はてなキーワード: ぼんやりとは
最近、頭が痛くってさ、早退したり、休日は家でずっとベッドの中で寝ていた。
せいぜい、休みの日に家を出るっていったら、歩いて徒歩5分のコンビニで弁当を買うぐらい。いつもおにぎりとサラダを買っている。あわせて300円にもならない食事。そんなことはどうでもいいか。
でさ、流石にずっと寝てるから、することが無くて困ってんの。まあ、最近はテレビを点けてオリンピックをダラダラ見てるぐらいかな。オリンピックは良いよな。一日中ずっとやってるし。CMも無いから。せいぜい、他の国同士の団体の競技をもう少し見たいって思うぐらい。
それがここ数週間の俺の休日。
ガンガン痛い頭の痛みやときどき現れるふわふわした気分を抑えながら、データ入力をするのが俺の仕事だ。単純作業だけど、正確性が求められるのでこの状態だとかなりキツイ。ぶっちゃけ俺じゃなくても誰でもできる仕事だ。だから、俺が不能だと分かったら、さっさとクビにするだろうな。会社の中で死んだりでもしたらメーワクだから。
こんな状態が毎日続いていたんだが、どうやら、俺はいわゆる残留思念に取り憑かれているらしい。
説明は難しいが、こう、急に分かった感じがするんだ。パズルのピースが嵌ったような気分。もしくは数学的概念が理解できたような。
昨日、快挙と言っていいと思うのだが、残留思念と対話することに成功した。対話というより通信のほうがいいかもしれない。よくマンガとかで出てくる「こいつ、直接脳内に……!」みたいなアレ。あれは読者が日本語ベースで理解しようとするから、日本語で書かれているけど、実際に言語でやり取りはしていない。ぼんやりと分かるようになるぐらい。残留思念は無口だ。これは俺の場合だけどな。
その残留思念と通信してわかったのだが、俺に残留思念を送りつけたのが、仕事場所で俺の隣りにいる横田らしいんだ。
横田は勤勉だし、性格も良いから、頭が痛いとぼやく俺のことをいつも心配してくれる。もちろん、他の同僚たちにも気を配る優等生だ。仕事もよくできるので周りの評価も高い。
そんな横田がなぜ、と思ったのが最初の感想だ。そこで、横田が残留思念を送ってきたのか理由を通信した。
しかし、残留思念にも分からなかった。いくら残留思念でも、創造主の頭までは侵入できないのかもしれない。
仕方が無いので、今日出勤してきたときに俺の残留思念の一部を横田に送りつけてみた。ちょっと横田の脳に触れる感じ。
すると、面白いことが起こった。
残留思念の一部が横田の脳に攻撃すると、そこからどんどん別の残留思念が出てくるんだ。耳、鼻や口とか穴の中から出てくるんだ。というか、俺は残留思念を感知できるようになった。
俺の会社では毎日朝礼があって、部長の朝の挨拶の間でもずっと横田は残留思念を垂れ流しにしていた。心なしか横田の影が薄くなっているような。でも、みんな横田の異変には気づいていない。
おそるおそる、俺は横田に気分が悪そうに見えるが大丈夫かと尋ねてみた。
横田は一目俺を睨んだだけでなにも言わなかった。誰が残留思念を送ってきたのか分かったのかもしれない。
朝礼が終わると、横田はすぐにトイレに向かった。俺もこっそりついていった。
トイレの個室で横田は小さくうめき声を上げた後に、声は止んでしまった。
その後、俺は横田を見ていない。
横田の隣の席の横横田と話していると、ある核心的事実がわかった。
なぜそれがわかったって?
