はてなキーワード: 個人的意見とは
まあタイトル通りの話。
という感じで、番組としてこう思うというような主義・主張を言うことがなく、
視聴者に不安やプレッシャーを与えるだけな内容ばかりだからだ。
仮に主張したりまとめを言う司会者を立てていても、
ゲストとの会話の流れ、ノリや状況によって意見を変えたりする人も多く、
「結局あんたはどう思ってるんだ?」という気持ちにいつもされてしまう。
そんなに悪いものなのか。変えることもできないのかと思ってしまう。
考えるのを止めたら終わりという人もいるだろう。
それで良い考えを持ったとしても
それを生かす場がない場合はどうするのか。
悪貨は良貨を駆逐するともいうが、
単なる自己満足になるか、あるいは、
より常に不満を持つ状況を生んでストレスが増すだけだ。
少しでもそれが実行・実践できることを考えていた方がよっぽどいい。
という考えにいたり、ネットニュースも含めて
報道番組を見るのを止めてみることにしたわけだが、
認定制度によりパートナーとなったレズビアンタレントが破局、というワイドナショーのニュースで「同性婚を認めるべきか」ということが焦点として述べられた。その際にデヴィ夫人が
「自分には同性カップルも知っているし、彼らが里子を引き取っているのも見たけれど、結婚というものに対しては反対」
と述べており、ネットで
・不妊の人はどうなるのか
というコメントが多数あった。
そこで私が疑問となったのが、
・デヴィ夫人が自分の生き方と同性婚を比較して話していたのではないこと
・批判している人間も「個人の意見に対する反対」をいっていることだ
デヴィ夫人は皆が知っているように、大統領第三夫人、つまりは一夫多妻の国で結婚した人物である。多くの国では重婚が認められていないことから、異なったモラルを持つ人物であると考えられるのだけれど、この点に関して何も取り上げていない点は疑問であった。
これは個人的意見ではあるが、彼女にとってみれば、結婚というモノを「他人同士である二人がお互いに寄り添う手段」とは思えないのではないだろうか。
もちろん「お互いが愛している証明」=婚姻という考え方はありそうだが、重婚を行う人々は社会的地位が高いため、子供をなすことは一種の義務と思われそうだ。
そもそもデヴィ夫人も確か水商売を昔やっていて、男性に見初められて出世街道を走ってきた人のはずだから、自立した人間同士の結婚というイメージがあまりなさそうな気もする。
男性を褒め、奉るような生き方をずっとしてきた方が、自分の得意分野である女性性を利用した男性のサポートということを「性別」という女性特有のものを使っているという意味において、女性の義務であるとはき違えているように思える。
ちなみに信憑性はわからないが、一夫一妻制の背景には性病の萬栄を防ぐという目的があるそうだ。最低限の人間と交わることにより病気のリスクを減らすことができる。
また、男性と女性はほぼ同数であることからも、例えば女性が必ず子供を産まねばならない場合は重婚よりも一夫一妻制のほうが遺伝プール的に効率的だ。昔レベルEというマンガでもあったが、どういった遺伝子が最優であるかを調べることはできないことや、様々な特徴を持つ人間を作るためにも一夫一妻制のほうが効率的だったんだろう。
https://www.mangaz.com/book/detail/45371
を読み返していて、こんなに完成度の高い漫画が絶版になったのかと虚しくなった。いわゆるBLジャンルの中では、かなり作りこまれた短編である。少なくともパッと古本屋でBLを10冊20冊をみても、こんなに上質な話を見つけることは難しいだろう。
この話が作られた時代がどんなものかはわからないし、イラストが人を引き付けないとかはあると思うけれど、話の素晴らしさが大衆性につながらない一つの例だと感じる。(この大衆性とはエロのことだ。エロがあればOKの風潮はどうかと思う。)
私が最近トップクラスで好きな漫画、ワールドトリガーはすごく人気とは言い難いが、twitterをみてみるとジャンプであるということもあり、「意外と」読者が多いという印象だ。一発で魅きつける派手さはない代わりに、わかる人にはわかる手堅い面白さというか。落とし所がしっかりしているので、イマイチパズルがかみ合わないバトル漫画などより、ずっと読みやすい。
そういう作り込みをされているにもかかわらず、あまり売れていない本をいかにファンを獲得できるかは、今後の出版業界の未来に関わっていく気がする。
