はてなキーワード: 文庫本とは
『ネコつきマンション』なんてのが、ちまたで流行っているようだけど、ネコを飼うのはなかなか大変だ。
ネコは基本的に飼い主のことなんかそっちのけで、ふらりと出て行っては、ずいぶん長い間帰ってこなかったり、
ともすると突然帰ってきたりする。
子猫連れて帰ってくることも(稀に)ある。
で、こっちが増えた新入りの世話に追われて、てんやわんやになっているのを横目に、古残のネコどもはエサだけ食べて、あとはぶらぶらしている。
のんきなもんだよ。
俺は、ずいぶん長い間、ネコさま方とは懇意にさせて頂いている。
一人暮らしを始めた時に、入居した部屋がたまたまペット可で、雨の日にずぶ濡れになっていた黒猫を保護した。
それ以来、知り合いから引き取ったり、野良の屋根になったりしたりで、どっぷりネコ生活を続けている。
もう10年になる。
ある、平日の昼のこと。
その日、大学の講義がなんかの理由でポシャって、友だちにもハブられた俺は、部屋でひとり優雅に茶でも飲みながら読書、と決め込んだ。
寂れた古本屋の店頭に100円で置いてあったやつを値段に惹かれて買ったのがいけなかったのか、文庫本はあまりに退屈だった。
いつしか読書に飽きた俺は、一人がけソファで、つい、うとうとした。
すると、ニャーと声を鳴らして、足元にネコが寄ってきた。
ん?こんな奴いたっけ?
当時のうちは野良のたまり場になっていて、常時2匹は滞在していて、ぜんぶで10匹位はいたと思う。
そのなかに三毛猫はもちろんいたけれど。
はて、こんなにスリムな美形さんはお目にかかったことがない。
いや、やや、顔のパーツが離れているか?
説明しにくいのだが、鼻に対して、目と口が若干離れている。でも、顔自体は大きくない。
こっちが見つめていると、嬉しそうに、ニャーともう一度鳴き、俺の足元をグルリと周る。
いやしかし、俺ってばネコちゃんにモテモテですねえ。次から次へと取っ替えひっ替え、まったくお盛んなことですねえ。こんな調子で彼女もできればいいんだけど。だがしかし全然脈が無い、どころか女の子と付き合いがない。なぜならば理系まっしぐらの男子大学だからである。当然の帰結である。出会いが欲しい。どこかに無いか。バイトでもすればいいのではないか。バイトすればネコの餌代もまかなえて貧困生活から脱却できるのではないか。でも俺がバイトしている間、こいつらの面倒は誰がみるのか。
俺はため息を付いて、足元の新入りを見た。
こっちに顔を向けたまま、微動だにしない。
あれ?なんか、さっきより目の位置が離れていないか?
よく見ると、鼻も下がっている。口も離れていく。
そういえば、他のネコの気配がしない。いつもいるはずのネコ達が今は一匹もいないようだ。窓の外からは何の音も聞こえない。
冷や汗がつたう。目をそらす事ができない。
ネコの顔は、どんどん離れていった。
凍りついたように固まっている。
やがて、顔には何もなくなったが、顔をゆっくりと前後に揺らして、
「ゔあ゛あ゛あ゛あ゛」唸るような音を出した。
http://anond.hatelabo.jp/20140220134409
何事かと思いましたが、案の定増田に書いてましたねw
冗談はさておき。
覗き見はダメです。
置きっぱなしにしたのは失敗でしたが、
メモの紙は真ん中じゃなくて、
ポケットのところに入れているはずなので、
Kさんが見たこと、わかりました。
こういう流儀がいいのかしら、
人は、してもらったことより、
してあげたことを覚えているのだそうです。
あと、私がどういうふうに今まで別れを経てきたのかとか。
聞きたがったから話したじゃないですか。
それで、ワガママいっぱいだった私は、
実際にやってみよう、って思ったんです。
あなたがしてくれたことばっかり書いてあって、
気持ち悪かったですか?
怖かったですか?
人に見せる用じゃなくて、
もしイヤなら、やめます。
私が「嬉しかった!」って思ったことだけ書いているので、
お正月のコトとかは書いてないでしょ?
そこまで見てないかな。
あと、爆弾発言をすると、
私の使ってないほうのバタフライちゃんには、
Kさんの後ろ姿とか、
寝顔とか、
そういうの、いーーーーーーっぱいあります。
でも、私、Kさんが
私の寝顔とか、
料理してるところとか、
これはお互い様ですよねw
じゃ、そんなかんじで。
もし、気がついてくれたら
Kより。
いつもカバンに入っていた手帳が無造作に机の下にころがしてあった。
俺はその手帳に気が付かず最初蹴っ飛ばしてしまったので、だらしねぇな、と思いながら彼女の鞄にしまってやろうとしたら、
手帳に挟んであったらしき紙が落ちてきた。
そこには
○月×日 トイレットペーパー取り替え
○月×日 夕飯(▲▲▲でパスタセット)
…
と彼女の文字で殴り書きしてあった。
これ、彼女が俺にしてくれたことじゃない。
俺が彼女にしてあげたことだ。
少し震えながら紙を挟んであげようと思い、手帳の中程を開いたらウィークリーリフィルのページだった。
そこにも同じように俺が彼女にしてあげたこと(大きなことも小さなことも)が書いてあった。
プレゼントの内容だけだったらこんなに怖く思わなかったと思う。
例えばスーパーで俺が細かいのを多くだしたことなんかも書いてあるんだ。
なんだこれ、すげえ怖い。
その日は手帳をそのままにして何事もなかったかのように過ごしたんだが、明日の夜に夕飯に行くことになっている。
また手帳に書かれるんだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20140219175828
Kさんへ
http://anond.hatelabo.jp/20140219175828
何事かと思いましたが、案の定増田に書いてましたねw
冗談はさておき。
覗き見はダメです。
置きっぱなしにしたのは失敗でしたが、
メモの紙は真ん中じゃなくて、
ポケットのところに入れているはずなので、
Kさんが見たこと、わかりました。
こういう流儀がいいのかしら、
人は、してもらったことより、
してあげたことを覚えているのだそうです。
あと、私がどういうふうに今まで別れを経てきたのかとか。
聞きたがったから話したじゃないですか。
それで、ワガママいっぱいだった私は、
実際にやってみよう、って思ったんです。
あなたがしてくれたことばっかり書いてあって、
気持ち悪かったですか?
