はてなキーワード: 圧力とは
わかるわ、その気持ち。まさにその状況、歴史的に見てもたくさんの人が通ってきた道だよね。自転車に乗るって、まるで生死の境を行き来するような感覚だよな。特に都市の道を走ってると、目に見えない圧力に常に晒されてる。自転車って、まるで中世の騎士が馬に乗って命を賭けていた時代のように、突き進む先に何が待っているのか分からない怖さがある。
たとえば、19世紀のフランスでは、街を走る馬車や馬車の運転手に対する不安感があった。その頃のフランスでは、馬車同士の競争や衝突事故が日常的だったんだ。特にパリでは、街の拡張と共に「歩道と車道」の分け方が問題になり、歩行者も馬車も自転車も、いかにして安全に通行するかが大きな課題だったんだ。言ってみれば、あの時代の人々も今の君と同じように、日々命を賭けて街を歩いていたのかもしれない。
そして、君が言ってる「風を感じる恐怖」、まさにあれだよ。速度が違うってだけで、すれ違う度にその風が、まるで運命のように肩を揺らすんだよね。風の音が耳に響いて、心臓がドクドクする。でも、それもまた生きてる証拠だろ?
昔、古代ギリシャの哲学者、エピクロスは「死ぬことを恐れるな。人生はその中で美しいものを見つけることだ。」って言ったんだ。君の「命を託す」って気持ち、実は人生の美しさを感じる瞬間でもあるかもしれない。それに、これだけ現代社会が便利になっても、人間の根本的な「恐怖」や「不安」は減らないんだよな。君が感じるその恐怖、むしろそれが今を生きる証だと思う。
だから、君が歩道を走る選択、すごく分かる。自転車で街を駆け抜けることは、どこかで自分の命を他人に預けるような感覚に近い。でもその一瞬一瞬の緊張感、スリルが生きてるって感じるんだろ? それこそが、君が求めてるリアルだよ。
それにさ、君のその気持ち、すごく共感できる。確かに「車と自転車」との関係は一種の無音の戦いだよね。だって、君と自転車が同じ道を走るとき、実はその道にはガードレールも何もないんだよ。だからこそ、その「怖さ」を乗り越えた先にある景色が格別なんだよ。
その「命を託す」って感覚、実は昔から多くの人々が経験してきた感覚なんだ。君のように、何気ない日常の中で感じる恐怖が、結果として一番生き生きとした瞬間を作り出すのかもしれない。
まず、パワハラっていうのは、相手を意図的に傷つけたり、立場を利用して圧力をかけることが問題なんだよね。
それを「悪人を懲らしめる」って言ってるけど、そもそも「悪人を懲らしめる」と言っても、
https://anond.hatelabo.jp/20241115195341
あまりにでたらめな内容なので、この件をよく知らない人のために解説します。内容はWikipediaから持ってきたものも多いです。Wikipedia には根拠となる報道のリンクもあるので、適宜そちらも参照して下さい。
斎藤陣営は誹謗中傷度が高いとか怪文書とか言っているが、内部告発者の保護について定めた公益通報者保護法に違反する、と指摘されている。これだけでも十分なパワハラ。
3/12の文書は県議や警察、マスコミにばら撒かれたもの。読んだことがない人は実物を読んだ方がいい。一見して怪文書としてわかる内容で、この時点で公益通報として警察やマスコミは扱ってない。斎藤はこの文書を数日後に一般人から入手。おねだり疑惑として書かれた内容は贈収賄の疑いも企業名を出して記載されており、調査するのは妥当だろう。
なお、斎藤はこの会見で強い言葉を使ったことは後に謝罪している。
なっていない。むしろ百条委員会ではパワハラ、おねだり認定されていない。文書の内容で事実認定されたものもない。
