はてなキーワード: 現代文とは
何かが役に立つかどうかって、あんまり決めつけないほうがいいと思うんだよね。
やりたいことをやろう、とか、好きに生きていこう、とかのジャマになるから。
子供のころから言われていて逆方向に何十年もかけて一周してきた感じがするから、ちょっとそれを書いてみる。役に立たないかもしれないけどね。
「勉強は役に立つからするのではありません。人生を豊かにするためにするのです」
中学生になってゲームセンターで遊んでいると、年上のお兄さんたちはみんなで考えて答えてくれた。
「ゲームなんか役に立つわけねぇだろ。オマエにはまだ分からね―だろうけど、だからいいんだよ」
「違うね。役に立てられるかどうかは自分次第なんだよ。それに、立つか立たないかで行動を決めないほうがいい。勉強だって同じさ」
「知識ってのはなぁ、役に立つかたたねぇかじゃねぇんだよ! 何度も言わせるな。役立てられるかどうかなんだ!!」
そんなの全部分かってると思ってたし、だけど実際には役に立つことと立たないことってたくさんあって、みんな心のなかで本当は順位を決めてると思ってた。
これがすごく上手く書きづらいから、伝えづらくて自分の中にもしっかり入らなかったんだと思う。
「みんな生きてるんだ」とか、「働くって尊いことなんだ」とか、「人は平等なんだ」とか、そういうのの一種だと思っていて、暇つぶしの無意味なことをバカにしてはいけないとか、あまり役に立たないことをしてるように見える人でも笑っちゃいけない、どこで何が役立つかなんて誰にもわからないことがあるんだから――、みたいに。
だってそうだよね? たくさん役に立つ人や仕事が偉くて、誰にでもできる仕事はそんなに偉くない、ってたいていの人がどこかで思ってない?
役に立たないなんて簡単に言うもんじゃないってお説教はもう中学生になるかならないかのころに聞き飽きてたし、おとなになって働くようになっても「職業に貴賎なし」とか『働かないアリには意義がある』とか、そんなのばっかりで、多様性の担保のための有用性指標を隠蔽するために、差別を助長させない社会的配慮としてこういう議論はずっと見てきたから、心の奥底ではどこかで嘘だなって思ってたんだよね。
How to本とかだってたくさんあって、売るためなのか売れるからなのか知らないけど偉い人が書いてる立派な本を出してる大きな出版社が競うように、『これさえ覚えれば安心』『今すぐ役立つ即戦力』『要らないものは捨てて楽になろう』みたいなのずーっと出してるじゃない。
「無能な人は**をする」とか、「役に立たない人の特徴は**」とか、「**で迷惑をかけない方法10選」とかさ、そんなのばっかりでしょ?
だけど、根本的に、もっと本質的に、徹底的に実は間違ってたんじゃないかなって思う。
中年になった父が呆れたり怒ったりしながら何度も何度も言っていたのは、差別とは話とは違って、「知識や技術や勉強は役に立つかどうかとは無関係」ってこと。
本当にこれって、表現するのが難しい。
データベースの存在は運用方法と無関係、って書いたらSEさんは理解してくれるかな。
詳しくないけど、ベースって書いたらだめかも。データ自体が役に立つかどうかは運用の仕方次第、とかのほうがいい?
知識という概念は、有用性とは無縁である。……って書いても分かりづらいでしょ?
勉強という行為の意味は、その活用法を定義してはいない。……とかじゃ、お説教みたいだよね?
技術は人次第、だと名言だけど……、役に立つかどうかの判断と技術は無関係って説明になってるかどうかちょっと疑問。
あ、そうだ。
役に立つ、ってどういうことか考えたらいいのかな。
有用である、効果的である、用を成すのに適している、とかって感じ?
主語がないんだけど、役に立つ、って言葉もそうだからややこしくて、将棋の技術や知識は将棋をする時にものすごく役に立つし、古文の勉強は古典を読むのに必須だし、ハキリアリの生態に対する知識は蟻や農業の研究をする時に役に立つ、みたいな。
外資系ファンドで通訳をする時に将棋の知識はきっと役に立たないし、サーバー構築に古文の勉強はたぶん必要ないし、定期運送用操縦士の免許を取るのに蟻の知識は役に立たない、みたいな。
何が言いたいか伝わってるかすごく不安だし、もっと言うと自分がしていた誤解と言葉に対する認識の溝を感じてもらえるか自信はないけど、無関係な概念だよね、って話。
きっと以前に指摘してくれた人はいるんだけど、関連付けること自体が間違った発想だよね、って。
『役に立つ知識』も『役に立たない知識』も存在しなくて、知識は単に知識なんだよね。
日本で日本人と日本語だけで話してる時に英語も中国語もドイツ語も役に立たないし、ごはんを作る時にサーバー構築技術はいらないし、眠れなくて落ち着きたい時にパイロットの免許は役に立たない。状況によって必要な技術も知識も勉強も違うから、役に立つ時も立たない時もあるのは当たり前で、それは技術や知識や勉強の有用性の指標には成り得ない、とか書くともっと回りくどくなる? ああ、自分の技術や知識に自身がある人だと「だったら役に立つ状況が多いほうが有益ってことだろ?」とか言いたくなるのかな…。
なんか凄く凄く溝を感じる。
通称としての知識体系やその象徴としての言語、みたいな方向からのがいい?
