はてなキーワード: 感情表現とは
ここ数年怒らないのをモットーとしている。
怒った所で自分も相手も疲れるだけで良い部分はひとつもないから。
逆切れしたくなる所を先手を打って謝り、怒らせた私が悪いと詫びるようにした。
(怒ると叱るは区別したうえで)
そうした自制を続けていると、他人に対してイライラする事がなくなった。
心に余裕ができたつもりでいたけど、やっぱり何かつっかかる。
イライラが減ったとはいえ、同じ相手に些細なことで何度も怒られるとさすがに腹が立ってくるわけで、
「なんでこの人こんなに怒るんだろう、しんどくねえのかなあ」くらいには思うわけだ。
で最近ようやく気付いた。
人に対する感度や要求が減ったんじゃないかと思い始めた。
自分が怒らないでいるデメリットとして、人間的な感性の一部を欠落させているのではないかって。
もともと感情表現が下手なのも相まって色々失っている気がする。
本当の意味で心を楽にしたい。
韓国のフェリー沈没事故の報道を見て思うのは、遺族の感情表現がとても激しいこと。
衆目憚らず猛烈に泣き叫び暴れる。先日のマレーシア航空墜落事故での、中国人遺族も同様。
その昔、大韓航空爆破事故の報道映像でも似たように嘆き悲しんでいた遺族を記憶している。
「泣き女」という文化が中国、朝鮮には存在する。葬式の場で大いに泣いて悲しい雰囲気を演出する、歴とした職業らしい。
翻って日本人が、特にマスコミの前などで、そのように感情を爆発させることは少ない。
感情を赤裸々に発露させようとしても、恥が歯止めをかけるのか。
他のアジアの国だと、前観た映像で、台風に被災したフィリピン人遺族は粛々と泣いていた。
欧州について。
フランス人は議論するとすぐ白熱して、天下の往来でも大きな声と身振りで言葉を交わす。
色々例を挙げて何を伝えたいのかというと、感情を抑える、爆発させないことは島国に特有の気質なのではないかということ。
島国と大陸は二元論的に語られるトピックだと常々思っていて、たとえば外山滋比古は言語における差異を「アイランド・フォーム」と「コンチネンタル・フォーム」と区別している。
協調性がなくモテない自分が、仕事や恋愛における多くの失敗を重ねて得た教訓を並べました。
iPhoneのメモに残して、毎日振り返っていこうと思います。誰かのためにもなれば幸いです。
それは確かにその通りなんだけど、自然な歌い方を会得したボカロ曲の価値というのは、『合成音声技術が「普通」の歌唱とタメ張れるようになった』という事実にあると思う。
「フォトリアリズム」あるいは「スーパーリアリズム」というジャンルの美術をご存知だろうか。まずはこの画像検索結果を見て欲しい。(※裸婦の写真もあるので閲覧注意)
風景や人物などの写真が何枚か目に入ると思うけど、信じられないかもしれないがこれみんな油彩や水彩などで描かれている。
どう見ても実写にしか見えないような超絶テクニックばかりなんだけど、あまりに良く出来過ぎていて、ディスプレイ越しに閲覧してもただの写真にしか見えないから、頭では凄いと思っても実感沸かないんじゃないかと思う。(余談だけど、興味を持った人は是非美術館に足を運んで生で観てほしい。当然だけど、生だと印象が全然違う)
これらの作品をサムネイル画像で観ても「ただの写真」にしか見えないのと同じで、良く出来たボカロ曲を単体で聴いても「下手でもないが上手くもない普通の歌」にしか聞こえないが、これが全部合成音声技術で作られたんだというコンテキストと一緒に消費することで、味わいが生まれるんじゃないかと思う。
おそらく、合成音声技術がより進化して、より細かい感情表現やニュアンスが表現出来るようになったら、現状の「普通」のレベルから飛躍するはずなので、そしたら世間の評価もまた変わってくるのでは。
そういえば最近コレ http://feedinsight.net/archives/1635 ホッテントリ入りしてたな。
それをちょっと頭が回るからといって、妙な言い回しと見栄で論理で表現している人や場面が少なくない。
なぜなら、論理が解決できるのは論理だけであり、感情は解決できないものだから。
そして感情を前提にしないという暗黙のルールの元で、論理的なやり取りというものが成立する。
生死をかけた人は、ボクシングのリングで手だけで戦うだろうか?
論理は感情面から見れば、「論理がなんぼのもんじゃい」で終わる、大変もろい砂上の楼閣、はかない遊びなのである。
大の大人が一生懸命すがってやっているから、かっこよく見える。
セミフォーマルのドレスなんて初めて着たから、成人式後の同窓会の席でビールをかけられた時、わたしが最初に考えたのは「クリーニング、どうしよう」だった。
「この人殺し! 阿婆擦れ! お前のせいで、洋子ちゃんは死んだんだ!」
振り返ると、グラスを手にした女の人が泣きながら叫んでいた。はじめは頭の中が真っ白で、それが木下先生だと気づくまで少し時間がかかった。そしてようやく、わたしは二次会のカラオケで歌う曲だとか、久しぶりに会う男子と何を話そうかとか、そんな心配が必要なくなったことを知った。そうか、これが修羅場か。
事態をどこか他人事のように認識しながらも、友人に気遣われるうちに少しずつ感情が高まり、やがて表面張力は限界に到達して、結局すこし泣いた。
木下先生には中学時代、2年と3年の時に家庭科を教えて貰ったから、まったく知らない間柄というわけではなかった。だけど特別それ以上の関わりがあったわけじゃないから、中学卒業から間もないあの夜まで、先生と洋子姉が同級生で親友だったとは知らなかった。そう言えば4年前のあの夜も、先生は大きな声を出して泣いていた。感情表現が豊かな人なのだろう。
洋子姉はわたしの従姉で、15歳も年が離れているけど、親戚同士の集まりでたまに会う時は優しくしてくれたから、そこそこ親しみを覚えていた。一度だけ、スキー旅行か何かのお土産を貰ったこともある。隣町のナントカ病院に勤めてる、みたいな話を聞いたことがあったけど、お医者さんだとは聞いてないから、いわゆる医療従事者というやつなんだろう。具体的に何なのか、詳しく聞いたわけじゃないからよくわからないのだけれども。
