はてなキーワード: 希薄とは
千野アナが1月8日に起こした事故について、
何をどうしてそうなったのかはまだ詳細に報道されていないが、
日暮れ時の無灯火運転を推測する記事もあった(ソースがJ-CASTで申し訳ない)。
この事故に限らず、少なくとも都心では最近確かに無灯火運転が多い。
日中のトンネルの中などの場合は面倒がっているのかもしれないが、
夜も更けてからの無灯火はたぶん意識しての無灯火ではなく、不注意からの無灯火だ。
ご存知のように最近の車のメーターパネルは、
ヘッドライトのオンオフに関係なくライトアップされている。
またカーナビも、ライトオンとオフで変化はするものの、
基本的には煌煌と光を放っている。
最近の無灯火運転増加の理由は、たぶんそのせいだ。
自分の運転する車のライトが点灯しているかどうか直感的にわからない。
明るい都心の道路では、自分の車が無灯火でも
さほど運転に支障がないからよけいに、
ライトが点いているかどうかに対する関心が希薄になっているんだと思う。
なぜ車のメーターパネルがそんな風になったかというと、きっとその方が売れるからだ。
もともとはヤン車の電飾あたりが発端だろうけど、
視力の落ちた年寄りにも好評だったのかもしれない。
とにかく、車メーカーは売るために安全装備を一つ省いたのだ
(フォグランプアイコンの親戚みたいなあの点灯マークでは代わりにならない)。
でも、国としても車が売れないと困るから仕方がないね。
車メーカーを刺激したくもないしね。
それとは逆にHIDとかにしてクソ眩しくしてる奴は死ね。
奴らのせいで消失現象を何度体感したことか。
ハイビームが非難されるのにハイビーム並みに眩しいロービームが許されるはずがないっつの。
安全とか言ってんじゃないよまったく。
そうでなきゃ見えないトリ目なら免許返上しろタコ。
民主政権は当初から不安視してたけど、まさかここまでgdgdだったとは。
それがやっと終わってくれて、国政がまともに仕事してくれるひとたちの場になるとしたら一安心だ。
……本当に?本当にそれでいい?
ここ数年で「男の娘」の存在が世の中に認められた勢いはかなりあったと思う。
セクシャルマイノリティいろいろいるけれど、たとえ趣味レベルでも服装という境界の緩みが認知されたことはつまり、
たくさんの人の「常識」に楔を入れられたってことだ。
マイノリティ当事者な私としては、ちょっと複雑なところもあるけれど、基本的に歓迎すべき、推進されるべき傾向だと思ってる。
ところで、勘違いだったらよいのだけど、これほどまでに認められたのは、「民主党政権だったから」ということはないだろうか
電力不足の中、ちゃんと現実みて原発動かそうとしてくれてる。アメリカと協力して日本守るのをちゃんと考えてくれる。
そんな自民党にはこれからの立て直しを本当にがんばってほしくて期待してるのだけど、
LGBTに対する差別についての問題意識の希薄さととれそうな記事が取りざたされたりするのをみるにつけ、
「男の娘」がブームに終わってしまわないか、世間を覆う「常識」のカラがまた厚くなってしまうんじゃないか、
それが本当に心配。
今回の投票は本当に難しかった。民主には間違っても投票できないし、かといって……ああ。
あくまで、「時期が偶然一致しただけ」「そもそももっと前から認められてた」とか、私の勘違いだったらいいんだ。
それにどういう理由であれ、追い風が止んでしまうようなら、「歓迎すべき、推進されるべき」なんて消極的なこと言ってる場合じゃない。
日本人はそんなに無能なのか?知能指数は低くないはずだし教育レベルも低い訳ではないはず
社会参加の意識が希薄だから?頑張っても報われない社会だから?エリート以外は自分の代わりはいくらでもいるから自分が何かやる必要がないから?
だから変な奴が変な事を言っても反発する元気がないのか?
俺は怖いんだけど誰も声を荒げないよね
よくは知らないけど、暇な主婦層で構成された腐女子趣味の集まりじゃなかったっけ。要は気持ち悪い連中が気持ち悪いこと話して越に入ってるっていう。
まあ、Yahooブログなんかでもよくあった、古参が発言権持って、新参にいろいろなルールを押し付けてくるとかいうそういう感じのもの。同じブログサービス使ってるからって、そこでの流儀に合わせなきゃいけないなんて法はないので実際のところ、全く無視してしまっていい存在。
なんだけど、そう言われると逆に気になるものらしい。アイツらは一体何をやっているんだ?あれらはなんだ?なんで誰も言葉を濁してばっかで明確な回答をしないのか?と情報飢餓状態に陥ってしまい、本来無視していいはずのはてな村をあたかも世界支配を企てるイルミナティかなんかのように噂する人々が現れた。
曰く、はてなにははてな村なるコミュニティがあるらしい。曰く、はてなでははてな村に入らなければ一人前とは認められない。曰く、はてなでブログを始めるとはてな村の住人が洗礼にやってくる。株式会社はてなは「はてな」という場を提供するだけの存在で、実質的な支配ははてな村が行なっている等など。
そして、そんな中で「はてな村」住人の噂を漏れ聞いた人々が、「はてなはかくあるべき」という姿を創り上げていった。
曰く
こうして、新参の言論は封じられ、一部のテクニカルオタク達によるはてなの支配が始まった。
はてなでは誰かが長文でエントリ書いたら、誰かがそれに対する批判的な内容の長文を書く。相手が誰であろうとお構いなしだった。
特に明確な目的なくはてなでブログなんか始めるとそこの空気に当てられて、つい従わなければならない気分になってしまう。そうして、そんな連中がまた新参に対してこういう「洗礼」を行いはてな村の信望者を増やしていった
この流れに終止符を打ったのが、株式会社はてなの任天堂化だ。それまでテクニカルオタクにしか開いていなかった門戸を一般人にも解放するようになったのだ。一般人の流入により、はてなブログ間のコミュニケーションはだんだんと顧みられることがなくなり、そのコミュニティの繋がりは希薄となっていった。はてな村を信望する連中はこの一般人の流入を「はてなの愚衆化」と呼んで必死に抵抗したが、流入は年々加速度を増していき、はてな村信望者にこの変化を止めるすべはなかった。
はてな村に気に入られるエントリを書けば、大量の星が付けられたりブックマークされるという利点も、一般人の数の暴力の前には無力だった。人はより一般人に気に入られるエントリをかくようになった。