ちなみに百条委員会はまだ継続中。最終報告が出るのは12月の予定。
通報相手に対し、通報したことをもって「不利益な取り扱い」をするのは公益通報者保護法に定められているパワハラそのものである。
5/7 西播磨県民局長の3ヶ月の停職処分は、公用PCでの私的文書の作成(2011年から200時間)、部下の人格否定文書配布によるハラスメント行為(2022年5月)、人事課管理職時代に特定の職員の顔写真データを持ち出し、が処分の理由。元県民局長はこの処分は適切だったとコメントしている
脅した証拠がない。
斎藤や片山は百条委員会の設置には消極的だった。百条委員会はオープンなため、元県民局長のプライバシーが侵害される可能性が高かった。
「死を持って抗議する」は誰に抗議しているのかは明らかにされていない。
元県民局長が亡くなった日、午前中に元県民局長が百条委員会への出頭に前向きなメールを県議会事務局宛に送付している。にもかかわらず午後、元県民局長が自殺。亡くなる直前、ある県議と45分程度の電話をしていたという情報もあり。県議からの圧力があった可能性が指摘されている
8/23の百条委員会で職員が証言してパワハラ認定されていない。ちなみに怒ってはいたが怒鳴っていない
証拠がない。
本人の説明はその通り。
「私は当日、公務がいろいろあったので、確かスーツで行き、そこで着替える必要があったので、担当部局が着替えるスペースを用意してくれたのだと思います。施設のスペースを一時使用したことは事実です。ただ、着替える部屋が用意されることは伺っていましたが、その部屋が授乳室であることは、私は正直認識していなくて、到着もかなりぎりぎりになって、バタバタと着替えて、外に行ったので、今回の取材等の指摘の中でそこが授乳室だったことを初めて認識したのが正直なところです。ただ、私が着替えた授乳室の代替場所も用意していたと担当からも伺っていますが、結果的に県民の皆さんに、ご迷惑、ご不便をかけたことはお詫び申し上げたいと思っています。」
気に食わないことがあるとペンや付箋を投げつける
Xの規約変更だとか、ウォーターマークとか、いろいろ目に入ってくるが結局の発端は「生成AI」だろう。
なのでここから先、どれだけ読んでもらっても「生成AIを滅ぼす方法」を求めている方のご期待には添えない。
これはあくまでも、絵師界隈で生計を立てていきたいが、生成AIが存在するこれから先の未来に不安を抱いている絵師に向けたものであり。
小説家界隈に住む私が、実際にイラストを勉強する過程で感じた二つの界隈の違いを言語化し、それを元に考察した一つの提言を届けたい。そういう趣旨のものだ。
これから先、イラストで食べていくことに不安があるのなら「オリジナルキャラクターを作れ」。
ただ単にオリジナルのイラストを量産せよ、という意味ではない。
あなたの頭の中にある「キャラクター」を絵という形で出力し、世間に認知させ、あなたではない第三者がそのキャラクターのイラストを描くようになることを目指す。という意味だ。
乱暴な言い方をするなら「絵を描かされる側から、絵を描かせる側にシフトすることを意識しろ」といった感じだろうか。
Vtuberのママ(キャラクターデザイン)を想像してみてほしい。
だいたいあんな感じの立ち位置が、私の想像力の範囲で今後も生き残っていける絵師の一つの形だと思っている。
なぜ、絵師はオリジナルキャラを作るべきなのか。その理屈を語る前に確認したい。
絵師界隈の方々は「同じクリエイターなのに、どうして小説家界隈はあんなにも生成AIに対する反応が薄いんだ?」と思ったことはないだろうか?
