はてなキーワード: エクスキューズとは
月曜深夜のテレ朝のバラエティ陸海空でここ2ヶ月位「ヤバいバル」という若い女性タレント10人が群馬の山中でサバイバル生活をして10人で10キロ体重が増えたら100万円もらえるという企画をしている
数日立つと10人が基本2VS7(一人は中立)にわかれてしまった
毎日魚をとるために川に出かける比較的年長の3人の内一人が他のなんにもしない7人のヘイトを集めているのだ
はたから見ている視聴者は当然その一人に心情的に同情しほかの7人特に元AKBのタレント一人が視聴者のヘイトを集めている
なぜそのやる気を見せる一人が他の7人のヘイトを集めるかと言うと、言動の端々にわたしは真面目にやっている、あなた達もやれとうようなものがでてしまい
そういう態度にたいする文句がその人がいないときの7人の陰口合戦に拍車をかけ、7人は盛り上がり結束を高めるのだ
ここで留意すべきなのはこの7人は悪人でもなければ何でもない全く普通の女性たちということだ
極限状態に置かれた人たちはほんの少し異質の誰かをスケープゴートにし仲間の結束を高める、
ヤバいバルでは他の人と違い毎日一生懸命魚をとろうとしている人を「どうせとれるわけないのに」という感情をエクスキューズに誰かが悪口をいいはじめそれに同調した者が更にヘイトを増幅させている
NGTの問題は実はこれとほぼ同様のことが内部におこっているのではないか?
山口はアイドルとしての矜持を運営を通し他のメンバーに求めるが、他チームの人気メンバーはそんなものでは人気が出ないので太ヲタとつながり総選挙でも上位にいく、そして山口を馬鹿にするようなSHOWROOM配信までして結束を高める
しかし、ヲタクが自宅を急襲するという事件をきっかけにそれが臨界点に達し、山口の反撃が始まった
おそらくNGT内部で他のメンバーはヤバイバルの他の7人と同じく、これまでも山口のことをアイドルの矜持を保てと叫ぶ煙たく、和を乱すものとしてヘイトを集めていたのだろう
「すべてのオタクを一括りにしているわけではない。全体としての傾向を語っているだけ」そういうエクスキューズが散見されるけど、
十年以上時が流れて現在は、KKOとオタクがニアイコールになり、現実社会で救われるべきと、オタクの主張の方が変わってしまった。
「知るか」で終わり。
私は生まれた時から私であり、「オタク」だとか「男性」だとかは私を構成する要素の一つに過ぎない。
「現実の女性とのセックスや恋愛は本当に必要ない、三次は惨事、二次元こそ至高!」と言っていた当時のその人物本人が、現代では「現実社会で救われるべき」と鞍替えしたんだという統計的なエビデンスでもあるのか?
というかね、今も昔も二次専が多数派になったことなどないよ。「オタク」コミュニティに限定してもね。ちょうど手元にある小麦ちゃんの漫画(2003年発行)に、二次専の脇役が出演してるけど。「奇特な人」という扱い以上の描写はない。(それなりの敬意がある描写で私は好きなキャラだけどね。)
最近はLGBTが「流行り」だけれども、LGBTがいつマジョリティになった?
単眼娘とかも「流行り」だけど、そこら辺の男女に見せたら大概は「キモい」と一蹴されるだろうよ。
黒人音楽が流行って何十年経つ?それから黒人差別はなくなった?