Pixivとか、小説とか、漫画でもなんでもそうだけれど、話としての完成度や文章としての素晴らしさなどが、人気に直結しているわけではない。Pixivや少女漫画などは、いかに大衆が好きなネタを積み込まれるかというところが評価につながるので、ランキングが話としての完成度に比例するわけではない。
だからたまに、やたらと改行が多い、記号が多い、キャラクターが原作と異なっている。など、「これは明らかにひどい、、」と思えるものが、存在している。
個人的には許せないが、まあそれも一興ということなんだろうな。
だが、現実社会で見てみても、正しいことをいうことや、温和な人というのが評価を集めるのではなく、いい加減なことを言っていても元気な人(ごく私の個人的意見としては好きではない)の方が人からの評価を集めることが多い。もしも人に好かれたいと思う場合、整合性が取れなくても大衆的な人間を演じることの方が求められるんだろう。私自身は、自分の持つモラルに則った、正しい人間になりたいと心がけている。だけれども、それはただの自分のエゴに過ぎないのかもしれない。
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一言で言うなら『やっぱNEVERまとめもまともじゃないのこいつもさっさと閉鎖しろ』という話。
ただの個人的意見だがネットに限らず不特定多数に現在の正しい情報を提供するためにはエビデンス(証拠的な意味での)は公的機関等が発表した信頼性の高い書物、論文、記事であるのが絶対条件。そしてその中でも過去4〜5年くらいまでのものが実際に使えるものだと思っている。私が学生時代にディベートの試合なんかをしていた時には年季の入った引用先のエビデンスは信憑性が下がるから使うなと指導されたものだ。
WELQに始まるキュレーションメディアの騒動では著作権違反やらエビデンスなんてクソ喰らえと言わんばかりのデマ拡散やらで多いに盛り上がったが最近NEVERまとめでも微妙に怪しいまとめを見つけてしまったのでそのことについて記そうと思う。
近辺でのインフルエンザの予防接種を扱う病院を調べていると何故かまとめサイトに行き着いた。「インフルエンザワクチンは打たないで!」とかいうタイトルなのだが引用(という名のただのほぼパクリなのはともかく)されている情報の信憑性が欠けているように思えて仕方がなかったので少し調べることに。
このまとめの引用元としてよく使用されている元母里氏の書籍だが発行はなんと2007年。9年も前の医学を元にまてめているらしい。そして氏のワクチンは全く効かないだとかのアンチ的意見も引用されてるが、(引用に問題があるのかもしれないが)特に例を出されている箇所は約30年ほど前のワクチン使用中止の話がベースとなっている節がある。医学が進歩する中、今のワクチン事情に引き合いに出すものではない。
あと気になったのが慶応大等の研究結果によりインフルエンザの予防接種は中学生や乳幼児には無意味!という記事。研究結果自体をちらっと拝見すると単に"件数不足により分析不可"ということらしい。うむ、毎○新聞の記事はあてにならないということか。
…とまあ医療知識に乏しい素人目でもちょっとおかしいなと思っていたのだがネット上にもこのまとめについてWHO等の発表や最近のワクチン事情について比較的信憑性の高いエビデンスを用いた反駁をされている方々がいるようで。それらはワクチンの効果は十分期待できるものであり近年使用されているワクチンは危険性が低いよう改良されている等まとめの内容と真逆を行く情報ばかりだ。
無論私もワクチンに限らず薬には副作用があるもので100%の安全性があるとは考えていない。が、この情報を見た今まとめにあるような危険性があるとも考え難いものがある。まとめを信じるか否かは各々に任せるとしてもこのような情報も確認したまとめ閲覧者はどれ程いるのだろうか。
他に腹の立つことを挙げるならば後半のページにあるこのまとめに対する肯定意見やワクチン否定派のTwitterまとめ。否定的な意見は気にもせず一方通行で「常識はウソ、こんなに沢山の人が信じているから正しいに決まってる」的な誘導をしたいのだろうか。このような自分に都合の良い情報ばかりを集める所はアフィリエイト丸出しの2ちゃんねるまとめサイト等にもよく見られるものだが。
このまとめを知る人からしたら何を今更とも思うかもしれないが一連のキュレーションサイト問題がここまでの大炎上となった今、この騒動が鎮火する前に是非このような情報を拡散するNEVERまとめも逃げずに削除なり何なりの対応を取ってほしいものである。
序盤は都民が何を重視するか?の方向だったと思う。
・知名度なのか?