こうしてはてな村はかつての影響力もなくなり、見た目上自然消滅した。しかし、忘れてはならない。はてな村ははてなのどこかに未だ存在しているという事を。つい最近もこの様な形で信望者を増やそうとしているhttp://anond.hatelabo.jp/20121129184450
もし彼らを見ても、あれははてな村の連中だ。などと言って罵倒してはいけない。何かを言えばこれ幸いとばかりに彼らは議論をふっかけてくる。彼らは常に議論に飢えている。彼らをやり過ごすには見かけても何もしないことだ。
帰属とか集団とか、そうした意識がインターネットにおいては希薄なのではないか。
「ネット住民」「ネット民」などのような言葉が、時折ニュースサイトなどで用いられる。
J-castニュースあたりが多いかもしれない。
「増田」「ハイカー」「2ちゃんねら」「としあき」など、より個別的な名前もある。
しかし、こうした名前によって利用者を一括りにすることは、明らかに不適切だ。
2ちゃんねるに数多くの板があるように、利用者もまた千差万別ではないだろうか。
これらを一括りにする意義はともかく、私はそうしたコミュニティについて帰属を感じない。
けれども、「ここに参加しているのだ」という意識を持っている人もいるようだ。
「名前を隠して楽しく日記。」以上の何物でもない、サービスの1つに何を思うのだろうか。
気持に関わる問題について、真偽を問うのは間違っているのかもしれない。
メディアに洗脳された人の格差社会に関する言説のアンポンカンなところは第1に格差社会はウソだってこと第2に格差社会の原因を取り違えてること。
格差社会とは作られたシナリオであって実際には国民全体が貧乏化していくのを直視したくないあまりにそういう言い訳をしてたんだよな。
一部の超金持ちのノウハウが浸透しなかったことも大きな原因。情報科社会って言うけどあまりに洪水過ぎて人の繋がりがむしろ気迫になったんだよな。
希薄どころか隔絶・疎外されるようにもなって。「ただしイケメンに限る」も巧妙にイケメンの直視を回避している。金持ちに憧れる変わりにネタにするか視線をそらすシナリオを作る。
格差社会というシナリオもその一部に過ぎないんだよね。今後は超格差社会になるなんて言う人もいるけど単に超貧乏になるだけだよとツッコミを入れてみるテスト。
最近もニコニュースであったよな。プレ高所得層がドロップアウトして低所得層に続々と呑み込まれてる。そんなの今に始まったことではないから。90年代後半からあったから。
確かに格差社会が問題だとする専門家の言説には一聴の価値があるものもあるけど、格差社会がどういうことか実態もしらずにガチャガチャとネットで理論を並べてる人は信用にたらない。
定義の問題なんだよな。格差社会って言葉は文字通りの意味として解釈してはならない。そこなんだよな。むしろ格差社会はウソだって周知したほうがマシなレベルだから。
格差社会の原因は専門家の狭視野な分析が目につくがそうして見いだされた原因と打開策を真に受けるのも危険なことなんだよな。
専門家ってのは実態知らずに知識と理論を並べるのが得意。実態は知らなくてもデータは沢山持ってるから正しいこと懸賞してしまえば周囲から認められるという悪性ルプーに陥る。
もうこれは知のあり方を根本的に問い直す、知を伝えるやり方を洗い浚い見直さないといけないレベルに来ているね。修羅の道を歩みたくなければ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.tgiw.info/weblog/2012/09/post_768.html
ncc1701 例によって話の順番がおかしい。家族間のコミュが足りないからテレビ・ゲーム漬けになる。テレビとゲームを除けば自動的に家族のコミュニケーションが復活するわけじゃない。 2012/09/11
置き換えなくたって、テレビ・ゲーム漬けでありながら家族間のコミュ取れてるところなんて腐るほどあるでしょ。こいつもこいつで無条件に「ゲームは一人で黙々とするもの」ってしてるもんねえ。いやあ偏見って怖いね~
そうなんだよな。基本的にゲームってのは代理戦争でありマウンティングなんだよな。
kanose ゲーム, 教育 “メディア漬けだから家族の絆が薄れているのではなく、家族の絆が薄れているからメディア漬けになる” 2012/09/11
だーかーらー、それとそれとは関係ないって。というか、ブログ主やブックマーカー含めて「上流ボケ」がすごいね。こいつらのいう「家族の絆」ってなんなんだ?
http://www.tgiw.info/weblog/2012/09/post_768.html
講師の先生は明らかに顔が曇っていて申し訳なかったが、社会の責任、親の子育てへの積極的な関与という言葉を引き出すことができた。特に「子供と花札やトランプでもして」という回答は大いに満足した。
なんで満足すんの?花札もトランプもゲームじゃん。家族ワイワイなゲームは別腹っていうなら、はじめから「一人で黙々と取り組むものだけがTVゲーム」って定義してね。
あと俺から言わせれば、本屋で売ってるようなナンプレ本や詰将棋本もゲームだ。同じ。勉強も同じようなもんだ。しかしなぜかこれらは槍玉に上がらず、TVゲームばかりが批判に晒されるし、それに反対する奴も偏見を隠さずに批判している。本音ではTVゲームをしてほしくないならそう言えば良いのに。
現代は家族の絆が薄れているというのと、メディア漬けの子供が多いというのは間違いない事実であろう。しかしその因果関係は、メディア漬けだから家族の絆が薄れているのではなく、家族の絆が薄れているからメディア漬けになると考えたほうが自然だと思う。
メディアっていうと暗黙のうちにテレビや新聞なんか含めて考えたりするわけだけど、大人もメディア漬けだし、俺はメディア漬けが悪いとは思わないね。主体性云々を問うているのであれば、一方的に情報を押し付けてくるような媒体に対して用いるべきだし、それにしてもテレビは双方向通信やツイッター採用などでインタラクティブ性が担保されつつある。ゲームなんて言わずもがな。
ではなぜ家族の絆が薄れているかといえば、「他者や自己の存在感が希薄になっている」(南直哉)という、テレビ・ゲームよりももっと根源的な問題なのだ。それは例えば働いても働いても昇給しない(どころか最近では就職すら危うい)デフレ社会だったり、個人や個性を尊重する教育だったり、さまざまな要因によるものである。それぞれの事象が良い面と悪い面の両方を抱えており、何か1つをスケープゴートにしても解決しない。
