はてなキーワード: 考察とは
シン・ゴジラがやたらと面白い。2回観たけど、こんな泣ける映画ほかにない。
けどこの面白さがなんなのかよくわからなくて、ネットで溢れてる賛否様々な批評に目を通してもわからなくて、まあそれこそがどっぷりハマりきっている状態なのかもしれないんだけど、考えるにつけやっぱこれってオタク向けなんだろうなと思う。
シン・ゴジラというより庵野の話なんだけど、トップにしろエヴァにしろSF考察がすごい。現実の兵器は詳細だし、大嘘の部分はあたかも本当っぽくかつ冗談っぽくきっちり理論武装してひとつの世界を構築しているわけだから、ハードSF好きにはたまらない。
もし庵野作品がこれだけの要素で完結していたら、ほんとに真・オタク向け(歓喜)で、大抵の人は置き去りのまま、庵野はメインストリームに登場することなく一介のアングラ作家という位置付けだっただろう。こんなに一般に受けたのは、妙なケレン味と、安っぽさが同居しているせい。
安っぽさというのは、ベースラインがハードなんだから登場人物はオッサンだらけでいいのに、アイドル的美人・美少女が登場しちゃうところ。
ケレン味っていうのは、ゴジラ咆哮→放射というここぞの場面の演出とか、音楽の使い方が卑怯な感じでうまいこと。
で、この辺がおそらく日本人特有の琴線に触れる部分なので、海外(っていうとアメリカかな?)のマッチョな文化には響かないんだろうと思う。
庵野はほんとに、ドメスティックのオタク(もしくは庵野自身)だけをターゲットにすごい作品を作ってくれた。オタクかどうかを見分ける試金石的な作品なんじゃないかな。なのでこれが面白くなかったという人は、安心したらいいと思う。
今回はメテオ
ストーリーや展開、キャラの言動とかに説得力を持たせるには、理詰めや言語化が大事だってことは分かる。
けれども、逆にそれがリアリティを削いだり、不自然になってしまっている部分もある。
だって、ほとんどの人間は自身の感じたものを、すべて言語化しようとはしないし、できないから。
それに、いくら千の言葉を用いたところで、それを全ての読者に正しく読まれて、かつ納得して貰えるかなんてことは不可能なのだから、あえて「理屈を不足させる」っていうのも手法としてはアリだと思うんだけどなあ。
読者側に考察や想像する余地を与えるってのも、楽しく読ませる上では大事だよ。
無駄に反射神経すごいな。
何もないならないで一向に構わないのに、宙ぶらりんな状態だからヤキモキするなあ。
おー、直接的なエロ描写はないが、登場人物たちの感想と同じく「なんかエロい」と思わせてくれるね。
本旨から徐々にズレていく展開は予定調和だけれども、この巻と勇介の疑惑まだ引っ張るのか。
今後も定期的にオチとして使われそうだ。
確かに洪水起こしたり建物壊したり放射線吐いたりってのは東日本大震災的で、
「発生した事象」が東日本大震災を重ねあわせている事は確かなんだろうけど、
今回のゴジラは「解決しないでおくと際限なくでかくなる問題」という性格が与えられているし、
その根底にあるのは一人の人間の憎悪と、多くの人間の苦痛が設定されていると思う。
そう考えた理由は、ラストシーンの尻尾が、自分には「苦しみ悶える人間を縒り合わせて作ったのがゴジラである」という表現に見えたからだ。
最初は本当に何がしたくて暴れてるのか分からない感じで暴れていたゴジラは、
一時姿を隠した後、憎悪の塊のような形相の第4形態に変貌して姿を表したわけだが、
