はてなキーワード: ぼんやりとは
http://www.gp-sri.jp/report/detail028.html
健常者が57.4%なのに比べると、メチャ低い
96.7%が未婚、というとマジですごい感じする
「知的障害者は生きる価値ないから、97%は生まれ次第殺処分だ!」っていうとヤバい感じするが、実際には80年かけてるだけで97パーセントは殺処分して断種してるらしい
まあでも、それをいうと俺も殺処分されてんだよな
つうか、子を残したら「意味がある」 残せなかったら「無意味な命」っていうのも貧困な発想だな
いいか!べつに!
知的障害者の9割以上が結婚すらできずに死んでいくかもしれないが、それでも彼らの命には意味があるよな!
特に電車でアウアウ言って車内に緊張感走らせてくれるタイプの人 彼らは俺なんかよりよっぽど社会的プレゼンスが高い
俺が今日死んでもほとんどのやつは気にとめないだろうけど、毎朝電車でウアーつってる知的障害者が突然死んだら、「あれ、今日はあの人いないのか…」ってなるもん
個性があってすごいよな ホントに生きてるって感じがする 多分俺より人生楽しんでるしな
ああ
知的障害者の未婚率をタネに社会をバカにしようと思ったが、うっかり俺自身の虚無っぷりに目を向けてしまった
「命は大事!つって生かされるが、別に何を残せるわけでもなく、楽しくもなく、搾取されてぼんやり苦しみながら死んでいくだけの存在」、俺そのものじゃん
つうか、健常者も結婚率57%とかなのかよ
結婚が全てではない、子供なんか作んなくていい、それはそう、でも仕事キツいし、休日も別にめちゃくちゃ楽しいわけじゃないし、じゃあなんなんだこの人生
ていうか、この苦しみは俺に固有のものなんかでは全然なく、低く見積もっても25%くらいの人生はこんな感じなんじゃねえか?
それも悲しいよなー 俺だけが超かわいそうな最強被害者なんだったらまだ自己憐憫に浸れるけど、ちょっと周り見ただけで俺程度に辛そうなのはゴロゴロいる つらさすら凡庸
俺は誰にもこんな人生を送ってほしくないから、できたとしても絶対に子供は作らないが、じゃあ俺はなんでこんな人生を送らされてんだ
親を恨む気にもなれん 気のいい人たちだし、いまだに金くれるし
俺は被害者だ〜ッ!つっても、それをいうならこの世の人間は全員被害者だからなあ
どうしたらいいんだこの感じ
俺ってどうしたらいいですか?
瞑想?
いちばん古い記憶は幼稚園の頃。親に怒られ、私がいなければ大切な人たちを悲しませずに済むのだと思った。
中学生の頃、自殺未遂をした。睡眠導入剤だと思って大量に飲んだそれは鎮痛剤だったらしく、生還した。
高校生の頃、勉強も人間関係も上手くいかず、大して好きでもないパートナーを取っ替え引っ替えした。
専門学生の頃、周りのレベルが大幅に下がり、勉強やバイトが上手くいくようになった。本気で好きな人ができた。
感染症が流行した。会社は傾き、無職になった。好きな人はずっと優しかった。
家族に愛されてる自覚がある。親にも、パートナーにも大切にされている。金銭的には余裕はないものの、今のところ困窮しているとも言えない。恵まれていると思う。幸せなのだと思う。多少なりとも感じている。
ただ、私は私が許せない。努力が足りない。気力が足りない。何もかもが下手くそだ。こうやって自分を責め続けているところがなによりも無駄だ。
1秒でも早く私という存在が消えて欲しい。
幸せになれよ、
「シン・エヴァンゲリオン見に行こうかなあ。」と言ったら、「Q見たの?」と妻が聞いた。「見てない。序、破も見てない。」と言うと、「えっ、エヴァンゲリオンの映画ってそんなにあるの?」と妻は驚いた。Qは知っていたのに。何を知っていて何を知らないのか。
