http://www.asahi.com/articles/ASJ7663TXJ76UTQP026.html
ブコメ読んで気になったので持論を整理した.
ボランティアの本質は志願者の自主性であり,募集者と応募者の契約だと考える.従って,どんなに条件が厳しく,かつ無償のボランティアの募集をしたとしても,その募集に違法性がなく,かつ自主的に応募する者がいる限り外野が何かを言うことは基本的に意味がない.
また,募集者側が一方的に莫大な利益を得て,応募者に配分されなかったとしても,契約が成り立っている以上そのことを批判するのは筋が通らない(納得できないのであれば応募しなければいいため).
従って,他者に対してボランティアすることを指示したり,強制したりすること,及びボランティア精神が足りないと嘯くことは原義に反する.
そのような場合は「無償労働」「奉仕」「奉公」のようなより適切な表現をすることが望ましい.
同時に,オリンピックのような大規模かつ成功させることが必須となるイベントにおいては,国民のボランティア精神のような曖昧なものに頼るのことはそもそもおかしい.
仮に無償ボランティアであることを押し切った結果人材不足となりイベントが失敗に終わったとしても,その責任は全て運営者に帰するものであり,ボランティアを呼びかけられた側に一切の非はない.
生活がかかっておらず,時間に余裕がある学生によく見受けられるが,無償あるいは格安でいいから働きたいという人がいることがその関連分野の衰退に繋がるということがボランティアに限らず考えられる.
これはある意味ではダンピングであり,「他の人は同じことをもっと安くやったのになぜやってくれないのか」という一部のクライアントが常用するロジックに繋がっていく.
そのような意味では,労働に対しては(正当な)報酬が支払われるべきという資本主義の原則に則り,募集者,及び応募者を批判することは正当である.
報酬を支払うということは労働に対して責任を負わせ,報酬を貰うということは労働に対して責任を負うことである.
応募者の精神という比較的曖昧なものに則った無償ボランティアは必然的に責任の所在が曖昧になるため,追加労働や契約履行等の「お願い」は出来ても「強制」は困難である.
そのようなリスクを回避したい場合,そもそも無償ボランティアに頼るべきではない.
法に従っており,募集に対し自主性をもって応募者が契約を結んでいる限り,根本的にはそのことに対し何かを言うことは意味がない.
しかし,その契約が応募者の見込み違いや錯誤によるものだとすれば,外部のものが応募者に対し制止の助言をすることはそうおかしいことではない.
直感的に言えば,奴隷募集に対し自主的に応募した応募者に対し,本当に奴隷になっていいのか,奴隷を甘く考えていないか,あるいはBのような関連分野に対する影響を指摘することはできる.
冒頭の朝日新聞のような場においては「そもそも、ボランティアとは、社会のために自ら進んで、無償で働くもの。」と言われることが多く,日本においても大多数の認識はその通りであると考えられる.
しかし,非営利団体が営利を目的としなければ金銭のやり取りをしていいように,自主性という原則さえ守られていれば,交通費,宿泊費といった実費のやり取りをすることや,最低限の報酬を支払うことも立派なボランティアであると考えられる.