実際には、家族に問題を抱えている子供を学校や地域がサポートしていくことが、「ゲームやめろ!」なんていうよりずっと大切なことである。
と書いているのに、なぜ筆者は大人側への問題に視点を投げかけないのか?「子供」という集合だけでは割り切れない問題だと分かっているのであれば、そこからさらに対象を拡大することはなにも論理的に不整合ではない。
子供は仕事(学び)と遊びを区別しておらず、真剣に遊ぶ中で、好奇心や社会性などの生きる知恵が育まれていく。だから多くの親がテレビ・ゲームより楽しい遊びを提案できないということが問題だというなら諸手を上げて賛成で、こんな反論はしなかっただろう。
まあ、少し残酷な話をすれば、一部のオンラインゲームではイジメそのもののようなことをされているのも事実だ(「おきらくリンチ」で検索するといい)そういったことまで含めて社会性と言うのであれば、私は納得するが。
テレビやゲームより楽しい遊びを提案、というのは簡単であり、難しい。そこは好奇心の問題も絡んでいるし、敷居の高低もある。同じ学校にいくつものカードゲームが別々のグループで流行っていて住み分けしているというのはザラだし、トランプやUNO程度なら抵抗なく子供たちはするよ。休み時間10分でTVゲームするなんてアホだからね。
まあこういうところは隔世の感とかジェネレーションギャップとかおじさんが若い頃は云々とかいろいろあるだろうから突っ込みすぎるのもどうかなとは思うけど、もっと娘さんと会話したほうがいいよ。もっとも、娘さんが育ちが良ければ、娘さんもあなたも育ちの悪いところ、本当に家族の絆が薄れてる家庭はどのようなものか、なんて知る由もないだろうけどね。
以上。
70、80年代の青春っていうと、何となく音楽に連なったイメージが浮かぶのだけれど、それ以降の年代にとっての青春って何なのだろう。
巷に溢れている青春小説を読んでると、昭和後期の描写が出てきたりするんだけど、わからないことが多いんだよね。
私は平成世代で、つまるところゆとり真っ只中なんだけれど、その人達にとっての青春、年代で言えば、90年代の青春ってものの具体像がつかめない。
もっと言えば、2000年代の青春もわからない。現代小説でもサブカルちっくな漫画でもファッション誌や音楽雑誌、ネットでもなんでも使って探してみればいいのだろうけれど、めんどくさい。
そもそも、90年代は青春期として見られていないようにさえ思える。そんなことないのかもしれないけど。
私達の青春って一体何だったのだろう。テレビ? アニメ? ゲーム? 今の子はインターネットなんだろうか。
音楽史とか分野別に見ていけばぼんやりとした若者文化の構造が見えてくるのかもしれないけれど、これといってパンチのある特徴がないような気がしてならない。
言い換えれば、そんな多様性、無個性こそが特徴なのかもしれないけれど、ありとあらゆる事柄が先鋭化していって、その結果希薄化しているような気がする。
結婚は異性同士のものと無意識に思ってたかもしれないわな。でも「同性同士の結婚はどう思いますか?」って質問したら「個人の自由」って答えるだろうし、同性婚を法律上可能にしようと動く政治家が居たら、無関心ということはあるかもしれないけど積極的に不支持とは限らないだろ。異性愛者がこんな感じの希薄な意識でもそれは「理解がある」ってことだろうし、あんたのように意識が希薄なことに積極的にいちゃもんをつけてくるなら、それは逆側の圧力だぜ。
あなたの言ってる通りで
その「逆側の圧力」をかけようとしてんだと思うよ彼等は
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20120731/p1
『ファイアーエンブレム』って名前しか聞いたこと無いし勿論プレイしたこともないし興味もないけど、この記事は一方的でひどいなぁと思うから叩かせてもらうわ。
たかがゲームって書いたけどゲームというジャンルを貶める意図はないよ。
でもたかがエンタメ寄りのゲームのシステムひとつ取ってなに馬鹿なこと言ってんの。『サマーウォーズ』を田舎賞賛・大家族賞賛がキモイとか言ってる奴と同じくらい馬鹿だぜあんた。
製作者は政治家じゃねぇんだよ。作ってるのは法律じゃなくてたかがゲームのシステムなんだよ。
このゲームで同性婚がOKだったら、同性婚に理解があって素晴らしいと賞賛するのはアリだろう。
でも同性婚がシステム上NGだからといって、それは同性婚に理解がないってわけじゃないだろ。
結婚は異性同士のものと無意識に思ってたかもしれないわな。でも「同性同士の結婚はどう思いますか?」って質問したら「個人の自由」って答えるだろうし、同性婚を法律上可能にしようと動く政治家が居たら、無関心ということはあるかもしれないけど積極的に不支持とは限らないだろ。異性愛者がこんな感じの希薄な意識でもそれは「理解がある」ってことだろうし、あんたのように意識が希薄なことに積極的にいちゃもんをつけてくるなら、それは逆側の圧力だぜ。
海外で販売する際の配慮についてはよく分からないから口を噤むが、あんたは
同性同士をこれだけイチャイチャさせているシリーズが、結婚システムだけ異性間限定にしなければならない理由がよくわかりません。海外にも販売するゲームなら、なおさら。
ってあるように別に海外で販売されなくても不満なようだからdisらせてもらった。
つーかさ、暗黙のうちに「結婚は異性同士」って前提されているような事例なんていくらでもあるだろ。例えば『TARI TARI』っていう今年7月から放送しているアニメの1話には、
「少し待ってくれれば、この子(お腹の子)紹介してあげるけど」
「男の子なんですか?」
「さあ?性別にこだわるほう?」
「当たり前です」
って女性同士の会話があるけど、これだってそういう前提があるわな。この場合は結婚じゃなくて交際だけど、同じだ。異性愛者同士の会話だからセーフってのはナシだぜ。そういう無意識の前提がないとこの掛け合いは面白くないから、この掛け合いを書いた脚本家はその前提を持っているはずだよ。
私は上に書いた理由からこれに問題があるとは思わない。けど、あんたはこういう事例にいちいち文句つけてるの?ねえどうなの?