いったん、残留思念に取り憑かれると空気中を漂う他の残留思念が体に集まりやすくなるようだ。体の許容量を超える残留思念が溜まるとそいつは消滅する。
横横田もすでに許容量の半分ぐらいがすでに侵されている。
ふつうは、残留思念が集まるといっても1思念1ヶ月ぐらいのペースぐらいが平均みたいだが、横田は異常なスピードで残留思念が集まってしまったと教えてくれた。きっと、社内外問わず広い交流をしていたからに違いない。
残留思念が多すぎるとふとした拍子に残留思念が漏れ出てしまうことがあるらしい。それが俺の中に入ってきてしまったというのが横横田の仮説だ。
では、どうすれば残留思念を追い出せるのかと聞いてみたが、それがわからないと返ってきただけだった。一方的に溜まっていくだけで今のところ防ぎようがない。
今は1思念だけなのでまだまだ許容量までには十分余裕がある。
4年生の2月。あと1か月後には卒業を控えているこの時期に卒業延期が決まったらしい。
どうにも私の彼氏はツメの甘いところがあるので、なんとなくまずい予感はしていた。
聞くところによると専門科目の授業内テストを落としたらしい。
内定は下りているが辞退になる。もったいないな、というのが一番の気持ち。
公務員をずっと志願していて、公務員一本で就活して受かったのであった。
4月から公務員なのであれば、このまま上手いこといくなら3年内に同棲して結婚~なんてことをぼんやりと考えていた。
だけども実際はこれである。
試験はおそらく受けなおしとなる。
激しく落ち込む彼氏の横で能天気に笑いとばしているものの。実際好ましくはない。
けどまぁ仕方ないよなぁ。
無理だとわかったその足でわたしに 別れてもいい、とくるのだから、なんとなく放っておけない。
卒業延期のお金はわたしの財布からでないし、彼氏の親がそこそこ裕福なことも知っている。
わたしは奨学金を借りているけども彼氏は推薦で入って学費も半額に抑えられている。
自分で学費を出せ、と言われたらしいので身内からお金を借りて半年間バイトしながら通うことになるのだろう。
わたしだって全然優秀でないし、単位も卒業論文もギリギリだし、発表のパワーポイントは目下作成中だ。
卒業できない、とわかった彼氏は落ち込んでいて、最悪高卒で適当な会社で、なんてことを呟いていたので怒ってしまった。
怒るというか、悲しくなるというか。
夢だったくせにそんなことを言うもんじゃないだろうと思った。
頑張ってくれ、彼氏。
妹に自業自得だと笑われても、親ががっかりしても、祖父母が落ち込んでも。
私は他人なので。
今は能天気でいようと思う。
頑張れ彼氏。
資格とか取って、少しなら美味しいものも食べれるくらいには稼ぐよ。
習慣性は思ったより無いといっただけで止めるなんて一言も言ってないし酒場が有る以上辞めるつもりも無いんだ。悪いな。
でもそのうちやめるんだろうなあとはぼんやりと思ってはいるんだけどな。
何か迷惑かかるか?
40代。既婚子無し。都心に住んで都心で働いている。出世コースに乗ってはいないが、取り立てて不満の無いポジションにいる。暮らしにも仕事にも急を要する不満は無い。
けれども一つだけ。騒がしいのが苦手でならない。仕事でもプライベートでも都心ではどこに居ても、常に騒がしくてかなわない。過剰な笑い声、貧乏揺すり、飲食店でのクチャクチャ音、クルマのクラックション、電車の中のイヤホンの音漏れ、常に何らかの不快な音が耳に入って来て堪らない。心から落着くのは自宅の部屋の中だけだ。
そう書くと、速攻で鬱の気があると返される。まぁ若干はそうなのだろう。が。音以外に関しては大過なく日常生活を過ごせている。外出それ自体は楽しいし、人付き合いも苦では無く、自宅に引きこもるのは嫌だなと思う。でも騒がしい環境には結構消耗させられる。
一方、国内旅行で地方に行った際には、必ず夜中に宿の周囲を散策するのだが、殆どの旅行先で、その静けさに驚かされる。聞こえて来るのは虫の声と風の音とたまにクルマの走行音。理想的な環境だ。この環境を一日一回満喫出来るとしたら、とても素晴らしいなと憧れる。都心にいるとまず手に入らない環境が地方都市にはある。気がする。
新卒以来一度も職を変えた事がないのだが、転職して移住する。という選択肢もあるのかな?等と最近ぼんやり考えてみたりもする。連れ合いに相談してみようかな。驚くかな。落ちも何も無いぼやきみたいな事を書いてしまった。他所でやれクソ雑魚ナメクジコメが付きそうだがまあいい。日記だ。
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
文系でも同じですが。研究という営みの本質は文系も理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているから相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系は研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラルな上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系と文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用で理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)
もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。
いや、レビューがオリジナルな研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナルな研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗の論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナルの研究成果だ。博士論文の書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル(典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチのオリジナルな研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナルな研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。
ひょっとして文系の研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)
だから、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人の研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女が政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者で彼女を学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女の雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田は最初「和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わず、レビューしか書いてないなんて研究者とはいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。
いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文は研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PDや東大講師、あるいはテレビの出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大の問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビの問題、言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者のリテラシーの問題でしょ。理系の学位や肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由で開放的な性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。