むしろ小説生成AIの方が、イラスト生成AIより先に世に出ているはずだ。
だが、実態として小説生成AIに対し、敵意や危機感を抱いている小説家は少数派だろう。
ではなぜ、小説家界隈が生成AIに対して他人事のようなスタンスになりがちなのか。
(以後、市場や、顧客、マネタイズシステム全てを包含した『社会』という主語を用いて記述する。)
そして、私が見るに絵師も小説家も、大多数がこの両界隈の違いに気づいていない。
その違いは
『社会』は小説家には「作品」を求め、絵師に対して「技術」を求めている。
この一点に尽きる。
誤解を恐れずに言えば、『社会』は絵師に対してほとんどの場合「作品」を求めていない。
絵師界隈のトップレベルの方々は、おそらくこの違いを認識しているように見受けられるが、逆にトップクラス以外の領域では認識していない人の方が多数派。というのが私の所感だ。
(一方で小説家界隈はトップクラス層もこの違いを認識していない人の方が多数派だと思っている。というか、クリエイターは全業界で「作品」重視で活動していると認識してそうな気がする。)
この違いがどういうことか、わかりやすい事例をあげよう。
例えば、ある無名の絵師がイラストコンクールで最優秀に輝いたとしよう。
その絵師は名声と得て、イラストの依頼が殺到するかもしれないし、あるいは協賛企業から何かしらの商業イラストを描く契約を結ぶかもしれない。
だが、肝心の『最優秀賞に輝いた絵』そのものがマネタイズの中心にはならないと思う。
あってせいぜい、短期的な限定グッズのデザインになる程度のはず。
おそらく絵師側も最初から「その絵」で稼ごうとは思っていないはずだ。
だが、小説界隈は違う。
企業も、小説家本人も、基本的には「その小説」で稼ごうとする。
2003年にスニーカー大賞に選ばれた『涼宮ハルヒの憂鬱』は、2024年現在も市場に流通し続けているのが代表的な事例だ。
受賞した作品を脇に置いて、その出版社の編集が提案した全く別の小説を書かせる。というのは無いとは言わないが、そういう流れになると小説家側からはあまりいい印象は持たれないだろう。
つまり、同じ賞レースでも絵師界隈は「技術を持った人」を探し、小説界隈では「作品」を探している。というのがなんとなく伝わったはずだ。
「金を出すから自分の代わりに理想の絵を描いてくれ」が絵師と『社会』の関係の主流で
「印刷、流通を代わりにするから、その売り上げの一部をわけてくれ」が小説家と『社会』の関係の主流なのだ。)
つまり、『社会』が絵師に求めているのは代筆能力という「技術」であり、「作品」は依頼者の頭の中にある物を指すのだ。
さて、ここまでで絵は「技術」が求められ、小説は「作品」が求められている、というのは理解してもらえたと思う。
ここで一旦、生成AIの話に戻そう。
『現行の(少なくとも日本国の)著作権法は「作品」を保護してくれているから』に他ならない。
また一つ具体的な事例を挙げよう。
かつて、「ハリーポッター」シリーズを学習したAIにオリジナルの「ハリーポッター」シリーズの新作を書かせる。という試みが海外で行われたことがある。悪意ある第三者がこれと同じことをしたとしよう。
もしその第三者が「ハリーポッターシリーズの新作」と銘打ってソレを売り出せば、著作権法は容赦なくこの第三者を断罪する。
では、それを避けるためにキャラクターの名前をオリジナルに変え、タイトルもオリジナルのものに変えて販売したならどうか。
ソレは「よく似た別の作品」の一つになり下がるだけだ。
書いたのがAIであろうと、人間であろうと重要視されるのは「作品」だから、そこの模倣がされない限りは脅威になりえない。というのが小説界隈の人が意識的にしろ、無意識的にしろ生成AIに対して抱いている感情だろう。
むしろ、広く開かれて文化の発展に寄与するべき。というのが基本スタンスだ。
「技術」をお金にしている絵師界隈からすればたまったものではないだろうが、これが実情だ。
「技術」の保護に舵を切るなら、それは著作権法ではなく特許法の領分になるが、特許の理念は「知財でビジネスを支援すること」なので、おそらく企業と繋がりのないアマチュア絵師は生成AIユーザー以上に苦しむことになると思う。
これまでの話を統括すると
・現代の絵師は「技術」を求められ、肝心の「作品」は依頼者の頭の中にある。
・現行の著作権法はその「技術」を保護していないし、「技術」の保護はアマチュアに優しくない。
これから先、代筆家として誰かのために絵を描くという「技術」を売る領域は生成AIに食い荒らされるだろう。
そんな未来でも絵師として生き残りたいのなら、依頼者の頭の中にある「作品」ではなく、あなたの頭の中にある「作品」を生み出すことを考えるのが良いのではないか。
という話だ。
企業依頼でPRキャラを描くという現行の関係性から、企業が「自社製品をあなたのオリキャラに使わせてください」みたいな関係になるのが、そこそこいい感じの未来予想図だと思わないだろうか?