学科、って括りは現実世界には存在しないから、どこからどこまでが現代文で外来語で英語かってあんまり意味ないよね。
数学も確率統計から代数幾何とかあるけど、全部机上の話であって実在の構造を厳密に数値化するなら分子なの原子なの素粒子レベルなの? って話あるよね。
同じ理由で物理は袋小路な面があって、生物も化学も突き詰めれば物理と繋がっていて、地理や歴史は考古学ありきだから古典も外せないし、古典には外来語も入ってくるから知らないよりは知っていたほうがいいし、歴史は暦の面から天文学も重要だから数学が必要なこともある。どこからどこまで、って知識を学問で切り分けて必要不必要って決める意味あるの? って。
だって**学、って言葉では言うけどそんなもの実在しないでしょ?
ほんとうは役に立たない物だってそうで、この世界にあるもの、って、みんな人間のためにあるわけじゃないから、おかしな言い方だと思わない?
……違うかな。
人間が自分達のために作った物は、人間のためのものかもしれない。でも、これも境界は曖昧かな。コンピューターは計算するためのものだから(たぶん2,30年は)役に立つけど、農家の人が(たぶん何年も品種改良して)作った野菜は人間のために人間の作ったものかどうかよく分からない。だからか知らないけど、「役に立たない野菜」っておかしな言い方でしょ?
変なたとえだけど、もし人間がいなければ、世界にあるものはみんな役に立つかどうかは関係ない気がするんだよね。それでもきっと存在してると思うけど。
サバイバルナイフはサバイバルする時に役立てるために作ったもので、バケットホイールエクスカベーターは鉱石を採掘する時に役立つ機械で、黒曜石は小さな肉や植物を切る時に役に立つ。
でも、黒曜石が役に立つ石だからって、石を役に立つか立たないかで分類するのはおかしい。
乗り物が好きな人が近くで笑ってるけど、少なくともバケットホイールエクスカベーターはお庭に近所の人からもらったテッポウユリを移植するのには役に立たない。ナイフや黒曜石のほうがまだいい。
「それでも、誰がどう見ても役に立たない知識や物ってあるだろ?」
って言われると困っちゃうかな。
何かまちがってるような気がするけど、ずっと考えてたらよく分からなくなってきちゃったかな。
人間ってすごく特殊な一部の人を除けば、誕生時から何かをする為に産まれた、って決められている存在ではなくて、「何をするか」だよね?
偉い人とか平凡な人っていうのも実は同じで、区別とか差別ってそういうものなのかもしれない。
これは女性教師だな。俺のゲスパーセンサーが立った!クララが立った!
やたらと情熱的な語り口で面白い授業をするひとで、いろんな国へ旅するのが好きで授業の雑談ではその話を臭いぐらいロマンチックに話すので好きだった。
自分は典型的な学会2世で、2000年代前半に創価中学・創価高校(創価学園)に通っていた。
いかんせん20年近く前のことなので中学・高校を混同してたり不正確かもしれないけど許して。
地元の5歳ほど上の代に創価中学に合格したひとがいて、それなりの田舎だったこともありレジェンドのように語られていた。
そのレジェンドが通っていたのと同じ地元の塾に小4から通った。創価学会員はこの手の験担ぎが大好きなのだ。
前日に38度の熱を出してしまった。前述のレジェンドも同じようなことがあったなかで合格したらしく、カーチャンは興奮しながら唱題していた。創価学会員はこの手の(ry
当日は携帯ご本尊(お守りご本尊とも呼ばれる)をカーチャンに持たされた。どんなものかはググってくれ。
お決まりの「公共交通機関でお越しください」であったが、トーチャンの車の後部座席に寝ながら向かった。ゲートで係員に止められていたが、後部座席で寝込む俺を見て敷地内の駐車場に誘導してくれた。俺は眠くて寝てただけなのに。
通常の会場とは別室に設けられた体調不良者が集められた部屋で試験を受けた。ポカリ飲み放題で、毛布にくるまって行儀悪く立膝しながら快適に試験を解いた。
俺が受けた年は倍率11倍で過去最高だったとかそのあと聞いた気がする。