また、三者ともに不足している事があるので、
その点も気になっていた。
・党の公認が不足。
・知名度が不足。
それが終盤にさしかかってきて、足の引っ張り合いの被害が少ないところが
抜けだしてくるんじゃないかと思ってきた。
恐らくはこいけ、ますだ、とりごえの3人の内の誰かが都知事になる事でしょう。
三人ともにコケて4番手が当選なんてのもドラマっぽい気もするが、現実ではそれは無さそう。
こいけ、ますだは緑色をイメージカラーにしてて、これがダブっている。
一方、とりごえは紺赤といういわゆる「みずほカラー」を使っている。
まあ、緑は「りそなカラー」ともいえるので、どっちみちの銀行の色っぽいなーという感じ。
一番ネガキャンされている感じが少ないと思う。
件の記事【http://anond.hatelabo.jp/20160622100234】の増田本人です。
ちょっとした日々の愚痴のつもりがわりと反応を頂いていてびっくりしています。あまりにも賛否両論というか、迷惑をかけてしまった、不快に感じられた方もいるようなので、少しだけ補足させて下さい。
タイトルの付け方や、アドバイスなどという言葉を使ったことにより、同人既婚者代表みたいな書き方に見えてしまうように感じる方もいるようです。配慮が足りず申し訳ないです。あくまでも私のしくじり体験愚痴日記であって、思うことがあったり共感を感じるような方には同じしくじりをすることがないといいなぁ、位の気持ちで書きました。
文章が長いのは、そもそも誰かに読んでもらうことを意図してなく勢いで書いたからです。でも思ったより多くの方に読んで頂き、結婚にマイナスイメージを植え付けてしまったのは自分でもよろしくなかったと反省してます。
増田が伝えたいことを3行で書いてくれた方もありがとうございます。嬢の崩壊日記と受け取った方もいれば、趣味の極振りで身を滅ぼした話と受け取った方も、結婚の失敗談と受け取った方もいるようです。私がこれまで何も考えず人に迷惑ばかりかけて生きてきたメンヘラなのは事実なので何も言えません。これからは反省して同じ過ちを犯さないように努力するしかないです。
ただ、私個人としては、人生の懺悔と共に、強すぎる承認欲求や評価への依存、これは自分が思ってる以上に根が深いから、自覚のある方は考えたほうがいいかもよ?ということが言いたかったのだと思います。自分でもよくわかりません。多少夫への恨み節も混じってますし。(笑)
経済的DVという意見に関しては、ちょっと違うと反論致します。これはむしろ主人の金銭感覚を信用して管理して頂いてる行為であり、私自身自分の金銭感覚がぶち壊れている自覚があるので全く問題ありません。問題があるのは私です。風俗は金銭感覚壊れますね。
あと、母親は子供を最優先すべき、という部分に対しての反論も重く受け止めました。私の母親があまりにも私を蔑ろにしたのがそもそもの承認欲求の拗らせ原因なので、自分はもし子供を持つなら子供を一番だと思いたいが故のただの個人的意見です。しっかり子供に愛情を注いだ上で、さらに大切なものを持っている方を悪く言う意図ではありません。申し訳ございませんでした (母親への想いに関しての記事もそのうち増田として供養したいと思います。)
沢山の意見やトラックバック、コメント、Twitterに至るまで目を通させて頂きました。何か感じて意見してくれた人、皆さん全員にありがとうございます。怖い思いをさせた方は本当にすみません。
ちなみに、増田の主人にもこの文章を読んでもらいました。お前自伝出してみればいいんじゃないの?って一言言われただけでした。あとお前俺のこと相当信用してるけど何かの拍子で全部お前の人生周りに言うかもしれんぞ?とも。もしそうなったら客と結婚した私が悪いよ、って返事したら、金銭感覚ぶち壊れてる風俗嬢と結婚した俺も悪いなって言った後ゲス極の両成敗口ずさんでました。ちょっと泣いた。
どうでもよさそうだけどせっかくの質問頂いたので気が向いた部分に追記
○何の仕事やってたのか気になる→2時間で10万円を頂くような高いお風呂屋さんです。金銭感覚という点ではやばいことになりましたが、自分の頂く対価を真剣に考えるという意味では良い勉強になったので、永遠の28歳の鬼講習も交えてそのうち書きたいテーマです。
○漫画にしたら?→今回の記事が話題になり身内の意見まで目にしちゃったんですが、どんなに仲の良い友人でも切り離して他人の人生になった瞬間批判の対象になるのだなー、と思ったので身バレこわいのでやりません。秘密にしとくことで守れるものもある。
○リミットつけてお願いしてみては?→真剣に打開策考えてくれてありがとうございます。インターネットで公表する分には全く文句は言われないので、オフは諦める、というのが私の中の結論です。
○どうして俺と出会わなかったんだ→笑いました。来世で会いましょう。
○とりあえず嬢と結婚できるのはわかった→吹きました。頑張って。
