はてなキーワード: 三重とは
自分が分かる所を埋めていく
ブロック2の途中まで
【特別企画】キンタロー。×白組(ゴジラ-1.0)「3D-VFX 顔まねメドレー」今年脱松し独立。以前より攻めたモノマネ。今年オールスター感謝祭などに出た際のシャイニングのモノマネかと思われる
https://togetter.com/li/2405422
https://gigazine.net/news/20241114-amazon-disabled-employees/
Amazonが障害のある従業員のリモートワークのルールを改悪、手続きを複雑化して在宅勤務がほぼ不可能に
在宅勤務を希望する従業員は、「適応コンサルタント」から電話を受け、新しい方針について説明を聞きます。その後、医療記録を確認して在宅勤務が当人にとってどの程度効果的であったか、その従業員がオフィスで働くのを支援するためにどのような試みがあったかについて話し合います。適応コンサルタントが在宅勤務の申請に同意した後、別のAmazonのマネージャーが承認するという二重三重のチェック体制となっています。Bloombergに情報提供した匿名の従業員によると、資料の準備や話し合いなどの手続きが複雑すぎて、申請するのに何週間もかかるとのこと。
これ、行政相手の許認可申請だとあるあるなんだけど、昔はすんなり通ったことから考えると、虚偽の申請による在宅ワークが多いんかな…。
https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く
おしんの物語の根底を流れているのが、「恩」であり「仁義」であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語のハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。
おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしんは1901年、昭和天皇と同年に生まれた設定である。
そしておしんが生きた少女の時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治の回想シーンに時代を一気に2世代くらい遡るときのタイムトリップ感が半端ない。
1983年、おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的に大手スーパーへの並木の土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店の隠居の大旦那・並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである。
それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。
おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年、17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである。
おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどい。しかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語の類型のひとつで、一宿一飯の義理・人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人・やくざなどが主人公である。股旅物の元祖・長谷川伸は、その後の日本の小説や戯曲、そして映画やテレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である。明治が遠く過ぎさり、大衆が大正デモクラシーの自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である。
2000年代になると、日本の映画やドラマの潮流は変わり、義理人情といったテーマは陳腐なものとして忘れ去られてゆく。20世紀末までのドラマでいえば、「北の国から」が長谷川伸的な一宿一飯の義理・人情の世界観でつくられた恐らく最後のドラマだろう。吹雪の中を助けに来る馬、泥付きの一万円札などに表現される世界は、まさに長谷川伸の系譜なのである。
おしんは回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことなき股旅物である。しかし、おしんの物語の面白いところは、浪花節が陳腐化し、古臭いものになってしまった現代(1980年代)と交差している点である。
並木浩太とおしんの最初の出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋・加賀屋へ奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売のイロハから茶道・裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときくにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしんの人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命にうんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動の活動家・浩太と出会った。酒田に訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初の出会いである。おしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシーの時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動を先進的だと中身もわからず憧れていたのである。農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動にロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしんも小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋へ奉公へ行く決心をしたのである。いかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである。
ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京へ家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心は最初からおしんが好きだったのである。
おしんは加代の家出の理由を加賀屋に伝えることが忍びなく、おしんは加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしんを女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さらに実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働で健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠・長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。
一方、加代は、浩太の心がおしんにしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。
こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしんは東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結いの師匠・たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質な職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。
しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京で流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである。
大衆は身分から解放され、より自由な髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業や身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかはおしんに独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんがたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚の挨拶にたかを訪れたときの言葉である。その時、5人いたたかの弟子はついにたった一人だけになっていた。
田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんはたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代におしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である。