創価学園だからといって必ずしも池ちゃんと接触の機会があるわけではないが、俺のいた頃は入学式と卒業式は確定で池ちゃんが来ていた。
普段は会館で見る衛星放送の映像の中にいる池ちゃん(とそのスピーチ)を生で見られるということで、たぶん保護者が一番テンション高かったんじゃないかな。
うちもカーチャンがテンション爆上がりしていて、出席できるのは保護者の片方だけだったがトーチャンは問答無用で蚊帳の外に置かれていた。かわいそう。
ちなみに俺の在校中に池ちゃんが入学式・卒業式に出なかったことが2回ぐらいあって、それまでは皆勤だったから中々の衝撃を学会シーンに与えていたような記憶がある。
あとスピーチ中の池ちゃんはアゲどころで机を手でバンバン叩くことが多く、その少し後に流行ったやる夫AAの「だっておwwwwwバンバン」を見たときに池ちゃんだろこれって悪友と笑ったことがある。
入学式・卒業式ほどじゃない節目イベントのときに池ちゃんからメッセージや差し入れが届くことがあった。
終業式のときなんかに学年主任が「池田先生から差し入れいただきました!」って言って全校生徒にかっぱえびせんが配られるのが定番だった。
コンビニで売ってるようなサイズ感ではなく一回り小さいものだったので「けちくせー」と思った記憶がある。貰い物に文句をつけるな。
何より面倒くさくてウザかったのが、その手のことがあるたびにクラスでA5の便箋が配られて「今回の感想と決意を書いて提出しなさい」と先生から言われたことだった。学会員決意するの好きすぎる。
かっぱえびせんに感想も決意も出るわけもなく、俺は一回も提出したことないがそれで怒られた記憶はない。真面目な生徒は毎回提出していたように思う。
創価学会においては、唱題という行為をすればするほどえらいという価値観がある。本尊にむかってみんなで「なんみょーほーれんげきょー」と連呼するあれね。
校舎の一階に謎の立派な扉があって、その奥に20畳ぐらいの和室と本尊があった。
体育会系のメインストリームなひとたち(サッカー部や野球部)なんかは大きな大会の前になると、朝や昼休みに総出で唱題をしていた。練習すればいいのに。
ほかにも生徒会とかの意識の高い優等生は自発的に空き時間に唱題しに来てた。
ちょっと記憶があいまいなんだけど、誰でもアクセスできる部屋というわけではなく、部活で唱題する人と一緒に応援をしたい人とか、招待制というかクローズドな場所だったような気がする。誰も唱題していない時間に潜り込んで畳の上で昼寝した思い出。
小学生のころ休み時間にサッカーをするのが好きだった。地域のサッカークラブみたいなところにも入りたかったが親に許されず、そのまま下手の横好きで休み時間サッカーを続けていた。
中学に入学してすぐのころ、休み時間サッカーに混ざりたくてそれとなく輪に入ったら横で同級生同士が「なんで増田がここにいんの?プゲラw」と話しているのが聞こえてそれ以降休み時間に中庭に近寄るのはやめた。体育もスポーツも大嫌いになった。
当たり前だが同級生はみんなどこにでもいる普通の思春期10代だった。それまで接した創価学会の大人たちはみんな優しかったので、こんなんだったらこの学校に進んだ意味ないじゃんと思った。
創価学園を語るうえで欠かせないのが愛唱歌の存在で、校歌や寮歌のほかに10種類以上の愛唱歌と呼ばれる歌があった。
昼休みの中庭で、掲揚された三色旗の前で有志で愛唱歌を歌う活動があった気がする。
愛唱歌のうちとりわけ記憶に残っているのは「負けじ魂ここにあり」という歌で、気になる人は歌詞をググってもらえるとわかるけどテンションの上がりそうな勇ましい感じの曲だ。ここぞという機会で歌われていた。
1番から5番まである長い曲で、平時は1番と3番と5番が歌われていた。式典とかの機会だとフルバージョンだったかな。Radio MixとOriginal Mixみたいな。
いわく5番が一番大事だそうで、5番だけが池ちゃんが書いた歌詞だったかな?1番~4番の長い前振りがあって、5番に本命が来る。クラブミュージックか?