以上です。またしても長々と失礼しました。
この2つのバンドはヒップランドミュージックという同じマネージメント事務所に属しているんだけど
両者はメディア露出に対するバンドの考え方のトレンドを変えたバンドであると思う。
サカナクションのライブをテレビで見たのをきっかけに、バンドを聞くようになった人間。
といってもそこまでディープではない。
一年前からTSUTAYA DISCASで新旧問わず月に4枚CD借りるという
そういうわけで、日本のポピュラー音楽を聞きはじめてから日が浅いので、
で、最初の話に戻る。
バンドのメディア露出に対するトレンドを作ったバンドであると思う。
※追記
ブクマで、スペシャ(スペースシャワーTV)のライブ中継の時に視聴者に言った言葉との情報を頂いた。感謝。
バンドがテレビに出ない美学がバンドシーン、ひいては音楽シーンの衰退に繋がった。
http://natalie.mu/music/pp/sakanaction04
BUMPの藤原の発言の意図は当時の音楽シーンに詳しくない自分は想像するしかないのだが、
音楽と商業が結びつきすぎていて、音楽が音楽でない評価のされ方をしている
ヴィジュアルやルックスで音楽が評価されることを嫌ったのだと思う。
そんな感じか。
音楽の純度を高めたい。そんな感じ。
※追記
ブクマで教えて頂きました。横山さんのテレビに出なかった理由とか書かれていて(その日自分はMステ見てなかったけどツイッターが騒いでたのは覚えてる)、
一方でサカナクション。
アルクアラウンドというMVなどで知名度をあげてきた(あと大手フェスでのヘッドライナー)
インタビューを読んでみればわかるように、Mステ出たり、紅白出たり。
総合芸術というワードがサカナクションに対して使われたり、裏方の仕事やスタッフを紹介したりと
音楽だけでは勝負しない、というのがサカナクションのスタンスであろう。
(ちなみに山口はファッションと音楽の乖離を嘆いてNFパンチというテレビ番組まで作ってしまったが、自分はバンドがテレビに出てこなかったからそういうことになったのだと思っている)
テレビに出ない、テレビに出る、というバンドの大きな流れを作った2つのバンドだけど
個人的には、
音楽を音楽として純粋に聞いて欲しい、というBUMPの方が共感できるし、
正直、ビジュアルと音楽が結びつくとイメージが固まってしまうところがあるので、
嫌だと思うのだけど、まぁ個人的意見。
実際サカナクションはイメージの固定化前提、イメージを作って、
ビジュアル的要素を音楽とパッケージ化して売ってるわけだし。確信犯(語句の使い方違うな)。
(でもファッションと音楽が結びつくと、変に威張って排他的なやつが出てくるので社会の空気が窮屈になるな、とダサい人間である自分は思う。自分みたいな奴がファッションを抑圧してるという自覚はある)
メディアの使い方は悩んでるんだろうなって思う。SNSも含め。
テレビに出ないのと出るの、どっちが正しいかという話でもないし。
音楽を汚したくない、という思いは一緒だろう。
音楽の楽しみ方は人それぞれってことで。
ちなみに個人的な話で閉めさせていただくと、
ドーム行きたい。
個人的には、校長の発言に非がまったく無いわけではないが、処罰の対象になるような事案ではないと思う。
以下、考察。
1、女性が子供を(平均して)二人未満しか産まない社会には重大な問題がある
3、女性が子供を二人以上生むことは、仕事でキャリアを積むこと以上に重要である
さて、以上の3つの主張のうち、どれがOKでどれがNGだと感じただろうか。
まず、1について異議のある人は、ほとんどいないと思う。
というか、1を否定してしまったら、少子化問題はまず間違いなく解決しない。
ところが、これが2になると、早くも抵抗を感じる人もいるのではないだろうか。
「何が重要なのかは個人の問題で、他人が指図するものではない」
そんな声が聞こえてきそうだ。
しかし、よく考えてみると2の主張は、1の主張を単に具体化しただけのものである。
論理的に考えて、1で示された問題(女性が子供を二人未満しか産まない社会)を解決する唯一の方法は、女性が子供を二人以上生むことである。
そして重大な問題を解決するための唯一の行動は、当然にして重要であるに違いない。
にも関わらず、多くの人は、感覚的に1はOKでも2はNGだと感じるのではないだろうか。
実際、ネット上に見られる批判意見の大部分は、2を問題視したものであるように思われる。
繰り返しになるが、1をOKだとして2をNGだとする意見は論理破綻している。
だから、今回の発言を問題と見るか否かの争点のひとつは、3から2を引いた残りの部分、つまり「仕事でキャリアを積むこと以上に」が適切だったかどうかに集約されるはずだ。
子供を二人以上生むことと、仕事でキャリアを積むことは、どちらが「社会」にとって重要か。
