はてなキーワード: スタンスとは
私はかつて元KAT-TUNの田口淳之介ファンだった人間だ。(釈放時に派手に土下座して法廷で公開プロポーズしたあいつだ)現在も別の男性アイドルを応援しているので、Twitterでいわゆるオタ垢を動かしている。そのオタ垢のTLで今年私をざわつかせた一連の流れがある。
手越祐也のジャニーズ事務所退所と、そこからのファンの動きだ。
何がざわつくかって、かつての田口のファン層の変化と共通する点が多いからだ。
先にトピックを列挙しておく。
・私生活の切り売り
当初たまたま目にしたファン...というより降りたくても降りられない人たちのつぶやきがあまりにも既視感があって、愚痴垢界隈からしばらく目が離せなくなってしまった。自分でもはちゃめちゃに気持ち悪いと思うけれど、自分のトラウマと向き合って過去を冷静に振り返りたい自分がそこにいたのだと思う。
はじめに書いておくけれど、これはアイドルファンに対して「こうあるべき」と言いたいのではなく、手越くんをはじめとするアイドルたちに「残ったファンがこういう状況になったら危険」とどこかにメッセージを吐き出したくなったそこらの限界オタクの呻きです。オタクたちに石を投げるつもりは一切ございません。
また、「逮捕されたアイドルと一緒にするな」というご意見もあるかと思いますが、正直逮捕の有無に関わらず、逮捕前の田口の状況はいわゆる下降線をたどっていて、あまり芳しくなかったと思います。メジャーとの契約が切れたりして。(現在はリセットされて少し良くなったと思う。この辺りは末尾にて。)知名度も人気の規模も手越くんとは差がありますが、あくまで「アイドルとファンの関係」が悪化すると活動が衰退する可能性があるぞという個人の意見ですのでご了承ください。
田口といえば世間一般的にオラついていたKAT-TUNの中でもマイルド担当で、育ちとスタイルの良さ、ダンスの美しさからクラシカルな王子様的ポジションとして愛されていた。(寒いギャグも言う三枚目キャラでもあったけど。)
ジャニーズ時代は比較的需要をまっとうしていたけれど、退所してソロ活動を始めてからは、本人のリアルな嗜好が垣間見れるようになってきた。
今でも「田口淳之介 ロゴ」と画像検索すると一部ヒットするが、ゴリゴリのワルなストリート系のロゴなのである(語彙力、、)。
インディーズで発表した1stシングル「HERO」のジャケも完全にらしからぬワルでマッチョなフォントでタイトルが描かれていたし、続いてリリースされたメジャー1stシングルのロゴもストリートアート風で、本人のファッションもとてもカジュアルなものだった。
活動のかなり初期から、熱心だったファンからも「これじゃない」「田口くんに似合う服はもっとこういうの(画像つきTweet)」といった類の意見が頻出していた。
音楽性に関してもちょいちょいジャパレゲテイストを出してきたり、ウェイ度の高いラップにチャレンジしたり、イカついテイストの楽曲が目立った。(全てではないが)
はっきり言って、目指している方向が「理想とちょっと違う」というよりファン達が「なんなら苦手」と感じるジャンルだった印象だ。地雷を踏んでいたのだ。
アー写も「強い自分」を打ち出したい意図がわかりやすいものを長らく使っていて、「もっと穏やかな空気感の写真の方が田口くんの良さが出ていいのに」なんて言うファンの数は決して少なくはなかった。あれだけ言われていたのだから、ファンレター等で直接進言した人だっていたに違いない。
逮捕前の田口は、ファンの需要を理解していながらも「自分が表現したい自分」との大きなギャップに苦しんでいたのではないか。
(ライブの衣装しかり、写真集の衣装のチョイスしかり、需要に応える場面もそれなりにあった。けれど、本人が持たれたい印象と差があることがあまりにも明確だったので正直見ていて苦しかった)
独立して個人で活動していくのだから、アイドルが自分のやりたい表現をやる権利を行使して当然だ。それは美しく言えば信念とも言える。だけど、ファンのツボを押さえていないとファンが減るのは当たり前の結果なのだ。
かつてのファンが一番切望しているであろう音楽活動が手薄なまま、YouTubeにボランティアに脱毛サロンにと活動範囲を広げている手越くんを見て、そんなことを思い出した。