あの日、通夜振る舞いの席で親戚のおじさん、おばさんたちが話していた洋子姉の死因は「もとから心臓が悪く、薬を飲んでいたけれど、突然発作があり、薬を過剰に摂取してしまったことが原因」というものだった。医療機関に勤めている人でもそういうことがあるんだな、と不思議に思ったけれども、余計なことをあれこれ詮索して良い雰囲気でもなかったから、特に尋ねることはしなかった。
さて、修羅場となった同窓会は結局、途中流会となった。騒ぎが収まり、わたしと木下先生がそれぞれ別室に移動したあと、一旦は再開しかけたのだけど、なんとなく白けてしまい、用意していたビンゴやビデオ上映は実施されずに終わったらしい。
翌日幹事の佐藤君から聞いて、わたしは皆に悪いことをしたと思って謝った。だけど佐藤君が言うには、わたしは被害者なのだし、結局二次会のカラオケでビンゴもビデオもしっかりやったし、皆はわたしに同情してくれていたから、謝る必要なんか全然ないとのこと。
それを聞いて「なんだ、じゃあ一切気にしないことにする」と冗談めかして言ってみたら、小突かれながら「今度リベンジとしてミニ同窓会を企画するから、三田も絶対来い」と強引に約束させられた。うん、佐藤君は良い人だ。全然好みじゃないけど。
同窓会翌日の席には、わたし、わたしの両親、佐藤君の他に、中学3年当時の担任だった小林先生と、木下先生のご両親がいた。木下先生のご両親がわたしに謝りたいということで設けられ、実際「娘が申し訳ないことをした」と頭を下げられたけど、理由を聞くと口ごもる。知らないという感じじゃなくて、話しにくいという雰囲気で、空気を察した小林先生が佐藤君を連れて席を外してくれた。
「娘は、親友だった洋子さんが亡くなった原因が、三田さんにあると思い込んでいるようです」
この言葉だけがわたしに突き刺さった。いえ、私どもは娘の勝手な思い込みだと思ってるんですけども、などとフォローなのか言い訳なのかわからないセリフがごちゃごちゃくっついていたけれど、そんなのは心底どうでも良かった。
洋子姉の三回忌の後、木下先生は形見分けとして手帳を貰った。そこには洋子姉の恋人がわたしに興味を示し、心変わりしただとか、自分と別れろと言われただとか、希美ちゃんを仲介しろと言ってきただとか書いてあり、最後に「希美のせいで死ぬ」「希美が憎い」といったことが書いてあったらしい。
木下先生はそれを読んで以来ずっと、わたしさえいなければ洋子姉は死ななかったのだという思いと、わたしには罪は無いという思いの板挟みになっていた。そして同窓会の席でわたしを見た瞬間、感情が爆発してしまった。ご両親にはそう説明したそうだ。
自殺かもしれない、とは思ったこともある。
だけどこんな理由だったとは思いもよらなかった。
両親からは、すぐに洋子姉の両親夫婦に連絡をとって貰い、確認してもらった。叔父夫婦も手帳の存在を認め、遺書の内容も手帳と似たようなものだと語ったそうだ。事情が事情だけに説明するわけにもいかず、だけど本当の理由を誰かに知って欲しくて手帳を渡したのだという。
本当の理由。
本当の。
つまり、叔父夫婦と木下先生の中では、わたしは本当は「洋子姉の恋人をたぶらかし、洋子姉を死に至らしめた張本人」ということだ。
知らない。そんなの知らない。
わたしじゃない。わたしのせいじゃない。
だいたい、洋子姉の恋人なんて会ったこともない。顔も名前もどんな人かも知らないし、年の頃が同じならば、今30歳前後。洋子姉が亡くなった当時も、25歳を過ぎたかそのくらいのはずだ。
わたしはその時、中学生。
なのにみんな、どうかしている。
怖い。
気持ち悪い。気持ちが悪い。
この町には、もういられない。
nix in desertis:「ロボットは東大に入れるか」発表会(11/23)レポート
http://blog.livedoor.jp/dg_law/archives/52165212.html
・解法は,やはり社会科とほぼ同じ。もちろん,教科書ではなくて評論や小説の「本文」と,選択肢に登場する単語の一致数で正誤判定を行った。小説は感情表現(喜怒哀楽)の文字に,重点をつける操作を追加で施した。
・そんないい加減なやり方では無理だろうと思っていたが,何年度か模試と本試を解いてみたところ,平均的な得点はなんと5割をマーク。最高点は70点弱。それでいいのかセンター試験。一致する文字数をカウントして,一番多かった選択肢を正しいとみなしているだけなんだぞ(会場爆笑)。ただ,英語同様に点数のブレが非常に激しく,今回解いた代ゼミ模試は42点(100点満点)と伸び悩んだ。安定性が必要。
入試現代文、特にセンター試験のようなマーク式・選択式の場合「本文と同じ内容が書いてある選択肢を見つけ出す」というのが基本であり全てだと思う。
本文中に書いていないことを記述してある選択肢は間違い。何故なら本文中に書かれていないことはどう頑張ったところで正解にしようがないから。(即ち自分で勝手に本文の意味を解釈するのは御法度)
出題側はそれらしく解釈できるけれども本文に書いていない内容の選択肢であったり、本文の論理構成から少し外れた言い換えを用いた選択肢などを紛れさせて解答者を試すのだ。
逆に解答者目線で「どうしてこれが正解(誤り)なのか分からない」という場合、自分で勝手に解釈した結果文意を思い込みで作り上げてしまっていたり、本文の論理構成を正しく理解できていないために言い換えであったり各種主従関係を正しく解釈できていないということが原因ではないかと思われる。
そう考えれば「単語の一致率による判定」という手法はあながちデタラメなものではなく、むしろ正攻法に近いと思うのだがどうだろう。
長年喪女だったので、最近できた彼氏との関係を築く上でのちょっとしたことが、結構ずーんとくる。
彼氏を少し怒らせてしまったとき、むきだしの感情をそのままぶつけられたのがかなり堪えた。
いつも物静かで、どちらかというと無表情な人だったので、すごく怖かった。
感情が読めないのが、ちょっと困る。なにを考えてるかわからないのだ。
感情表現豊かでない男性に対してどう接すればいいのかわからないorz
かといって、無理に明るい雰囲気に持って行こうとすると、すごく疲れる。
ユーモアがないわけではないし、笑うし、すごく好きなんだけども、
とにかく無表情なときが多くて、一緒にいて自分はこの人を楽しませてあげられているのか、すごく不安になる。全然自信がない。
申し訳なさすら感じる。
そちらの事情は考えて、最初に間違いだ、と指摘された所はこちらは素直に訂正し謝罪したつもりですが?