これは確かに校長の主観であって、実際には議論のある問題であろうから、発言が100%適切であったと擁護するのは難しい。
したがって、この点で校長の発言には一定の非があったと私は考える。
しかし、比較の問題である以上、どちらか一方が他方よりより重要であることは明らかだ。
そして、前者が後者よりも重要ではないと断言できる絶対的な根拠も存在しないだろう。
すなわち、校長の主張が完全に誤りであると断言できるような根拠もまた存在しないのである。
もうひとつの論点は、「社会」にとって重要な事柄を、「個人」の人生の指針として指導することの是非についてだ。
平たくいえば、「社会の役に立つ人になりなさい」と子供に教育することはOKなのかNGなのか、ということである。
おそらく、個人主義志向の人であればNGだと考えるであろうし、全体主義志向の人であればOKだと考えるはずだ。
ただ、個人の主張とは別にして、公人としての校長の責任という視点のみで考えるなら、この点について教育委員会は校長の非を問うことはできないと私は考える。
なぜなら日本では教育権の一部が国家にあると判例で認められており、実態としても、公教育の中で子どもたちに「国の役に立つ人になりなさい」という指導が当然のように行われてきているからだ(「道徳」の学習指導要領などを見れば、一目瞭然である)。
したがって、この点に関して校長の発言には非がなかったと私は考える。
前述のように、私は校長が「子供を二人以上生むこと」と「仕事でキャリアを積むこと」を比較して、前者の方が社会にとって重要であるという個人的意見を、あたかも絶対の真実であるかのように表明した点のみに問題があったと考えている。
また、校長の主張は根拠を欠いたものであったが、絶対に誤りだと否定できる根拠もまた存在していないと考える。
確かに校長の発言は正確性を欠いてはいたものの、そこに差別的な意図などは含まれておらず、またその他に問題と考えられるような主張も含まれていない。
以上の点から考えれば、少なくとも「辞職の勧告」などといった極めて重い懲戒処分を下すことは不適当であると私は考える。
おお! 自称女代表、全ての女は自分と同じ意見と信じて疑わない方!お初にお目にかかります!
すげーね、顔も見えなきゃどんな人間かもろくに分からねぇテメエなんかに自分の意見を勝手にまとめられたくない『女』山ほどいると思うけど、貴女は全ての女が自分を肯定するし味方でいるし正しい意見だって言ってくれるって信じてるんだ? それは全能感なの? 自分の個人的な感想ごときじゃ攻撃力が足りないから、主語広げて全ての女の意見って事にして攻撃力上げてアタシ強えええ感に浸ってる感じなんです? 微笑ましい! 初めて遭遇した! 大丈夫、個人的意見でもちゃんと罵りは届くよ、自信持って!
ちなみにこれは八つ当たりなので嫌がられてナンボです。貴女がウザいと思ったのは理解した。で、貴女のその不快感を取り除く為に私が何かをしてあげる義理やメリットはある?メリットを提示した上でご要望があるなら検討しますのでご意見どうぞ!傷付けって要望には応えられなくてすまない、正直草生えるレベルでノーダメージだ。今度は個人の意見でお伝えくださいませ、お待ちしてます。
はじめに
ということに最近気づいた。
というのも、両想いだけど、付き合わない、付き合えないということもあるのだとということだ。
その理由が、遠距離だから、立場上難しい(先生と生徒とか)、親に反対されたなどなど考えてみると意外とたくさんあるのだが、
私の場合、それが「年の差」であった。
が続々と現れ、年の差10歳以上なんて当たり前のようになってきたこの頃。
そんなわたしも年の差なんと25歳の上司を好きになってしまった。。
結果からすると、その年の差を理由に断られてしまったのだが、その時に言われたのが
「お前のことは好きだし、10歳若かったら俺から言っていた、でもダブルスコアも離れてたらだめだよな。ごめん。」
てな感じ。
両想いが分かって嬉しいと思ったのは束の間のことでした。
要するに、両想い⇒付き合いましょう っていう図式がそう簡単に当てはまらないんだということを25歳にして気づき、
両想いなのに付き合えないんておかしいだろってことをあれやこれや言いたいだけです。
付き合わない、付き合えない理由、は最初に挙げた通りいろいろとあって、逆もまた然り。
必ずしも付き合っているカップルが両想いとも限らないのと同じように、「付き合う」というのはある種の契約みたいなものだろう。
「彼氏」「彼女」と言った、肩書をもつようになるわけだから、浮気ダメ、記念日は2人でなどなど・・・
まあ世間一般がそういうもんだみたいな意識があるからそうなっちゃってるのだけど。
でもだからこそ、その一歩先に「結婚」という法的な契約に進むことができると思う。
じゃあ「両想い」という想いだけを共有しあっている2人はこの先どうなるの?
