はてなキーワード: 無秩序とは
コロナの影響で成人式が中止、延期になったという話をよく耳にしました。
成人式というのは一生の中で一度しかない大切な式典です。本人はともかくその親御さんたちも、自分の愛する子供が晴れて成人となる日に、これまでの成長を噛み締め、凛々しいスーツ姿や華麗な振袖姿に、目に涙を浮かべるでしょう。
成人式に限らず、去年、今年はコロナによって多くのイベントや行事が中止になりました。その中には再開催可能なイベントもありますが、成人式のようなイベントは、その年に参加するから意味を持ちます。たまたまコロナという不運に見舞われ、普通なら開催するはずだった行事に参加できない人たちのために、なにかできないだろうかという想いから、今回「バーチャル成人式」を開催いたしました。
緊張感をバーチャルへ
バーチャル空間でのイベントの多くは、エンターテイメント性が高く、またお祭りのようなもののため、楽しいが緊張感のないものになることが多いです。
成人式は、区長様の挨拶から始まり、緊張感のある中、式典が進んでいきます。バーチャル空間におけるイベントの醍醐味は、バーチャルならではの「はちゃめちゃ感」が割合として大きくしめますが、そのはちゃめちゃ感を残しつつ、同時に、緊張感のあるイベントが開けないか、ということを考え進めておりました。
法律やルールのないバーチャル空間だからこそ、緊張感をあえて作る。
バーチャル成人式は、主催者WekENDの挨拶に始まり、来賓者の祝辞、バーチャル新成人の言葉など、それぞれが真面目なスピーチを壇上で決められた時間の中行い、無秩序さの中に規律というものを組み込んだ新しいイベントとして成功いたしました。また、司会進行に声優を起用したことも効果的でした。趣味で開いてるイベントとしてではなく、プロがしっかり準備して運営したイベントとして、参加者の態度が他のイベントと比べより真面目だった点も、我々バーチャル成人式の特徴と言えるでしょう。
全員がそれぞれ好きなアバターで、自由に離着席もできれば、飽きたらログアウトできてしまう空間で、スピーチの間は誰1人として会話をせずに、登壇者に耳を傾け、「起立、礼、着席」もバーチャル空間で行う。最後までログアウトする人は、1人もいませんでした。
ルールのない自由な空間に、あえて制限をかけ緊張感を作ることで、イベント全体を引き締め、より強力に参加者の記憶に残るイベントとして理想のバーチャル成人式を主催できました。
式が終わったあとの交流会では、
「このような取り組みは素晴らしいと思います」
という声も聞くことができ、バーチャル成人式を開いた意義を再確認できたことも印象的です。
終わったあとの雑談会は、2時間以上も続き、それだけ初対面の人たちが、他の人たちと障壁なくコミュニケーションが取れる理由として、共通の貴重な体験をしたということが挙げられるでしょう。イベント体験を踏まえ、
「私も、こういうことしてみたいんですよね」
という意見を救いあげることができ、今後WekENDはよりクリエーターにとっての場の提供としても機能していきそうです。
バーチャル成人式を行った理由は、成人式に参加できなかった人たちのためのだけでなく、社会に対してもメッセージを発信するところにもあります。バーチャルとリアルは対立して存在するものではなく、バーチャル世界は、「リアル」の世界として存在しているということ。その中で、バーチャル空間がリアル空間を拡張している感覚に近いです。VRAR的概念とも言い換えれるでしょう。
リアルで行えないことを今回のようにバーチャルで行い、それをリアルの体験として強力に記憶に残るものにする。またバーチャルで作り出せない熱狂をリアルがバーチャルを拡張する。そのように「リアル」と「バーチャル」が別のものではなく、隣り合わせたものとして存在しているんだ、ということをもっと世に、社会に示していくその一歩として、バーチャル成人式は大きな足跡を残したと思います。
なんで「うるさくて無秩序で荒れてる」って意味で動物園って言うの???
サバンナ(訂正:サバンナも基本的に静かそう)とか猿山とか言うならまだわかるけど、動物園ってうるさくもないしむしろメチャクチャ秩序立ってるだろ
一つの檻というか展示場に入ってる動物はせいぜい5匹とかだし、見ててつまんないくらい動きがないことのほうが多いと言ってもいいくらいだ
30〜40人がいち教室に詰め込まれて、延々ギャーギャー言い続けてる状況の例えとしてはどう考えても不適切でしょう
3.動物園だ!
っていう単純極まりない愚かな連想ゲームなんだろうけど、全然的を射ていませんよ
俺はこういう、雰囲気だけでまったく適切じゃない比喩ってものが許せないんだ
冷静になって思い出してみよう!動物園に入って「うるさいな、荒れてるな」なんて第一に思うか?そんなこと思う園はアカンでしょ
まあ日曜なんかに行ったら多少はうるさいかもしれないぜ 少なくとも超静かってことはなかろうな
でもそれ、うるさいのって誰ですか?