正直それが目的っぽいよね
こっちはこっちで筋通してんだからさ
いや、あなたが人を馬鹿にしてるだけで逃げるから、話にならないから、まずそこを筋通してくれないと話にならないんですが?
ということなんですけども?
あなたはその様に話をどんどん違う方向へ曲げて逃げて行こうとするじゃないですか?
少なくとも、ここを素直に訂正しない限り、貴方の言動は正しいものとして扱う事は出来ないのは当然のことじゃないですか?
ただ、「掲載されて『は』いる」としか。
いや、そうじゃなくて、あなた、掲載されてるの知ってたわけ?知らなかったわけ?
こっちは、そういうの載ってるみたいだけど、って言ったら、そんのあるわけがない、って馬鹿にしたじゃん?
それは何だったわけ?
あなたがもし、非公式で知らないものだった、というのなら、そういものもあるのですね、で終わった話。
教会でもその様な隅までは読まないので知らなかったので、で終わる話。
だけど、あなたはそんなの知ってたけど公式じゃないから、と話を変えた。最初に人を、載ってるとか言ってる、と馬鹿にしたのに。
その辺りの話をしてるのですが。それでも間違いを認めませんか?
だから、間違えたらそれを悔い改めて行くのでは?
何度も言いましたが、こちらは謝罪し、訂正してます。
そちらは?そちらは間違いを訂正しないまま、そのまま逃げるのですか?
キリスト教ではそれは愚かな行動にはならないんですか?
女に石を投げた件でも、最後にキリストが女に悔い改めるのであれば罪は問わない、と言う話じゃないんですか?
それとも、罪なんて無いから、さっさと逃げろ、という話だったんでしょうか?
聖人なんてレベルの話じゃないでしょ?間違ったら訂正しなさい、人を馬鹿にしたりしては行けません、
誤って人を馬鹿にしたりしたらそれは謝りなさい。
私には感情がない(暗黒微笑)
とまではいわないんだけれど、あんまり、感情を外に表現することはいいことではないと思っている。
大事なことって、(その時点において)なにが正解で、なにが不正解かを判断することとか、優先順位をきちんと決めることとか、ちゃんと合理性を求めることとか、損をしないことを考えることだと思っていて、感情表現なんてかなり無駄なことだと思ってしまう。
だから、物事とか人物の客観的な分析みたいなことはできるんだけど、心の伴った評価というか、褒めたり応援したりの微妙な、感情を使ったりはたらきかけたりすることが非常に苦手。
ニコニコ動画で「wwwww」とかのコメントをみても、意味不明というか、あれの有用性とか効果みたいなものは事実として理解できるんだけど、心から面白くて、ニヤニヤしたり笑ったりした結果として、ああいうコメントが出てくるのがいまいちよくわからない。
http://anond.hatelabo.jp/20130705215923 の続き。
dj19 2013/07/08 06:32 「慰安婦利権 ,慰安婦発言、慰安婦証言、慰安婦募集、元慰安婦、公募慰安婦、いわゆる従軍慰安婦、朝鮮人慰安婦、巡回慰安婦、戦地売春婦、追軍売春婦、韓国人売春婦、朝鮮人娼婦、売春婦輸出、売春大国 , 売春婦デモ、キーセンデモ、性接待、特定弱者、弱者の脅迫、弱者根性」(すべてbarnumkouka氏作成による)←こういう差別的なものを含むキーワードの乱立に私は不快なものを感じます。これまでも他のユーザーから度々苦情を言われているにも関わらず「乱立は必要」だとしてこうした行為を続けるなら、はてなの方に連絡したいと思います。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%D6%B0%C2%C9%D8%C0%A9%C5%D9?kid=408753&mode=edit
id:barnumkoukaのはてなキーワードにおける民族差別行為は、慰安婦関連だけではありません。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%B3%A5%EA%A5%A2%A5%F3
id:barnumkoukaが2013/05/02 22:32:48に作成(http://d.hatena.ne.jp/keywordlog?klid=1459503)したこのキーワードは、実際には韓国人を侮蔑するために使われているキーワードです。
体罰の後に怒りのあまり公開オナニーを行ったとされる韓国の高校教師を示す言葉であり、
また、それ以外でも公共の場で自慰行為をして逮捕された韓国人性犯罪者の事を指す場合にも使われる。
類義語としては「鮮ズリ」 「激おこシコシコ丸」等
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3
その他、まとめサイトなどで使われていますが、ニコニコ大百科の説明が正しいと思われます。
id:barnumkoukaがこの言葉のはてなキーワードを作成したのも、その内容はぼかしていますが、韓国人へのヘイトがあってのことなのは確かでしょう。
キチガイのような声張り上げてるDQNらが昨日街中でたむろしていた。畢竟するにリア充はなぜ奇声をあげるのか不思議に思う人は多いだろう。
奇声というのはノンバーバルコミュなんだよ。奇声のような一見意味のない感情表現するするとキモチ悪がられるという構図。
コミュ力ある人ほどジェスチャーを多く用いるという研究成果もある。人間は表現できないキモチを抱えるとストレスになるから、
積極的に感情表現をせねばならない。社畜労働者はイエスマンになっている場合ではない。斎藤孝のガツンと一発シリーズじゃないが、
ガツンと一発言ってやろうぜ。ガッツだぜDo the ド根性という名言もあることですし。
しかし言葉だけでは表現しきれないものもあるだろう。当人の語彙力の問題、表現力の問題だけでなく、言葉そのものに表現力の限界もある。
感情という訳のわからないものを表現するのには言葉よりノンバーバル。身振りやしぐさが豊かな人はストレスが少ない。お前は身振りなどで
ストレスを発散してますか?ちなみに言葉も口調や抑揚や文体などでノンバーバルに表現することもできる。空腹時に「私は腹が減った」と
辞書的・教科書的に発話するのではなく、「ハラヘリヘリハラ」と言うことで心の中にくすぶっていた気持ちを的確に表現できたならば、
心的緊張の緩和も図れるというものだ。実際のところ、規範や文法を気にしすぎると表現がおろそかになるという方程式がある。
相手の機嫌をそこねないように言おう、相手に変な奴と思われたくない、正しい日本語を心がけねば、などと気にするのは良いことではあるが、