うんだから、文系の研究者が色んな外国語を勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語とドイツ語の研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代や中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語の地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。
これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語の地位を高めていくべきだ派と、日本のアカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本の文系研究者の多様性は、アメリカやイギリスほどじゃないにせよフランスやドイツやロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史や英文学からアフリカの人類学、オセアニアの少数言語、中央アジアの歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人やフランス人やドイツ人がそうできるように、自分たちの言語でそれらの分野の最先端の研究成果を手にすることができる。東アジアや中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語で博論を書いて自国で教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。
もちろん、日本研究を専門としていない欧米人に日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本の論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたものを翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究が日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。
こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文はアメリカ人が日本語を翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀のフランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語が頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別に昔からずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人が中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文で論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産の動物種の研究だと英語論文に和文論文が引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語が統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。
いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田の感覚はわかるんだよ。というかそれは文系の研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語で積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端の研究成果を自分たちの言語で読めて、どんな地域の研究だって自分たちの言語で遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語が日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマの研究はホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史を研究する上で西洋史で探究されてきた研究モデルや概念が意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国の政治についてなんの情報もなしに、自国の政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツールは必要なんじゃないか? ジャーナリストや政治家が欧州統合やアフリカ経済やアメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本のEU研究者やアフリカ研究者やアメリカ政治研究者がみんな英語で論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。
部屋を片付けた
普通に使うには大きく派手すぎるファンサ団扇をぼんやり扇いで、ひんやりした風についにこの時が来たんだと少し感傷的になった
私は完全に地頭が良くないタイプの人間で、地頭が良いであろう人間を目の当たりにする度自分と比較して凹んできた。
(こうして人と自分を比較している時点で本当に愚かなことがよく分かる。)
・本質を捉えることが出来る
物事にはなんでも本質というものがあって、それを捉えることが出来るものは地頭が良いのではないか?と常々思っている。地頭の良い人は的外れなことを言わない。
問題が目の前にあって、それに対して真の原因を探っていく。
これはぼんやり生きているだけだと恐らくダメで、考え続けるということを自然に出来る人間が強い。
訓練である程度のところまでいける気はしてる。
幼い頃から疑問を絶やさず自ら思考出来る人はこれを当たり前にやってのけるのではないだろうか。
・アウトプットを常にしている
アウトプットするということはトライアンドエラーの繰り返しだ。
アウトプットの形態は何でもいいが考えるだけでなく、実際に何かを形に残す、人に伝えるということが出来る能力は地頭の良さに関係している気がしてならない。
そもそもアウトプットするということは前述の「考える」ということになるからだ。
何かを作ろうとする視点を持ちながら世界を見ることで考えを深めたり、実際アウトプットすることでその反応を肌に感じてまた次のアウトプットに生かせるのでは。
そうすると考え続ける人生になる。
もちろんアウトプットのためのインプットを常にしているだろう。
・長い目で物事を見ることが出来る
目の前のことだけをこなすことと、一歩下がって視野を広く持ち長期的に問題解決に向けて物事を考えることは大きく違う。
それに対して後者は問題の根本的な部分と向き合うことをしている。
時間的に過去から現在、未来までを考慮しながら思考し行動できる。
ふわふわ考えてみたけど結局こんなことは誰にでも考えられるし挙げられる。
思考は日々の繰り返しだし訓練だ。ひとつの物事について掘り下げが必要だ。
スマホは怖い。マルチタスクが可能なので思考があちこちに飛んでしまう。便利だが飲まれないようなしたい。
考えることをやめたくない。でも自分の考えがひどく的外れであるかもしれないしそのことにすら気付けないのは地頭が悪いことの不幸だし、幼少期から思考を怠ってきたツケでもあるかもしれない。
まあ,そんな私も,就活が辛い学生のひとりだったんですけどね……
2019卒生の就活が本格的に始まる前に,ちょっと2018卒生の「就活辛い」を振り返ってみようというエントリです.