私もエヴァンゲリオンのことはぼんやりとしか知らないが、序、破、Qの続きがシン・エヴァンゲリオンだと認識している。妻は「そのジョ、ハ、Qだけ見ればシン・エヴァンゲリオン見られるの?だったらジョ、ハ、Q見る。」と言った。
一緒にアマプラで序、破、Qを見た。見て、いろいろ疑問は浮かぶのだが、その疑問に答えはないような気がする。エヴァはそういうイメージだ。妻も「これ何で?」と聞いてくるが「さあ。」と答える。見終わって、妻に「テレビ版を見よう。」と提案した。妻は「えー。」と渋る。私は昔、テレビ版を見たことがある。リアルタイムで終わってしばらくして、一挙放送の特番があったときだ。最終回付近で「こりゃ確かに意味不明だわー。」と思った。それがなかったのである。序、破、Qだけ見ても。序、破、Qも謎は多いが、サラーッと流れていってしまった気がする。テレビ版の「何じゃこりゃ。」感がない。それを妻に味わって欲しかった。
土日、Netflixでテレビ版を見た。妻はそこまで興味がなく、鬼滅の刃の塗り絵をしながら見ていた。23話で時間切れ。今日か明日にも残りを見ようと思う。
令和になってから毎年小さなことだが何か新しいことを始めている。令和元年はなろう小説を読んでみた。令和二年はほとんど読んだことがなかったラブコメ漫画を読んでみた。どれも面白かった。
令和三年はボーイズラブゲームだ。候補は二作程あったが、YouTubeで見たOPが良かったので買ってみた。制作会社はよく名前を聞くところだったので安心感もあった。予備知識なしにやりたかったので、内容をぼんやりと把握だけしてDLsiteに登録して購入した。思い立った時に購入できるのは便利だなと思った。
初回は何となくで進めていたが、途中で詰まってしまったので攻略方法なども見た。フリーのヤクザみたいな男のルートが怖すぎてキーボード掃除用のスライムを握りしめて薄目でプレイした。ヤクザの描写は龍が如くや孤狼の血を思い出した。ヤクザ強すぎだろ。桐生一馬か。
三月四日に購入して少しずつプレイし三月十二日に最後の男のルートが終わり一応のクリアをした。コンプリートはしていない。思っていた以上に濃厚な内容で頭はぼうっとしていた。クリア前とクリア後で主人公の印象がだいぶ変わった。ボーイズラブというジャンルから想像していたものと違った世界観で思っていた以上にキツイ描写が多かったが、引き込まれた。面白かった。
家族関係にトラウマがある人間にはおすすめできない内容だったが、全年齢向けバージョンなどが万が一出たら、昔「なるたる」を面白い漫画だと言って貸してくれた知人に勧めてみようと思う。来年は百合のゲームをやってみたい。
【追記】
タイトルは「スロウ・ダメージ」というニトロプラスキラルが出しているゲームだ。購入の決め手になったOP映像はYouTubeで見れるのでそっちを見てもらった方が世界観を分かってもらえると思う。エロより血と暴力の描写がだいぶキツかったので、ぜひプレイしてみて欲しいとはけして言えない。「なるたる」が読める人間だったら大丈夫だと思う。
気がするのは、それはモラハラだと断言されても、そうなのだろうか?と自信がないから。
高校生の時、元々両親が不仲なのが更に激化して、余波を受けて私まで体調不良に陥り、頭痛や胃痛、目まいなどで学校を休むと
「気合いが足りないんだ」
検査で何の異常もないと判明すると
と勝ち誇ったように言われた。
それでもしんどいものはしんどいので、苦しかったり、食欲がなくて食事を残すと
と殴られた。
そんな中でも大学に合格し、第一志望は実家通いには遠すぎる距離だし、もうこんな家出て行きたいという気持ちが大きかったから一人暮らしをしたいとダメ元で聞いてみると
「お前みたいな意思の弱いが一人暮らしをしたら、男に公衆便所扱いされて、毎日のように別の男にやられるからな」