一方、田倉商店は開店休業状態に陥るほど経営が悪化していたが、おしんが髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たかに相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店の再生が進んで、おしんの洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災がおしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである。工場を火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀でゆっくり休みたか。おしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄の佐賀編がスタートすることになった。
さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしんは佐賀地獄からの脱出を心ひそかに誓い、東京の師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのである。たかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしんを絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。
こうしておしんの流転の人生が始まる。屋台出店から始まり、故郷の山形、酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重の伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである。佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである。
【キーワード:浩太の恩】
浩太の実家は貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢の実家、網元のひさの家であった。浩太は、流浪の人生を送るおしんを見かねて、伊勢で網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋、子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄、酒田の飯屋をやってきたおしん。めし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。
伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしんと魚屋をやる決意をしてくれ、おしんの人生は好転し始めていた。
一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代の苗字も変えなかった。
一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈な拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。
田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望は兄弟のように母おしんの魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望は商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。
屈折10年、陶芸の師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんがセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。
さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ(1983年の場面)に戻りたい。
仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである。初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。
ドラマの構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしんが戦後~現代にいたる高度経済成長でおしん自身が義理人情を忘れてしまったことに気が付く、というメタで重層的な構成である。おしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢で戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパーを事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしんは問題の17号店開店当日、失踪する。この世話物と時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である。
定義 1: M理論の基本構造を、完全拡張可能な (∞,∞)-圏 M として定義する。
定理 1 (Lurie-Haugseng): M の完全拡張可能性は、以下の同値関係で特徴付けられる:
M ≃ Ω∞-∞TFT(Bord∞)
ここで、TFT は位相的場の理論を、Bord∞ は∞次元ボルディズム∞-圏を表す。
命題 1: 超弦理論の各タイプは、M の (∞,∞-n)-部分圏として実現され、n は各理論の臨界次元に対応する。
定義 2: 弦の標的空間を、導来 Artin ∞-超スタック X として形式化する。
定理 2 (Toën-Vezzosi): X の変形理論は、接∞-スタック TX の導来大域切断の∞-圏 RΓ(X,TX) によって完全に記述される。
定義 3: 弦場理論の代数構造を、∞-オペラッド O の代数として定式化する。
定理 3 (Kontsevich-Soibelman): 任意の∞-オペラッド O に対して、その変形量子化が存在し、Maurer-Cartan方程式
MC(O) = {x ∈ O | dx + 1/2[x,x] = 0}
の解空間として特徴付けられる。
定義 4: n次元量子場理論を、n-カテゴリ値の局所系 F: Bordn → nCat∞ として定義する。
定理 4 (Costello-Gwilliam-Lurie): 摂動的量子場理論は、因子化∞-代数の∞-圏 FactAlg∞ の対象として完全に特徴付けられる。
定理 5 (Kontsevich-Soibelman-Toën-Vezzosi): カラビ・ヤウ∞-スタック X と Y のミラー対称性は、以下の (∞,2)-圏同値として表現される:
ShvCat(X) ≃ Fuk∞(Y)
ここで、ShvCat(X) は X 上の安定∞-圏の層の (∞,2)-圏、Fuk∞(Y) は Y の深谷 (∞,2)-圏である。
定義 5: M理論のコンパクト化を、E∞-リング スペクトラム R 上の導来スペクトラルスキーム Spec(R) として定式化する。
定理 6 (Lurie-Hopkins): 位相的弦理論は、適切に定義されたスペクトラルスキーム上の擬コヒーレント∞-層の安定∞-圏 QCoh(Spec(R)) の対象として実現される。
定義 6: M理論の C-場を、∞-群対象 B∞U(1) への∞-函手 c: M → B∞U(1) として定義する。
定理 7 (Hopkins-Singer): M理論の量子化整合性条件は、一般化されたコホモロジー理論の枠組みで以下のように表現される:
[G/2π] ∈ TMF(M)
ここで、TMF は位相的モジュラー形式のスペクトラムである。
定義 7: 量子化された時空を、スペクトラル∞-三重項 (A, H, D) として定義する。ここで A は E∞-リングスペクトラム、H は A 上の導来∞-モジュール、D は H 上の自己随伴∞-作用素である。
定理 8 (Connes-Marcolli-Ševera): 量子重力の有効作用は、適切に定義されたスペクトラル∞-作用の臨界点として特徴付けられる。
定義 8: 弦理論の真空構造を、導来∞-モチーフ∞-圏 DM∞(k) の対象として定式化する。
予想 1 (∞-Motivic Mirror Symmetry): カラビ・ヤウ∞-スタック X と Y のミラー対称性は、それらの導来∞-モチーフ M∞(X) と M∞(Y) の間の∞-圏同値として表現される。
定義 9: 完全な量子重力理論を、(∞,∞)-圏値の拡張位相的量子場理論として定式化する:
Z: Bord∞ → (∞,∞)-Cat
定理 9 (Conjectural): M理論は、適切に定義された完全拡張可能な (∞,∞)-TFT として特徴付けられ、その状態空間は量子化された時空の∞-圏を与える。
よくブクマカは本文読まないって言うけど、こんなにも多くのブクマカが本文を読めてないとは……。こういう人たちは、今までも本文をよく読まずにノリでコメントを残してきたんだろうか?