本当にその色ばかり使ってるのね.ノベルティはもちろん,ネクタイも,ちょっとしたサインも.すごい徹底ぶりです.
それだけ,愛行心が求められるということでしょう.
3月時点では銀行名をフルでスラスラ言えない人もいて(特に赤い銀行),正直楽勝かなと思ってました.
1.ある銀行の時,エントランスで「東大・京大グループは右へ,早稲田・慶應・上智グループは左へ」というアナウンスを受ける先制パンチをくらったこと.ああ,学歴社会だなあと,ぼんやり.
2.男ばっかり.男5の女1のときがあった.性差別ってあるんだなあ.
3.自己紹介でのみなさんの趣味が,登山とかバイクとかスキーとかゴリゴリの体育会系だったこと.インドア派の私にはそれだけで「自分はここにいていいのか?」という気持ちになりました.
二次以降は,最終面接までひたすら面接を繰り返すだけです.1対1で,圧迫もないし,話をちゃんと聞いてくれてる感じがして好印象でした.私はナメくさってロクに対策しなかったんで最終手前で落とされましたけど.面接自体は特につらい思いはなかったです.ですが,頻繁に呼ばれるので,他の会社が受けられなくてスケジュール調整に心を病む人が続出するらしいですね.
模擬授業は塾講師の経験を活かして落ち着いてできると思います.
学校の歴史を褒めたたえ,学校愛をひたすら述べなくちゃならない.
周りは非常勤の現職教員ばっかり.新卒は全然いない.ひたすら辛い.
たまに新卒だけのグループに突っ込まれたけれど,それはそれで辛い.話を聞くと,取りあえず必修で教職をとったぼんやりさんばっかりで,真剣に日本の未来を変えようと血眼で勉強してきた勢と会ったことがない.これは私の運が悪かっただけかもしれないが,こういう人たちと同僚になるんだと思うと気が滅入った.
主に人の問題で辛かったですね.
あと,教育実習,お前だよお前
お前のせいでいくつ採用試験を受けられなかったと思ってるんだ.国で対策してほしいです,本当に.
現場は経験者重視で専門的に勉強してきた知識は必要とされていない感じがした.
ヌルゲ過ぎる.
上を目指せばそんなことないんだろうけど,とりあえずホワイト企業に勤めたいくらいの要求でよければ選択肢がたくさんある.
敷居が低い.ちょっとプログラミング経験があるだけで歓迎されました.一方で,文系OK,短大専門OKなところはかえって高学歴がいかせなくてモヤっとするので,そのうち転職しようかなという思いはぼんやり浮かんだ.
誰もが知ってる会社でさえ,「飲み会!同調圧力!圧倒的感謝!」みたいなノリで語られて引いた.
あと内定者研修と称して安くインターンさせられてる会社があって,ひたすら辛そうだった.