人間だろうが うるさいのは人間のガキなわけ 人っ子ひとりいない動物園に行ったら、まず間違いなく第一印象は「寂しいな、寂れてるな、静かだな」でしょ 動物園の実力というか本質はむしろそっちなんだ 本来静かなもんなんだ
うるさいとしたら人間なワケ それをよ、うるさい中学校の比喩として「動物園」ってのはどういう了見だい?
どっちもうるさいのは人間って点で被ってますね 動物を巻き込むな バカなのも騒ぐのもカスなのも人間だよ
遊園地とか言った方がまだマシだよ 「遊園地みたいにうるさい学校」って言われてイメージされる遊園地のうるささは、遊具のうるささじゃなくて人間のうるささでしょう
とにかく俺は許せない ヘタな比喩で噴き上がっている皆さんが許し難い
「低学歴の人間を動物呼ばわりしていいのか?」とかいう前に、そもそもどんな比喩なんだってことに思いを馳せよう
公立中に通ってるガチのヤンキーというか不良というかアホというか、彼らのうるささ・素行の悪さは動物の比ではないです
意味わかんねえ比喩なわけ 流石に動物より頭が悪いってことはない以上侮辱的な雰囲気はあるんだけど、意味わかんなさの方が勝つでしょ
公立中はヤカンを同時に30個沸かしてるキッチンだった!とか言われてもハア?って感じじゃん 人間を無機物であるヤカンに例えるとは何事だ!ってなんねえじゃん 何言ってんの?で終わりですよ
それでいいんだ
俺はそう言いたい
差別ウンヌン以前に、純粋に動物園と(荒れた)公立中学にそんなに共通要素を見出せなくないか?
サル山の猿がキーキー言ってることくらいはあるかもしれないが、たいていの檻ってセパレートでおんなじ動物がまとめられてるし、そん中でギャーギャー鳴いてるというイメージはあんまりないぞ むしろ結構静かじゃないか?
象もキリンもライオンも、逆に鳴いてる姿を見られたらかなり嬉しいくらいじゃん レアじゃん
せいぜい鳥くらいしか鳴かんって
授業中に先生がちょっと教室を外さないといけなくなって、10分自習しててね!静かにね!つって去っていった2分後にはほぼ全員バカでかい声でギャアギャアやり始めるんだよな
ガチで耳塞ぎたくなるレベルのうるささであり、動物園ごときの比ではないです
あと動物園の動物、その辺を走り回って互いに危害を加え合ったりはしないっす そんなことしてたら貴重なリソースを失うわけだから、園の側が頑張ってなんとかするじゃん 公立中でそういうことは起きない そこら辺も違う
今回みたいにアレな人に目をつけられることがあったとしても、それ以上に魅力が伝わることがあるなら、共感して「いいね」って思う人がいるなら、すばらしいものはどんどん表に出していくべきだと思うんだよ。あと勘違いしてる人が多いけど、性的要素があるからといってそれはマイナス要素にはならない。性表現は悪いことではない。時と場所みたいなものはあるけどね。
あの中にも俺が知ってる絵師が何人かいたし、それで知名度を上げたと思うとプラスになる面もあると思うんだよね。
世の中にはああいう騒ぎ見て「うわーこいつらダメだわー」みたいに思う愚昧な人間ばかりじゃなくて、フラットに見て「これで知ったけどこの人すごい良いじゃん、好きだわ俺はいいと思うぜ」ってなる人も沢山いるはずだと思うんだよ。
もっと人間の知性を信じてほしいね。まともな人間はたくさんいて、是々非々で考えて良いものは良いと見られる懐の広い人もたくさんいるんだよ。そういう世界認識を女性オタクは持っていなさすぎると思う。そうでないと圧力ヤクザに支配される息苦しい世の中になるだけだろ?
