってしまった。
そんな話を新しいクラスにもまだ慣れていないような時期にされ、あまりそういった事に実感が湧かなかった。
しかし割と直ぐに嫌という程実感する事となる。
一学期は勉強どころでは無く新しい環境に慣れるのに半分ぐらい要したが無事終了。
グリーティングツアー東京公演、私の初めての、現地でのSideMライブ参戦だった。最高だった。生のS=Mを聞いた時、初めてCDを聞いた時の鳥肌が返って来た。夢中になってペンラ振ったし、タケノコ生やしたし、しゅくだい!わすれない!!もした。山下次郎も中島ヨシキも最高だった。産まれて来てくれてありがとう。そのあと一週間は余韻が抜けきれなかった。現地って最高だな……
悪い方に進展があったのは夏休み中盤だった。思わぬところでダメージを受けた。部活の合宿だった。
はじめて思うような結果を出せず、目標を果たせなかった。追い討ちをかけるように、新学期になり練習に対する価値観の違いによる部活内の対立と、その中立的立場になってしまった事。
ぶっちゃけ死ぬかと思った。勉強も、二学期になり急に難易度が上がり例の如く取り残される。受験の重圧、周りの去年とは段違いのやる気。
メンタル弱いなとか思われてても仕方ない。というか私も自分で思ってる。
学校に行けなくなったというのは朝起きて、「学校行きたくない…」と震え、結局その日一日結局動けなかった…というような感じでは無く、単純に、朝早く起きれないのだ。
精神科に行くと、精神病と診断され、自覚がないままメンヘラJK突入かよぼんやりとか思っていた。
親にもお前の気持ちが弱いから、とだけ言われ続け、午前の授業の欠課数だけ増えて行く。
科目を二つ落とせば留年、今のところあと欠席可能回数が一桁しか残っていない科目が二つ。
今年に入って朝のHRから出席した日は一日しかない。なんというか、疲れてしまったのかもしれない。
勉強に追われ、部活に追われ。大半は自分の責任だとわかってても、もう考えるのも疲れていた。
さて、めちゃめちゃ長くなったが2/3。
3rdライブも、お金の問題で遠征はできず幕張を狙ったが落選。それ以降は実はSideM自体、アニメは見ていたけれどゲームをあまり開かないぐらいには、私の中では薄れかけていた。そんな中、ギリギリで取れた3rdライブのLVのチケットを握りしめ、豊洲pit以来出していなかったS.E.Mのペンラと共に友人と映画館へ向かった。
そして開幕した3rdライブ。久々に見る担当の姿に感動しつつ夢中になってペンラを振った。全員揃ったのはマジで感謝しかねえ…
S.E.Mの最初の曲は、S=Mだった。やっぱり、最高に楽しかった。
恭二に唐突に求婚されたり所々爆弾を投げつけられながら、合間のトーク。
次の幕に移ろうとしていた。しゅごんが話の流れを持っていく。
「先生達の指導が必要だな!(うろ覚え)」みたいなことを言ってたきがする。S.E.Mだ、と思って大急ぎでペンラを持ち替える。
めちゃくちゃドキドキしながら待っていた。
会場が暗転。ピンクの光がちらほら増えていく。
会場からも歓声が上がる。
S.E.Mのアニメでの新曲、「From Teacher To Future!」だった。
硲先生が歌い出す。るいが続く。次郎ちゃんもそれに続く。そして全員でこう言った。
「君は出来る 何だって出来る
君はなれる 何にだってなれる」
瞬間私は泣き崩れていた。そこには確かに、中学生の時始めて私の背中を押してくれた、あの先生達の姿があった。
それまでごちゃごちゃ考えていた事が一気に流されたような感じだった。
S.E.Mがずっと私たちに伝えようとしていた事が、本当に今更だけどその時はじめてわかった気がした。
「頑張ろう、一緒に行こう!」と言ってくれた先生達に、私はたぶん、一生感謝するだろうなと思う。大げさかもしれないけど、それぐらい、今の私はS.E.Mというユニットに救われた。
ペンライトもロクに振れないぐらいボロボロに泣いて、「がんばれ」って横でずっと支えててくれてた友達にはマジで感謝しかない。
受験休みが終わって、明後日からまた学校が始まる。ちゃんと朝から行けるか不安もあるけれど、少しでも前に進むためのエールをあの時S.E.Mから貰ったので、私はその分、頑張ろうと思う。
くぇぉぅぇぁぁ。ぼやける視界を押し広げると、月明かりでぼんやりと浮かび上がっている天井が見えた、夜らしい
左腕が疼く。見てみると、記憶にない無数の、正確に言うと17本の切り傷の上に固まった血がこびりついている。知覚が起動し始めるとこれまた記憶にない下腹部の違和感が出てくる。前と後ろも
時刻は1時17分。外が暗いから午前なのだろう。空腹が胃壁に針を刺し始めてきたのでコンビニに行くことにする。月明かりを頼りに空っぽのカップ麺と卵(卵?なぜここに卵があるのだ?)をどかし、(触感からおそらく)下着と(大きさからおそらく)ジーンズとなんかのTシャツを探り当てる。ちょっとしめってるけどまぁいいやと着、鏡を見ずに外へ出る