以下「前者が後者に部分一致する」の条件を無視してる回答ね。該当部分を太字にしときました。
ninosan ペッパーランチとペッパーフードサービス(結構ヤヤコシーので検索してくれ)
hatebu_ai はてなブックマークとはてな匿名ダイアリー。
REV サクシンとサクシゾンは前三文字が一致しているので間違いやすいが、サクシゾンの代わりにサクシンを打つと息の根が止まる。 https://www.info.pmda.go.jp/hsearch/detail?id=D17000005 / 部分一致ではないが青梅駅と青海駅
s-eagle ディープインパクトとディープスカイとディープブリランテとディープボンド。馬主が同じなのはどれ?(答え:全部違います)
gnta 久石譲とクインシー・ジョーンズ。江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポー。谷啓とダニー・ケイ
ustam 赤羽と赤羽橋、王子と八王子、東雲と東電、上越(上越/中越/下越)と上越(上州+越後)、クラゲとキクラゲ、シカとカモシカ、ウナギとヤツメウナギ、イモリとヤモリ、乳酸と乳酸菌、ランチとウンチ
本人から異議申し立てがあった。確かに「東京湾とトンキン湾」は漢字にすると完全一致になるので、セーフとする。失礼しました。
u_eichi 猫とジャコウネコ。オオカミとフクロオオカミ。てか有袋類は反則だな。|JR/東急蒲田と京急蒲田(まぜっ返し)
gaikichi 院近臣とインノケンティウス3世マングローブ林とグロブリン安倍貞任とアンワル・サダト大統領リッケンバッカーとオッペンハイマーとロッテンマイヤー地底怪獣バラゴンと冷凍怪獣バルゴン本多勝一と翔んだカップル
Southend シンボリクリスエス(天皇賞・秋、有馬記念連覇)とシンボリクリエンス(中山大障害・春/秋)は、それぞれが平地と障害という別カテゴリにおける超一流馬だったという文脈上、類似馬名界(?)の白眉と言えよう。
ryotarox wikiとwikipedia/木場と新木場 https://maps.app.goo.gl/Aynjy4JsxYDDKbak8 /アイスランドとアイルランド/グレープとグレープフルーツ
uguisyu 「世界の中心で、愛をさけぶ」と「世界の中心でアイを叫んだけもの」、「日本沈没」と「日本以外全部沈没」
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中でも一番のクソ回答はこれだと思う。全然趣旨を理解してないお前のほうがヤベーよ。
norinorisan42 やはりココリコ遠藤が池上さんの番組で「コーランを憲法としている国」と聞かれ「イスラエル」と答えたやつが忘れられない/イスラムとイスラエルがごっちゃになってるのはヤバすぎる
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※文字が違っても音が部分一致してしているものはセーフとした。(例:谷亮子と新谷良子)
※アルファベットで表記したときに部分一致するものはセーフとした。(例:ナイジェリアとニジェール、シリコンとシリコーン)
※略称で表記されているが、略さず書くと条件を満たすものはセーフとした。(例:Visual StudioとVS Code、ギガとGB)
※部分一致ではなく完全一致もセーフとした。(完全一致は部分一致に含まれるため。)
※インド人とインディアンは、英語だと両方Indianなのでセーフとした。
※名古屋では全部「メェダイ」となるらしい「明大と名大と三重大」はぎりぎりセーフとした。
※前者と後者が入れ替わっているのも、おまけでセーフとした。
※「ちょっと違うか」「部分一致ではないが」のように、違うのを自覚しているものは見逃すこととした。
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つーか「オーストリアとオーストラリア」「阿藤快と加藤あい」「青海と青梅」何回出てくんだよ。
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iphone 増田は6つもサンプルを出してくれてるのに、部分になってない、似てるけど違うだけの二語を並べてるブコメはなんなんだ。
各都道府県の「大学数(国立・私立・公立の合算)」で「各都道府県の10~14歳人口(2022年人口統計)」を割った値。
※調査の次の年齢階層が15~19歳で進路等でばらつくことから10~14歳の値を使用。あくまでも各地域の子どもの人口の目安。
人/校、この数字が小さいほど子どもは地元を離れずに大学に通うことができる。
逆に大きい場合は子どもの数に対して地元に大学数が少なく、大学に通うには他の都道府県に出ていく必要がある。
結果を見ると近隣の都道府県に吸収されている印象。
01 京都 3059 (34)
02 石川 3500 (14)
03 東京 3625 (144)
04 新潟 4045 (22)
05 岡山 4556 (18)
07 山梨 4714 (7)
08 秋田 4857 (7)
09 北海道 5378 (37)
14 福井 5667 (6)
15 広島 6000 (21)
16 山形 6143 (7)
18 愛知 6615 (52)
19 福岡 6686 (35)
21 兵庫 6800 (35)
22 宮城 6857 (14)
25 長崎 7250 (8)
26 滋賀 7556 (9)
