はてなキーワード: 洒落とは
いつもお洒落ですね(*^_^*)
今まで御洒落に無頓着だった。女子大に通っていたが服装はアメリカの学生みたいな全身ユニクロ(ジーンズ・スニーカー・Tシャツ)にリュックみたいな。メイクも勿論しない。
なのに、なぜか急に美容やら服に興味を持ち始めた。まだ手を出していないが美容医療(全身脱毛・プラセンタ・ヒアルロン酸注射・卵子凍結保存など)、ファッションは流行に沿って何が似合うか、上品で質素だけど華美過ぎない素敵な服装とは何か、どんなラインの服が似合うかなど…。ダイエットなんてものも意識し出した。
ガウチョパンツをはき倒すなんて思わなかった。袴みたいだし。ハイウエストスカートやオールインワン、マキシワンピ、ライダースにAラインワンピース、美容院には都内で月一、実用性とオシャレを兼ねた靴の興味の幅が増えた。
でも、なんでいきなり興味を持ち始めたのかが解らず恐い。性格というか価値観さえ変わったかのようで、自分が自分ではないみたいで。こういうのって自分だけかな…。世間に適応しなきゃとか、擬態しなきゃとか、焦りからくるものなのか、それとも単純に華やかまでいかないまでもおしゃれに彩る自分に興味を持ちはじめたからなのか、解らない。いずれにしても、キッカケが解らない。
発達遅延というか精神年齢が他の人よりもその分野に関して遅れているのだろうか…。
自分だけなのかな…こういう人って居ない?
変な事聞いてごめん。
「女性作家の描くトランクスやボクサーパンツも洒落てない・・・というか間違っていることがあるしどっちもどっちじゃない?」と返したら「えっ嘘!!どっどう違うの!?」とすごく驚いてた
今日は休みで、特に予定もなかったこともあり、車で近場に出かけた。
電車に乗って都心方面という選択もあるが、都心の変に洒落たり、ざわざわした感覚よりも、郊外の店のほうがどこか余裕があってまだ居心地がいい。
その一方で、家族連れでにぎわう郊外の店で、30代半ばの男が1人、ぶらぶらしているものも場違い感がある。どこか虚しい。
よく考えると最近、何をしてても楽しくない。やってることのすべてが不毛に思える。
今日だって、別にその店に行く必然性なんてなかった。ちょっとした金の無駄遣いをしただけだ。
こんな生活をいつまでも続けたくないので、婚活らしいこともしてみた。なかなかうまくいかない。
まずどんな女性が好きなのか、自分でもわからない。逆にこういう人は嫌というのなら、いくらでも思い浮かぶのだが。
そんな状態で、なんとか2人で話をする機会や、出かけるとこまでたどり着けても、お断りが入る。
俺には中身がないのか、人生が面白くない人は見透かされるのか。
いや待てよ。仮にいい人と出会ったとして、それから何十年と一緒に生きていくために全力を尽くせる自信、あるか?
けど、なんだかんだでしぶとく、長く生きるのなら、今の生活が続くことにも耐えれる気がしない。
サンフランシスコンに10数年住んでたんですが、当方はストレートです。SFではゲイカップルと一軒家をシェアしてて3人で住んでました。週末はしょっちゅうパーティしてたのが懐かしい。
住み始めた1996年頃はシェアしてたゲイカップルの片方がエイズだと知りおどろき、そいつが台所のシンクで歯ブラシすることに嫌悪したりしてたけど、エイズとHIVの理解が深まりました。当時は現地でも無知からのエイズの職場差別とかはゲイに理解のあるSFでもありましたよ。そんな時にエイズの彼と別れた同居人が遊びまわってHIVになりました。当時は大変きついお薬で大変だった模様。そんな彼も今でも元気に働いています。
10年程前に帰国して今度は日本がLGBTって名前で声高々に都市部では勢いがある模様。とても結構です。ただし一般のストレート民がLGBTをお洒落なワードとして鵜呑み、感化されていくのがとても心配だなと…。 エロのパワーでITコンテンツや産業が発展したと思ってる我としては誤解して感化されることの内容に理解の成熟を願ってやまないですね。 エロコンテンツが日常アメリカよりも目にする事が多い日本ではエロに慣れてるのでハードルが低い(貞操観念が低いとは思いたくないけど)のでこのままオシャンだから流れに乗ってバイセクシャルになりましたーとかにはなってほしくないのですよ。
諸事情で無職になってしまったので、生活の足しにしようとアルバイトを探して入ったら思いのほかシフトに入れてもらえず、もう一つ掛け持ちokのバイトが出来るところに応募した。
某SNS大手がやっている求人のオファー機能というやつでオファーが来て、詳細を見るとシフトの融通が利いてそこそこ時給もよく、スキルも身につけられるというなかなか魅力的なものだった。
名前は、そうだな、ここでは「アロマージュ健康院」とでもするか。
ちょうど大手もみほぐしチェーンの求人も見ていたので、同じような雰囲気のリラクゼーション系サロンだと思った。
面接当日、お店まで行ってみる。
担当に「迷ったら連絡してくださいね」と言われ、地図を読むのにそこそこ自信のあった自分はそんな迷うか?と思いながら行ってみた。迷った。
地図上では確かに近くにあるのに、現在地の近くには農協の建物とマンションが1件だけ。地図ではマンションを指しているが教えられた建物名とは名前が違う。
流石に遅れるとまずいと思い、思い切って電話してみる。すると担当者が出て、「そのマンションで合ってます。ちょっと前にマンション名が変わったんですよね」と。
え?マンション?店の名前の看板もないのに?しかもマンションの名前が変わるったって「ハイム有井」→「ハイツ有野」みたいな微妙な変わり方する?