たまにアルファブロガー「ちきりん」女史のブログを覗くのだが、
「大阪と京都の間でこの環境を維持するのは至難の業、環境維持のためにサントリーは株式公開すべきじゃない」
と書いた上で、
「先日新幹線不通で足止めされたので、在来線で大阪→京都を走ったら、途中山崎を通ったので
『こういう場所なのか』と感心した」とあった。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+personal/20120424
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120623
自分は今でこそ東京在住だが、幼少時にこの付近に居住しているし、
妻の実家もこの近辺なので、結構このエリアには「土地勘」がある。
「ちきりん女史の心配は有難いが、まあサントリーが遮二無二保護しなくても、
なぜ大丈夫なのか?をうまく説明できないが、
しかし、CMでは「大阪郊外」とは絶対言わず、「京都郊外」と宣伝する。
「JR山崎駅」は駅舎は大山崎町に属しているが、ホーム3分の1は島本町に属している。
★というように、島本町は、「どこに属しているのか、アイデンティティ不明な町」である。
大阪都心勤務者が多いのは事実であるが、「大阪人」の意識は希薄で、
かと言って「京都人」でもない。
人口で言えばせいぜい3万人しかいないのに、特殊なアイデンティティが醸成されている。
★以前は結構工場も立地していたが、近年工場は相次いで移転し、
一方、田畑もちょっとはスプロール化・宅地化しているが、宅地化のスピードは遅く、
まだまだ田畑が数多く残されている。
つまり、「田畑が多く、一戸建てはそんなにないが、その一方でマンションが多い」という景観になっている。
★東京カンテイという不動産情報会社が、3大都市圏の自治体別マンション化率を発表している。
「全世帯数の中で、どれくらい分譲マンションが占めているか?」という数値で、
島本町のマンション化率は「4割」と異常に高く、郡部では全国最高値、
言い方を変えれば、
「駅前や工場跡地をマンション化させて、そこに新住民を収容することで、
田畑のスプロール化を食い止めている」とも言え、一種の「コンパクトシティ」が実現している。
★サントリーの地下水が自慢の町で、かつては町営水道は100%地下水だった。
このような環境で、一方で大阪都心も京都都心も30分圏、新幹線にも乗車しやすい、ということで、
「自然環境にこだわりを持つファミリー層」が意図的に移住してきている。
町営水道は府内一高額だし、町内には繁華街めいたものは一切ないのだが、
「そういう不便やデメリットは百も承知、自然環境が良いんだから、目を瞑る」という
こだわり世帯が新住民として移入してきている。
「文教地区だから移入したい」という理由がメーンであり、「自然が豊富だから移入したい」という感じではない。
東京都心から30~40キロはなれたエリア、例えばふじみ野市とか越谷市とか印西市とか、
しかし、島本町への移入する新住民は、印西市とかふじみ野市とかへの移入住民よりも、
より強い「自然へのこだわり」があるような気がする。
★現時点では町内の工場はサントリー程度で、後は企業の研究所とかが多い
その意味では、公害的問題、あるいは「すさんだ工場街」という感じの風景が、
町内にはあまり見受けられない。
★サントリー工場の税収が多いのか、企業の研究所の税収が多いのか、
町の財政状況はそんなに悪くない。
町のアイデンティティを壊すような高槻市との合併に後ろ向きだった、と言うべきか。
(むしろ気質が似ている京都府大山崎町との越府合併を望む声も)
新住民の気質が良くわかる出来事として、
「かつて島本町議会は、全国で一番女性議員の比率が高かった自治体だった(4割)」
というエピソードが如実に示している。
「男性の行政能吏とかじゃなく、業界人とか女性に町政を担わせる、その方がいいじゃん」
というムードが、なんとなくこの町には流れている。
そういう「尖がった町」「異形の町」なので、サントリーの源水地を乱開発するようなことは、
まあしないんじゃないかなあ?
http://anond.hatelabo.jp/20120629012945
公務員落ちたから準公務員を長いことやってるけど、こういう“公的団体”で働くのってマジで楽だよね。
まぁこっちの場合は宗教界にもぐりこんで飯食ってるんだけどさ。
この時期になると全国的にやってるお祭りがあるんだけどさ。ていうか今日やったんだけどさ。
お祭り自体はそう金もかかりゃしない。材料費準備費人件費通信費その他諸々締めて二百万もかからん。
準備にあたって特別な事なんて何もしない。難しい事も一切しない。はっきり言って普通の人でもできるレベル。
で、まぁ何万人とか手紙を出して、お祭りして欲しい人には金送ってもらうなり振り込むなりしてもらうわけよ。
一件平均四千円で、だいたい三千件帰ってくるワケだ。
バカみたいだろ? ただちっぽけなお祭りの準備して大勢に手紙出したってだけで一千万儲けが出るんだぜ?
ホントふざけてるよな。零細企業でひいひい言いながら残業してたあの頃は一体何だったんだろうって思う。
毎日お山の上で聖職者様であるとふんぞり返って、先生先生と頭を下げられて、定時に帰宅するのが仕事だってんだからな。
で、コネ持ってない奴はうまい仕事にありつけない、みたいな意見をよく見るけど。
あれ違うからな。
養成機関で教育を受けた時、コネまみれの奴らとそうでない奴らの二種類がいたけどな。
コネまみれの奴らはヌルくてうまい仕事に就いて、俺らは比較的待遇の悪い仕事に就く羽目になった。
で、時が流れて、今もこの業界に残って仕事してる奴は半分くらいに減ったけど。
社畜扱いされ続けて現実に絶望したハングリー精神の塊と、コネしか持ってないバカ。
コネで仕事決めたような奴は所詮、自分の力で仕事決めたわけじゃないんだから、得た職に対する執着が希薄なんだ。
奴らは決まって、つまらないところで小さな不満を見つけて、びっくりするほど馬鹿馬鹿しい理由で、すぐに仕事を放り出すんだよ。
行き場があるとかないとか関係ない。
信仰心なんざ欠片も無くてもテメエ自身の安穏な生活が惜しいなら聖職者だって何だって務まる。
ああ、一度言ってみたかった。すっきりした。
実際のところどの程度の法的な拘束力を持つのだろう?