余談だけど,エントランスで私の好きな球団が負けた日本シリーズの試合映像を永遠垂れ流してる会社があったのでそのまま帰ってやろうかと思った(たぶん就活でいちばん辛かったのはこれだとおもう)
あくまで新卒の話で,スキルアップ目指した転職は違うのかも.その辺は未だわからない.
修士,博士を活かせそう,かつサバティカルさせてもらえる制度があるのは好印象でした.それだけ求められることが多くて辛くなる未来が見えたからごめんなさいしました.もっと社会人としての自信を付けたら転職してみるのもいいかもしれない.
会社によると思うけど,肉食系バリバリ社会人と触れ合える経験は良かった.
辛いとすれば,みんな語学力が凄すぎて自信喪失したことですかね.
言語も,英語は当然で,みんな2,3以上は使いこなせる.頑張ればついてけるけど,そこまで頑張りたくないなと思ってしまった.そこ頑張るくらいなら違うこと勉強したいわ.
フランクな人が多くて,ユルさに耐えられなかった.
業界の人に働き方について聞くと,激務っぽい話ばかりなのが辛かった.
しかもみんなそれを楽しそうに語るので,洗脳されてるか感覚が麻痺してるのだろうと思った.
とりあえずこんな感じですかね.
総括すると,明るい未来が全く想像つかなくて辛かったという話でした.
人格否定されたみたいで辛いと友人からは聞きましたね.私の場合はそれは無かったですけど…というのも,自分の良さを分からない会社に入っても正当な評価を受けられず苦労すると思うので,こちらから願い下げだと.
知らない町で繰り返される電車移動が辛いとかも聞きます.これは,ジョルダンとグーグルマップでいくらか軽減されると思います.
思い出したころに追記するかもしれません.
特に外出してないしイベントごとにも参加してないし誰にも会わずに一人で過ごすから、なんて答えたらいいか迷うんだ。
そもそも平日仕事して、休日遊びにいくっていう気力があんまりないんだ。
28歳の女子だけれど、最近あんまり何もやる気にならないんだ。お洒落な洋服もかわいいスポットもそりゃ少しは興味あるけれど、他の女の人みたいにちゃんとできないんだ。かといって、ゲームとか歴史の建造物が好きとか、そういう一人の時間を楽しく過ごせるような趣味もないんだ。資格の勉強するとか転職活動をコツコツやるとかそれもしてないんだ。全然ダメなんだ。ただ寝て起きてを繰り返して、自慰行為してぼんやりして、だらだらHuluみて、休みの21時くらいには「あぁ、また今日も無駄な日を過ごしてしまった。来週の休みこそは何かやるぞ」って思うんだ。毎回その繰り返しなんだ。
たぶん、頭と体力と気力のキャパシティが低いんだ。仕事でも、出来ることと出来ないことの差が激しいからそう思うんだ。そのことで他の人に変に思われてしまってそれを感じてぎくしゃくしてしまってる。自分でもどうにもできなくて職場でも自信を失ってどんどん無口になっていくんだ。自分が会話に混ざっちゃいけないような気がして、役立たずのような気がして、どうせいつかは嫌われてしまうなら、その前に距離を取っておきたいんだ。馬鹿げた考え方だと思うけどそう思うんだ。
休日は、唯一そんな居心地の悪さから解放される日なのだから、本当はもっと有意義にすごしたいけど、なんだかあんまり何もしたくないから困る。疲れたくないって頭が言う。いつからこんなに弱っちくなったんだろう。唯一趣味と言えた読書も、なんだかあまり読み進められなくなってしまった。
転職したら変わるのかな。どこいっても同じだよ。ずっとこんな感じなのかなぁ。つかれるなぁ。
自分は世間で言う魔法使いつまり恋人いない歴=年齢ってやつで、もちろん性交渉はしたこともない。ごくごく普通の家庭に生まれてごくごく普通に生きてきたけれど、その機会だけには恵まれずとっくに30は過ぎた。
そんな自分が、たまたまネットで知り合った人と会うことになった。相手から会いたいと言ってくれた。サッカーが好きな自分は相手がサッカーに興味を持ってくれたことが嬉しかった。