担当が女店長と呼ぶ女性スタッフが出迎えてくれた。中も普通にマンションだ。廊下にIKEAみたいなお洒落なライトが置いてある。
廊下の奥の一番奥のキッチンがある部屋に通された。ここはこたつやテレビなどがごちゃっと置いてあり、生活感がすごい。
とりあえず言われるままに履歴書を渡して質問に答えたり、給料の説明を聞いたりする。掛け持ち先の飲食の店名を言うと別店舗の常連らしくあそこおいしいよね〜と乗ってくれた。シフトはちゃんと融通を効かせてもらえるそうだ。
給料については、基本は求人に書いてある給料より安いが、なんか指名料やら色々のインセンティブで求人に書いてあるくらいの給料にはなるよ、みたいな説明がされた。他にも店舗がいくつかあって、移動に問題なければそっちに行ってもらうことになるかもとのことだった。
質問はある?と聞かれ、当初から気になっていたマンションでの営業について聞いてみた。
この店はマンションの一室を店舗としていて、他の店舗も同じような感じだそうだ。1店舗につき1〜2名のスタッフが配置され、客に施術をする。
そういえば、と思い出したように女性スタッフが質問してきた。「オイルマッサージだからお客さんはほぼ裸なんだけど触れる?」
いや、マッサージって触るものでは?触れない人間が応募するものなんか?
とりあえず「大丈夫です」と答えると、「実はウチ、お客さんのほとんどが男の人なんだけど、大丈夫?」とまた聞かれた。マッサージするのに別に男も女も関係なくない?と思い、また「大丈夫です」と答えた。
そんな感じで面接が終わった。
帰って彼氏に「こんなところの面接行ってきたよ」と報告すると、「そんな怪しいところやめとけ」と言われた。
自分も怪しいとは思いつつ、時給が求人よりも安かったので「風俗でもないし所詮そんなもんやろ」と思っていた。
2日後、採用の連絡が来た。ここで断ればよかったが、なんとかして稼がないとと焦っていた自分は「よろしくお願いします」と言ってしまっていた。
ちょっと飽きたのでこの辺で。続きはそのうち書くかも。
延々と続く2本のレールには力強い鼓動がある。このレールは、知らない町と町をしっかり結びつけ、多くの人々を運んでいる。
しかし、その役割は、「人を運ぶ」ことだけではないのだ。単に「国鉄は人間と荷物を運ぶだけ」なんて考える人には、決して力強い国鉄の鼓動は伝わってこないだろう。
鉄道を愛し、多くの鉄道知識を持っている人でも、本当にこの鼓動をはだで感じたことは少ないはずだ。
確かに鉄道は知識として知れば知るほど楽しいことが出てくるだろう。
でも、「20,000㎞にチャレンジする」……それは、すばらしさの再発見につながっているのだ。知識から体験へ。今、その鼓動を求めて、未来に続く2本のレールにチャレンジしてみよう。
終わることのないロマン、それが列車の旅だ。部屋にじっとこもっていては、自分の心にカビが生えるだけ。部屋の窓から見えるいつもの風景は、ただ立ち止まり、決してなにも話しかけてはこない。とにかく出会いを求めて旅に出る。
ひょっとすると列車の座席に隣り合わせたことから何かが生まれるかもしれない。ある日見たり、聞いたりするもののすべてが出会いなのだ。
たとえば、車窓にそよぐ風の音、新鮮な潮の香り。これほどすばらしいものはないのではないか。
こんな新しい自然な出会いが旅と鉄道の心につながっていく。そんな時、心は少しもひからびていず、いつもいきいきしているのだ。
チャレンジとは、自分で考え、自分で動く、自分自身のための行動といえる。この精神こそ、スポーツと呼ぶにふさわしいものだ。
列車の旅には、楽しさとロマンがある。その上踏破をめざすチャレンジャーにはスポーツという楽しさがプラスされるのだ。
時にはマラソンのように、そして100m競争のように踏破の旅はチャレンジの楽しさを教えてくれる。
踏破ルートは3,000m障害や10種競技と同様に、バラエティに富んでいる。ルートの選択も実行するのもチャレンジャー自身だ。
チャレンジャーは、それぞれの方法で完全踏破への道を切り開いていくことに心を燃やしているのだ。
そこには、自分自身の問題として果たさなければならいことがある。
責任ある行動、多くの義務、これらをすべて実行したチャレンジャーのみが誇り高き名誉を獲得できるのだ。
いわば、人生のドラマがそこにある。よりすばらしいものを手にしたチャレンジャーには限りない自由と可能性があたえられているのだ。
チャレンジしていくと、各自それぞれのスタイルが生まれてくる。