ネット(の一部)の論調をみると”河本を擁護する奴は、不正受給者か在日”
らしい。まあこれの真偽についてはどうでもいいのだが、ここ(擁護者)に是非加えて欲しい属性がある。
それは
割かしというか典型的なリア充であったと思うのだが、まあとにかく現在はニートである。
私の方はというと、大学院を卒業後に幸運にも縁に恵まれ、それなりの企業に就職し現在は社畜である。
給料のほうは、まあ比較的高収入といって差し支えない程度にはある。
兄弟の関係はというと良くはない。ここ10年以上はまともに話をした覚えはない。
ただ、別に喧嘩をして仲違いしたとか言うわけではなく、趣味趣向の違いからか
次第に会話もしなくなり、そのまま互いの関係が希薄になっていった。
兄は現在、私たちの両親に扶養されているわけだが、当然両親はずっといるわけではない。
(このまま兄がニートであれば)いずれ私の方にその”扶養義務”とやらが降り掛かってくることになる。
その扶養というのも拒否できるのであれば拒否したい。
しかし、法的な強制力があるのであれば、それに違反しようとまでは思わない。
従って、この”扶養義務”というものが単なる努力義務的なものであることを願っているし、
そうであるべきだとも思っているが、実際のところどうなんだろうか。
モンスターペアレンツが、自分の娘にDQNネームを名付け、
それを知ったモンペが
「マトモな名前を付けた親に逆キレする」という話が、はてなブックマークにあった。
http://gasoku.livedoor.biz/archives/51908606.html
この話の真偽については、一部「ネタじゃないか?」との意見があるが、
そもそもこの手の
「自分の名前の由来・意味を調べましょう」という小学校の授業自体に、
問題があるのではないか?
この授業の前提としては
「親は、子供のことを考えて、最高に意味のある、最高の愛情を込めた名前を付ける」という
「素晴らしき親」「パーフェクトペアレンツ」が前提になる。
「適当に名前を付けられた」というケースも、あるのが普通では?
言い方を変えれば、「40人の中で、パーフェクトペアレンツでない親が数人程度いる」のである。
本人は「パーフェクトペアレンツ」であると意識していても、傍目には
まさにモンスターペアレンツ、DQNネームの親なども、それに該当。
「皆が皆、パーフェクトペアレンツである」という「神話」を前提として組み立てていて、
それゆえに
「パーフェクトペアレンツの無償の愛を子供に体感させる」という授業がなされる。
「パーフェクトペアレンツの無償の愛を体感させれば、子供の情緒にプラスになり、
パーフェクトチャイルドになる」という目論みなんだろうが、
この授業計画は、パーフェクトペアレンツでない親が混ざっている時点で、見事に破綻する。
その場合、後に残るのは
「パーフェクトペアレンツ(とその子供)による、ノンパーフェクトペアレンツ(とその子供)への差別・イジメ」だけである。
「親の愛情を子供に取材させて、体感させる」という授業展開だが、愛情希薄な場合、
あるいは愛情をうまく伝えられない親の場合、授業計画は破綻する。
で、
「お父さんお母さん、いままで僕を愛情一杯に育ててくれてありがとう」と子供に語らせるのが
この手の授業の「予定調和的展開」であるが、これって保守トンデモの「親守詩」と、
やってることが何ら変わらん。
いい加減、
「パーフェクトペアレンツっぷりを子供に体感させる授業」は、止めにしてはどうか?
現実世界は、文部科学省や教育委員会が期待するほど、パーフェクトペアレンツは多くない。
そもそも、「古き良き日本」では、結構子供はいい加減に命名されていた。
一番目の子供だから「太郎」、二番目だから「次郎」、てな感じ。
「もう子供なんかイラネ」「男児が欲しかったのに、女が産まれやがって」というホンネを隠さずに、
おおっぴらに「トメ」とか「ステ」と命名されていた。
突飛な仮説だが、
そりゃ頭はかわいそうかもしれないが、本気で「罪の意識の希薄化されたことに気づいてない」ような奴なんていねーだろって話。
外向けにはポジショントークで「俺たちは悪いことしてない」とか(頭の悪そうなことを)言うかもしれないが、本気でそんなこと思ってるわけない。
というのが、作ってる人たちは「これ、正直やばいけど稼げるし短期決戦で得るもん得ていこうか〜」くらいの気持ちでやってるのかと思ってた。
実際この考えの人は少なからずいるはずだ。
あるいは、「ヤバいけど、ライバル会社もやってて生き残るには自分も参加するしかない。」っていう、
ある種の邪悪なチキンレースに乗ってしまっている事を自覚してる人たち。
この人たちは、まぁ、邪悪だけど仕方ないのかなと思う。
※なお、本当に本当の意味で『邪悪』な人たちはとっくの昔に上がりを頂戴して既にあの場にはいないはず。
少なくとも某女史は完全に逃げ切ったのかなと。
けれども、どうも中の人たちのレスポンスを見る限り、「俺たち悪い事してねーし!」みたいなことを本気で考えている人たちがいる様子。
この人たちはヤバい。何がヤバいかと言うと、「罪の意識の希薄化」がされたことに一切気づいていないと言う点でヤバい。
そしてそのヤバさが、プログラマーっていう職業に対する社会の認識が悪い方向に傾きかねないのでヤバい。
いや、もう手遅れだ。多分、後一年後にはIT業界に対する世間の目そのものが冷たいものに変わっているだろう。
まず僕はあの場で「俺悪くねーし!」って言ってる末端を攻めるつもりは無い。
(といっても役職持ちでこんなことを言ってる連中には残念ながら、だけど。)
けれども、彼らが嵌った「脱法的ソシャゲー開発」の一端は解き明かしておきたい。
何故なら、このロジックは非常に単純で、かつ効果がテキメン。特に技術職に従事する連中に対しては。
さて、例え話をしよう。
それは先端のライブラリを使い、高負荷をものともしない作りにし、
またユーザーを飽きさせないよう常時色々なキャンペーンを打っていくアプリケーションだ。
ユーザー数は膨大で、アクティブなユーザー数だけでも10万を超す。
このアプリケーションを作成して運用するのは、いくら何でも一人では無理だ。
そこで仕事を分割し、プログラマー、インフラエンジニア、UXデザイナ、WEBデザイナー、ディレクター、
アナリスト、PM、営業…などなど、それぞれの専門職を適切に配置し、
それぞれが自分の得意な事に集中できるようにする。
こうすることで、それぞれの専門職にとって雑多な事は、耳半分で会議を聞きつつうまく回る。
さて、次の例え話をしよう。
とある邪悪な人間が、邪悪で脱法的な方法でお金を稼ぐロジックを思いついたとしよう。
しかし、規模が大きいので人手がいる。けれども、他の邪悪な連中を誘い込むと美味しいところを奪われたあげく、
責任をなすり付けられる可能性が高い。
ならばどうするか?「普通の人」を巻き込めばいい。
でも、「この方法で情弱を騙して稼ごうぜwww」というと、人は訝しみ、拒絶する。
けれども、その邪悪なロジックを分割して、分割したそれぞれの仕事が違法ではないものにすると…?