怖かったですか?
人に見せる用じゃなくて、
もしイヤなら、やめます。
私が「嬉しかった!」って思ったことだけ書いているので、
お正月のコトとかは書いてないでしょ?
そこまで見てないかな。
あと、爆弾発言をすると、
私の使ってないほうのバタフライちゃんには、
Kさんの後ろ姿とか、
寝顔とか、
そういうの、いーーーーーーっぱいあります。
でも、私、Kさんが
私の寝顔とか、
料理してるところとか、
これはお互い様ですよねw
じゃ、そんなかんじで。
もし、気がついてくれたら
Kより。
電子書籍は便利なんだけど、電子書籍じゃないものが大半だから普通に買おうと思っても無かったりする。
洋書とかばかり買ってしまうんだけど、これが普通の本も電子書籍ならなあ。
エロ漫画の単行本とかは電子書籍らしいけどさ。でも、雑誌とかは電子書籍じゃ無い。雑誌が電子書籍なら鉄で買うのになあ。
あと、オナホを買うんだけど。
だいたい、午前中に頼めば15時くらいには来る。
午後頼んだら翌日。
まあ、寝る前に頼むのなら全く問題ないんだけど、抜きたいときにサッと届かないのがだるいね。
なんつーか、人気のオナホ&ローションセットなら1時間以内に届くとかそういうパックシステムが欲しいね。
食品も、レアな肉とか買ったりするのはいいんだけど。ちょっとね。
まあ、結局。
①電子書籍をもっと増やして。雑誌や文庫本は電子書籍基本にして
②アダルトグッズや食品は、1時間で届くレギュラーパックって奴をつくってよ。待てない。これさえ出来れば、「リアル店舗<<<アマゾン」だよ。
ってことか。
クッソ安い米とか、
クッソ安いパンとか。
そういうので日本の底辺を助けて欲しい。
月1,2万円で十分飯が食える社会にしてほしい。
頼むぜえ。
http://blog.livedoor.jp/remsy/archives/51822273.html
パスタはクッソ安いらしいな!
買うわ!
ずっと俺を可愛がってくれている彼氏もちの女の先輩がいた
美人ではないが可愛い系で、雰囲気でいえば天然でふわふわした感じ
ラブプラスでいえば寧々さん、まどマギでいえばマミさんのような(たとえがオタで申し訳ない)
この間二人で飲みに行くことになり、たわいも無いことを沢山喋った
先輩は酔うとボディタッチがやたらと多くなり反応しそうになってしまう
俺はぼんやりと先輩を酔わせてあわよくばヤレないかなーとかも思っていた
ところが俺が緊張で飲みすぎてべろべろになってしまい、ふらふらでまともに歩けないほどになってしまった
かっこ悪い…と思いながらも「俺酔いすぎたんでホテル行って休んでもいいですか」と聞くとまさかのOK
ヒャッホーと小躍りしたい気持ちと飲みすぎた吐き気を抑えながらラブホの部屋へ
すると先輩は「大丈夫?ゆっくり休んでね」と言って俺をベッドに寝かせ、
ホテルOK=ヤラせてもらえると思っていた俺がものすごく汚れているように思えた
しばらくすると先輩はソファーで寝始めた
一緒のベッドに寝るのはよくないと思ったらしい(ベッドで一緒に寝ません?と誘ったが断られた)
無防備にソファーで寝る姿を見てムラムラしたが先輩の純粋さを考えて襲わないことにした
朝になったらふつうに解散した。
都内勤務なのだが、少し前から、今にして思えば些細なことでうつ病にかかって休職している。
今はだいぶ立ち直っていて、復帰のためのリハビリ段階。
会社に行くわけじゃないが、ちゃんと朝起きて、外に出て、夕方家に帰って、夜遅すぎない時間に寝る生活を続けている。
勤務に支障がない生活が可能だと医師に判断されれば晴れて復帰というわけだ。
で、その中で久々に通勤の真似事もやっているわけだが、これに尋常じゃないストレスを感じた。
そもそものうつ発症の理由だったわけではないが、こういったストレスが積み重なっていたのも原因の一端だったんじゃないかと思った。
言うまでもなくすし詰めの車内。一本逃したら死ぬと言わんばかりにホームを駆ける人々に、
いっそ引っ張れよと言いたくなる混雑なのになんとか押し込んでドアを閉めようとする駅員。
外はもう涼しい季節なのに車内は蒸し暑く、もともと汗をかきやすい体質の俺にはつらい。
座席はおろかつり革を掴むことすら運が必要で、届かなかったら隣に倒れこまないよう神経を尖らせる必要がある。
べつに今は始業時間に間に合わないといけないわけではないから、何本か見送りながら休み休み目的地に辿り着いたが、
休職前はこれを毎日続けていたのかと思うと自分にびっくりするし、今後の復帰も少し不安にならざるを得なかった。
以前はどうやって耐えていたのだろうと思い起こすと、不快感を紛らすために自分を押し殺していたような気がする。
とにかく耐えるために気を逸らすのだ。Twitterでも文庫本でも今日の仕事でも音楽でも自殺願望でもなんでもいい。