ルールが、周りに伝える自分たちの肩書がないから、2人の間だけで完結している関係性だから
こんなにも悲しいのでしょうか。
だって、彼氏じゃないから、相手が仮に別の人を好きになって付き合っても
付き合ってないから、結局などんなにお互いが好きでも前の関係と変わらないのではないか。
どこまでなら許されるの?
どこまでなら相手に近づいていいの?
両想いだけど付き合えない、一番つらいね。
やっぱりお互いに 付き合いましょう、もしくは、恋人ですって認め合わない限り、
前には進めないと思う。
両想いに縛られて、別の人にもいけない、好きな本人とも関係を深められないっていう
とどまったもになってしまうのは良くない。
「付き合う」というある種契約のようなものでルールができるけれど、そんな風に
相手との関係性、自分の立ち位置をはっきりさせることって大事なんだなと、心が安定するなと思った。
友達の場合だと、わざわざ「私たち友達だよね?!」なんていちいち確認してくる人はうざいと思ってしまうのに
ので、よくよく考えてそんなことを思ったので自分用メモとしてもここに留めておきます。
すべて個人的意見です。いろんな形の「付き合う」があるかと思います。
しばらくゆっくり落ち着こう。
内容を整理するとこういうことかな
①方針
上記内容を踏まえると、とにかくエンジニアとしてスキルアップするのが大目標と思われる。
②今後
大きく分けて以下2案
③補足 個人的意見
私は社員数1500人程度のメーカー系ソフトウェア開発会社に勤めて7年になります。
一番感じるのは、エンジニアとしてスキルがあることと、仕事として利益を上げることは別だということです。
エンジニアとしてのスキルアップは、正直、事業で利益を上げるのに比べると簡単で、誰にでもできます。
大事なことは、誰かの役に立ち、社会にとって意味のある、適切な利益を生むシステムを開発し、
これから間違いなく、ますますシステム化、外注化、人工知能化は進みます。
自分が精通している事業ドメインの知識とその事業の成長性です。
具体的に言うと、普通のWebサービスなどのユーザー系は、世界と競争しないといけないので、
それに比べると、例えば日本の金融や医療、製造業の分野はまだまだIT化の余地があり、今後10年は食べて行けるでしょう。
ある外国のベンチャーの社長曰く、今後はすべての企業がIT企業になっていくそうです。
私もそう思います。
ITと組み合わせる先の事業ドメインの知識が重要になってきます。
これまでよくあった「事業ドメインの知識はユーザーからヒアリングすればよい」
繰り返しますが、大事なのはエンジニアとしてのスキルだけではありません。
スキルのあるエンジニアはどこにでもいますし、それだけでは利益につながりません。
事業とIT技術の両方を見れるエンジニアが、本当に社会に必要なエンジニアだと私は思います。
男性から見て、あざといと感じる女性のファッションは、あざといと思いつつ高感度が高いのかもしれないが、女性から見てあざといと感じる男性ファッションは、あざといと感じつつウザイ、と感じてしまうのではないだろうかと思う。
男性はすべての女性が恋愛対象になり得るが、女性は一部の男性しか恋愛対象にならない、という。
恋愛対象にない人間にあざとい格好をされても、ウザイとしか思わない感覚は、「お母さんがあざとい格好している」「おばちゃんがあざとい格好をしている」を想像していただくと、男性にもわかりやすいのではないだろうか。
恋愛対象にない人間にそれをアピールされても、うざい…としか思わない気持ちが、多少おわかりいただけるだろうか。
なので言いたいのは、全方向に向けて高感度を上げたい場合は「あざとい」のは目指してはいけないのでは無いだろうか、という事。
女性への対策は、「好かれようとする」と、個人差がありすぎて難しい。
「嫌われないようにする」と、女性全般で割と共通しているので、確実性の高い対策が取れると思う。
ちなみに私はスーツもメガネも筋肉もちっとも萌えないが、腕まくりはときめきます。白シャツもイイネ。綺麗めカジュアルが好き。