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koyor たとえば軽く炎上してファンが1000人、アンチ10人増えたとして、ファン1000人の無言フォローよりアンチ10人の粘着で作者は筆を折りがちなとこあるじゃん?ファンは作者に対して過保護になるものなのよ
こういう発想は良くないと思うんだよ。作者のことを、そういうのをサラっと流せるような大人の対応ができる人間だと、練度の高い人間だと信頼してないってことでしょ。そうやって過保護にするということは、パターナリズムの肯定であって、俺が散々言ってきた「人間の知性を信用してないのはダメだぞ」ってことに繋がる。パターナリズムは過保護にしてないとすぐに死んでしまう脆弱惰弱な温室栽培の人間を量産させることに繋がる思想だ。取り巻きだとか政府だとかがガッチガチに監視して守ってやらないといけない社会を作ることに繋がるわけ。そうなると、守る側は「こいつらは愚かだ」と侮るようになるわけ。不健全でしょ。
だから、いちファンが守ってやらねばならないと思うようなことがそもそも傲慢であって、みんなが精神的に強くてまともな人間になろうとしてなくちゃいけない、そういう強さを身につけることを促す社会でなきゃならない。アラフォー世代が2chで煽り耐性やグロ耐性を身に付けてきたように、人は守られるんじゃなく、無秩序の中に晒されることで多角的な見方ができるようになり、賢くなる。俺はそう思うんだよ。
だから是が非でも道理を曲げてでもどうにかして「神」に創作を続けて欲しいと願う人ならワガママゆえに過保護な言動をしちゃうかもしれないけど、まともに考えれば、現代にネットを活用して何かを発表するという以上は、ノイズ対策のリテラシーも身に着けているか鍛えていくべきことなんであって、ノイズに負けて折れてしまうのだったら総合的に判断して適正がない、退場するべくして退場した人と判定するしかないんだよ。逆に、そういう部分が長けてる人は、例えアウトプット自体がパッとしなくても称賛されて伸びて然るべきだし。
一日の終わりにはできるだけ目を使わないようにしようと思った。
目が覚めてから寝るまで、常に何かを注意して見ている。スマートフォンやタブレットが生活の中に入り込んで来てから、画面を見て何かを読むのをやめられなくなっている。人間は視覚を好むと言っていたのはアリストテレスだったか。大学で哲学の授業に出たのはだいぶ前のことだからうろ覚えだが、現代人は視覚を好みすぎて酷使しているような気もする。
仕事帰りに新宿の西口でラーメンを食べた後、ヨドバシカメラに寄って、小さなラジオを買ってきた。ラジオしか聴けないようにするためにラジオが欲しかった。
ベッドに入って電気を消し、ラジオの電源を入れる。小さな液晶にオレンジ色の光が灯り、周波数を表示する。ダイヤルを回すと、ザーッという音が聞こえる。
そういえば、番組と番組のあいだ、周波数と周波数のあいだには、意味をなさない、あるいは意味を読み取れない雑音の海があった。アプリで文字や画像をタップするといつも目的のコンテンツに一瞬でたどり着くことに最近はすっかり慣れていたから、そんなことも忘れていた。
ダイヤルを回し続けると、雑音は不意に音楽に変わる。この、無秩序から秩序への移行を一瞬に知覚する時の感じも、ずっと忘れていたことが信じられない。
ボサノバの旋律が、やけに遠くから聞こえてくる。チェーン店のカフェでお昼を食べるときに天井から降ってくる、ありきたりで空疎な環境音のボサノバ。それが今はどこか遠くから、大切に、丁寧にこの小さな箱まで届けられた音楽のように聞こえる。これはきっと、もともとはそういう音楽だったのだという気さえしてくる。
音量のツマミを回して次第に音を小さくすると、かなり小さな音でも音楽や人の声は識別できることに気づく。スピーカーに耳をつけてようやく聞こえる程度でもそれはさほど変わらないことにも。暗くした部屋でラジオの微かな音に耳をすませていると、落ち着く。
音楽よりも好きなのは、天気予報だ。各地の天気や気温をアナウンサーが静かに読み上げていくのを聞いていると、ただ時間が経っていくのを感じられるというか、なんだか豊かな気持ちになる。さらに好きなのは各地の気圧で、ヘクトパスカルがただ読み上げられていくのに暗闇で聴き入っていると、世界はすでに戦争で滅びかけ、自分はシェルターで生き延び、よく知らない政府の発表に立ち会っているかのような、何かに包み込まれた不思議な隔離感がある。
感じられている暗さが室内の暗さなのか、まぶたを閉じているときの暗さなのか、音の途切れは電波のせいなのか、自分の意識が飛び飛びになってきているせいなのか、もうわからなくなってきたら、ツマミを回し、音を完全に消す。
久しぶりに、薬を飲まずに眠ることができた。
https://anond.hatelabo.jp/20200921165747
しかしこの指摘はやっても無駄です。指摘されてる内容は全部低偏差値のフェミニストたちによるものです。
低偏差値層のフェミニストは、人の批判を受ける知能を持っていません。会話が通じる人間だと思っても意味がないのです。
フェミニズムは「バッドフェミニスト=教養や最低限の勉強すらしていない、ただフェミニズムにきょうみがあるだけの人であってもフェミニストを名乗ってよいのだ、むしろそういう人たちこそがフェミニストを支えるのだ」というスローガンで低偏差値の思考能力カスな女性をどんどんフェミニズムに勧誘し続けたという過去の経緯を持っています。
また「レイシストでないならフェミニストである。フェミニストでないならレイシストである」というような韓国や一部欧米セレブで流行ったむちゃくちゃな理論を用いて、フェミニストであることの敷居を徹底的に下げようとしたこともあります。togetterでなんどかそういうものを見かけた人もいるでしょう。いうなれば、大学全入時代ならぬフェミニスト全入時代というのがここ十年以上続いていたのです。そして、それは一定時期はフェミニズムの勢力を拡大させるのにとても役に立ちました。