行き過ぎると自己表現が不足してストレスが蓄積していってしまう。現代日本人が抱えるストレスの99.6%はこれである。
例えば、「畢竟するに」と冒頭に書いたが意味はない。吉野家コピペよろしくつゆだくと言いたいだけとちゃうんか、と。
でも言いたい気持ちを押し込めるのは精神衛生上好ましくない。なぜツイッターが流行したかというとリアルで言えない言葉を気軽に言えるから。
人にもよるがそういう一面もあるのではないか。ツイッターの次にくるサービスは何か?我々はそれを考えねばならない。
スポーツオノマトペと言って長島監督の「腰をガッと入れてパーンと叩けばスコーンと飛んでいくから」のような指導もじつは効果的だと再評価されて久しい。
またバクマンの新妻エイジも擬態語いいながら漫画をノリノリに描いてたろう。爆音流しながら。我々は奇声を再評価すべき岐路に立たされている。
組織である以上クズはいるしおそらくお前が留学でもすれば偏屈なんて外人のほうが(感情表現が自由な分)多い
それに教育機関なら教育をきちんとできる人間じゃなきゃだめ、ってそれ、日本でも他の国でも高校までの話だろ。
大学は「教育の専門家で基礎科目を教えられる人間から勉強方法を学ぶ場」じゃなく、「その道の専門家」から学び盗む場だろ。
日本の組織全般ゴミって話もあるが、そこを変えられないなら(実際問題准教授以下全員リストラとか、ポルポトが君臨しない限り無理に決まってんだろ)、
外国の良いところを取り入れるにしてもいきなり全ては変えられないし、「全部変えられないからもうダメ。無理。諦めろ」じゃなくて導入できるとこから変えていくべきだろ
ストーカーや強姦目的で女性を拉致、監禁する犯罪者の心理に『自分は愛されたい、尊敬されたい』あるいは、『既に(被害者に)愛されている、尊敬されている』と思い込みが作用しており、裁判がはじまって客観的な議論がなされる場において初めてそれが勘違いだったと自覚するケースがあります
戦慄した。
自分は対人恐怖症で今ほとんど引きこもって生活をしている。今年で5年目。
自分の属している社会構造は自分も含めて実家にいる父と妹以外にいない。ちなみに母は自分が引きこもる前に亡くなった。この話や引きこもった理由については特に関係がないが存在が不明瞭だと説明の必要があるので一応記述しておく。
また、家族以外で会話のできる人間は、2週間に一度仕事で私を診ている精神科の医師のみ。
そして家族からも見放されていて最近3年程まともに会話をしていない。意思疎通の手段は置手紙を用いている。互いにある嫌悪感で眼も合わせたくない。
しかし人が怖くて感情表現が苦手な自分の様な人間こそ実は人に愛されたいと思っていたりするもので、いつか自分がこの反動によって同じ様な犯罪を犯してしまうのではないかと困惑している。
もちろんそんな感情や思い込み、客観的な自己観察能力は人によって違うので、自分みたいな引きこもり全てに対して偏見や差別を持っている訳ではない。あくまでも自分に対して懸念しているだけ。
他人の人権を侵害してしまうのではないかという恐怖、犯罪者になってしまい自由を剥奪されてしまうのではないかという恐怖、誰かに今以上に迫害されるのではないかという恐怖。
結論はない。それだけ。
最初にお断りしておきますが、これは冗長な私の物語で、あまり面白くないと思います。
数年前、大学の友達から結婚式に招かれ偶然に、在学当事お付き合いしていた男性と再会しました。
私たちは大学の同期生で、お互い異性での恋人関係は初めてでした。二十歳から付き合い始め、二十代の行動範囲はそのほとんどを二人で過ごしました。長く同棲もしており三十代に差し掛かる折、私から別れを切り出し関係を終わらせました。式での再開はそれ以来です。
彼はとてもイケメンでした。収納を気にすることなく服を購入したりするところもありました。再会した彼はさらにイケてる雰囲気が感じられるようになっていました。付き合っている当事から女性にモテる感じでしたが、結婚しているといわれても私は全く驚かないでしょう。経済的に余裕があるからか、自分だけのセンスではなくコーディネートされているような雰囲気もありました。
私には、その時点で結婚を約束した恋人がいました。そこで思ったのです。再会した彼の趣味を知っているし、一番ながく背中を見ていたのは私なわけで、声くらいかけてくるんじゃないか、と。もしも彼が結婚していたとしても、その子は”私の知っている彼氏”と結婚しているのかもしれない。仕事を大成功させ、当時のような気苦労はないかもしれない。しかし私の別れた理由は金銭的な貧困ではなかったのです。「結婚していても昔の異性に交際を目的とした接触を図ろうとしてくる」ような「私の知っている」その人かもしれません。
サークルで少し付き合いのあった友人から、二次会のスタートが少し遅れるので近くのカフェで少し待っていてほしいと指示を受けました。すると偶然にもむかいにそのかつて付き合っていたそのイケメンの彼が席に着いたのです。
「ああ、こういうことか。スタートが遅れると告知した子は披露宴の席でカップルができるとかそういう話の類が好きな子だっけ。」などと過去の記憶と自身の境遇と、「声をかけてくるかもね」の予想が的中した事に哀愁を感じました。
彼は「いま、付き合っている人いるの?」と聞いてくる。まず久しぶりとか変わったねとかじゃないんだ。男女は動物みたいな感覚なんだ。動物として見た上で、久しぶりとか変わったねといった、目的への分岐がでてくるんだ。
「いるよ」と冷ややかに答えて見ると「今日、久しぶりに見たら綺麗になっていて驚いたよ。付き合ってた頃と別人みたいじゃん。こんな○○ちゃんだったら、俺もう1回付き合ってもいいなと思っちゃって。」
挨拶が先でしょうよと失笑してしまい、一言だけ穏便な言葉を出して見た。
「やめたほうがいいよ」
お酒と幸福な雰囲気で気分が高揚していたのだと思いますが、彼は「大丈夫、今の彼氏とわかれて僕と付き合う資格がいまのキミなら十分にあるよ」とかとんでもないことを言い出してきたので、わかっていることをわざわざ話す方法で説教してやろうと思いました。
顔がみるみる青ざめていく様子を見てあら以外、自覚あったんだと思いました。
「どういうこと」
反省ではなく、あげてくるであろう具体例に対して防護措置をとる様子です。知らなかった、解釈がちがうでしょ、など「どう」ゆうことなの、という回避策で質問をしてきました。