27 和歌山 7600 (5)
32 熊本 9000 (9)
35 千葉 9704 (27)
36 大分 9800 (5)
46 島根 14500 (2)
47 佐賀 19500 (2)
1位と最下位で子どもの数に対して6倍ほど大学数に差があるので、
最初期宇宙の基本構造を記述するために、位相的弦理論の圏論的定式化を用いる。
定義: 位相的A模型の圏論的記述として、Fukaya圏 ℱ(X) を考える。ここで X は Calabi-Yau 多様体である。
対象: (L, E, ∇)
射: Floer コホモロジー群 HF((L₁, E₁, ∇₁), (L₂, E₂, ∇₂))
この圏の導来圏 Dᵇ(ℱ(X)) が、A模型の D-ブレーンの圏を与える。
最初期宇宙の量子構造をより精密に記述するために、導来代数幾何学を用いる。
𝔛: (cdga⁰)ᵒᵖ → sSet
ここで cdga⁰ は次数が非正の可換微分次数付き代数の圏、sSet は単体的集合の圏である。
𝔛 上の準コヒーレント層の ∞-圏を QCoh(𝔛) と表記する。
宇宙の大規模構造の位相的性質を記述するために、モチーフ理論を適用する。
定義: スキーム X に対して、モチーフ的コホモロジー Hⁱₘₒₜ(X, ℚ(j)) を定義する。
これは、Voevodsky の三角圏 DM(k, ℚ) 内での Hom として表現される:
Hⁱₘₒₜ(X, ℚ(j)) = Hom_DM(k, ℚ)(M(X), ℚ(j)[i])
最初期宇宙の高次ゲージ構造を記述するために、∞-Lie 代数を用いる。
定義: L∞ 代数 L は、次数付きベクトル空間 V と、n 項ブラケット lₙ: V⊗ⁿ → V の集合 (n ≥ 1) で構成され、一般化されたヤコビ恒等式を満たすものである。
Σₙ₌₁^∞ (1/n!) lₙ(x, ..., x) = 0
最初期宇宙の量子重力効果を記述するために、圏値場の理論を用いる。
定義: n-圏値の位相的量子場の理論 Z を、コボルディズム n-圏 Cob(n) から n-圏 𝒞 への対称モノイダル函手として定義する:
Z: Cob(n) → 𝒞
特に、完全拡張場の理論は、Lurie の分類定理によって特徴づけられる。
最初期宇宙の量子情報理論的側面を記述するために、von Neumann 代数を用いる。
定義: von Neumann 代数 M 上の状態 ω に対して、相対エントロピー S(ω || φ) を以下のように定義する:
S(ω || φ) = {
tr(ρω (log ρω - log ρφ)) if ω ≪ φ
+∞ otherwise
}
ここで ρω, ρφ はそれぞれ ω, φ に対応する密度作用素である。
最初期宇宙の量子時空構造を記述するために、非可換幾何学を用いる。
∫_X f ds = Tr_ω(f|D|⁻ᵈ)
part1 https://anond.hatelabo.jp/20240914181511
part2 https://anond.hatelabo.jp/20240914181619
2007年に三井倉庫でGWのバイトの労災事故が発生。だがこのバイトは三井倉庫に派遣されたのではなくて、東和リースに派遣されたものだった。しかも三井倉庫は東和リースとは契約していなかった。横浜の港湾会社、笹田組に依頼していたのだ。つまり、三井→笹田組→東和リース→GW社と三重派遣状態だった。笹田組は名前から察しが付くように沖仲仕の組だったところが法人成りして事業を変化させてきた会社だ。つまりは港湾業務へ派遣したことになる。しかも禁止されている二重、三重派遣。その上での労災事故。
そもそも東和リースは港湾かどうかなど考えなしに派遣を行っており、こういう事になるのは時間の問題だった。
港湾の近くの倉庫が港湾業務にあたるか?という時点でも行政の胸先三寸であるのに、港湾業経由で派遣してたら言い逃れ出来まい。
そんな訳で、2008年には営業免許を取り消されて倒産した。直接の処分理由は同労災事故で港湾どころか船に入って仕事しているのがバレ、それに割増し手当を払っていたので故意が明白となって社員が逮捕された為だが、きっかけは上記労災である。
2007年にはGW子会社のコムスンの行政処分もあって、折口氏は米国に逃げてしまった。潮の流れが己の逮捕に向かっていると察しての事だろう。
創業当初のGW社は違法状態であった。だが時代が味方をして規制緩和で合法状態となった。それで莫大な融資を受けて業績を急拡大した。
一方、00年代中ほどからワーキングプア生産装置としての派遣業の拡大が社会的に問題になってきた。戦後労働行政の労働者保護と規制のコア業態に関しては派遣自由化をさせなかったのにそれを甘く見ていた。このコア二業種については社会保険や労災保険について勉強すると必ず出てくる。
この二業種の一つ土建への派遣で労災事故があり、コンプラを意識せざるを得なくなり失業する常駐労働者の就職斡旋まで行った。コンプラが利益になる局面が来たのだ。
だがそれに至らず、もう一つの規制業種の港湾での派遣で事故が起こり、社員の逮捕にも至り倒産した。コンプラが利益になる局面なのに東和リースがヤバい事をしていると炙りだし切れなかった訳だ。
でも東和リースがやってる事自体は買収以前からの社員も派遣されたバイトも知っていた。それが違法性が高いという事が判らなかったのだ。
一方、本社ではコンプラが大事だという意識にはなったが、契約先のどこに問題があるかを掴めなかった。
それは何故か?