あの一連の流れは、ゴジラの思考というか、因果の存在を感じさせた。
あそこで民間人を見捨てられず、まだ弱い間にゴジラを殺せなかったことで、大河内総理は後の災厄の芽を摘みそこなった。
芽を摘めるのは人災だけだ。
自分の受けた印象だと、何らかの理由で不満を爆発させて無軌道な破壊をエスカレートさせた人々(第一形態、第二形態、第三形態)が、
強く対処できなかった事によって手のつけられない災厄となったものがゴジラ(第四形態)であるという感覚から、
ゴジラは「格差問題、民族問題等の、東京に住む虐げられた(と本人たちが感じている)層がテロリスト化する現象」の暗喩に見えた。
そんな感じ。
まず、これまでやってきた経験と、課金で買えるもの買えないもの、などから考えると、ゲームの基本方針としてプレイヤー
に望んでいることは、ひたすら歩いてポケモン捕まえろ、ということだと思います
射倖心をあおりつつ課金してアイテム買ってね、じゃなくて、金は払わんでいいからひたすら歩け、という方針です
課金目当てのゲーム設定なら、スーパーボールやハイパーボールも買えるようにするし、下手したら卵も売るかもしれない
おこうやモジュール焚かないとレアポケモンはまず出ない、って仕様にするかもしれない
しかし、そんなことはしていないし、ポケストップ巡りは課金に優る仕様になっていることに疑いはありません
じゃあ、ナイアンテックのビジネスモデルはどうなっているのか?というと、ポケストップを設置している企業からお金を
もらう、というのがメインの考え方になっている気がします
マクドが初期スポンサーだし、トーホーシネマズもここに加わったそうです
課金はゲームの流行り廃りで収入の増減があるけど、スポンサー料は変わらないので、計算は立ちやすいし、スポンサー
スポンサー料払ってまで、どこにでもあるポケストップを設置してもらうだけなのか?という点です
スポンサー料払うんなら、そこら中にあるポケストップと明らかに違う機能を持たせないと、出資したメリットがそこ
新たな協力企業が増えた、被災県と協力、とか言ったって、中身はポケストップとジム新設の話しかありません
ほんとうに、ポケストップ作るだけで、そのお金や企画に何か見合うものがあるのか?って思いませんか?
まあ実際、マクドは収益上がったらしいので、これでもある程度問題ないのでしょうが、、、
スポンサーポケストップには、特別な機能が今後出てきて、スポンサーポケストップに行きたくなる理由が発生する、
ということです
しばらく前、ガセか本当か怪しい情報だけど、ポケストップカスタマイズの説が出ていましたが、これはかなりあり
得ると思います
しかも、カスタマイズ可能なポケストップはスポンサーポケストップに限るのではないか、と思われます
もしくは、カスタマイズのバリエーションが多い、という可能性も考えられます
次に考える疑問です
これは、いつになるかわかりませんが、間違いなく実現するでしょう
しかし、ポケモン集めるしか意味を持たないゲームで、ポケモン交換しちゃっていいの?と思いませんか?
が、スポンサー企業への誘導をメインコンセプトと考えると、こんな説が出てきます
複数人が集まってちょっと話して滞在する需要があって、そこにマクドがあるなら?入りますよね?
店の前でもいいっていうかもしれませんが、暑い日も寒い日もあるわけです
一定数が入るでしょう
が、これにより、ポケモン集めに歩く人が減るのではないか?という懸念にはどう答えればいいでしょうか?