これを書きながらググった歌詞を見直したらメロディー覚えてて歌えちゃった。人間の記憶すごい。
創価学会では、学会本部に依頼すると池ちゃんに子供の名前を付けてもらえるサービスがあるのは有名。
池ちゃんネームの割合が結構高かった気がする。クラスに2,3人ぐらいはいた。
中学を卒業してエスカレーターで高校へ進学すると、創価大学への推薦を見据えて学校生活を送る必要が出てくる。
成績に関しては赤点取りまくらなければ大丈夫、ぐらいのラインだったと思う。欠席と遅刻は年間だったか累計だったかで10回まで、みたいな感じだった。
自分は創価大学へ行く気は早々に失っていたので、面倒くさいと思ったら勝手に早退して家でラグナロクオンラインやったりしてた。
成績はボロクソだったが赤点補習をきっちりとこなせば問題なかったので、留年とかそういう問題は皆無だった。なんだかんだで寛容で優しい学校だったと思う。
体育の赤点だけは、夏休みに登校して体育教師が顧問をするサッカー部と一緒にトレーニングをする、みたいな内容でそれが嫌で最低ラインの出席3分の2を維持するハックで乗り切った。
ちなみに一度受けた体育の赤点補習では、俺の休み時間サッカーの件の当事者がサッカー部だったのでそいつが居たが、妙に気遣ってくれたりしてむずがゆかった。あいつ良いやつだったな。
創価学会にはとにかく記念日が多いのだが、記念日の会合で池ちゃんがスピーチをぶると翌日には聖教新聞に全文が掲載される。
総合学習みたいな時間にはその聖教新聞がクラスで配られ一文読みをしていた。ここでもかっぱえびせんのときと同じようにA5の便箋に感想と決意を書かされる。一度も提出したことはないが(ry
池ちゃんのスピーチの全文を読んだことある人がはてなにどれぐらい居るかわからないが、池ちゃんのスピーチって基本的に中身がない(個人の感想です)
「〇〇(歴史上の偉人)は言った、ほにゃららほにゃらら。だから君たちも勉学に努めなさい」一同「ハイッ!」っていうのが池ちゃんスピーチの定番のやり取りで、勉強しろって説法をするときに引用でしか言えないのかこの人、と常に思っていた。
他には「戦争は悲惨だ、最低の行為だ」「いじめはよくない、いじめた人間が100%悪い」みたいなありふれた内容で、何をみんなそんなにありがたがっているのか分からなかった。そのためにはどうしたらいいのか、どうすべきなのか、具体的な方法や理論に言及することが皆無だった。せいぜい本を読めとか勉学に励めとかそれぐらいで、マセガキだった俺の好みの内容ではなかった。
「いついつの会合のスピーチ、めっちゃよかったよね~」と言っている同級生もいたが、松屋と吉野家ぐらいの違いしか俺には分からなかった。
創価学会は独特な語彙やネーミングが多いが、学校にもそれはあらわれていた。
中学のロッカールームは「鳳雛ホール」という名称だった。ほかにも学校内の講堂は「池田講堂」だったり、食堂が「栄光ホール」みたいな名前だった気がする。一番大きい体育館も何か独特の名前があったと思うが覚えていない。俺の卒業後に校舎が建て直されたりしてググっても情報が全然出てこない。
最寄り駅の鷹の台駅から学校までは10分以上玉川上水沿いを歩くのだが、玉川上水沿いの道は「哲学者の道」と呼ばれていた。哲学者の道を横に外れた場所に昔ながらの林があって、そこでエロ本を見つけたことがある。なるほど哲学者の道。
ちなみに近隣の武蔵野美術大学や白梅学園の生徒もここを使って通学していて、妙に大人の女性に見えたなあ。
白梅学園のバス停が前後を創価学園と朝鮮大学校に囲まれている画像なんかが有名だけど、不思議と朝鮮大学校に関する記憶がない。
終業式だか始業式を飛ばして悪友と学校を抜け出して武蔵野美術大学の学祭に遊びに行ったのは楽しかった。
悪友が「創価学園の生徒だけど質問ある?」みたいなスレを立ててVIPで爆伸びしていた。創価系の質問スレはググると結構多いけど、当時2chにどっぷり浸かっていた俺の知る限りでは悪友のスレが元祖だと思う。
校内の写真とかをガンガン上げていて大丈夫かと思った。今でもインターネットで出回る創価学園にまつわる有名画像のいくつかは悪友がアップしたもののはず。
基本的には学会二世しかいないので、典型的な創価学会員の世界観を持っている生徒が多い。
一方俺はネットde真実をゴリゴリにこじらせていたので、普段から池ちゃんや創価学会へ懐疑的なスタンスを公言していたが、それでいじめられたりするようなことはなかった。池ちゃんのいじめを許さないご指導が活きていたのかもしれない。
池ちゃんへのおかしいと思った点を熱心な生徒に話してみたりしたが、全否定されたり人格否定されるようなことはなくまともに議論じ応じてくれたように記憶している。
なにかの学校行事の決意発表大会みたいな学年集会の場で「俺は正直池田大作という人は別に好きではなくて~」みたいに自分の考えを披露したことがあるが(今思うとこじらせすぎている)、それでも「こう考えてる人がいることが分かってよかった。増田の言葉で聞けて良かった」とニュートラルな反応をしてくれた同級生もいたことが印象的。