「死にたいなーこの電車事故らねーかなー」と頭の中で唱えて小一時間過ぎ去れば、オフィス自体は快適だ。
同じようにホームを歩き、車内に詰め込まれる他のサラリーマンも、多かれ少なかれ自分と似たような体験をしているんじゃないか。
この癌がなくなれば、いや少しでも軽減されれば、みんなもっと気持ちよく働くことが出来るんじゃないか。
そんな当たり前のことに、今になって気付いたのだった。
http://anond.hatelabo.jp/20130912120735
なんかMOTHER3の話が増田に上がってて、ふと「なんで3のパーティキャラって俺女とか義足のオッサンとか犬とかへんに奇をてらったキャラばかりにしたんだろう、1や2と同じように、最初の3人は赤い帽子の少年と金髪の女の子と眼鏡がよかったのに」なんてMOTHER3の不満だった点を思い返していたところで、「そういえば小説版のジェフって後天的な事故が原因で義足なんだったな、3のパーティ3人目のダスターと同じじゃん」と今初めて気がついた。
思えば2のジェフの「生き別れ同然の科学者のお父さんがいて、父と微妙に確執があるちょっと育ちのいい感じの少年」という設定も、1のノベライズにおいて久美沙織が造形した「小説版のロイド」の設定がそのまんまだった。
(ゲーム版のロイドの父は息子同様にゴミ箱に入った状態で話し掛けて来る職業不明の気さくな人物である一方、小説版のロイドの父は「ギーグに捕らえられて敵のロボット兵器の開発をさせられていた気難しいマッドサイエンティスト」で、ジェフの父親であるアンドーナッツ博士に非常にキャラが近い。2のノベライズのあとがきによると、あまりにもゲームのジェフの設定が1の小説版のロイドそっくりだったので「同じ子じゃ書くのつまんない」と思ったがゆえに、久美氏はジェフにとんでもないオリジナル設定(※両足の義足とその原因となった事故のトラウマ)を追加してしまったのだという)
1の小説版からゲームの2に、2の小説版からゲームの3にリンクする「3人目の仲間の共通点」を糸井氏の意図的なものと見るのはあまりに突飛すぎるかもしれないが、意図的にせよ偶然にせよ、7年ぶりに思わぬ発見を得て少しいい気分だ。元増田に深く感謝したい。
Amazonで売られている久美沙織のMOTHERのノベライズは「作者はキャラヒイキし過ぎ、女の子(アナとポーラ)がビッチ過ぎ、オリジナル要素入れ過ぎ」とそりゃもうボロクソに言われつつも随分なプレミアがついている。
彼女はもともと凄まじく悪ノリ&長文&脇道癖のある作家であり、かつて小説版ドラクエの4〜6(特に4)を執筆した折などは想定読者年齢層を全力でブッチした筆の冴えを見せつけたことで(主に悪い意味で)その筋では有名である。ゲームでは「なんか魔族の王」程度しか設定されていなかったデスピサロの魔界での鬼畜イケメンぶりとロザリーに対するロリコンぶりを描写するために、実に第1巻の約3割を費した耽美と難解を極めるオリキャラだらけの序章を筆頭に「ドラクエの小説版」という単純な単語に惹かれた全国の無垢な少年少女を疑問の渦と睡魔の淵に叩き落としたものだ。
あれに比べたら小説版MOTHERの脱線ぶりなど屁のようなものであるが、それでも1の地底湖における妙に淫靡な13歳同士のラブシーン、著者本人も認める2のタイトル詐欺(MOTHERではなくBROTHERになってしまった)などは、精霊ルビス伝説を初めて読んだ小学生の頃から意味などろくすっぽ訳も分からず彼女の文章を刷り込まれて育った増田のような重度の奴隷信者には溜め息のひとつで済ませられても、彼女の作風を知らずまっとうなノベライズを期待して本を開いた方々には怒髪天ものであっただろう。
前述のような久美沙織のノベライズ奴隷信者たる増田が、開発中だった64版MOTHER3のサブタイトル(豚王の最期)を聞いて思ったことは想像に難くないだろう。勿論「次の小説版どうすんだろ」の一択だ。
ネタバレをすると、小説版の2のポーキーはゲームと違っていずこかへ逃亡しない。2の小説は一冊で完全に独立完結している。
ゲームよりかなり陰惨な設定を付け加えられ、死んだ方がマシじゃねえかと言う酷い目に遭わせられはしたものの、色々あって小説版の彼は救われ、オネットのはずれの家で弟達と仲良く幸せに暮らしている。
1では原作通りの「ジョージとマリアに育てられた宇宙人の子供」だったギーグを、2では設定を完全無視して「多次元宇宙からやって来た、人間に寄生して成長する凶悪宇宙怪獣」というわけのわからんものに平気で変えてしまった久美沙織の事であるから、恐らく3のノベライズも一筋縄では行かないだろう、どのような味付けをするつもりなのだろうか、とゲームも発売しないうちから想像してわくわくしたものだ。
だがいかんせんゲーム原作である3の発売まであまりにも間が開き過ぎ、残念ながらその間に久美氏の小説家としての執筆活動はほとんど行われなくなってしまった。