と言われて、説得は無理だな、と第二志望の自宅から通える距離にした。
その頃に学校のパソコン室や、後に携帯電話で2ちゃんねるを読むのに没頭するようになった。
話題とか内容はあまり関係なくて、たとえばスレの中に異質というか、皆が賛成する流れの中に反論して、ボコボコにされるレスを見て
「人間なんて何を考えているのか分からない。お前に優しくしてくれる奴は甘やかしているだけの、お前に無益な人間だ」
というのを思い出して、これが真の、本当に剥き出しになった人間の姿で、私はこの中では叩かれて滑稽に見える側なのだ、ということで安心するのだ。
そんな日々が大学生の間中続き、当然友達も一人もできないまま卒業し、何となく就活して内定をもらった小さな会社に入った。
そこは何らかの過去がある人が多くて、任侠から足を洗って、という方もいたけど、先輩や上司はとても優しくて、家にいるより会社にいる時の方が気楽で楽しかったし、仕事も自分に向きだったから、褒められることも多かった。
そんな私の態度を察して、父は今度は
「お前は職場に恵まれたと思った方がいい、他の場所では能無しになって笑われるのが目に見えてるからだ。そこになるべく長くい続けろ、それしか生きる道はない」
と言ったが、当時の私の気持ちとしてはそんなことはもう分かりきっていて、ここまで社会的に弱くてスキルもない私にはしがみついてでもここにいるしかないと、とうの昔に思っていたことだった。
淡々と、時々は父の言葉に揺さぶられながらもその会社に勤めて、良く来る取引先の若い男性と付き合うようになり、結婚することになった。
結婚のご挨拶がしたい、と彼が言うので、あの父親に結婚の報告などしたらたまったものではない、と思ったが、しないならしないでまた何か言われるのもなと思い承知した。
最寄り駅で待ち合わせ私の自宅まで行く道すがら、私が震えて顔が青ざめているのを見て、彼が
「大丈夫だよ、君をくださいとか言わないって。結婚しますって言うだけだから」
玄関を開け、母が2人でいることにギョッとして、でも居間には通してくれた。
母は、父に日常的にもっとひどい言葉を言われて、誰とも会話をしない人だった。
そして私の両親と我々で対座して、彼が、娘さんとお付き合いをしていて、今度結婚しようと思っています。と言うや否や父が私の頬を思い切り平手打ちして
「楽しそうに会社に行っていたのはこういうことか!この売女!!」
と仁王立ちになり、私の胸ぐらを掴むのでブラウスが破けた。
彼がそこに割って入り、私の手を取って玄関に走って家を後にした。
行ったことはないが彼の家に行くしかなく、途中で破けた服を買い替え、とりあえずは一緒に住もうと言われた。
そこから一緒に住むための色々なことを二人でして、最近入籍をした。式はしないことになった。
ただ最近問題がでてきた。たとえば食器洗いをしている時に、洗いあげたものにまだ汚れが残っていたり、冷蔵庫の中でいたませてしまった野菜を見つけると、父の声が聞こえてきて、どうしたらいいのかわからないとか、そういうことだ。
あとは、休みの日にすることがなくてぼんやりしたり、夫がお菓子とお茶を一緒に持ってきてくれると、嬉しさではなく、いたたまれなさを感じてしまう。私はそんなことをされるべき人間ではないのにと。
昨日も、私が休みの日で、真っ暗な中でぼーっとしていたら、夫が帰ってきて、とても不思議な顔をして
「何でいつも暗くなってもあかりをつけないの?」
という、素朴な疑問だとはわかっているのに、恐怖で慌ててあかりをつけた。
この陽の当たるところに住んでいた夫は、泥の川を見ろと言われ続けて俯くしかしていない私のどこが好きで結婚したんだろう?いつ見捨てるんだろう?