しかし、その結果何が起きたかというと、フェミニズムの平均が偏差値Fランのアジテーションだけがうまい人たちに移行し今まで主流だった人は影響力をもつことができなくなり、何も思考しない、他人を殴れればなんでもよいという暴力主義者たち主導権を奪われ、集団としては制御不能な暴徒化したのです。
これはBLMについても同じ現象がおきています。キリスト教が殺戮者の歴史であるように、本来のあり方が崇高であってもその教義のもとに集う人たちが優れた人間ではないというのは我々は歴史から学んでいるはずです。フェミニズムもBLMも、総体として素晴らしかったとしても構成員がだめならその活動は腐るのです。BLMは目に見える形で暴徒化した制御不能な集団が一般市民を襲う事例まで発生したのにそういった暴徒による暴力すら批判することができないというおかしな状況になっています。
受け入れ口を広く持つことは別に悪いことではありません。ただ、そういう取り組みをしていいのは、受け入れた後はきちんと統率したり教育したりができなければいけないでしょう。
それができなかったありとあらゆる歴史的反乱は、一時的な勝利を収めても崩壊していったのです。
今日本で暴れているフェミニズトたちの群れは、秦帝国に反逆した農民反乱のような無秩序な集団となっており、時々勢いよく吹き上がりこそすれどこちらもあまりガラのよろしくないアンチフェミ集団によって各個撃破されるくらいに弱体化しています。 その結果反撃してこない企業への攻撃などにシフトしているのですが、これもいまいち勢いがなくなっています。 最近はTERF問題をめぐって内ゲバも発生しており、放っておいても内部崩壊しそうな勢いです。元々フェミニズムは当初から内部での対立が激しいんですけどね。一人一派とか言ってるのはフェミニズムの勉強したことない人たちだけでしょう。
今の日本においてフェミニストのブランド価値は底まで堕ちきっています。
考えてみてほしいのですがたとえばFラン大卒のニート男性が社会問題について偉そうに語っていたり、会社経営について上から目線でコメントしていたら誰一人共感などしてもらえないしバカにされて終わるだけでしょう? ところがフェミニズムの世界ではまさにこういう無学で浅慮な人たちのお気持ち表明が、お気持ちであるゆえに支持され拡散され、まるでこれがフェミニストたちの総意であるかのように影響力を持ってしまうわけです。こんな情けない話がありますか?私からしたらあれらの活動は「全然わからない。私たちはFラン大ニートのお気持ちに従って雰囲気で組織を運営している」ってプラカードを背負いながら街中を歩いているようなものです。そんなのはただの羞恥プレイじゃないでしょうか。
私は大学でフェミニズムを勉強しましたが、フェミニストを名乗ることに抵抗を感じずにはおれません。フェミニズムを名乗るのであればなおさら質の悪いフェミニストたちを批判すべきなのにそれも許されないような空気でフェミニストを名乗ってもフェミニストであることに誇りを持てません。 スラムダンクで「お前と一緒にバスケやるの息苦しいよ」という言葉がありましたがまさにそのような心境です。
こういう状況は終わりにしたいです。
全員がそうすべきだとは思いませんが、Twiterで5000以上のいいねを得ているようなフェミニストたちの発言については、それぞれのフェミニストさんたちに偏差値の概念を求めたいです。それがどの程度フェミニズムの文脈において妥当性を持っているのかをきちんと判定してほしいです。もうそのくらいしないと、日本のフェミニズムはFランの下から目線によるひがみだとか、もっとひどいものになると鎮圧すべき暴徒程度にしか認識されないでしょう。
大坂なおみ選手が大会ボイコットで話題になっているが、個人的にはあまり支持できない。
自身が目立つことを優先しているように見えて若干の嫌悪感があるのと、自分の影響力に無自覚なところが気になるのだ。
以前のBLMで大阪でデモをしようと呼びかけがあったときにも感じたのだが、
コロナウィルス感染拡大防止のために飲食店や、スポーツ・音楽イベント等が全て自粛しているときに、
人を集めて集団感染リスクを高めることをよくもできるなと思ったのだ。
そして、そういう慎重な意見をSNSで投げかける人には「あなたは差別主義者なの?」的なリプライをしていて、
大義名分のもとに反対意見を一方的に切り捨てて、対話ができないところも気になった。
で、ぶっちゃけその手の嫌悪感を感じるのは大坂なおみ選手に限ったことだけではない。
環境活動家のグレタさんも苦手だし、反原発運動や最近のフェミニズム運動も苦手だ。
個人的嫌悪感の共通点が何なのか言語化すると、いわゆる『活動家』嫌いという傾向だ。
もっと言うなら、『急進的で実効性が乏しい主張をする人たち』に強い違和感を覚えるのだ。
ぶっちゃけ例として挙げた活動についても、個々の論点自体は賛同できる部分が多い。
黒人の権利は大事だと思うし、気候変動の問題は放置できないし、原発事故の危険性は対処しないといけないと思う。
大学入試で性別が違うだけで合格点が変わるなんて論外だと思う。
が、しかしだ。
それなりに清く正しい社会生活を送っている自負のある一市民に対して、いきなり「良くもそんなことを!」言われて
お前は環境破壊する悪い奴だ見たいなレッテルを張られるのはイラっとするし、自動車を使うなと言われても、利用をやめると生活が成り立たなくなる。
原発事故の危険性は理解している。だけど原発を即時全廃して安定的な電力供給はどうするのだろう?太陽光や風力は天候に左右されるし、
無秩序に再生可能エネルギーの新設を推進したことで、山林の乱開発といった新たな問題も発生している。
東日本大震災後の日本は、天然ガスや石炭火力の比率を増やしてしのいでいるけど、天然ガス資源には産地が偏在しているリスクがあるし、
石炭は比較的産地が分散してるけど、採掘・燃焼による環境破壊や温室効果ガスの排出に目をつぶってよいのだろうか?
