あのタグに参加していた人たちの発想と画力は凄くて、見ていてとても楽しかった。
せっかく素敵なタグを発信してくださったのに、本当に大変な目に遭っておられたと思う。
タグ発信者さんに非は全く無いことを前提として、ちょっと思ったことを書きたい。
騒動は、確か「育てたものが育てられたものに恋人的な役割を求めるという気持ちを現実に持ってきてはいけないよ」的なツイートがあって、それに「想像と現実を混同するな!」「これはあくまで人間ではないものと人間の話だ!」と反発があがって、そこからいろいろな人がいろいろな意見を述べて…というものだったように思う。
最初は、「現実に持ってきてはいけない」ツイートを読んで、水をさされた、と思った。
だけど、そのツイートの発言者さん(便宜上『彼』とする)のその後のツイートを見て、じょじょに考えが変わった。
彼はなにも某集会を否定したのではなく、ただ、創作者として、『そういう気持ちを現実に持ち込んではいけない』ということを自覚しろ、と述べただけだった。
創作の世界は何をしても良い。ただ、『現実に持ち込んではいけない感情』を『創作物として』自分は今『楽しんでいる』ことを自覚しなければならない。
育てるものと育てられるものには明確な力の差がある。性別に関係なく、育てるもののほうが上位に立つ。
だからこそ、いつ『育てるもの』になるともしれない人達(親になったり先生になったりいろいろある)は、『自覚』をもたなければならない。薄暗いものを、薄暗いものとして愛でるのは大事だ、と。
たぶん、そういうことだったのだろう。
それはまあ、確かにそうだな、と思った。
他にも、これは彼の意見ではなかったが『最初から愛玩用として育てたんならまだしも、実子のつもりで育てたら、愛されて恋人になるなんて気持ち悪い』という意見があったように思う。
と、まあそのような感じで『育てるもの』と『育てられるもの』の意識についての問題的があったわけだ。
育てるって、身近な行為で、そのわりに与える影響がでかすぎるから。
この件について、彼がまたツイートしているのを見かけた。
正直、言い方がきつかったのは認める。自分はかつて母親に恋人の役割を求められたことがあって、そのトラウマがあるから、あれがたとえ創作なのだとしても見るのが辛かったんだ、と。
大体そんなようなことを言っていて、なるほど、トラウマを刺激されてしまったんだな、と思った。
創作があって、その創作を楽しんでいた人達がいて、でもちょっとそれは薄暗い内容で、中には薄暗いものを薄暗いものだと感じる意識が薄い人がいて、それを見た人の中にトラウマがある人がいて、嫌悪感をもつ人もいて、それが騒動になった。
母親ないし父親がみんな優しい、理想的だとは限らないから育てるものと育てられるものにまつわるトラウマの発生率は結構高いんだろう。だからこそ騒動は大きくなった。
結局、どうあれば良かったのだろう?
創作は自由なんだから、文句をつけないで!現実と創作は別物! という意見もわかる。
創作だって現実に影響力はあるし、薄暗いものと薄暗いものとしてきちんと自覚しておくことは必要、という意見もわかる。
たぶん、『どんな創作をしても良いけど薄暗いものは薄暗いものとして自覚をもとうね』が結論なんだろうな。
自覚が無いなら、その自覚が無いという点につき危機感を抱こうね、と。
うーん、難しい。
悲しいことに、あの創作は、一人の人間のトラウマを刺激し、辛い思いをさせてしまったようだ。
『そんなつもりはなかった』で相手を傷つけることができるのが悲しいな。
いつかなにかで傷ついて、トラウマをもっている人がいて。
そしてその人が、別にその人に直接向けられたわけではないものでトラウマを呼び起こされて、きつい言葉を使ってしまう。
ループしてるね。
彼の言いたいことはわかるし、トラウマは辛かったんだろう。
でも、彼の発言で創作に水をさされた人は『傷ついた』と言っちゃいけないんだろうか?
まあ、要するに「トラウマがあるから○○してしまった、許してくれ」という言い方に違和感を覚えたって話。
許さなきゃいけないのかね。
その為された○○によって、別の誰かが傷ついているじゃないか。
でも、トラウマがあるから○○してしまって、それは多分止められるものじゃないんだよな。
だからやるわけだし…。
どうすれば良いんだろう。
このループは、だれのところで止めたら良いんだ?