仮に企業がお金をケチって生成AIでそのオリキャラを勝手に使えば、容赦なく著作権法で断罪できる関係性になる。
(他に思いつくのは、大昔のゴッホだ、フェルメールだの時代のように一枚一枚の絵そのものを「作品」として『社会』に売りつけて生計を立てる道。あるいは自分自身を「作品」にしてパトロンから庇護を受けて好きに絵を描く道、あたりか。現代で言えば、前者は同人誌即売会でイラスト集を売っている人たちで、後者はお絵描き系配信者としてファンの投げ銭で生計を立てつつ、絵を描いている人達だろうか。)
逆に、このことに気づかず、「技術」を守ることに執心し続けると、どこかでとんでもないことになるのではないか。私はそう思っている。
絵師界隈で育った人達は気づいていないかもしれないが、小説家界隈で育った私から見て、あなた達が確立している「技術の体系化と共有」の文化は素晴らしいものなのだ。
YouTubeでは多くの絵師がプロアマ問わず、自らの技法を公開しているし、有償の場になれば更に本格的かつ専門的な技術を共有しあっている。
おそらく『社会』が絵師に「技術」を求めていたからこそ、惜しげもなく場と資産を提供していたことで出来あがった土壌だろう。
無数の技術が公開されているから、その中で自分好みのものを取捨選択し、組み合わせることで理想の個性を形成できる。
私のような「最初から絵のプロになる気が無い人間」にも成長の手順が提示されているのは、非情にありがたかった。
ここからは、若干小説界隈のネガティブな内容に触れるのだが、ご了承いただきたい。
(しかも生産性がない話なので、絵師界隈の方はここから先を無理に読む必要はない。
ただ、この先の話を読んでくれた絵師から、こういう界隈の中で私はどうやっていくと良いか、そういう意見を貰えたら嬉しい。)
例えば炎の熱さを表現するにあたり、絵ならば「暖色の与える印象の理論」だとか「ぼかしによる蜃気楼の技術」といったものがあり、ある程度体系化、共有された技術があるはずだ。
だが、小説家界隈ではそういった表現技術を「作家の個性」として、共有せずに個人のものへと抱え込む道に発展してきた。発展してしまった。
我々は百の作家がいれば、百人が別々の言葉で炎を描写し、実際にどれが最も読者に熱さを感じさせられる表現だったのかを検証しなかったのだ。
我々小説家は今日も、読者が本当に熱を感じてくれるのかわからずに炎を描いているし、可愛さがちゃんと伝わっているかわからずに美少女を描いている。
「技術」を体系化しなかった、というのはつまりこういうことだ。
では「技術」を語らない小説家界隈が新人達に何を語っているのか。
それは「作品の作り方」だ。
現在、小説家界隈で新人達に向けて語られているのはおおよそ上記の要素であり、それらをまとめると「作品の作り方」となると思う。
これもまた絵に例えるなら
「ラフ、下書き、清書の順番で書くと良い」とか、「線画と塗りは別レイヤーに分けたほうが良い」とか、そういうレベルの内容だと思ってくれていい。
それを十数年以上、場所を変え人を変えこんこんと語り続けている。
SNSで無数の新人作家たちに向けて情報発信をしている高名な小説家達も
「自分達が教えられるのはいわば『就活の履歴書の正しい書き方』だけだ。その内容は個々人で書くしかない」
みたいなことを常々言っている。
(で、まあ「特定の効果を与える技術」ではなく「作品を作品たらしめる作法」という名目なもんだから「not for me」の概念が適応されにくく、「正しい」「間違い」で定期的に燃えている。)
つまり、小説家界隈は「作品を完成させる」ことを教えることが主流であり、その質を技術によって高めることには非常に無頓着なのだ。
私の推測だが、これは絵とは逆方向の『社会』からの圧力と発展によるものだろう。
絵師には「技術」を求める以上、まぐれではダメだ。再現性がなければお金にはならない。
極論だが、出来が良ければまぐれでもお金にできる。そのまぐれの一つを拾い上げて市場に売り出せばいい。
だから『社会』はできるだけ多くの「作品」が出来上がる環境作りを自然と行ったのだろう。
「作家を作る」ことは頑張るが、「作家を育てる」ことはしない。