性差によって職業差別を受けるのは許してはいけないと思うけど、
いわゆる萌え絵のようなイラストはすべてが男性に媚びるために書かれているのだろうか?
全部まじめに対応した先に待っているのは、人民服や就活のリクスーのような、画一化して多様性のない社会なんじゃないだろうか?
なんというか、正義感で突っ走って始めたものの、『私のいう事を聞け、多少の問題は大義のために目をつぶれ』というような、
話が通じない雑な主張には反射的に虫唾が走ってしまうのだ。
大会ボイコットが警官による射殺事件への抗議なら、落としどころはどこになるのだろう?
BLMが全面的に収束するまで全ての大会をボイコットするのが正解なのだろうか?
個人的には大坂なおみ選手の事例ならば、大会ボイコットというような強硬的な態度を取られるのではなく、
「大会の獲得賞金を全額事件の被害者遺族と支援団体に寄付する。皆さんもこの問題を考えてほしい」的な呼びかけだったら、違和感なくすんなり支持できると思うのだ。
今の態度だと、社会の分断と対立を必要以上に煽る方向になってしまっているように見える。
なんだかんだ言って、社会を構成している人の過半数はノンポリに近い穏健保守派なわけだし、(世論調査の無党派層の多さでわかるだろう)
トーンポリシングと言われるかもしれないが、社会運動をしようとする人たちは、声の大きな支持者よりもサイレントマジョリティの方を向いて世論に刺さるように行動しないと逆効果と思うのだ。
針や糸や鋏など裁縫に使うものはもちろん、洗濯ばさみ、クリップ、壊れた安物ネックレス、シャーペン、もう捨てたミシンのパーツ、そして元はキーホルダーのチャームであった土偶。
土偶は有名な遮光器土偶ではなく、調べてみると中国の武人をかたどった埴輪であるらしい。
え、土偶ではなかったのか。
今の今まで、おそらく10年以上、裁縫箱に土偶があると思っていたが、土偶ではなく埴輪だった。
シンプルなデザインの土偶改め埴輪は、親指くらいの大きさで素焼き。腕は無く腕の位置に穴が開いていて、キーホルダーだった時には穴に紐が通っていたような気がする。
裁縫箱に入れる前は、どこかの土産物屋のしわくちゃの小袋に入っていた記憶はある。家族の誰がが旅行先で買ったものだとは思うが、埴輪が土産物になるような場所が思い当たらない。少なくとも家族旅行では行っていないはずだ。
裁縫箱に入れた経緯もよくわからない。片付けをしていて、小袋が破けたかどうかして、手近にあった裁縫箱にとりあえず入れた…と言うことなのだろうが、まったく記憶にない。
いつ壊れたのかも記憶にない。キーホルダー部分を捨てた覚えもない。ただ、埴輪部分だけがいつの間にか裁縫箱の隅にあった。
そんなこんなで印象の薄い埴輪だが、今手にとってみるとなかなかいい顔をしている。穏やかでゆるくほほ笑んでいる。
10年裁縫箱の中でほほ笑んでいた。特に捨てる気もないし、他の適切な場所にしまい直す気もないから(適切な場所とは?)、これからも裁縫箱の中でほほ笑み続けるのだろう。
なんかよくわからないけど韻を踏んでる?言葉のやりとりを繰り返したり
意味わかんないタイミングで「2日前の自転車…」みたいな意味わかんない単語連続で言ったり
複数人が無秩序にドタドタ歩き回ったと思ったらいきなり止まって関係なさそうな単語を発言したり
私からしたら大まかなストーリー以外、全然理解できないんだけど、その全てを身内(同じ劇団の人や同業者)では「エモいエモい」と言ってる
ドラマのラストとかで意味深な終わり方してあとは視聴者にお任せ、レベルではなく全てがこっちの解釈に任せられてる感じで疲れちゃう
そんな感じで、有名なお話をやる場合じゃない限り初見では意味が理解できないことが多いから誘われない限り行かないんだけど
あれって演劇やってる人たちは意味がわかっててエモいの?意味わかんないけどとりあえずエモいの?