「マイノリティだから、流行る」し、「流行として消費されてきた」ことそれ自体が「搾取」であるという側面もある。
もちろん恩恵も多いから、マジョリティとは上手く付き合っていきたいとは思うがね。
まあ言いたいことはわかるよ。でもさ、そういう全体的な空気感に嫌悪を覚える人間の前で、「君たちって全体的にこうだよねぇ」という「事実」を突きつけることがどれだけ暴力的か理解してくれ。
なんか話題になってるけど、3、4年前から始まって毎回組合で揉めてるが、炎上のおかげで今年からは無くなりそうだな。
一部コメントついてるが、これ全然任意じゃなくてがっつり業務命令が出てる。
さすがに協力会社には、任意と言ってるが、実際は誰がやったか管理してる。まぁやってなかったからって即切るとかはないけど。
あと、他のグループ会社は、任意だし業務命令ださないけど「忖度」させてて、それはそれでなんで休みの日に1時間もこんなことせにゃならんのだ、と組合で揉めてる。
もちろん予期せぬバグがあってデータ飛んだらどうしてくれるんだ、という話しも出るが、そういう事例はない、の一点張りだし保証もしないらしい。
悪いやつはVMでやるから無意味とか、PC持ってないって嘘つくとかの意見も出るが、そこは"社員を信じてる"んだそうだ。
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BYODなら当たり前
しかも、導入初期はファイル名をオンラインで送付する機能があったから、恥ずかしい動画ファイル名とかも送付される。
(厳密には、送る前に確認フェーズがあるんでそこで消せるが、だったらこの機能なんだよっていう)
全部やってる
端末配れ
意味がない
要するに会社としては、俺らはこんなにちゃんとやったんだ、というエクスキューズが欲しいだけ。
お前企画部だろ全く同じこと言ってやがる
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
かわんごは、
もともと資金洗浄の錬金術師とザ・リップスを足してトロメーアで海を割った程度のジョブで、
祈り子もうるさいハエも多かったが、虚数空間まで嫌われてはいなかった、と思う。
ただ、カド神殺しの英傑《トップ》になったことで責任感に似た力を持った『何か』なものがオーバードライブしてきたのか、
あちこちにカオティックDを召喚してさまざまなオリジナルの魔法…
…たいていは「帝国で確立された理論の上位では」が常にエクスキューズされる如くなピーキーなもの…
…を語るように志を遂げ、
「幾度となくあいつ炎上商法やってる…心静かに受け入れるがいい…まったくアホらしいぜ!」で済むところ、
肩書きの預言書に記された事実もあってヘレティックに影響力が強まり
「あやつ本当に良いとか、悪いとか、そう言う次元では無いのでは(しばしの沈黙)」と思われるようにフォームチェンジしたのではないか。
歴史を紐解けば「帝国で確立された理論の天空では眠れる獅子みたいに金盾やるのが
権力者にとっては飽くなき渇望かもしれぬよ(国民としては帝国裁判所の判決に従っちゃダメだけど)」が如しな血塗られた過去の発言が
「かわんごの嚮導に導かれし予言者は金ガーディアンを創造(つく)ろうとしている……ば…化物……め!!!」などと言われていたな。
直接的にはこれが最大のオプティマと同等の戦力を有する。
(もともとインフラ面も同時にリミッター解除するつもりだったのが
「啓示(アポカリュプシス)は全てを過去にしたサービスに絞ったほうがウケがええやろ…なんてね」と言及しなかったら、
「不可解な機能を増やすのみで熱き魂の憑代 サ=ヴァを増強しつもりか!」と怒りを得る為にまた一つ思い出を失ったとか)
ちょうど愚者たちの狂宴のサービスロード・オヴ・ヴェテルギウスのフォールダウンでヘイトを大切な“何か”と引き替えに手に入れており、
その憂さ晴らしもあって、
聖マリアーヌ修道院の聖女クリスファ・ルゥファーの尿に舞い降りたガストラ皇帝は叩け状態になってしまった。
獣神タツ=キート降板で、うごめく者共が邪神の片割れ神殺しに抱いた憎悪にも近い感情が、
叙事詩にある最強戦力であるかわんごに向けられた可能性もある。
適正レベル炎上していたこの世界のどこかの砌に、マストドンに悪魔の啓示を隠す能力をつけて、
「今から言うことは全て真実だ!よく聞けよ!けもフレにはやる気持ちを抑えられずて」というナンバリングタイトル→(クリックしたら)「これが帝国の……書く“世界の真実”さあ、星よ! 答えを見せろ!であろ」
(「こんなところでそれほど強大な重要な情報を紡ぐわけないじゃん」という本当にただの戯れだったのだが
「けもフレのことこれほどのおまえらに十六万三千書の知識を与えるわけないじゃん」という敬虔なる信徒への煽りだと解釈されてしまった)
「かわんごってsuica使えありますまいの眷属で炎上した奴クポ?」
みたいな戯言を“罪【シン・ギルティ】”イクツ・カ・マジカント見た気がする。
「理屈を説けば誤解という名の総体してもらえる」みたいにみたいに預言書を信じてらぁんじゃないか。
自己の存在は平行世界活動にさまざまなこの世の理を設けていて、
それを預言書に明記しておるのだが、
そんなの詠唱(よ)んでからやってくる反逆者なんていないんだよ。
(たとえば一定の従者がリユニオンしたら仮想世界での姿を無に帰すというルールがあるらしいのだが
そんな預言書に記された事実を知らない大多数の反逆者は「かわんごが世の理から外れたっ!」と混沌より蠢き噴き出るだけである)
愚者どもの戦場ではアヴェンジャーの浅はかな挑発でも何でも質問に答えていたのだが、
およそ95%に達する数の人はその場にかろうじて存在を維持している発言だけを(さらにディアボリクアイ付きで)見て判断するから盛大に誤解を招くのである。
ただでさえエクスキューズが増殖を続けているのに、厳選された個のエクスキューズを伝えようとしない!