これにはもちろん、交換はできても、集める理由が図鑑完成以外別にあればいい、ということになります
現在ジム戦に興味がない人でも、ポケモン交換できる相手がいたら、一試合くらいしていくでしょうし、
対人戦が行われるようになると強化のモチベーションが格段に上がります
強いポケモン、強い技のポケモン、限界までの強化、したくなります
これを考えると、対人戦実装と交換の実装はセットであると言えます
少なくとも、交換だけ先に実装、というのは運営側に利点が薄いように思います
そして、ポケモン強化へのモチベーションと思うなら、対人戦はジムに限らずどこでも出来るようになる
のではないでしょうか
延々対戦して居座られても店は困るしね
そしてたぶん、対人戦からの回復にも、元気のカケラやキズ薬が必要になってていて、対人戦何度かやっ
たら、またポケストップ巡りをしなければならなくなるのでしょう
こう思うと、わざマシンの実装、わざの変更、これについては絶対ないという結論になります
強い個体値のポケモン、強いわざを持ったポケモン、限界までの強化、これを最大の目的と掲げた時、
ポケモンの収集しか方法はない、という状態には絶対にしておく必要があります
課金でわざマシン、ボス戦でわざマシン、こんなことができたら、布陣が完成して、ポケモン収集の
わざマシンを配るくらいなら、強い個体値と強いわざを覚えた限定ポケモンを配布する方がなんぼ
か現実的なんじゃないでしょうか
ギークがあるあるってなる描写も多くて個人的には楽しかったです。
他の人はどう思ってるんだろうって。
「京急線を除き通常運行」といったようなニュース音声があると思うんですよね。
あの、聞き間違いとか思い違いとかだったらとても申し訳ないんですが、
蒲田駅東口商店街経由で池上通りに出てその後第一京浜から北品川に至るってことは、
(その後の在来線爆弾考えると大井町の車両基地と品川は無事っぽい)
あ、あのシーンでJRも止まってる描写があったらごめんなさい。
それはそれでこの疑問が晴れてスッとします。
【追記】
│ │ 八ツ山
│ │
池上通り│ │
│ │
│ │
│ │
(引用)
崩御、即、改元ではないとしたら、象徴天皇制であっても明治時代以来の転換となりますので、これまでのあり方が大きく変わることになります。政府にも国民にもそれなりの自覚が求められますが、果たしてどこまで考察が深まるだろうか。
追記 拙著「東条英機処刑の日」(文春文庫版)の宣伝と思われるのがいやだったので書きませんでしたが、皇太子時代の、15歳の誕生日に戦犯が処刑されたのはGHQが仕組んだ導火線でした。天皇誕生日ごとに休日となりあの戦争を思い出す仕掛けです。しかし昭和天皇が長寿ですっかり忘れられてしまいましたが、今上天皇陛下はひとときも忘れずアジアや沖縄など戦争の被災地を訪問し続けたのです。
-------
明治以降の転換なのでこれまでのあり方と大きく変わる
今回の事件は
の3つの争点があって、2つ目の対応が炎上の対象になっている。
1つ目も考察すべきだろうけど、それは分けて考えないといけないと思うよ。
選挙が終わるたびに、各候補や各党について、この主張が〇〇層の人気につながっただの、こんな選挙戦しかできないようでは×党は終わりだだの、そういうニュースやコメントが増える。選挙結果をよく説明する分析も当然あるだろうけど、これ、もういいわ〜って思う。"×党は選挙がヘタなので終わっている"ということを投票する側に理解させてどうするんだろう?"では、選挙が上手な〇党に入れましょう!"って話がしたいんじゃないだろうに。
必要なのは、当選した人が今後いい仕事をするように促すことや、人気取りの技術に依存して当落が定まってしまう(しまった)ケースを注意・反省することだと思うけど、分析結果をそういうことに貢献する考察まで持っていってるのはほとんど見たことがない。単に分析結果を説明するだけなので、人気取りにおいて優秀な人が、あたかも為政者として相応しい人であるかのように感じてしまう。でもちゃんと考えたら、人気を集めて維持する技術がある人を為政者として選びたい訳じゃない。ある状況で適切に振る舞えることは、プラスではあるけど、選ぶ決め手にするほどのことではない。行政の仕事を遂行するには別の能力がたくさん要る。