あと偏見だけどそういうのやってる人劇場の山崎賢人みたいな傷つきやすいナイーブクズが多いイメージ
おわり
今の状況って、感染者をある程度社会が壊れないように抑制しながら経済も回すっていう、5月の政府の目標通りの結果なんだけれど、それが非常によろしくない。
ここまで不安と一緒に暮らすとは思わなかった。
経済をある程度回したとしても結局コロナの感染者は多い。ファクターXなど幻想で、結局はただの行動抑制の結果だったことは明白だよね。
じゃあもう一回8割減の行動抑制をやるかというと、それに耐えられる業界は殆どない。
どうしたらいいのかと言われても、どうにもならない。
行政だって疲弊してる。人員減がたたって、国会なんかいま開いたら何人過労で飛び降り自殺が出るかわかったもんじゃない。
じゃあどうしたらいいのか? PCRを増やせというが、「無秩序に増やした沖縄ですら、もう無理だ」と泣きが入ったし、全く感染抑制に資さない。
つまり、かんたんな解決策はないのだという重苦しい現実が、余計に精神を病ませる。
政権を変えたところで、「PCRを増やせ」では解決できないし、「国家の支出を増やして業界を援助せよ」という人間はどこにもいない。
この場合の野良では、上位存在として何らかの集団・組織による管理統制下にある個体があり、その一方でそうした管理の影響下を外れた無法状態にある個体を野良と表現する。
ネトゲなどで野良パーティという場合も、まず上位存在として内輪による統制のとれたパーティがあり、その下位として無秩序で統率に期待できない寄り合いの即席パーティを野良と言ったりする。
身寄りのない浮浪者・放浪者を野良と表現することも可能ではあるが、人間であることは自明なので蔑称的に言うとしても単に野良とかしか呼ばないだろう。
野良人間と呼ぶ場合は、将来政府により計画生産された人間しか生まれない世情になっているにもかかわらず、脱法的に生まれた人間を野良人間と呼ぶようになるかもしれない。
あるいは、どの国の国民IDも刻まれていない人間、など。いずれにしてもディストピアSF的な現在より管理・統制の強まった環境でないと野良という修辞は似合わない。
私はお弁当工場の他に靴工場をはじめとする他の工場でも働いたことがありますが、お弁当工場ほど混沌とした場所はありませんでした。
お弁当工場内にはお惣菜部門、炊き込みご飯部門、下ごしらえ部門、パッケージング部門などが存在していましたが、作業の途中でしょっちゅう行方不明者が出るためかどこも常に人が足りておらず、一日に色々なセクションを行ったり来たりしたものでした。
工場内の空気は蒸し暑く、床はいつも汚らしい液体で濡れていて、防護服の隙間からは腐った食べ物と腐っていない食べ物が混ざり合った暴力的な匂いが入り込みました。出来上がったお弁当を載せたベルトコンベアはしょっちゅう不具合を起こし、私たちが作って詰めた食材が床にばらばらに散らばりました。私たちはその光景を無感動に眺めました。
代替可能な人間としての自分に耐えきれなくなった人が、差別化を図ろうとして歌を歌い出したり、踊ったり、炊き込みご飯をつまみ食いし始めました。
🙄
これは確かにそうだった。弁当工場は色々なところに食品を卸していたりする。コンビニの提携先の場合も多種多様な商品を扱うことになる。
そして発注数で製造する数も当然変わってくるので日々のスケジューリングはかなり流動的だった。
30分前には幕の内弁当に白米押し込んで量りでチェックしてたのが、今は給食として卸すライスバーガー用のピーマンを選別。そしてまたその1時間半後には鳥から丼にマヨネーズかけてる…みたいな感じ。
人出不足っぽく見えるのは必要な人員が日によってまちまちなので派遣労働者で調節してるからだな。
せわしなく配置変更しているので戸惑ってはぐれる奴がいてもおかしくはないが、そのままばっくれる奴はかなり稀…なはず。働けなくて困るの自分だからね。
衛生管理の面で高温多湿はご法度。食中毒なんておきたらそのままその工場はなくなることもあり得る。
トラックで運ぶ際も温度チェックはするし店舗に着いたらすぐに陳列するよう指導もされてる。
そんな重要なことを無頓着にしていてこの工場は大丈夫なのだろうか。
うーん。やっぱり食品加工業者でこんな衛生管理がまかり通っていた所があるのか甚だ疑問である。
僕も増田と同じように派遣で何か所か手伝っただけだが弁当工場はどこも綺麗だった。
ユッケ食中毒事件とかバイトテロ騒動が問題になった10年まえくらいから衛生管理にはひと際気を使うようになったらしい。
(そうでなくても21世紀にはいってからどんどんマシになっていったらしいけどね)
増田の話が本当とするなら10年以上前のちょっとやばい工場ならありえなくもないかも。
まあ鮮魚を扱ってるところや回転寿司チェーンなら今でも溶け出した霜や洗い場から溢れた水で水浸しだし、せわしなく働いてるから床の隅からサーモンの切り身がひょっこり出てきたりはそんな珍しくなかったりする。
でも弁当工場で扱う食材ってすでにある程度加工済みなんだよね。炊くか炒めるか焼くかしてあとは詰めるだけ。
増田が行ってたとこはある程度加工もやってるぽいけどそんなの増田みたいな超短期の助っ人派遣労働者たちはまずやらせてもらえない。
詰めたり検品したりの、そのなかでも更に簡単な作業しか任せてもらえない。工場からすれば何やらかすかわからない得体のしれん人間だから仕方ない。