一方で先生は頑迷な人が多かったように思う。一度英語の先生に「創価学会員はどうして個人なのに人の投票行動に介入するんですか?自分で決めるべきことなのでおかしいと思う」と言ってみたことがあるが、「人は選挙権のほかにも、個人として選挙をお願いする権利もあるんだよ」と答えになっていない返答をされた。いまでも意味わからん。
基本的にあまり好きな先生はいなかったが、現代文のH先生だけは好きだった。
やたらと情熱的な語り口で面白い授業をするひとで、いろんな国へ旅するのが好きで授業の雑談ではその話を臭いぐらいロマンチックに話すので好きだった。
ほかの教科はやる気皆無だったが、現代文だけはノートもしっかり取っていたし、試験前のノート提出もしていた。
あるときH先生に提出したノートを紛失された。丁重に謝罪されてノート点も満点つけてもらった(らしい)が、それ以降H先生の授業へ興味を失った。クソガキすぎる。大人だって失敗するときはあると今ならわかる。
平等や平和を謳う創価学会員もしょせんは人の子なので、スクールカーストは存在していた。
今でいう陽キャは「メジャー」と呼ばれ、陰キャは「マイナー」と呼ばれていた。
ちなみに親が幹部かどうかはスクールカーストには関係なかった。ただディベート大会で全国レベルの成績を残したり、生徒会役員だったりするようなインテリ勢は親が幹部っていうパターンが多かった。そしてインテリ勢はメジャーマイナーの括りにも縛られないアウトサイダー的雰囲気があった。
世は前略プロフィール全盛期、同級生のメジャー勢の女子が前略プロフィール(というかそれに付随するいわゆる「リアル」のページ)で飲酒パーティーの写メ(死語)をアップしていて、学校に垂れ込まれて停学になってた。
停学になったメジャーの女子たちはほとんどその後創価大学へ進学し、銀行員になったり不動産屋になったり売れないクラブDJから水商売の世界に入ったり、様々なよう。
履歴書の学歴の呪いについてのブコメをしている人がいるが、今のところ特に困難だと感じたことはない。
転職もしつつ順当にキャリアと年収を上げて生きてきたけど、「親が創価なんで」の一言でそれ以上深掘りされることも差別されることもない。
自分が弱者なのにポリコレに冷ややかな目を向けがちで、むしろ自己責任思想に接近しがちな人たちがいる。
そういう人は強者ではないのに弱肉強食を指向するのはおかしいと言われがちだけれど、私は自己責任に寄っていく感覚もわからなくもない。
太古からの一般論としては、時代が変わるにつれて価値観は変化するし、概ね道徳観は向上していくものだ。
でも、ここ数十年の変化の方向(ポリコレと呼ばれることが定着したもの)が軒並み自分の生きやすさに繋がらない状況が続いてるなら、「ああ、少なくとも私が生きている時代の道徳の救済対象からは私は外れてるんだな」って絶望するのはわかるよ。
「自分が救ってもらえないから絶望するなんて甘いこと言ってないで自分で声を上げろ」って言いたくなる人もいるだろうけど、しかし、ちょっと声をあげた人も民間レベルでは叩かれるし、トランプみたいな大統領を誕生させるという「快挙」を果たしてもそれが世界の潮流を変えなかったという失敗経験は絶望を強めるに足る。
「日本は自民党が一強だし世界でも保守派が強くなってるのに、世界の潮流がポリコレ寄りと考えるのはおかしい」と言いたくなる人もいるだろう。
去年カズオ・イシグロがリベラルに苦言を述べた記事が話題になった時も、彼の「リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです」という発言に、非リベラルの方が政治的権力が強いじゃないかとの反論があった。
それについては、ジョセフ・ヒースがインタビューで紹介している考え方を踏まえれば、カズオ・イシグロの指摘も理解しやすい。
「文化政治を追求するのを選ぶ際に,左派の方が実はすぐれた戦略を採用していたとバノンの方は考えていた,という点です.『我々はホワイトハウスを占拠したが,かたやリベラルはハリウッドを占拠するのに専心している』と彼は発言しています.つまり,右派は国家を支配しているけれど,左派は文化産出の道具を支配しているというわけです」という部分だ。
ポリコレ的な思想が、ハリウッドやSNSのキャンセルカルチャーやSDGsを主導したことで、ある種の人間には「これから私たちの待遇はよくなりそう」と希望を与えたが、その希望の分配から取りこぼされた(にもかかわらず他人の希望実現のための協力は要請される)人間はポリコレに絶望したくなるのだ。
取りこぼされている人でも、最初の頃は素朴な正義感によって「今は私には直接益がないけど、でもマクロでは良いことだろうからポリコレ支持しよう」と考えることはあるだろう。