反省はないようです。「あのとき借りたCDのことなら」とか「たしかに食器は洗わなかったけど」とか、反省すべき点について自覚がありそれを現在は改善しているということには、なっていないようです。
「あなたは私に何をしたのか、覚えていないの?」
疑問に疑問で返してあげました。最後のチャンスです。もう苦笑も出てきません。
「俺、何した?」
疑問で三回も会話ができるとは大人になって、女性としてこんなに惨めな思いにさせられたことはありませんでした。いじわるをされて、じつはうれしいんだろといわれて、いやがる姿がかわいいとか、実際「キミとの関係で自分だけしかしらない事がほしかった」ということが「男の子の感情表現だったんだ」などと言い訳されているような気分でした。
「聞きたいの?忘れているならそのほうがいいんじゃないの?」
もう性差とか性格差でいいんじゃない?、わざわざ気分だけ悪くしてもしょうがないじゃない?と思いました。
わらってない異性の顔をみて、男性だったら何をすべきかくらい、別れてからの時間でなにか経験しているだろうと期待して最後にチャンスをあげました。
ここでもし「ごめん。昔の俺は悪かった」とでも言ってくれたら、「ありがとう、ごちそうさま」と伝票をおいて「もし私たちがそれぞれだれかと結婚しても、友達でいられるといいわね」と言い残せたかも知れません。
「聞きたい」
とか言ってきました。わたしは心の中で「さようなら」とつぶやいて、それを口から言葉で「長くなるよ」と言いかえて意地悪をいう事にしました。
あなたが私にしたのは、「あんたには性的な価値がない」と徹底的に叩き込むこと。自分みたいな度量のある寛容な男がいたから恋愛をできているけど、本当は市場価値なんかない、むしろマイナスだということ。
付き合っている間中、あなたにブスといわれデブといわれ、友達の彼女と比べられて、「俺にも男のプライドがあるから」っていう理由で友達がカップルで集まる場に連れて行くのを拒否されて、あなたの友達が私のいる前で「(こんなブスと付き合えるなんて)お前凄いわ」ってあなたに言っても、あなたはひとつも怒らず「まあいいとこもあるんだよ、家事出来るし」って言ってへらへらして、友達が帰ったらその日はずっと私に冷たく当たったよね。
二人で働いてたのに家事は全部私がやってたし、ご飯も、あなたは放っておくと牛丼とコンビニばかりで、そのくせそれだとすぐに具合を悪くするから、食費はほとんど私が出していた。あなたは服や本やレコードを大量に買ってくるけど収納は絶対に買わなかった。収納も私が買った。
とにかくくたくただった。仕事がないときは家事、家事が終わって茶の間に戻ると、あなたが自分の好きな音楽や映画をかけていて、全然楽しくなかった。くたくたに疲れてるときに、プログレだのレディオヘッドだのフランス映画だの。私がたまに好きな音楽をかけると黙ってボリュームを下げたでしょう。私はボリュームなんていじってなかった。あなたと同じ音量のままだった。
お金も時間もなくて、元気もなくて、いつもけなされて、綺麗になんかなれる筈がないと思う。
実際は徹底的でもなく、「女性は肉体的社会的にも弱く男に庇護されているんだ」とか自慢げに話していたとか、カップル同士での雰囲気はうちの愚妻がみたいなノリだったとか、二人でいるだけの時間が手持ち無沙汰になるので私はいつもなにか料理をしていたとか、自分の服が多いのは女の子なのだからしょうがないということでクローゼット占領していて、収納を買ってあげたのよみたいにすり替えたり、ラジカセいじってばかりだったけどなにが良いのかわからなかったので「私もそれ、つかってたんだけど」とかいってみました。時間を共有していた人間から過去をかいつまんで指摘され、それが不快だったのといわれると、自身の過去を否定され本人は少なからず自責の念または自己否定につながるということに、成功したようでした。
いまになれば男子のいじわる程度わかる私です。ですが鼻につくチャラさに対して、とび蹴りをする勢いがレディとしてはなかったのでここ数年の恋愛で養ったストレス解消法を試してみたのです。
何をフォローしても取り返しがつかない「時間」という自己への嫌悪感で混乱はしている様子ではあるものの、まだ息がある様子でした。
「うん、付き合ってたときは、俺が悪かったと思う。でも俺も変わったし…」
彼の死にかけの自己愛が伸ばした手を、ついでなので踏みつけました。
「あなたと付き合うことは、二度とないよ」
本当は「あたしも、変わったんだ」と言おうと思いましたがあんまりチャラいので、私は過去からかわっていない、あなたを否定しつづけるだけという生理的に嫌悪感を抱く返答になってしまいました。
「あのさ」
これ以上煽ったら、この人なぐってくる。殴らないにしてもここで奇声をあげられても困る、そろそろストレス解消タイムも終わりかなと思って締めにすることにしました。
「私、もうあなたの不機嫌は怖くないよ。あなたのこと好きじゃないから。」
「付き合ってた頃は不機嫌になられるのが嫌で、何でも言うことを聞いていたけど、もう違うから。」
笑顔で「好き」という単語の音をきかせればその後につづく「じゃない」があったとしても安心するのだろうとは思ってはいました。
若干身の危険を感じて「あなたが好きだったから、嫌われないように我慢した」という言い訳がちゃんと伝わったか二文にわけて、すこし緊張して同じことを二回言ってしまいました。
ダメだったけど好きだったという許容はあるし、いまは「変わった」好きとか嫌いとかいう情動で軽率な行動で出る前に「なにが変化したか」を冷静に判断できるよね、という意思は、伝わったようでした。
「今の彼氏は、いい男なの?」
「うん」
安堵でつい顔がほころんでしまいましたが、彼についてのろけを聞き出されはじめるとまた感情を激化させかねないので、詳細については避ける流れにしたいと思いました。
これで、私の彼氏の紹介はおわり。そして目的である「誘ってきたら説教する」もここで終わりにすることにしました。
「ごめんなさい、最初にあなたが「もう1回付き合わないか」って言った時、「私、結婚するから」って言えば済む話だったのに。何だか自分でもコントロールが利かなくて、長々と酷いことを言って。」
「付き合っても、いいかなーってwwww」というノリが真剣に交際について考える余地を必要とする態度でないことくらいは彼も私もわかっていることなのですがあえて、困惑した状態で判断もできないでしょうから話の流れについて「あなたからはじめたのよ」という責任を明確にする形でおさらいをして終わりにお詫びをいうことにしました。