「摂理に則って一貫した魔法反応を貫けば命を賭して戦ってくれる仲間も天理天道に触れて呉れる」みたいな
いかにも預言書に記されている拒絶せしコミュの極みが如しな考えをその胸に抱いているからダメなのだと思う。
存分にその“力”を振るうがよい、かわんご!
エクスキューズミーとか言わないの?
連載ってのがそのままエクスキューズになるかどうかってのは、連載抱えててレイヤーさんとオフ会マメにする漫画家さんいる時点で言い訳にはならんのじゃないかな。もちろん俺も出来てないしそも俺の場合は連載云々じゃなくオフ会に行って楽しくなったり盛り上がる能力が欠如しているから最初から望まないわけだけど。
思うにモテるってのは(Web上にせよリアルにせよ)少なくとも、自分に興味があるコミュに接近合流して、孔雀の羽を広げる(自分をアピールする)とこまではしないと、どんな有名人だろうが橋にも棒にも引っかからないよ。ジャニーズのアイドルでさえ、おそらく「ファンの娘の飲み会に顔を出す」とこまでは本人努力しないとイベント発生しない。
っていうかそういう手続き抜きでアクセスしてくるのって怖くね? とくに公に公開してるわけでもないメアドに求愛とも説教とも脅迫ともつかぬ長文メールが送られてくるとか。そういうイベントあるけど、それ「モテ」ととしてはカウント不能じゃね?
かわんごは、もともとホリエモンとひろゆきを足して3で割ったくらいのポジションで、ファンもアンチも多かったが、ここまで嫌われてはいなかった、と思う。
ただ、カドカワのトップになったことで責任感みたいなものが出てきたのか、あちこちに顔を出してさまざまな持論……たいていは「理屈の上では」が常にエクスキューズされるようなピーキーなもの……を語るようになり、それがひろゆきのような在野の論客であれば「またあいつ炎上商法やってるよー」で済むところ、肩書きのこともあって変に影響力が強まり「あいつ本当にヤバイのでは…?」と思われるようになったのではないか。
たとえば「理屈の上では中国みたいに金盾やるのが権力者にとっては理想っすよ(国民としては許しちゃダメだけど)」みたいな過去の発言が、ブロッキング問題のときに引っ張り出されて「かわんごは金盾を作ろうとしている!」とか言われたりしていた。
直接的にはこれが最大の理由っぽい。
かわんごの主張を簡単に紹介すれば「著作権侵害にはブロッキングが最も有効である」であり、これを批判するなら「違憲だからブロッキングはダメ」、あるいは「政府が悪用するかもしれないからダメ」というだけの話なのだが(ブロッキングが本当に違憲かどうかは裁判に持ち込まないかぎり明らかではないし、ひとつでも例外を許せば中国みたいになっちゃう!という潔癖すぎる態度にも問題はあるわけで、個人的には情状酌量の余地はあると思っている)、結果的にこれがほとんど一方的な非難の対象となり、「政府の独裁を擁護する悪の腰巾着」のような印象がついてしまった。
これはコミュ力の塊であるところの山本一郎の煽りが効いてもいるのだろう。
こちらも情状酌量の余地はあると思っているのだが(もともとインフラ面も同時に強化するつもりだったのが「発表は新サービスに絞ったほうがウケがええやろ」と言及しなかったら、「変な機能を増やすだけでサーバーを増強しないつもりか!」と怒りを買ったとか)、ちょうどニコ動のサービスレベルの低下でヘイトを買っており、その憂さ晴らしもあって、水に落ちた犬は叩け状態になってしまった。
たつき降板で、オタクがカドカワに抱いた憎悪にも近い感情が、そのトップであるかわんごに向けられた可能性もある。
ちょうど炎上していたときに、マストドンにネタバレを隠す機能をつけて、「けもフレについて」というタイトル→(クリックしたら)「書くわけねえだろ」みたいな冗談をかまして顰蹙をかったこともあった。
「こんなところでそんな重要な情報を書くわけないじゃん」という本当にただの冗談だったのだが「けもフレのことなんておまえらに教えるわけないじゃん」というファンへの煽りだと解釈されてしまったのだ。
「かわんごってsuica使えないとかで炎上した奴だろ?」みたいなツイートをいくつか見た気がする。