でも色々な物語や現代文化が自分を省みない方向に変化していく傾向が続き、私生活では自分が老いていく、そんな生活の中で絶望に接近する人が増えてしまう。
だから、これまでポリコレ思想が後回しにしてきたり、なんなら反省ばかりを促してきた「弱者とされない弱者」層にも、燦燦とした希望を与えなければいけない。
そのための物語をポリコレやリベラルの名の下に作らなければいけない。
最近だと同性婚禁止は合憲であるという地裁判決が出たが、それでも今後十年でパートナーシップ制度は広がっていくだろうし、改憲が行われれば同性婚が保証される目は十分にあるという希望は力強いままだ。
それと同種の希望を、弱者男性とか喪女とかインセルとかロリコンショタコンとかトー横キッズとか地方のおっさんおばさんとかプアホワイトとか反社反グレとかマイルドヤンキーとかにも見せなければ、彼ら彼女らの絶望と弱者強食自己責任への接近を防ぐことはできないだろう。
雑踏で凶器を振り回す物語、暗黒啓蒙の物語、面白パフォーマンスの政治家立候補者に投票して世間を困らせる物語、戦争が起きて皆が大騒ぎの物語、自殺の物語、それらよりも魅力的かつ彼ら彼女らが主役になれる物語が必要なのだ。
ヒトラーが山荘で金髪の少女と交流しているところを写した心温まる写真、これを証拠に「ヒトラーにも優しい心があった」とツイートするスットコドッコイがいて、それにいいねが何千件もついちゃったりするんですよと授業で紹介したら、受講生がドッと湧いた。
https://twitter.com/tanosensei/status/1537378344656060417
このツイートに対して、「「ヒトラーにも優しい心があった」と主張するだけでスットコドッコイ扱いするなんて許せない!」と喚いている輩がいるが、国語や現代文の勉強からやり直せとしか言いようがないな。
問題とされているのは、ナチ・プロパガンダの産物である写真を「証拠」にヒトラーの「優しい心」を立証しようとするアプローチや知的態度だろうに。
擁護派の人って、すぐに人の主張を「気に食わない」というレベルに勝手に引き下げるよね。まずは相手の主張に対して、現代文の試験を受けているつもりで普通に理解しよう。
「現実社会で違法とされている事はエンタメでも基本表現を制限・禁止するべき」というご意見を見かけたが、行ったこともないニューヨークを二度ほど壊滅させた私なんかどうなるんだろうか?
元々の主張は「殺人やレイプを現実に起こりそうな描写で、かつ娯楽として提供するエンタメは規制されるべき」としか読めないけど、これに「SF漫画で都市を壊滅させる」が入るわけないだろ。現代文の試験だったら0点だよ?
「たわわ」の擁護派やオタクの人たちは、「性的に見えるお前のほうがすけべだ」に代表されるように、とにかく賛成とか反対とか以前に、議論に嘘やごまかしや屁理屈がやたらに多いんだよね。規制派やフェミニストも議論に隙がないとは言えないけど(特に法律の実務の問題に弱点がある)、少なくともこうした屁理屈を弄してはない。
さては君、現代文が苦手だな?
「見れる」「食べれる」「来れる」のような、いわゆるら抜き言葉がめちゃくちゃ苦手だ
自分は絶対使わないし、使ってる人を見ると冷めた気持ちになる(口頭では気にしないが、文面だとかなり気になる)
「そういう」が「そうゆう」になっているのもイヤだし、「尊み」「しんどみ」「わかりみ」のようなよくわからない文法活用も苦手だ
別に活字中毒とかそういうわけでは全くないし、本も新聞も読まないし、そもそも現代文の授業とかそんなに興味なかったし俺はギリ理系である
自分が絶対にすべて正しい日本語を使っている!という自信ははっきり言って全くない。
あーやっぱりそういう感じなのか
私は逆に定型故にフィーリングで現代文解いて間違ったりしていたけど、小説は確実に文に書いてあるもんね
そうするとアンニュイな邦画とかが増田にとっては一番分かりにくい部類なのかな
実生活の会話だと余計キリがなくて分からないよね 自分の気持ちをはっきり言う人に増田が出会えますように
教えてくれてありがとう
人によるとは思うけど、
私の場合、小説は心理描写がしっかりしているから、対人よりも理解しやすかったように思う。
暗喩表現もある程度パターン化して覚えているから、ありがちなものなら読み取れる。
基本的に現代文のテストは直接的な表現で書いてあったので、困ることはほとんどなかった。
・大学側が示した正解
1点の上下で合否に影響が及ぶ入試において、こんな解釈に幅があるにも関わらず、
「入試問題への問合せについては,個別にお答えはしていませんので回答は差し控えさせていただきます.」
と逃げに徹しているところが、解釈の違いで延々と逃げる卑怯な文系らしくて素晴らしい。
ブクマには『現代文は「文章から何が(論理的に)読み取れるか」の試験』とか分かった風な意見が出ているが、
だったら何で問一は三通りにも分かれてるんだよ?