「あなたを蹴って虐めてストレス解消したけど、悪気があったわけじゃないので、女の子なのでゆるして」という表情で、再会のナンパ騒動はおわりかどうかを確認するために、彼の顔をみました。
「
本当に、本当にごめんなさい。酷い後出しで、今更こんなことを言って。
私、あなたが好きだったの。でも、一緒にいるときは卑屈になるばかりで、勝手に疲れて自爆しちゃった。
次に付き合う人には、うんと優しくしてあげてね
」
などと言ってくれるのではないか、と思っているかもしれません。そう思わせるのも淑女のたしなみです。
イケメンでチャラいだけの低収入なあなたについていって必死に恋愛ごっこをしていた私も悪かったわけだし、と冷静であれば思います。
彼がお手洗いに立った際、お会計を済ませてカフェを出ました。もう言う事はありません。自分が幸せになっていく姿をみてほしいとか、ともに別ではあるけれども幸せになっていこうとか、ぜんぜん思いませんでした。連絡先とかもってのほかです。結局二次会には参加できない結果にした、カフェに来させた友人は、私の結婚式には呼ばないでおこうと思いました。
実際、私がきれいになれたのは彼よりもずっと精神的、肉体的にひどいことをしてくれるご主人様がいたからです。
縄でつるされて豚だとブスだと罵られ身体的にも苦痛を与えられるのですが、そんなお前が好きだと調教してくださるおかげで、身だしなみも振る舞いも一流の女性であろうと心積もりができるのです。
私はブスで何の価値もない事くらい私はわかっています。それを認めてくださりその意味もないものにドレスを着せて化粧をさせてお気に入りに仕立て上げる異常な趣味をお持ちのご主人様が、私にとっても必要なのです。
ブスをブスだと言う事に意味はありません。畑の農作物が土に埋まっているのは自然ですがそのままでは雑草とかわりません。ブスを晴れ舞台に上げてくださるような、植物の根を食卓にあげてくださるような旦那様のプレイがいつまでも新婚夫婦のように情熱的であればと思うのです。
大学在学中から付き合って友人の結婚式で再会した過去の彼は、結婚されても奥様の買い物に同行もしないでしょうし買ってこいと命令される喜びも与えていないのでしょう。私の充実した姿をみた後で奥様を美人ではない、私ほど「痛みという智」を知らない、奥様のお話をほぼすべて聞き流して、結婚生活は概ね幸せ、自分以外の生き物はBGMのようであるとか暮らしているでしょう。
家事をしたり、奥様の行動を毎日褒め、奥様の趣味と同調するようになったり、感情を共有するようになっているかもしれません。
私の楽しみである旦那様におしおきしていただくプレイをされる側と同かもしれませんが、「みたされるのはそれが私自身であるからこそ」私はここにいて良いんだという痛みで心を満足して、相手にも満足をさせているかということが異なります。あのカフェでのお話の後、どんな形でだれかの真似をすればいいのか、時間を戻せばやりなおせるのかなど彼なりに葛藤したかもしれませんが「褒めるのも詰るのも、自分が見た様子や結果」見た目や形式にばかりとらわれている人からは変化がないのだろうなと思います。
「おまえは本当にデブでブスで気持ちわるいが、俺のそばにずっといてくれ」と言ってくれればいいのですが、「ブスでデブで気持ち悪いから、俺しかいないんで価値がない」との、本質的な違いにはきっと気づかないままなのだと思います。
人の見た目や形や行動や評価が「人の価値」と見ている、生まれた無垢な命や気持ちには評価がつかなければ価値がない、どんなにつまらない奥様と結婚されるかわからないけれども「何の価値もないただの女」と結婚するという「何物にもかえがたい価値」を「つまらない女との結婚生活」として「結婚できた俺しあわせ」とか思われるのでしょう。二度と逢わないので私にはわかりません。
今、彼氏に対しては深い深い感謝しかありません。私にだけ、私の芯に痛みを与えてくれる今のご主人様のおかげですべてを忘れることができることを見つけられたから。
下らない話ももう終わりにします。読んでいて私に腹の立った人もいるかもしれません。不愉快な思いをさせて申し訳ございません。読んでくださったすべてのご主人様に感謝します。
以下、チラ裏ですよー。
長いよー
去年見たアニメを纏めてみる。
年始周辺では前年末の物を見ていたりするので、それも含んでます。あくまで自分が見たものということで。
日常を改変する系統。近所のスーパーでって考えると楽しいねーっていう。
二つ名、各話タイトルなど、タイムセール一発ネタからの発想の展開がツボを抑えていて、「冗談をシリアスにやりきる」面白さ一本、この清々しさが視聴継続の意欲につながったように思います。
OP曲「LIVE for LIFE 〜狼たちの夜〜」が作品世界によく合っていて、なぜかとても好きでした。
正月休みが開けてから存在を認知して、1月にニコ動に課金してまで見てた。
視覚版声優ラジオ、ですよねー。たのしいねー。二期あるようで目出度い限りでございます。
3月にみました。
TV本編から心理的に大分たっているなーという状態になっていたようで、前半の学校のシーンはセルフパロディにみえるな、という結構他人事な突き放した感覚の中で見ていました。
とはいえ、ロンドンの話になる頃には、その辺も忘れて見られており、あずキャットさん関連のストーリーラインなども心温かく、総合的によろしかったのではないでしょうか。
序盤のオデット2世の掃除をするモブの場面で掴まれました。日常系とトピックとなる出来事のバランスが素晴らしかったと思います。
OP、EDがももクロで、それは作品的には合ってたんじゃないかと。特にED曲は好きでした。
・咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A
咲の時点でも大きなタイトルだったと思うのだけれど、阿知賀編によって咲はプラットフォームになったとおもう。
咲はいつもOP、ED曲がフィットしているのでコントロールが確りしていて非常に好きです。リスペクト。
・氷菓
原作既読での視聴。降って湧いたようなアニメ化、しかも京アニということで非常に喜んだものでした。
「京アニは自社の成長を、ひいてはアニメ表現の成長を考えている」。そう思う中に京アニブランドへの信頼感は強まり、またそのように思うからには私は京アニ信者なのであろう、まさにそのような自己認識に至ったものこそが私の人生においての昨一ヶ年なのでございました(何。
鍛え上げた萌えアニメの映像文法を、ラノベと一般小説の境界のような原作に適用することで、アニメ表現の可能性を押し広げる京アニ⊿。