ゲームそのものの出来が賛否両論で関連グッズ制作に予算が割かれる可能性も少なかったろうから、どのみち彼女が現役だったとしてもノベライズの発売はなかったかもしれないが、今でも久美沙織によるMOTHER3の小説はどんなものだったのだろうと思いを巡らし、赤い背表紙の文庫本が3冊並んで棚に並ぶ事を願わないことはない。
多分ダスターは作者の好みの傾向から言って超かっこいい男になるだろう。ウェスは「ふしゃしゃしゃしゃ!」などと変な笑い声を上げるようなゲーム以上のしゃかりきジジイとして描かれ、一般プレイヤーなら名前すらウロ覚えであろうタツマイリ村の一住民の視点でまるまる一章が描かれることになるだろう。サルが主役の章なんかすごくそうなりそうだ。コーバのヨシダさんやマジプシー、ヨクバあたりのキャラはそのままでも彼女の筆にとてもよく似合うから、きっと笑ってしまうほど魅力的に描かれるに違いない。
そういうどうでもいい細部の事は想像できるのに、MOTHER3という物語を彼女がどう完結させるのか、ポーキーというラスボスにどのような結末を用意するのか、自分程度の貧弱な頭ではとても想像できない事が悔やまれる。
増田はMOTHER2の小説の中では、ハッピーハッピー村の教祖であるカーペインターについて書かれた下記の文章が一番好きだ。(ちなみにゲームに登場するカーペインター氏は、別段このような性格設定や過去があるわけではない普通の中ボスである)
少年の頃、彼は、痩せっぽっちで病弱で、ひどく不器用でした。学校ではいいところを見せるチャンスがありません。おまけに常用していた薬の副作用で顔がゾンビみたいに青かった。気味悪がられて、いつもひとりぼっちでした。こころを通わせることのできる友達が欲しくて堪らなかった。でも、どうすれば、ひとに好かれるような人間になれるのか、ちっとも分からなかったのです。
せつない気持ちをぶつけるために、教祖は絵かきになりました。さまざまな青の濃淡で描かれた彼の絵に、希望や共感を見出すひとたちが現れます。寂しいのは、彼だけじゃなかったのです。悩んでいるひと、困っているひと。ひと見知りで、ともだちを作るのが苦手なひとたちと、助け合って暮らしたい。そう思ったので、一生懸命働いて、この、人里離れた谷間の土地を買いました。誰でも、来たいと思うひとを歓迎する場所、みんなが他人を脅かさずに静かに過ごすことのできる場所として、ハッピーハッピー村を作りました。狭い画布ではなく、大地そのもの、空間そのものを、青いっぱいで埋めるのが、彼の夢でした。
平素の地の文では「今週のハッピーハッピー村信仰大賞佳作受賞者は、ご近所一帯に青大将三百匹を放したヌリ村のジョン作さんです!」などというクソみてえな悪ノリを平気で書くくせに、彼女はこうやって時折、心に突き刺さっていつまでも離れない文章を書く。忘れられない文章がいくつもある。
だから未だに彼女の書くMOTHER3の物語をずっと諦められずにいる。
久美沙織が大昔に書いたゲームノベライズのことなんて知っているマニアックな年寄りは、いかにネット広しといえどもきっとあまり沢山はいないだろう。「翠の髪のボウシャルマン/王宮付きの軽業師」なんて小説版ドラクエの作中詩の一節をググったところで出てきやしない世知辛いご時世だ。
それでもこうして長文を形にしておけば、そのうちこれを見つけた同じ気持ちの誰かと思いを分かち合えるんじゃないかと思い書き残しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
私の目というのは、近視な上に乱視も激しく、
目を細めないで街灯なんか見ると、灯りが7個ぐらいに分身して見える目だ。(もちろん本物は1つ)
なので今までは眼鏡、もしくは、ハードコンタクトを使用して生活していた。
そのハードレンズの買い替えの時期がきて、今回はソフトレンズにしてみようかな、と思ったのがはじまり。
乱視がはいっているので、今まではハードだったけど、こんだけ技術進歩してたらソフトでもいけるんじゃない?
ぐらいな気持ちで、買い替えて、つけてみて、驚いた。
いつもの帰り道が広い!
自分の家のドアも思ってたより大きい!
ああ、ほんとにいきなり全部大きくなったからびっくりしたよ。
「体感」の大きさと「見えてる」大きさにこんなにズレがあったなんて気がつかなかった。
元の大きさで、くっきり見えるようになってはじめてわかった。
というか、今でも目の前のモノの大きさがちょっと信じられずにいる。ほんとに?
目がいい人はこんな風に見えてたんだなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20130718220603
はてブの新着に上がってたこの記事を途中まで読んで勢いで書いた文章だけど。
仮想現実空間なんかに没頭するより、現実世界の方が楽しいだろ?