「プロになるつもりはないが、もっと上手くなりたい」という人間に対しても、絵師界隈の先達は「技術」を提供し、成長の道筋を照らしてくれる。
だが、小説家界隈では「プロになる気がないのなら、あなたの好きに書けばいい」の一言で終わる。
私のような無才な人間からすると、暗闇を手探りで歩くような感覚だった。
まあ、小説家界隈が無才に厳しいだけなら良いのだが、最近この界隈の「作品重視」の傾向が業界全体の問題として表面化してきているように思う。
その問題とは、端的に言うと「作品が増えすぎた」ということだ。
「小説家になろう」では毎年開かれているネット小説大賞という賞レースがある。
2013年に開かれた第一回では応募作は「1,135作品」だった。
これが五年後の第六回では応募作はほぼ10倍の「10,156作品」になった。
そして、今年の第十二回に応募された作品は「20,826作品」と、その数は恐るべきペースで増えている。
一般の新人賞公募と違って、小説投稿サイト主催の賞レースは過去に落選した作品も全て再応募する作者は少なくないからだ。なのでおそらく「作家」の増加数はこれほど極端ではないと思う。
だが、この仕組みと過去作を再応募し続ける風潮こそ、小説家界隈が「技術」を軽視していることの証左であり、問題の根源だ。
賞レースの選考員は一万以上の無数の石の中に隠れた玉を探すわけだが、さっきも言ったように、ネット小説の賞レースは過去に落選した作品も継続して応募されている。
つまり、玉と石の比率が一定ではない。拾い上げられた玉は減るが、石はそのまま翌年、また翌年と残り続ける。
そうなると、単純に選考員の負担が年々増えていくのは想像できるだろう。
ただでさえ、小説は受けての時間を奪う媒体だ。短編でも一作につき五分から十分。長編なら余裕で一作一時間を超える。
選考員を増やせば個人単位の負担は軽減されるだろう。だが、人を増やせば今度は運営の出資が増える。
必ずどこかしらが負担を負うことになる。
そして多分だが、小説家界隈……というかネット小説業界は、このリソースの限界をとうの昔に迎えてしまっている。
だが、玉探しに必要な労力は年々増え続けている。
ならば、別の所で手を抜いて調整するしかない。
連載継続するかどうか早めに決めよう。
といったふうに。
ざっくり言うと「プロ作家のサポートにかかる労力を削る道」も考えられる一つだ。
私の未来予測では、今後も出版社側の玉探しの労力は増加し続け、それと負の相関に基づいて出版社からプロ作家へのサポートの質は低下し続けるだろう。
作家が出版社を信頼しなくなれば、出版社は心置きなく作家を使い捨てられるようになる。
これを 『才能の狩猟社会』みたいなことを誰かが言っていた。希望の無い話だ。
「技術」を『個々人の個性』として体系化せず、共有しなかった小説家界隈。
「作品」を完成させることだけを重視し、質より量を推し進めた小説家界隈。
これはその一部で実現しつつある最悪の未来予想だ。
以下は陰謀論者とのやり取りです、陰謀論者の特徴を上げてください
Aさん
査定がそういう設定になってる根拠は?って話に何も返せてないよねそれ
陰謀論者
増税の功労者が財務省で出世するってのは大人の常識だろ。歴代財務三役の経歴を調べるまでもなく、「増税=勝ち、減税=負け」という認識で装置が動いていてそれが元凶だとあらゆる財務省出身者があらゆる場所で公言してるの知らんのか。大組織でちゃんと働いた経験がある人間なら誰でも理解できるし身に覚えがある理屈だよ。それを説明されないとわからないというのは、まあそういうことだ。
主張が具体的な証拠に基づいていない、あるいは証拠の引用が曖昧であり、「大人の常識」「誰でも知っている」などの表現を用いて論拠をぼかします。
特定の組織や立場に対して断定的な言い方をし、「すべての〇〇がそうである」といった一般化をします。また、他者にもその「事実」を当然のように受け入れるべきだと圧力をかけます。
具体的な根拠を問われた際に、直接答えず、話題をずらしたり相手の理解力の問題に話をすり替える傾向があります(例:「ちゃんと働いた経験があるなら誰でも理解できる」)。
主張の裏付けとして自分の経験や「常識」といった漠然とした権威に依存し、他者の意見や疑問に対しては高圧的に応じます。