まず、買収した会社の客だったからだ。己で開拓した客じゃないので客先が実際にどういう事をしているかという事をチェック出来ていない。
次に元から違法操業で、違法操業の会社を買収した。コンプラ意識がある社員が適切に配置されていない。
更にバイトを支店長に昇格させた。「やる気」と「のし上がり」だけを鼓舞して社員教育が出来ていないからいきなりコンプラ大事になっても、事業内容から「東和はヤバい」と報告したり契約解除を進言したりする者が居ない。
土建でNGが出たから港湾もアウト、という事を社員に説明して理解させていない。それには戦後労働行政の基礎を教えなきゃならないし、それ以前に行政の裁量の広さなどを教養として教えておくべきであった。
行政の裁量で黙視はOKじゃなくて胸先三寸という事の理解が足りなかった。政府が規制緩和を進めている最中なら認められているように見えるが、一旦逆ハン切り始めたら甘い見立ては全て裏切られる。
全員の顔を見る支店長会議をして意思疎通が出来ていると思っていた。そんなやり方じゃなくて脳から神経を伝って指先が動くような社内ネットワークを築く必要があった。何しろ東和リースの事を知っている者は沢山居たのにそれがヤバいと認識する者が誰もいないというのは異常な組織だ。こんな誤解をしてしまうくらいなら全員会議なんてすべきではない。トップが満足して社員も一体感を感じるだけの堕落を生ぜしめたと言っても過言ではない。
いずれにしても、東和リースの問題を炙り出せれば倒産は回避できたのに、買収した会社の開拓した客で、実際はどの会社のどの場所に派遣されてるかが派遣された人間に全部聞かないと判らない、途中に港湾業が入っていても契約書にも作業伝票にもどこにも出て来ないという難問であった。
それなのに会社組織の作り方に失敗し、違法操業から出発しているのでコンプラとか言っても念仏としてしか機能せず難問は解けなかったのだ。
カカチャンネルなどの人気シリーズ【しくじり企業】では、GWの倒産を法令遵守に興味がない経営のせい、と結論付けている。
https://youtu.be/QviiLg8rQ48?si=DxamXjc0OxUuDPwg
勧善懲悪的だが、上記を読んだらこれが間違いだと判るかと思う。何故って、他の会社も全て違法操業だったのだ。その中でGWだけが急成長して倒産に至ったのだ。会社が大きくなったらやるべき事をやっていなかったのだな。
更に途中でコンプラを意識しないと潰れるという意識が上層部には生まれたのに、それを下まで周知出来なかった為に倒産したのである。そんな教育をしておらず、そんな事を知る人間を適切に配置していなかった。
また、コンプラと言っても闇雲な全域での遵法が必要という訳じゃなくて、戦後労働行政のコア業務二種を知り、そこを重点的に守れば他は行政指導などで済んだのに、ポイントを外していた。
この土建、港湾の特別扱いの事は、労災や社会保険の事を勉強すると出てくる常識的な事で、労働者の権利や労働法に強い弁護士とかよりも、会社の総務部などに近い知識だ。だから「会社」に成り切れてなかったんじゃないか、ということも出来る。
で、最後に兵庫県知事に戻ると「知事の炎上もGWの倒産も港湾利権の闇」なんかじゃない。その構造は過去帳入りしている。しかし労働行政は前例主義で沖仲仕の保護と派遣禁止の立場をとり続けていて、時代と時の政府にちやほやされた考えの甘い問題企業がそのシマでシノギやってるのを目で追い、風向きが変わった辺りでぶっぱなしたのだ。