例えば、家庭科の授業では、1の次に2を説明されると、もう2の話の時には1を忘れているもんだから全く班の役に立たず「どいて」と言われる始末で、先に1から10を説明されるともう1しか覚えていなかった
そんな経験を何度もしたんで、「ああ自分は救いようのない馬鹿なんだな」と思うようになった
中高合わせてずっと塾に通っていたが、高2の偏差値は現代文を除いて各科目の偏差値が38ぐらいだった
高校生の時は日曜日を除いて毎日塾の自習室に通っていたが、あまりに成績が悪いんで、化学の教師にこいつは全く勉強しないやつなんだなと勘違いされて、ちょっとした冷遇を受けたりもした
一応そんな馬鹿でも受け入れてくれる大学があったのだが、そこは最終的に国家資格を取ることをゴールとする大学だった
入るのは簡単、卒業するのは難しい大学で、自分は案の定ついていけずに挫折しかけたが、解決策を求めて勉強術と銘打たれた本を漁っているうちに、自分なりの勉強法を見つけた
それは、「ヒストンは八量体Gタンパク質である」という文章があったら、一度脳内でテキスト化して、ヒストンと八量体Gタンパク質にはA=Bという関係性を覚えるというものだ
人との会話にもこれが応用できないかと思い、聞いたことを一度脳内に入れるという作業をするようになってから、今まで自分が絶望的に人の話が聞けていなかったことに気づいた
「この漫画、めっちゃ面白いから読んでみ、まだ一巻はそんなに面白くはないんだけど」と人が喋った時、自分は『この漫画』『面白い』『一巻はそんな』という部分でしか人の話をとらえることができなかった
なぜなら、人の声を耳に入れていただけで、頭の中でその文全体をテキスト化あるいはイメージ化するということをしなかったためだ
今は相手に話しかけられたら、一文ずつ脳内でテキスト化するようになったので前より人の話が覚えやすくなった
人の話が聞けない人というのは、いろいろな理由があるので一概には言えないが、人の話を一旦頭に入れることをしていないのも原因の一つではないか?
岸田首相 ウクライナからの避難民 日本への受け入れを表明 | NHKニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220302/k10013510691000.html
「ウクライナの人々との連帯をさらに示すべく」という対象を限定した政治的判断で、
「ウクライナから第三国に避難された方々のわが国への受け入れを」という、直接ウクライナから受け入れるのではなくウクライナ難民を大勢受け入れてる第三国(つまりヨーロッパ諸国)が大変そうだから手伝うよ、というヨーロッパ諸国に対する配慮がその主意である。
つまり、国際的にウクライナを支援しないといけない状況だから、ウクライナ人を受け入れればヨーロッパ諸国に貸しを作れて日本の国益になるから、今回だけ特別に受け入れるよ、と思いっきり限定してるわけである。
首相の声明で、受け入れ理由に人道や人権という単語をあえて入てないのは、他の難民に波及することを防ぐためだ。
(人道や人権を理由にしてしまうと、今回のウクライナ人だけ特別扱いする理由が成り立たなくて、野党から「他の難民も同様の人道的観点から受け入れを」と要求されちゃうからネ)
その後に
「まずは親族や知人が日本にいる人たちを受け入れることを想定しているが、それにとどまらず人道的な観点から対応する。」
と言ってるが、ここでの「人道」は、受け入れがウクライナ人限定なのが当然の前提としたうえで、
日本に親類知人がいるウクライナ人(そんな激レアさんどれだけいるんだ?そのうち欧州にとどまらず日本への渡航を希望するなんて数人単位じゃないか?)に限りたいので今はそうするが、日本に親類知人がいないウクライナ人もいずれは人道的観点から受け入れる”かも”しれないよ、と非常に限定された文脈での「人道」である。
狭い狭い針の先ほどのケツ穴を、ほんの少し1ミリくらい広げる”かも”しれない理由としての「人道」である。
難民受け入れをすること自体の理由に人道を挙げてるのではない。
そういう岸田首相の声明を踏まえたうえで、上位ブコメを1位から順に見ていくと・・・?
redra22 「これから」についてを考える機会にしよう
Clock0311 ええ、素晴らしいことだと思います。では、次に、今までに日本に来た難民について、ちゃんとした扱いをするようにしましょうか。
↑首相が「国際社会の重要な局面だから、ウクライナとの連帯をアピールするためね」って思いっきり前提条件つけてるやん。他の難民なんて眼中にないよ。
takhino 今までの対応をなじりたい気持ちは分かるが、何事も「初めての日」がある。難民については今日がそれだったということだ。大事なのは今日だけなのか、明日にも続くのかだ。
明日も続くよ。戦争が収まるまでは、ウクライナ人限定で、今回限りの特別扱いだけどね。
ただし戦争が終わって国際社会の関心が下がって「重要な局面」でなくなったとたんに、ウクライナ難民達は日本社会の邪魔者扱いされて追い出されそうな気がしてならないけどな。
そんで「特別扱いの恩恵はもう終わりだ」と国外退去命令が出されて、帰る場所のないウクライナ人が不法滞在者になって入管に収容拘束されたりして。
そんでヤフコメで「今まで日本にいられただけ有り難いと思え、命令に反抗してさっさと出ていかないんだから入管で殺されても当然」てコメントが殺到したりして。
↑別に難民政策自体を変更したわけでなく、難民受け入れ基準も何も変わってない。
今回限りの政治的判断で国益のために特別扱いしますよというだけ。転換する気なら難民受け入れ基準を改正してるよ。
もうさ、上位ブコメ揃いも揃って、まともにニュース本文読んでんのか。
こんな文盲ブコメに大量のスターが集まって最上位4件になるって、ブクマカまで文盲揃いになっちゃったのか?