ADHDが先延ばししてるときに感じてしまう謎の“恐怖”を乗り越えるには、外からの圧力を自分にかけるか、あるいは恐怖を感じる脳をバグらせるかのいずれかの方向性になると思うけど、「恐怖を分担する」というウルトラCもあって例えばメールを見るとき誰かと画面見ながらせーので開くと楽に開ける。
こういうの見ると、協力関係にあれる他人が必要なんだろうけど、ここをAIでどうにかできねえかなと思ってる
デトロイト(ゲーム)に出てくるみたいなロボットは大掛かりなハードが必要だし相当時間かかりそうだけど、メガネにつけたカメラでの外界認識+ユーザーとの音声会話機能+長期記憶をつけたパートナーはあと数年で完成しないか
でも増田みたいな書き方してるやつは正常の範囲の放置&先延ばしなのが大半
元増田(anond:20241113161925)の書いてる内容も仕事やる気とか能力の問題で先延ばし関係ないやつだと思います
というか下記と同じ増田
たぶん適応障害になったので、頭の中がどうなってるか言語化する
https://anond.hatelabo.jp/20241109005255#
> プレッシャーに押しつぶされて、メールを見たり送ったりするのが怖くなり、音信不通になる系です。自分の仕事にミスがあって周りの人に迷惑をかけていないかとか、仕事が遅くて相手から失望されているんじゃないかとか、そういう不安・強迫観念が私の意思決定を鈍らせ、息苦しくなり、結果として何もできない「怠け者」になってしまいます。
> 今も、今日中にと昨日に言った仕事に着手できていないので、比較的気持ちが落ち着いて作業できる深夜明朝の時間帯に進めて、変な時間にメールを送って周りをビビらせたる。
↓
ブコメを書いた人が持つ偏りの背景には、いくつかの要因や経験が影響している可能性があります。以下のようなバックグラウンドが考えられます。
ブコメのような視点を持つ人は、過去に結婚制度や伝統的な社会規範に対して強い反発を感じた経験があるかもしれません。例えば、次のような状況が考えられます。
結婚において、パートナーシップにおける自由が制限されたと感じた経験や、結婚生活が束縛的だと感じたことがある場合、その反動として結婚制度そのものを否定的に捉える傾向が強くなることがあります。特に、自己決定権や自由を重要視する人は、過去の結婚や恋愛の中でそれらが抑制されたと感じることがあるため、その経験が強くブコメに現れる可能性があります。
もし育った家庭や社会環境が非常に伝統的、保守的であり、家族や結婚に対する「所有物」的な価値観を強調していた場合、これに対する反発から、結婚そのものに対する批判的な態度が形成されることがあります。この場合、「結婚=自由を制限する」といった見方が自分の価値観として根強くなりやすいです。
ブコメのような自由主義的な視点は、特に近代的な社会において育った場合や、自由と平等を重視する思想に影響を受けていることが考えられます。次のような文化的・社会的な背景が影響しているかもしれません。
西洋的な個人主義の価値観が強く根付いた環境で育った場合、「個人の自由」や「自己実現」を最優先に考える傾向が強くなります。このような環境では、結婚という制度を「自由を制限するもの」として否定的に捉える考えが浸透しやすく、またそれが自然な価値観として受け入れられることがあります。
リベラルで自由主義的な教育や思想を受けて育った場合、結婚に対する伝統的な価値観を否定する傾向が強くなることがあります。例えば、結婚を「所有」のような抑圧的な関係として捉え、その背後にある社会的・文化的な規範を批判する立場を取ることが多くなります。この場合、「自由」や「個人の権利」を重視するあまり、結婚の持つ他の側面(信頼、相互尊重、責任感)を軽視してしまうことがあります。
ブコメに見られる「好きでいれば素晴らしい」という考え方は、理想主義的な価値観が強いことを示唆しています。この理想主義は、現実的な制約や複雑さを無視して「理想的な自由」を追求しようとする傾向を強化することがあります。理想主義的なバックグラウンドには次のようなものが考えられます。