魔法使いではあるけれど、異性に対して特に苦手意識はない。週に3回しているフットサルではmixで活動しているし、異性とのぶつかり合いやら触れ合いやらは日常茶飯事だ。会話だって男女いる職場だから話せないということはまったくない。だから、会ってすぐは問題なく楽しく過ごせた。普通にカフェでコーヒーを飲み、ネットの中と同じように会話をした。
違和感を覚えたのはこの後からだ。行き先の関係でバスを待っていると、相手と自分の距離がやたら近い。手がぶつかってしまって、ごめん、と謝った程だった。
それがぶつかったのではないと気付いたのはバスに乗ってからだった。
隣同士で座ったのだが、満席でもないのにかなり詰め寄ってくる。しかもどんどんと近くなる。ふと気がつくと相手が自分の手を這った。しばらく放置してると案の定手を握ってきた。わざわざ携帯を持っていた自分の手を無理やりほどいてまでだった。
恥ずかしい話、硬直してしまった。さっきまで親しげに会話ができていたのに、急になにがなんだかわからなくなった。もしかしてスリを狙われているのではと勘ぐり、手を払って携帯を握りなおした。すると今度は逆の手を握りしめてきた。近いと文句を言っても手を払っても無駄だった。仕方ないので目的地にたどり着くまでのバスの間は放置した。
目的地についたらついたですぐまた手や腕や肩を求めた。もちろん拒否して距離をとった。叫ばれたりしても迷惑なのでただひたすらに和やかに距離をとった。
目的が終わって帰りのバスが一番ひどかった。眠いと言って肩にもたれ、しきりに手を這っては自分の手を握りしめてくる。キスを求めてきてるのも明らかだったけれど、懸命に押し返して距離をとった。けれど懲りずにまたしてくるの繰り返しだった。早く駅についてくれと何度も思った。
ようやく駅について、相手が年下だったからということも合って早々に駅から相手の家までのバスに無理やり押し込んだ。おなかすいたやらまだ帰りたくないやらついて行きたいやらなにやら言っていたけれど無視した。
一人になったあとは、あまりの気疲れに頭が痛くなった。
これは異性嫌悪なのか経験のなさからの戸惑いからなのかわからない。
けれど、もう駄目だと思った。今後こんなことは誰でも無理だ、と。そして頭の中でみんなこんなことしてるんだなとぼんやり思った。
とにかく出会い目的って都市伝説でなかったんだな。ヤリたいならむしろヤリたいと言ってくれ。自分には相手は無理だけれど誰か紹介くらいはするから
この件を経て、ようやく一生魔法使いでいる決意をした
※追記
騒動からしばらく経ってずっと落ち込んでいたけど少し落ち着いてきた。色々考えた結果避けるよりむしろ積極的に見たり聴いたりした方が精神衛生上良いなってことに気づいたので大好きなCan you guess what?を久しぶりに聴いている。配信されてから数ヶ月間ほとんど毎日聴いていたから5日も聴かなかったのは初めてかもしれない。明日はみほとせ見て、らぶフェス配信始まったららぶフェスも見る。一人でいることを望んでいるのに独りになりきれず、別れを悲しいと思える優しい心を弱さと捉え葛藤する、どの大倶利伽羅よりも人間臭いミュ大倶利伽羅が私は好きだ。私は財木くん個人とミュ大倶利伽羅を切り離して考えている節があるのでそういう芸当が出来るのかもしれない。人それぞれ好きな方法で、複雑な感情を癒していったらいいんじゃないかなと思う。