この当たり前のことを改めて確認し、気持ちわる〜くなった夏の1日。
なお、報道は事実を伝え、解釈は受け手に委ねるのが大事みたいな話はこの場合眠たい話。各メディアの解釈がきちっと構築してあるほど、各々をぶつけたり比較したりする間に話を深められる。正直、自分の解釈を打ち出すのを尻込みしてるから、代わりに"客観的"な技術分析でお茶を濁してるように感じる。
とか言ってますが、自分のこの記事自体が技術分析みたいなもんです。ごめんなさい部屋の掃除でもしてさっさと寝ます
分析は大事だしそれなりに難しいけど、きちんとした分析結果をつかって解釈や主張をまとめるまでが本当の仕事です。メディアの皆さま頑張って!ということです。本当に言いたいのはね。
本作も庵野作品らしく、元ネタからテーマを考えると分かりやすい。以下、元ネタと目される作品・事件との比較から本作のテーマを考える。
http://anond.hatelabo.jp/20160731121447
『シン・ゴジラ』は『日本のいちばん長い日』から多大な影響を受けている。激しいカット割りは岡本喜八作品の特徴そのものであるし、日本が重大な危機に直面した際に、どう対応するのかということを題材としている点でも同一である。
しかし、そこで描かれるテーマは異なる。『日本のいちばん長い日』はポツダム宣言受諾を目前に、原爆を2発落とされておきながら、なお利権争いを続ける官僚・政治家の醜悪さが描かれる。そこでは官僚・政治家が一丸となって事態に対処するという姿勢は見られず、最終的な解決は天皇が”ただ独りで”下した「御聖断」によってつけられる。
他方、『シン・ゴジラ』では、責任逃れのために策謀を凝らす政治家・官僚が現れたりはするものの、官僚・政治家・科学者(+ドイツ・中国・米軍)が”一丸となって”ゴジラの問題に対処する。そこには、どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる、というポジティブなメッセージがある。
『シン・ゴジラ』のストーリー展開は『エヴァ/ヱヴァ』におけるラミエル戦とそっくりである。すなわち、『エヴァ/ヱヴァ』においては使徒ラミエルを倒すために全国の発電所および送電車が動員され、日本国が一丸となって協力する姿が描かれる。『シン・ゴジラ』においてはゴジラを倒すために全国のプラントおよび化学工場が動員される。
『エヴァ/ヱヴァ』においては、こうした戦いを通じて主人公シンジ君が生きる意味を見出す過程が描かれる。父に捨てられた経験から生きる意味を見失っていたシンジ君は、エヴァに乗って世界を救うことが自分の使命であると自覚していくのだ。
しかし、シンジ君はその後、使徒レリエルとの戦いの過程で、自分が乗っているエヴァがとんでもない化け物であることに気付きはじめ、続くバルディエル戦で親友トウジに重傷を負わせる(漫画版では殺害)に至って、生きる意味を完全に見失う。
そこで描かれるのは「みんなで協力して事態に対処したところでそれらは全く無意味である」というかなりニヒリスティックな結論である。
他方、『シン・ゴジラ』においてはこうしたひねくれたストーリー展開はないため、「みんなが一丸となって協力すれば危機を乗り切れる」というポジティブな結論になっている。
『シン・ゴジラ』においては初代ゴジラをリスペクトすることが明言され、ゴジラのデザインやストーリーに初代ゴジラの影響があることがしばしばインタビューなどで語られている。
『ゴジラ』のテーマの1つは、当時問題となっていた第五福竜丸事件を背景とする、反核兵器の思想である。ゴジラは水爆実験の影響で出現し、東京でゴジラがまき散らした放射線は罪のない児童にまで及んだという描写からこれがうかがえる。
他方、『シン・ゴジラ』でも核及び原子力問題がテーマとされている。ゴジラは海中に投棄された核廃棄物を喰らったことで東京に出現し、原子力エネルギーによって動いている。
しかし、『シン・ゴジラ』ではこの問題に対する姿勢はもう少し複雑なものとなっている。
まず、①原子力で動くゴジラの破壊力はすさまじく、東京は一瞬で火の海にされてしまう。他方、②ゴジラがまき散らす放射線による被害は小さいとされ、③ゴジラのエネルギー源の研究を進めれば現行の原子力発電よりもより安全でクリーンなエネルギーを調達することができることも示唆される。作中ではこのゴジラの2面性を評して「ゴジラは神の化身にして、人類に福音をもたらすもの」とも言われる。