汁気のあるものが少なくて簡単な作業しかしてない。衛生管理にもうるさい。そんな状況下でいつも汚らしい液体で濡れてる状態になることはあまり考えられない。
ローラーのついたレールをゴム製のカバーで覆ってるだけだし、電気系統もモーターのスイッチ入れたら動く、よくて速度調整の可変抵抗器があるかどうか。
不具合があるとすれば、製品のコンベアへの乗せ方が悪くて途中でこけた/詰まったか、誰かが間違ってモーターのスイッチ止めたか。
これって増田たち末端従業員のミスなんだよね。なんでそんな他人事みたいな言い方なんだろう。
コンベア止まると結構な騒ぎなんだよな。それだけ作業が遅れるし、ひとつ前の工程からくる製品がどんどんたまっていく。
当然ながら監督してる社員さんの怒号が飛び交うし、社員さんから復旧のためや流れを妨げないためにあれこれ指示出されるから、「無感動に眺め」ている余裕はない。
他人に聞こえるレベルで鼻歌歌ってたらベテランパート婦人集団に絞められる。
無論スペース面でも時間面でも踊ってる余裕はない。
つまみ食いはおろかマスクを外して口を見せるだけでも叱責される。
工場でのつまみ食い自体はお菓子工場で目撃したことはある。規定に満たず廃棄の箱に入れられたチョコを現場リーダーが貪り食ってた。奥歯すっげえ黒ずんでた。
しかしそんなことは広大な工場でワンセクションに派遣2,3人しかいないというシチュエーションだったから可能なこと。人が密集して行きかう弁当工場でそんなことできるだろうか。
ほんとな。
社員にしても派遣にしてもよくこんな奴らでこれだけの量の弁当作って出荷してるよなって毎回関心してたよ。
僕も人のこと言えたもんじゃなかったけどさ。
直接何かされたわけでもなければ嫌いという気持ちがわかないから共感できないが、
僕は自分が軽蔑したり見下してるものに誰かが肯定的な態度をとっていることに耐えられない。
え?こいつの存在認めちゃうの?そんな無秩序なこと許されんの?みたいな。
根っこは増田と同じかもしれない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20190201142916
2019-02-01
島耕作を読むと日本ってやばい国だったんだなってわかる
島耕作といえば国民的漫画といっていいほど知られてると思うが、今読むとこの漫画はかなりやばい。
会社の役員はみんな愛人もっているし管理職はセクハラしているし、仕事と性欲の解消が不可分になっている。
これがある種の世代のメンタリティになってると思う。仕事していればそれが免罪符になって女性を性的に搾取してもいいだろうと。
というか、職場における女性が従軍慰安婦的な扱いになっていて、仕事のストレスは女性社員(あるいは取引先とか周辺の女性)で発散、みたいな構図になっている。
島耕作は漫画だけど、でもこれってある種の現実を反映していると思うんだよね。仕事ができれば、女性をどうとでもしていいと思っている人って、いるでしょう?
今だって派遣社員や就活生に手を出したり、社内の女性を不倫相手にしたりといった話はいくらでもあるのね。で、昭和はもっとやばかったんだよね。
昭和の日本ってやばい国だったんだよね。仕事中にセクハラして愛人作って、それで経済大国で、ジャパン・アズ・ナンバーワンだぜ、ってとんでもないアナーキーな国だったんだよね。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』って映画があったけど、かつての日本って国全体があの映画みたいな状態だったわけだよね。
島耕作って今後はそういう風に読まれるようになると思うよ。経済成長していたころの日本がいかに無秩序だったか、って。極東のアジアに、とんでもない国があったんだよね
都会の列車はどこまで行っても高いビルの間をすり抜けるようにして走ります。清潔な摩天楼の小部屋の一つ一つには、きちんとした服を着た有能そうな人々が納められているのが見えます。そんな建物が無数にあって、そんな人々が無数にいることを想像すると気が遠くなってきます。
私によくなじんだ車窓からの眺めとは、駅と駅との長い間隔の間に広がるぼうぼうの木と原っぱ、そして遠くにときどき見える謎めいた工場のことです。
世の中には人間の種類を二分する様々な基準が存在しています。ある特徴を有しているかいないかでまるで違った人間になってしまうことがよくあります。ここでの特徴とは、身体的な特徴ではなく精神的なものです。
私は、工場で働いたことがあるか・ないかという基準をここに提唱したいと思います。
今、私の周りにいる人のほとんどは、工場で働いたことがないと言います。
比較的都会の比較的裕福な家庭に生まれ育ち、比較的高い教育を受けて育てられた人々にとって、工場で働くことは彼らの考えるところの「仕事」ではありません。そうした人々は人当たりが良く、思いやりがあり、社会と適切に繋がっています。自分たちの世界の外にいる人間に対しても、分け隔てなく平等に接することを心がけています。そうあるべきだと教えられてきたし、様々な経験を経てそうあるべきだと実感しているからです。
かつての私がたとえば工場の話をしたら、彼らはきっと興味を持って聞いてくれるでしょう。