男子二人の人物の掘り下げが素晴らしく、奉太郎・里志の屈託にも非常に共感できました。
私はストーリーなどの制作意図にはよく共感するのですが、アニメではあまりキャラクターに共感することがないので、これは珍しいことでした。
女性キャラでも、えるはともかく、摩耶花をきちんと描写できていたように思え、それはすごいっす。
(この辺のキャラクター群像って、普通さくら荘くらいの感じになっちゃうよねーといってみる)
それと、佐藤聡美さんに関しては、俺妹で魅力に開眼して、さあ!というタイミングでの千反田さんだったので、非常に期待しておりました。それが個人的あざと過ぎゾーンに踏み込んでおり、文化祭エピソードで軍門に下るまで時間がかかったというのも良い思い出です。えるたそ~(何。
営業観点なのかED1が萌えアニメ仕様だったのが不満でした(笑。
・SAO
原作既読での視聴。アクセル・ワールドが原作に忠実ながらも自分の望むところとは違う解釈だったので、こちらがまともに見れる脚本だったのは幸甚でした。
ストーリーや舞台・道具立て、ブレイクするまでの過程と、作品内外共に今日のエンターテイメントの流れとして象徴的な重要作品という認識。2012年はSAOのあった年、と記憶されるのでは的な。良過ぎない画質で安定しているのも好感。
キリトさん本気モードの表情の悪役張りの歪み方が、人間表現の指向性として優れていると思いました。
あと直葉ED曲Overfly超好き。
あとWEB小説上がりのラノベ作家は応援したい。まおゆうもいいけどログ・ホライズンの方アニメになんないかな。
一期は、OPやストーリーラインのカリカチュアっぽい感じがあわなくて、あまり見なかったのだけれど、キャラ掘り下げからタイトルの核心に進む二期は、見やすくて楽しかった。
EDもなぎさんで素敵だったのだけれど、とくにED2ラテラリティは非常に格好良くて素晴らしい。
氷菓の後にネタっぽいのやるのかよって思ってたら、ちゃんとしたドラマになったので、京アニ様すみませんでした。まあ終盤の感情表現の的確さといったら、すごい素晴らしいしか感想が出ない程のものでした。
あとOPの正統アニソンっぷりが凄いと思った。流れに心を込めるのはもちろんのこと、単語それぞれに感情が込められ、抑揚のうねりが独特のグルーブを醸す表現はZAQの名を高めたのでありました。
茨城出身なので。町おこし的な成功をよころばしく思っています。
戦車戦の「リアルらしさ」の表現が見事にアニメ化されていて、コール・オブ・デューティの臨場感がよみがえる思いでわくわくして見ていました。あと学園艦。あと西住殿~
アニメーションの出来として一段レベルが上(自分が見た範囲では)なので、ストーリーがどうとか以前に選ぶと入ってくる感じ。
・猫物語(黒)
ニコ動でみました。羽川翼は一言に均して「とても好きなキャラクターなんです」。
ああ…羽川さん…羽川さん…きこえていますか…(何
以上9本をあげてまして、重ね重ね重ねてチラ裏失礼いたしました。
10本上げたかったんだけど、集まった水準を基準にすると上記9本までしか入りませんでした。
(★は最終回まで見たもの。★の多いものはその中でも特に気に入ったもの。☆は中盤~終盤くらいまで見たもの。映画は最後まで見て当然なので無印で)
2011 | ベン・トー★★ |
gdgd★★★ | |
2012/12 | けいおん(映) |
2012/1 | アマガミSS二期★ |
リコラン | |
キルミー | |
ミルキィ二期 | |
シンフォギア | |
モーパイ★★ | |
偽物語★ | |
アクエリオンEVOL★ | |
あの夏★ | |
ラグランジェ★ | |
パパ聞き | |
妖狐僕SS | |
2012/4 | これゾン二期 |
ルパン不二子 | |
夏色キセキ★ | |
さんかれあ★ | |
戦コレ☆ | |
アクセル・ワールド★ | |
うぽって | |
咲阿知賀編★★★ | |
シャイニングパン屋 | |
氷菓★★★ | |
2012/7 | TARITARI☆ |
人衰(撮りためていてあとで見ます) | |
恋チョコ☆ | |
はぐれ勇者☆ | |
カンピオーネ★ | |
ココロコ | |
ホラ二期 | |
SAO★ | |
信奈 | |
2012/9 | 新世界より★ |
2012/10 | ヨルムンガンド二期★★ |
えびてん | |
K★ | |
サイコパス☆ | |
中二病★★ | |
BTOOOM★ | |
武装神姫☆ | |
絶園のテンペスト★ | |
ひだまり四期☆ | |
ジョジョ☆ | |
ガルパン★★★ | |
さくら荘★ | |
2012/11 | エヴァQ(映) |
2012/12 | 猫物語(黒)★★★ |
いざというときの自分の誠実さや慎重さが当てになりません。だから、ここぞというときや心が浮ついて動揺したとき、潜在意識に自分の身を守ってもらう為に、私は車のいない赤信号でも止まって待つよう心がけています。
きっとさんざん議論され尽くしているだろう。いろいろな考え方を目にしたり耳にしてきた。それでも未だにつらつら考える。何も考えていなかった頃、信号が赤なら渡ってはいけないと無条件で従ってた。自分の周りもそうだと認識してた。みんな信号を守っている世界が自分の見ている世界だった。思春期、ちょっと大人びた同級生がいた。車が来ないと分かっているのに待っているのは頭を使っていない証拠だよねと貶された。その瞬間から自分は車が来ない赤信号の意義を絶えず意識してしまうようになった。馬鹿にされたことがきっかけだったから、自分は意地になって渡らない理由を探し求めた。見つけた答えは「人間の脳は誤作動する。赤信号で車が向かってきても渡ってしまうような過ちを犯す。だからフールセーフティーのために渡らない習慣を普段から養う」だった。時が過ぎ、海を渡り、時代が環境が変わった。気付けば、今度は信号が赤でも渡れるなら渡ってしまう人ばかりが周りにいた。そしてまた考える。みんなが渡っている中で、自分だけ渡らないでいるのはなぜだ?集団心理として、周りの行動に揃えて動こうとする自分がいた。みんなが渡っているから自分も渡ってしまっていいんじゃないか。渡らないと外国では信号が赤でも安全確認できたら渡ってしまうよと、なぜ日本人は馬鹿みたいに立ちすくんでいるの。そんな意見もよく目にしてきた。でも誰かがやっているからやっていいなんていう理屈では、集団心理で動くメンタリティそのものだ。