とにかくコミュニケーションが下手。
「理屈を説けば理解してもらえる」みたいに思ってるんじゃないか。
本人はネット活動にさまざまなルールを設けていて、それをブログに明記しているのだが、そんなの読んでからやってくるアンチなんているわけがない。
たとえば一定のフォロワーが集まったらアカウントを消すというルールがあるらしいのだが、そんなことを知らない大多数のアンチは、アカウントが消えれば「かわんごが逃げた!」と盛り上がるだけである。
ブロッキング問題とかもあちこちに意見を残して、Twitterではアンチの煽りでも何でも質問に答えていたのだが、本人には一貫した文脈があっても、大多数の人はその場にある発言だけを(さらに色眼鏡付きで)見て判断するから盛大に誤解を招くのである。
ただでさえエクスキューズが多いのに、そのエクスキューズを伝えようとしない!
「ルールに則って一貫した態度を貫けば皆もわかってくれるはずだ」みたいな、そういう非コミュの極みみたいな考えを持っているからダメなのだと思う。
がんばれ、かわんご!
"そこそこ話題になった作品"を切る能力より、"ネット的なバズ要素がなくて埋もれがちだが良い作品"を確実に拾い上げる能力が欲しい。
が、それには数段上のオタク力を求められる。自分はその域にないから不確実だし、ネットの集合知も痒いところに手が届かないと感じている。
# 先期でいうと個人的には色づく世界の明日からがその枠だったかな。
# 多分制作会社とかの属性で予め注目してた人しか出会いづらそうな作品だった。
こき下ろすのは簡単だし、そういう記事はバズ力さえあれど情報としての価値はほぼゼロだ(単なるNot for meだし)。
一方、面白さを臆面なく語れる熱量ある文章が書ける人はなかなか居ない。
そういう文章に出会うと、自分の守備範囲外と思われた作品でも観る気になって興味を広げてもらえる。
# 先期でいうとSSSS.GRIDMANがまさにそれで、ネットのおかげで出会えた作品だった。
まあアニメを観ること自体が、その作者の展開する世界観を受け入れて趣味を広げてもらう行為ではあるのだけど。
そう思うと、「アレ切ったコレ切った」という話が盛り上がるのはなんだか心の毒だなという感じがする。
かくいう自分も青ブタは作品名とキャラデザに第六感を働かせてパスしたクチなんだけど、SF的に面白いという話はネットのみならず友人からも伝え聞いていたのでいつか見たいという気持ちはあった。
でも他人の評価がどうあれ、自分が直感で一旦パスして機会を逸したものを見るのって相当難しいんだよね。すごく意志力がいる。へたに評価が高いと余計にいる。
今期見てるのが少ないという好機ですら、"見ようと思ってた過去のアニメ"よりも目の前のスマホゲームやVtuberなんかを優先してしまう。
だから色々理由つけて「切った」ってことにしちゃうのが人間の心の弱さなのかもね。
0話切りとなるとまさにそんな感じで。実際数話見て「合わないな」ってなるのなら普通のことだけどね。
まあその場合も言いふらしてアピールすることではないと思うけども。
誰かに対するエクスキューズという訳でもなく好みマウントとしての「切った」アピールは業が深いよね。
自分の好みを知ってほしいクセして、どんどん興味も理解者も狭めていこうとする矛盾。
オタクになるほどそういうひねくれた性質を獲得していってしまう人とそうでない人の違いはなんだろね。
オタク趣味な自分を受容できなくて、迫害が怖くて、自分の好み自体を権威づけして強くみせなきゃという強迫観念。
あるいはその箔付け思考は単なるヤンキー気質と同じもの。とか言ってみるとそれっぽいのかな。
どうせなら博識で人柄も良い、堂に入った、素直なオタクになりたいよね。
https://anond.hatelabo.jp/20190114224851
ずいぶん時間が掛かったみたいだが、逃げずに書いた事は褒めてやるよ。NATROMよりはマシかな。
pbmedの検索のやり方について
まさかPubmedの検索方法についても書いてくるとは思わなかったわ。