ただここまでは本人がリスクを覚悟してどこまで天秤にかけるのか次第の話だからまだいい。ここまでなら未来に期待して残るファンはそこそこいる。
芸能人の実名をあげまくった手越くんの自伝とは影響力にだいぶ差があるが、田口もしばしば私生活の切り売りと称されても仕方のない活動があった。
いくつかの媒体で、退所から現在までを振り返るインタビューで結婚をいずれ考えている主旨の発言をしたり、吉本芸人がたくさん集まる関西ローカルの番組でも同様のことを語ったりしていた。
長年交際を続けている恋人がいるのはファンなら周知の事実だったし、退所理由を濁された時点で結婚を見据えての退所なのだろうと多くのファンが推察していたせいなのか、ソロ活動の開始当初から田口のファンには恋愛に寛容な人が多かった。
だが、週刊誌から情報が流れてくるのと本人の口から語られるのとではダメージ全く異なるのだ。くだりの関西ローカルから一気にファン離れが進んだ印象が強い。
「アイドルだって恋愛は自由だ」という考えは正論だし、どちらかといえば私もその主張に近いが、一方で「恋愛して欲しくないというより、アイドルの生々しさに触れたくない」というファンの気持ちはわからなくもない。そういうファンが良い悪いというより、アイドルが実生活の恋愛の話をすと、一定の耐性がある人でないと応援しづらくなるのが実情なのだ。
また、生々しい恋愛を語りファンに耐性を求めることで、”とあるリスク”が生じるのだ。
現在手越くんを純粋に応援するファンの方も、どちらかというと高齢の方が目立つ。
田口はジャニーズ時代から元々マダムキラーの傾向があったが、1stアルバムを出したときに池袋のサンシャインで行われた特典握手会には本当に若いファンがたくさんいたし、握手して感激して目をはらして会場を後にする人で溢れていた。
それが、いつからか会場には自分の親世代のファンの割合がどんどん増えていって(つまり若い子が減った)、スタンディングの密集した現場なんかでは誇張ではなく本当に加齢臭が漂うようになってしまった。
アイドルの恋愛に耐性がある人とはどういう人なのか。全員ではないが、自身が結婚を経験している人ほど、その傾向は高まるように思う。
また、アイドルの親目線で「幸せになって欲しい」と願うファンもこの傾向が強い。(言わずもがな親世代の人たちに親目線のファンが多い)
「自分が結婚しているのに、アイドルの恋愛や結婚を咎めるのは後ろめたい」と思う人、「アイドルの恋愛を許容する心の広い自分が好き」と思う人たちが生き残る。
高齢なファンが全て悪いとは言いません。年齢を重ねて穏やかに応援していて、マナーを大切にする素敵なファンの方もたくさんいました。
・SNSが苦手
SNSが苦手。これが単に「拡散力が低い」だとか「他界隈を沼に落とすのが下手」といった特徴であれば、単にプラスの影響が少ないだけで、害はありません。
SNS慣れしてない、SNSしてない世代の特徴は、<自分のSNS上での振る舞いで他者からどう見られるか>という視点が欠如した行動全般を指すのです。
わかりやすい例でいうと、愚痴をつぶやくときに検索避けが出来ていなかったり。アイコンやプロフィールがダサかったり。使っている絵文字や顔文字など表現全般が古かったり。内容を垢分けせずに無駄に日常を垂れ流したり。
高齢な女性ってなんですぐ「○○ちゃん〜❗️」とか言ってすぐリプライで絡むんでしょうね。あとすぐ「○○同盟」とか「見守り隊」とか言い出したり。
きっと若い世代以上に良くも悪くも<いかに標準的であるか>に気を遣う世代だからすぐに群れたがるのでしょうか。
アイドルのディープなオタクになるための2大行動として「ファンクラブに入る」と「SNSで専用垢を作る」だと思うのですが、後者の専用垢を作る前段階で、新規の若いファンは大手垢を中心に、界隈のファンがどんな発信をするかをチェックします。そして、安心できるコミュニティーだと判断してようやく壁打ち垢からスタートするものです。
SNSが下手なファンばかり増えてしまうと、残念ながら新規のファンはどんどんつきにくくなります。