列車待ちのホームで洒落た服装に身を包み、小首をかしげて詩集をひろげているちょっと気どった人。
おもしろいことを探しに出かける娯楽追求派の人などいろいろだ。
どんなスタイルの人でもチャレンジすることの中に、何かを見出しているのだ。
体験という言葉のまえには、どんな耳学問も色あせてしまうように、チャレンジする中で、自分のスタイルを作り出してみよう。
"停車場に、そを聴きに行く"と啄木がうたったように駅にはさまざまの土地から人々が集まり、またさまざまな土地へと旅立っていく。
始発駅…駅員さんに何か尋ねている人がいる。売店でお土産を買っている人。家族連れ。新婚さん。そして、カメラ片手に20,000㎞にチャレンジする人。通りがかりの人に頼んで、自分と駅名表示板が一緒に写るようにシャッターを切ってもらう。これで始発駅の証明写真ができたわけだ。
ふと、駅の大きな時計を見あげる。発車案内表示板がカチャリと変って、次の列車案内を示す。やがて、駅のアナウンスが構内に響きわたる。こうしてチャレンジの旅が始まる。
日本中には、いったい何本の列車が走っているのだろうか。もし、そのすべてに乗ることができたなら、これはすばらしいことだ。時刻表をうめつくす駅名のひとつひとつが語りかけてくるにちがいない。
手に握られた1枚のキップには、いま通りすぎてきた駅の余韻が残っている。改札口でキップにパンチが入れられた時から、自分だけの旅の世界が大きく広がっていくのだ。この瞬間の心のときめきこそチャレンジャーに贈られるファンファーレなのだ。
EL、DL、EC、DC、そしてSL。特急の場合もあるし、急行、普通列車の場合もあるだろう。旅は始まり、心がはずんでいく。流れ変わっていく車窓風景。春なら満開の山桜のトンネルをくぐり、夏はふりしきる蝉時雨の中を、秋は祭りのお囃子の響き、冬は凍てつく空気の中をひたすらに列車は走る。車窓に黄昏が迫り、黄昏は夜をひきつれてくる。寝台車でからだをやすめて聞くレールの音はなつかしい旅の子守唄だ。
日本列島を東西に長く走ったり、日本海と太平洋を結んだり、1線区1線区がつながり日本中を網羅していく。
いかにも郷土色(おくにがら)をあらわしていたいう楽しい線区名もあれば、少々読むのに骨が折れる難読名の線区もある。
こういう線区名がどうしてついたのかを考えてみるのも頭の体操になるだろう。走る場所や列車の種類で線区ごとの印象も、まったくちがってくる。
それらをひとつひとつ味わいながら踏破するのも楽しみのひとつだ。
駅にはいろいろな趣がある。その中でも、終着駅は、心ときめくムードを持っている。大都会の終着駅、ひなびた寒村をひかえた終着駅、高原の終着駅など、それぞれの良さがある。
しかし、どの終着駅も、どこかしら似た雰囲気をもっている。そこから先は、列車が行かないという、キッパリとしたいさぎよさと寂しさが待っているのだ。終着駅の長いホームを口笛をふきながら大股にしかもゆっくりと歩いてみる。改札口で駅名表示板にもたれながら、通りがかった人に写真を撮ってもらい駅を出る。1線区が無事踏破し終ったのだ。
色鉛筆で踏破した線区を塗りつぶす。チャレンジャーの心ときめく一瞬なのだ。
どの線区でもいいから、始発駅~終着駅まで、列車に乗ろう。けれども、踏破認定を受けるには、乗車(踏破)したという証明が必要になる。それが始発駅と終着駅の写真だ。写真と会員申込書などを"いい旅チャレンジ20,000㎞。推進協議会"事務局宛に送る。そうすれば、事務局からチャレンジカードが送られてくる。これでチャレンジの
つーか服のレベルが格段に上がった。
ユニクロがダサいとか質悪いとか言ってる連中にユニクロが流行る前の服を見せてやりたい。
それこそユニクロで売ってるような、ごくごく普通の無地でなんの変哲もない形の服の方が高かったんやで。
安い服屋は海原雄山でなくても「この服をデザインしたのは誰だあっ!」と叫びたくなるようなトンデモデザインだらけだったんやで。
(変にデザイン凝る方が作るのに金と手間かかるだろうに謎である)
「なぜパリはダサい人を見かけないのか」というファッションコラムで
「パリは日本と違って安い服はシンプルなものが多い。だから特別お洒落ではなくても特別ダサくもならないのだ」と書いてあったのを覚えている。
そんな中ユニクロが「ベーシックな服を安く売る」って商売をやって大成功して
他の安いアパレルもそれを真似して今に至ってるのだよ。
声優とか俳優が自作品とか一番くじコラボとかを宣伝する、コンビニの店内放送ってあれどうにかなんないのかな