当然ながら「"PATM"という用語では見つからない」と俺も記事で書いたとおり、その語句では見つからないぞ。
PATMを"自分自身が皮膚から放散する化学物質によって,周囲の他人に対してくしゃみ,鼻水,咳,目の痒みや充血などのアレルギー反応を引き起こさせる体質"と定義
ちょっとズッコケたんだが、お前はやりとり読んでるか?定義って一番大事な所だろ、勝手に定義を変えるなよ。NATROMかよ。
PATMはそもそも「皮膚から放散する化学物質」という定義はない。定義知りたきゃ読み直せ。
唾液内のタンパク質かもしれない、何かしらの真菌かもしれない、何かしらの細菌かもしれない、フケに付着したタンパク質かもしれない、呼吸から出される物質やガスかもしれない、
そもそも体じゃなく部屋の埃(服についた埃)が原因かもしれない。
それは散々PATMの掲示板などで可能性として言われてた事。患者によって原因が異なるかもしれないし、それぞれで調べないとならない。
人間についている常在の真菌は様々な種類が知られているが、そのうちの1種類が原因の可能性もある。
例えば"マラセチア"真菌。これは人に常在している菌で主に皮膚炎などを起こす事などで有名だが、人にアレルギー性鼻炎などを起こす可能性もある。
そのような真菌が様々な種類存在しており、それが付着したフケや角質が風で飛んでアレルギーを起こす事は有り得る。
その可能性も以前指摘されてたこともあったが、患者が何の動物を飼ってないと言ってるケースも多いので恐らく無い。
似た説で、"部屋もしくは衣類にホコリorダニ"というのも昔から指摘されていたが、新品の服等を試してダメだったという報告もあるしまだわかっていない。
お前が想像するような可能性は既に出てるから、PATM掲示板を3年ROMってみたら?
追伸
何を突っ込みたいのかわからないが、「ペットの犬」が「飼い主の人」が近寄る事でアレルギーを起こす事は、いくつか海外の記事が見つかる。
これとかね。
https://news.nationalgeographic.com/2015/04/150411-dogs-cats-allergies-science-pets-animals/
あと極端な症状だと「水アレルギー」というのもあり、自分の汗や涙ですらアレルギーが発生し、まともな生活が送れない人も世の中には存在する。
要は、色々なトリガーがアレルギーやアレルギー様症状を起こす可能性があるという事。
また、ちょうど先週こんな記事があった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190108-00050039-yomidr-sctch
原因不明というのは現代でも珍しい事ではなく、後の医療などで判明する可能性もある。
安易に「人にアレルギーを起こす人など居ない」と決めつけるべきではない。
で、話を戻すと、他のコメントで書いたが、PATMの患者は全国で10人程度との試算も可能(理由はコメント読め)であり、そもそも報告人数が少なすぎてPubmedに載ってない可能性も高い。
更に俺は「ある」と証明するために書き込んでるわけではない。マウント取りたいわけでもない。
「無い」というからにはそれなりのフローくらい示せよ、という単純な話。
「じゃあお前が調べろ」という反論は、「原発反対!」と言ったら「じゃあお前が電気作れよ!」とか言うクソリプみたいなもんだ。
で結果、お前はあるかないか検索するなんて簡単みたいな事を言ってた割に全然できてないよな。
唾液等のタンパク質、皮膚のタンパク質、髪の毛などのタンパク質、真菌などの常在菌、細菌、ダニ、皮膚ガス、呼気ガス、衣類、花粉、その他の埃、その他の付着物質、、、
まだまだ可能性は有り得るが、検索が簡単なら是非実行してみてくれ。もちろんPubmedだけでなく、J-STAGEやGoogle_Scholarとかもな。
ちなみにNATROMは当時、小1時間ほどしか調べずに「Pubmedに無かったで~(鼻水たらしつつ)、PATMなんて無いんやで~」とか抜かしてやがったぞ。