あるいは、分割したロジックを事前に3つ前後の別のクリーンな仕事に適用して失敗して後が無い状況を演出しておき、
ここで、だ。結合された後のサービスのありようを見て、「これって、ダメなんじゃない?」という人は必ず出てくる。
ここで、技術職の悪い癖を利用する。
技術職は「0か1か」での判断をすることに常にさらされているため、
そうではない世界でも「0か1か」で決まるものだと錯覚しやすい。
「うちの法務に事前に確認しましたが、法律上問題ないとのことです」と。
※注意
法務の方々の名誉の為に言っておくと、システムの邪悪さを理解して邪悪さを誤摩化す回答をする法務も一部にはいるが、
そこで、邪悪な人は特定の条件下で起こりうる例外を提示して「それならグリーンだ」と言わせておき、
その例外を隠して「この前うちの法務に事前に確認しましたが、法律上問題ないとのことです」と
法律は「0か1か」に見えてそうじゃない。
少なくとも過去に判例が出ていないものについては「0か1か」すらわからない。
ようは「未テストの項目」に過ぎない。
「裁判所」というテストを通らない限り、「0か1か」なんて本当はわかるはずもない。
それも、テストの内容によっては関係するモジュールや実行環境、タイミングによって結果が変わる事すらあり得る。
法務の言う「大丈夫」なんて、ようは自動テストやってない職場でベテラン開発者がいう「あ〜あそこはきっとOracleのバグ(※ただし未検証」と同じ程度の回答だ。
(本当はOracleのバグではなくそいつが作りこんだバグなのかもしれない。)
さて、普通の技術者が邪悪なテスト結果をまんまと信じたら、あとは邪悪な人の思い通りだ。
まず、そのテスト結果を信じた普通の人は、他にも不審に思った人に対して「あれは問題ないって法務が言ってたよ」と伝える。
が、ここでは同じテストを繰り返さず、過去のレポート、それも又聞きのレポートを伝えているに過ぎない。
もう一度同じテストをかけていない。自分の目と耳で、法務から直接話を聞いていない。
また、結合前のクリーンな仕事をしているそれぞれの担当者に取って、
結合後の姿より結合前の状態がその人の仕事の大半であり、「本当の意味での」結合後の姿を見てるようで見ていない。
単体テストはバリバリこなすだろう。しかし結合後のストレステストやセキュリティのテストは専門外として見向きもしない。
いや正確には「何かあったら、専門の担当者が文句つけてくるはずだ」と待ちの姿勢でいる状態だ。
邪悪な人は、間違いなくその専門の担当者が各部署を回って抜き打ちテストをやらせるなんて事はしない。
そもそも専門の人を社内に常駐させないか、もしくは置いても他の事(例えば他社とのライセンス問題など)にリソースをさくよう仕向ける。
だから否定されると「俺悪くねーし!」と言い出す。
細分化された仕事のことしか見なければ悪いことは何も無いだろうね。
しかし…もう…嵌っちゃったんだなぁというのが外野からの印象。
まぁせいぜい人身御供になってくれ。
今回の件、役職だけではなく実務の担当者まで引っ張られる可能性はある。
裁判にかけられるかどうかは謎だけど、企業や業界への揺さぶりの手段としては有効だしね。
なお、最初に言ったが本当に邪悪な人はもう既にあの場所にはいないはずだ。
もう既に後進に道を譲るだの自分の力を別の場所で試したいだのもっともらしい理由を付けて、
「普通の人々」のその後がどうなるかはこれからの物語なので、とても楽しみではある。
おそらく、なのだが、この件、ワーストケースで転がれば、当該の企業だけではなく
「ITの技術者はマッドサイエンティストと同じで法の遵守する気がない連中だ!」と言われる日は意外とそう遠くないと思う。
そんな風がもし吹こうなら、政治家の先生方や警察のお歴々も「インターネットの健全性を保証する」という名目で、
色々と無茶な法律を作るかもしれませんね。
少なくとも、「インターネット=悪」として自分らの有利な方向にネットをコントロールしたい方々にとってはとても好都合でしょうよ。
そろそろ、誰かが「良い意味で」健全化のために何かを仕込む頃合い。
政治家や警察といったレイヤーではなく、業界の自主努力のレイヤーで。
2、3年後、どんな団体ができでどんな人が所属するかなぁ?
ダンコーガイ、津田、はまちちゃん、ちきりん、高木先生、漢のMySQLの人、徳丸本の人…多分この中から二人は自ら、あるいは担ぎだされる/巻き込まれる形で関わってくるかな。
切込隊長は面白おかしくレポートしつつ裏で謎の秋波を送るんだろうなぁ。
多分ひろゆきはその集まりを「つまらない」と見て何もしないかな?