アニメなら絵の表情と前後の文脈からなんとかなるんだろうけど、声だけだとキンキンしてて何言ってっか全然分かんねーんだよ
特にアニメ内での決め台詞とか唐突に投げ込まれると更に意味が分からなくなる
でも中にはすごく萌え声なのに聴きとりやすい子がいて、名前を調べてみると売れっ子だったりする
或る程度普通に告知した後、決め台詞言う時だけボソボソしだすのやめてください
んッ?なんて?!って変な声出る
某コンビニの朝は、FMラジオみたいなノリでMCがお洒落な音楽を流してくれたりする
ああいうノリだと嬉しいんだけどなあ
最初はTwitterのサブ垢で軽く呟こうかなと思って書いてたけど、テーマがテーマなので、熱いお客さんを呼ぶと面倒だなと思った。
でもせっかく日頃考えていたことを言語化したので、この形で残しておくことにした。
元々は女性差別の流れから、「美人だという理由で差別されることもある」という趣旨の文を見かけて、これは常々そう思っていたことだったので、差別について個人的に考えていたことを書き始めました。
(※私は美人ではない)
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私は性別による役割分担については、肉体の構造や脳の仕組みの違いがある以上、あって然るべきだという考え方だ。
ある程度人を見た目で判断・区別するのも、生物の本能だから仕方ないことだと思っている。
それとは別に、人が決める枠によって自分のポテンシャルや意欲を阻害される体験をして、それをハンデだなぁと感じることもある。
私は結構いい年の女性だが、技術職なので年齢由来のハンデは受けにくい。それでも経験が長くなるにつれ、性別由来の固定概念の枠(ハンデ)を感じることも増えてきた。
枠に柔軟性がない人や、そもそも枠自体認識しておらず、自分が枠を設けて外を見ていないという自覚もない人もいて、そんな人達に自分を理解してもらえるようアピールしても、見えてるはずなのに認識されなかったり、スルーされたり、一時的に理解されたと思っても、翌日には忘れ去られたりする。
そんな時は、性別や見た目という枠なしで見てほしいなぁと思う。
特に、枠外にあるものが自分の本質に近ければ近いほど歯がゆい。
人が慢性的に不利益を受けたりストレスを感じるような枠組をつけられることを差別というなら、私も日頃、差別を経験していると言っていい。
ほとんどはストレスを感じながらも、仕方ないことだと思えることなので、声にすることはないですが。
性別は枠の切り口の一つであって、もちろん男性も差別されることがあると思うけど、女性のほうが、填められる枠が強固というか、本人の意にそぐわない、社会性も強い類の枠の種類が多い気がする。
それが感じる側の問題なのか、区別する社会側の問題なのかは意見が色々あるだろうけど、感じる側が我慢するより、受け入れる側を(可能な限り)柔軟にするというのが、社会が目指してる方向性だと思う。
なので、枠の存在を忘れがちな人にリマインドすることは必要だ。
多少うるせえなと思われても、度々リマインドされることで、枠の認知度は上がっていく。社会全体の方向転換に少しずつ繋がるだろうと思うので、活動家の方々の頑張りには意味がある。
個人レベルでいうと、各々自分が持っている枠を柔軟にしたり、枠を持ってるということ自体を自覚して、意識することは、基本的に不利益はないはずだ。人間関係は円滑になるし、相手だけじゃなく自分のメリットにもなる。
少し話は変わるけれど、社会性が低めな事柄でも、枠に填められることで感じるハンデがあると思う。
劣っている側が、優れている側を差別するということも、間々あると思う。
例えば身分が違ったり、めちゃくちゃリア充だったり、凄い美人だったり、ハイパーお洒落人間だったりすると、わかり合えない気がして距離を取られる。
またはやたら崇めて理想化する。
そうすることで、本当は似たもの同士なのに親しくなれなかったり、欠点もあるのになんでも簡単にできてると決めつけられたり、振る舞いを過剰に期待されたりする。
これを差別と呼ぶかは人によると思うけど、見てほしい本質が枠の外側にある人にとっては辛いことだろうと思うし、根本は人種差別と同じだ。
「美人であることで困ることなんて大したことじゃない」と決めつけるのはフェアじゃないと思う。