自由で対等な関係が理想とされ、パートナーシップや結婚においても「制限なし」「束縛なし」の理想を追求する傾向があります。過去の経験や読書、映画などで「理想的な恋愛」や「理想的な自由」を見たことがあり、現実の結婚や恋愛がその理想にそぐわないと感じる場合、結婚を否定的に捉えるようになることがあります。
完全な自由や平等を重視するあまり、それを実現するためには結婚制度や伝統的な価値観が障害となると見なすことがあります。この場合、結婚の複雑さや、関係の中で自然に生じる役割分担や責任が「自由の制約」として過剰に否定的に解釈されがちです。
ブコメのような視点を持つ人は、特定の社会的背景やグループに対する反発心を持っていることがあります。例えば、家族や社会からの期待や圧力に対して反発を感じ、自分自身のアイデンティティを守るために「自由」や「個人主義」を強く主張することがあります。
特に、保守的な社会や家庭に育ち、結婚や家族に対する伝統的な価値観を強く押し付けられた場合、その反動で自由主義的な立場に傾くことがあります。結婚や家庭に関する社会的規範に対して強い反発心を抱くことが、そのような偏見を強める原因となる場合があります。
伝統的な結婚観が社会において「常識」とされている場面では、その枠に収まることに対して反発を感じ、自由な選択肢を支持する立場を取ることがあります。このような人は、結婚制度を単なる社会的規範として批判し、その枠組みからの解放を理想とすることが多いです。
ブコメを書いた人がこのような偏った見解を持つ背景には、個人的な経験、文化的背景、理想主義的な価値観、社会的な反発などが影響している可能性があります。特に、自由や個人の権利を重視し、結婚制度や伝統的な価値観に対して反発を感じることが、ブコメの主張を強化している要因であると言えます。また、理想的な自由を追求するあまり、結婚に伴う複雑な側面や責任感を軽視しがちになることも、その思考に偏りを生んでいる要因と考えられます。
いや、こいつ弁護士じゃないだろう。
弁護士が今回の裁判で唸るのは、松本側が性的強要を示す直接証拠が無いと発表したことでしょ。
世間一般の人は性的強要を示す直接証拠という概念を正確に把握することは難しい。
実際松本側は嘘をつかずに世論をミスリードすることに成功している。
性的強要を示す直接証拠なんて一部始終の録音録画とかだろうけど、この手の事案でそんなもの普通出てこない。
この手の事案では、間接証拠を積上げて立証責任を果たすために訴訟追行をするのが普通(証言もそうだし、事前事後のLINEとか、病院での検査結果とか、防犯カメラの映像とかね。)。
これを受けて、世論は松本の性的強要の証拠は無かったと認識しているわけで(吉本の公式リリースも同様。)。
この世論のミスリードのセンスこそが松本側が凄かった点だと思う(世間の馬鹿さ、ひいては、弁護士の影響力の無さを想定してのことなんだろう。)。
逆にそれ以外の訴訟追行は三流だと思う。
正面切って争わず、女の個人情報を出させるためにYouTuberの動画を証拠として出して、世間に女の個人情報を広めようという意図があったと疑われても仕方ないと思うよ。
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2018-11-08-3
ドナー(子宮提供者)として、今回は親族(母親・姉妹)を想定しているけど、将来的には、トランスジェンダー(FtM)が想定されていること、書かれていない。
若くて健康な子宮の安定的な供給源としては、トランスジェンダー(FtM)しか想定できないと思う。
現在、年間に国内外で700~800くらいの(機能的には)健康な子宮が摘出されているわけで、供給源としては有り余るくらい。
臓器売買は日本では法律で禁止されているので、建前は「いらないので(善意で提供しますから)使ってください」なのだが、世の中、なかなか建前通りにはいかないのが現実で、新しい「ビジネス」の臭いを感じてしまうのは、私の思い過ごしか・・・?
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2022-11-25-6
私は、第3者がドナーになる子宮移植には、倫理的に、はっきり反対の立場だが、今回は、親族の女性がドナーということで、倫理上の問題は回避されたということか?