神僕と大森靖子が鳴り終わり、女王蜂が流れ始めるとセブンについた。塩おにぎりと焼き鳥パック、セブンプレミアムの担々麺にいいちこをチョイス。空白に視線を落としながら佇む男の子はレジを打ち、寝起きの女は代金を渡す。帰り道は時雨にした
電気ポットから熱湯を担々麺に注ぎ、3分後に液体スープ、塩おにぎりと串から外した焼き鳥を入れてかき混ぜると完全食の完成。グラスに注いだいいちこと一緒に
死生観の話。死、つまり無はこれまで自分にとってすぐ隣、すぐ裏、すぐ前、いつでも簡単に手にとって眺めることのできる位置にあるものであり、死と生という二つの選択肢のうち、生の方を偶然、たまたま、思いがけず、強制的に、否応無く、止むを得ずやっているという感覚と過ごしてきた。実際にやったことはないのではっきりとはいえないが恐らくやろうと思えば人を殺すことのできるタイプの人間であるし。実際にやったことはないのではっきりとはいえないがこの世界から居てもいなくても特に問題のない人間のうちの一人である
とにもかくにも、今は死の方に行ってみたい気分なのだ。ひっくり返してみたい気分なのだ。すぐそこにあり匂いただよう死へ
いいちこを飲み干し、窓を開け、ベランダの鉄格子を、8階の鉄格子を、一切の躊躇なく、流れるように、前からそうと決まっていたかのように飛び越え
7階 6階 5階 3階 ほら簡単
当たり前のことができなくて、最近つらくなってきた。片付けることができない。夜にこれをやろう、あれをやろうと思うのに、朝起きると何もしたくなくて一日終わってしまう。それでも仕事があれば仕事に行ってその間は何も考えずにすむのだけれど仕事が終わればあとはまた虚無に戻ってしまう。時間はある。なので部屋を片付けることはできる。いつもせめて5冊本を移動させようとか洗濯ものをたたもうと思うのだけれど家かえるとすぐにテレビつけてお酒を飲んで、たまにはお風呂も入りたくなくてそのまま寝てしまう。いくら寝ても眠いし夜に起きてしまうし、なんでこんなに当たり前のことができないのだろうと涙がでてくる。仕事以外は何も話したくないし連絡きても全部返してないし返してないことがまたなんで返せないのかがいやだ。時間だけが無駄に過ぎていく。生産的なことができる人がうらやましい。ひたすらオリンピックの録画している競技を見てぼんやりしている。だめだなあ。
サービス開始時から追いかけてて、アニメにいないアイドルのPだが2
Twitterではめんどくさい意見見たくなくてジャンルの人はフォローしてない
アニメもまあそのうち2期あるだろうという(アンチの方々からすると)お花畑発想があるからかも
曲数格差やゲーム内のローテーションについて思う所は公式へご意見済
ここからはこのジャンルに限った話ではないんだけども、声のデカさというのはどうしても否定意見のほうが大きく見えるし盛り上がる
最近のオタク向け商売はどれもスピードが速くて(商売のスピードだけでなくキャラクター自体の変化も)
そういう意味で公式がしんどくなる人がいるのはわかるんだけど、
アラフォーの働く母です。
先日、娘6歳が入学予定の小学校の入学前登校日があって、子供達が教室で過ごしている間に親は講堂で先生のお話を聞いた。
そのなかのひとつに、「スマホに子守りをさせるな」という話があった。自分が忙しい時に子供にスマホで遊ばせるというのはけしからんと。まあ最近よく聞く話。
我が家では最近夫がスマートスピーカーを買って、娘はときどき「ダジャレを言って」「なぞなぞを言って」と話しかけてスピーカーに遊んでもらっている。スマートスピーカーに子守りをさせていると言えるかもしれない。それもきっとよくないと言われるんだろうな。
我が家は夫婦とも出張が多いのでペットは飼えないと思っているが、いつかaiboは買ってみたい。娘がaiboと遊んで過ごしていたら、それもよくないのだろうか。
先生の話を聞きながら、ぼんやりと自分が子供のころの似たような話を思い出してた。ファミコンは悪者だった。テレビ脳という話もあった。でも散々ファミコンで遊んでテレビを見て育ったが、私は海外の大学院を出て世間的に立派とされる仕事に就いたし、同じように育った弟も東大を出たよ。
正直に言うと毎週楽しみに見ている。
けれどもなんというか、もの足りない。
いろんなキャラの情動が、味の素というか、パッケージというか、レトルトパウチみたいな感じがする。
岡田麿里っぽいというか。
何でこう感じるんだろうなー。
だから登場キャラ達を生活者としてリアルに感じることが出来ない?
メインキャラが多過ぎ?
10人も居るこどもたちが常に出てくる時点でどうしても一人一人は浅くなる?
単にドラマの作りが下手?