あとこれは田口のファンだけかもしれないけれど、高齢のファン、気持ちが昂ってても遠慮してなのかライブ会場であんまり声出さないから、パフォーマンスの素晴らしさの割に現場の熱狂が薄くて悲しくなることが多かったな。。。
よく愚痴垢界隈や降りかけのファン、ひいては批判を投げかけるファンに対して投げかけられる意見として、「嫌なら見なければいい」という言葉があります。
特に逮捕直後は当然ながら田口ファン界隈のSNSも荒れに荒れ、結果として擁護派からこの言葉が発せられました。
少し前にAKB48の柏木由紀ちゃん(この人選で傷つく手越くんファンいたらごめん)も自身のYoutubeチャンネルで、「全肯定してとは言わなけれど、アイドルを自分の理想に変えさせるのは違う。見ていて自然と応援したくなる人を応援すべき」という主旨のことを話していた。全肯定まではいかないけれど、比較的近いスタンスの発言だと思う。
こうした類の意見は、ファン自身が精神を病まずに応援するという観点では大正解だ。
だけどアイドルから見て、本当にこのスタンスは望ましいのだろうか。
アイドルに限らず、認知度がものを言う世界では、無関心こそが最大の脅威だ。愚痴を言われながらフォローを続けられているならまだマシで、チャンネル登録やフォローを一度外されてしまったら、そのファンが戻ってくる望みはほぼゼロに等しい。
だいたいアイドルが何をやっても許すならば、そもそもなぜそのアイドルを推しているのかという根拠が揺らいでしまう。だんだん応援するのが習慣になってしまったとしても、元はといえば応援したくなる決定的な要素があったからファンになったはずだ。本当に全肯定になってしまったら、それはただの宗教か依存か自己陶酔だ。
今私が推しているアイドルの界隈は、ことによっては批判も行われ(批判はアイドルだけでなく運営に向けられることもある)、少なくともファンの間では正当に議論が交わされることが多い。批判も決して押しつけではなく「次は気をつけられるといいね」「反省できる○○くんは素敵」といった具合に幸いにもポジティブに着地するのをよく見かける。こういう意見が見られる場所で応援してこそ、自分の推しているアイドルを好きだと日々自信を持って実感しながら応援出来るのではないか。
そして現在の手越くんの愚痴界隈は、見切る勇気がなかったり、まだ期待しているというだけでなく、ファンが減ってしまう恐ろしさを察知しているからこそ、健気に意見を言い続けているのではないでしょうか。
かつての田口担から見ても、彼女たちがいなくなってからが本当に切ない事態を招いてしまう予感がします。Twitterを見た感じ、若いファンが多いし。
少し前に現在応援しているアイドルグループのメンバーの一人が、新しいレギュラー番組を始めるにあたって、「今まで見せたことがない一面を見せるかもしれない」と事前にブログで発信していてとても感心しました。ファンが離れる恐れのある新しい挑戦の際に、先回りしてファンをケアしたり、活動の幅を広げるにしても、ファンが理解できるような筋を通すことでいかに安心感が得られるか、と実感した体験でした。手越くんもよかったら参考にしてみてください。
最後にこのブログで散々貶めてしまった元自担の田口淳之介さんに関して補足。
私は逮捕が原因でファンをやめたというより、逮捕後、ファンクラブの会員だけが見られるブログでは「法廷で語ったことが全て」と言っていたくせに、そのブログの後で家族との仲が原因で小嶺家に助けられて絆を深めた、などなど余計なことをベラベラと週刊誌に語ったのに呆れ果てて応援する気をなくしてしまいました。
ですが、私がファンをやめる前より、現在の方が状況が良いように思います。
逮捕されたことで以前よりプライドがなくなったのか、自身のオリジナル曲だけでなく「踊ってみた」に積極的に挑戦して動画を投稿したり、逮捕前からラジオ番組を通じて交流があったボカロ界隈の方と楽曲を作ることで、クリエイターを押し上げつつハイペースに作品を出すことに成功しています。
正直、逮捕された後にここまでアクティブに活動してくれると思っていませんでした。
ボカロ曲が私の音楽的嗜好に合わないので、応援はしていませんが、SNSのフォローは続けています。
たくさん傷つけられましたが、今でも幸せになって欲しいという気持ちには変わりはありません。