個人的な好みなら、下半身はパンツはシンプル、ひざは見せない、オシャレするなら靴で。
上半身は腕と胸元は見せてよし、タンクトップとかヨレヨレTシャツはダメ、どこか1アイテムは明るい色を。
で、タンクトップと短パンと腰パンは嫌い。チャラいの全般嫌い。
別にその服着ているからといって人格まで否定したりしないけど、まあ服の好みの問題なら、そうなる。
■その1。
久しぶりに会った友達から、『ツグナヒ』を猛烈に薦められた。「最強の妹ゲーっすよ!」と言われたんだけど、筆者はひねくれているので、同じメーカーの『Treating2U』をプレイしてみることにしました。まあ、巷の評価がかなり二分しているゲームだったので、結構、気になっていたのもあるんですが。
……まず、プレイしていて気になったのは、ストーリー重視型のゲームが陥りやすい罠なんだけども、ほのぼのとした雰囲気、ハートフルな人情ものを志向するあまりに、美しい描写にこだわりすぎて、物語の勢いが一本調子になってしまっていることだ。テンポの良い会話のおかげで、キャラクターの個性は際立っているのだけど、骨格となるストーリーが相対的に弱く、物語のバランスを崩してしまった。会話が上手く流れている時は気にならないのだが、会話の回転が狂うと、途端に物語は停滞してしまう。
しかも、この作品の場合は、その停滞が主に、Hシーンで起こっているのだ。物語の方向性として、杏菜シナリオを除けば、女の子が心をさらけ出し、伊之助がそれを受け容れる構図になっているのだが、心のキャッチボールが表層だけで流れてしまっているところもあった。キャッチボールには、力任せに投げる速球もあるだろうし、わざとコースを外して投げることだってある。けれども、会話の回転が狂うことを避けようとしたのか、Hシーンでも、他のシーンと同じように、ボールを投げてしまっている感じがした。Hシーンを物語の転回点として位置づけるならば、女の子たちは伊之助に向かって、あえてビーンボールを投げるべきだったし、伊之助もそれを望むべきだったろう。Hシーンに限って言えば、伊之助はもっとお節介であっても、良かったのかも……。
しかし、登場人物たちとの交流や恋愛描写に関しては、非常に上手い部類に属すると思う。この作品を評価している人は、おそらく、この部分が特化されていることを評価しているのだろう。だけども、転回点で互いの深層にもっと踏み込んでいたら、最後の[Treating2U]は、更に効果的になったと思うのだ。はじけるような笑顔の向こう側を見たいよ……某人気ドラマの主題歌じゃないけども、良い歌には、物語を凝縮して、感情を呼び起こす力があるのだから、思い切って、もっと歌の力に頼ってしまうのも、一つのやり方だったかも知れない。
あと、ゲームとしての自由度が低いのも気になった。これは、伊之助のキャラクターイメージが際立っていることの弊害だと思う。ストーリーに没入するためには、プレイヤーが【堤 伊之助】を演じるという段階を踏まなければならないし、まあ、それ自体はいいとしても、その敷居は若干高いような気がした。媒介となる選択肢で方向性が似たものが多く、プレイヤーがストーリーに介入できる場所も少ない。それが、キャラクターの幅を、良くも悪くも制限してしまっているし、個人的なことを言えば、ストーリーは楽しかったけど、伊之助の生活を俯瞰的に観ている感じは拭えなかった。
■その2。
この点については、最初からノベルとして割り切ってしまえば、問題はなかったと思う。しかし、このゲームは、基本的にAVGのシステムで作られているので、その辺の違和感が最後まで気になってしまった。
全体としては、ストレートな物語を志向しているはずなのに、細部でボタンの掛け違いが起きているので、一つの作品として考えると、どうもバランスが良くない。この辺が、評価が二分している理由なんだと思う。
冒頭から苦言ばかり書いてしまったけれど、長所と短所の差が極端だということは、当然、長所もズバ抜けている。ただ、その長所が分かりづらいという欠点があった。どちらかと言えば、[泣き]系のゲームでありながら、それを売りにしなかったというのは、個人的には好感を持ったけど、広告や紹介記事を見て、作品コンセプトが絞れてないな、と思ったのも確かだった。