先に言うと、私は去年7月下旬に突然みほとせ配信を購入・視聴しミュ大倶利伽羅と財木くんにハマった。配信を既に買っているのに改めてみほとせDVDを買い直し、シングルもアルバムも買った。それまで2.5次元には全く興味なかったどころか正直苦手だったし、舞台俳優にも何の関心も無かったので自分の中ではかなり大きな出来事だったと思う。2.5次元という世界にも、舞台俳優という世界にも今でもそこまで詳しくはない。らぶフェスは2日参戦したけど、それ以外の財木くんの出演する舞台もバスツアーなどのファンイベントにも参加していない。あ、水戸黄門は見た。あの手の時代劇を見たことがなかったのでまた世界が広がりました。そういう感じで本当に自分のペースで大倶利伽羅と財木くんのファンをしている。知識も経験もまだまだなことはわかっているので舞台俳優のファンとしてかくあるべしみたいな啓蒙的なことを言うつもりもなければ、様々な情報・憶測を駆使してこの騒動を考察するつもりもない。ただただ、自分の中に渦巻いている複雑な感情を文字化することで整理したい。そして、そんな風に複雑な気持ちを抱えているけどなかなか言葉に出来なくてモヤモヤしている人の一助になればいいと思う。ということで割と矛盾したことも言う気がする。
1つ目は財木くんの自己管理能力の低さに対する呆れ。2つ目は大倶利伽羅役を降板したらどうしようという恐怖。3つ目は嵌められているという憶測についての漠然とした恐怖。
他のファンの方もおっしゃっているように決して彼女がいることに対して憤っているわけではない。好きな俳優さんに彼女がいたって結婚していたって子どもがいたって構わない。むしろ本人の精神的拠り所がしっかりあることに安心するくらいだ。
ただ、財木くんの場合はバスツアーの中身でもわかるように一人一人のファンにとっての理想の彼氏みたいな売り方をしている。そういう夢を売っている。SNSやブログなどもその夢を補完するコンテンツ、一種の作られたプライベートに過ぎない。
そして、財木くんが自分の彼氏っていうことが夢だってこと、作られた嘘だってことは誰だってわかっている。でも、その夢を見ることがファンの明日への活力に繋がる、本当に大切な夢でもある。だからこそ、その夢は完璧なものじゃないといけなかった。少しでも綻びがあったら夢は簡単に壊れてしまうのだから。演技を生業とするなら尚更ファン一人一人にとっての彼氏という役を演じきって欲しかった。本当のプライベートはどうだっていい。こちらに見せないようにさえしてくれれば。今回はそれを見せられてしまったからこそ失望しているのだ。もしかしたら誰かに流出されてしまったのかもしれないけれど、そういう隙を作ってしまったのは他ならぬ彼自身である。それは弁明しようもないものだ。
つまるところ、この騒動は彼の演技の失敗ともいえる。ファンに見せる夢を壊してしまった=演じきれなかった、という事実は他の演技に対する疑念にも繋がる。あの役、本当に真剣に演じてくれたの?自分が実際に見て良いと思っていたものを疑うことになるかもしれない。それはとても苦しい。
責任を取って降板しろ、と思っている人も多いと思うし、もしミュージカル刀剣乱舞として降板という対処をしても恨むつもりはない。こういうコンテンツはイメージが最重要だ。だからこそ、ミュージカル刀剣乱舞というブランドを守るためには正しい対応だろう。頭ではわかっている。頭では。
やはり、財木くんのやる大倶利伽羅が大好き。これに尽きると思う。この感情に理由も何もないからこそなかなか割り切れないものがある。
かといって、財木くんのツイートのリプに「カノバレなんて気にしないでください!私は応援しますから!」などと無責任な発言をする人間はファンではない。それはあまりにも無能さをひけらかしているのではないか、と思っている。
ファンは俳優を支える存在であるが、決してを甘やかす存在であってはいけない。その甘やかしは間違いなく俳優の破滅に繋がるからだ。
私はファンは俳優を育てる存在だと思っている。だからこそ、ダメなことをしたらダメだと言わなければならない。もちろん、財木くんに見切りをつけてファンをやめることも間違いではない。誰かのファンでいることに何の拘束力もないのだから。ただ、まだ財木くん微力でも可能性を感じなんとかしたいと思うなら尚更無責任に「カノバレ気にしないでください!私は応援します!」などと言ってはならない。