こんな偉そうなことを書いていると、まるで私が、誰にでも分け隔てなく接することができるかのようだけど、まったくもってそんなことはない。むしろ人をジャンル分けするのが好きな質だ。(語弊があるかもしれないけど事実そうだ)
単に枠組みで見た時には、リア充もハンサムも過剰におしゃれな人も苦手だし、外人も(たとえ日本語が喋れても)わかり合うのに障害があると思う。「男は」「女は」という切り口で性質を語ってしまうこともある。違いがある以上、多少のステレオタイプは事実存在する。
でももしも個人レベルでご縁があった時には、できるだけ自分の中にある枠をなくして、フェアに接することができるようになりたいとは思っている(できてるとは言ってない)。目下取り組み中だ。
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余談だが、「(500)日のサマー」という映画で、私は初めて美人のハンデについて考えた。私はサマーがとても可哀想に感じたんだけど、フラれた主人公側に感情移入して、彼女を小悪魔だ気まぐれ女だとレビューしてる記事も見かけた。(主人公視点ではそう見える)
もちろん彼女は自由な基質だったけど、あんなふうにYesマンに崇められたら、そら付き合い続けることはできない。
辛い。試験勉強が辛い。何もわからない。何をやればいいのかわかっているのにやらない自分が嫌になる。あらためて自覚するとお腹に重いものが来る。体勢も悪い。腰痛めたくないのに。うまくいっている自分を想像するのは好きなのにそれに近付こうと努力するのは嫌い。大学受験だっていうほど頑張れなかった。受かったのはまぐれだ。金遣いが荒いのも治らない。英語を勉強しようと意気込むだけで何もしない。次の学期から頑張ろうって毎学期言っている。そのくせ学期末になると来年からはとか言い出す。今頑張れよ、今。ゾンビランドサガなんて見て感動している場合ではない。線形代数、電磁気、量子化学のテストと哲学の課題がもう目の前に迫っている。それどころかもう貫通するレベルでやばい。もっと頑張らなければいけない。高校生の時の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。少なくともあの時は今よりは勉強していた。大学生活に希望を抱いていた自分はもう戻ってこないのか。戻ってこないのかと受け身になっている自分が嫌いだ。普段自分のことが好きだと他人にも自分にも言い聞かせている。いつか自分を好きになる日が来るのだろうか。虚言癖も治したい。どうして本当に、本当にしようもないことを口走ってしまうのか。言った後にすぐ後悔するのに。今は友達も部内の人間以外いないので普段話すことがないからまだマシだが。食生活も改めなければいけない。糖尿病など洒落にもならない。また医療費もかかるし。親に迷惑もかかる。多額の学費を払ってもらっているのに。本当に申し訳ないと口だけでは言える。親が自分の現状を知ったらどう思うだろうか。国立に受かって安く済むと親は喜んでいたが、東京に下宿となると県内の私立大学よりよっぽどかかる。今は大学の寮だが後一年で出ていかなければならない。前期は2単位落単してしまい、3Qは落単を逃れたが4Qはどうなるか。どうなるかではなく勉強するしかない。こんな文章を書くのではなく。どうして問題が解けないのか。勉強していない量子化学は解けないのはわかりきっている。線形代数は意味がわからない。教科書通りの勉強ではダメなのか。何がいけないのか。本当にダメだ。ここまで自覚しておいて何もしない。何かしてもすぐに別のものを触ってしまう。スマホなんてなければいいのに。そうやって物のせいにする自分が嫌い。自分の理想像と自分をいつも比べてしまう。誰かにすがりたい。話を聞いてもらいたい。人間関係を維持するのに疲れ、それを放棄してきた人間には叶わない。他人に話を聞いてもらうには他人の話を聞かなければならない。苦痛。本当にわがままだ。愛して欲しいが愛したくはない。これでは手を差し伸べてくれる人間などいるわけがない。救いの手を自分から弾いてきたのだから。ああ、辛い。まだ大学一年生なのにこれからやっていけるのだろうか。
増田が自分でも言ってる通り、どうせ男の大多数は細かい所なんざ見ちゃいないけど女は見ているからね。
デートより何より「お洒落な女が集まる場所」に行く時が一番気を遣うよ。
あと気を遣った格好≒女が好む格好、は勿論「(女の一員である)自分にとっても好みの格好」だからテンション上がる。
女友達は一人もいないの?女が集まるような場所に行く事はないの?