1年近く前に腐れ縁と交友を絶った。
中学校で同級生で、高校は向こうが私立の附属高、私は地元の公立校に入った。
たまに飯を食ったり酒を飲んだり(今は厳しいからできないが)しながらグダグダと近況を話し合った。
大学は私がFラン私立文系、彼女は理系の夜間部を選択し、昼間はSE・夜は学生をしていて、時給が良いからと夜のビルメンのバイトをぼんやりしながらやってる自分よりタフだなあと思った。
私は就活が面倒で、バイト先の上司に「ここって就職させてくれるの?」と聞いたら、女性は人手不足だからとホイホイとバイトから正社員になった。
一方彼女は、大学院に行っていた。院は夜間部の学生でも入学できて、そこで昼間部生になって卒業できると。
「これを学歴ロンダリングと呼ぶんだよ」
と苦笑いして話していたが、SEと夜間部二足の草鞋だけで凄いので、苦笑いでなく誇っていいんじゃないか?と思った。
その後お互い仕事や勉強が忙しく交流が途切れ、数年経ち、私が結婚報告と地方への転居のメールを送ると「今、イギリスに留学しているよ」と返事が来た。読んでみると、どうやら彼女も院を卒業するのを機に結婚をし、夫が留学をするので自分も学ぼうと思ったと。そのやりとりの中で互いのツイッターアカウントも教えあった。
まだまだ学を極めるのかい、英語できるんかい、と、木造アパートで秋刀魚の塩焼きがごちそうでsorry japanese onlyの私(夫婦)から随分違った世界に行ってしまったもんだな…と感じた。
彼女が帰国したあたりで私は妊娠出産をし、目をぐるぐる回しながらワンオペで育児をこなした。その間彼女は技術界隈では有名な企業で仕事をして、コツコツと業績を積んでいた。
私の子が小学生になる直前に、彼女も子を授かり、1年間の育児休暇の間に保育所選びに奔走や、職場復帰のための断乳、体力作りなどをしていた。私はやっぱりぼんやりしながらアパートで秋刀魚を焼いていた。
さすがに子どもが大きくなったからと、私たちは数年後に口利きで手頃な借家に引っ越したけれど、彼女は住んでいる自治体の子供への福祉のなってなさと、両親のヘルプをより近い場所で受けたいからと、分譲マンションを売却し、それを頭金に実家に近いマンションに移り住んだ。
ツイッターで彼女が自作のルッコラとモッツァレラチーズとプチトマトのバジルソースのサラダとかの写真を見ながら、いいもの食べてるなあ、と思いながら小松菜とちりめんじゃこの煮びたしを食べていた。
彼女は企業で確実に出世していって、私は徹頭徹尾ぼんやりしながら何事もこなしているうちに中年のおばさんになっただけだ。
だから私と彼女の距離がどんどん離れていくことに寂しさはない。
私は10万円のジャケットは買えないし、寝巻きに2万円は使えないし、10万円するジャケットを着て行く場所が思いつかない。PTA?
うちの子に公立は向かないから、中受のために受けさせるおすすめの塾は?と聞かれても、私の子は中受するほどの学力もない。
精神や立場的な距離が離れて疎遠というか交流がなくなっても良かった。
家族で北海道に旅行に行ったことと、その時の写真がツイートされていた。ちょうど、札幌での感染拡大が注目やニュースになっていた頃だ。
「お前何考えてんだよ?」とよっぽどリプライをつけたくなったが、いつもなら幾つかつくfavやRTが全くないのを見るに、これが皆の意思表示なのだと、私も何も触らなかった。
そして緊急事態宣言が出て、都会は大変だなあと思いつつじゃがりこを食べながらツイッターを眺めていたら
と、やはり写真付きで、目線はついていたが、マスク姿の彼女と子どもが映っていた。
なんでこいつ、こうなったかなあ?
私より、頭、ずば抜けていいはずだよな?
違う世界の住人になったと思った。
でもそれが、コロナ禍での行動によって、私の中で全て水泡に帰した。
彼女のアカウントをブロックして、スマホから電話番号とメールアドレス、LINEアカウント、全て消した。
さよなら、賢人。
政治のニュースを見るたびに、日本の政治家は本当に、、、みたいな思いになることが多いですよね。
この日本の政治を変えるために、選挙に行こう!投票率をあげよう!国民の声、若者の声を選挙に反映しよう!みたいな議論は多いですが、政治家になろう!とか優秀な人が政治家になるようにサポートしよう!みたいな話ってあまり聞かない気がします。
普通の人が立候補しない理由は多々あるかと思いますが、そこではなく、「一般の人が政治家に立候補しやすくなるような政治・社会システム」を作ろうという動き・議論ってあるんですかね?