海外に行くまでもなく、日本、いや、自分の生活範囲でさえも、新しい発見をすることは、何歳になってもできる。
本で何かに気付いたりしても、所詮本の中のことだ。
それよりも、現実世界で体を動かしたり、実際に手にすることができる道具なりガジェットなりを触るほうがいいじゃないか。
身体感覚のないことをして、何になるのだろうか。
子供の頃漱石・鴎外にハマったが、大人になって、あまりにも小説に時間を奪われたことに、恨みに近い感情を抱いた。
こんなコストパフォーマンス最低なこと、アホらしくてやっていられない。
本なんて読む意味が、どこにあるんだろう。
うまく改変できませんでした
といってもここ一年ぐらい出版出来てないので、正確には『売れないラノベ作家』という言い方のが正しい。
更に言うと、現在の収入源はゲームシナリオの外注作業がほとんどなので、零細シナリオライターと言ったほうが(ry
まぁ、俺はそんなどこにでもいるようなラノベ作家の一人なんですが
最近、大学の後輩達が異様にラノベ作家になりたがっているのを見て、ちょっと危機感を覚えまして。
というのも、どいつもこいつも一様に
「文章力いらないよね」
とか、とにかく楽な職業だと思い込んでる輩が多いこと多いこと。
確かに、本屋でラノベを立ち読みすれば分かるが、書いてある文章は一人称で誰でも書けそうだし
展開は良くも悪くも萌えればいいと言われて、あながち外れではないし、今はレーベルが乱立してるから
デビューできるチャンスも非常に多い。
就職だるいからラノベ作家に(ry とか言ってる奴の口には、刺付きパイナップルをぶちこみたくなるね。
3年ほど頑張って投稿してれば、実力もそこそこついて、どこぞの賞に引っかかるだろう。
俺は受賞までは2年ほどでした。
だが、生き残るとなると話は別だ。
生き残るっていうのは、定期的に本が出せて収入が途切れず
正直、これは、かなり難しい。
詳しい理由は後述する俺のHPを見てもらえれば良いとして
売れる人:1% そこそこ売れる:10% 売れない:残り全部
累計20万文字ぐらい書く。文庫本260ページの二倍っすよ。心折れずに書けますか?
ここで、しがみつける人と諦める人でふるいがかけられる。
印税は出版されなきゃ入ってこないし、編集者と意見が合わなければ
いつまでも改稿が終わらずエンドレスサマーよろしく終わらない夏休み状態。
生き残る可能性あると思う。
もちろん、ラノベは当たれば大きい。夢もある。
考えを改めなさいということだ。
ホヤホヤで右も左も分からない人のためにHPを作ることにした。
http://ranobebook.sakuraweb.com/
こんなくだけた口調ではないが、
思いつくまま書いておいた。
ラノベ作家向けのマニュアルサイトがねーじゃねーか、ゆとりなめんなと
常々思っていたので、自分の経験(失敗含む)を活かして作った。
俺と同じようなミスをして恥をかく人が減れば良いなと思う。
「そんなに早くチェック出来るわけないでしょう?(怒)」
って怒られた事とか)
一応、ライトノベル作法研究所さんやラノベ関連のサイトさんにリンクしてもらったが
いかんせん、HP運営は素人なので、どこでサイトをPRすればいいか分からなかったので
もし、お近くに新人ラノベ作家もしくはラノベ作家志望者の方がいたら
ひどい人になると、ツイッターで堂々と
早死にって何だよ
あと30年生きて著作を…ってそりゃ無理な相談だ
後半の主張のために、知りもしないのに適当書いただけか?
それとも柳田は120まで生きて神になるべきだったという主張か
現実にクリエータが困ってるから、コンテンツに金を払え、それ自体は分かる主張だけど
没後50年たって青空文庫で読む、なんて慎ましいもんじゃねえか
ワープアで文庫本買えねえ様な奴が柳田を読むんだとしたら、それは悪いことかね
そのための現実的なシステムについて議論するより他はないんであって
なんて、あなたも流石に分かってるとは思うけど
作品がパブリックドメインに入ることと、無料で提供されるのは必ずしも同一ではないんですよね。
パブリックドメインの作品が有償で提供されることもたくさんあります(小説の文庫本とか)し、逆に著作者の存命中に無料で配布されることもあるわけですから。そこは分けて考えなければいけません。無料で配布されたらそりゃ誰でも嬉しいですけど、だから著作者に死んでもらって50年後に読みたいだなんて思いませんよ。
喜ばれているのは、著作者の死後50年という長い時間を乗り越えて、その作品たちが生き残ったこと。それがこれからも我々人類の財産としてあり続けること。その底にあるのは著作者の生命と創造性への敬意でしょう。そのような敬意を払い創造サイクルの維持を目指す制度として、適切な期間の著作権というものがあります。その期間は短すぎても長すぎてもいけないというのが通説です。
…というのは釈迦に説法かもしれませんが、思うところがあり書かせていただきました。
★図書館のリサイクル本で「放課後のジャンヌダルク」というラノベがあったので、
(小説以外の本だと、内容をメモりたくなるので、お風呂じゃ読めない・・・)
「バブル期って、こういうラノベでも、ちゃんと売り物になったんだなあ・・・」
要約すると、
不可解な事件がいろいろ起こるが、原因は「ヒロインを巡る争奪バトル」。
ヒロインが好きな男の子を「ワナに嵌めよう」という陰謀ですな。
「私みたいな、普通の女の子が原因で、皆こんなに争うなんて・・・」と独白があったが、
「素直に、自分の可愛さを認めなさい」と、風呂の中で、何回ヒロインにツッコミ入れたことか。
また、文体も稚拙そのもので、これだったら、今ケータイで無料で読める、
ほぼ同時に「池袋ウエストゲートパーク」も読んだため、
このレベルの小説でも、文庫本になって、作者がプロとして生活できてたって、
ネット紀元前の時代って、つくづく「いい時代」だったんだろうなあ。
一人くらい、
とか
やはり
やはり中国古典辺りを愛読書にしとかないと、社員に示しが付かない」という
「ポジショントーク」なんだろうか?