しかし他方で、④国連安保理による核兵器投下はきわめて否定的に描かれる。
ここには、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」というメッセージがうかがえる。
以上の検討から、『シン・ゴジラ』のテーマは、「どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる」ということと、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」という点にある。
◇「私は好きにした。君らも好きにしろ。」は岡本喜八監督から庵野監督へのメッセージ(牧吾郎の写真に岡本喜八監督の写真を採用したのはこのせい)。「この国で好きを通すのは難しい」はこれに対する庵野監督の回答。現代における作品作りの難しさを言っている。
これを踏まえてラストの「そろそろ好きにしたらどうでしょうか」を聞くと趣深い。すなわち、『シン・ゴジラ』は、色々な制約(予算やオールドファンの批判)で自分の好きに映画を作れない監督が、それでも俺は好きな映画を作るんだ!という映画である。結局、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』のラストと同様、フェリーニの『8 1/2』と同じ結論になる。
◇ラスト、血液凝固剤を流し込むシーンは、一見バカバカしいと思ってしまうが、福島第一原発にコンクリートを流し込むという形で実際にやったこと。
◇ラスト、ゴジラは死には至らず、凍結されるにとどまるが、これは同じく凍結状態にある福島第一原発を模している。今後も対処を続けないと、とんでもないことになるよ、という暗喩か。
(1) 孤独な男(シンジ・牧吾郎)が、強大な力(13号機・ゴジラ)を手にして事件を引き起こす。
(2) 危機に対応するのが現実主義的な集団(ゴジラ討滅のために核の使用も辞さない人類・エヴァ殲滅のために初号機を主機として使用するヴィレ)である。
すなわち、両者ともに、危機に対する現実主義的な対応を描いている。トーンの明暗を分けたのは、視点を孤独な男(シンジ)サイドに置くか、現実主義的な集団(日本政府)に置くか、の違い。
妻を放射線で亡くしたことで反原発思想になった結果、日本の学界を追放されてアメリカへ。
国民の生活や命よりカネを優先して原発開発を続ける日本に報復するために、核エネルギーで動くゴジラを出現させた。
その結果、①多数の東京都民が疎開により生活拠点を奪われ、②いつ復活して再び惨禍をもたらすか分からない凍結ゴジラが都のど真ん中に鎮座してしまった。
まずはじめに、(対価のない)残業とか長時間労働は、悪であるっていうのは異論がない。
じゃなんでこんなドラマ作ってるんだよ、糞野郎死ね、と言われれば反論のしようがないんだけれど視点の補足として2点ほど足したい。
ひとつめは、僕等としては残業を戦いたいわけじゃなくて苦闘みたいなものを描きたいんだよ。物語上の要請として、成功や勝利の全段階として、苦戦や熱戦の描写が必要だ。これは物語設計上の問題なので、もう、どうにもならん。エンタメとして人間が楽しめるパターンは限られてる。難問の提示→工夫や挑戦→解決(勝利)という構造は、壊せない(壊してもいいけれど、エンタメとしては大衆に訴求できなくなるだけだ)。
もちろん、「苦闘」という抽象的な設計要請を「長時間労働やブラック労働描写」にする必要はない。感情導線を作中のどういうエピソードとして描くかは、作者(この場合脚本家か)の腕の見せ所だ。他の苦闘描写にすればいいじゃねえか、と言われれば、Yesだ。それが視聴者や読者に不快しか与えないのは、作者側の技量不足、というほかない。という原則論を先ずは掲げておき、次には「じゃあ、現代日本の作者の平均的技量はどうか?」という視点で見てみると、例示されたテレビドラマの脚本家が著しく能力に劣るとは思えない。「家を売るための工夫」みたいな部分で、じゃあ他にどんな描写が出来たか、新素材開発の技術者敵苦悩? 銀行の根回しの政治闘争? どれも尺的な問題や、他のドラマ部分との整合性で難易度が高そうだ。もちろんそういった変わったエピソードを迫真性を持って描ける有能な作者もいるがそれは平均レベルではない。