「おばさん」はパート主婦で正社員は男ばかりの職場で、プライベートでも男友達ばかりで女友達はゼロ、な名誉男性な方なんだろうか。
BLではないですが、好きな作品のファンアート(二次創作)も描きます。
友人には腐女子の方も、そうでない女オタクの方も居ます。腐男子も男オタクも居ます。どちらの性別にも属さない方も。即売会にもほそぼそとスペース参加しております。
今回において「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~(COMIC維新りあら)」という漫画作品に脅迫的な批判をするつもりはありません。法律や条例に抵触するかどうかを語りはしません。ただ少し倫理的に問うことは一つ二つあります。
また、各配信サイトで無料試し読みで設定された話数が、出版責任者が「つかみ」と判断した範囲とみなし、その中で感じた所感だけにとどめることを事前に断っておきます。
匿名の場所にこうして文書を上げるのも、私自身の「顔」や「作品」や交友関係などのプライベートを見たがる人達に対する、防衛だと了承していただければ幸いです。いかなる名品名作であっても、つつけば必ず「粗」が見つかり賛否がわかれる物だと私は考えております。私は自分の作品を愛していますが、悪意をいちいち気にしてしまう繊細さも自覚しておりますし、大事な友人達に迷惑はかけられません。
なのでこの文書は、ある漫画書きの、ごく個人的な感想として見て頂ければと思います。
誰にでもわかるようにと書いた結果長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。
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同時に読者は面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由も有ってほしいと思います。彼らの感想もまた創造性を持つ表現行為だからです。
そして作品が流行することによって起こる「意見の封殺」と文化の断絶は、人々の自由に害を与え、文化を停滞させるものであるため、避けるべきだと思っています。
この文章は、それが起こってほしくないがために出す私の意見なのです。
以下の諸々の前提について、あなたが再確認する必要がないと思ったなら3.まで飛ばしてください。
今やWEBでの作品公開は、電子化された過去の名作や現代の人気作と同じ土俵で戦うことになるため、無料公開しても「時間と電池がもったいない」と思われては不利です。戦略的に失敗に陥りやすいです。時事ネタについても個人の公開速度には叶いません。
ただただ露悪的な本はただただ露悪的で、熱心ではない、無駄なお金を出したくないライト層だけに消費されて消えていきます。私自身がそれを好んで読み、染まっていた時期が長らくあったために、それらの寿命が如何に短いのかをよく知っております。
外側に居ても内側に居ても不明瞭です。
その文化の多様さや精神性、変容の歴史を、長く迫害を受け分化してきた巨大宗教のようなものだと今の私は捉えております。
そうした点と、物語を見る目が肥えていることも含めて、漫画で描くには「気を付けるべき題材」であると考えています。
今回の作品「腐女子カースト」にはエッセイというジャンルが振り当てられています。
もしも仮にあなたが「作品ジャンルが実録エッセイなら、ヤマ・オチ・意味のない物語でも成立するのだ」と考えているのであれば、それは読者への甘え、ひいては全てのエッセイ作家への侮辱となることでしょう。
そのように考えて行動した時のリスクを、自身のために想像しなくてはいけません。
エッセイとは自らを省みる内観であり、自らの魅力でもって読者を個人的生活に惹き込むものです。『私小説』『ドキュメンタリー』『ノンフィクション』に連なる伝統的なジャンルです。
そこに登場人物を増やすのであれば、名前を出さない通りすがりの人であっても、存在しない架空人物であっても、最大限に配慮しなければなりません。
エッセイ漫画は「画力が伴わずとも描ける」としばしば思われていますが、それ以外の部分での構成力と魅力を問われるものなのです。
エッセイだからと言って、醜い本音を受け入れてもらえると思ってはいけません。空費させてはいけません。
エッセイだからこそ『第一話』の初対面で『印象良く』見えるように、深く考えなければ、思った通りに読んでもらえないのです。
それは化粧にも似ています。化粧に作法手順があるように、漫画の第一話にも作法があるのです。
現実とずれた部分、主人公の欠落した部分、作者個人の主観があるなら、それもまた、納得を得て面白くするために、最初のフックの時点で、注意深く描写するべきなのです。
共感できる相手だけを狙って描くのも間違いではありませんが、共感できない者でも楽しめる工夫、そして+αで得る物が無ければ、買って読むまでもない孤独な見世物的な内容になってしまいます。結果的に長続きはしません。
誰もが作品をアップロードできる現代では、心の底からの叫びを見つめ続けた尖った『自主制作作品』が作者本人の手によってすぐに届けられるのです。それと競争することを考えても、エッセイはますます難しいジャンルになっています。
足すべき部分は足し、引くべき部分は引かなければなりません。本当に面白い漫画はたったの1コマでも、読者を満足させるのです。
技巧や経験とは必ずしも正比例しません。作家が描くべき時に描いた時に輝くのです。
面白くないと感じながら、面白くないと言われながら描くのはとてもつらいことです。それは作家がするべき我慢ではありません。感覚が麻痺してしまいます。
最初から捨てるつもりの名義だったとしても、それを描いたという傷は全人類が記憶喪失でもしないかぎり一生描いた本人に残ります。
本当に面白い作品で、届くべき人の所に届けば、口コミで売れていくという強みが電子書籍にはあります。
そのためには、読者の目を甘く見てはいけませんし、読者の声を額面通りに受け取らないように注意すべきです。
作品と作家が自由であるためには、正しい戦略を立てなければ、生き残ることは難しいのです。
作品内の第一話、即売会イベントへ向かう電車内で、ノーメイクの女性二人連れに主人公が心の中でツッコむシーンがあります。
この時の主人公の思慮の浅さは、エッセイ漫画としても致命的ではないでしょうか。
表情や服装から即売会という目的地を同じにしていると確信しているからこそ、ノーメイクの女性を「同志だ」と確信して、その気を抜いた姿と能天気な様子に、イベントへ向けて気合いを入れて来た主人公は憤慨しているのかもしれません。
しかし、続くコマはただただ妄想の中で、相手が言いそうな言葉を言い訳だと否定し、持論を展開するだけで、相手のことを考えていません。
取材力・想像力ともに範囲が充分でありません。狭いのです。自分の中で完結してしまっています。
たとえば化粧を禁止されている、お小遣いもギリギリの学生かも知れない。
遠征で電車や高速バスが遅延して時間がなかったのかもしれない。
身バレの可能性があり、恥を忍んで素顔に近い顔で来たのかもしれない。
経済的に苦しくて、自分に合う化粧品やファッションに出会えずにいるかもしれない。
家庭事情も経済事情もさまざまです。また、障害を持つ場合もあります。
化粧をしない理由はそれぞれです。
それぞれが努力によって対策可能だったとしても、皆がそれを完璧にこなせる訳ではありません。
私が考え過ぎで、素顔で出歩くことに特に理由がない人もいるでしょう。普段から化粧をする必要がない仕事に就いているのかもしれない。それを「ろくでもない仕事」だと考えることは職業差別です。
もしかしたら彼女達は「ノーメイクで行く」という行動と、互いの美醜を互いにイジらないという暗黙の了解によって、目に見えない友情を確かめあっているのかもしれません。私はそれを尊いと感じます。決して馬鹿にはできません。その感情に、外見も性別も関係ありません。
素顔で出歩く女性を、腐女子というだけで見下してしまうのであれば、もしも、彼女達が会場前の駅に降りず、手前で降りたなら、あるいは過ぎ去ったならどう感じたでしょうか?