映画「サトラレ」の主人公は、天才的な手術スキルを通して患者を直接救う道と、その人並みはずれた知能でもってより多くの未来の患者を救う研究の道と、進むべき道、進みたい方向で葛藤するけれども、仮に手術の道で数千人救えたとしても、研究の道でもし数万人の人を救えたのだとしたら、そしてそれが約束されたものだったなら、彼は救える人を救わなかった人殺しなのだろうか。何も知らずに決断したときには罪の意識はないけれど、全てを想定した上でなお万の命を諦めて、数千の命を助けようと決断したのならば、それは罪ではないのだろうか。許されるかどうかは別として。
そのような決断は誰もがしているはずで、自分の力をどこに注ぐか、その決断如何で未来が大きく分かれることを予想した上で影響の小さい方を選ぶのは正しいのかどうか。
「怒りを覚える」だけがupsetの意味じゃなく、「動揺する」リアクションのほぼ全般を指している単語だと理解したとき、とても腑に落ちた。動揺して泣き出す人もいれば、あまりのことに笑い出す人もあったりして、そのへん喜怒哀楽の感情と心が動揺することの間には線が引かれてる、つまり別ものとして認知されるべき。
人の個性なんて、1) 五感から取り込む情報への感度と2) それに対する心の処理と情動、3) そしてそれをどう発散するか、おおざっぱに三つ区切っただけでも無限のパターンができあがってしまう。
ところが、他人の個性を認識するには、その人が受け止め抱いた感情をどのように表現したかでしか認知出来ない。しかも、互いに相手の個性もまた一つの情報として自分は受け止めるわけだし、それをもって己の感情表現が現れるのだから、もうこの世の中、お互いの認知の順序はすごく入り組んでぐるぐるしてる。
例えば、脱いだ靴を思い出させる不快な臭いを嗅ぎ取ったとして、で臭いの元をたどったらそれが納豆だったとして、そこで許せる人と、許せない人といる。本能的に正常でない音を耳で受け取って、避けるべき事態が起こっていると認知すると、それに応じて臨戦態勢なり避難態勢に入るべく感情のモードが変わる。その後で音源が赤ちゃんの泣き声だと分かって許せる場合と、そうでないケースが人それぞれにある。一方で、無意識でも意識的にでも五感から伝わってくる情報というのは、赤ちゃんが鳴き出す前からたくさんあって、これもまた人それぞれ取捨選択して自分の感情や態度、心構えを状況に合わせて整えている。赤ちゃんの存在を認知して、飛行機内の気圧の変化やノイズ、温度や湿度、明るさや周囲の人との距離感など、さまざまな情報から、事前に赤ちゃんが泣くことを想定できている場合とそうでない場合がある。それが想定出来ていたとして、いざ赤ちゃんが鳴き出しても動揺しないでいられる体調、分かっていても我慢ならないコンディション、はたまた予想の段階から動揺してしまい、いざそうなったら腹が立ってしまうなんていうメンタリティもありうる。
マジョリティー・マイノリティーなんていうのは、あくまで一つの側面で多数派少数派となるだけで、ちゃんと全員が自分の認知模様を理解して分類し始めたときに、初めて、どちらが当たり前かなんて話題そのものの無慈悲な単純さが見えてくる。分類しちゃえばみんな孤独なんだって受け容れられて、ようやく多様性への理解が始まる。多様性への寛容さとどちらが多数派なのかという数の工作とマイノリティの保護と、いろんなこと分別なしにごっちゃにしたまま、正しさなんて主張出来っこないし、ましてやルールなんて出来上がる訳が無い。
もし、今の記憶や能力のまま10年前に戻ってやりなおせたらなあと思っているなら、今の自分は、10年前には持っていなかったやる気や能力を手に入れているか、今やっていることに意義を見いだしているか、もっといいやり方を知っているということ。ちっとは信じなくちゃな、自分の成長を。
勝つため(一番になるため)には、既存の枠に収まらない力が必要。それを勝つ力にするために二つのやり方がある。枠に収まらないアイディアを枠に収めて、ルールに則って勝つ方法と、枠に収まらない新しい発想で勝てる競技を生み出して世界に広める方法があるのではないか。
何をしているのか謎でふわふわした存在だけど、何となく社会にとけ込んでいる。そういうポジションで生きていける世の中であるというゆとりの証として存在している。そのような人がそこかしこにいて目に留まると、なんとなく誰もがその社会に安心し、ほっと息をつける。自分の所属する社会が「何をしているかいまいちはっきりしないけれど欠かせない人」を支えていけるゆとりある世の中であるために頑張れるなら、優しい空気が循環する世界になりそうだ。
特に近頃、空気が冷え込んで来てからは、二人に一人くらいはマスクを着けていると言って良いだろう。
「冬だね!マスクしてもいいよね?」
と言わんばかりにだ。
マスクの一般的な使い方として知られているのは、咳などで風邪を他人に移さないことと、外部からの菌等を防ぐための2つだと思う。
風邪を患うといっても2人に1人という高い割合になることはさすがに無さそうので、予防の為の着用というのが説得力がある方だと私は思うが、
果たしてそれがどれほど効果が期待できるのかは懐疑的である。つまり、予防の為に着けてると言うには着用してる人の数が多過ぎ、又効果の程も怪しいのである。
特に電車内でマスクを着ける人は多いと思うが、ではつり革に触ったあとで必ず石鹸で手を洗う人はどれ程いるのだろうか。
ニコニコ動画やyoutubeで個人作品を見ている人は分かると思うが、アップしている人達の半数はマスクを着用している。
もちろん、ネットに顔を晒すことと日常生活におけるそれは全く異なることだけれども、動画上でマスクを着けるのも不思議なことに日本人だけなのである。
日本人には明らかに、自分の顔をさらけ出すこと対して抵抗を覚えるという、国民的ともいえる性質があると思う。
例えば今も存在しているのか分からないが、日本のヤンキーの象徴の一つはマスクである。
私は、これは彼ら自身を強く見せる為に着けているのではないかと思っている。
表情を読まれることは、自分の弱みを悟られることに等しいからだ。
で、結局のところ一般人がマスクを着ける理由もヤンキーのそれと大差無いのではないかと思う。
日本人は感情表現に乏しく自己主張が弱いと外国人に揶揄されことがある。
個を前面に出してゆくのは日本人の苦手とするところで、常に周りに同化していたいと感じ没個性を望む。
まさしくこれが日本人らしさで、これを適えるのにうってつけなのがマスクなのである、と私は考える。
といってもこれらは全部私一人が考えたことなのでこんなふうにネットで意見すると色々有意な反論も貰えると思うので、
皆さんの意見をお聞かせ願いたい。