また、ファンも周りから見られていることも忘れてはいけない。財木くんの存在以上に財木くんのファンが今見られている時期だと思う。無責任な発言をすればするほど、財木くんも財木くんならそのファンもファンよね、とバカにされかねない。(実際もうバカにされているかもしれない)それで果たしていいのだろうか。少なくとも私は外野に財木くんも、私よりも財木くんを応援しているファンの方々もバカにするような言葉を見かけて勝手にボロボロに傷ついている。
タイミング的にこれは嵌められたんじゃないかとかインスタのアカウントがどうとか憶測が飛び交っている。私自身そこまで賢くないのでこれについては正直よくわからないし、はっきりとしたことが明らかになることもないんじゃないかと思っている。ただ、もしかしたら若い芽を摘もうとする人間が少なからずいて、機会を伺っているのかと思うと漠然とした怖さがある。他の俳優でもこういうことが起こったらどうしよう。これは舞台(特に2.5次元)という全体的なコンテンツの衰退を引き起こしたりはしないだろうか。ぼんやりとそんなことを考えてしまう。
これについては俳優自身がそういう隙を見せないよう気をつけるのと、ファンが安易に情報・デマに流されないようにするしかない気がする。そろそろ頭が回らなくなってきた。
これからどうするのかと問われても私は何が何でも財木くんを応援します!という訳でもなければ、今日限りで財木くんのファンを辞めますと宣言をするほど強い心もない。様子見をしつつ、みほとせを見たり、聴いたり、らぶフェスの配信を見ながらゆっくりと時間あるかけて自分の気持ちと向き合っていきたいと思っている。
私が日ごろ「あなたが男だったら付き合うのに」と言われるポイントを教えます
既に知り合っている人には有効だと思う
男性からのこういうキュンとくるポイントみたいなの教えて欲しい、、
・改札まで送る。時には相手の最寄り駅まで送ることも。迎えに行くこともある。1秒でも長く一緒にいたいから。でも、サラッとね。
・待ち合わせをスムーズにすることに全力かけてる
・スケジュール管理。遊ぶ日程とかね
・遊ぶ工程とか行く店とかは全部探して手配する。3パターンくらいから提案。全否定されても笑って次のパターンを準備。奢るかどうかよりここが重要な気がする。相手のぼんやりした希望を具体化していくイメージ
・突然ものをあげる。お土産とか。お菓子とか。ちょっとした小物とか。ここのセンスを磨くのに全力かけてる(職業柄もあるが)
・何かを一緒にやり遂げて全力で喜びあう。登山とか。そういうイベントを起こす。
・連絡はマメに!
本人へのリプでも独り言でもそういうのが多過ぎで、怖いし、気持ち悪いし。どうして書かずにはいられないのか?その感覚が全く解らない。自分の頭の中だけにとどめておけないの?ぼんやりとじゃなくて、具体的な行為の妄想とか、本当に誰に向けて垂れ流しているのか、さっぱり判らんし。オレが親なら泣くよ、こんな息子だったら。
一応、関西有名私大の学生らしいから、全く教育を受けていないとかじゃないだろうに。
かっこいい飛行機とかでぐぐって出てきたyoutube見ながら作るの楽しい
単なる四角い紙がこんなかっくいー飛行機になっちゃうんだもんなあ
いやー折り紙やっぱすごいわ
なんかガンプラに似てる気がする
たまにテレビやらネットやらですごい折り紙名人みたいな人とか創作折り紙する人とかを見て、
実際に折るとその楽しさが実感として伝わる・わかる気がする
それにしてもいい時代になったなあ
素人が書くのは難しいけど、
難しい折り方になるほど本だと???ってなること多くなるし
かっこいいライオンの折り紙で2枚で体の前後をつくって組み合わせて完成させるタイプのやつがあったんだけど、
折り方が難しくて当時の自分には折れなかった
自分もお願いしたけど結局うやむやになって折ってもらえなかった