俺は物語を書くのが好きだ。
初めて物語を書いたのは幼稚園児のとき、大好きだった絵本を真似て色鉛筆と画用紙で小さな冊子を作った。
キャラクターから筋書きまでその絵本丸パクリで、とてもじゃないが創作と呼べる代物ではなかった。
でも俺にはそれが楽しかったんだ。
それからずっと、小学生時代も中学生時代も、小説を書き続けた。
休み時間、校庭でドッジボールに励む同級生を尻目に、俺は教室で執筆を続けた。
小学校高学年になるとさすがに恥ずかしくなって、学校では構想を練るだけにし、執筆するのは毎日家に帰るまで我慢した。
中学生時代は漠然と重たい気分に付きまとわれて、その暗い情念を精一杯創作にぶつけた。
まあそれだけ書いてれば少しは成長するが、自分の書くものにセンスを感じたことは一度もない。
語彙が増えて長い文章を書くことを覚えたくらいで、空想の中では傑作だったはずの物語も、完成してみればいつも支離滅裂な駄作だった。
作文の授業で褒められたことなんてないし(むしろ国語の点数はずっと悪かった)、意を決して自分の書いたものを友達に読ませてみても、手応えのある反応は返って来なかった。
ずっと自分の世界に閉じこもっているから友人も恋人もできなかったが、それでも俺は自分の人生に満足していた。
だが高校に入学して、俺の人生は大きくカーブを切ることになる。
俺が待ち時間に読んでいたドストエフスキーの文庫本を見て、彼は声をかけてきた。
「僕はスヴィドリガイロフの儚い美学に共感するよ。彼は豊かに暮らしているように見えてその実、生の孤独を見つめているんだ」
美化されているけど初対面からこういう感じの奴だった。
「ふぅん、俺はラスコーリニコフがいいと思うけどね」
そう俺が言うと、彼は眩しいくらいにニコッと笑った。
そのうえ創作もするという。
そうして彼と仲良くするうちに、なりゆきで文芸部に入部することになる。
考えてみれば自分からコミュニティに参加することなんて人生で初めてだったが、やはり自分と似た人が多かったのか、自然と馴染んでしまった。
何といっても生まれて初めて友達ができたのだ。楽しくないわけがない。
一緒に入部した一年生は例の文学少年以外にもう一人女の子がいて、彼女も小説に熱い思いをもっている娘だった。
三人で互いにお薦めの本を紹介しあったり、俺の家に集まってだらだらくだらない話をした。
美術展に行っては批評家ぶって論評して、ときには高校生らしくカラオケやボーリングもした。
そして新たな刺激を得た俺は、これまで以上に執筆に熱を入れるようになっていた。
友人の影響でシュルレアリスムの真似事をしたのは失敗だったが、それを除いても短期間にこれほど成長したことはなかったと思う。
事実、俺は高校一年生の冬、公募の新人賞で念願の一次選考を通過することができた。
そう、たったの一次選考だ。笑ってくれてもいい。
これまで両手では数えられないくらい投稿してきて、初めてまともに読んでもらったのだ。
次の日、友人たちにそのことを伝えるのが楽しみだった。
というのも、俺は自分の成長は彼らのおかげだと思っていたからだ。
殻に閉じこもって書いていた中学時代の俺は自家中毒に陥っていたと今になってわかる。
でも高校生になって、文芸部に入って、彼らに出会って俺は殻を破れたのだ。
俺の中には彼らへの感謝の気持ちが溢れていた。
だが、俺の報告を聞いた彼らの反応は冷たいものだった。
へぇ、ふぅーん、そう、とか冷たい目をして言う。
ちっとも興味を示さず、退屈そうだった。
きっと新人賞には関心がないのだろうと思って自分を納得させようとした。
でも違った。
「創作に一生懸命になっているのは惨めだよ。世界はこんなにも素晴らしい書物で満ちているのに」
「えっ、お前何言ってんの……」
「つまりね、僕が創作をするのは、読む活動の一環なんだ。自分の書いたものなんてどうでもいい」
「じゃああのとき俺に語ってくれた創作へのこだわりは何だったんだよ! 一緒に頑張ろうって言ってくれたよな?」
するとずっと横で黙って聞いていた例の女の子が、
「あんたに合わせてあげてたに決まってるでしょ! そういえばあたしたち付き合ってるから! じゃ!」
と言って彼の手を引いて去ってゆく。
創作は惨めだって? 一緒に夢を語り合ったのは嘘で、自分の創作物なんてどうでもいいってどういうことだろう。というかそもそも付き合ってるってなんだよ。普通の高校生かよ。文学に身を捧げるんじゃなかったのか?