何より、「歌って踊ることが好き」であるということにしっかり軸を置いて活動しているのが見て取れるのが嬉しいし、どうかこのまま続けて欲しい。田口氏に関しては、いつの日かまたファンに戻る日がくるかもしれません。
勝手に比較して勝手に書き散らしましたが、どうか手越くんのファンやかつて手越くんファンだった人たちが幸せに心穏やかに暮らせますように。
技術に携わる人で、新しい技術が出て試して「よし採用してみよう」って思える人ってどんな頭してるんやろ…
いい意味で、頭の中がお花畑で、全てのものが新鮮に見えるんだろうか。
そういう人が落とした情報を必死に拾い集めてる俺には見えない光景が広がってるんだろうか。
だとしたら楽しいだろうな…
世論調査を見ると、ネットもリアルも中道右派~右派で自民系消極支持がめちゃ多くて、左派色の濃いはてなーは肩身狭いっぽいじゃん。
でも、左派やはてなーが「エロはけしからん」って言い出すような問題では、一般世論も左派的な立場に共感する人が多くなるのってなんだろうね。
右派・保守系だって表現規制エロ規制しまくりだろ、むしろ元々の保守主義はエロに厳しいだろなんてツッコミがあるかもしれんが、こういう場合にネット世論をリードしてるのが左派論陣なのはちょっと見てりゃわかる。
そりゃさ、右とか左とかで分類せずにトピックによって是々非々だと考えれば悪いことじゃねえんだろうけど、他の分野では多くの人間は是々非々態度なんか取れないじゃん。メインの立ち位置から自由になれない。
でもエロ分野は違う。普段の立ち位置関係なく、エロはあかんってことをみんな言い出す。
俺は、政党では左派消極支持だけど、エロや禁忌表現は配慮せずどんどんオープンにやれってスタンスで、全てが世間様と逆だからつれえわ。
世の中の不安や苦痛を減らすことよりも快楽を増やすことに重点を置いた方が世界の幸せに繋がる、少なくとも俺の幸せに繋がるし、そこが衝突する時はガクガク不安に震えながらでも快楽増大を選んだ方がいいと思ってるんだけどなあ。場合にもよるが大体の事案ではね。
今回のラブドール騒動でたまたま目にはいったんだけど本当に最悪にも程があるっていう存在でびっくりした
自分たちはマジョリティの身でありながらキャラのセクシャリティをマイノリティ方向にいじくって遊びながら
なにか社会に対してちゃんと責任を果たしているという自負だけが根拠なく膨れ上がっているらしく
ああしたマイノリティの当事者性をもった表現に対して控えておけなどと迫ること自体がただの差別なのだが
(もちろん件のマンガがイキってたのは確かであるがイキるのは犯罪ではない)
それを恐怖心を与えたとかそういう理由ごときで差別が正当化されると思うようなシスヘテロの最悪な面はそのままに
社会的責任という、ただのマジョリティの自分たちがやってる妄想上のセクシャリティ遊びを特権化して、彼らと違うと切断処理し
自分たちだけを安全圏へとおいておくための惨めったらしい自己弁護のことを配慮か何かと勘違いしてる人間
これがただのおかしな個人だったならまだしも一定の腐ェミとでも呼ぶしかないクラスタとして存在していることが恐怖しかない
男オタク達が反省なく隠れもしなくて批判が集まることを責める前に
こんなカルト的で異常なスタンスに疑問も感じなくなるほど内輪にこもって無批判でいるうち
出来あがってしまったマジョリティとリベラルとフェミとサブカルの悪いところだけを集めたようなクラスタの最悪さについて考えたほうがいい
「何でも正しい」か「全部間違ってる」しかないとか、知能低すぎだろ
新聞社のスタンスとかを考えながら記事を読み比べたりして、どういうことが起きてるかを読み取るのが「ニュースを読む」ってことなんだよ
「マジスタンス」でググったら分かった
https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9
松任谷由美氏に対する某大学講師の発言が炎上した件で、自分が思ったのは「自分の好きな作家やアーティストにはなるべく政治的な発言をして欲しくないなあ」というものだった
当然アーティストも一個人なので、政治的や宗教的な発言等をする権利はあるし、自分がそれを咎めることなど出来ない