(すべての作者や脚本家は有能であれ! という意見は一理あるが、それが現実の社会で実践できるかは、増田全員が自社や自分の身の回りを見回せば納得してくれると思う。創作者の世界だって、有能な人間の割合は変わらないのだ)
二点目の問題として、「このシーンは苦戦、苦闘のシーンなのだ」というのを視聴者に伝えるエピソードとして、ブラックな労働というのは、視聴者からみて「理解可能」なのだ。作家(脚本側)は、この「理解可能」という制限範囲内でしかものを作れない。その範囲を超えてしまうのは、芸術としてはありかもしれないけれど、大衆エンタメとしてはNGだ。増田がそのブラック的な業務(っていうか、子守って業務なのかどうかわからないが)をみて「これはひどい」と思ったのなら、それは「ヒドいシーンを描こう」という目論見が成功した結果だ。
たとえば、プログラマなどはその業務において、本当にクリエイティブなのは頭のなかで実装アイデアを考えている瞬間だ。そこに快楽とブレイクスルーの高揚があるとは思う。しかし、その瞬間は、他人から見れば散歩中であったりモニターの前で空中を見つめているだけだったりする。それを「熱戦」であったり「苦闘」だと、圧倒的多数の視聴者は理解できない。同じオフィスで働いているOLだって理解できないくらいだ。理解できるようにドラマ的な補助線を引いてやるなり、読者視聴者に分かる程度に戯画化してやるしかない。「ムカつく糞ガキの子守」というのは、この戯画化の結果だ。
つまり、件の展開は作家・脚本家の工夫の結果だといえるだろう。
第三に、ドラマなるもの、エンタメ創作は「特別なもの」を描くものだ。これは、もうすこし常識として言語化されていいものだと思う。なんでコナンではあんなに殺人がバンバン起きて密室が出てくるのか? それはそれが「特別なもの」で「常とは異なるもの」だからだ。「だからこそあえてそれを描いて世に表す価値がある」という考えのもと、エンタメとして成立している。青春時代の初恋や、大正時代なハイカラ女性の自立や、銀行員の造反もそうだ。日常系の物語でさえ「日常の中のちょっとした特別」という意味で特別を描く。描くという行為そのものが、その描いたシーンを描かずに省略したシーンに比較して特別にするという創作的な処理なのだ。
その「描かれた特別なもの」を「一般社会常識に反している」という視点で糾弾してしまうと、エンタメ作品の多くは枯れ果ててしまう。件のドラマは、逆に言えば「一般社会ではあっという間に糾弾されてしまうような『特別な』ブラック労働なので、あえてそれを描いたのだ」といえるだろう。
もちろん(対価のない)残業とか長時間労働は悪である。それを礼賛するような「描き」になってしまったのは、前述したように作家・脚本家側の技量不足である。しかしながら、以上3点の視点補足が、この種の問題に対する考察の糧となってほしい。
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http://www.mag2.com/m/0001670226.html
今回の都知事選挙の後藤輝基もそうだし、あの殺人犯もそうだし、トランプ氏とその支持者もそうなんだけど…共通するのは「ネトウヨ色」があるのよねぇ…。
kanose的な昔の人らが初老の人らが頭ごなしにネトウヨを揶揄するのは簡単だけど…アレが出てくる理由をもっと真剣にかんがえた方がいい— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年7月28日
https://twitter.com/tm2501/status/758161603342860288
はてブユーザーはこういう記事こそブクマして応援しなさいよ!!揉め事とか暗い事件ばっかりブックマークしてるやつらがkanoseという妖怪を生み出すんだ / “ポケモンGOは赤緑青よりかなり昔の世界なのではないか?という考察
僕がフミコフミオ、ヨッピー以外で「この人には勝てない」と思うレベルの人に小島アジ子さんとコンビニ店長がいるんだよ…。(kanoseとかハックルじゃないんだよ)