俺は現実を受け入れられず、思考はぐるぐると同じ所を巡った。
やがて俺は気づいたのだ。彼はファッションワナビという生き物だったことに。
一読して意味がとれないタイプの作品の価値なんて、素人にはわからない。
彼はそれをコミュニケーションに利用していたのだ。
本当はミステリアスな文学少年キャラを利用して女の子を捕まえるだけの、平凡な高校生だったのだ。
そう思ってひとまず落ち着いたものの、いまだにひとつだけ気になっていることがある。
彼は女の子に手を引かれながら、俺の方を見て、目で何かを訴えかけていた。
そしてあの、入学式の日に見せたのと同じ、眩しいくらいの笑顔をしてみせた。
あれは何だったのだろう。ただ俺を馬鹿にしていたようにも思える。しかし……。
俺の身体が疼く。
彼をあのビッチから取り戻さなければいけない。俺はそう決意している。
何かがおかしいと思う冷静な思考はあっという間に駆逐され、彼を助けなければという強烈な義務感が俺の脳を支配していく。
といっても例のSSではなく(つーか読んでない)、SSスレッドという媒体についての考察だけども。
まず、個人ブログや小説投稿サイトで発表される「SS」や「ケータイ小説」と、
2chの主にニュー速VIP板に投下される「SSスレッド」は別物である。
前者と比べてVIPのSSスレは劣る、という論旨ではない。
質がどうこう文章力がどうこうといった比較じゃなくて、
そもそもハナから別の表現媒体だと捉えた方がわかりやすいということだ。
両者の比較は映画と落語を比べるようなもので、どこかズレている(と思う)。
では、他のネット小説とSSスレッドはなにが違うのか。
まとめブログでSSスレをいくつか読んでネット小説と比べると、次のような特徴がわかる。
このうち特に重要なのは2と3だ。
「文章による創作物」を発表する媒体は書籍や投稿サイトなどいくつもあるが、
作者が書いてるそばから読者の反応が“同じ画面上に”書き込まれる媒体はSSスレッドぐらいだろう。
つまりSSスレを読む者は、
「作者が見せる登場人物の声」と、「読者の反応の声」という、二者の声を同時に聞くことになる。
また、作品自体も他の媒体と違って一度に全文を発表することができない。
2chの掲示板システムには行数と投稿間隔に制限があるからだ。
たとえばニュー速VIP板なら、3~5分おきに30行以内で書き込まなくてはならない。
この「量と時間の制約」が、作品に“間”を与える。
強制される時間的な制約と、その間にも挟まれる読者の声というノイズ。
この二つがSSスレッドを仮想上の演劇空間として成り立たせている。
ようするに、VIPのSSスレッドは「小説」ではなく「演劇」なのだ。
ここでなにかライブ映像を思い出してみてほしい。
演劇でもお笑いでもバンド演奏でもなんでもいい。
ライブでは、上演の時間やペースは作り手が決めるものであり、
受け手は同じ立場の観客たちとともに声をあげて反応を返す。
演者はあらかじめ予定していた作品を披露するが、
ときに観客の声に反応して、上演中にアドリブを差し込むこともある。
これは「完成品を一方的に送って、受け手も自分のペースで楽しむ」媒体、
たとえば小説の文庫本、CD音源、映画のDVDなどとは全く違う。
(記事のはじめで通常の「SS」を映画に、「SSスレッド」を落語にそれぞれたとえたのもこの違いからだ)
つまり、SSが投下されるスレッドは仮想的な“ライブハウス”として機能するのだ。
となると、まとめサイトはそれを事後的・俯瞰的に楽しむ“公演DVD”に当たるだろう。
仮に他の媒体で発表される小説作品を映画とたとえるなら、
読者との双方向性や共時性が備わったSSスレッドは紛れもなく演劇である。
(ちなみに、このようなスレッドという媒体の演劇性は「ゲーセン少女」などの擬似体験談スレでも発生する)
残った特徴4、5もまた、基本的にはSSスレッドの演劇性に由来するものである。
「VIPPERは3行以上読めない」といった言葉があるように、2chで長文は避けられる。
それはSSについても同じで、空行の少ない長文はまず読まれない。
だがSSスレについていうなら、長文が読まれない理由もスレッドが舞台に似ているからだと思っている。
SSスレッドは一期一会の軽いもので、イメージとしては道ばたの大道芸を見るようなものだ。
では、舞台上にだれ一人立たず、長ったるいナレーションだけが延々と続くさまを想像してほしい。
話のつかみから無駄な風景描写を重ねる語り方は、スレッドという舞台上ではこのように映るのだ。
これがSSスレで地の文が避けられる理由だと考えている。
そんなわけでワナビだったりときどきSS書き手だったりする観点から私感をまとめてみた。
まおゆうはよく分からないけど、いい機会だと思ったので。わかりづらくてすまん。
媒体の演劇性はSSスレだけでなく、擬似体験談スレの解釈に関しても応用できる気がする。
特徴4や5で触れたSSスレッド特有の演出法(と、できれば具体例)については、気が向いたらそのうち。
去年の11月。
久しぶりに電車で出かけて、その帰りに何か読みながら帰りたいと思って、駅の書店の文庫新書コーナーを周っていたら、好きな作家の新刊が出ていたので、すぐに買った。
何か前にも読んだような気が・・・
後ろの方を見ると、「この本は2010年○○に単行本化された『△△△』を加筆修正したモノです」という注意書きが。