「ウクライナに利することなら何でも前向きに捉えて褒め称えないといけない」ていう集団ヒステリー状態になってて、まともな読解力や判断力や思考能力を失ってないか?
グーグルスカラーという科学論文検索サービスがあってそこにはサボテンの中でもウチワサボテンだけとかいろんな論文がみられるのだが
そういう短い論文をまとめた専門書籍も一応掲載されてることがあるやで
あと毎年4月にいろんな大学の履修要綱に教科書リストが出る、それもそこそこ専門向けやで
同じような専門書にみえても最新版やないと定説が覆されたあとから古い定説=嘘が平気でかいてあるから気を付けてな
ファンタジー辞典とか科学系ユーチューバーの本(とされてる漫画)とかも嘘や大げさがおおいぞ
まあ大学やろな…
私立文系大学だとなんか古臭い初級者向けでとまってるせんせいおるけど…(十年間ずっと同じ英国の古典児童文学だけで授業持てたりする)
「アフリカでアフリカンファッションをきまくって自分の写真集を出版した日本女性の本」はおもしろそうだった
さがしてもこれしかでてこなかった
https://www.amazon.co.jp/dp/4594064361
https://www.amazon.co.jp/B004L9NV1G/
おっと後者はこれだ
https://www.amazon.co.jp/dp/4594074847
https://www.amazon.co.jp/dp/4866070056
前者もみつけた
そういう話ではなくて、この話はもう「助けるべきではない」で終わってる文章なの。
実際にこういうシチュエーションがあったらもちろん助けたほうが良いかもしれない。
でもそれは「常識的に考えてそうだろ」って話であって。
高校時代からの友人ですげえ良いやつなんだがのんびりし過ぎてるというか変わってる。
・市役所に受かって働き始めたと思ったら数ヶ月で辞める
・篠原涼子と吉高由里子の見分けがつかない(篠原涼子を「ハイボールの子」と呼んでた)
・流行に全く興味がない。(中島みゆきを延々と聞いてたり、jazzばっか聞いていて周音楽の話が合わない)
・かと思えば陶芸(こひきの焼き物?)とか絵画とか文芸が詳しかったりする(高校の頃に現代文の教師とヘッセだのサン・テグジュペリだのの話をしてた)
・人の顔と名前を一致させるのが苦手
・待ち合わせ先に行ったら友人と見知らぬ美人がすげえ楽しそうに喋ってて、友人が俺に気づいて美人と別れたんだけどあの美女が誰か聞いたら「前の職場で一緒の人だったらしいんだけど誰だか思い出せないんだよねー」と笑ってた
・顔が中性的なイケメンの部類で、高身長で細身なせいか、高校時代普通にモテててたが、それ以上に変わり者ランキング1位みたいな扱いを受けてた
・俺の彼女も友人と遊びたがるので、友人と遊ぶとき時々一緒に連れて行く
・優しくて人当たりが良いが一人行動が好きらしく、時々一人旅行った先の土産とかくれる。
・喋ってると電池が切れることがある。(遠くを見ながら「うん」「あー」とだけ相槌を打ち出す
・色んな面で結構忘れっぽいが人の好きなものや誕生日をよく覚えてる
・彼女と新宿御苑に行った時見覚えがあるやつが芝生で寝てると思って近づいてみたら友人だった。一人で寝てた。
なんか発達障害とかなんかなのかな?でも発達障害特有の人間関係のトラブルみたいな事もないし、なんなら優しくて気遣い出来て凄い良いやつなんだけど、どうしても人と一緒に居続けると疲れちゃうっぽい。仕事が続かないのもそれが起因してるらしい(結構なジョブホッパー)
俺が仕事で精神やられた時に友人の変らない態度とか精神疾患への理解にすごい救われた事があったんだが、俺も友人が助けを求めてるときは助けてあげたい。
しかし、友人みたいなタイプが社会に出てからも一人も見たことがないので、このタイプの人間の特性について詳しい人とかいたら色々アドバイス欲しい。
今の仕事も辞めるかもなぁーと笑ってたので多分やめそう。