なので自分として出来ることは「えー、出来ることであれば政治的なお考えは内心だけに留めて頂いて極力外部に発信しないで頂けませんでしょうかね」とただただ願うことだけである
そう考えていて、これって自分がこれまで散々馬鹿にしてきた“自分の推しメンバーが恋愛をしないことを願うAKBオタ”や“好きな声優が処女であることを願う声優オタ”と大差ないじゃんということに気付いてしまった
当然全く同じというわけではない 自分は小沢健二が好きなのだが、小沢健二が政治的な発言をしたとしても声優オタのようにCDを叩き割ったりはしない
オザケンが「黒人射殺の件に抗議してライブを更に1年延期します」と発言したり、黒人被害者の名前が書いてあるマスクをつけてライブで登場したとしても、残念だなあと思いながらもCDは聴き続けるだろう
現に自分は景山民夫氏の作品が好きで、氏が幸福の科学に入信したあとも「トラブル・バスター」を何度も読み返したりしている
多分自分の中で「アーティスト個人の信条・政治的スタンスとアーティストの作品は別物」という整理がそれなりに出来ているので、引き続き作品を楽しむことが出来ているのだと思う
ただ、やはり政治的な発言や新興宗教に入信などということがあれば「うへえ」と思ってしまうのは事実だ
なので自分は今日も好きな作家さんの本を読んだり、好きなアーティストの曲を聴きながら「自分の好きな人たちが何も変な発言をしませんように」と願うばかりなのである
その合理的の下でどれくらいの女の子が苦労してるかは考えてくれないのはどうなの〜とは思うけど(うちの大学、恋愛工学マニア多くてその被害にも結構あった)、そもそも個人個人の気持ちは預かり知らないスタンスならこれ以上話しても分かり合えないな〜って感じ
まさに昔ツイやらニコ動で「腐女子出しゃばってくんな!!!!害悪!!!!!」とか息巻いてた男オタクだけど、正直今になると別に大して不快じゃないしなんであんな目の敵にしてたんだって思うようになったわ
「なんとなく敵が欲しくて叩いてた」のには実際罪悪感あるし、今後はそういう弾き出しやめるようにしよう、性癖オープンでいいよね、つか他人が何好きだろうがどうでもいいわって思ってそういうスタンスで交流してたらいつの間にか女オタク界隈と(原因の一端がこっちにあるのはそうなんだけども)真逆の立ち位置で対峙してて世の中ままならんなって思う
時間かけて育ったコミュニティの風潮とか変える方がどう考えても負担だし、こっちは今更変えられん!言ってる通り原因お前らなんだから負債分黙って甘んじて殴られろ!って言われるともう何にもならんけどまあ、うん、はい……って感じなんですが
今までのオタク人生でこっちを不快にしたやつの割合、圧倒的に女>男。男オタクとはそもそもジャンルが違って関わる機会がほぼ0なので自動的にそうなる。
女オタク、鍵パカで平気でBLや夢妄想垂れ流すし、モブおじさんになりきって推しキャラにセクハラツイートするし、軽率にキャラクターをレイパーやビッチにするし、ウブなキャラクターをすぐ童貞呼ばわりするじゃん。そうじゃない人も大勢いるけど。
学級会なんて開いたところでまともな人間からどんどん脱落して、肝心のやらかした奴は図太いからジャンルに居座り界隈は先鋭化。いじめ事件とか被害者は最悪絶筆まで追い込まれてんのに加害者側はチッうるせーな反省してまーすで垢消し転生とかザラ。
あと、エグい性癖持ちのやつに限って意識高い系でジェンダー問題やポリコレにいっちょ噛みしてくるの何なん?見ていて恥ずかしいわ。
女性向けも大概無法地帯なのに男オタク敵視してるやつを見ると冷笑したくなる。男向け界隈を擁護するつもりはない。そっちの問題はそっちで解決しろというだけ。
ゾーニングは前提としてオタクの創作なんて基本「周囲に寛容であるよう努めるので自分のことも多めに見てください」というスタンスで成り立っているから同性でも異性でも下手に他人を攻撃するとブーメラン刺さるよ。それが個人間で済むならまだいいけどこっちにまで延焼してきたら困るから下手に騒がないで欲しい。
はてブを眺めていると「小児性愛は性的指向ではない」と言い切っている手合いをよく見かけるけど、ちょっと納得感がない論理が多い。
特に見かけるのは、
・小児性愛は加害性と表裏一体なので、合意の取れる同性愛やその他性的指向とは異なる