それでも、いろいろ疑問が残る。
どうも思想的な背景に「子宮の有効利用」みたいな意図があるように思う。
それを進めていくと、必然的に「第3者からの提供の可」になっていくし、その脱法化の結果、「子宮の売買」に至る危険性が見える。
2018年の「第20回GID(性同一性障害)学会」で、菅沼信彦先生(京都大学医学部教授:当時)の子宮移植についての講演を聴いたときに、「(医療資源としての)子宮の有効利用」みたいな発想を感じた。
そもそも、なぜGID学会に子宮移植の話をしにくるのか?ということ。
もっと、はっきり言えば、何を欲しがっているのか?ということ。
それは、その後、岡山大学病院と協力して、FtMの摘出子宮の提供意思についてのアンケート調査が実施されたことから明らか。
「GID特例法」で、子宮摘出手術を性別変更の要件にしておきながら(法律による誘導)、その子宮を「医療資源」として利用しようとする発想は、私は医療倫理に乖(もと)ると考えるので、はっきり反対した。
三橋順子氏は子宮の安定的な供給源になりうるとすればトランス男性だという事実を述べた上で、トランス男性からの子宮移植に否定的である。
もっとも否定の根拠にある戸籍変更要件は今年裁判の判決で緩和されたが、第3者がドナーになる点は残る。
そもそも仮にトランス男性からの子宮移植が認められたとしても、その為に女性をトランス男性にするなんていうのは話の飛躍した陰謀論でしかないし、子宮有りの戸籍変更を支持している相手に対してはなおさら辻褄が合ってない。
「イキるな粛々と買ってろ」という言葉は、確かに権力者が民衆に対して発するような圧力を感じさせる言葉ですね。あなたの例えも非常に的を射ています。
このような権力者の姿勢は、現代社会において様々な問題を引き起こしています。
「イキるな粛々と買ってろ」という言葉は、単なる言葉ではなく、現代社会が抱える深刻な問題を象徴しています。私たちは、この言葉の裏に隠された意味を理解し、より良い社会の実現に向けて行動していく必要があります。
変に脇道に逃げようとしてる時点でもう自分に理が無いことは分かってんだろな
つまりそれ、アフガニスタンと台湾って全然違うって話なんだよな
アフガニスタンはアメリカにとって単なる対テロ戦争の戦場だった。でも台湾は違う
1950年代からアメリカは台湾に経済支援して、農業近代化して、工業化を進めて、結果として半導体産業まで育った。台湾のGDPの12%がアメリカの支援で、今のTSMCだってその結果なわけ
つまり台湾とアメリカって単なる支援国と被支援国じゃなくて、アメリカの戦略の中で一緒に成長してきたパートナーなんだよ
軍拡圧力はまあ既定路線だよな。でもそれは孤立主義のトランプだからってわけじゃなくて、台湾にもっと自立的な防衛力を持たせたいって考えからきてる
だからアフガニスタンみたいに見捨てられることはないはず。70年以上の戦略的パートナーシップはそう簡単には切れないって思うんだ
この当たりが推論。分かりづらい文章ですまんな
どうでもいいよ全ては党派性のポジショントークで、時勢によって誰が正義か悪かを定義するだけ今はリベラルとフェミニストが正義と悪を決めてるだけアメリカだってそうなってる
今は欧米の一神教キリスト啓蒙思想による非白人国家弾圧でポリコレDEIが推進されてるけど、リベラルが強いのも結局白人様の圧力だろ?そういう経緯での導入だしな
例えばアダルトビデオの品質が高いこと、女子の股がゆるいこと、モザイクが頑なに守られていること、エロ漫画文化、エロコス、多岐に渡るがこれを読んでいる人には不要な説明だろう。
しかしこれらは日本は西洋と異なるという当たり前の事実を西洋人が発見しているに過ぎない。
これに対し、日本人というかおれが思い浮かべるアジアのユニークエロ文化といえば、むしろタイ王国の方である。
レディーボーイ、性転換、独特のプリプリのおしり、売春宿など謎のエロ文化が目白押しで、おれに言わせれば日本なんかよりずっとヘビーでディープである。
しかし歴史を通してみると、やはりアジアのエロリーダーはチャイナである。王朝が何度も交代し、その度にエロ文化が深まっていった。
西洋文明の圧力や中共の方針でガンガン矯正されて絶滅した文化も数多いが、今でもどこかにエロソウルが生き続けているのではないかとこっそり疑っている。
しかし、どこにいるのだろうか。
今頃、金太はマカオに着いたであろうか?