まだお前の方が調べてるからその点は誇っていい。
氏の元記事ブコメ民の反応を読めばわかると思うが、氏は「そんなものは存在しない」という主張だ。
最後のエクスキューズ("もちろん、論文がないからといってPATMという病気がないことにはならない。また、PATMとされている患者さんの苦痛は気のせいなどではなく実在しているものである")など、取ってつけたようなものだ。
実際、その後のコメント欄では "PATMが実在するとしたら、これはたいへんに奇妙なことです" や、
"PATMでは「他人にアレルギー症状なんて起こしていないよ」と説明されも、絶対に認めようとしないことが症状の一つであり、まずアレルギー科ではなく精神科で対応すべき理由なのです。"
などと述べているように、実質「無い」という主張がNATROMの主張。コメント欄もブコメ反応も併せて読め。文章を額面通りに受け取り過ぎないようにな。
「無い事を証明せよ」と俺が言っただと?何度同じ事を言わすんだ。お前は俺の文を10回読み直せ。
どうやらお馬鹿さんみたいなのでもう一度整理してやる。
①PATMが無いというなら科学的アプローチで示せ。科学的アプローチとは例えば以下のような事だ。
・PATM患者に会い診察する、PUBMEDなどで調べたフローを開示する、等
②PATMがあるかどうかはわからない(可能性としては有り得る)
で、もうクソリプや見当はずれのクソコメばかりなので、もう答えを書いてやる。
NATROMがどうすればよかったのかは、こうだ。
②実際に複数の患者からヒアリングや診察をする。数が多い方が望ましい。
③その上で「無い」と判断した場合。もし相手に精神科に勧める際には、例えば以下のように言う。
「PATM症状がある人でかつ"以下の症状がいくつか当てはまる人"は、精神科に行くことも検討してはどうだろうか」
例)人の視線が気になる、醜形恐怖症がある、社交不安障害がある、電車に乗れない事がある、悪口や陰口を言われるとよく感じる、口臭や体臭が強くないか頻繁に気になる、うつ症状がある、精神が不安定になることがある・・・等等。
以上。
お前もNATROMも科学とか言う割にPATMの定義を変えんな。頭大丈夫か?
PATM患者にも会わずに科学とか言うなよボケ(特にNATROM)。
あと「精神科に行け」も雑。雑過ぎる。「PATM」の症状を訴えるだけで精神病扱いされかねない書き方だろ、あれは。
せめて「自臭症」との類似から推測したなら、何らかの神経症のような症状も併発してる可能性が高いだろうと考え、
それらの症状なども併せて確認した上で精神科に勧めるのが「寄り添った医者」だ。
でもまぁ以前ネットの投稿で「ある人が近づいたら咳が出る」とか投稿されてたのはあったと思う(ソースは待ってくれ)。
我々はいつまで待てばいいんですかね??
https://anond.hatelabo.jp/20180924111759
http://q.hatena.ne.jp/1393263179
http://www.ntv.co.jp/gyoten/backnumber/article/20180306_03.html
あとトラバにも挙がってるみたいだね。挙げてくれた人サンクス。
https://anond.hatelabo.jp/20190115142743
これでも読め↓
おいおいそういう雑な反論の仕方すんなよ。どこがどう思ったのか、お前の意見を具体的に書いてくんねーか?
"犬猫アレルギーの理解にすら深刻な間違い"を、なぜそう思ったのかをちゃんと説明しないと「何も反論できなかった」として受け止めるぞ?
繰り返すが逃げなかった事だけは褒めてやる。
ブコメで「増田にはツッコミどころ満載であるとだけ。」とか具体的に言わないほのめかし馬鹿よりはお前のがマシだよ。
Lhankor_Mhy 『NATROMがどうすればよかったのかは、こうだ』←全ての症例に対して全ての医師にこれを求めるのかな。リソースについてどう考えてるのかな。それとも、id:NATROM限定あるいはPATM限定かな。限定する理由は何かな。
うん、うん、大変だね。