の二つ。
まず、性的指向というのは性的魅力を感じる対象のパターンに過ぎないので、加害性があるから性的指向ではない、というのは言葉の意味を理解できていないですと言っているようなものだ。
多分、「小児性愛も性的指向の一つ」という言葉に「だから受け入れろ」という意図を感じて反発しているんだろうけど、言葉の意味を曲げて反論する姿には違和感がある。
現状、医療現場でペドフィリアが障害として扱われていることは事実なので、一定の理解はできる。
ただ、実態としてこの部分は今もなお議論が白熱しており、指向と嗜好を完全に区別するにたる根拠を提示する人はいないので、結論ありきでニュートラルなスタンスとは言えない。
実体験を元にして書かれた小説はたくさんあるし、カミングアウトしている作者もいるよ。
イベントに幼児を連れていくのだってレジャーの一環になりうるし、逆に公園とかだけに制限すると育児生活が必要以上に窮屈になってしまうよ。幼児の自分の意思を言い出すと、幼稚園で行われるあらゆることが自分の意思じゃない。その年代の経験って大ざっぱには、なんでも糧になるもんさ。
個人情報の暴露は自分の立場だったら気をつけたいが、そこまでストーキングを警戒すべきっていうのも人間そのものへの信頼が低くて息苦しい価値観だと思う。やられたら怒る、くらいのスタンスもいいと思うよ。
公式が困るか否かは、相手次第なとこもあるんじゃね。デフォルト迷惑想定なのはいいマナーだが、逸脱をまったく許容しない世界は退屈だよ。
ごく小規模なイベントのビラで萌え絵を使っていたことがあるが苦労した。
セミプロとおっしゃっていた絵師さんにお願いしたんだが、エロ表現がすぎる。
一般向けなのでエロ描写は控えるように言ったが、抜け道を探してくるのだ。
これは肌の露出ではないから問題ない、これは光の加減だから問題ない、と言った具合だ。
それまで何人かの絵師さんにお願いしていたが、このようなことはなかった。だから困惑した。
こちらは事前に良い例と悪い例のサンプルを出して、表現の程度を指示していた。
だが、良い例に従うわけでもなく、良い例悪い例を出した意図を汲み取るわけでもない。
ただ悪い例を回避すれば何やっても良いくらいのスタンスだった。
「全裸に肌色のボディーペイントしたという設定なので、肌の露出ではないと言い張れますよ」みたいな提案を頂いたが、
こちらの意図は必要以上にエロと思われないことである。エロ描写をしたいという要望はないし、言い訳が通ればいいというわけではない。
TPOに沿いたい、誰かを不快にさせたくない、というものである。
こちらの意図をまったく汲み取ってくれないので、その方は前金だけでお断りした。
イラストは以前にお願いした絵師さんに描いてもらった。費用はかかったが、出来栄えが良かった。
・際どい描写をしたがるイラストレーターがいるので、担当者はチェックを怠ってはならない。
・際どい描写を担当者レベルではじいていれば、そもそも問題にはならない(露出がないからと怒る人は少ない。「露出があるから撤去された」だと怒る人がいる)
お、お、お、おにぎりが好きなんだな。
山下清です。
ウソです。
私が応援している推しの演奏家さんがやってるラジオでお便り読まれました~!
わーい!
もう往年の國府田マリ子さんしか言わないそんなドンドンヒューヒューパフパフなんだけど、
あと
もう國府田マリ子さんとヒュージャックマンと華原朋美さんぐらいしか言わないわよね。
でさ、
打率としては二割五分弱ってところかしら?
お便り少ないのかしら?って不安になるけど、
でもなかなか採用率高しだと思わない?
まあ嬉しいっちゃ嬉しいのでまたお便り書くわね!
お便り募集して少なかったら可愛そうなので、
賑やかしに送ったら読まれちゃったって感じで、
クールを超装う感じがまたよくない?って自分で言っちゃうけど。
ここんとこライブもコロナよろしく中止になってることが多くて、
この秋にいよいよライブが開催されると言うことで、
その時は遠征費いらないので助かりまくるけど、
遠征費の捻出に余念がないこの4年なんだけど、
これ全部経費に回せちゃうのかしら?って
応援を生業にしていたら応援業としての帳簿が付けられるはずじゃない?