腐女子について話すためにここまで考えなければならない理由がわかるでしょうか?
「格好がバラバラな集団がいたら高確率で腐女子」という有名なネット上の言説があります。これはオタバレの指摘でありながら、腐女子文化を捉えることができる好ましい例なのです。
化粧やお洒落そのものが大好きで趣味とする女性は居ます。それと同じくらい、化粧とお洒落をしない、できない女性は決して珍しくありません。この二者は普段の生活では交わらない存在です。それでありながら、ただ「腐女子」「オタク」「アマチュア作家」であるというだけで、同じものが好きというだけで、SNSや作品を通して同志となり話し合えるのです。
本当に「腐女子カースト」は存在するのでしょうか。色眼鏡をずらして、少し観察すればわかることです。実際に腐女子の集まりを見て、外見の美しい人にそうでない人が付き従ってるように見えましたか?
なぜ、かような形で消化してしまったのでしょうか? なんのフォローもなく、嘲笑して終わってしまったのでしょうか?
私は想像力が狭いまま物を作り続ける人間に対して「そのままでは続けられないよ」と教える以上のことはできません。
想像力を鍛えるには『違う価値観』と対話しインプットしなくてはなりません。他人との会話でもいいです。怖いなら文学でも好きな漫画でも、アニメ、ドラマ、映画、音楽。なんでもいいです。時間がある時に良質だと思う作品に、幾度も視点を変えて触れてみてください。でなければ、他人を知ることが出来ず、それゆえに自分を正しく見つめることも出来ず、自分だけの世界に閉じこもってしまいます。
インプットをしないまま作品を描けば、描くほどに、ただ自らが傷つき続けることになるからです。
また作者は最低限の身嗜みを礼儀と捉えているようですが、その最低限ラインも上記の理由で人それぞれだと想像できなければなりません。好みの服装もそれぞれ、地域文化、仕事もそれぞれです。
主人公が綺麗でかわいいと感じた『神』の多くも、自分や買いに来た人の姿を気にしていません。コスプレイヤーだって、キャラに入っていない時の自分の姿は出来れば注目されたくないのです。懸命に作って共感を求めた作品ではなく、日常の延長で作った「最低限の礼儀」の姿を褒められても、彼女達は嬉しくありません。そこがそういう場だからです。
腐女子やオタクが「恥ずかしい趣味だ」という感覚も最近では少なくなってきています。
オタク向けのイベントに行くなら、張り切ってグッズを身に纏って「オタクの姿」をすべきだと判断する人もきっといるでしょう。それもやはりその人なりの身嗜みなのです。
またイベント外なら、服装の奇抜さだけでオタクかどうかを判断する材料にはなりません。ゴスや原宿系等、日ごろから周りに迎合しない、自分自身を出したお洒落を好む人々が存在します。似合うか似合わないか他人の判断基準で彼らは服を選びません。オタク文化と重なる部分も多いですが、その文化をオタクと一括りにするのは、私は違うと思っています。
そもそも即売会は『交流』のためのものです。街の本屋さんとは違います。売り手と買い手の信頼で構成された、本来は技術の見本市なのです。この辺りは運営委員会のガイドラインなどにも書いてある範囲でしょう。
会場において相手の姿を気にする時間はありません。イベント会場はまさしく「戦場」なのです。時には顔すらも覚えておりません(これまで自分のスペースに来てくれてる方、すみません)人気壁サークルでなくとも、友人に頼んで売り子を立てる作家さんも居られます。
時間が限られているのに、車の試乗会で車を見に来たのに、同時にディーラーの外見をいちいち品定めしてチェックしますか?