やってしまった。
タイトルもよーく思い返してみると、確かにこの単行本は買った。
文庫本も単行本とほぼ同じタイトルなのに。何で気が付かなかった。
ショックだった。今までこんなことなかったのに。
この件は、単行本を読んだのは1~2年近く前だし、それに文庫本の書き下ろしも(少ないけど)あるから、作家へのお布施だと思えば・・・とある程度自分の中で苦しいながらも言い訳できたが、今日、追い打ちをかけるようなことが起こった。
図書館に予約してあった本を取りに行った。
早速帰って読んだ。読み始めると同時に、違和感を覚える。
何か前にも読んだような気が・・・
思い出した。
中身を見るまで気が付かなかった。
ああ、何ということだろう。
図書館の予約か、衝動買いかどちらが早いかは今となっては分からないが、少なくともどちらかを先に行ったあと、そのタイトルをすっかり忘れて、どちらかをしてしまったのだ。
本を読んでいるようで、その実、タイトルも思い出せないほどに、本の内容は自分の中からするりと通り抜けていったのだ。
今まで、趣味は「読書」と言っていたが、正直もはや読書ってレベルじゃない。
「見書」とか「眺書」というレベルだ。
ほとんど何も残らない。
どうしよう、せっかく借りてきた他の本も読む気にならない。
日本国内で数年遠方に滞在して、そこからさらに数年海外で過ごした。
この1月から実家近辺の勤務になり、ようやく帰ってこれたとほっとしたのもつかの間。
「あんたが留守の間に引っ越しが決まってね。部屋のいらないもの捨てといたから」
ここ5年くらいは上に書いたように部屋を空けていたから、実質20年。
その間にため込んだあれこれは、ほぼ何も残ってなかった。
幼稚園の時に気に入っていた本も、小学校の時の教科書で1冊だけ大切に取っていたものも。
中学校の時に書いた自作の小説…友達に読ませたりして固定ファンもいた作品たち…も。
高校からつい最近まで、ちょっとづつ集めていたとあるミュージシャンのCD50枚も。
荷づくりの関係で、部屋には空き箱や空の袋が大量にあったし、
大きな家具はまだそのままだった
だから、事態の全容に気づくのが遅れた。
最初は、気づいた順に、あれがない、これはどうした、といって母親に尋ねた。
その都度、ごめんねと謝られて、問い詰めると引っ越しのために仕方なかったんだと逆切れされて。
釈然としない思いのままとりあえず怒りを収めていた。
でも、とうとう、気づいてしまった。
ネットで見た、鉄道模型を捨てたら精神的に壊れてしまった旦那の話を思い出した。
同じだ。
日本に帰ってきたばかりで逆カルチャーショック真っ最中なのに、さらにこの仕打ちは堪える。
1月11日追記:
トラバくれた人ありがとう。大体予想していた内容(酷いorむしろ感謝すべき)だけど、それでも誰かの反応を貰えるだけで有難かったし、落ち着けた。
物の量では、要らない物>>>>大切な物だし、引越の際には結局捨てないといけなかっただろうから、自分の代わりに捨ててくれたと言うのは正しい。
ブクマでは事前連絡が無かった事が問題って書かれてたけど、海外ですぐ帰省できる距離じゃなかったし、言われてもどうしようもなかったと思う。
実は、上の日記を書いた後、母親にどうしてありとあらゆるものを捨てたのか、尋ねてみたんだ。
やり取りの詳細は書かないけれど、最終的な母親の言い分は
「本当はこの思い出の場所から離れたくない。でも、事情があって引っ越さないといけない。
自分だって引越のためにたくさん思い出の物を捨てた、自分だって辛いんだ」
だった。
まとめてしまうと味気ないし、理由になっていないのも一目瞭然だけども、
目の前で時折涙を見せながら切々と語られて、とにかくその気持ちだけは理解できた。
「ただ、いくら自分が辛い思いをして捨てたからって、独立した子供の所持品を巻き込まないで欲しい。
なにより、捨てるときに自分で取捨選択できるのと、ある時突然無差別に無くなるのとは全然違う。」
気持ちは分かるけどもと前置きしつつ、この二点だけははっきり説明して、納得させた。
ついでに、逆カルチャーショックについても説明したけど、こっちは信じてもらえなかった。
その後もまた別の部屋の荷造りなどをしたのだけども、そこでのやり取りから、
この人は、子供が自分とは異なる価値観を持って、違った人生を歩むということが頭では分かっても、
感覚として受け入れられないのかもなあ、と思った。
読書しなよ。
コミュニケーションとかしなくて済むし。
病院じゃスマホ、携帯は使えないかもだけど、青空文庫のやつとかでも適当に読んどけば面白いし。
なんか勉強した気になるよ。
というわけで、いままでの趣味がインターネットなら、コストは通信費くらいだったろうから
なるべくローコストで始められる趣味として古本読書をお勧めする。
星新一は大体文庫本で5ページくらいだから楽だし、大概古本の100円コーナーにあるからとにかくコスパが良い。
東野圭吾は短編しか読んだことないけど、とにかく読みやすいから、読書したことがない人でもなんとかなると思う。
人気だから買う人が多いだろうし、古本でも出回ってるんじゃないかな。
たぶん、「作者の生活のことを考えろ」とかいう人も出てくるだろうけど
ただ読んでいるだけならだれも文句は言わないよ。
ほかには、絵描いたりとか小説書いたりとか。