「政治を身近に」みたいなフレーズがありますが、自分の知っている人が立候補しているみたいな状況はまさに「政治が身近に」なっている状況じゃないかなと、ぼんやり考えています。
「バリキャリの私」を肯定する価値観も実は嘘が入ってて、本当の自分の心に向き合うよりもこれまでやってきたことや獲得したものを捨てるのが怖いという方を優先していそう。
まあ本当の自分の心は「全てを手に入れたい」だ、と思うかもしれないけど、それは「5000兆円欲しい」みたいなもんで、そりゃ真の望みも当然含むだろうけどそれを正確に切り出すのが怖いから薄目でぼんやり超大雑把な輪郭だけを見てそれなんだって思い込んでるだけなんじゃね。しらんけど。
もともと手荒れをしがちだったのが、コロナの流行が始まってからますます酷いことになって、常時3、4ヶ所にひび割れがあるような状態になった
最近は便利なもので、ひび割れができてもキズパワーパッド、でなくてもドラッグストアのオリジナルブランドでもなんでもいいからハイドロコロイド絆創膏を貼っておけば治りが早い
自然にはがれるまで貼っておけると謳っているものの、指先や関節だとどうやっても2日が限度なのでちょくちょく貼り替えをするのだが(なので安物を買う)、これがかなりの「無」を伴う
まず、貼る前に両手で絆創膏を挟んで1分間温める(こうすると体温で絆創膏が柔らかくなり馴染みが良くなる)
そして貼ったら、その上から手を重ねて温めることまた1分だ
スマホ大好きっ子なので片手でも空けば即イジイジしたいところだが、この時ばかりは確実に両手が塞がる
時間としてはわずか1分間なので、わざわざテレビを見る気分にもならない(だいたい寝る直前に貼り替えるので、つけても通販番組ぐらいしかやってないというのもある)
何か考え事をするにも1分は短すぎる
なかなかちょうどいい「無」だ
これを傷の数×2だけ繰り返すと、いい感じにぼんやりしてくるので割と気に入ってる
内容はどうであれ人生の中で絶対やりたいことだったエヴァの最後を見届けられてよかったが。
そうか、一晩眠って気づいてしまった。
それはもはやエヴァの呪縛などではなく、単純に、現実世界の分断の現状をグロテスクに描き出す。エヴァの亡霊か。
シンエヴァの感想を語る者は、どうしてもその語り手自身の人生を反映したものになる。
そのとき語り部たちの背景にぼんやりと浮かび上がる、埋まらない格差、分かり合えない差別、富める者はますます富み貧しいものはますます貧しい、25年経っても人生が進捗しないことをまざまざと描き出す。
分かり合えるよ。目を合わせて話そう。どん底でも誰かが気にかけてくれるよ。大人になれ。
それはエヴァンゲリオンという知名度・話題性を持った立場のコンテンツだからこそできることで、日本中のアラサーアラフォーが大きな関心を持ち影響を及ぼすそんな希望の物語を各々の立場から観測し語り共有すること自体が、絶望の現実をグロテスクに描き出す。
それはまさしくエヴァンゲリオン旧劇場版で示した世界そのものだ。
これだよ。これこそがエヴァンゲリオンだよ
いや、単なる現実か
仕事をしてると他の人の粗が見えてきて嫌になる
能力が足りないのだろうけど、それをカバーしないといけないこっちにとっては面倒で、カバーしようにも完全にどうにかできるほど能力があるわけでもない。嫌になる。カバーする範囲が増えてやらなきゃいけないことも増えて、ほとほと疲れた。
会社全体がそうなのかとにかくやってることのレベルが低く、外注するか、たまたまいる能力のある人がどうにかしてるか、体力のある人がどうにかなるまでやるか。
ここでやってくには体力があった方が有利で効率よりも時間かけた方が稼げる。これはどこもそうか。
頭使って効率良くやるより、騒ぎまくって迷走した方が稼げるのは本当にアホらしい。
体力ある人に効率良い方法教えればめちゃくちゃ良いじゃんとは思ったんだけど、コミュニケーションコスト(文章や話を理解しない。違う話をする)がハンパないし、教えられたと思っても普通に間違えてた。徒労感が半端ないし、特にメリットもない。わかったふりして話されることもよくあるし、わからないならわからないっていってくれ。疲れるから。