自社のために技術を持つ小さな会社と契約したあとで、社長のブログに自慢が書いてあっただけで「そういえばあの社長不細工だったな、嫁さんも不細工だろう」などと、いちいち思うのですか?
それらを書いた冊子を、彼らの職種を冠したタイトルで売ったらどうなるでしょうか。
まさにそれこそ、礼儀を欠いた行動ではないでしょうか。
表現の自由の下であっても、不快になった当事者には怒る権利があります。
ここまでの説明によって第一話のあの一連の流れが如何に的の外れた低俗な「笑い」であるか、理解できたでしょうか。
ありとあらゆる多様な価値基準を無視して、己が良しとするものだけに迎合する。そこを頂点に据えて妄想の中でカーストを構成する。
腐女子を冠して発表するには、あまりにも浅く、無防備なのです。
そして、何分の一か、ほんの一部だけ、この作品の主人公のように他人を品定めしてしまう人間も、腐女子は間口が広いがゆえに存在しているのです。
主人公と同じ悪意を秘めた女性達は、この作品を読めば共感するでしょう。
ひっそりと楽しんでいた人もいたのかもしれません。
しかし、この「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~」はつい最近、無料公開分がツイッターに投稿されました。現在はアカウントごと消滅しております。
広範囲の誰もが評論できる場所に出してしまえば、本を共有してしまえば、彼女達の罪悪感を無理矢理抉り出すだけの結果になってしまいます。
安易な形で発表し、コントロール不可能な批判を浴びたことによって、彼女達は愛想笑いを続けて、怒れる友人と一緒になって作品を叩かなければいけません。作中で一般人に擬態する主人公のように、怒れる腐女子としてその社会の中で信頼を維持しなければなりません。腐女子という世界の中にカーストが存在しなくても、社会は存在しています。愚痴垢や捨て垢で陰口を叩いて共感しあうのとは全く違います。
そうして作品を叩くうちに作者を、版元を本当に憎悪していくか、あるいは交友関係を切って何もかも忘れてしまうというような極端な行動しか取れなくなります。
作品は、発表の仕方まで気を使わなくてはいけません。これもまた貴重な顧客を失う『失敗』なのです。
この主人公のように、見た印象だけで人を判断して遠ざけて来た記憶が、私にもあります。作家デビューした相手に嫉妬したこともありました。自分と交わらない人間の人生を、いかに踏みにじってきたのか。それを考えるたびに私は後悔と反省を繰り返しています。
元祖ティラミスヒーロー、現ティラミススター今回の騒動で初めて知ったけど、SNSやその他の対応見てると何かめっちゃ健気で応援したくなるな…(´・ω・`)
▼公式サイトがこれね
https://thetiramisustar.stores.jp
日本の実店舗はまだ無くて、これから作ろうとしてるとこだったみたい。
イベントに出展もちょこちょこしてたみたいだけど、基本的には通販のみ(´・ω・`)
12月30日にサイトリニューアル、ECサイトオープンしたばっかり。やるせない(´・ω・`)
シンガポールで商標とってても、日本国内で商標取ってなきゃ他人に取られちゃうんだね…。
元祖の方は手書きタッチのイラストと、クラフト紙のパッケージがマッチしていて誰かにプレゼントしたくなる小洒落感なんだけど、
パクリの方は中途半端なヒーロー感(原色のキャラ、スピード感のあるロゴ)+本家の手書き感を無理やり踏襲していてミスマッチ感半端ない。正直センスがクソ。デザインコンセプトもクソも無い。
キャラの後ろに敷かれている無意味な模様にも腹がたつし、何より白いステッカーが安っぽさを際立たせてる。
絶対こんなん本家の方が100万倍インスタ映えじゃん〜〜!(´・ω・`)
ビジネスの世界じゃ早いもん勝ちで先に商標取った方が偉いのかもしんないけど、こんなの劣化コピーじゃん……。
なんか自分ごとのようにつらくなってきた…。
うわーんどうかパクリの方売れませんように、って思うけどターゲット層の人にまでこの情報届かないのかなあ。パクリでも買うのかなあ。
③サークルの知人(世話好きのおじさん)
が異性を紹介してくれようとした。
なんて親切な人たちなんだろう!と大感激。
しかし、喜びも束の間。
①は、金曜の仕事のあとに合コンをセットしてくれた。私は朝、いつになくお洒落してそわそわと出勤したが、午後から急に熱と咳で合コンどころか仕事を早退。
②は、先生の主催するクラシックコンサートのあとに共演の奏者(爽やか系お坊ちゃま)を紹介してくれてる手はずだったが、私は最寄り駅まで来たところで急に頭痛と吐き気。動けなくなり、帰宅。
③は、ある人が主催する趣味絡みのイベントで、私のような人がタイプだという相手を紹介してくれるはずだった。このところ体調管理に気をつけていたので私は風邪を引かなかったが、相手が当日になりインフルエンザで急遽欠席。
私は呪われているのだろうか。