でも税理士さんに聞いたら、
これ全部経費に回せて良いのかしらって「お、おう」と言う一抹の不安を抱えつつ、
まあ申告するときに、
怒られるときは怒られるでしょ?ってスタンスでしれっと計上したもの勝ちってことらしいの。
もう生きていると税金との戦いになるのよね。
こればっかりは。
秋のことを考えるとゾッとするけど、
頑張るわ。
うふふ。
間違えてミックスサンドを買っちゃったときの過ちを二三度繰り返さないように、
たまにこれやるのよね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
安倍総理が難病である潰瘍性大腸炎の悪化で辞任することになり、一部で「難病の苦しみを知っているはずなのに安倍政権下で難病医療費の自己負担額が上がった。安倍政権は弱者に冷たい」というコメがツイッターやはてぶでもいくつか見かけた。
私は通常は安倍政権には批判的なスタンスだが、この難病対策についての批判は正しくないので訂正しておく。
自己負担額が増えた最大の原因は安倍政権下である2015年に国が難病医療費補助制度の対象疾病(指定難病)を従来の110疾病から196を追加して306疾病に拡大したからだ。
ただ単純に指定難病を3倍にしたから医療予算も3倍とはならず、多少は増えたが結局は「これまでの対象疾病に使われていた予算を広く浅く」という方針にならざるを得なかった。
だからこれまで指定難病であった潰瘍性大腸炎などに苦しんでいた患者が安倍政権下で自己負担額が増えて経済的負担が増えたのは事実ではあるが、それ以上にこれまで国の補助を得ることすらできなかった難病で経済的に苦しんでいた多くの患者やその家族が新しい難病医療費補助制度の恩恵にあずかることができるようになった。
もちろん理想をいえば2015年に追加された指定難病に苦しんでいた患者やその家族も従来と同じ補助を受けることができることに決まっているが、そのための予算を確保することができなかったというのは現在の日本の財政事情を考えると理解せざるを得ない。実際に難病で苦しんでいるわけでない私からしたら「多少でも予算と規模が増えただけマシではないか」とも思えてしまう。
上にも書いたが私は総合的には安倍政権には否定的である。しかし間違った前提でバッシングをしても正論ブーメランを返されて自爆するだけである。安倍政権は難病対策については多少は仕事をしたのである。
追加1:
https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/0000086077.pdf
「荻上チキ・Session22 成立した『難病法』の行方と課題」の反応 (当時の反応)
https://togetter.com/li/675949
タイプミスのご指摘ありがとうございます。可能な限り修正しました。
追記2:
いただいたブコメ読ませてもらいました。反論の内容は個人的にも正論だと思います。いくら政権側や第三者が「予算がないからしかたないではないか」と言っても、当事者にとってはたまったものではないという感覚は真っ当だと思います。
今回のエントリーはあくまで「安倍政権になって難病対策の予算が縮小されたので?」という批判に対して「そんな単純な話ではない」という現状をお伝えしようといただけです。
安倍政権がこれまで度々行ってきた不祥事、スキャンダル、不誠実な対応などが目立ちすぎてこういった問題がなかなか紹介されませんが、難病問題だけでなく日本の抱えている問題の根本的な原因は「とにかく予算がない。現状維持すら厳しい」に尽きると思います。文面だけ立派な法律を作ってもそれを実行するだけの予算がつかないのです。(だから将来入る予定の消費税増税分をアテにするという先送りが横行してます)
消費税を増税して社会福祉に使うと公約にしても、その増収分の多くは毎年自然増する高齢者医療や介護の予算に吸収されてほとんど残らないのが現状です。
安倍政権下ではせめて長期政権中にこの日本の根本的社会構造のバグの修復を期待したのですが、結局何も出来なかった、する気すらなかったのではないかという事実に心底失望しました。まぁ次の総理候補の方々を見ても期待できそうにないですね。
インターネットにあふれだした政治的な良くも悪くも強い言葉が嫌でも眼にはいるようになり、厳しい空気になってきた。
そのせいで、自分もこういうことを考えないといけないのではないか、政治に対するスタンスをつよく打ち出せないと国民としてダメなのではないか、みたいなキモチになりかけたんだけど、ぶっちゃけ政治ってぜんぜん興味ないし、別に日常が脅かされている気もしないし、お金はないけど極端に貧困というわけでもないし、生きられてるからいいじゃん、って思ってる。
一方で、"特に政治に興味がないひともなんだかんだ生きていける状態" 自体が政治によって成り立っているわけでもあり、自分に本当に関係がないことかといわれたらそれはもちろん違うということもわかってる。
だからせめてもの行動として、選挙はなんかよくわかんないし何の意志もないけど行って出すようにしてる。
でも、インターネットで政治の話をしてるひとってなんか関わりたくない感じで、興味ないとかいうと殺されそうで怖いし、ごめんなさい、投票する以外はもう俺は何も言わずにだまってますから、なんか勝手にやっててください、って思ってる。あと、なるべく目に入れないようにしてる。ツイッターも控えめにした。ニュースは政治カテゴリはみない。
俺みたいなのでも生きられる国でもよかった。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。