しかしその姿勢は、彼らが自分たちの世界の中にいる人間から何か話を聞く場面でのそれと同じではないことを私は知っています。それは動物園にいる珍しい動物や、自分たちの生活を豊かにしてくれる新しいコンピュータを眺めるような感じによく似ています。そして、彼らと会話をしているとき、彼らはきっとそれまでの人生の中で常に自らを個別の人間であると認識し続けており、その唯一性を失って自分が大量生産品の一つにすぎないような感覚を覚えたことがないのだろうなぁという思いを抱くことになるでしょう。これらを敏感に捉えることができたとき、あなたは境界の外の私たちの側にいます。
ときどき、自分がはじめから比較的都会の比較的裕福な家庭に生まれ育ち、比較的高い教育を受けて育てられた人間であると錯覚することがあります。そういうときには都会を飛び出して、名前の知らない駅が長い間隔で並ぶ路線を走る列車に乗って、自分が本当はどういう人間であるのかを思い出すのでした。
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私がお弁当工場で働いたのは、一人暮らしを始めてから三年後の夏のごく短い期間でした。
その工場は最初に住んだこの国で一番大きな都市の隣の隣の街に位置していて、私もその街で暮らしていました。
なぜお弁当工場で働くことになったのかはあまりよく覚えていません。単にまとまった金を必要としていて、ほとんど喋ることのできない人間がこなせる数少ない仕事だったからなのだと思います。そこのお弁当に思い入れがあったわけでもありません。当時まで、私はスーパーやコンビニで売られているお弁当を食べたことがありませんでした。信じがたいかもしれませんが、それは私にとっては些か高価な代物だったのです。
早朝の駅のロータリーはいつも湿ったような匂いがしていました。集合場所では、私と同じように着古した服を身に纏った何人かの人が憂鬱そうに佇んでいました。少し待っていると白いワゴンがのろのろとやって来て私たちを詰め込みます。汚れた窓ガラスを通して見える景色はどんどん野性味を帯びてきて、古い車のシートと染み付いた煙草の匂いで私が吐きそうになっている頃にようやく目的地に到着するのでした。
工場で着る服を見たとき、私は少し前に新聞の見出しを飾っていた、炉心溶融後の原子力発電所へ調査に赴く人々が身に着けていた白い防護服のことを思い出しました。それを身につけて、消毒液が出てくるシャワーを二回浴びて集合すると、私たちは既に自分たちが工場で働く区別のない複数の人々になっていることに気がつきます。
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私はお弁当工場の他に靴工場をはじめとする他の工場でも働いたことがありますが、お弁当工場ほど混沌とした場所はありませんでした。
お弁当工場内にはお惣菜部門、炊き込みご飯部門、下ごしらえ部門、パッケージング部門などが存在していましたが、作業の途中でしょっちゅう行方不明者が出るためかどこも常に人が足りておらず、一日に色々なセクションを行ったり来たりしたものでした。
工場内の空気は蒸し暑く、床はいつも汚らしい液体で濡れていて、防護服の隙間からは腐った食べ物と腐っていない食べ物が混ざり合った暴力的な匂いが入り込みました。出来上がったお弁当を載せたベルトコンベアはしょっちゅう不具合を起こし、私たちが作って詰めた食材が床にばらばらに散らばりました。私たちはその光景を無感動に眺めました。
代替可能な人間としての自分に耐えきれなくなった人が、差別化を図ろうとして歌を歌い出したり、踊ったり、炊き込みご飯をつまみ食いし始めました。
こんなにめちゃくちゃな工場なのに、それでも不思議なことにお弁当は毎日きちんと出荷されていくのでした。
防護服を脱ぐと、いつものように髪がぺったりと張り付き、体は汗でべたべたしているのがわかりました。工場の入り口を出た目前には晩夏の夕暮れが広がっていて、火照った頬を風が撫でていきます。
その日は駅まで歩きました。誰もいない帰り道で、音のない口笛を吹いて、小さく踊りながら。駅のホームのベンチに座って、私たちが作ってきたお弁当を初めて食べました。炊き込みご飯は冷えていて、もし炊きたてだったらどんな感じなのだろうと思いました。
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お弁当工場のことを思い出したのは、この間恋人と動物園に行った帰りに立ち寄ったコンビニで私たちが作っていたお弁当を見かけたからです。
今でも値段に少し抵抗はありますが、これを買うと生活が立ちゆかなくなるということはなくなりました。私は自分と恋人用にお茶を躊躇なく買いました。あの頃は水道水を水筒に詰めていて、時間がたつと金臭い味になるのが嫌だったことを思い出しました。
お手洗いから出てきた恋人が私を探しているのが見えます。今日もポケットにきちんと洗濯されたハンカチを入れていて、夏でも清潔な襟付きのシャツを着ています。
恋人も無理に聞き出そうとはしないでいてくれます。きっと、私が何か昔のことを話そうとしたら、必ず耳を傾けてくれるだろうという気がしました。でも、そのとき彼に動物園の動物を見るような優しい目で見られたら、きっと立ち直れないだろうとも思いました。
恋人は、彼自身の過去について後ろめたいことは何もないように私には見えます。でも私は、彼が都会の列車の窓から見えたあの人々とは少し違っていてほしいと思っています。今までもこれからも、何かに傷ついて悲しい思いをすることがなければいいと心から願っているのに、その一方で人には言えない小さな染みを密かに抱えていることを求めているのでした。