何か大きな計画を立て、自分をそこへ駆立てて行くような事を、一切苦手とするタイプです。使命感や正義感などと云うものに縁遠い性格のせいも有りますが、それよりも本能的な欲望の弱さや感受性の乏しさが、闘争心の欠如となって現れ、埋沈小市民型のマイペース人間を形作っているようです。机上の計算には長けていますが、実行力は無く、非常に優しく思い遣りの有る人ですが、人の為に奔走したりはしないのです。云うなれば、素晴らしい事を考えたり、仏様のように優しい気持ちを持ったりする事は有っても、感情が平板な為に、何事にも感動すると云う事が無いのです。感動が無いので、全ての苦労や煩わしさから逃げて歩きたくなるのです。
夢や計画はタップリと有るが、中身は殆ど見るべきものが無いと云うような、結婚生活を送りがちなタイプです。夫婦生活にしても、昼間考えておいた素敵なセックスの献立が、いざ夜になって見たら、性の衝動がさっぱり起らない為に、絵に画いた餅になってしまった、と云うような事を、年中繰り返すタイプです。貴方の場合、優しさは充分あるのですから、後は実行力と湧き出るように自然な本能の発露を育成する事に専念するのみです。
職業適性
判断力の高さや、心の温かさなどから云えば、保母(父)、看護婦(士)、医師、宗教家、カウンセラー、ケースワーカーなどに向いていそうですが、残念ながら責任感や使命感の希薄さが、命取りになって居て、存外、不適正なのです。芸能、芸術、文芸方面は、感性の鈍さがネックとなって、殆ど見込みがありませんし、機械技術関係は、仕事自体の無味乾燥さと、貴方自体の辛抱の無さの相乗作用が、大きな障害となるでしょう。比較的当たり障りの無い所を選んで見ますと、一般公務員、一般事務、農林・漁業従事者、理容師、料理家(コック、板前)、指圧・マッサージ師などと云う職種に落ち着きそうです。
対人関係
貴方の場合には先ず、人付き合いの煩わしさから逃げ出そうとしない事が第一です。そして、自分から積極的に解決に立ち向かって行くように心掛ければ、貴方の性格全体に対して、非常に良い影響を与える筈です。
けっこう当ってる気がする…
でも、「非常に良い影響」って、誰にとっての「非常に良い」なんだろな
煩わしいのは、やっぱり御免こうむりたい。
優等生のみなさん、こんばんは。
知的にはつまんない授業ばっかの退屈な学校生活を送られてきたことと思われます。
「いやいや、知的に充実してたよ」って人、あなたはすっっっっっごく恵まれています。おめでとう!
でもね、そうじゃない人もたくさんいるんだよ。
分かりきったこと延々と聞かされるの、嫌じゃん。
未習事項は使うなって、理不尽じゃん。
今の学校教育って形骸化してるじゃん。学力向上を塾にどんだけ頼ってんだよ。もっと人間的になろうよ。
なんかどこかで見たことある感じだね。でもこれは本当に理想的だと思うよ。
20歳の博士がいても良いじゃん。20歳の小学生がいても良いじゃん。
自分に合った適切な教育を受ける権利が皆に平等に与えられるべきだよ。
こういうことを考えるといつも受ける反論は「落ちこぼれが可哀相」という感情論。知るかそんなもん。
落ちこぼれは落ちこぼれ、ただし勉強に関してのね。それで良いじゃん。
勉強の意味を勘違いしてきたからこんな風になったんじゃないんですか?社会評価とか、もっと考え直したら良いのに。
学校なんていう形だけの存在を頑に守って来たからそう思うんじゃないんですか?
もっと、自由に考えるべきなんだよ。
あなたにとっての虐待の定義とはなんだろうか、被害者が加害者の保護下であるという関係を除けばあらゆる虐待は存在するが、今回は主に成人と未成年の間、親と子の間に存在する虐待について論考していこうと思う、なぜなら家庭というのは非常に外部と隔たれた空間であるからだ、教育の場であったり労働環境での虐待と比較するとお互いの利害に関係のない第三者の目に触れる機会は一気に減る、その分陰湿であったり陰険になるなどの諸問題は生ずるが同じ様な虐待が発生した時に他との比較が容易で無いという点において、また未だ家庭内部の隠され閉ざされた空間で行われている虐待についての個々の認識を明らかにしていく事が、この世から虐待による悲痛、声にならない声を浮き彫りにしまた被害者自身がより客観的に自己の被害状況を分析し気持ちの整理をつける事でより良い明日へと繋がる事を祈り進めていきたいと思う。
虐待の種類
虐待にも様々なものがあるが、一つに基本的には相手の事を思っているか?という漠然とした表現にその発生源を求める事ができる。もう一つは、相手の事を思ってしているという認識の行為が結果的に同じ結果を生じさせているという虐待について、また意図的、偶発的を問わず“何か”をしなかったという事が虐待になる事もあるので、それらを比較しながら論拠していきたい。
一、【故意】例
二、【過失】例
例えば、子供が他人の所有物を不当に取得した時などに“叩く”などの痛みを与える事で子供の犯した不当な行為を是正させようというもの、これでは罪を犯してはならない理由が“叩かれる”からだとの理解を子に与えかねない。裏を返せば叩かれてもいいくらい欲しい物であれば不当に他人から奪っても良いという事になってしまう。人間なのだから例え時間をかけてでも、物には“持ち主”という所有の概念があり、他人の所有物を正当な理由なく勝手に奪ったり何かしてはいけないと教えるべきだ。こういうと小さな子供にそのような説明をしてもわからないという人がいるようだが、行為の是非は痛みが伴うかどうかだと理解させてしまう可能性を与える行為こそ余計に子供が所有の概念を理解する事を阻むだろう。
三、【認識ある過失】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって苦痛が子供に生じるかもしれないと認識しながらも「もう我が子の年齢なら大丈夫だろう」と本人を介さない判断で放置した結果、実際は子供が精神的苦痛等を生じていた場合の虐待
※本人の事前の意思を汲んだ上での放置で、実際に子供に苦痛が生じても生じなくても、第三者から客観的には虐待と判断される場合も有る。
四、【未必の故意】例
意図偶発問わず放置に至った時に、その放置によって「子供に苦痛は生じる」と本人を介す介さない問わず判断し放置した結果、実際に子供に精神的苦痛が生じていてもいなくても構わないと思う虐待
他にも虐待時の心模様は分析できるが、虐待による不都合が生じるかどうかという点では、これらの行為が多岐に又、継続的に行われるかどうか、そして被虐待児の個体差に寄ってでしか判断できない事とより効果的な虐待ラインの線引きをする為に虐待の回数、頻度、継続性やその子供の人生に不都合が生じたかどうかは度外視し“その行為が虐待なのかどうか”に的を絞って進めていきたいと思う。
それでは、ここから思いつくままに、もっとイメージを換気しやすい実例を列挙していきたいと思う。