たとえば6話のヒロの復活だって、ヒロの中の何が変わったのかよくわかんないもんな。
02が1人にされたら上手く操縦出来なくなる姿ってヒロにとって意外なものではないはず。
2人で操縦するもんなんだって02も周りも何度もそう言ってるし、
02が戦闘中に相棒にダウンされて1人になって出血して弱ってる姿もヒロは見たことあるし。
まだ敵を倒してないうちにダウンしちゃったら02に迷惑掛けたり02も道連れにしたりしちゃうことはわかってたわけで
「気持ちよく死のうとしてたら02が困ってる」っていうのは意外な光景でもなんでもない。
新情報が何もない。
だからヒロの心があそこでどう劇的に変わるのか、変われない。
ので、ただ突然蘇って身体の侵食を治して「ウオオオオオオーーーーッ!」って根性出すになっちゃったから
ダリフラに好意的な海外でもあそこは「ass pull」って結構否定的に言われてる。
あの展開にするならもっと02が弱みや裸なんかも見せたことなくていつもきれいにしてて、
ヒロは02と仲が悪いか強い不信感を持ってて、
「俺はたぶん使い捨てられて死ぬけどお前も勝手にやれよ、ケッ」ぐらいの感情持ってるようにしておけば
「グオオオオーッ」ってボロボロになって狂乱してる02を見て「やっぱりこいつを助けるんだ!」になるヒロに感動できたと思う。
最後の一撃を02だけで出来るようにアレンジして託して、心置きなく使い捨てられて死のうとしたのに
02が動揺してヒロをセーブする方を優先して敵を倒せなくなって窮地に陥っちゃうとか。
これならやっぱり02の意外な一面を見て「勝手に死ぬつもりじゃダメなんだ」ってなったヒロが根性出すのは感動できたと思う。
これらはすごくベタで単純な1案にすぎず、絶対これにしろって意味じゃないよ勿論。
(02のベタベタする可愛さとヤバさを前面に出すことで興味を引っ張ってきたアニメだし)
でもとにかく、
何の新情報も心の回転もないまま「ウオオオオーッ」の気合で絶望的な状況を転回させちゃうのはまずいでしょ。
ドラマとしても戦いの駆け引きとしても。ass pullともいわれるよ。
どうなんだろう。
つまりわりと一本調子っていうことなのかなあ。キャラの行動や心が。
人間関係もSFも、伏せられた情報が次々開けられていく感じがあると興奮や快感があるもんね。
あのマグマエネルギー世界の設定はあまり面白い斬新な物は出てこないのが感触としてわかってしまう。
わからん…。
はっきりとはわからん。
作中情報量は多くてもずーっとガシャガシャワアワアやってる感じ(静かなシーンも)
それがこの結末である。
気付けば妻が居て、飲み始め以降の記憶がなく、飲み過ぎたかとぼんやりしていると、
そんなとぼけた状況ではなく、意識が戻ったことを確認しに看護師がやってくる。
ここでようやく自分が救急車で運ばれた事を告げられ、認識する。
意識回復後にはすぐに病院を出て、帰宅は朝の6時を過ぎていた。
お酒で人に迷惑をかける事が自分の中で情けなく、どうしようもない事だと思っていたので、
・救急隊の命をまもるべく一生懸命に働いている人たちに、自分の事で迷惑をかけたこと
・自分の相談の為に時間を作ってもらった相談相手へのこの仕打ち
・深夜にかけつけた妻
・空いたベッドで寝ている小学生の娘
どんだけ沢山の人たちに迷惑をかけたのかと、
冷静になればなるほど、日が過ぎるほどに罪悪感で押しつぶされそうになる。
情けなくてしょうがない。
犯人が近所に住んでたってだけでワイドショーのインタビュー受けることになった人が
「あんなことするようには見えませんでしたけど・・・」と答える様に、
毒にも薬にもならないぼんやりした意見しか言わない人が増えてしまったと思う。
裸の王様じゃないけど、悪戯で背中に貼り紙貼られているのに誰も指摘しない様なむず痒さを感じるんだよね。
「指摘したら相手が傷つくから黙っとこう。」っつうのは優しさじゃない。
だいいち本人も薄々わかってるけど確証が持てなかったり同意してくれる人がいなかったりで表に出してこないケースも多い。
元増田のグミにしたって「不味い」と投稿するのは氷山の一角だ。
世の中の大多数の人間が不味い菓子に遭遇してとる行動は「次にその商品を見ても買わない(無視する)」ってことだ。
そうやって商品が改善されることもなく誰にも相手にされなくなって採算が取れなくなり生産停止。こんなことが幾多と起こってきたんだ。
今はエゴサーチ出来るからそういう物も参考にして商品開発は行われている。
他の事例は違うかもしれないけど、グミの悪口を書くことに至っては有意義なことだと言えるはずだろ。
悪いと思うことを事なかれ主義で受け流すことをあたかも善人の振る舞いかの様にいわないでほしい。
それはただ卑怯なだけだ。なくて七癖というから卑怯なことも人間味として必要なのかもしれないけど決してそれは優しさではない。