また、[エロゲーの主人公]に関しては、以前、『夜勤病棟』をレビューした際にも触れたのだが、伊之助のキャラクターが、女の子たちの存在を霞ませる程に強烈だったのは、鬼畜系ではない、この作品ではマイナスに働いてしまった気もする。
また、伊之助はニヒリズムとは無縁のキャラクターだ。これも、最近のエロゲーでは異色と言えるだろう。しかし、そんな伊之助にも、ニヒリズムの影が忍び寄るシナリオがある。
先に書いた通り、杏菜シナリオは、他のシナリオとは異なる構造を持っている。受け容れる存在としての伊之助は、このシナリオでは病気のために成立せず、杏菜にその役割を肩代わりさせる。そして、霞夜シナリオでの主題がそのまま反転して、伊之助に選択を強いるのだ。
霞夜シナリオを先にプレイした場合、この選択肢に直面することで、今度は生きることを強要される側の苦しみを味わうことになる。そして、ニヒリズムを持たない伊之助の格好良さ=完璧さも、無自覚なナルシズムの上に成り立っていて、一歩間違えれば、愛シナリオでの志摩先生と同じ過ちを犯しかねない、不安定な人間であることを悟るのだ。
その選択肢から分岐する伊之助シナリオは、己の美学を優先した結果、杏菜を伊之助の幻影に縛り付ける結末となる。伊之助に拒絶された杏菜は、受け容れる存在としての役割を全うできず、それゆえに、伊之助を理解することが出来ない。
看護婦としての職業意識で、心の眼鏡を曇らせ、ロマンティックな美学に殉じようとする伊之助を、曇った眼鏡を通して傍観することで、達成されない役割を続けていた杏菜は、伊之助シナリオの最後で、既に舞台から消えた伊之助に、幸せだったか、と問う。だが、己の美学に殉じることができた伊之助は幸せだったはずであり、そういう意味では、バッドエンドではないが……。
しかし、諦観と怨嗟が交錯した、杏菜の問いが、既に消えてしまった伊之助=プレイヤー自身に向けられることで、もう一つの選択肢である、杏菜シナリオでのエンディングが、強い印象を持ったのは確かだろう。
[生を肯定すること]をテーマに据え、病院を舞台に選んだのは、正しいと思う。だけども、同時に死も肯定しなければ、生も浮かび上がってこないような気がする……。また、杏菜&伊之助シナリオ以外では、死の予兆はあるが、全体的に、死は隠蔽されている傾向が強い。このことが、一本調子という印象を感じた、大きな原因になっている。
総合的な感想としては、全体的に素質は高いが、細かい駆け引きでの、経験不足は否めない。しかし、長所を殺さず、短所を克服できれば、次回作以降、大きく伸びる可能性を感じた作品だったのも確かだ。
■忍び寄る総括。
個人的意見。えっ、紅葉とラブラブにはなれんのですか? そうですか……がく。このゲーム、脇役な方々がいい味出しているんだけども、後半の分岐後は、影が薄くなってしまうのが残念かも。もっとも、舞台の病院から次々と消えていく寂しさは、祭りの終わりを感じさせて、それはそれでいい感じなんだけど。という訳で、今回は珍しくゲームレビューしてたような気が。ダメですか……そうですか。でもって、今回は連載一周年なのでした。
論理で扱えない個人的意見に反応しても不毛ってことなら分かるよ。
さっきは「ただの一般論に1つの具体例で反論しても仕方ない」みたいに言ってたから、それは好意的解釈ですよと言っただけ。
「B型の多くはこうだ」(一般論)や「B型はこういう傾向が強い」(一般論)以外に、「B型は皆こうだ」や「B型はこうだ(と言ってB型全員を貶めたい)」という解釈もあるからね。
それはそうと、論理で扱えるでかい主語の意見だってあるし、B型の例は個人的意見にしては随分断定した言い方だろう。不毛と思いつつ感情的に反発することだってあるだろう。
それなのに「不毛だから」「反論として成立しないから」なんて言ってる所に強引さを感じるんだよね。それもあるだろうけど、やはり根本には帰属意識の薄さがあるんじゃない?
反発したくならない君の感覚は一部は分かるし否定したくないけど、反発したくなる人も多いことを全く理解できないようではこの先困るだろうなあ。