はてながブログ文化の名門だと思ってきたのは村長とか、おおつねの存在ではなく、むしろ店長とかフミコフミオさんの影響ですよ— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年7月25日
お金儲けの技術はともかく、文章としてコンテンツとして絶対勝てないレベルの人がいっぱいいたんだよ…。
僕〜しっきーぐらいの世代は平均値は上がったよ?でも、最高値で店長やフミコフミオを超える人は出てこなかったんだよね…
大学生ブロガーの無知が怖いのはすごい先輩を知らなすぎることさ— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年7月25日
言っとくけど、俺ぐらいのランクなら本当はkanoseぐらいは倒してなきゃいけないのに、できてないからすごくないのよ。
そりゃ、先行者は徒党を組んで昔の人を持ち上げ、今の人を攻撃・無視したりする。でも、世代のトップまで来た人はその界隈の過去のカリスマか、その界隈の外で勝たなきゃ— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年7月25日
https://twitter.com/tm2501/status/758658782142410753
何が怖いかというと部分的に正しく、部分的にまともで自覚的なキチガイだから怖いんだよ…かと言って、笑わせようとしているんじゃなくて大マジ感がちゃんと出てるのよねぇ〜
http://b.hatena.ne.jp/entry/295905475/comment/TM2501
正直、他人とは思えないものは感じるよ?この容疑者と同じ歳だし、身内で体の自由が効かなくなった人もいるし。…ただ、彼と違うのは彼は殺す道を選び、僕は人権派弁護士みたいな人の欺瞞に抗議する道を選んだ
細かいことはメルマガとnoteでお金払ってる人限定で配信するけど、僕はあの大量殺人犯については同情的よ?少なくとも障害者だとか水商売してる女だとか、ああ言う人の権利を主張することが「人権」だと思ってるバカな弁護士・言論人よりはまともだと思うもん。まぁ、認めるべきではないが。
…いや、僕がオタクとかうつ病とか若者とかそういう自分が当事者的に関わってるものが権利や配慮を勝ち取るように勝ち取るように喋ってるのは、黙ってたら虐げられるからだし、障害者とか女性とか特別な人しか人権派(笑)は人権を守ろうとしないから自分で何か言わないとダメだからですよ…はい。
突っ走ってみようか?和解できない苦しみから逃れる為とか言って行きつく所まで行ってしまう!帰属感は味わえるって寸法!そしてテロリストにでもなって…言うんだ 私程深く真剣に社会と接触している者が他にいるだろうか?と。
ポケモンの記事を書くのに忙しい&社会のポケモンムードの中で殺人事件の話をブログに書きたいとも思わないから明日のメルマガで殺人事件の話をやり、明後日のメルマガで外山恒一と後藤輝基の話するわ…。いつもはメルマガのほうがつまんない古都書いてるけど…今回はちょっと違うことになるかも
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だから金持ちになろうってずーっと思ってきて、ようやく達成したんだがとても空虚だ。
全く嬉しくないといえば嘘になるけど、愛犬と戯れてるほうが一億貯めるより楽しいし幸せな感じがする。
金持ちになってやりたかったこと色々できたけど、その時だけ楽しくてすぐ気持ちが冷める。
思えば金が稼げ始めた時もどこか他人事というかどうでもいい感じがしていた。
多分金を稼ぐのはコンプレックス解消という面しか持ってなくて、俺を幸せに導いてくれることではなかったんだと思う。
それでじゃあ俺にとって人生で一番幸せな瞬間はなにかと考えて、女性に優しく抱きしめられた時だなと思った。
貧乏だし長男だしで甘えられる時なんて殆ど無かったから飢えてるのかもしれない。
しかし歳も歳だから今更女性に甘えられないし、厳格なイメージを持ってるからなおのこと。
http://www.asahi.com/articles/ASJ7663TXJ76UTQP026.html
ブコメ読んで気になったので持論を整理した.