正直ちょっと頭良く生まれてもそんなに良いことはないな、と思うし、頭がそこまで悪いわけではない体力があるやつにとって生きやすい世の中だなと思う。ストレスだけが溜まってく
昨日銭湯行ったら浴槽の隅っこにおっさんらしき人物が一人物音ひとつ立てず入浴していた
他に客はなし
俺は目が悪いのでぼんやりとしか見えてないのでおっさんを発見したときめちゃくちゃびびった
40数年生きてきて幽霊は見たことなかったからこのおっさんも実在の人物だろうと思って見るのをやめ椅子に座って頭を洗った
否定派の思考を理解できてないな。解像度が低いというか、それも否定の理由の一つではあるが核心ではない。死刑は殺人論に矮小化している限り、人権や現代国家のあり方に対する理解は深まらんだろうし、なぜ国連などの国際機関が死刑をいまだに採用する国々を批判しているのかの真意も汲み取れなくなる。よって「ウチはウチ」と余計なお世話的に受け取ってしまうんだろう。素朴に自国の現状を肯定する愛国心はこの議論においては障害となってしまっている。
これは民主主義のような思想の根幹に関わることであり学際的なことでもあるから、学のないマイルド肯定派の人がちょっとググったくらいではぼんやりとしか理屈が分からんため、断絶が生まれ、溝が埋まらないのは仕方のないことなのかもしれない。けれどつぶさに観察してもらえれば、物事を深く慎重に考えるのが得意なインテリ層はほとんどの人が否定しているため、これは安易にポジションを決めてはならない慎重に考えるべき問題だと分かるはずだ。
教師からの性暴力を犯罪に。『地位・関係性』を利用した性被害の刑法改正、なにが論点? | ハフポスト
これを読んでひさしぶりに思い出した。自分の身近な人間が、以前TOSSという教師サークルに入っていたことを。もう10年以上前になるだろうか。
いまでは活動を目にする機会もすっかり減ったとはいえ、TOSSもそこから分派したサークルもいまだに活動しているようで、ネット記事などで目にする機会がある都度、吐き気がする。
TOSS自体には宗教的だとか、保守的だとか、疑似科学を広めているだとか、当時からさまざまな批判があった。
そういった批判があることは承知していたが、新人教師として壁にぶつかっていた彼女の助けになればと思い、多少の毒は見過ごしていた。
だが自分が巻き込まれたのは、それとは少し違った、男女関係のトラブルだった。
おそらくTOSSという団体に限った話でも、教師という職業に限った話でもない、どこにでもあるおっさんが若い女を騙したというだけの話だ。
当時30代後半の中堅どころが、教師なりたての20代前半を手玉にとるのは、さぞかし簡単だったろう。
ましてやTOSSの中で一定の評価をうけ、講師として県外にも呼ばれていたような人間であれば。
TOSSは泊まりがけのイベントで、大学生よろしく朝までアルコール片手に議論をするような土壌が当時あると、しばしば聞いてもいた。
「大半の性暴力は教師という信頼を利用され、警戒心を持たせないばかりか、教師の言うことが正しいとさえ思い込まされるので非常に悪質である。教員という立場が性暴力に利用されている」
「孤立している生徒に、教師が地位を濫用して近寄り、恋愛と思い込ませることは容易にできる」
記事にあったような、地位や関係性を利用する手段は今なら簡単に見抜けるが、当時の自分にはそこまで考えが至らなかった。ましてや、医師とともに特別支援に関する分科会をたちあげるような熱意のある(と聞いていた)人間がそんな下衆だとも。
結果として「職場の人間は不勉強で、自分が勉強できる場はTOSSにしかない」というような刷り込みをおこなっている場において、「サークルで発言力をもった人間に気に入られたい」というような弱い心がつけ込まれてしまう残念な結果になった。唯一の(と思い込んでいる)勉強の場を失いかねないという恐怖が背景にあり、おっさんと彼女の性的な関係はだらだらと続き、洗脳を解くには長い時間がかかった。