一、お父さんと息子がプロレスごっこをしていて上手く技が決まり泣き叫ぶ子供に対してもなかなか技を解かなかった。
一、食事を親の許容時間内で食べられずゆっくりと遅い食事スピードの子供に対して、精神的な怒りを顕わにし、その怒りを子供に伝えた。
一、兄弟喧嘩をした子供に対して、親の判断で判決を下し、制裁として一度の食事を与えなかった。
一、何時にお客様が来るからそれまでに部屋いっぱいに散らかった玩具を綺麗に片づけておいてねと子供に頼んだのに、その時間になっても部屋を片づけていなかった為、児童の頭部に真上から握りしめた拳の中指第二関節の先を尖らせた部分を振り落としそれなりの痛みを与えた。
一、子供が学校から持ち帰ったテストの結果を見ると20点と書かれてあった、問題内容や平均点などがどのような状況なのかは関知していないが主観的に悪い結果だと思ったので「なにこの点数は?」と冷めた表情で悲しみを子供に伝えた。
一、子供達数人を祖父母に預け遠方に行くことになった際に、お土産を買う事になった、その際個々の子の長男、長女、次男、二女などそれぞれにお土産を買う際に、自分の子に対する好きの程度が“ひいき”としてお土産の質にも反映された。
一、子供が食事に対して好き嫌いを顕わにした時に、栄養学的な事、勿体無い事、また添加物や農薬、化学調味料等による影響を考慮せず、また食べる事や残す事を“怒り”や“恐怖感”と共に子供に迫った。
一、子供に玩具を買い与える等の条件を設けてお手伝いさせたり、肩を叩かせる等した後に、その約束に対しての意識をおざなりにし約束をまだ守っていない。
一、子供に早く寝ないとお化けや怪物、悪魔に襲われるなどと自分の信じていない事実を信じこませ嘘の恐怖感で持って子供を自分の意図した時間帯に寝かせてしまおうとした。
一、家庭内でだれかの所有物が紛失した際に、証拠なく過去の行動等から子供のだれかが盗んだのではないかと疑いそれを子供に伝えた。
一、子供が嫌がったり、将来思いだした時に嫌だと感じる可能性がある行為を何らかの脅迫や脅し、また体格差による優位条件を利用して行った。セックス等
等々、枚挙に暇が無いが、突き詰めていくと、同意や相互の了解、約束の無い事で自分の保護下にある者に対して怒りの感情や、隠避の態度、また虚偽の同意や相互の了解、約束で保護下にある者の言動を操作したり、当初は嘘のつもりはなく結果的に不本意であったとしても謝罪無く保護者の立場を利用して子供の意思、期待を蔑ろにする行為を虐待と定義する事で、確かに、ほとんどは大した事のない軽度の虐待ばかりが散見するとは思うが、その浮き彫りにした小さな声の中から、継続的であったり深刻な状況に陥っている児童を露わにする事で虐待親からの保護活動がより進むのではないだろうか。
次に、虐待をされた側の福祉ではなく、虐待をしてしまった側の福祉を考えてみよう。確かに、認識の無い虐待の方が子供の悲痛は重いだろうが、罪悪感を認識しつつも己の言動を制御できず我が子に対してしてしまうという行為としての虐待の加害者も罪を理解しているという点においては周囲が手を差し伸べるべきではないだろうかと思う。何度も閉ざされた家庭内の出来事である事は強調するが、親自身が現在において健全であると因果関係の立証なくして自分の生育環境を我が子にも模倣するという事は大いにあり、その今現在健全である事はわが身が程度の差こそあれ受けた虐待が今のわが身の為になったと解釈しその虐待行為をまた我が子にしてしまうと言う物だ。
良かれと思いやっている事なのだがこの場合本人の気分もなぜか優れないという事が多いように思う。どうも本当はこんな事はしたくはないが、我が子の将来の為に体罰や強制、十分に説明のできない因果関係の不明な理由によって我が子の言動を統制するのは止むを得ないを自己を正当かするのだが、なぜか当の親自身は心のどこかに陰りを想わせる精神状態に陥ってしまう。
こんな時、もしも閉ざされた家庭でしかも虐待というナイーブな情報について共有でき、また素直な気持ちで自分の行為が虐待なのか虐待でないのか話しあえる場、意見交換できる場があったらどうだろう。
子を持つという事は責任が伴う。
ないものは仕方がない、生殖の自由を制限することもまた違うであろう
親になったからといって、社会は一律に保護者の責任を追及しても良いのだろうか?
そこに、責任という耐えがたい重圧感を与える事が、自らの育児教育能力を自己判断し自信が持てなかったり自己否定の念の押しつけられた時、弱者である子に対し“教える”という行為をしなければならなくなった時に怒りの感情が“怒る”という形で子に向けられてしまうのではないだろうか。
“怒る”について考えてみよう。
子供が何か良くない事をした時に「コラーッ」と怒った場面を創造してみて欲しい。
それは、子供がスーパーで売り物を食べ始めてしまった時かもしれないし、子供が自分で行きたいと言って行き始めた何かの教室を勝手に休んだ時かもしれない。
私や貴方はいったい何に怒っているのだろうか?
子供が確かに一度はしてはいけない事だと理解したのに、私欲のために再三した事が許せないという怒りだったかもしれないし、貴方がせっかく拠出した習いごとの月謝を無駄にされた事かもしれない。他にも様々な解釈はできるが“怒り”がなぜ生じるのかをよくよく考えてもらいたい。
そこに“悲しみ”はないだろうか?
人は悲しくないのに怒る事はあるだろうか?
元の感情として、自分が悲しくなる何かをされた事や身内が誰か他人を悲しませてしまう事が悲しくて、そんな思いはしたくないから“怒る”のではないだろうか?
子供には貴方や私が怒る理由を理解するのは難しい
まだ悲しい気持ちから怒りに転化したという実体験も希薄だろう。
これを読んでくれた貴方には
どうか
どうか素直な感情で我が子と接して欲しい
悲しい時には悲しい気持ちを我が子に伝えよう
あなたがそんな事したら、お父さん悲しいよ お母さん悲しいよ って
私や貴方がが無碍に他人を悲しませたいなんて思わないように
子供の純粋が気持ちとして、他人を悲しませるような事はしたくないという純粋が感情がある事を期待しよう
怒りは「快」「不快」という根本の感情よりも一段階上の複雑な感情だからだ
例え我が子にでも、悲しい思いをさせられたら「悲しい」気持ちを表してみよう。
きっと、わかってくれるはずだ
今からでも遅くない 例え貴方の子供が既に成人していたとしても
本当はどう思っていたのか? あの時は悲しかったんだよ だからあんな事をしてしまったんだと
また貴方の子がさらにまた子に対して同じ事を繰り返し、子が将来、あなたと同じ苦しみをする事を回避する為に
勇気を振り絞って、例え過去の事であっても当時の本音の素直な気持ちを話してみよう
きっと、貴方を許してくれるはずだ 貴方はもっと楽に生きるべき存在なのだから
@awaikumo