ボランティアの本質は志願者の自主性であり,募集者と応募者の契約だと考える.従って,どんなに条件が厳しく,かつ無償のボランティアの募集をしたとしても,その募集に違法性がなく,かつ自主的に応募する者がいる限り外野が何かを言うことは基本的に意味がない.
また,募集者側が一方的に莫大な利益を得て,応募者に配分されなかったとしても,契約が成り立っている以上そのことを批判するのは筋が通らない(納得できないのであれば応募しなければいいため).
従って,他者に対してボランティアすることを指示したり,強制したりすること,及びボランティア精神が足りないと嘯くことは原義に反する.
そのような場合は「無償労働」「奉仕」「奉公」のようなより適切な表現をすることが望ましい.
同時に,オリンピックのような大規模かつ成功させることが必須となるイベントにおいては,国民のボランティア精神のような曖昧なものに頼るのことはそもそもおかしい.
仮に無償ボランティアであることを押し切った結果人材不足となりイベントが失敗に終わったとしても,その責任は全て運営者に帰するものであり,ボランティアを呼びかけられた側に一切の非はない.
生活がかかっておらず,時間に余裕がある学生によく見受けられるが,無償あるいは格安でいいから働きたいという人がいることがその関連分野の衰退に繋がるということがボランティアに限らず考えられる.
これはある意味ではダンピングであり,「他の人は同じことをもっと安くやったのになぜやってくれないのか」という一部のクライアントが常用するロジックに繋がっていく.
そのような意味では,労働に対しては(正当な)報酬が支払われるべきという資本主義の原則に則り,募集者,及び応募者を批判することは正当である.
報酬を支払うということは労働に対して責任を負わせ,報酬を貰うということは労働に対して責任を負うことである.
応募者の精神という比較的曖昧なものに則った無償ボランティアは必然的に責任の所在が曖昧になるため,追加労働や契約履行等の「お願い」は出来ても「強制」は困難である.
そのようなリスクを回避したい場合,そもそも無償ボランティアに頼るべきではない.
法に従っており,募集に対し自主性をもって応募者が契約を結んでいる限り,根本的にはそのことに対し何かを言うことは意味がない.
しかし,その契約が応募者の見込み違いや錯誤によるものだとすれば,外部のものが応募者に対し制止の助言をすることはそうおかしいことではない.
直感的に言えば,奴隷募集に対し自主的に応募した応募者に対し,本当に奴隷になっていいのか,奴隷を甘く考えていないか,あるいはBのような関連分野に対する影響を指摘することはできる.
冒頭の朝日新聞のような場においては「そもそも、ボランティアとは、社会のために自ら進んで、無償で働くもの。」と言われることが多く,日本においても大多数の認識はその通りであると考えられる.
しかし,非営利団体が営利を目的としなければ金銭のやり取りをしていいように,自主性という原則さえ守られていれば,交通費,宿泊費といった実費のやり取りをすることや,最低限の報酬を支払うことも立派なボランティアであると考えられる.
何を考えていたか後で振り返る為
上記内の記事でもそうだし、
散々いろんな優秀な方々が言ってることだから
「技術が単純に好きなこと」
なのだろう。。。多分。
そこでふと思ったんだけど
この技術が「好き」という想いには
【Level1】:
ネットや本屋で新しい技術を目にすると、ざっと確認してしまう習慣がある。
【Level2】:
Level1に加え、自宅でWebサーバを公開したり、アプリを作成している。
またこのレベルからはデザイン、UI/UX、DB、セキュリティ、インフラ技術など、興味関心が多分野へ渡り、コミットし始める。
【Level3】:
Level2に加え、休日はしっかりと時間を確保し、技術の習得や、OSSへのコミットを楽しんでいる。
【Level4】:
Level3に加え、技術が面白すぎて、いろんなアイデアが一日中頭の中に浮かび、
【Level5】:
Level4に加え、FWやライブラリのソースを読破し、茶々を入れることに喜びを覚える。
【Level6】:
現在第2のMatzになるため、世間から隠れたところで日々ハッピーエンジニアリングに勤しむ。
↑これあってる?