だが、それは加害者のおっさんや、黙認していたサークルの周囲の人間には、露ほども理解できていなかった。大人同士のことでなにを大袈裟な、と被害者面さえしていただろう。
なんなら本人でさえ、これが性暴力だったということを認識できたのは、時間がたってからだった。自分が馬鹿だったと認めることよりも、加害者と被害者の関係であるということを認めることの方が苦痛が大きかったのかもしれない。その点でも、信頼を利用する性暴力の悪質さがある。
信頼を利用した性暴力の対象になるのは、子どもだけではない。まだ悩める段階にある若手や、子育てに悩める保護者ですらも、信頼や立場を武器に近寄られると、抗うのはとても難しい。
自分がぼんやりと思っていたそんな気持ち悪さが、記事によって言語化してもらったように感じる。
当時の自分がこの記事くらいロジックに落とし込めていれば、もうすこし踏み込んだ対応ができたかな、という後悔とともに、少しの吐き出し。匿名でしか書けねぇよ。
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
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幼い頃に感じた純粋な疑問に対して誰も納得のゆく答えをくれないまま
早くこの街を出たい、好きなモノに埋もれたい、親元から離れたいという思いしかなかった。
都会でしか享受できない文化的資本の差に打ちひしがれた田舎での経験だった。
そんな中、都会で青春真っ盛りの最中にあの地震と津波が起きた。
私はその時、憧れていた東京にいて
あの瞬間は一つ目のバイトが終わり、二つ目のバイトへ向かう途中。
あの地震が起きた瞬間は覚えているのに
それ以降の時期のことはしばらくぼんやりとしていてまるで別世界のようで
私が生まれ育ち、そして憎んだあの土地については全く何も知らないのだと思い知らされた。
家族と連絡が取れないまま
ひたすら楽しみにしていたアニメや好きなバンドな新譜やまだ見ぬ映画を見漁る日々を続けていた。
それに対して何の感情も持てない自分はなんてクズなんだと自問自答した。
家族とも連絡がつかないような状況下において
好きも嫌いも関わらずボランティアで来てくれた縁も縁もない土地の人々もいるというのに
故郷に対してここまで遠い距離感で過ごす日々に対してこの10年間ずっと罪悪感を抱いている。
あの震災をリアルに体験した故郷の彼らと私はもはや別の人間なのだ。
あれだけ憎んでいた地元なのに
一週間がおわったぞーーー
万歳!
なんだかセレモニー感
みんなで一人ずつ感謝と思い出と激励の言葉をかけて泣いちゃったりして
若手氏についてはお疲れさま頑張ってねとしか思ってないのだけど
日々のあれこれがきれいなスピーチで「思い出」に均されていく感覚はちょっと苦手だ
卒業式も苦手だったな
早く宝くじあたんねーかなあ
ていうか今週終わらせるつもりだったことほぼ終わってねえな
同僚氏のことは以前より嫌いではなくなったがやはり言葉の端々にカチンとくることがあり
それに私も最近は「つまりどうしたいんですか?」みたくきつく返してしまうのでよくないな
若手氏の退職で泣いてたあとの人に優しくなかった
がほんとあの目的のない揚げ足とりむかつくのだ
職場のむかつく同僚にあだ名をつけて全く関係ない友人に愚痴るのは学生時代の友人の技術だ
あだ名が面白いと知らん人の愚痴でも面白エピソードトークみたいに聞けるからあれは発明だった
だがその友人はもう引っ越してしまってもう飲み会でだらだら下らない話ができない
いやLINEなりリモートのみなりしようと思えばできるけどそこまでしてする話でもない
帰りにスーパー銭湯でも寄ろうかと思ってたけどなんだか湿気と気温が高くてあんまりお風呂気分にならないな
なんか疲れててぼんやりしてる時にゲーム実況ちょうどいいんだよな
本や映画は内容に関わらず重すぎる
この間まで桃鉄実況をあれこれ見てて
つぎどうすっかなー
元気があったら俺の家の話を見ようかな
連ドラ見る元気なんて基本いつもねえんですよ