2012-12-30

日の目を見ない駄文年末棚卸し

車が来ない赤信号、渡る?渡らない?

いざというとき自分の誠実さや慎重さが当てになりません。だから、ここぞというときや心が浮ついて動揺したとき潜在意識自分の身を守ってもらう為に、私は車のいない赤信号でも止まって待つよう心がけています

きっとさんざん議論され尽くしているだろう。いろいろな考え方を目にしたり耳にしてきた。それでも未だにつらつら考える。何も考えていなかった頃、信号が赤なら渡ってはいけないと無条件で従ってた。自分の周りもそうだと認識してた。みんな信号を守っている世界自分の見ている世界だった。思春期ちょっと大人びた同級生がいた。車が来ないと分かっているのに待っているのは頭を使っていない証拠だよねと貶された。その瞬間から自分は車が来ない赤信号の意義を絶えず意識してしまうようになった。馬鹿にされたことがきっかけだったから、自分は意地になって渡らない理由を探し求めた。見つけた答えは「人間の脳は誤作動する。赤信号で車が向かってきても渡ってしまうような過ちを犯す。だからフールセーフティーのために渡らない習慣を普段から養う」だった。時が過ぎ、海を渡り時代環境が変わった。気付けば、今度は信号が赤でも渡れるなら渡ってしまう人ばかりが周りにいた。そしてまた考える。みんなが渡っている中で、自分だけ渡らないでいるのはなぜだ?集団心理として、周りの行動に揃えて動こうとする自分がいた。みんなが渡っているか自分も渡ってしまっていいんじゃないか。渡らないと外国では信号が赤でも安全確認できたら渡ってしまうよと、なぜ日本人馬鹿みたいに立ちすくんでいるの。そんな意見もよく目にしてきた。でも誰かがやっているからやっていいなんていう理屈では、集団心理で動くメンタリティのものだ。

罪とか罰とか

映画サトラレ」の主人公は、天才的な手術スキルを通して患者を直接救う道と、その人並みはずれた知能でもってより多くの未来患者を救う研究の道と、進むべき道、進みたい方向で葛藤するけれども、仮に手術の道で数千人救えたとしても、研究の道でもし数万人の人を救えたのだとしたら、そしてそれが約束されたものだったなら、彼は救える人を救わなかった人殺しなのだろうか。何も知らずに決断したときには罪の意識はないけれど、全てを想定した上でなお万の命を諦めて、数千の命を助けようと決断したのならば、それは罪ではないのだろうか。許されるかどうかは別として。

そのような決断は誰もがしているはずで、自分の力をどこに注ぐか、その決断如何で未来が大きく分かれることを予想した上で影響の小さい方を選ぶのは正しいのかどうか。

upsetって心の乱れ全般を指す言葉なんですね。

「怒りを覚える」だけがupsetの意味じゃなく、「動揺する」リアクションのほぼ全般を指している単語だと理解したとき、とても腑に落ちた。動揺して泣き出す人もいれば、あまりのことに笑い出す人もあったりして、そのへん喜怒哀楽感情と心が動揺することの間には線が引かれてる、つまりものとして認知されるべき。

人の個性なんて、1) 五感から取り込む情報への感度と2) それに対する心の処理と情動、3) そしてそれをどう発散するか、おおざっぱに三つ区切っただけでも無限パターンができあがってしまう。

ところが、他人の個性認識するには、その人が受け止め抱いた感情をどのように表現たかしか認知出来ない。しかも、互いに相手の個性もまた一つの情報として自分は受け止めるわけだし、それをもって己の感情表現が現れるのだから、もうこの世の中、お互いの認知の順序はすごく入り組んでぐるぐるしてる。

例えば、脱いだ靴を思い出させる不快臭いを嗅ぎ取ったとして、で臭いの元をたどったらそれが納豆だったとして、そこで許せる人と、許せない人といる。本能的に正常でない音を耳で受け取って、避けるべき事態が起こっていると認知すると、それに応じて臨戦態勢なり避難態勢に入るべく感情モードが変わる。その後で音源赤ちゃんの泣き声だと分かって許せる場合と、そうでないケースが人それぞれにある。一方で、無意識でも意識的にでも五感から伝わってくる情報というのは、赤ちゃんが鳴き出す前からたくさんあって、これもまた人それぞれ取捨選択して自分感情や態度、心構えを状況に合わせて整えている。赤ちゃん存在認知して、飛行機内の気圧の変化やノイズ、温度や湿度、明るさや周囲の人との距離感など、さまざまな情報から、事前に赤ちゃんが泣くことを想定できている場合とそうでない場合がある。それが想定出来ていたとして、いざ赤ちゃんが鳴き出しても動揺しないでいられる体調、分かっていても我慢ならないコンディション、はたまた予想の段階から動揺してしまい、いざそうなったら腹が立ってしまうなんていうメンタリティもありうる。

マジョリティー・マイノリティーなんていうのは、あくまで一つの側面で多数派少数派となるだけで、ちゃんと全員が自分認知模様を理解して分類し始めたときに、初めて、どちらが当たり前かなんて話題そのもの無慈悲な単純さが見えてくる。分類しちゃえばみんな孤独なんだって受け容れられて、ようやく多様性への理解が始まる。多様性への寛容さとどちらが多数派なのかという数の工作とマイノリティ保護と、いろんなこと分別なしにごっちゃにしたまま、正しさなんて主張出来っこないし、ましてやルールなんて出来上がる訳が無い。

10年前に戻れたらなあ

もし、今の記憶能力のまま10年前に戻ってやりなおせたらなあと思っているなら、今の自分は、10年前には持っていなかったやる気や能力を手に入れているか、今やっていることに意義を見いだしているかもっといいやり方を知っているということ。ちっとは信じなくちゃな、自分の成長を。

topもfirstも訳せば「一番」

日本の勝ち方とアメリカの勝ち方

勝つため(一番になるため)には、既存の枠に収まらない力が必要。それを勝つ力にするために二つのやり方がある。枠に収まらないアイディアを枠に収めて、ルールに則って勝つ方法と、枠に収まらない新しい発想で勝てる競技を生み出して世界に広める方法があるのではないか

社会的マスコット なぎら健壱

何をしているのか謎でふわふわした存在だけど、何となく社会にとけ込んでいる。そういうポジションで生きていける世の中であるというゆとりの証として存在している。そのような人がそこかしこにいて目に留まると、なんとなく誰もがその社会安心し、ほっと息をつける。自分所属する社会が「何をしているかいまいちはっきりしないけれど欠かせない人」を支えていけるゆとりある世の中であるために頑張れるなら、優しい空気が循環する世界になりそうだ。

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